いがぐり史料館

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三十  中川宮に賜わった御宸翰     『京都守護職始末1』

 聖上奸謀を看破     この月、左のような宸翰を中川宮に賜わった。思うに、さきにわが公、慶喜卿らが、宮の御身の上を危ぶみ奉って上奏するところがあったので、いよいよ御信任あらせられたのである。

一 別紙、愚腹の例の打明けを申し入れ候。そもそも昨日御面会のみぎり、よほど申したく候えども、またまた列坐の儀、十分にも申し出で難く候間、ようやく半口ばかり耳元に寄り申し入れ、可否の儀御分りなしと存じながら、御別れに及び候。
さて申し入れ候儀は、昨日もちょっと前関白も発言ありし一件にて、かねて予、尹宮(中川宮)へ申し入れたしと存じ候事に候。先ず昨日承け候ところにては、尹宮事、なにか奸謀これあり候儀の一件、じつはこの方に於ても、なにか耳に入り候事も候えども、強いて申し出ださざるは、有体(ありてい)じつに頓着せず。すなわち右様の儀も種々申しふらし候は、すなわち長州を根本として、右長州に付属の輩が申し出で、人気を迷わせ、ついには予の腹もくつがえす手段と存じ候。
これが予、暴人ども、八月十八日の一条を俗にひくりかえし、咎の輩の再生の手段、右手廻し、足廻し候策略に候間、さ候えば予に於ての讎策故、一説頓着なく、強(し)いて発言までもこれなく打ち捨て候。もっともまた、さほどまでに巨細の儀承らず候事。北野の張り紙と申すことは、耳には入り候えども、いまだ写しも手に入らず候間、なんとも分らず候えども、なにぶん尹宮(いんのみや)、肥後守(松平容保)らが手を組み、なにか石清水において誰と申す僧をかたらい、咒詛これあり候由、また、尹宮が予の位を取りうばい候由之儀、風説に承り候えども、例の風説、すなわち戊午の年もこれありし儀、そのときすらにおいては、一脱頓着せざるわけにて、別して当説をや、去る八月十八日の一条はまったく予の憂患を払い候は、会津の周旋とは申しながら、とんと元は、その宮の御周旋の事に候。
十八日前に、毎々、かれこれ候間、とかくその宮となにごとも申さざるよう各々承りおき候ところ、密々ながら、予より文通候て、ほぼ御分りの事はじめて存ぜられ候事もこれあり候事に候。これも段々次第に当節に至り候も、まったくその方の御尽力、予と手を組み、万々申し入れ候て、当時に於てはむずかしきとは申しながら、十八日前とくらべ候ては、抜群のちがい、また腹心ながら前関白へもかくし、尹宮へ申し入れ候儀も毎々に候事に存じ候。
さ候えば、前文の次第は、姦人の申しふらし候とて、共に予なつむようなるわけこれなき儀は、賢明の方にて御分りこれあるべく候。疑い起り候わば、事起り候てきっと差縺(さしもつれ)の基に候。
右様の儀は、予に於ては前文の儀にて、頓着の有無今さら申すまでもなく候えども、もし尹宮とかようの風説あるが上には、御採用あるか、よもやあるまいながら、申し様により、十のうち一つ二つにてもどうしようしらむとおぼしめすかなと尹宮に於て存ぜられ候ては、かえってあちらこちらの疑に相成り、さよう存ぜられ候と、これまでどうでもなしに聞入れられ候事、申し条にもおかしく自然存ぜられ候ようがもの、さよう候えば、其に貌色(かおいろ)を見受け候えば、たとえ詞(ことば)に出さずともじきに相分り候もの故、これまで御心安くけんくわもいたし候処をひかえめにいたす、さ候えばまた、その宮にもおかしく存ぜられると申すもの。さようなり候えば、いらざることのでき候。右の次第になり候えば、やはり姦人の策の成就と申すものにて、心外この上なく候。
尹宮に於ても、予の腹は十分御見ぬき、予に於ても尹宮の心底はみぬき候つもり、真実の連枝(れんし)と存じ候に、さようの姦策がまにあい候ては、じつに大変故、決して決して疑心これなく、相変らず付合いこれありたく候事。
右、かように申すも、尹宮の様子に疑い、右様にも存ぜられず存えども、前関白の申し条、並びに北野の張り紙見させられざるの所置、歎かわしく候。憚りながら一天の主たる身はいかなる体に外れ候とも、人はよかれと存じ候に、過日来二度程、前関白の詞のうちにじつに予一身に迫り、心痛の事も候□□□□て右の次第にも候やと存じ候。
なにぶんその方に於ては、決して従来の朋友の御疑い、毫もあるまじく存じ候えば、打明け申し入れ候辺(へん)、よろしく聞き取り、頼み入り候。じつにかようの事と、姦策の所置か、もくろみに事に逢うようになり候えば、□者儀の候や、猶また扶助を頼み入り候事。

一 三郎へ過日ひそかにつかわし候返書、昨二日前関白より至来候。右は、過日承り候辺も候。疑心発し候にはこれなく候えども、右返書尤も三郎腹臣のままに候や、万々一、前関白文言の世話これあるや、内々たずね申し入れ候。この儀においても、その宮御一人に申し入れたき儀も候事。

一 昨夜返し下され候過日御わたし申し候予の拙書は、いよいよ御周旋下され候や、内々尋ね候事。

一 正親町の息(公薫朝臣、中山忠能卿の二男)の一件は、昨日ちょっと申し候えども、強いても申さず候。右は御一人に篤と申し入れたき儀も候間、なにとぞ休日の日、御面倒ながら、期に臨んで御出で頼み入りたく、先ず申し試み候事。

一 脱走の七人差扣(さしひか)えの輩の一条も同様の事。

一 正親町の儀に於ては、過日も申し入れ候通り、予の外戚に候えば、少々愛憐もつき候わん。然りといえども、息に於ては、深く予の存意に候。右辺(へん)は、いかがわしき申し条ながら、摂関家又は華族等に於ては申しにくく候。聞取りの辺もいかがかと、その実の事にこれなく候。尹宮に於ては、その辺、毛頭肥後守辺に別して打明け申し入れたき儀も候間、猶御推聞頼み入りたく候間。
今明日は休日に候。その余いつなりとも、御一人御入来、密談いたしたく、申し入れ試み候也。
 十二月三日


 右の宸翰を拝読すれば、激徒の離間の奸謀も聖上の明鑒によって看破され、あわれ水泡に帰したばかりでなく、中川宮の御信任がいっそう加わることになったのは、笑止である。また、「会津の周旋とは申しながら」また「肥後守辺に別して打明け申し入れたき」などと詔(みことの)らせ賜うたことは、わが公にとっても、この上ない光栄と言うべきである。


 〔上巻おわり〕
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/11/07(水) 13:55:40|
  2. 京都守護職始末1
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二十九 御宸翰ならびに御製を賜う     『京都守護職始末1』

 秘密の御内賞     この月(十月)九日、二条右大臣斉敬公から使いがあって、わが公を招かれた。致ってみると、右府は、左右の者を退けて勅旨を伝えられた。
 その大意は「さきの八月十八日の一挙に、もしその所置が当を失っていたらゆゆしき大事になるべきところを、まったく卿の指揮がよろしきをえたので、すみやかに鎮静した。深く叡感あらせられるところである。よって、重く賞賜あらせられたい叡慮ではあるが、卿のみに賞賜があると、かえって物議を生じかねない。そのようなことがあれば、卿もまた心安んじないであろう。ゆえに、予から、ひそかに宸筆の御書と御製を下し賜う次第である。もとより、ごくごく秘密な御内賞のことであるから、その点をよく心得て、表立って御礼などということは堅くつつしむように」とあって、右府から親しく左の御書と御製とを伝えられた。

堂上以下、暴論を疎(つら)ね不正の処置増長につき、痛心に堪え難く、内命を下せしところ、すみやかに領掌し、憂患掃攘、朕の存念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也。
 文久三年十月九日
 

 この一箱とは左の御製の入ったものである。

たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠の

心を喜びてよめる

和らくも武き心も相生の松の落葉のあらす栄えん

武士と心あはしていはほをも貫きてまし世々の思ひ出


 



 将軍上京の催促     十一日朝廷より将軍家を召され、わが公に左の勅書を伝えさせた。

過日、横浜の鎖港に取り掛るの旨、言上について委細を聞きしめされたく候間、一橋中納言登京あるべく仰せ出だされこれあり候えども、猶また、大樹にも尋ね仰せられたく思し召し候につき、引きつづき早々に上洛これあり候ようあそばされたき旨御沙汰候事。もっとも過日御沙汰の通り、一橋中納言にも上洛あるべき事。

 わが公はそこで家臣小室当節にこれを持たせ、東下させて、将軍家の上洛を促したが、幕府はまだ鎖港の商議が結局しないので、上洛を辞退してきた。朝議はそれをゆるさず、この月(十月)二十九日、さらに左の勅書を賜わって催促された。

大樹上洛の儀を御沙汰候ところ、当今、横浜鎖港の談判中、不安心につき上京いたしがたき趣、もっともには聞しめされ候えども、なにぶん公武御一和の天下の大策を立てられたき厚き叡念の御次第もあらせられ候間、せいぜい勘弁を加え、強いて早々に上洛これあり候ようあそばされたき旨、さらに仰せ出だされ候事。

 わが公は、家臣柴田太一郎にこれを持たせ、さらにくわしい書面を老中に贈って、叡旨の隆渥なことを説き、公武一和のために早く上洛されることをすすめた。幕府もこれを領承し、すぐさま上洛のはこびとなり、まず後見職が二十六日に海路西上する旨の復答があったので、このことを上奏した。

 



 生野の変     この月(十月)十三日、但馬出石(たじまいずし)の城主仙石讃岐守久利から檄(げき)を飛ばせて、生野銀山の代官川上猪太郎の不在をねらって、浮浪の徒が代官所を襲い【注一】、金穀を略奪し、村里を却掠した旨を報告してきた。
 わが公は、すぐにこのことを上奏し、急に姫路、宮津、竜野、篠山、豊岡、福地山などの諸藩に急報し、出石藩を応援して、草賊を掃蕩させ、かつまた、目付役戸川鉡三郎に家臣の広沢安任を副えて派遣し、その軍を監督させた。
 いくばくもなく、賊はことごとく平定した。

 



 入費多端御聴に達す     十五日、幕府はわが江戸邸の留守居役を召し、老中水野忠精朝臣から左の台命を伝えられた。

守護職を仰せつけられ候以来、入費多端の趣、御聴(きき)に達し、格別のわけをもって、陸奥国会津大沼郡御預り所の儀、御役中はすべて私領同様に進退いたすべき旨仰せ出ださる。

 十月二十日、わが公は左の書を奉ったところ、允栽をこうむった。

不肖の私、かたじけなくも守護職の任をこうむり、輦轂の下の一動一静は職分内に御座候ところ、非常急変の節、寸刻の間を争って機会を失い候場合これあり候ては、恐縮至極の儀に御座候間、以来右ようの節は、伝奏御達し方これなく候とも、すぐさま参内相成候よう、兼ねてその筋へ御達しおき下されたく願い奉り候。以上。

 この月(十月)、幕府は松平大和守直克朝臣を政事総裁職とした。

 




