いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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解題

解題

 丸山国雄



 明治維新史上会津藩の立場はまことに興味深々たるものがある。見方によれば、幕末史における左幕雄藩の中にて異質の存在とも言い得る。特に京都守護職在任中公武一和の精神に徹し、孝明天皇の篤き信任を賜い、一方頑迷な江戸在任の老中に抗してひたすら皇居の守衛と治安の確保に努力した。
 会津藩に関する幕末維新の通史は他藩にくらべて寥々たるものがあるが、纒ったものでは山川浩著京都守護職始末、北条雅長著七年史及び本書を挙げることができる。だがこれらの書も他藩の書に比して数段劣るものがある。それは征討軍の包囲下に城下が焼失したことと、明治以来久しく賊軍の汚名を受けたため同藩関係者の史料が散逸してしまったからである。最近維新史の研究が進み、勤王諸藩の言動についてもその真相が解明せられるに及んで、佐幕諸藩の研究も活発に行われるようになり、当時の世界情勢、欧米列国の帝国主義的植民主義的野望遂行の一環としての日本の立場、国内における政情の複雑性や雄藩の野望がひき起こした国内闘争の真因が鮮やかに描き出されるようになった。
 本書は七年史の次を補うべく書かれたもので、主として藩主容保の京都守護職就任以後について詳述されている。特に大政奉還後新政府の幕府に対する処置についての不平から起こった鳥羽・伏見の戦争以後に重点を置いている。
 既に藩主松平容保は終始一貫して朝廷に恭順の意を表していたが、旧幕府を徹底的に膺懲しようとの計画を立てていた薩州藩は討幕挙兵の口実をつくるべく、江戸を中心として暴動を起こし、遂に開戦するに至った。事の経過は「七年史」に記述されているが、なお詳かでない点があり、本書を発行してその次を補ったのである。原書は十一卷からなっているが、本書はこれを上・下二卷に収録し、上卷には大政奉還から奥羽鎮撫総督府の設置、荘内藩の降伏までを収め、下卷では主として長岡の戦闘から会津城の攻略までを記し、会津藩降伏後の善後処置について述べている。なお第十一卷は松平家譜及び会津へ入る口々、征討軍の暴掠の状を記し、東北・越後諸藩の抵抗の状を補っている。




 本書の記事はほぼ編年体を用いているが、これを項目別に分け、類従体も併用している。七年史と重復しているところがあるが、奥羽鎮撫総督下参謀世良修蔵(長州藩士)の行状について詳記し、暗殺された原因を明かにしている。また白虎隊の屍体埋葬についても問題があり、征討軍一部の者の中には釈然としない者があったが、滝沢村肝煎吉田伊惣次が飯盛山にその屍体が散乱し、風雨に晒されて山鴉野犬の餌となる惨状を目撃し、村民と謀って棺をつくり、屍体を収容納棺して妙国寺及び飯盛山に埋葬したところ、東軍征の兵に発見されて檻倉に繋がれて訊問されたという。また一般戦死者の埋葬についても町民の拠金によって行われ、阿弥陀寺及び長命寺に分葬し、墓標に殉難之墓と題して建てたところ、参謀よりその撤去破壊を命ぜられた。
 特筆すべきは二十余名からなる女隊が従軍を志願したことである。軍将はこれを許さなかったが、切に乞い藩軍の後に従って出陣した。何れも剃髪し、袴を穿ち、薙刀を提げて参戦した。二十才を過ぎたばかりの若き女性が中心であった。戦後一般藩士は旧南部領の一部であった斗南に移封されたが、同地は不毛地帯で全部を移住せしめることは不可能であったので、一部は会津に留まり、或は農商に帰するもの、或は北海道に移住する者、或は東京その他の地に移り、全国に散逸した。その苦難は辛酸を絶するものがあり、筆者も生存者から直接話を聴いたものである。
 会津城を攻略するには、盆地のこととて多数の人口がある。その口々が記録されていることは研究者にとって非常に便利である。また教育方針については「会津藩教育考」が本叢書に含まれているので省略する。
 本書には落穗集ともいうべき挿話が多数収められているので、会津藩の研究には是非一読の必要があるであろう。また最後まで執擁に抵抗した同藩の意向が如何なるものであったか、その目的、士気昂揚の原因を見る上に役立つものが多い。










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  1. 2013/04/24(水) 10:12:07|
  2. 会津戊辰戦争史2
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会津戊辰戦史 増補

会津戊辰戦史 増補

本書第一四ページ慶応三年十月二十一日記事の末に左の一節を入る。
 『この日聖上には大納言中山忠能卿、同三条実愛卿、中納言中御門経之卿を御前に召され勅していわく、徳川慶喜既に政権を奉還せるを以て姑く其の実行を見んと欲す、因て去る十四日薩長二藩に命ずる所の事件は宜しく之を中止すべしと、これにおいて中山卿は薩藩吉井幸輔を其の廷に召し左の御沙汰書を伝ふ。

