いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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三十四  伏見開戦     『京都守護職始末2』

 悉く水泡     この日、わが前駆の隊が伏見に到達するや、関門守衛の諸藩兵が、急に関門を鎖(とざ)して、「徳川内府が兵を率いて入京することは、朝廷の禁ずるところ」と称して、あえて門を開かない。
 わが前隊は、これに答えて「内府は、召勅によって入朝するのである。兵を率いているのは、警戒、自衛のためにほかならない。朝廷が入京を禁じられるとは、われわれは未だ聞いていない。たとえ真に勅命で禁ぜられたとしても、これを犯す責任は、内府甘んじてこれを受け、決して累を諸君に及ぼさない。どうか聞いてほしい」とかれこれ問答をしているうちに、突然、彼の方より砲撃してきた。
 武門の習い、どうしてこれを黙過することができよう。ここに至って、わが公が多年辛苦し、尽瘁してきた公武一和は、むなしく一朝の水泡と化し去り、遂に戊辰変乱の基となった【注一】のである。噫(ああ)。





 【注】

【一 戊辰変乱の基となった】 明治元年正月二日、旧幕軍は、会津・桑名の藩兵を先鋒として京都に向け進軍した。これより先、朝廷側では、岩倉具視は、徳川慶勝・松平慶永の斡旋に期待するとの穏和論であったが、参与の大久保一蔵・西郷吉之助は討幕の強硬論を主張した。三日の朝議は、慶喜に上京中止を命ずることに決したが、すでに二日夕刻には、兵庫沖で旧幕府軍艦と薩州藩船との間に放火が交えられ、三日午後五時頃から、鳥羽、伏見で戦闘がはじまった。結果は薩長軍側の勝利におわった。
六日、慶喜は松平容保、松平定敬らを従えて、夜にまぎれ大阪城を脱出し、軍艦に投じて十二日江戸城に帰った。正月七日慶喜追討令が発せられ、十日には容保、定敬をはじめ旧幕府要路の官位は奪われた。東征大総督熾仁親王の指揮する京都軍は、三方より江戸に進撃し、三月十五日を期して江戸城総攻撃を行なう予定であったが、英国公使パークスの斡旋もあり、西郷吉之助と勝海舟との会談によって慶喜は恭順謝罪し、四月四日京都軍は無血入城した。
この日慶喜は水戸におもむき、藩校弘道館の一室で謹慎した。閏四月徳川氏の処分が決まり、田安亀之助(家達)が家督をつぎ、駿府七十万石に移封され、慶喜も駿府に移った。
他方、容保は二月十六日江戸を発して会津に帰ったが、藩では、薩長にたいする主戦論が支配し、戦備を整えるとともに、まず庄内藩と同盟をむすんだ。閏四月十一日には、仙台藩、米沢藩の呼びかけに応じ、盛岡・二本松・守山・棚倉・中村・三春・山形・福島・上ノ山・亀田・一ノ関の奥羽諸藩の重臣が白石城に集り、会津藩の救解を決議し、その恭順謝罪をみとめてほしいとの連署嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出した。そしてこれが却下されるや、五月三日二十五藩は奥羽列藩同盟を組織して対抗したが、これより先、閏四月二十日よりすでに各所で京都軍と戦闘をはじめた。戦況は京都軍に有利であり、七月二十九日二本松は落城し、九月三日米沢藩は降伏し、同十五日には仙台藩も降伏した。
参謀板垣退助の指揮する京都軍は、八月二十日より会津攻撃を始め、老幼婦女二千をふくめて、数千の籠城する若松城を包囲すること約一ヵ月に及んだ。ついに九月十六日、容保は降伏を申し入れ、二十二日開城し、容保、喜徳(余九麿)父子は滝沢村妙国寺に入り、藩兵も猪苗代で幽閉された。会津落城後間もなく盛岡、庄内等の諸藩も降り、ここに道北地方の戊辰戦役は終った。戦後の処分で、容保父子は永禁錮、その封土は没収されたが、明治二年十一月三日、松平家は容保の子容大を立てて家名を興し、陸奥斗南の三万石をあたえられた。ついで、五年正月六日、容保父子は、松平定敬等とともに赦免された。