 浮浪の徒の処置問題     十一月八日、浮浪の徒の処置について、伝奏衆から左の勅令が伝えられた。

先般容易ならざる次第につき、人心動揺の折から、出所不正の浮浪はもちろん、その余のゆえなくて京地に出ており候、浪士らを厳重に相改めるべき旨、その筋へ仰せ出でられ候。元来、浮浪有志の輩は、朝家の御為に周旋尽力の志は神妙の至りに候えども、段々歳月を積み、その弊相生じ、すでに激論、暴行の徒もこれあり、ついに朝議を妨げ、天下の騒乱を醸成するに至り、別して残念至極に候。畢竟、官家に親炙(しんしゃ)し、進退自由の弊より、かえって素懐を失うに至るべきか。これより厳密に取調べ、その旧主へ引渡すべく候。
かつ浮浪有志の徒のよりどころなき方は、その忠忿を達するの道絶え果て、各国の士気もこれがために沮喪いたし候ては、皇国恢復の機に当り、かえって命脈を絶つの道理にて、なんとも御歎惜の御事に候。自然、よんどころなき訳柄にて引取りがたき人体は、十万石以上の諸藩へ召し抱うべく候わば、面々も懇望の国柄もこれあるべく候。望みにまかせ、忠志を達し候よう、いたすべく候。もっとも、各藩において無謀、過激の所業これなきよう、厳重に取締り申すべき旨仰せ出だされ候事。
別紙の通り仰せ出だされ候間、越前中将、その外親藩御一列へも御伝達これあるべく候。よって申し入れ候也。追って、外藩一列へは別段に申し入れ候也。


 わが公はこれを拝誦して、このような儀はよろしく幕府の所断に一任あるべきである、それに、幕府でもすでに有志の浪士収養の方法があるので、左の書を伝奏衆にささげて、幕府に一任せられるように請うた。

浪士の御処置の儀は、脱藩、かれこれ出所不正の者は、その旧主へ引戻し申すべく、そのうち、かねての行状柄により、きっと取締り仰せつけられ、まことに順序正義の徒の浪々の身にて、主人これなきの輩は、すでに関東に於て新徴組【注二】と号し、浮浪の者召使いの儀これあり候間、右の御処置、幕府へ御委任仰せつけられたく存じ奉り候。
 
 しかるに、この建議はついに採用なく、先の布告が出された。この場合も、外様と譜代の諸侯を区別し、幕府へ万事委任するという叡慮に悖(もと)っている。
前後矛盾すること、かくのごとくであるから、万事やりにくいことが推して知られる。
 そのころ、、長門藩士井原主計が伏見まで来て、入京して嘆願したいと願い出た。

 



 長藩士入京を願出     朝廷では、その可否を守護職と在京の諸侯に諮詢した。わが公は、松平慶永朝臣、伊達宗城朝臣、島津久光らとともに、その入京嘆訴を許せば、物議の紛擾を来すことになるのをおそれて、この勅間の意をはかり、入京を許すのはよくないと奉答した。朝議もそれに決まった。
 十一月十日、老中の人々から、将軍家の上洛が確定したことを報達してきた。その書に言う。

初冬二十九日(柴太一郎のもたらした書)付の華翰は、仲冬の四日に相達し、拝読いたし候。仰せのごとく、追々寒冷も増し候ところ、まずもって天朝ますます御安全に御座あそばされ、恐悦に存じ奉り候。次に、閣下にもいよいよ御勇猛、御勤め仕り珍重に存じ候。しからば、御上洛の儀につき、伝奏衆へ書状さし出し候ところ、なおまた、伝奏衆をもって早々御上洛の儀仰せ出だされ、則ち御書付を御廻しなされ、早速言上に及び候ところ、委細に御敬承なされ候。一同評議も尽し候ところ、いずれにも御上洛あそばされ候方と申し合せ、上にも御英断にて、いよいよ御治定に相成り候。御用意御出来次第、一日も早く御発駕あそばさるべく候。
さりながら、毎々の御旅行にて、宿駅の疲弊も少なからず候故、御軍艦にて御上洛あそばされ候思し召しに御座候。御軍艦も御数少なきの上、機械などの損所を修復これなくては、御用に立ちかね候もこれあり候につき、諸藩にて所持の蒸気船を御借受けのつもりにて、当月中には多分相揃い申すべくと存じ候。来月初旬、御出船と相成るべく候。さよう御心得下さるべく候。今般は天朝にても厚き思し召しもあらせられ、まことに公武御一和と申す御場合、大機会と思し召し候趣、委細に相心得申し候。なにとぞ今般は、万事御都合よろしく、前々の通りに真の御委任に相成り、御家御中興の御場合に至り候よう、御同前に祈り奉り候儀に御座候。なにぶんこの上とも御尽力、御精勤相祈り候。上京の諸藩も、格別に公武の御一和、皇国の御為厚く存じ込み居り候趣、誠忠の段は、上にも御満足に思し召され候事に御座候。下略(十一月五日付、老中連名)


 



 江戸城炎上     この月十五日、江戸の本城が炎上した【注三】。十九日、その報が京にとどいたので、わが公はすぐこの由を上奏した。後にひそかに聞くところによると、それが原因で将軍家の上洛が遅延するのではないかと宸念あったとのこと。
 そこでまた、家臣を東下させ、上洛を催促しようとしといたとき、たまたま慶永朝臣、宗城朝臣、島津久光などがわが公の施薬院の館に来て「関東の有司らがこの災を口実にして、将軍の上洛を延引せぬともかぎらない。そのようなことが、もしもあれば今ようやく公武一和が熟成しようとする千載一遇の好機を失い、幕府との間のとりなしようはなくなるに至るだろう。それに、本城の災で将軍家が仮御殿に移るとなれば、不便さは京師二条城に劣るであろうから、その事も辞柄にして、すみやかに上京を促しては」とのことで、公の思っていたことと符合するようであったので、ただちに老中に贈る親書をしたため、町奉行永井主水正に家臣小野権之丞を随伴せしめ、書をもたせ、旨を授けて東下させた。

 



 国事参与になる     この月(十一月)二十九日、朝廷では、中川宮、山階宮【注四】を国事掛とし、徳川慶喜卿、松平慶永朝臣、山内豊信朝臣、伊達宗城朝臣、それにわが公を国事参与【注五】に補した。翌年になって、徳川慶勝卿、島津久光【注六】もまたこれに補された。
 はじめ、朝廷では参与の職を置かれたものの、ほとんど伝奏、議奏と相対峙することになり、往々にして政令が二途に出るという弊害が生じた。わが公は常にこのことに眉を蹙(しか)めていられた。いま参与の命を拝することは、もとより素志ではなかった。しかし、将軍家の上洛が近いこともあり、朝議の真底をうかがい知る便宜があるので、強いて御辞退もしなかったが、翌年の三月になって、ついに辞した。
 永井主水正らが江戸に着くや、幕府の諸有司はわが公の建議をもっともとしたが、たまたま外国奉行の池田筑後守、河津伊豆守、目付河田相模守らを欧米にやって、鎖港のことを説かせることになったので、その事が終って、その後に、十二月下旬、海路上洛ということに決した。そこで、十二月十二日、老中がわが家臣を召し、その旨をつたえて、いよいよ御所向(ところむき)などの都合をよろしく取り繕うことを命じた。
 この日、老中板倉勝静朝臣から、わが公の名代遠藤但馬守に台命をつたえ、今春将軍家上洛の際、内外奔走して忠勤を励んだ賞として、備前行包の刀を賜うた。

 



 中川宮を讒言     当時、聖上の信任のもっとも篤いのは、中川宮であった。宮もまた知遇の恩に感じ、至誠をもって国事につくしていた。過激の輩も、いまはただ、手をこまぬいて傍観するのみである。
 そこで、浮浪の徒は、倒幕の大本は宮を除くことにあると考え、策を按じ、宮は関東の兵力を利用して天位につく野心あると流言した。
 わが公は、もとよりこのような児戯に類した浮説(注七)が聖明の心を動かすに足りないことを知ってはいたが、衆口金を鑠す【注八】ことを恐れて、慶喜卿、慶永朝臣、黒田下野守、慶賛朝臣(筑前の世子)、宗城朝臣、稲葉正邦朝臣、島津久光、細川護久(当時長岡澄之助、細川侯の二男、後に侯爵)らと計って、連署して左の書を奉った。

この節、尹宮(中川宮が弾正尹であったので、尹宮とよぶ)の御上に於て、種々浮説を相唱え候趣承知仕り、驚愕の至りに堪えず存じ奉り候。もとより、宮の皇国の御為に御心力をつくさせられ候御誠義は一同深く感服依頼し奉り候儀に御座候ところ、右ようの流言行われ候儀は、皇国に一層の危殆を添え候儀にて、なんとも戦兢、恐懼の極地と存じ奉り候。
聖明におかせられ、それらの奸策に御動揺あらせらるる御儀とも存じ奉らず候えども、姦邪、兇險の正議を妨げ、骨肉を傷害仕り、離間をなすの策を用い候は、古今轍を同じうするの儀にて、昭然たる事には御座候えども、その策の成敗によって、天下国家の安危、存亡を分け候儀、和漢ともに、その証跡分明の事に候えば、たとえ聖明におかせられ、御嫌疑の叡念あらせられず候とも、鎖骨、鑠金の姦計【注九】、朝夜を煽惑するに至り候ては、もってのほかなる御大事にて、御間柄に於て御釁隙(きんげき)一度相ひらけ候ては、皇国の綱維、御挽回の期も絶え果て候事と相成り、臣ら、及ばずながら身命を抛ち、尽力仕り候ところ、詮もこれなく、赤誠むなしく讒間のために挫折仕り候ては、じつに飲泣にたえざるの至りに候えば、この時に当って、宮の日月を貫かせられ候御高義、御忠誠は、臣ら、社稷(しゃしょく)に換え、死を誓って奏上し奉るべく候間、仰ぎねがわくば、確乎たる聖徳をいよいよ泰山の動かざるに比せられ、皇国万世の御鴻基を建てさせられ候よう、臣ら叩頭、泣血、闕下に伏して企て奉り、懇願を望み候。(十二月十五日)


 



 島津久光へ宸翰     この月、島津久光へひそかに左の宸翰を賜わった。

 極秘に愚存をしたため深く依頼候事

一 その方こと深く依頼に存じて、先頃内存を極密に相渡し候事に候。今度招きに応じ、早速の上京、感悦に候。よって、極密に申し聞かせ候事。

一 そもそも戊午以来、時勢種々変化し、苦心の儀に候。もっとも承知と存じ、巨細には注せず候。じつもって無益に、無罪の輩も災難を蒙り、朕も意外の所置候儀に候。即ち戊午の年の儀は、各落飾(らくしょく)の一件【注十】に候。じつもって朕の心中、肺肝を砕くの至り、その後、当節に至りても大小は候えども、とかく疑念、偏執も右ようの次第に発せんとす。
一天の主たるの身、あに痛心せざらんや。これによって朕の一身の儀は、毎々申し出で候えども、一向に承知の人これなく、ただただ痛心の至りに候。
その後、日を追うて、時勢も種々様々と相かわり候後、過激の儀相起り候。これも元は忠誠ながら、浪士暴論の輩に惑わされ候より、前後を弁えず、予が存意を矯(た)め候事屡々盛んに相成り、忠は不忠に変ずるの勤仕、関白も失権し、朕が座前と、退語と全く相違う考えに、両舌に相似て、重職にふさわしからぬ件件もこれあり候。したがって両役もただただ事宣を見るの勤め方にて、深く心痛、容易ならず候。
これと言うも朕の愚昧より起るところにて、非歎これに過ぎず候。これによって、尹宮は従来、股肱(ここう)の連枝(れんし)ゆえ、内密に申し断じ、会藩をたより、すでに八月十八日の一件に相成り、深く喜悦の事に候。猶また、内書をもって前関白(近衛忠煕)を深く倚頼、なにぶんにも一改革なくてはいかが故、ふかく柱杖と頼み試み候。
先の八月十八日前の憂患はほぼ攘い候えども、猶爾来のところ一大事に候えば、その方と手を組み、腹臓嫌疑等なく、まことにもって安慮の次第、深く頼むところに候事。もっとも愚昧の朕、拙筆、盲妾の書状にて赤面限りなく候えども、国家朝廷のため、ただただ存分に、耻辱を顧みずうちあけ申し候間、宜しく聞き取り、他耳を秘し、頼み入り候也。