去十四日申進候条々其後彼家祖已来行来候国政を返上し深以侮悟恐懼之趣申立候に付十四日之条々暫見合実行否可勘行諒闇中且生民之患に関係するに依り深遠の思召を以て再被仰出候事
 十月二十一日
忠能
実愛


 且つ之に命じていわく、藩主父子の中一人上京せば之を伝へ長藩には其の藩より之を伝諭すべしと、けだし之を二藩の本国に送致せしめざりしは其の人心に疑惑を抱かしむるの虜あるを以ての故なりと云う、これにおいて形勢一変し、十四日の討幕密詔による諸計画は之を決行するに及ばず、終に平穏に王政復古の盛挙を見るに至れり〔岩倉公實記、島津久光公實記〕(この記事の本書に洩れたるを発見したるは監修者山川男爵薨去の後に在り、よって玆に増補す。編纂委員招莊田三平)。









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  1. 2013/04/24(水) 10:05:54|
  2. 会津戊辰戦争史2
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敵軍の暴掠

敵軍の暴掠

 戊辰九月の始め米澤藩先づ西軍に降り尋いで使者を我が藩に遣わし降を勤めて云う、我らが賊軍として戦いし者は実は王師なり、現に越後口総督嘉彰親王、錦旗を進めて塔寺村にあり、王師に抗すべからずと、我が公曰く、予初め各藩に依り哀訴歎願数回に及ぶも省せられず、猥りに兵を進めて封内を劫掠す、これ眞に王師の為さゞる所にして姦邪の為す所なり、予豈に王師に抗せんやと、これにおいて降を乞うに至りしものなるが、西軍の残暴掠奪は実に意想の外に出で、その一端は本史に散記せしが、なお当時その所業を目声耳聞して筆記せし辰の幻、戊辰見聞漫筆〔柴五郎著〕、耳目集〔商人齋藤和節著〕より左に之を摘録すべし。

一、王師などゝ称へし敵は野蛮の甚だしき行のみ多かりしは言語の外なり、商工農家を問はず家財の分捕は公然大標札を建て薩州分捕、長州分捕いわく、何藩分捕と記し、しかして男女老幼を殺戮し強姦をば公然の事とし陣所下宿には市井人の妻娘を捕え来りて侍妾とし分捕りたる衣食酒肴に豪侈を極めたることは当時市人の目撃したる所なり。

一、若松愛宕町の呉服および質店森田七郎右衛門の土蔵は薩州隊と肥前隊とにて分捕を争い薩州隊は自隊の不利を憤り焼弾を投じて土蔵を破壊し彼我何等得る所なかりき、其の後森田は此の焼跡の灰を掻きて金魂を得たりとのことなり〔以上戊の幻〕。

一、若松大町より以東の町々は早くより西軍の営となりし故薩長を始め諸藩の隊は家財または焼残の土壌に分捕の標札を掲げたり、避難より立返りし市人は相当の代値を拂って西軍より家財を買い戻すことを得たれども遅く帰りし者共は既に無一物となりて何品をも買い戻すことを得ざりき〔戊辰見聞漫筆〕。

一、戊辰八月二十六日(前略)土蔵を持合わせて此の日までも落さゞる族は人馬にて諸品を持運びつれども吾らがごとく土蔵は持たずたまたま人の土蔵にたのみ置て其の土蔵焼けをちたりし人は誠に手持無沙汰にて歎くに堪えたり、斯くする中分捕と名づけて残りゐし土蔵を破り、又は程遠く持出置きたる品々を盗みとりぬ、誠に衣食住に離れて艱難至極して途方にくれける人を其の上に掠むるはうたてきとも歎かはしとも沙汰の限りというものになり。

一、九月十八日(前略)昨日の戦争には死人多くありて中々通行するも気味わるしと逃げ来る人の申すなり、この時よりは南町口の通行出来ず御城内の往来四方塞がりけるとなん此故か諸所の分捕誠にして山中まで捜し奪う由の噺聞ゆれば、この村(澤村)も途中まで来りしと猶々さはがしかりなり。

一、十月廿四日廿五日、この両日の記事の概略は『他人の土蔵に入れ置きし家業の大釜二組および小釜数箇は土蔵焼落の後その付近に仕舞置きたりしが廿四日往きて見れば其の大釜小釜に薩州二番隊分捕の張札あり、大に驚き古川御殿前の番兵所に出頭し下渡を請いたるに償い金六両差出すべしと云う、待ち合わせなければ明日まで猶予を請い廿五日金子を才覚して再び訪ひ官軍に掛合たるに此の釜一切は某村肝煎山口某が買受の約成れりと云うを聞き、たまたま来合せたる山口某の承諾を得てようやく買い戻せり、今一足遅くんば他人の所有となるべきに、今日亡父の命日なれば其の守護によりなるべしと喜びたり』とあり。