〔下巻おわり〕
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  1. 2012/11/19(月) 19:17:26|
  2. 京都守護職始末2
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三十三 徳川慶喜卿、奸党の罪状を奏聞   『京都守護職始末2』

 薩摩断該の条々     三日、内府はまず大目付滝川播磨守に命じて、左の薩摩藩弾劾の上疏をもたせて入京させた。

臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事態を恐察し奉り候えば、一々朝廷の御真意にこれなく、まったく松平修理大夫が奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知るところ、殊に江戸、野州、総州、その外所々にて乱防、劫盗に及び候者も、同家来の唱導により、東西響応し、皇国を乱し候所業、別紙の通りにて、天人ともに憎むところに御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候よう御沙汰成し下されたく、万一御採用相成らず候わば、止むをえず誅戮を加え申すべく、この段謹んで奏聞し奉り候。

 薩摩奸党の者の罪状の事
一 大事件には衆議を尽すと仰せ出だされ候ところ、去月九日、突然、非常の変革を口実といたし、幼帝を侮り奉り、諸般の御処置、私論を主張のこと。

一 主上御幼冲の折から、先帝の御依託あらせられ候摂政殿下を廃止し、参内を止め候こと。

一 私意をもって宮、堂上を黜陟(ちゅつちょく)せしめ候こと。

一 九門その外御警衛と唱え、他藩の者を煽動し、兵仗をもって宮闕に迫り候条、朝廷を憚らざる大不敬のこと。

一 家来共、浮浪の徒を語り合わせ、屋敷へ屯集し、江戸市中に押込み強盗を致し、酒井左衛門尉〔庄内藩主酒井忠篤〕の人数屯所へ発砲、乱防し、その他、野州、総州所々にて焼討ち劫盗に及び候証跡、分明にこれあり候こと。

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  1. 2012/11/19(月) 19:01:00|
  2. 京都守護職始末2
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三十二  徳川慶喜卿、時事について上奏     『京都守護職始末2』

 憤怒の書状   越えて十八日、内府は大阪から、時事について左の書状〔注一〕を上がった。

臣慶喜、不肖の身をもって、従来無渝の寵恩を蒙り奉り、恐感悚戴の至りに堪え奉らず。及ばずながら夙夜寝食を安んぜず、苦心焦慮、宇内の形勢を熟察仕り、政権一途に出で万国と並立し、護国威相立ち候よう、広く天下の公議をつくし、不朽の御基本を相立てんとの微衷より、祖宗継承の政権を奉還し、同心協力、政律相立てたく、あまねく列藩の見込み相尋ねべき趣建言仕り、なお将軍職御辞退も申し上げ候ところ、お召しの諸侯上京し衆議相決し候まで、これまでの通り心得べき旨御沙汰につき、右参着の上、同心協力、天下の公議、与論を採り、大公至平の御規則相立てたく存じ奉り候外他念これなく、鄙衷空しからずと感戴仕り、日夕、企望罷りあり候ところ、あにはからんや、この度、慶喜へ顛末の御沙汰もなきのみならず、詰合(つめあ)いの列藩だにも御沙汰これなく、俄に一両藩、戎装(じゅうそう)をもって宮闕へ立ち入り、未曽有の大御変革を仰せ出だされ候由にて、先帝より御遺託あらせられ候摂政殿下を放廃し、旧眷の堂上方を故なく擯斥せられ、にわかに先帝が譴責の公卿数名を抜擢し、陪臣の輩みだりに帝坐近く徘徊し、数千年来の朝典を汚し、その余の御旨意柄かねがね仰せ出だされ候御沙汰の趣とは、ことごとく雲壌相反し、じつもって驚愕の至りに存じ奉り候。
たとえ聖断より出でさせられ候とも、忠諫し奉るべきはず、いわんや、当今幼冲の君にもあらせられ候折から、右ようの次第に立ち至り候ては、天下の乱階、万民の塗炭、眼前に迫り、かねがね建言仕り候素願も相立たず、金甌無欠(きんおうむけつ)の皇統もいかがあらせられ候やと恐痛し奉り、臣慶喜、自今の深憂、このことに御座候。
鄙言の趣、御聞受なしくだされ、かねて申し上げ候通り、公明正大、速やかに天下列藩の衆議をつくさせられ、正を挙げ、奸を退け、万世不朽の御規則相立て、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民を安んじ候よう仕りたく、臣慶喜、千万懇願の至りに存じ奉り候。この段、謹んで奏聞仕り候。