一 攘夷の一件
右は、今さら申すまでもなく、神明神州に盟(ちか)って、皇国の輝照を汚穢せず、永代彊(かぎり)なく、万民の快楽のみを存慮候より、従来数度申し出で候えども、なにぶん年久しき治世にて、武備充実せずしては無理の戦争にて相成り、真実、皇国のためとも存ぜられず。当春以来の次第にては、無法の所置とは存じ候えども、多勢にて無勢、その上、朕のごとき愚昧の鈍言にては、とても申し伏せ候力なく、徒然につきあい候は、朕一身の不行届のみ他事なく候。この後のところは、なにとぞ真実の策略にて、皇国永久、無穢安慮の攘夷を迅速にこれありたく、右の建白望むところに候事。

一 関東へ委任と、王政復古との両説これあり。これも暴論の輩、復古を深く申し張り、種々計略をめぐらし候えども、朕に於ては好まず、初発より不承知を申し居り候。過日決心して申し出で候通り、いずれにも大樹(将軍)へ委任の所存に候。この儀は先だって大樹へも直(じき)に申し渡し、一橋へも直話にて今さら替り候儀はこれなく、いずくまでも公武は手を引き、和熟の治国に致したく候。右の儀深く心得もらいたく候事。

一 八月十八日前の勅諚の事は、いかにもまた、じつもって真偽不分明に候間、不審の儀も候わば、真偽のところ一々たずねもらいたく候。十八日の一件、じつもって会津の忠働、深く感悦候事。

一 堂上暴論、過激の説になり候も、まったく諸有司(「有志」の意か)、浮浪の輩の語らい候より、日を追って根本はさておき、私の権威増長候えば、自今も、堂上家並びに地下官人共【注十一】にも、兵馬の権の輩の立入りには、よくよくその人体を撰び、みだりに入り込みこれなきよう致したく候事。
右の儀は、十八日後、両役へ申し渡し、きっと承知のはずに候えども、年月を経候えば、自然と戻りやすく候えば、一了簡の所置、頼み置き候事。

一 公武和熟は前文通りに候。しからば関東に於ても戊午の年の頃、かつこれまでの所置は、じつに改め、爾来は朕よりは深く頼み捨てざるの所置、幕府に従う者は、深く勤王尊奉の道を相立て候えば、万民、幕府をやはり尊ぶの道理にて、欣悦これにすぎず候事。

一 猶また、大樹も上京し候わば、種々倚頼申し立て候儀も候わんか。そのみぎり、その方に於ても出格の助勢を、かねて頼み置き候事。

一 八月十八日已来は、総じて朕の坐前に於ての評決に相成り、深く安心に候。右ように候えば、自然中途の計策もまずこれなくと存じ候。体により候えば、とかく次の評議になりやすきか。その辺心痛に候。自然、朕の居らざる所の評義に候えば、時々刻々と十八日前にひき戻るべくも計りがたく存じ候。この辺は、尹宮へも毎々申し聞かせ居る事に候。なにとぞ、急度(きっと)なくその方の存じつきにて、建白これありたく候事。

一 十八日の一件、掃攘改革は、真実朕の腹より発せる事に候ところ、取とめざる事ながら、真実の叡慮にあらで、尹宮、会藩または右府以下の所作のように風説候。もっとも風説故、頓着なき事ながら、またまた疑念の発言も、無益の怪我人候ては、深く心痛に候故、別紙(尤も廻覧候わん。よってここに注せず)右府以下へ廻覧せしめ候ことに候。この旨とくと聞きこみ、爾来、なんらの虚説候とも、決して信用なきよう、万一疑わしき儀は、一封にて表立てず、尹宮、前関白らをもって直(じき)にたずねくれ候よう、さ候えば真偽は明白に答うべく候。なにとぞ右虚説の取押え方、勘考これありたく候事。

一 十八日はほぼ落着し候えども、この節に至りても十分に道ひらけず候か、堂上中にも八月十八日の一件を信用せず、つまり、元三条以下を惜しみ候もようにも愚察され候。右様に候ては、爾来の所深く案ぜられ候間、なにとぞ、その方の美策、なにとぞ説得これありたく候事。

一 先年来、虚談布告になり、朕深く迷惑の次第も候。猶、爾来のところ、いかがの儀これあり候とも、真偽相正し、風説を信用これなきよう、列藩へも聞き置かせたく候。これまた直に一封にて聞きくれ、取押え方、ひたすら頼み入り候事。

一 正親町少将【注十二】は、脱走せず候えども、なにぶん中山家の胤、どうも人質よろしからず候。当時差控え申しつけおき候えども、毛利秀才【注十三】のごとく、なんらの儀にて、何時出仕も測りがたく候。右は深く朕が存慮これあり候間、正親町より辞表、辞官位、除席に相成り候よう、右の次第に相成り候上は、またなんらの事仕出さんも計りがたく候間、実父の家中山家にて堅固に籠居しかるべく存じ候。右の儀、なにとぞ熟考をめぐらし候上にて、父大納言へ急度(きっと)説得これありたく候。右の存意に候わば、申し試し頼みおき候也。

一 関白【注十四】はこのころにも、辞表に相成り候方しかるべくと存じ候。猶、賢考の上、建白これありたく候事。

一 去る八月十八日、脱走の実美以下七人は、じつもって暴激、私情のみの人体、往来苦心し候ところ、すでに脱走後も種々の姦策をめぐらし、じつもって害の基に候えば、急度(きっと)厳重の処置に致したく存じ候。これによって、まず帰洛致させ候上、厳重に後禍にならざるようの手段を内談じ依頼し候。なにぶんこの姿にては、じつにせんかたよろしからずと内心心配し候。なにぶん大胆の輩故、厳重になくてはいかがかと深く存じ候。復職などの沙汰もこれあるやながら、決してなるまじく候間、猶、美策これまた頼み候事。

一 元同輩にて不脱走の輩【注十五】は、当時差扣(さしひか)え、他人との面会止申しつけこれあり候。右の者、脱走せざるだけ軽罪ながら、なんらの密計も計りがたく心痛に候。右の輩は、その方の知略にて、これまでの所存を改心せしむるよう説得は相なるまじきや。ただし、十に八九までは、むずかしきやとも存じ候。右でき候えば重畳。さなくば朕、真実免すまでは、決して宥免せず、厳重に籠居のようにと存じ候。天下の主、万民子育の事、一人にても刑罰は好まず、説得にて改心なくば、一人にても無難のようと存じ候えども、寛宥に過ぎ候ては、愚計暗眼に相成り心配に候。猶、御勘考これありたく候事。
この事は、猶、熟慮の上承り候上は、またまた予の存意候えば、猶また打合わすべく候事。

一 姉小路の一件【注十六】にて、その藩へなにか疑い掛り候由、厳重の次第もこれあり、気の毒の至りに候。右も、心得のため申し聞かせ候は、決して朕の真実にあらず。その証拠は朕が疑い掛け候次第これあり候により、四五日後、関白より話のついでに承り、はじめてさようの事のこれありしやと申し居る事に候。これにて、いずこ、何人の策なるや、察しあるべく候事。

一 その方深く依頼候て、早々召すの事申し出で候えども、関白以下承知なく、すでに二日頃にか、朕深く申し張り候えども、愚昧の朕、多勢に敵しがたく、すでに万里小路博房も出頭して、強いて申し張り候て、朕が申し条を矯め切り候ことこれあり候。右は右府、前関白、内府【注十七】、佐幕下【注十八】らも同坐にて、巨細に存知候事。

一 列藩に布告の浮浪取扱いの儀は、過日来り談じ候て、布告申し付けおき候。猶、後の禍とならざるよう、せいぜい勘考頼み置き候事。

一 堂上のところ、おいおい申し聞かせたき儀も候わんか、その筋は、またまた内密の往反依頼申し置き候。猶ふくみおき頼み入り候也。

一 大樹上京も候わば、依頼候儀もこれあり候わん。右ヶ条内々申合せおきたく候。もし助勢聞きくれ候わば、荒涼ながらまたまた見させ候事。猶その節はよろしく頼みおき候也。

一 段々その方に於ても、尊王誠忠感悦せしめ候。猶爾来、朕愚昧ながら申し出でのところ周旋深く頼み置き候也。

一 深く心配候は、これまでにもとかく疑念、偏執も申しふらし候虚説が真実に相成り、無益の疑い掛け、堂上向も予の腹心と存ずる人は、とかく退居に相成り、後には内儀までえも疑い掛け、無益に、朕深く心痛、不外聞の儀外にも仕出しくれ候儀もこれあるかにて、まことに心痛し候。爾来右様の儀、決してこれなきよう、万一候とも、その方取押え方深く頼み入り候也。
          
会津も守護職の事を周旋も候えば、この書状つかわすべきや否やの模様も候わん。内密相談せしめ候事。
右の条々愚昧の存じ書、瑣細の事のみ候えども、従来の存じ込み、まず認(したた)め、一覧に入れ候。猶よろしく頼み置き候也。猶、存じ出で候えば、またまたしたため差し出すべく候事。返書はなにとぞこの箱に入れもらいたく候事。秘々。外に従来、朕が一身に深く苦心の事もこれあり候。右は猶とくと熟考の上、またまた申し聞かせ候やも計りがたく候。しかし未定に候。万一申し出だし依頼候筋は、程よく聞とり周旋成功頼み置きたく、かねて申し置き候事件、あらわれず候わでは、答もむずかしきやながら、まず可否、尋ね置き候也。
 文久三年 御花押


 



 明らかな叡慮     右の宸翰を拝読してみると、ますます叡慮のあるところを会得できるであろう。
 すなわち、公武一和が真の叡慮であって、過激の輩の称するごとく関東からの私論ではないこと、従って過激の堂上らが朝議を妨害し、おそれ多くも至尊の勅命にも服従し奉らず、聖明がそのために憂慮されていること、また申すもかしこいことであるが、至尊のわが公に対する御信任が深いことなど、炳乎(へいこ)として明らかである。それなのに、当時の檄徒がわが公を誣(し)いて、聖慮を矯める者だなどと言うのは、まったく概嘆のきわみである。
 
 