一、十月十五日頃(概記)各村に一揆起こり農兵は手に手に鋤鍬鎌類を携え予て非道の聞えある村長の家を打壊し、あるいは放火し、その家の諸帳薄手形証書類を取り出して之を焼却し、または金銭を取り出して貧民に投げ輿へたり平素村民を厚遇し人望ありし村長は其の災厄を免れたるも驕慢無慈悲にして彼の官軍の例に傚ひ分捕等をなしたる村長は最も手痛き目に逢い一家丸焼になりし者もあり、先に我が大釜の分捕に逢いしとき之を買い求めとして金子を所持せし山口某の如きも兵火の際焼け残りし一箇の土蔵を毀たれ中に積み置きし物品を取り出して焼棄せられたり。

一、この頃官軍の人としばし道連になりしに此の人の咄せしを聞かぢりしに、扨々会津の家中は内福なものぢや、分捕に分捕を重ねれども珍器財宝よもつきじぢや、大きな家に入て見れば大小の腰の物二十腰三十腰持たぬ家はなく、中には五十も百もあるのぢや、みなみな其こしらへの善事金銀を惜しまずに鏤めたりいと見事の細工物も御座った、また懸物書物類は山に積んでぢや、夫に準じて衣類諸道具も沢山にて中々大ていぢやなかつた町方とても少し大きな家に入て見れば同じ事ぢや、又吾々が仲間の咄にも去年外のさふらひ屋敷は家こそ小さけれど家中にも劣らぬ物持があつたとさ、分捕してのあとを焼拂ふには実にをしかつたといいました、中には大金を井の中や泉水へ投げこみ置し家もありました、誠に以てをしき事をしたやうぢやが君命なれば是非がないのぢや、云々と話を聞き何とも答えのしやうがなければ只左様左様と計りにて別れにけり〔以上耳目集〕。






卷十一 附録





会津戊辰戦史 

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  1. 2013/04/24(水) 09:54:52|
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幕府陸軍高等武官の一部

幕府陸軍高等武官の一部

陸軍奉行 諸大夫 五千石高

同並 同 三千石

歩騎砲兵奉行 同 三千石

同並 同 高不詳

歩騎砲撒兵頭 同 二千石高(慶応三年の武鑑に砲兵組之頭布衣千石高とあり)

同並 布衣 千石高

諸兵指図役頭取 目見以上(富士見寶蔵番組頭之上席) 四百俵高

同指図役 同 不詳

同指図役並 同 不詳


 右の諸役の或るものに勤方と云うものあり、これは部屋住の者の任命せられしものなるべし。

 幕府の官制と今の官制とを比較するは困難なれど大体次のごとくなるべし、陸軍奉行同並は今の陸軍中少将に該当するものゝ如し、諸兵奉行同並は大佐に相当し、諸兵頭同並、諸兵指図役頭取、指図役同並はそれぞれ中佐少佐大尉中尉少尉に相当するものゝ如し、右の外諸兵頭並と諸兵指図役頭取との間に、諸兵指図役頭取改役あり、頭取より少し格の上なる官なり其の待遇詳ならず。
 諸大夫は五位に叙せられ任官せられて何官何頭等と称す、但し其の職務なきは勿論なり、布衣とは幕府役人の一階級にて六位に相当すれども叙位なし、また六位に相当する官名を称することなし、目見以上の者は将軍に謁見し得る者を云う、高とは役相当の知行高を云う、仮令ば陸軍奉行に任ぜられたる人の家禄五千石以上ならば別に給輿なし、もし五千石未満ならば不足分を蔵米を以て補足するものとす、これを足高と云う、歩騎砲工兵は召募兵にて概ね農工商出身なり、無頼の徒も少なからざりきと云う、奥詰縦隊は番方の人、即ち大番、書院番、小性組、新番、小十人等の士を以て編制せるものなり、しかして武鑑には奥詰銃隊頭五千石高とあれば無論諸大夫なりしならん、また同並三千石高とあり、撒兵隊は幕府の家人を以て編制せり、奥詰銃隊、撒兵隊は慶喜公将軍に就職後の改革にて出来たるものにて之に関する法令は不備なるが如し〔山内長人男書面、編者記憶〕。






卷十一 附録

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  1. 2013/04/24(水) 09:34:06|
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天神口の進撃