 西郷らの建言     これよりさき、中山忠能、正親町三条実愛の両卿は、朝議がなお徳川氏に依る形跡のあるのを不満として、大いに異議を唱えた。その時、岩倉具視朝臣はこのことを聞き、ひそかに薩摩藩士西郷隆盛、大久保利通、岩下万平等にその意見を問うた。
よって、三人は左の書を呈した。

今般、御英断をもって王政復古の御基礎を立てさせられたく御発令については、必らず一混乱を生じ候やも計りがたく存じ奉り候えども、二百余念太平の旧習に汚染仕り候人心に御座候えば、一度干戈を動かし候方が、かえって天下の耳目を一新し、中原を定められ候御盛挙と相成るべく候えば、戦を決し候て、死中に活を得候の御着眼、もっとも急務と存じ奉り候。
しかしながら、戦は好んでなすべからざることは、大条理に於て動かすべからざるものに御座あるべく候。しかるに、無事にして朝廷、上の御威力を貫徹し、太政官代三職【注二】の公論をもって太政を議せられ候日に至り候ては、戦よりもなお難しとすべし。古より創業、守成の難易、論定しがたく、俊傑の士においても、後世識者の評を免かれ申さず候。いわんや、衰頽の今日に於てをや。詳考、深慮、御発令の一令を御誤り相成らず候儀、第一の事に存ぜられ候。
ついては、徳川家御処置振りの一重事、大略の御内定を伺い奉り候ところ、尾、越をして直ちに反正、謝罪の道を立てさせ候よう御諭しをもって、周旋命ぜられ候儀、更に至当、寛大の御趣意と感服奉り候。
全体、皇国、今日の危に至り候こと、大罪は、幕に帰するは論をまたずして明らかなる次第にて、すでに先に、十三日云々御確断の秘物【注三】の御一条まで及ばせらるべく候御事に御座候。この末の論相起り候とも、諸侯に列し、官一等を降し【注四】、領地を返上し、闕下に罪を謝し奉り候場合に至らず候わでは、公論に相背き、天下の人心もとより承伏仕るべき道理御座なく候間、右の御内議は、断乎として寸分も御動揺あらせられず、尾、越の周旋、もし行なわれず候節は、朝廷寛大の御趣意を奉ぜず、公論に反し、真の反正たらざるもの顕然に候えば、早々朝命、断然右の通り御沙汰相成るべき儀と存じ奉り候。
右御議定より下りての御処置振りは、公論、条理の上に於て、さらに御座あるまじく、もし寛大の名をつけさせられ、御処置その当を失われ候えば、御初政に条理公論を破り相成り候筋にて、朝権相振るわざるは論ずるまでもこれなく、必らず昔日の大患を生じ候儀相違御座なく候。
もし御趣意通り、真の反正をもって御実行挙り、謝罪の道相立ち候上は、御顧慮なく御採用相成るべきはもちろんに御座候。前条御尋問に預り、当〔島津〕修理大夫の趣意を奉じ、評議の形行申し上げ奉り候。一点の私心をもって大事を論ずべからざるは、兼ねて現上し奉り候通りに候間、よろしく御熟考云々。






 慶勝、慶永の忠告     はたして二十六日(十二月)、徳川慶勝、慶永両卿が勅を奉じて大阪城に来り、内府に勅旨を伝えて上京を促し、また両卿の私言として、この際、第一に官位を鷁退(げきたい)し、領邑を削減して供御(くご)にたてまつることを奏請すべきを勧めた。
 内府は「官位鷁退のことは予も前からそのつもりであって、異存はないが、領邑の問題は、累代世臣を扶持している関係上、未だしばらくこれを削減するわけにはゆかない。その事情を、予みずから入朝して親しく申し上げよう」と言われたので、両卿はこれを諾し、さらに「公の入京の際には、なるべく儀従(ともまわり)の人数を省略し、少人数、軽装でゆかれるのが得策で、万一、警戒の必要があれば、尾張、越前の兵で防備しよう」と言った。  内府がそれを応諾したので、両卿は京師に引き返した。





