いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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ふう〜

読者の皆さん、長くて難しい会津戊辰戦争史の読解作業御苦労さまでした!

なんとかようやく会津戊辰戦争史書き起こし終了。ずっと座りっぱなしだったので腰が痛いです・・・。とりあえず羽をのばしたいので当分手をつけませんので読者の皆さんも御安心しておくつろぎくだされ。

でわでわ、その内に又、強力なネタを書き起こす為に戻って来ますので、御自愛して御待ちくだされ(・・)/







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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/04/24(水) 18:13:57|
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解題

解題

 丸山国雄



 明治維新史上会津藩の立場はまことに興味深々たるものがある。見方によれば、幕末史における左幕雄藩の中にて異質の存在とも言い得る。特に京都守護職在任中公武一和の精神に徹し、孝明天皇の篤き信任を賜い、一方頑迷な江戸在任の老中に抗してひたすら皇居の守衛と治安の確保に努力した。
 会津藩に関する幕末維新の通史は他藩にくらべて寥々たるものがあるが、纒ったものでは山川浩著京都守護職始末、北条雅長著七年史及び本書を挙げることができる。だがこれらの書も他藩の書に比して数段劣るものがある。それは征討軍の包囲下に城下が焼失したことと、明治以来久しく賊軍の汚名を受けたため同藩関係者の史料が散逸してしまったからである。最近維新史の研究が進み、勤王諸藩の言動についてもその真相が解明せられるに及んで、佐幕諸藩の研究も活発に行われるようになり、当時の世界情勢、欧米列国の帝国主義的植民主義的野望遂行の一環としての日本の立場、国内における政情の複雑性や雄藩の野望がひき起こした国内闘争の真因が鮮やかに描き出されるようになった。
 本書は七年史の次を補うべく書かれたもので、主として藩主容保の京都守護職就任以後について詳述されている。特に大政奉還後新政府の幕府に対する処置についての不平から起こった鳥羽・伏見の戦争以後に重点を置いている。
 既に藩主松平容保は終始一貫して朝廷に恭順の意を表していたが、旧幕府を徹底的に膺懲しようとの計画を立てていた薩州藩は討幕挙兵の口実をつくるべく、江戸を中心として暴動を起こし、遂に開戦するに至った。事の経過は「七年史」に記述されているが、なお詳かでない点があり、本書を発行してその次を補ったのである。原書は十一卷からなっているが、本書はこれを上・下二卷に収録し、上卷には大政奉還から奥羽鎮撫総督府の設置、荘内藩の降伏までを収め、下卷では主として長岡の戦闘から会津城の攻略までを記し、会津藩降伏後の善後処置について述べている。なお第十一卷は松平家譜及び会津へ入る口々、征討軍の暴掠の状を記し、東北・越後諸藩の抵抗の状を補っている。




 本書の記事はほぼ編年体を用いているが、これを項目別に分け、類従体も併用している。七年史と重復しているところがあるが、奥羽鎮撫総督下参謀世良修蔵(長州藩士)の行状について詳記し、暗殺された原因を明かにしている。また白虎隊の屍体埋葬についても問題があり、征討軍一部の者の中には釈然としない者があったが、滝沢村肝煎吉田伊惣次が飯盛山にその屍体が散乱し、風雨に晒されて山鴉野犬の餌となる惨状を目撃し、村民と謀って棺をつくり、屍体を収容納棺して妙国寺及び飯盛山に埋葬したところ、東軍征の兵に発見されて檻倉に繋がれて訊問されたという。また一般戦死者の埋葬についても町民の拠金によって行われ、阿弥陀寺及び長命寺に分葬し、墓標に殉難之墓と題して建てたところ、参謀よりその撤去破壊を命ぜられた。
 特筆すべきは二十余名からなる女隊が従軍を志願したことである。軍将はこれを許さなかったが、切に乞い藩軍の後に従って出陣した。何れも剃髪し、袴を穿ち、薙刀を提げて参戦した。二十才を過ぎたばかりの若き女性が中心であった。戦後一般藩士は旧南部領の一部であった斗南に移封されたが、同地は不毛地帯で全部を移住せしめることは不可能であったので、一部は会津に留まり、或は農商に帰するもの、或は北海道に移住する者、或は東京その他の地に移り、全国に散逸した。その苦難は辛酸を絶するものがあり、筆者も生存者から直接話を聴いたものである。
 会津城を攻略するには、盆地のこととて多数の人口がある。その口々が記録されていることは研究者にとって非常に便利である。また教育方針については「会津藩教育考」が本叢書に含まれているので省略する。
 本書には落穗集ともいうべき挿話が多数収められているので、会津藩の研究には是非一読の必要があるであろう。また最後まで執擁に抵抗した同藩の意向が如何なるものであったか、その目的、士気昂揚の原因を見る上に役立つものが多い。