天神口の進撃

 鶴ヶ城内城の諸口中、三の丸の南門最も手薄なり、しかして外郭の天神口は南門より僅かに一丁に過ぎず、如し天神口にして破れんか三の丸甚だ危うし、北出丸、西北丸諸口の容易く破るべからざるにより、三の丸南門の手薄なるを知れるか知らざりしか、大町通りを南進せし敵の部隊は、南町口を出で天神口外郭門に迫れり。

{この時敵の進路につき石黒則賢は本文のごとく主張し、藤澤正啓は城の東西を回りて進みしと主張す『若松記』また元北原釆女の臣荒川類右衛門勝茂の『明治日誌』によれば、進撃隊は敵兵を追いて西に向って進みしなり、これより察すれば敵は四方に退却せること明白なり、普通の場合進路より退却するものなれば石黒の説に従う。}

 この時城内には編制せる軍隊なしと云うもべきなり、ゆえに急遽居合せたる人を以て一隊を編成し、小室金五左衛門を隊長とし、入江庄兵衛、武井柯亭、和田伝蔵を組頭とす。

{石黒則賢の話によれば別に隊長を命ぜられしを聞かずと、併し諸人の説を総合するに本文の如くなるべし『戊辰殉難名簿』に和田伝蔵附、また入江組などあれば、入江、武井、和田の三人が組頭を命ぜられしものゝ如し、当時非常なる混雑の際にて隊長、組頭の任命が隊士に普く知れ渡らざりしなるべし。
『明治日誌』によれば山浦鐡四郎もまた将長の一人なりしが如し。
武井柯亭が書きたるものゝなかに、
『石筵戦不利、亀城亦随而陥矣、敵直進迫鶴城、而南門最急、公至此使勒城中精兵拒焉、其兵僅々不満百、小室某将之、余輿入江某佐之、隙黒川而戦、我衆奮闘乱流、中流斃者十数人、河水為之亦、実明治元年戊辰八月二十有三日也。 柯亭琹士泰。
厳令新下募貔貅、正是人臣致命秋、東照宮前連砲碽、管公遺恨誓将報、数世鴻恩奈叵酬、雷鳴天若墨、淄川忽作赤川流。
とあれば武井と入江とが組頭たりしは疑を入れず、今『名簿』に従い和田伝蔵をも組頭に加ふ。
外郭天神口の南に東照宮あり、湯川は元黒川と云う、淄川は即ち黒川にて湯川を云う。
『若松記』に『小室礒上入江等を頭括の任に命ぜられ』とあり、また進撃者名簿の内に礒上内蔵丞の名あり、また八月二十四日に新に編成せられたる小室進撃隊の組頭に礒上内蔵之丞が命ぜられ、武井柯亭は反て其の下にて甲長に命ぜられたり、これより見れば二十三日進撃の時組頭にはあらざるか、併し少数の隊に組頭の四人ありしは疑うべし、これも混雑の際なれば斯ることも有り得べきなり。

この進撃に『若松記』に左の記事あり。
 しかるに斯迫るにおいては進撃に不若と城中に有合輩二十歳より三十五歳に至るまで文武の官に限らず大広間前(御広間の誤なり)に着到すべきの令再三あり、令を聞て馳せ集まる者年齢に不限義心決心の輩八九十人その大概

頭 小室金五左衛門 
組頭 武井柯亭
礒上内蔵之丞
入江庄兵衛
山口栄吉
八島清三郎
外田数馬
野村権之進
村松八太郎
渡部多門
高田正作
渡部彦太
沼田吉彌
荒川類右衛門
小林薫之進
山田熊之助
栗原市次郎
榊原市次郎
赤井伴助
兼子善助
齋藤市太郎
牧野留五郎
齋藤長助
齋藤岩治
高橋勇三郎
小山萬五郎
和田伝蔵
鈴木延次郎
山田伴助
齋藤右近
津吉啓治
仁科勇八
赤塚喜三郎
柳下恒吉
太田喜市
川井留五郎
安藤監治
春日郡吾
梶原悌蔵
島田治兵衛
平向俊吾
津村粂之助
角田覚四郎
赤塚彦三郎
三瓶忠蔵
石黒恒松
軍目付 井深右近
高津安之助
板橋友蔵(『名簿』に別選組佐川隊、某所傷若松病院、また『若松記』に『手負後死す』とあり、また『名簿』に板橋丑鐡、進撃小室隊八月二十三日天神下とあり、思うに友蔵は丑鐡の誤りならんか)
大和田亀三郎(亀太郎なるべし後のに掲ぐる天神口戦死者氏名表を見るべ)
野村源次郎
山浦鐡四郎
軍目付 千葉盛之進
川上小膳