 薩藩邸を攻撃     これよりさき、江戸市街と常、総、野の諸州に盗賊が横行【注五】し、民家を劫掠することが連夜絶えないので、民心は恟恟として、ほとんど安堵の心地なく、夜になると闃(げき)として道ゆく人が絶えるに至った。
 幕府は庄内藩主(酒井左衛門尉忠厚朝臣)に命じて、江戸市中の警邏に当らせ、きびしく盗賊を逮捕させた。
 この月二十二日、江戸本城の後閣〔二の丸〕から火が出て、ことごとく焼け落ちた。人心はますます驚動【注六】した。
 翌二十三日夜、賊徒の一隊が庄内藩の兵営を襲って、発砲した。庄内藩はこれに応戦し、互いに死傷者を出したが、賊は遂に敗れ奔って、芝三田の薩摩藩邸と佐土原藩邸に逃げ込んだ。庄内藩は、すぐさまこのことを老中に報じ、指揮を仰いだ。
 翌日、老中、旗下の歩兵隊と前橋、松山、鯖江、上山等の諸藩に命じて、庄内藩とともに、薩摩、佐土原の二邸を撃たせた。それぞれ斬獲したが、余賊は上山藩の隊を衝き、品川から舟で西方へ逃れた。
この戦役で、わが藩の三田藩邸と、薩摩屋敷とが隣接しているので、わが公の用人小森久太郎が兵を督して備え、薩摩藩の留守居下役、益満休之助を捕え、諸藩が捕えた二十余人とともに江戸町奉行に連行した。





 慶喜公怒り上京を決意     越えて三十日(十二月)、この報が大阪に達した。内府はこれを聞いて、忿怒に堪えず、「薩摩藩がひそかに兇徒を使嗾し、関東をかき乱し、東西相応じて事を挙げようとしたに違いない。乱逆を企てるの罪は許すことができない」と、即夜、老中およびわが藩、桑名藩の重臣と会見し、その罪状を具申し、典刑を正したい旨を奏請することに決議を定め、入京の部署を定めた。
 慶応四年戊辰正月朔日、徳川内府は、召勅に応じて上京することとなった。
 まず、わが藩と桑名藩に歩兵隊をつけて、前駆(さきがけ)とし、先発させ、高松、姫路、小浜、鳥羽などの諸藩の兵が これにつづき、翌二日に順次、鳥羽伏見に向った。さきに、尾張、越前の両侯から、少人数軽装で入京せられたいとの忠告があったが、その後、江戸において薩摩藩士の兇暴を耳にして、これを弾劾し、事と次第によっては決行も辞さないとの勢いで、衆を尽して、その途に就いたのであった。





 【注】

【一 左の書】 この上奏文は、大目付戸川安愛(伊豆守)が、若年寄戸田忠至(大和守)を経て、総裁熾仁親王に提出しようとしてたが、忠至は上奏文の文意が激しいのに驚き、ひそかに岩倉に示して指揮を求めた。岩倉は、もしこれが提出されれば、慶喜問罪の師が発せられるだろうとのべ、これを抑留したので、戸川はそのまま持ち帰り、実際には上奏されなかった。

【二 三職】 総裁・議定・参与をさす。

【三 十三日云々御確断の秘物】 十三日、岩倉は大久保をまねいて、二策を示し、諮問した。その一は、薩長の兵をもって天皇を擁護し、勅命を奉ぜぬものを討伐し、その成敗は天に任せること、その二は、しばらく尾州、越前二藩の周旋に任せ、慶喜がもし反正の実を示し辞官納地を奏請するなら、寛大の処置をもって議定職に補するというのであった。大久保・岩下・西郷の意見は、しばらくは第二の方策で進むというにあった。