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  1. 2013/04/24(水) 10:12:07|
  2. 会津戊辰戦争史2
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会津戊辰戦史 増補

会津戊辰戦史 増補

本書第一四ページ慶応三年十月二十一日記事の末に左の一節を入る。
 『この日聖上には大納言中山忠能卿、同三条実愛卿、中納言中御門経之卿を御前に召され勅していわく、徳川慶喜既に政権を奉還せるを以て姑く其の実行を見んと欲す、因て去る十四日薩長二藩に命ずる所の事件は宜しく之を中止すべしと、これにおいて中山卿は薩藩吉井幸輔を其の廷に召し左の御沙汰書を伝ふ。

去十四日申進候条々其後彼家祖已来行来候国政を返上し深以侮悟恐懼之趣申立候に付十四日之条々暫見合実行否可勘行諒闇中且生民之患に関係するに依り深遠の思召を以て再被仰出候事
 十月二十一日
忠能
実愛


 且つ之に命じていわく、藩主父子の中一人上京せば之を伝へ長藩には其の藩より之を伝諭すべしと、けだし之を二藩の本国に送致せしめざりしは其の人心に疑惑を抱かしむるの虜あるを以ての故なりと云う、これにおいて形勢一変し、十四日の討幕密詔による諸計画は之を決行するに及ばず、終に平穏に王政復古の盛挙を見るに至れり〔岩倉公實記、島津久光公實記〕(この記事の本書に洩れたるを発見したるは監修者山川男爵薨去の後に在り、よって玆に増補す。編纂委員招莊田三平)。









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  1. 2013/04/24(水) 10:05:54|
  2. 会津戊辰戦争史2
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敵軍の暴掠

敵軍の暴掠

 戊辰九月の始め米澤藩先づ西軍に降り尋いで使者を我が藩に遣わし降を勤めて云う、我らが賊軍として戦いし者は実は王師なり、現に越後口総督嘉彰親王、錦旗を進めて塔寺村にあり、王師に抗すべからずと、我が公曰く、予初め各藩に依り哀訴歎願数回に及ぶも省せられず、猥りに兵を進めて封内を劫掠す、これ眞に王師の為さゞる所にして姦邪の為す所なり、予豈に王師に抗せんやと、これにおいて降を乞うに至りしものなるが、西軍の残暴掠奪は実に意想の外に出で、その一端は本史に散記せしが、なお当時その所業を目声耳聞して筆記せし辰の幻、戊辰見聞漫筆〔柴五郎著〕、耳目集〔商人齋藤和節著〕より左に之を摘録すべし。

一、王師などゝ称へし敵は野蛮の甚だしき行のみ多かりしは言語の外なり、商工農家を問はず家財の分捕は公然大標札を建て薩州分捕、長州分捕いわく、何藩分捕と記し、しかして男女老幼を殺戮し強姦をば公然の事とし陣所下宿には市井人の妻娘を捕え来りて侍妾とし分捕りたる衣食酒肴に豪侈を極めたることは当時市人の目撃したる所なり。

一、若松愛宕町の呉服および質店森田七郎右衛門の土蔵は薩州隊と肥前隊とにて分捕を争い薩州隊は自隊の不利を憤り焼弾を投じて土蔵を破壊し彼我何等得る所なかりき、其の後森田は此の焼跡の灰を掻きて金魂を得たりとのことなり〔以上戊の幻〕。

一、若松大町より以東の町々は早くより西軍の営となりし故薩長を始め諸藩の隊は家財または焼残の土壌に分捕の標札を掲げたり、避難より立返りし市人は相当の代値を拂って西軍より家財を買い戻すことを得たれども遅く帰りし者共は既に無一物となりて何品をも買い戻すことを得ざりき〔戊辰見聞漫筆〕。

一、戊辰八月二十六日(前略)土蔵を持合わせて此の日までも落さゞる族は人馬にて諸品を持運びつれども吾らがごとく土蔵は持たずたまたま人の土蔵にたのみ置て其の土蔵焼けをちたりし人は誠に手持無沙汰にて歎くに堪えたり、斯くする中分捕と名づけて残りゐし土蔵を破り、又は程遠く持出置きたる品々を盗みとりぬ、誠に衣食住に離れて艱難至極して途方にくれける人を其の上に掠むるはうたてきとも歎かはしとも沙汰の限りというものになり。

一、九月十八日(前略)昨日の戦争には死人多くありて中々通行するも気味わるしと逃げ来る人の申すなり、この時よりは南町口の通行出来ず御城内の往来四方塞がりけるとなん此故か諸所の分捕誠にして山中まで捜し奪う由の噺聞ゆれば、この村(澤村)も途中まで来りしと猶々さはがしかりなり。