 将軍発途     十二月三日、江戸老中から報告があった。

本月二十日付の華翰(小野権之丞にもたせてきた書をいう)御家来が持参し、同二十六日相違し、拝読仕り候。仰せのごとく寒気いよいよ増し候ところ、まずもって天朝には益々御安全、東武に於ては公方様、益々御機嫌よく、御同意恐悦に存じ奉り候。二つには、閣下もいよいよ御安健にて御勤仕、珍重と存じ奉り候。
陳(の)ぶれば今度、御本城炎上につき、もし御上洛御遅緩に相なり候ては、すでに奸人の術中に陥り、御失策この上なく、第一御一和の基本も相立たず、百事瓦解と、深く御心痛のところ、委細を敬承、御尤千万と存じ候。永井主水正よりもくわしき事情承り候。先使へ申しすすめ置き候通り、上には断然御上洛あそばさるべき御見込につき、大和殿(松平直克朝臣)、同列どもも決心いたし居り候えども、諸役人向なにぶんおりあいかね、種々心痛いたし候。同列どもの場合にて、御役人向説得もできかね候と申すは、耻入り候儀にて、職掌も立兼ね候えども、なにぶん勢やむをえざる儀にて、一日々々と因循いたし候ては、まことに際限もこれなき儀と存じ、もはや衆議にも及ばず、御英断をもって御発途の御頃合い(出発の期日を言う)仰せ出ださるべくと、昨日御前御評決に相成り、すなわち今日仰せ出でらるべくと申すところへ、主水正着府故、まことに幸の儀にて、益々貴地の御模様も相分るべく、早速に御前へ召出し、御直(おんじき)に委しく御聞きあそばされ候。直に今日の御頃合い仰せ出だされ候。最初は来月の初旬に御発途の御ふくみに候ところ、なにぶん折りあい方宜しからず、かれこれにて中旬の御ふくみに候ところ、今度の炎上にて、一時は御住居も不定と申し候場合にて、諸事混雑にて、中旬のところ見留これなく、中旬と仰せ出でられて、もし御用意届きかね、下旬に延び候ては、かえって御不都合故、下旬と仰せ出でられ候て、御用意向方端誠精御手廻りに取り計らい、十八九日頃には是非々々御発途に致したしと一同申合せ、尽力いたし居り候。下略。(十一月二十六日、老中連署)


 十二月十六日、将軍不日に上洛の報が達せられたので、わが公は、施薬院の館を立ち退いて、寺町の清浄華院に移った。施薬院は、古来将軍家が上洛、参内の日の装束所になっていたからである。

 



 二条公と両敬の信     この月(十二日)、二条右大臣斉敬公が左大臣に任ぜられ、鷹司輔煕公に代って関白内覧の宣下があった。また、徳大寺内大臣公純公は右大臣に、近衛左大将忠房卿は内大臣に任ぜられた。
 斉敬公は天資篤実で、局量、寛弘であって、人に接するときはおだやかで、胸襟をひらいて応待されたので、人はみなその徳に信服した。その臣の北小路治部権大輔と高島右衛門尉も、よく公を輔けた。
主上の御椅頼も、それゆえもっとも渥(あつ)かったし、わが公もまた深く公の知遇をえて、常々肝胆を照らしあい、情好が親密であった。ついに翌年二月、公とわが公のあいだに両敬の信を結ぶに至った。(両敬というのは、近い親族として相手を遇することで、一方の使者が口上を述べる時、じぶんの主人を誰様と敬語でよび、もちろん相手方の主人を敬称するところから、敬称を両方に用いるがゆえに、両敬と称するのである。)

        



 【注】

【一 浮浪の徒が代官所を襲い…】 この事件を生野の変という。八月十八日政変直後、尊攘派志士の領袖平野国臣は、新選組の襲撃を受けたが、逃れ、但馬に入って、天誅組の挙兵に応援しようとした。たまたま薩州藩士美玉三平は、但馬養父郡能座村豪農北垣晋太郎(国道)とともに農兵組織にあたっていたので、平野は彼らとともに挙兵を決し、七卿の一人、沢宣嘉を擁して、十月十二日生野代官所を占領した。そして年貢減免、苗字帯刀御免をかかげて農民二千人を集めたが、諸藩兵の攻撃をうけると、農民は村々の庄屋、富農、商家にうちこわしをかけ、また鉾を逆さまにして志士を襲撃し、たちまち挙兵軍は四散、敗北した。

【二 新徴組】 文久三年三月、清川八郎を首領とする浪士組は、京都から江戸にもどったが(第十一章注一新選組の項参照)、清川は、江戸でも攘夷先鋒を名として、富商を脅迫するなど乱暴の行動をした。そこで、幕府は浪士取締役並出役佐々木只三郎に命じて清川を暗殺させ、一味を逮捕し、残りの浪士を新徴組に編成し、庄内藩主酒井忠篤の指揮下に、講武所師範役並松平忠敏の取締の下に、江戸の警備にあたらせた。

【三 江戸の本城が炎上】 この時、本丸、二の丸が焼失した。この前後江戸城の火災が多く、安政六年(一八五九)十月本丸、ついで文久三年六月西丸が焼失、重ねてこの十一月の炎上があり、さらに慶応三年(一八六七)十二月には二の丸が焼けた。本丸は文久三年以後再築されず、西丸の仮建築で事をすごした。

【四 山階宮】 前勧修寺門主済範。伏見宮邦家親王の子で、中川宮(朝彦親王)の兄。薩州藩は、早くから朝廷内の尊攘派と対抗するため、済範の還俗と国政参与を運動していたが、元治元年正月、還俗の勅許が出、山階宮晃親王を名乗ることとなった。

【五 国事参与】 当時の文章には「参豫」とある。その任務は、天皇の御前での朝議に参与するにあった。参与は、八月十八日の政変を実現した公武合体勢力の結集として、翌元治元年二、三月参与大名が辞任帰国するまでの間、京都政界を指導し、幕府の動きをも制肘した。

【六 島津久光】 島津久光は、すでに公武の間に大きな勢力をもっていたが、身分は薩州藩主の父というにすぎず、このため無位無官であった。元治元年(一八六四)正月十三日、従四位下左近衛権少将に任ぜられ、参与を命ぜられた。

【七 児戯に類した浮説】 このころ長州藩では、孝明天皇が密旨を三条実美に伝え、政務を委任したい意向を示されたという流言があり、これが京都に伝わって、天皇と中川宮との間柄について種々の憶測が出た。また中川宮が天皇を咒詛し、また毒殺する密計があり、その目的で八幡報恩寺の僧忍海が修法を行なったという噂が流れた。十一月忍海が何者かによって暗殺されてからは、流言は一層盛んになった。

【八 衆口金を鑠す】 史記魯・鄒列伝に「衆口金を鑠(け)し、積毀骨を鎖(け)す」とあり、讒言(ざんげん)の恐るべきことをいう。

【九 鎖骨、鑠金の姦計】 注八を見よ。

【十 各落飾の一件】 安政の大獄で、天皇が心ならずも幕府の威圧におされて、近衛忠煕、鷹司政通、同輔煕、三条実万を辞官落飾の処罰に付したこと。第一章注五を参照。

【十一 地下官人共にも…】 昇堂を許される公家を堂上家(殿上人)というのにたいし、六位以下、特に五位に進んでも昇殿できないものを地下人(じげにん)といった。地下官人とは、この地下で、宮中の事務を掌るものをいう。安政五年、条約勅許問題が粉砕すると、公卿の意見書提出が相次いだが、三月十七日には、地下官人九十七人が連署して攘夷の意見を上伸した。これ以後、政治活動に関係するようになった。

【十二 正親町少将】 正親町公薫(きんただ)。国事寄人であったが、八月十八日の政変後、差控(さしひかえ)の処分を受けていた。公薫は中山忠能(権大納言)の次男である。なお忠能は孝明天皇の権典侍慶子の父、祐宮(明治天皇)の外祖父である。

【十三 毛利秀才】 中山忠光のこと。正親町公薫の弟にあたる。文久三年宮中を出奔して、長州藩に走り、森秀斉の仮名で尊攘運動に従い、ついで上京し、大和天誅組の変の首領となった(本書二〇一頁参照)。戦に敗れ、再び長州藩に逃れたが、長州藩保守派の手によって暗殺された。

【十四 関白】 鷹司輔煕。長州藩尊攘派との関係の責任者と目され、文久三年十二月二十三日、その職を止めさせられ、右大臣二条斉敬が左大臣に任じ、関白に補せられた。これは、この天皇の諮問にたいする久光の奉答にもとづく人事であった。

【十五 不脱走の輩】 八月十八日政変当日、三条実美らと行動を共にしながら、いわゆる七卿落ちに加わらなかったものは、豊岡随資、滋野井実在、東園敬基、鳥丸光徳の四人であった。

【十六 姉小路の一件】 姉小路公知暗殺事件。暗殺の下手人は、薩州藩士田中新兵衛と考えられていた(第十八章注一を参照)。

【十七 内府】 内大臣徳大寺公純。

【十八 左幕下】 左近衛大将近衛忠房。

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  1. 2012/11/07(水) 13:50:44|
  2. 京都守護職始末1
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二十八  七堂上の西奔     『京都守護職始末1』

 脱走堂上の官位を奪う     この御沙汰で退散した国事掛の人人もあったが、実美、李知、随資、実在、基敬、通禧、基修、隆謌、光徳、宣嘉などの人々は、長州兵と守衛兵の一部、浮浪の徒などを引きつれて、妙法院(大仏)に退き、毛利元純、吉川経幹、益田右衛門介、久坂義助、佐々木男也(以上長州藩人)、真木和泉守、水野丹後(後の渓雲斎)、淵上郁太郎(以上久留米藩士)、土方楠左衛門、静岡半四郎(今の公張、以上は土佐藩人)、宮部鼎蔵(肥後藩人)、美玉三平(薩摩藩人)、南部甕夫等と会して評議をこらした末、ついに西奔と決し、その後の勅命を持つにも及ばず、未明に大仏を発して長州に向った。そのうち、随資、実在、光徳などの人々は異見があって、西奔に加わらず、自宅に帰って謹慎していたということである。
 ここにおいて中川宮は、さきに鷹司殿下が、実美卿を寃(むじつ)として庇ったのはどんなつもりかと詰(なじ)った。
殿下は答える辞(ことば)がなく、咎を引いて、職を辞そうと奏請したので、宮はまた殿下を救護し、元の職にあって事局のあとじまりをつけるようにと奏請した。
聖断は、これを允(ゆる)された。そこで、七人の脱走堂上の非義を罪して、その官位を褫奪した。
 七人が京師を去ったのは、その名目は攘夷の先鋒にあるが、その実は謹慎、蟄居を命ぜられた身でありながら、守衛兵を勝手に指揮して、鷹司邸に集合させたことなど、その罪の軽くないことを知っていて、罰を恐れて逃亡したものである。

 



 建言秘録     後になって、真木和泉の書いた建言秘録【注一】と題した冊子を入手したが、そのなかに、親征の部署としての堂上諸侯の配置、鳳輦(ほうれん)の左右前後の備えからはじめて、その大略を記し、また土地人民を収める条には、行幸の途からにわかに公卿二人、侯伯一人に詔をさずけて東下せしむべし、奉承すると、しないのとは、論ずるところではない、彼の手に入ってしまえば事はそれで終りであると記し、終りに詔の草案を漢文で書いて、その文中に、尾張以西は朕みずからこれを守り、三河以東は汝に委ねるとあった。親征の議の出所を、それで知ることができる。

 



 浮浪の徒さらに暴行     長門藩の外舶砲撃の挙があった時から、京都在住の浮浪の徒は、俄然勢いづいて、ふたたび兇暴を逞しくし、六月二十日の夜には二条家の諸大夫、北小路治部権大輔の家に数人が抜刀して闖入したが、北小路は不在だったので、兇刃を免れることができた。
 そして、二条家の門内に、左のような封書を投げこんで恐嚇した。