【四 官一等を降ろし…】 慶応三年十二月九日、王政復古の令を出した朝議は、慶喜をして官位一等を下り、所領中二百万石を新政府費用として差し出すことを命ずるに決した。十二月十日、議定徳川慶勝(尾州)と同松平慶永(越前)とは、二条城でこの朝旨を伝えたが、慶喜は旧幕兵の動揺を恐れて、明答の猶予を願った。当時徳川氏にたいする同情は、土州藩をはじめ諸藩の間に強かった。そこで尾・越・十三藩は、慶喜より辞官納地を申請する代りに、議定職に補するという案をもって周旋した。この案は、注三に見るように、岩倉の提示する第二案で、西郷・大久保らも支持したものであった。その後も、旧幕側に反対論が強いため容易に成功しなかったが、十二月二十八日慶喜の請書をえることができた。しかしすでに二十五日には、江戸で幕府側は薩州藩邸を焼打ちするという事件がおこり、それは鳥羽伏見の戦へと波及するに至った。

【五 盗賊が横行】 横行した盗賊の中に、薩州藩討幕派が 計画した関東擾乱計画による者があった。西郷は武力行使の名目を作ることに腐心した。彼の命をうけた益満休之助・伊牟田尚平は江戸に下って、浪士を徴募した。この薩州藩邸屯集の五百人の浪士は、治安をみだす目的で、徒党を組んで乱暴をはたらいた。一部の者は、下野国流山で兵を募り、また他の一部は、相模国萩野山中藩の陣営を襲うなど、関東各地で蜂起、放火、略奪が相次いだ。

【六 人心はますます驚動】 江戸城二の丸焼失については、薩州藩士が天璋院を奪おうとして放火したとか、大奥の女中が薩州藩士に通じて放火したとかの噂が流れた。旧幕府内では、勘定奉行小栗忠順(上野介)ら強硬派は、薩州藩邸を攻撃して、策動の根源を絶つべきだと主張した。

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  1. 2012/11/19(月) 18:13:35|
  2. 京都守護職始末2
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三十一  王政復古の詔勅     『京都守護職始末2』

 摂政・幕府等廃止     九日、王政復古の詔勅を下し賜うた。

徳川内府、従前御委任の大政返上と将軍職辞退の両条は、今般、断然と聞こし食(め)され候。そもそも癸丑〔嘉永六年、ペリー来航〕以来、未曽有の国難にて、先年も頻年宸襟を悩ませられ候次第は、衆庶の知るところに候。
これによって、叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回の御基を立たせられ候間、自今、摂関、幕府等廃せられ、総裁、議定(ぎじょう)、参予【注一】の三職を置かれ、万機を行なわせられ、諸事神武創業の始めにもとづき、縉紳(しんしん)、武井、堂上、地下(じげ)の別これなきの至当の公議をつくし、天下と休戚(きゅうせき)を同じくあそばさるべき叡慮に候条、各々勉励し、旧来の驕惰(きょうだ)の汚習を洗い、尽忠報国の至誠をもって奉公致すべく候事。


 また勅して、内覧、関白、国事掛、議奏、武家伝奏、守護職、所司代はすべて廃せられた。
 ここに至って、会津、桑名等佐幕藩の九門守護を罷(や)め、薩摩、土佐、安芸の諸藩がこれに代った。
 よって、わが藩は唐門、蛤門の守衛を土佐藩に交付し、また旧守護職邸にいた婦女たちを、ことごとく黒谷と鞍馬口の邸に移し、漸次会津へ帰還させた。





 幕臣らの鬱憤     はじめ十一月十四日、内府の政権奉還の上表があってから、堂上、諸侯らはたちまち内府以下守護職、老中、所司代等を疎外し、朝議があっても、これに与らしめず、諸藩士中の過激の徒はわれわれを仇敵視し、往々討幕を喋々した。
 徳川家旗下の諸士等は、この上表があってから、俄然権力を失い、心ひそかに平らかならざるものを抱いていたが、日々に情勢がわれに非になってゆくのを見聞するごとに、層一層、その念を増し、憤慨を禁じ得ない。「そもそも今回の内府公の英断は、本朝空前の盛挙であって、けだし人臣が上に奉ずる道として、これ以上の道はない。ゆえに、朝廷でもまたその至誠を嘉賞あって、天下とともに同心して力を致し、皇国を維持し、宸襟を安んじ奉るようにと詔があったのである。しかるに、かの諸藩等は、みだりに猜疑を逞しゅうし、公卿を誘惑して、わが公の至誠を讒害(ざんがい)し、かえって敵視させるとは何ごとであるか。君辱(はずか)しめらるれば臣死す、という言葉があるが、今がその秋(とき)である」と、口々に論じて喧囂を加えた。
 しかし、今や九門の守護もまた佐幕藩の手から去って以来、わが藩士や桑名藩士らも旗下連と和同して、おのおの切歯扼腕(せっしやくわん)し、機会を待ちかまえている有様であった。 