{編者云う右は第一回の進撃に加わりたる人のみにあらず、第二回の進撃に加わりたる人をも含む、また右の表より洩れたる人もあるべし。}

 進撃の君命を蒙り辱くも昵近(昵近の士が酒の酌をなしたるを云うなるべし)を以て酒を給り西郷頼母取合(君公の命を伝ふるを云う)にて紐制の輩は士中に、襟制の者は三の寄合(会津藩諸職班位表を見よ)に座席を進められ小室、礒上、入江等を頭括の任に命ぜられ上下義心決心凝定三の丸南に集まりたり此頃長州一中隊(これ土州の兵なるが如し、なお調ぶべし)計り南町大橋の辺より湯川に沿て登り来り天神口に迫りて頻に発砲(砲の誤りなり後にも同じ誤りあり)する故門の守兵其他有合丸山喜内、中野輿五郎、目黒源兵衛等進撃せんとする処に浅羽忠之助等も来り小室以下を始めとして一同閧を作り門を開けて必死の鋒を連て突衝しければ敵も頻に発砲せしかど我兵怖るゝ色なく死傷を蹈越し々々短兵急に接ければ其鋒先当りがたくや思いけん忽ち敗走して湯川を渉り淨松寺の石塔を楯とし打放せし故我兵忽河辺に進者二十有余人戦死一先づ郭内(外廓内即天神口門内を云う)に兵を揚げて石垣堤杉等を楯とし暫く炮発敵を退けたり其隙に敵の足溜りを除んと延壽寺(天神口内東照宮の別当なり)、御宮(東照宮なり)に火を放つ佐々木盛之助、渡部多門等、梶原平馬(藩の家老なり)の令を伝へて豊岡社(藩祖以下を祀る社にて東照宮の東に在り)へ火を放つ夫より天神郭(口とすべきか)を守りたり〔若松記〕。

{小室金五左衛門の孫小室英夫が、金五左衛門の従者穴澤友吉に聞きたる天神口進撃の記事会津会々報第十七号に在り、その内に、
『八月二十三日午後一時過ぎ祖父は之等の兵(前に四十五名を集め得たる記事あり)を率い六月十二日(白河方面に戦ありし日を云う)頬の傷口のために繃帯を為せるまゝ指揮刀の代わりに三尺許なる葉のつける松の枝を持ち先頭に立ちて城を出で周囲の敵を迫(追の誤なるべし)い拂ひ大町通り鈴木作右衛門の家敷迄焼き拂ひて城に引上げたり生存者十五名これ第一回進撃なり、帰来直ちに黒鐡御門にてその結果を容保公に言上せしに御嘉賞ありて祖父は若年寄上席に進められし由(祖父が友吉に向いて「金五左衛門に付き南御門天神橋に進撃致しました」と申し上げよと云いし故に友吉は西郷頼母に之を告げしに「一の寄合を申し付く」と申し渡されしと云う云々』会津会会報}


 また鉄砲の精兵をすぐり礒上倉(内蔵の誤)之丞指揮し渡部多門、山口栄吉等二十余人南郭門(天神口の西にあり)に出て打んとするに学校(日新館なり)の潜敵勵しく発砲ゆえに暫く米庫(内城西北出丸の南廓内にあり俗に十八蔵と云う)の北堀端の小堤を胸壁として打合といえども功も見えざれば先づ讃岐口(西北丸の南門)より入城君前に出て形情を伸す。

{前に掲げたる穴澤友吉の説によれば、進撃隊は敵の北ぐるを追い郭外において西下し、南町口即ち南郭門を入り鈴木作右衛門邸付近まで進み、夫より帰城したるものゝ如くなれば、磯上が指揮して戦いたるは此の時のことを云うべし。}