謹んで言上し奉り候。尊公様御事、高位にあらせられ、当御時節柄いよいよもって精忠を御励まし、叡慮を貫徹いたし候よう御尽力御座あるべく候ところ、かえって姦吏に通じ、種々奸媒をめぐらし御周旋なされ候事、あげて数うべからざる開には、攘夷は幕府に御委任しかるべく、御親政はよろしからずなどと御拒絶候よう承り候。
かの毒を献じ、宝祚を移し奉り相謀り候者に、皇国の一大事を御委任とは、いかがの事に候や。逆賊よりの賄賂を受け、王政に災するは逆賊の奴隷に御座候。
並びに近日、島津三郎御召し登せの一条は、中川王及び近衛殿、一条殿、九条殿など、姦謀を通じ、種々御周旋と承り及び候。ぜんたい薩州は、姉小路殿の一条よりは、不審の者に候ところ、事蹟いまだに分明ならず、ただ世上の風説かつ一両度存じ申さぬ旨陳謝仕り候とも、なんの証拠もこれなく、外に罪人も出来(しゅったい)申さざるに、何ゆえに急々召し寄せられ、その藩人も御築地(おつうじ)内の徘徊を御免に相成り候よう御周旋、御尽力なされしや。右の次第にては、九門の御守衛もあるかなきかのごとく、これまた金穀(きんもく)を貪りて御周旋と察せられ候。
それ金穀のために正道を捨つるは小人の志にて、大臣の所為にあらず、この段厚く御考察あらせらるべく候。爾来、御改正、御国威相立ち候よう、忠勤これなきにおいては、官位の重きといえど、止むことをえず推参仕るべく候。誠恐誠惶謹言。
この封、御主人様へ早速御さし出さるべく候。もし遅滞候わば、島田、宇郷(島田左兵衛権大尉、文久二年七月暗殺され、宇郷玄蕃頭は同年八月暗殺された。いずれも九条家の家臣)のごとく天誅を加うべきもの也。(表書は二条家諸大夫宛)


 同夜、徳大寺家にも同文の封書を投げ込み、そのうえ、その諸大夫滋賀右馬大允の家に、数人抜刀して闖入し、右馬と妻子を殺傷し、
「この者姦吏の賄を貪り、主家を因循に陥れた。よって天誅を加える」
 と張り紙をして立ち去った。つづいて、油商の八幡屋卯兵衛を殺してその首を梟(さら)し、攘夷の血祭りにするなど、日々残虐行為が絶えない。
 わが公は町奉行に令をくだして厳重に犯人を逮捕させたが、得るところがなかった。いま、真木和泉らの仲間が、長門藩士と京師を立ち去ると同時に、ぱったりと物騒なことはなくなり、京中はもとの平安にもどった。

 



 変を関東に報ず     この夜、わが公は所司代と連署で、京師のこの度の変を関東に報告した。
   
昨十七日夜、九時半、中川宮より御使者をもって、宮並びに二条殿、その外摂家衆のこらず参内これあり候につき、私共儀も即刻罷り越し候ように仰せ下され候につき、肥後守同道にて参内候ところ、議奏加勢の葉室より、書付をもって、薩州の御警衛以前の通り仰せつけられ、長州の堺町御門の御固めを御免と相成り、右の代りに所司代へ仰せつけられ候旨仰せ出だされ候について、その旨相達し候。
その後、在京の国持はじめ諸大名、のこらず差し出し候よう申しつかわすべき旨仰せ出だされ候ところ、十八日の午の刻(正午頃)までにのこらず出揃い申し候。
その以前に両役並びに参政衆、御国事掛、寄人まで、参内差し留むべき旨仰せ出だされ、堂上方のうち、中山、正親町三条、阿野ら、俄かに召し候旨仰せ出だされ候ところ、朝の四時より少々あて世間騒々しく相成り、堺町御門の番所の長州の人数とかく引払わず、異論などこれある由、差し留められ候堂上方は多分関白殿の御留守館へ集会し、その余の浪士の類も同所に集会仕り候趣、そのうち、御築地の内外など具足または甲冑、陣羽織など着用の者徘徊し、大砲など持ちはこび候につき、それぞれの大名へ御同所に出張し、持ち場などを仰せつけられ、めいめいに人数並びに武器をも取りよせ、夕方よりいよいよ盛んに相成り、すでに大事にも及ぶべき形勢に相見え候ところ、七つ半時すぎに相成り、柳原勅使に相越され、なお今朝、堺町御門に出張し、長州家来へ直談に相及び申すべきはずのところ、その儀にも及ばず、長州人数は、首尾よく引き取り申し候。
関白殿へは、堂上方十五人ばかり出むき候て、対談いたされ候やのところ、これまた打ち散じ候由、まず六つ半頃には、ようやく一時事しずまり申し候て、いささか人々安心仕り候儀に御座候。
さりながら、平穏と申すにてもこれなく候につき、今晩はいずれも、御門々々に差し出し候人数は、そのままにさし置き、もっとも主人には、諸大夫の間へ相詰め候ようにと、両伝奏をもって仰せ出だされ候。もっとも、伝奏は終夜参内に御座候。御推察下さるべく候。
そのうち、大幸の儀、大和行幸並びに御親征の御軍議の御延引も仰せ出でられ候ことに御座候。右等の書類は、そのうち取調べ、近々の内に申し上ぐべく候。
まずは右の次第、容易ならざる事ゆえ、ちょっと申し上げ候。恐惶謹言。(八月十八日夜、戌の刻に認む。閣老五名宛)


 この書面によれば、両伝奏衆もはじめは参内を止められ、後になって召されたものと見える。

 



 わが公の尽力     わが公は、十七日夜半に召されて宮中に伺候してから、しばらくも退休しなかった。十九日の夜になって、聖上は特にその労を思し召され、退いて休むようにと仰せ出だされた。そして、黒谷の館では遠いというので、施薬院を仮りの住居にあてよとのことであった。
 他の諸侯たちも、それぞれ薩摩兵の守っている九門内の営所に、宿泊をゆるされた。
 それからは、毎日わが公は参内して、しばしば朝議にも参画し、時には、徹夜で、施薬院の宿に退休するときには、夜があけかけていることもあるなど、心力をつくして万一に 報じられた。

 



 天誅組の変     はじめ親征の偽勅が下ったとき、かつて学習院に出仕を命ぜられていた藤本津之助、松本謙三郎、吉村虎太郎ら七十人が徒党をつくり、堂上の脱籍者中山忠光(忠光は大納言中山忠能卿の二男であるが、性来勇壮で、浮浪の輩と交際があり、時事に慷慨し、この年四月、朝廷に上書して攘夷の先鋒を志して九州に赴くと告げ、京師を出奔し、毛利秋斉と名を変えた。朝廷ではそのほしいままな行為を罰して、官位を褫奪した。その後、長門で暗殺された。)を首魁に仰ぎ、この月十七日、大和の国、五条の代官所に乱入し【注二】、代官鈴木源内をはじめ、家人たちをことごとく殺戮して、その首級を村はずれに梟(さら)した。そのかたわらに、
「この者共、近年、違勅の幕府の逆意をうけ、朝廷と幕府を同一とこころえ、聚斂(しゅうれん)をもっぱらとするにより、天誅を加える」
 と掲示し、代官所に火を放ち、百姓を駆り立てて、代官所有の金穀を略奪し、それを桜井寺まではこばせて本営とした。また、村役人を呼び集め「五条代官支配の土地は、今から天朝の御直支配となった。その祝に今年の租税の半分を免除する」と命令した。
 十八日、学習院出仕、島村寿之助、土方楠左衛門に書をよこして、「天兵のむかうところ草木もなびき、五条代官所支配の七万石の地と、旗下の領村十三ヵ村の百姓どもがことごとく服してきて、すみやかに御親征を待っている」と言ってきた。しかし、すでにその時には、島村たちは、長門藩士とともに実美公について脱走したあとであったので、手には入るずに終わった。

 



 賊潰滅す     しばらくして、奈良奉行山岡備後守景泰、高取の城主植村出羽守家保らから、一揆の襲来、応戦、斬獲などの報が続いたので、わが公はそれを一々上奏した。聖上は深く宸怒あり、伝奏衆からわが公に、急いで大和付近の諸藩を催促し、賊を掃蕩せよとの勅命があった。そこで、すぐさま檄(げき)を紀伊、平根、津、郡山などの近くの諸藩に飛ばして、掃蕩させた 。

一揆蜂起の趣、追々に天聞に達し、きびしく追討致すべき旨、野宮宰相中将をもって仰せ出だされ候事。
 八月廿九日 松平肥後守


 朝廷では、御使番の渡辺相模守、東辻図書権助をつかわして鎮撫させた。わが藩士外島義直、薩摩藩士三島弥平(後の通庸)、志々目献吉、土佐藩士福富健次、生駒清次らがこれに随行した。
 日ならず賊は平らいだ。
 十八日(八月十八日の変)の報告が江戸に着くと、その月二十四日、幕府はわが藩の家老田中玄清を召し出し、将軍家から親しくわが公の当日の労をなぐさめて、佩用の大小刀(大刀は筑前国貞行、脇差は備前国長船の住人守重)を賜い、厚く在京の家臣を褒せられた。

 



 偽勅説への対策     二十六日、聖上は在京の諸侯を召されて、親しく左の詔があった。

これまで勅命に真偽の不分明の儀これあり候えども、去る十八日以来申し出で候儀は、真実の朕の存意に候間、この辺、諸藩一同にも心得違いあるべからず。

 そもそもこのような勅諚の出た理由は、過激な堂上や浮浪の徒らが、八月十八日以後は朝廷での立場を失い、いまはなすすべなく、十八日以前の勅諚こそ真の叡慮で、その後のものは、中川宮、松平肥後守などの奸臣どもが勝手につくり出した偽勅であると宣言したからである。
 浮浪の徒が偽造した宣言が、いかに叡慮を悩まされたかは、この年、島津久光に賜うた宸翰(後に全文を掲げる)を見れば知ることができる。

 



 奇怪なる流言     またこのころ、中川宮、斉敬公、忠熙公に連名で賜わった宸翰は左のとおりである。

元来、攘夷は皇国の一大事にて、なんとも苦心に堪え難く候。さりながら、三条はじめ暴烈の所置は深く痛心の次第。いささかも朕の了簡を採用せず、そのうえに言上もなく浪士輩と申し合せ、勝手次第の所置多端、表には朝威を相立て候などと申し候えども、真実の朕の趣意相立たず、誠に我儘(わがまま)、下より出る叡慮のみ、いささかも朕の存意は貫徹せず、じつに取退けたき段、かねがね各々へ申し聞かせおり候ところ、去る十八日に至り、望み通りに忌むべき輩を取退け深く深く悦び入り候事に候。
官位を解くの事も、急速に取計らい候よう、過日より度々申し聞かせ候ところ、ようやく承知いたしくれ、喜悦の事に候。重々不埒の国賊の三条はじめ取退け、じつに国家のための幸福。このうえは朕の趣意の相立ち候事と深く悦び入り候事。和州浮浪の一件も【注三】、容易ならざる事、右はどこまでも追討申しつけ候。すみやかに下知これあり候よう、浮浪も真実の朕の意を相立て候わば、依頼にも存じ候えども、三条はじめ暴烈に随従し、じつに罰すべき者に候。早々追討のよう分けて存じ候。
長州父子は温純の人ながら、藩士の暴烈おびただしく、右は厳重に罰したきことに候。各々精勤を頼み入り候。これまで度々、暴烈を取退けたき段、各々へ申し聞かせ候えども、一向応ぜず、深く朕の身に迫り難渋のところ、今日の姿に相成り、安心の事に候。
今度召し候諸藩の上着のうえは、朕の趣意貫徹を祈り入り、とかく末の見留なく暴烈にては、後患これあるべく、深く深く心配の事に候也。
 右大臣
 尹 宮
 前関白