 一触即発     これを見て、わが公と定敬朝臣らは、二条城に入り、まず旗下や藩士等を切論懇告して、その気鋒をゆるめようとした。九門守衛の諸藩兵らも、この状況を見て、真意のあるところを悟らず、ひそかに往年の長門藩士の兇逆になぞらえて、ことさらに兵威を張り、二条城と対峙する勢いを示した。
 京中の人心は、これがために恟々として、荷担して起つまでになった。
 十一日、大阪にあった毛利内匠が、勅によって、兵を率いて京師に入ってきた。それを知ったわが衆は、さらに憤慨の度を高め、禍機の切迫は、ますます度を加え、旦夕を料(はか)りがたい状態となった。





 闕下の血を恐る     十二日、内府は、俄にわが公を召し、就封の暇を賜い、また馬を賜わった。
 つづいて、徳川慶勝、松平慶永の両卿が二条城に罷り、内府に謁して、目下の形勢について大いに危懽していることを述べ、速やかに旗下連やわが藩、桑名の勢を大阪城にうつし、禍乱を末萠に鎮定すべきことを勧めた。内府も、これを可として、わが家老田中玄清を召して「予、つらつら刻下の形勢を視るに、ついには君側の奸を清掃しなければなるまいと思う。しかし、闕下(けっか)を血でけがし、宮禁を驚動せしめると、かの毛利敬親の臣らの行為のようなことになることを恐れている。ゆえに、しばらく大阪城に避け、旗下の人心を鎮定しようと思う。宰相(わが公)も随伴して来るように」という命を下した。
 そして、左の上疏を草して、慶勝、慶永の二卿に託して朝廷に上(たてまつ)り、即日、二条城を出発した。わが公と桑名侯らも、藩士を率いて、これに従った。

防長御処置の儀につき、御尋ねの上叡慮の通り仰せ出だされ、異議申し上げ候もこれなき筋に候えども、万一異存の輩もこれあり、騒動に及ぶ儀も候わば、御幼君にもあらせられ候折から、自然、右様の儀これあり候わば、御驚動はもちろん、皇位も如何ならせらるべきやと深く叡慮を悩まされ候御次第にて、鎮撫、説得の力をつくし候よう御沙汰の趣、畏り奉り候。
その後、宮闕戒装をもって御固めの上、非常の御改革を仰せ出だされ候については、別して鎮撫方を深く痛心仕り候。諸役人はじめ、今日まで精々相さとし置き候えども、なにぶん多人数の鎮撫方深く心配仕り候。不肖ながら、誠意をもって尊王の道を尽し、罷りあり候えども、徒らに下輩の粗忽より水泡に属し候よう相成り候ては、この上にも深く恐れ入り奉り候儀につき、右人心折合い候まで、暫時大阪表へ罷り越し申し候。
右はまったく末々の者を鎮撫致し、禁闕の下、御安心の御場合に仕りたきまでの儀に御座候間、微衷の程、御諒察成し下されたく候。尤も、伺済みの上出立仕るべき儀に候えども、かれこれ手間取り候内に、万々一の軽挙の過誤より国家の大事を牽き出し候ては、かえって恐れ入り奉り候につき、すぐさま出発仕り候儀に御座候。よって、この段申し上げおき候。以上。


 尾張、越前両侯もまた、左の書を上(たてまつ)った。

この度、内府、政権を帰し奉り候につき、旗下軽輩の者にいたり、心得違いこれあり、自然、輦轂(れんこく)の下紛擾に相成り候ては、御幼帝にもあらせられ候折から、別に恐れ入り候間、人心の折合い候まで、暫時下坂、精々鎮撫行き届き候上にて、速やかに上京、御沙汰を待ち奉り候方然るべきやと存じ奉り候。会、桑二藩の儀も、一同召し連れ、一と先ず下坂、海路にて発途仕らせ候筈に御座候。
右は、伺済みの上、登程仕るべき筈に候えども、かれこれ機会を失い、万一不慮の儀出来候ては、皇国の大害につき、止むをえず即刻発途仕らせ候。内府に於ても、伺済みの上取り計らい候心得に候ところ、両人にて機会を熟慮し、相勤め申し候。右の儀は、まったく臣ら両人の取り計らいに候間、御譴責も御座候わば、謹んで甘んじ請け候心得に候事。