 春日郡吾浅羽忠之助等進で天神橋を渡りしが敵中に入りて城中に返し入る不能彼是六人南面川に至る〔若松記〕。

 扨此小室等進撃に及ばんとして競い進む時西郷勇左衛門(近潔、この時若年寄なり、三ノ丸南門付近に居りしならん)兵を分ちて豊岡の方にも赴くべき旨下令すといえども燃光の気充満各先進を争い耳に入るゝ者なく中に鹿目幸之助、小山萬五郎、齋藤幸助等六七人豊岡守衛に向はしむ輙命を受けて直に豊岡に至りしが止守詮なしと柵を躍り出川端(堀端の誤か)に赴き鹿目以下三人の者共四五発づゝ発砲、敵は川向より烈しく打放難敵三人取て返し西郷勇左衛門に兵二三十人の援を請う、勇左衛門云向はしむべき兵無樓(本丸と二ノ丸との間の堀に架したる橋の名)、陣将(家老梶原平馬なるべし)に赴いて乞うべしと、ゆえに鹿目、齋藤走りて廊下橋に至り乞といえども同く寡兵なり、鐡門に至て乞うべしと不得止又鐡門に趣西郷頼母に委細を達すれば至極然りといえども爰もまた差向べき兵隊もなし、汝ら馳廻て兵を集むべしと云此節君前にて両人進撃嚮導に被命奥番(君側の役、小性の故参者命ぜらるゝ例なり)中田常太郎も周旋して兵を集め稍集るといえども頭なき故漸々散す故に鹿目、齋藤等頭括する仁を乞即刻山浦鐡四郎(手負いにて傷病兵を収容したる大書院に有しか蒙命強て出つ)公に謁し、兵衆も共に公に拝謁し流杯(貴人より賜る杯酒をオナガレと云う)を賜り感戴し血戦を盟て廊下橋に兵を揃ひ直に豊岡に向ふ兵数十人余(若松記、山浦を長としたる一隊は元豊岡守衛の為、編成せられしものなれども其の一部のみが豊岡を守衛することゝなり残余は第二回の進撃に加わることゝなりしならん)此比小室隊を始天神口より突衝する者共すこぶる苦戦ついに敵を追退くといえども我兵の死傷甚だ多ければ一先づ兵を掲げ重て進撃すべしと梶原平馬馬を馳せて赴き令す、故に兵衆一同城中に掲げ君公直に兵衆召労り且つ再び同所進撃の命を受〔若松記〕。

{小室隊の一部は讃岐口より入城せるも、一部は天神口に止まりたるにより梶原の命にて入城せしが如し、隊長小室は何れのところにありしか詳ならず}

 延壽寺前に勢ぞろいし一同閧を作り突て出でければ敵散乱し小室隊は文明寺前(この時野村源次郎疾進して文明寺に火を放ち焔燃)山浦隊は竪町と両道に分つて追撃せんと欲する処、文明寺前火上て小室隊進む不能川を渡て湯川に沿て下り追遂(この字不明)するに敵退きて更に不見漆原にて両隊併合花畑口より入り云々〔若松記〕。

 進撃隊の一員たりし荒川茂の『明治日誌』に進撃の概状を記述すること次の如し。
『敵追々に城に迫り弾丸雨の如し城中よりも有合の銃砲を以て防戦の道を尽くさんと塀に臨めば敵の弾丸塀を貫き傷く者多分これあり櫓より楯を出して砲を防ぐ、然るに天神口大切迫に相成り敵討入らんとするを以て騒ぎ立ちたり早く進撃致すべき命令頻りなり、その時奥番田中常太郎を以て釆女臣も進撃に差出たせと御意之あり。

{この時より籠城中君公は鐡門即ち黒金門に居住せられ、釆女は君側にあり、勝茂もその付近に在りしなるべし。}

 よりて荒川類右衛門、富田三郎、櫻田勇(何れも釆女の家来なり)三人釆女君一同御前に出れば常太郎御披露にて御二方様(老公父子を云う)へ御目付被仰付三人御直臣に被召出類右衛門儀士中一の寄合三郎勇二の寄合席に西郷殿より仰渡され、

{荒川勝茂は北原の世臣にて陪臣なれども家禄百三十石を領し、獨禮目見し茶紐を許され居りし者なるが、激励の意にて異数の陞進を許し士分となし黒紐を許され、富田三郎、櫻田勇は浅黄紐の者なりしが、これまた士分となし花色紐を許されたるなり、石黒則賢の話に此の時士分は物頭席に、士分以下は士分に取立てられたりと云う。}

 恐れ多くも宰相公より御流の御戴頂戴被仰付御酌は御小性御坊主、

{武家の城中等にて今の給士の如き役を勤むる者の内若きは有髪なり、これを会津にては毛坊主と呼び、年長者は剃髪せり、総称して同朋または御坊主と云う。}

 を以て御肴鯡を賜り存分に進撃致すべき旨御直の御意を蒙り誠に以て身に余り感涙膽に銘じ御前を退き山浦鐡四郎を主とし総勢三十八人程その内鉄砲二十人程余は鎗組なり、樓下橋にて勢ぞろいなしたり其の時に一首を詠ず。

進撃にいつるとて白麻はちまき
にかいつくる

かはねをは野山によしやさらすとも
おくれはとらし武士の道

  荒川類右衛門勝茂(行年三十七歳)


 斯くて刻限は八ッ半頃一同閧を作て天神口より討て出で元より討死と一同固く誓約なせし事なれば跡へは一足も引かじと無二無三に突入討るゝ屍を乗り越乗り越喚き叫んで進みけるに敵も其の勢ひに怖れ敗走す、得たりと追撃す、惜しむべし憐れむべし湯川川原にて忽ち二十人余討死す、敵の足溜りなる延壽寺へ火を放ち、