 これほどまで叡慮が明白であるのにもかかわらず、浮浪の徒は論ずるまでもないとしても、慶親卿らの一派が、いまだに中川宮やわが公を叡慮を矯める奸臣である、などと流言していることこそ奇怪である。

 



 わが公へ恩賜     この月、伝奏衆からわが公に、左のような恩賜があった。

去る十八日、召しによって参内し、禁闕守衛に尽力の儀、厚く叡感候。これによって、御持ふるしの末広並びに絹五疋、これを賜わり候。かつ兵士の末々まで苦労に思し召され候につき、賜わり物それぞれ配分すべき事。(わが藩、その他二十余藩へ金一万両を賜い、士卒に分与せしめた。)

 



 毛利父子へ下命     二十九日、勅によって参政、国事係、寄人の職が廃された。また、朝廷から、左の命を毛利慶親卿ならびに定広朝臣に下された。

去る十八日、毛利讃岐守、吉川監物以下、家来共に不束(ふつつか)の取計らいこれあり、いかがかと思し召され候間、宰相父子へ取調べ仰せつけられ候。よって、しばらく九門内へ藩中の輩の往来は無用たるべく御沙汰候。かつ過日の行幸御治定につき、父子のうち上京すべきやの由に候えども、行幸は御延引の事 ゆえ、上京の儀も相見合わすべく、追って御沙汰これあるべき事。
去る十八日、増田右衛門介より勅使へ差し出し候書付二通返却の事。(八月二十九日)


 別紙
留守居並びに添役一両人は滞京し、その余は御用なく候間、帰国これあるべく候事。

 



 守衛兵を解散     九月三日、幕府はわが江戸邸留主居を召し、京師守衛の功を賞し、かつ費用の多端を察して、金五万両を賜うた。
 六日、さきに朝廷から諸藩に勅して守衛兵を徴発したのは、その実、過激の堂上がおのおの自家の爪牙にあてるためにしたことであったので、三条実美がこれを統率していた。実美らが京師から脱走したとき、守衛兵はこれに随伴しなかったので、朝廷では彼らの処分に困っていたところ、八月二十五日、薩摩、土佐の両藩は守衛兵の解散を建議してきた。その書に、

御守衛兵の儀は、これまで御先規もあらせられず候ところ、暴論の徒追々建白仕り候段これあり、畢竟兵力を借りて高貴の御方へ迫り、自己の暴威を廻し、あるいは、無名の刑獄を起し、遂に叡旨を矯め候に至り、京師の騒擾をかもし候事、実にもって国家の妨害甚だしかるべからざる御事と存じ奉り候。万一暖急の変出来候節も、畢竟烏合の徒にて、元帥任も御座なく、なんの御用にも相立ち申すまじく存じ候。方今、列藩の兵をもって警衛仕り候うえは、なおもってすみやかに相免ぜられ候て、各藩へさしかえされ候ように仕りたく存じ奉り候。
 
 この日、左の趣旨をもって、これを帰休させた。

御守衛のため、諸藩石高に応じ、強幹忠勇の選士を貢献の儀、御沙汰について先頃以来おいおい貢献、深く御満足に思し召し候。然るところ当節、富国強兵、武備充実専用の折から、各藩の選士を貢献候ては、自然費用も相かさみ、疲弊の一端にも相成り候ては、御不本意に思し召し候間、御残念には、思し召し候えども、各々さし返され候旨仰せ出だされ候事。

 はじめ守衛兵を置いてから、一年たたないあいだに、ついにこの令が出た。

 



 攘夷別勅使     さきに、幕府から三港の通商拒絶の商議を開始する報があったのに、後になって、攘夷のなすべきでない事由を上奏するように言ってきた。わが公は、そのことが叡慮に反することなので、書面と使いとをやり、後見職と老中の上京を催促した。朝廷もまた後見職を召したが、いまだに上京せず、そのうえに拒絶商議の消息については絶えてないので、わが公としても、その要領を上奏することができず、荏苒(じんぜん)数ヵ月をすごした。
 ことここに至ったので、かしこくも御焦慮のあまり【注四】、有栖川熾仁親王を攘夷別勅使とし、わが公にその随伴を命ぜられたが、そのころ、京中の人心はまだまったく平穏とは言えず、加うるに、京師脱奔の浮浪たちが畿内のあちこちに出没するなど、すこぶる多難で、守護職の役にあるものが寸時も輦轂のもとを離れていられない情況であるので、左のような書を奉って、随伴の役を辞退した。

短才、不肖の容保、帝都守護職の命をこうむり、寵栄すでに身にあまり、いままた、勅使の副行を命ぜられ、天恩の隆渥なることを感泣に堪えず、畏れ奉り候。
然るに、守護の任に鷹(あた)りて以来、容保以下家臣の末々にいたるまで、遠く祖先墳墓の地を離れ、父母妻子に決別し、主従とも二念なく、一藩を傾けて帝都を守護し奉り、大樹(将軍)の尊王の誠意を達し、宸襟を安んじさせられ候ようこれありたきこと、容保の素心にして、一藩の願う所にも御座候。なかんずく登京以来、攘夷の叡慮を親しく伺い奉り候えども、延引今に貫徹仕りがたく、臣、実に涕泣に堪えず、深く苦心罷りあり候。
すでに大樹の東下後も、書簡をもって促し候事十余度、家臣をして東下せしめ、催促候こと三度、徳川中納言、板倉周防守ら、もとより勅意を遵奉し、鞅掌(おうしょう)、周旋、まったく懈怠にあらず、時勢のやむをえざる儀と察せられ候。ただ臣が憂うるところは、日月延引していまだに鎖港吉報をえず、いよいよもって叡慮を悩まし奉り候儀、恐懼の至り、じつに臣ら諸有司の不行届の儀に御座候。
これによって、今般重く御沙汰をこうむり候うえは、命を奉じて早速に東下し、鎖港の事件を検知し、宸襟を安んじる奉るべき儀に候えども、つらつら勘考仕り候ところ、先般事なきの日に東下の命をこうむり候ても、職掌において引き離れがたき段嘆願し奉って、御許容下しおかれ候。なおさら方今、輦轂の下に騒擾、しかのみならず、畿内の一揆の蜂起もいまだ追討成功をえず候間、須叟(しばらく)も輦下を離れ候ては、まことにもって安んぜず、臣の職掌も相立ちがたく、去留の事件の軽重は、委縷申し上げず候とも、明白顕然の儀と存じ奉り候。
かつは家臣ら山国の頑固、朴直の者共、一途な決心して滞京罷りあり候儀にて、今さら東行を申しきかせ候わば、失意耐え難き輩もこれあり申すべく候。
再応厚く重命をこうむりながら、強いて御辞退申し候儀は、恐縮の至りと存じ奉り候えども、まことにもってやむをえざる件々、御垂鑒なしくだされ、かたがたもって、この度副行の命御宥免下しおかれ、守護向いよいよ厳重を加え、鎖港の儀においては、なおきびしく催促せしめ、叡慮を貫徹候よう尽力仕りたく存じ奉り候。


 



 鎖港談判始まる     まもなく二十七日に、後見職と老中とから、左の上奏書がとどいた。その大意は、

去る十四日より、横浜において鎖港の談判にとりかかり候儀は、相違なく御座候。いささか宸襟を安んぜさせられ下されたく存じ奉り候。

 老中からは、

外国奉行池田筑後守、河津伊豆守を横浜につかわし【注五】、仏蘭西人、英吉利人へ横浜鎖港の談判にかからしむ。この段、叡聞に達すべし。

 わが公は、このことを上奏した。親王別勅使のことはそれで沙汰止みとなり、左の勅を賜うた。

関東において、鎖港の談判に及び候間、攘夷の儀はすべて幕府の指揮をえ、軽挙、暴発の輩これなきよう、諸藩の末々まで示し聞かせらるべき事。

 




 薩藩との親交     さきに八月十八日の挙があってから、わが藩と薩摩藩とは、唇歯の親しい間柄となって王事につとめた。
 すでに十月三日には、島津久光は召されて入京し、すぐさま重臣をわが公のもとにつかわして交誼をあたため、また家臣たちが毎々援助されたことを鳴謝した。わが方からもまた重臣をやって、答謝をした。交誼親睦はいっそう加わったが、後に京中に張り札をするものがしばしばあり、その文言に、「松平肥後守は薩奸の愚弄に甘んじ云々」などとあり、末には、「肥後が天誅を免れているのは、東照宮の血をひいて頑陋で、物わかりのわるいのを憐んで、ゆるしておくのである。このうえ自省をしないようなら、皇国のため粉韲(ふんさい)するであろう」とあったが、わが公は、わざとその犯人を推究させないでおいた。
 十月七日、伝奏衆から左の達しがあった。

春以来、堂上しばしば叡旨を矯め候に至るも、必竟、藩臣、浮浪の者共、堂上へ立入り、悪(あし)き入説をいたし候ゆえの儀に候間、右等の者を各藩において、きっと取り調べ致すべき事。
右御沙汰候。御一列へも伝達これあるべく候。よって申し入れ候也。(十月七日)
 

        



 【注】

【一 建言秘録】 第二五章注五に 記す「五事建策」のこと。

【二 五条の代官所に乱入し…】 これを天誅組の変という。吉村虎(寅)太郎(重郷)は、土佐勤王党の中心人物である。藤本津之助(鉄石)は 、備前脱藩の士で伏見に軍学の塾を開いていた。松本謙三郎(奎堂)は刈谷藩士で、吉村と親交があった。彼らは、中山忠光を擁して、大和行幸の先駆の役目を果たそうとし、五条代官所を襲撃し、管下を朝廷領とし、年貢半減を命じた。三条実美、真木和泉らは、かえって親征行幸に障害をきたすと考え、平野国臣を派して、鎮撫させたが、忠光らは聞き入れなかった。
その後、彼らは八月十八日の政変の報をきいて落胆したが、十津川郷士を募って兵力を増やそうと計った。応募した郷士は一時は千人に達したが、高取城攻撃に失敗し、紀州、彦根、津、郡山の諸藩兵の討伐を受けると、十津川郷士は離反し、長州にのがれた忠光のほかは、ほとんど戦死または捕縛された。尊攘派が農民の武力に結ぼうとして失敗した事例として、生野の変とともに注目される事件である。

【三 和州浮浪の一件】 大和天誅組の変。


【四 かしこくも御焦慮のあまり…】 八月十八日の政変後も、孝明天皇の攘夷の意志は変わらず、政変の翌日、松平容保と所司代稲葉正邦に攘夷の成功を奏すべしとの御沙汰があった。政変に功のあった池田慶徳、蜂須賀茂韶、池田茂政、上杉斉憲は二十四日連署して、勅使を関東に派遣し、幕府の攘夷実行を監察せられたいと上申した。朝議はこれを容れ、九月一日、熾仁親王を別勅使、大原重徳を副使とし、松平容保、池田茂政に随従せしめることを決定した(この企ては中止された)。ついで幕府は、老中酒井忠績(雅楽守)を上京させ、攘夷遅延の理由を説明したが、忠績にたいし攘夷督促の朝旨が伝えられた。