一、十月廿四日廿五日、この両日の記事の概略は『他人の土蔵に入れ置きし家業の大釜二組および小釜数箇は土蔵焼落の後その付近に仕舞置きたりしが廿四日往きて見れば其の大釜小釜に薩州二番隊分捕の張札あり、大に驚き古川御殿前の番兵所に出頭し下渡を請いたるに償い金六両差出すべしと云う、待ち合わせなければ明日まで猶予を請い廿五日金子を才覚して再び訪ひ官軍に掛合たるに此の釜一切は某村肝煎山口某が買受の約成れりと云うを聞き、たまたま来合せたる山口某の承諾を得てようやく買い戻せり、今一足遅くんば他人の所有となるべきに、今日亡父の命日なれば其の守護によりなるべしと喜びたり』とあり。

一、十月十五日頃(概記)各村に一揆起こり農兵は手に手に鋤鍬鎌類を携え予て非道の聞えある村長の家を打壊し、あるいは放火し、その家の諸帳薄手形証書類を取り出して之を焼却し、または金銭を取り出して貧民に投げ輿へたり平素村民を厚遇し人望ありし村長は其の災厄を免れたるも驕慢無慈悲にして彼の官軍の例に傚ひ分捕等をなしたる村長は最も手痛き目に逢い一家丸焼になりし者もあり、先に我が大釜の分捕に逢いしとき之を買い求めとして金子を所持せし山口某の如きも兵火の際焼け残りし一箇の土蔵を毀たれ中に積み置きし物品を取り出して焼棄せられたり。

一、この頃官軍の人としばし道連になりしに此の人の咄せしを聞かぢりしに、扨々会津の家中は内福なものぢや、分捕に分捕を重ねれども珍器財宝よもつきじぢや、大きな家に入て見れば大小の腰の物二十腰三十腰持たぬ家はなく、中には五十も百もあるのぢや、みなみな其こしらへの善事金銀を惜しまずに鏤めたりいと見事の細工物も御座った、また懸物書物類は山に積んでぢや、夫に準じて衣類諸道具も沢山にて中々大ていぢやなかつた町方とても少し大きな家に入て見れば同じ事ぢや、又吾々が仲間の咄にも去年外のさふらひ屋敷は家こそ小さけれど家中にも劣らぬ物持があつたとさ、分捕してのあとを焼拂ふには実にをしかつたといいました、中には大金を井の中や泉水へ投げこみ置し家もありました、誠に以てをしき事をしたやうぢやが君命なれば是非がないのぢや、云々と話を聞き何とも答えのしやうがなければ只左様左様と計りにて別れにけり〔以上耳目集〕。






卷十一 附録





会津戊辰戦史 

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  1. 2013/04/24(水) 09:54:52|
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幕府陸軍高等武官の一部

幕府陸軍高等武官の一部

陸軍奉行 諸大夫 五千石高

同並 同 三千石

歩騎砲兵奉行 同 三千石

同並 同 高不詳

歩騎砲撒兵頭 同 二千石高(慶応三年の武鑑に砲兵組之頭布衣千石高とあり)

同並 布衣 千石高

諸兵指図役頭取 目見以上(富士見寶蔵番組頭之上席) 四百俵高

同指図役 同 不詳

同指図役並 同 不詳


 右の諸役の或るものに勤方と云うものあり、これは部屋住の者の任命せられしものなるべし。

 幕府の官制と今の官制とを比較するは困難なれど大体次のごとくなるべし、陸軍奉行同並は今の陸軍中少将に該当するものゝ如し、諸兵奉行同並は大佐に相当し、諸兵頭同並、諸兵指図役頭取、指図役同並はそれぞれ中佐少佐大尉中尉少尉に相当するものゝ如し、右の外諸兵頭並と諸兵指図役頭取との間に、諸兵指図役頭取改役あり、頭取より少し格の上なる官なり其の待遇詳ならず。
 諸大夫は五位に叙せられ任官せられて何官何頭等と称す、但し其の職務なきは勿論なり、布衣とは幕府役人の一階級にて六位に相当すれども叙位なし、また六位に相当する官名を称することなし、目見以上の者は将軍に謁見し得る者を云う、高とは役相当の知行高を云う、仮令ば陸軍奉行に任ぜられたる人の家禄五千石以上ならば別に給輿なし、もし五千石未満ならば不足分を蔵米を以て補足するものとす、これを足高と云う、歩騎砲工兵は召募兵にて概ね農工商出身なり、無頼の徒も少なからざりきと云う、奥詰縦隊は番方の人、即ち大番、書院番、小性組、新番、小十人等の士を以て編制せるものなり、しかして武鑑には奥詰銃隊頭五千石高とあれば無論諸大夫なりしならん、また同並三千石高とあり、撒兵隊は幕府の家人を以て編制せり、奥詰銃隊、撒兵隊は慶喜公将軍に就職後の改革にて出来たるものにて之に関する法令は不備なるが如し〔山内長人男書面、編者記憶〕。






卷十一 附録

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