{荒川勝茂は進撃を一回とすれども『若松記』並びに穴澤友吉の談によれば其の二回なること疑なし、記憶の間違いならんが不審なることなり、また二回目の進撃の三時此なりしは『日誌』と穴澤談符合す、その時の死者は野村源次郎一人なりしは『若松記』と『日誌』と符合す、穴澤は富田三郎を負傷者とし、他に死傷者なしとすれども野村の死は争うべきならず、穴澤談『若松記』は富田三郎のみを負傷者とすれども『日誌』は外に井深右近を負傷者とす。}

 小室組は文明(寺の字を脱す)前山浦組は堅町を下り林昌寺へ入り湯川を徒渉して小室組と合兵となり(徒渉のこと、合兵のこと、『若松記』と小相違あり)諏訪通りより(花畑口より入りしこと『若松記』にあり)郭内へ入り一ノ丁へ出て堀半兵衛(半右衛門の誤なり)邸の裏門打ち破り鎗組閧を作りて一同打入りたり鉄砲組は大町通りへ向う鎗組長屋に入れは焼火ありて敵は逃げ失せたりか、ますます進んで北原邸へ入れば、これも廚の圍爐裏へ火を焼き兵粮等を炊きし有様にて敵は皆逃失けり、一同閧三声を揚げ門を出て北方を臨めば敵は街道を理(埋の誤か)みて押寄せたり、東西二方より砲声聞へ亦一ノ丁より発砲し味方の後を断んとす、来る弾丸は雨の如し、山浦大音掲げ敵に後を断れば味方皆殺しとなる疾く引き揚げよと、ありけれは一同引て御用屋敷裏門を破て御庭へ飛入る其の暇に野村源次郎打貫かれ介錯々々と叫へと早や敵は雲霞の如く群がり来る介錯の暇もなく御殿へ入れば御座の御品々は取り乱れ実に哀れなる有様なり、一同免れぬ処なり御殿に火を放ち自刃せんと火を放ち(この四字重復せり)一同覚悟を極めたりしに、山浦声を懸け無益なり如何にしても此場を免れ城中へ入り再挙を謀るべしと頻りなり、皆これに応じ散り散りとなり裏門より遁れ出しは飛丸雨霰の如し米代一ノ丁の川を匍匐し割場の塀へ依り沿へて身を以て免れ西出丸御門より引き揚げたり時に手負いは井深右近、富田三郎股を打抜る白刃を杖とし御門に仆る穴澤最助肩を打抜る戸扉に載せ小書院病院へ送る野村源次郎は大町通り御用屋敷角にて咽を突て死す愍むに堪たり直ちに君の御目見被仰付進撃の景状具に上聞に達す、その人々には長坂源吾、荒川類衛門、三留又右衛門その他は不明なり、皆感涙に咽ふ扨進撃の者一同相纏ひ居り候様被仰付此夜は御広間において夜を明したり。

{但し右言上の諸士(荒川三留なるべし、長坂は士分なれば供番より上席の進級ありたるなるべし)西郷頼母御取合にて於御前に御供番に成し下され候事』}

 右『若松記』並びに荒川勝茂の『日誌』にて進撃の状況を知るべし、如し此の進撃により敵を撃退するにあらざりせば、三の丸は敵に占領せらるゝに至りしなるべし、これが為に落城するに至らずとするも三の丸に在りし老女婦女子の被るべき損害は多大なるべきに、決心せる諸士の奮闘により此の損害を末然に防ぎ得しは幸なりき、且つ此の手いたき防戦により単なる突撃の奏功なきを知りたるか、西軍はこれより後持久して砲撃戦を以て城を陥るゝの策を取り突撃することなかりき。
 斯くて翌二十四日天神口進撃の人々に他の人々を加え、新に進撃隊と称する一隊編制せられ、小室当節隊長を、礒上内蔵之丞副長を武井完平、安藤監治、三澤輿八、梶原悌蔵を甲長に命ぜられ、槍組三組、砲組三組、人員およそ八十七人とす。

 天神口進撃の戦死者

入江庄兵衛 組頭表用人席 百三十石 五十三歳

和田伝蔵 組頭 二百五十石 四十歳

小松忠之進(忠兵衛倅) 玄武 百石(忠兵衛禄か) 五十三歳

津吉啓治(啓太倅) 物頭席 百石(啓太禄か) 二十四歳

大戸新八郎  十石三人扶持 五十二歳

鈴木廷次郎 目付席 十石二人扶持 三十歳

矢島清三郎 目付席 七石二人扶持 二十三歳

山田伴助 目付席 十石二人扶持 二十八歳

仁科勇八 目付席 六石二人扶持 四十歳

平向俊吾 目付席 十一石二人扶持 三十九歳

齋藤右近(飯田左門弟) 十五石三人扶持 二十八歳

外田数馬 目付席 十石五斗二人扶持 二十三歳

赤塚彦三郎(丈右衛門倅) 目付席 七石二人扶持 三十九歳

柳下恒吉 目付席 十一石二人扶持 三十歳

太田喜一 目付席 四石二人扶持 四十一歳

川井留五郎 獨禮 五石五斗二人扶持 五十六歳

山口栄吉(『若松記』による『明治日誌』には栄助とあり)