【五 横浜につかわし…】 三港、せめて横浜鎖港の交渉をすすめることは、八月十八日の政変によって確立した、公武合体派の勢力を維持するうえで必要であった。幕府は九月十四日、比較的好意があると考えていた、米国公使とオランダ総領事に横浜鎖港を提議したが、両国代表からは、その無謀を忠告された。幕府が交渉にゆきづまった時、たまたま仏国側は、下関でのキンシャン号砲撃事件および横浜近郊での陸軍士官カミュス殺害事件の賠償問題をかかえていたので、その解決のため、使節を本国に派遣することをすすめた。幕府はこの提案に乗って、鎖港談判のため使節をフランスに送ることとなり、十一月二十八日、外国奉行池田長発(筑後守)、同河津祐邦(伊豆守)をこれに任命した。幕府も鎖港の交渉が成功するとは考えていなかったが、少なくとも使節が帰朝するまでは、朝廷からの攘夷の督促を緩和できると、ここに望みをかけたのである。

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  1. 2012/11/05(月) 16:34:24|
  2. 京都守護職始末1
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二十七  薩摩、会津の提携     『京都守護職始末1』

 君側の奸     この月(八月十三日)、薩摩藩士高崎佐太郎(今の正風)が、わが藩の秋月胤永の住居を訪れ「近来叡旨として発表せられたものの多くは偽勅で、奸臣どもの所為から出たことは、兄らも知るところのごとくである。聖上もこのことを御気づかれ、しばしば中川宮に謀り賜うても、兵力をもった武臣で君側を清める任に当るものがないことを嘆いていられると聞く。わが輩、これをきいて、袖手傍観しているにしのびない。思うに、この任に当れるのは会津と薩摩の二藩のほかにはない。願わくば、ともに当路の奸臣を除いて、叡慮を安じたいものである」と、その意気昂然たるものがあった。胤永らも、はじめからその気持ちがあるものの、勝手に協力を諾すわけにもゆかず、ただちに黒谷に急いで、そのことをわが公に啓(もう)した。
 わが公もその意(こころ)なので、許容し、まず胤永と佐太郎に中川宮をたずねさせて、事の由を白(もう)させた。宮は大いに悦び、身を抛(なげう)って宸翰を安んじ奉ろうと誓い賜うた。

 



 二条公らを説得     そのとき、たまたま聖上は神事を行なわれていたので、宮はまだ法体であるため宸翰に近づき給うことができず、十六日、神事の終るのを待って、ただちに参内し、事の顛末を奏し、勅許をえて事をはかろうと企画を立てたが、これほどの大事を決行するのには、主上の御親任ふかい近衛前殿下御父子並びに二条右府の賛助をえなければならない。そこで、薩摩の士が近衛御父子に説くことを約束し、二条公の方をわが藩士が説得することに手はずをきめた。
 わが公は、大野重英を二条邸につかわし、大野が公と謁見し、くわしく事情を陳述し、非常手段で革新を計るのでなければ、国事はついになしがたいと、至情面(おもて)にあらわれて、縷々(るる)数千言を陳べたので、公もやや覚る色があったが、会津と薩摩の兵力で、過激の浪士や長州兵を圧伏することがはたしてできるかと疑い、たやすく賛同しようとはされなかった。
けだし、なまじいな事をしでかして、不測の過乱のもとになっては、という心づかいからであった。
 重英はそこで、皇極天皇の御世、御祖先の鎌足公【注一】が中大兄皇子を助けて、賊臣蘇我入鹿を誅し賜うたことを思し召せば、今日の場合、躊躇なさることはすこしもないことを色を正して言上したところ、斉敬公は、膝をはたと拍(たた)いて、「汝の言う事はもっとも至極である、ともに力をつくそう」と言われた。また、前殿下御父子の方は、薩摩の藩士の力で説を入れ、ことなく賛同された。

 



 帰国の兵を召喚     わが公の上京以来、旗下の守衛兵(藩ではこれを本隊と言っている)半数のほか、藩制で一陣を在府常備の兵員と決めてあった。一陣の将は、家老がこれに当って、陣将と称んでいるが、一陣は四隊が集まったものである。各隊にはそれぞれ隊長があって、それを番頭とよぶ。毎年八月を交代の時期とし、会津からくる新しい一陣は、八日に京師に着く。国へかえる一陣は、十一日に京師を出発する。
 親征の勅が下ったので、使いを走らせて、帰りはじめたものを途中から呼び返したので、その兵が京師に着くと、わが兵は二陣、すなわち八隊という多数になる。

 



 浮浪の徒ら騒ぐ     浮浪の徒らは、しきりに市民を煽動して、堀川通の糸問屋某の家に放火したりなど、狼藉至らぬところはなかった。
 町奉行の同心らが見かねて制止したが、及ばない。
もっとも糸問屋某は、平生貪慾で悪(にく)まれていたうえ生糸を外国人と貿易していたので、浮浪の徒がこの挙に及んだものである。町奉行は人を走らせて、わが兵を出して鎮撫するよう乞うてきたので、わが兵が行ってみると浮浪の徒は立ち去ったあとであった。
 このほか、京師での浮浪の徒の暴状は一日も止まず、わが藩が帰途の兵をよびもどして、二陣の兵を屯在させても、人はみな浪士鎮圧のためと思って、わが藩深謀を気づく者はなかった。

 



 中川宮の密奏     十六日、寅の刻(午前四時頃)、中川宮は、九州鎮撫使を辞退のため上奏するという風をよそおって参内したが、誰もこれを疑うものはなかった。そこで宮は、ひそかに奸臣を除く議を奏上した。主上ももとよりその叡念があらせられたが、時機については、まだまだ危疑したもうところがあったので、すぐそれとはおゆるしがなく、辰の刻(午前八時頃)になって、宮はついに退出された。
 その朝、安任(広沢富次郎、会津藩士)、胤永らが佐太郎とともに中川宮家に伺候したところ、宮は未明に参朝され、早天に勅許を手に入れ、諸堂上がまだ参朝しない前に、会、薩の兵にいちはやく禁門を堅めさせ、勅許のある堂上のほかは、一人も入朝をゆるさないで、そのあいだに事を謀ろうという手はずになっていた。それに、宮がなかなか退朝されないので、堂上の人々のなかでも過激派の国事掛が続々と参内してきて、当初の計画が行われそうもない形勢になってきた。
 安任、佐太郎らは、事すでに破れたと思い、一方では賀陽殿(中川宮邸)に候し、一方では黒谷に急を報じた。
 やがて宮が退出されたので、謁して様子をうかがうと、まだ事がやぶれたというわけではない。しかし、万一密議が洩泄するような場合、宮の御身にとってゆゆしい大事となることは必然であるから、宮も大いに御苦慮の態(てい)で、もし事がもれたとなったら、すみやかに東行して【注二】名護屋にゆくほかはあるまいと大息をついていられたという。

 



 兵力で国家の害を除くべし     この夕(十六日)、主上から中川宮に宸翰を賜い、因州、会津の兵に令して、兵力をもって国家の害を除くべし、と勅したもうた。
 主上が特に因州を指定されたのには、ゆえのある事である。前に、池田義徳朝臣が叡慮のあるところを知って、親征を諫め奉ろうと思い、そのことを二条斉敬公に謀った。公もまた池田の意見を然りとし、中川宮にこれを謀った。宮はそのことを内奏されたので、朝廷で論議させたうえで、嘉納されようとした。
 慶徳朝臣はそこで、池田茂政朝臣、蜂須賀茂韶朝臣、上杉斉憲朝臣らと議し、ともに参内して親征の不可を論議した。殿下と過激の堂上らは、朝臣の議を聞いて一座よろこばず、殿下は怒って退朝され、しばらくあって勅を四侯に伝えた。
 それには「幕府の怠慢はすでに久しい。朕の意は決した。汝らはしたいようにするがよい。朕は大和行を止めることはできない」とあったので、四侯はただ恐懼して退いた。叡慮は嘉納されようとしたけれども、ついに叡慮のとおりにならなかったことは、おそれ多いことである。
 慶徳朝臣は、叡意のあるところに惑い、真の逆鱗にふれたかと思って、待罪書を出された。主上がいま、とくに因州の兵と詔を賜うたのは、その時のことがお心にあったからのことだということである。

 



 深夜参内の命     翌十七日の夜、中川宮、近衛前殿下、同左大将、二条右府、徳大寺内府らの同志の人々は急に令旨を下して、非常の大義があるにより、守護職、所司代、それぞれ人数を引率して、翌十八日の子の半刻〔深夜十二時頃〕に参内するよう、かつ薩摩藩にもこの旨を通達するようにとあった。
 それでわが公は、いそいで兵を率いて参内した。中川宮、近衛前殿下、二条斉敬公、徳大寺公純公、近衛忠房卿らもまた相前後して参内された。議奏加勢の葉室長順卿によって、禁門はことごとく鎖(と)ざされ、わが藩兵と薩摩藩、所司代の兵がそれを守ることになり、非番の堂上の参内を停め、守護職、所司代および薩摩、因幡、備前、越前、米沢のほかは諸藩の士の九門に入ることを禁ずる由、命を伝えられた。

 



 八月十八日の変     天(そら)明けはなれて、因幡、備前、米沢の三侯と、阿波の世子茂韶朝臣、山内豊積(豊信朝臣の弟、兵之助と称した)等の人々が、おいおい参内した。後に勅して、中山忠能、正親町三条実愛、阿野公誠の三卿を議奏に復職させたが、三卿はそれを辞退したので、柳原光愛、庭田重胤の二卿を議奏加勢とした。
 中川宮は勅を宣(の)べられた。

この頃、議奏並びに国事掛の輩、長州主張の暴論に従い、叡慮にあらせられざる事を御沙汰の由に申し候事少なからず、なかんずく御親征、行幸などの事に至りては、即今いまだ機会来らずとおぼしめされ候を矯(た)めて、叡慮の趣に施工候段、逆鱗少なからず。攘夷の叡慮は動き給わざるも、行幸はしばらく御延引あそばされ候。いったい右様の過激、疎暴の所業あるは、まったく議奏並びに国事掛の輩が、長州の容易ならざる企てに同意し、聖上へ迫り奉り候は不忠の至りにつき、三条中納言始め、おって取調べ相成るべく、先ず禁足し、他人との面会は止められ候事。

 よって、実美卿はじめ議奏、国事掛の人々二十余人に禁足、他人との面会を止め、左のように達せられた。

思し召しをもって、参内並びに他行、他人との面会は無用の旨を仰せ出だされ候。よって申し入れ候也

 



 堺町門の守衛を解く     やがて、鷹司殿下が召しによって参内した。三条実美卿のために救解しようとしたが、近衛忠房卿がこれを駁し、いそぎ彼を召して、前日来の事々に証拠をつきつけて詰問しようと息まいたので、延上はようやく動揺したが、わが公が進み出て、いま実美を召して詰問することは妥当なことであるとしても、いたずらに紛議をまねくにすぎないからと言ってこれを制した。衆議もそれに賛同して、このことは収まった。
 これらの論議で刻(とき)が移り、午後となり、執次鳥山三河介を使いとして、長門藩の堺町門の守衛を解き、所司代の兵がそれに代わった。

 