 京師を去る     越えて数日、わが藩は、京師留守居内藤信節、諏訪頼徳らが旧守護職邸を土佐藩に引き渡して下坂した。ここに至り、徳川の旗下と会津、桑名の藩士は、ことごとく京師を去った。





 【注】

【一 参予】 参与が正しい。総裁は有栖川宮熾仁親王、議定には純仁親王・晃親王・中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之・徳川慶勝・松平慶永・浅野茂勲・山内豊信・島津茂久、参与には大原重徳・万里小路博房・長谷川信篤・岩倉具視・橋本実梁が任ぜられ、ついで尾州・越前・芸州・土州・薩州の五藩士の中から後藤象二郎・西郷吉之助・大久保一蔵ら十五名が参与に任命された。これにたいし二条斉敬・朝彦親王・九条道孝・大炊御門家信・近衛忠煕・鷹司輔煕・近衛忠房・徳大寺公純・一条実良・広幡忠礼・柳原光愛・葉室長順・日野資宗・飛鳥井雅典らは罷免、参朝を停められた。

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  1. 2012/11/19(月) 17:53:16|
  2. 京都守護職始末2
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三十  毛利敬親父子の赦免     『京都守護職始末2』

 全公卿等を召集     これよりさき、朝廷召すところの諸侯らがようやく上京してきたので、十二月八日、朝廷では公卿、諸侯をことごとく召して、左の勅を下された。たまたまわが公は病んでいたので、家老上田学大輔に代わって参内せしめた。

このたび大樹、政権を奉還し、朝廷一新の折から、いよいよもって天下の人心折合い相付かざるにおいては、追々復古の典も行われがたく、深く宸襟を悩ませられ候。且つ来春は御元服並びに立太后追々御大札を行なわせられ、且つまた先帝御一周〔忌〕に相成り候につき、なおさら人心一和を専要に思し食(め)され候間、年来長防の事件、かれこれ混雑これあり候えども、寛大の御処置あらせられ、大膳父子、末家等入洛を免ぜられ、官位元の如くに復せられ候旨仰せ出だされ候事。





 わが公らを擯斥     この日、宮、堂上および薩摩、土佐、尾張、越前、安芸等の諸藩主およびその藩士らは、小御所に会合して、徳川内府の官位降等、采地削減等を議して、徹宵したという。しかも、わが公と松平定敬朝臣らを擯斥して、その議に列席させず、前日の勅旨にもとることも顧みないのは、まことに奇怪に堪えない次第【注一】である。





 【注】

【一 奇怪に堪えない次第】 慶応三年十二月八日夕刻から開かれた長州処分問題の朝議は、翌九日払暁おわり、辰の刻(午前八時)すぎ、摂政・議奏・武家伝奏・国事御用掛はいずれも退朝した。時に中山忠能・正親町三条実愛・長谷信篤、徳川慶勝・松平慶永・浅野茂勲は宮中に留まり、蟄居を免ぜられた岩倉具視を迎え入れた。ついで大久保も参朝、西郷は兵を率いて宮中の諸門を警備、かねてうちあわせていた熾仁親王・純仁親王・晃親王・大原重徳らの公卿、また山内豊信・島津久光が入朝、ここで摂政・関白・征夷大将軍を廃する王政復古の御沙汰が出た。これは大久保・岩倉らが中山を説得し、文久三年八月十八日政変の故知を踏襲し、摂政・議奏・武家伝奏・国事御用掛の参朝を停止し、薩州藩および二、三の雄藩の手で九門を固め、徳川氏を排除した倒幕派中心の新政府を樹立するクーデター計画を立て、これにもとづいての行動であった。

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  1. 2012/11/19(月) 17:51:58|
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