三瓶忠蔵(『名簿』には忠助とあり『若松記』による) 目付席 七人石二人扶持 二十九歳

津村粂之助(源之丞倅) 目付席 八石二人扶持 三十四歳

角田覚四郎 物頭席 四石二人扶持 二十四歳

大和田亀太郎(亀吉父) 獨禮 六石二人扶持 二十六歳(『日誌』『名簿』共に亀太郎とし『若松記』は亀三郎とす『若松記』天神口戦の負傷中大和田亀太郎あり之に従う又『名簿』に天神口戦死とあり重傷し後死亡せるか)

板橋丑鐡(『名簿』にあれども格式禄年齢の記載なし)

野村源次郎(彦五郎倅) 物頭席

小池五郎三郎 (傳吉弟『名簿』に外に傳吉弟伝) 山川大蔵家来 

相澤勇吉 獨禮 七石二斗二人扶持 二十八歳

天野由之助(由次郎弟) 二十一歳

佐藤悌蔵(覚兵衛倅) 七石二人扶持(父の禄か) 三十八歳

佐藤治左衛門(宇南山良蔵父)高橋外記家来 七十二歳

池澤定治(新吉父) 和田伝蔵付 六石二人扶持(倅の禄か) 四十三歳

小沼富蔵(良助弟『名簿』に八月廿四日天神口とあれども廿三日の誤と認む) 入江組 二十一歳

丹羽富蔵 堤堰方勤務 二十一歳

山内兵馬(駒之助倅、山田とせるものあり誤なり) 徒格 十六歳

坂井藤吾(清八父) 七十歳

丹生谷奥(負傷十月三日御山にて没) 徒 十一石二人扶持 三十二歳

 計 三十四名


 右の外『名簿』に『進撃小室隊八年二十四日丈之助兄佐瀬良之助五十』とあり、二十四日に新に編制せられたる進撃小室隊の『日誌』に記載せられたる名簿に佐瀬良之助の氏名なければ『名簿』の進撃小室隊とあるは二十三日の進撃のことにて、二十四日は二十三日の誤なるが如し、また『名簿』に草風隊指図役八月廿九日天神傷城中熊谷八三二とあり、八月廿九日に天神橋に戦争なし、廿九日は二十三日の誤なるべし、会津史にも此の進撃戦死者名簿に熊谷又八の名あり。

 
 天神口進撃の負傷者

石黒恒松(後則賢) 二十八歳

高津安之助

井深右近

富田三郎 元北原釆女家来近習二ノ寄合

穴澤最助
 
 計 五名



 天神口進撃に参加し後八月二十九日長命寺進撃に参加し戦死したる人々

小室金五左衛門 天神口の隊長進撃隊長番頭席小室進撃隊小隊長『名簿』に進撃小室隊世話役とあり組長のことか、物頭席 二百石 四十二歳

礒上内蔵之丞(忠吾事) 百石 四十三歳

杉本彌次郎(源五右衛門二男) 十石三人扶持 二十八歳

外島良蔵

櫻田勇(元北原釆女家来) 近習二ノ寄合 三十五歳

 計 五名



 右三種以外の人々

武井柯亭 後進撃隊長

山浦鐡四郎

日下部三郎

長坂源吾

荒川類右衛門(元北原釆女家来) 供番 三十七歳

三留又右衛門(元簗瀬三左衛門家来) 供番

穴澤友吉(元小室金五左衛門家来) 一ノ寄合 三十二歳

 計 七名
総計五十一名佐瀬良之助熊谷又八を加へ五十三名とす。


{右の人々の家禄として記載したるものゝ中自己の禄もあるべく、または父兄の禄もあるべし、今これを詳にする由なし。
この進撃に参加したる人々の内にて、その年齢の判明したる人四十名あり、その平均年齢三十五、六強歳なり、進撃に参加せし人にて上記の名簿に洩れしもあるべく、また五十三名中年齢不明なる人十三名あれども、四十名の平均年齢は全体の平均年齢と見て大差なかるべし、少数の老人参加せしため、この進撃を世老人組、または隠居組の進撃とする者あれど、平均年齢により其の誤なるを知るべし〔明治日誌、戊辰殉難名簿、会津会々報、石黒則賢談、若松記、著者聞〕}






卷十一 附録

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  1. 2013/04/24(水) 09:10:44|
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