 長藩ら開戦の勢     これよりさきに、毛利讃岐守元純(長州清末藩主)、吉川監物経幹(周防岩国の藩主、毛利の付庸)、増田右衛門介らは、変を聞いて藩邸から兵を率いて来り、助けた。勅が下っても、あえて命を奉じようとせず、甲冑姿で長槍をたずさえるものもあった。また、銃隊を門の左右に並ばせ、大砲を備えて、放射の位置を試すなど、ほとんどまさに戦を始めるばかりの形勢であった。
 薩藩の兵がこれを見て、勅が下っても奉じようともしないのは、明らかに違勅である、すみやかに掃蕩すべきであると、そのことを請うた。わが公は大いにこれを不可とし、切に諭して、軽挙を止めた。
 このころ、実美卿もまた、三条西李知、東久世通禧、豊岡随資、日野資宗、万里小路博房、滋野井実在、川鰭公述、橋本実梁、東園基敬、壬生基修、四条隆謌、錦子路頼徳、鳥丸光徳、沢宣嘉などの人々と、かつて朝廷から微集した守衛兵や諸浮浪を合わせて二千人ほどを引きつれ、鷹司邸に集合し、長州人とともに、勅命に楯つこうとしているもののようであった。すでにして、殿下の言葉によれば、長州勢はおよそ三万あって、その優勢当るべからずとのことであった。

 



 諸公卿色を失う     思うに、朝議を傾けるための威嚇とわかっているのに、はたして諸公卿は、おどろきのあまり顔色を失い、ひさかにわが公にむかって、貴藩の兵は幾許(いくばく)かなどと、しきりに問いかける。公は、もとより、長州兵や浮浪の徒がわれに敵すべくもないことを知っているので、弊藩は小藩ながら精兵二千を在京させているから、めったなことで敗北することはない 、心配は御無用、と言っても、堂上の人々はなかなか納得せず、会津兵が強悍だとしても、二千と三万では勝負になるまいとひそひそと私語しあい、動揺の色が濃くなってきた。
 わが藩士は勇を鼓し、勢を張って、一挙に彼を圧しようと、薩摩の藩兵とともに、後命を持っていた。

 



 実美らに退散命令     時に朝廷では、柳原中納言光愛卿を使いとして、長州藩の営に行って諭してみたが、彼らはなおも命を奉じようとしない。そこで、さらに上杉斉憲朝臣に命じて諭させたが、斉憲朝臣が堺町門まで着いたときは、長州の隊将増田右衛門介は一書をのこし、兵を率いて立ち退いたあとであった。その書の大意は、帰国して攘夷の先鋒となると言うことのみであった。
 実美卿らが勅命に背いて、鷹司邸に参会していることが朝廷の耳に入ったので、宰相中将公正卿(清水谷)が勅使となって、左の朝命をもたらした。

思し召し以て、参内並びに他行、他人面会無用の旨を、今朝仰せ出だされ候ところ、鷹司家に集会の由、容易ならざるの儀、違勅軽いからず候。参政、国事寄人止められ候。早々に退散すべく候事。





【注】

【一 御祖先の鎌足公が…】 六四五年、中大兄皇子(後の天智天皇)は藤原鎌足らと、当時権勢をほしいままにしていた蘇我入鹿父子を誅し、大化改新への道をひらいた。その故事をさす。

【二 東行して】 「西行」の誤りであろう。名護屋におもむくとは、九州鎮撫使に就任、筑前名護屋に赴任することをさす。

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  1. 2012/11/05(月) 14:00:58|
  2. 京都守護職始末1
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二十六  土佐、会津の提携     『京都守護職始末1』

 土藩家臣の来訪     山内豊信朝臣は、有力な公武一和論者であったが、その藩論が二派に分れ、その過激論者には、豊信もほとんど駕御に苦しんでいた【注一】。
 このころ家臣の下許武兵衛、生駒清次らが、わが藩士広沢安任らの寓居を訪れて、語るには「老寡君容堂(豊信朝臣)の命をうけ、京師に来て事情を察し、力をつくしたいと思うが、同藩の過激の徒でふるくから京師にいるものを、帰国させたい老寡君のお意志であるのに、彼らは過激堂上の間に根を張っているので、老寡君にもほどこす術(すべ)がない。しかし、今ではその数も減って、止まるものは十数人のみで、武市半平太、平井収二郎の輩にすぎない。この者らは、藩では微賤の者にすぎないが、私論をもって老寡君の意を一藩の定論のごとく言いふらし、過激の堂上を欺くばかりか、また堂上に迫って老寡君を説得し、重く登庸せしめようという野心もある。老寡君が徳川二百年来の恩義を感じ、幕府を助けて尊王の実をあげたいと思っているこころは、貴藩とおなじである。これよりは、願わくば嫌を抱かないで欲しい」ということであった。
 はじめから豊信朝臣とわが公は、交情こまやかな間柄ではあったが、その藩臣同士が胸襟をひらいて語りあったことはなかった。
 ここに土佐、会津の提携がやや緒に就いた。

 



 不穏なる流説     さきに、小栗下総守が勅旨をもって東下したが、幕府は牧野鋼太郎を入れちがいに上京させたので、勅書の奉答を授けるにはいたらなかった。その後、わが公は、鋼太郎を江戸へ帰すにあたって、家臣野村直臣をさし添え、切に後見職、老中の上京を促したが、すでに後見職は辞職を奏請した後なので、これに応じようとしない。
 ところが朝議で、後見職辞退の請をゆるさず、かつ上京の催促があったので、後見職からも、近日のうちに上京するという報があった。
 わが公は、すぐさま殿下を通してこの由を内奏し、その上京の日を待っていた。
 そのころ、京中に流説があって、不日、車駕が大和に御幸があると言い、つづいて、大和行幸のあとで、火を放って京中を焼き払い、還幸の叡念を断ち、ただちに錦旗を箱根山にすすめ、幕府討伐の兵を挙げるのだと、耳から耳につたわって、人心ようやく驚動することとなった。
 わが公はこれを怪しんで、人を派して探らせたところ、某は錦旗製作の命をこうむったとか、某所で刀槍をつくっているとか、続々と報告があつまってきたばかりか、ことごとくたしかな証拠がある。

 



 大和行幸の令     はたして、八月十三日になって、伝奏衆から攘夷祈願のため大和に行幸あらせられ【注二】、畝傍山【注三】および春日神社【注四】に参拝し、それがおわるとしばらく同地に駐輦のうえ、親征の軍議を定められ、そのうえで伊勢神宮へ行幸あるとの勅命を伝え、また加賀、薩摩、長門、肥後、土佐、久留米の六藩に、右の費用金十万両をさし出すようとのことであった。
 この勅が下ると、わが公は言うに及ばず、公卿中にも、思いがけないことに喫驚するものがあり、わが公はとりあえず関東に書を送って、親征の勅と目下の京師の情況を報じ、終りに、国事についてはほとんどほどこす術がなくなったが、ただ一縷の望みがあるのみであると言ってやった。それというのも、叡旨のあるところを知って、ひそかに心に決するところがあったからである。

 



 親征の陰謀     そもそも親征の議の初唱者は、真木和泉で、長門の久坂義助、周布政之助、佐々木男也、肥後の轟武兵衛、宮部鼎蔵、河上彦斎、土佐の武市半平太、吉村寅太郎などがこれに賛同し、まず毛利定広朝臣に入説してこのことを献議したが、叡慮が採納あらせられないのを見て、また毛利慶親卿に入説して親征の建議をさせた。慶親卿がこのころ在国なので、益田右衛門介、根来上総に建言書をつくって京師に送らせた。
 姉小路少将暗殺の事があって以来、朝廷に充満した過激派の人々は、薩摩藩に嫌疑をもち、これを疎外したために、中川宮、近衛家など薩摩と親交のあった人々は、ひそかにはばかって、朝議に参列するのを避け、それ以後長門藩がにわかに勢いを得、常に公卿の門に出入し、過激論をふりまわすので、浮浪の徒もこぞってこれを推重した。
 つづいて、疎暴な外国船砲撃を敢行すると、彼らは、これを無比として賞賛し、さかんに堂上家を煽動したので、過激の堂上は日に日に勢いをえて、ついに関白、伝奏をしのぎ、勅を矯(た)めて、勝手に号令することもしばしばであった。聖上はこれを悪(にく)ませられたが、時の勢いで、いかんともなし賜うことができず、むなしく憂悶のうちに過ぎさせ賜うた。
 過激派の人々は、さきに島津三郎お召しの儀があったとき、一旦は叡慮を枉(ま)げさせ奉ったものの、事態が変ずることを感じて、にわかに関白、伝奏衆に迫って、大和行幸をすすめ奉り、さらに勅を矯めて親征を宣告するにいたったものである。

 



 中川宮左遷のたくらみ     中川宮は、主上からもっとも信任厚い方である。それに、宮は熱心な公武一和論の方なので、過激派は宮に注目し、すこしの過失でもあれば、それに乗じて退け奉ろうと考えていたが、宮の方でもはやくからその奸謀を洞察し、恭謹翼々、すこしの乗ずるすきを与えられない。
 ところで、わが公の建議で、慶喜卿の西上の期日が近づいてきたので、激徒は、その着京の前に事を挙げようと謀った。それには、宮が邪魔なので、まず宮を京師の外に出して、そのあとで事を挙げようということになり、月の七日、宮の参内せられたとき、長谷信篤卿らが宮に迫り、九州鎮撫に下られることを要請した。
 宮はこれをきいて、九州が動揺しているとはまだ聞いてないが、それならば何をいったい鎮撫するのかと反問された。しかし、十四日になって、長谷信篤卿から宮に、正式に九州鎮撫使の勅をつたえた。宮は、やむをえず、天皇の御前に咫尺(しせき)してそれから受けよう、と答えられた。





 【注】

【一 駕御に苦しんでいた】 土州藩には、小八木五兵衛(正躬)を中心とする門閥層の佐幕攘夷派と、吉田東洋の佐幕開国派と、武市瑞山(半平太)を首領とする下級藩士中心の尊王攘夷派との三派があった。佐幕攘夷派の背後には、藩主豊範の実父豊資がおり、吉田東洋を親任していたのは、前藩主山内豊信であった。安政五年、山内豊信は一橋党として活躍したため、藩主を退き隠居したが、文久二年武市瑞山らは、藩政を掌握していた吉田東洋を暗殺した。これ以後、反吉田派の保守派と尊攘派との連合政権が藩政をとったが、尊攘派は京都の勢力を背景に次第に藩の動向を支配した。豊信は文久二年四月、幕府のとがめを許されて、ふたたび中央政界と藩政に活動することとなったが、彼の穏健な公武合体論と武市瑞山らの立場とは相い容れなかった。しかし尊攘派が豊資を擁し、かつ朝廷と関係をもっていたため、豊信はこれを抑圧できず、また瑞山を東洋暗殺の罪で処罰しようとしてできず、やむなく京都藩邸留守居加役に任じ、その行動を掣肘するに止めるという有様であった。瑞山一派は、陰に豊信に反抗し、その行動を妨害し、豊信は京都政局に不満をいだいて、文久三年三月帰国してしまった。
     
【二 攘夷祈願のため大和に行幸あらせられ】 文久三年七月、長州藩は重臣益田弾正、根来上総を上京させ、攘夷親征、違勅の幕吏、諸侯の討伐を奏請することとした。 弾正らは十八日鷹司関白に親征を説いた。関白は親征の可否を在京中の因州藩主池田慶徳、備前藩主池田茂政、阿波藩主あとつぎ蜂須賀茂韶、米沢藩主上杉斉憲に諮問したが、いずれも反対の意を表明した。しかし尊攘派志士は猛烈に公卿を説得し、三条実美らの尽力で、ついに八月十三日、大和行幸の詔が下った。

【三 畝傍山】 奈良県高市郡にあり、神武天皇御陵の所在地。

【四 春日神社】 奈良にあり、藤原氏の氏神として有名。

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  1. 2012/11/05(月) 13:12:24|
  2. 京都守護職始末1
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