いがぐり史料館

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十六  石清水行幸は真の叡慮でなかったこと     『京都守護職始末1』

 主上より宸翰     この月(四月)二十三日、主上は宸翰を中川宮に賜うた。その大意は、前月の石清水の行幸は、過激な公卿らが強いて奏請したので、御気分がわるかったにもかかわらず枉(ま)げて従われたものであった。それにまた、このごろ御親征の説があるのを聞かれ、これは決して叡慮ではないから、宮の御はからいで、この際、国事係、参政、寄人などを廃して、過激な朝議を一掃してほしいと御依頼あったということである。ああ、かしこくも恐れ多いことのきわみというべきである。

 



 償金問題再燃     五月二日に、尾(尾張藩主)、水(水戸藩主)両卿の書面が京都に着いて、関東で、英国に償金を払うことに議決したとの報があった。
      
英艦の一条につき、諸有司共、段々申し合せ候ところ、いったい生麦の事はまったく別事にこれあり、攘夷の応接と相混じ候ては、曲直名義の筋相立ち申さず候につき、英国へは償金をさしつかわし、しかるうえにて拒絶の談判に取りかかり候筈評決相成り申し候。償金の儀は、かねての見込みとは相違い仕り候えども、事情やむをえず、慶篤へかねて仰せいでらるるの御主意もこれあり、大樹よりも外夷所置ぶりの委任致され候ことにつき、臨機の取計い仕り候段はよろしく御推察下しおきなされ候よう願い上げ奉り候(四月二十八日付、関白殿下あて両卿連署)。
 




 実美卿一派怒る     ところが、殿下をはじめ、実美卿一派の人々は、大いに怒って、翌三日、幕府にむかって左の命をつたえた。

英夷が申し立ての償金の儀、尾張大納言、水戸中納言の取りはからいをもって叡聞ありし右償金の儀は、御許容あそばされ難き旨、先達て御沙汰の次第もこれあり候ところ、事情やむをえざる臨機の取りはからいとは申しながら、容易ならざる事柄にて、勅意に相背き候取扱い方、いかがとおぼしめされ候間、幕府の処置振り言上これあるべく候。かねて仰せいだされ候外夷拒絶の儀は、いよいよもって相違なく、叡慮を貫徹候べく、きっと応接これあり候よう御沙汰候事。

 右の厳命が関東に着くと、徳川慶篤卿は狼狽して、殿下に左の書を送った。

生麦の一件につき、償金を出し候筈にて、尾州をはじめ役々一同、評議仕り候ところ、京師においては、さし出し申さざる方よろしきとのおぼしめしにつき、償金は一円さし出し申さざるよう決定に相成り候間、この段よろしく仰せ立て下されられ候よう、願い奉り候。(五月七日付)
 




 慶勝卿へ詰問     五月十一日、将軍家は二条城にかえり、十八日、参内された。徳川慶勝卿、わが公、老中板倉勝静朝臣らがつき従い、摂津の海上の警備の模様をつぶさに上奏した。
 そのとき、伝議の両奏や国事参政などの諸公卿が、関東の攘夷決行の報(しらせ)がはかどらないわけを詰問した。
 それより以前(十六日)に、伝奏衆が慶勝卿に書を寄せて、外夷拒絶のことは、この月の十日を期限と約束したのに、いまだになんの報告もない、すみやかに催促するようにと言ってきていたので、この日の将軍家の参内をよい折とばかり迫ってきたものであった。慶勝卿が、それに答えて、すでに再三急使やって催促しているが、これ以上遅くなるようなら、将軍が急いで東下して決行することにすると言うと、諸公卿は、大樹の留るか去るかについては、今論議するにはおよばないと言って、それ以上追窮してこなかった。将軍家の東帰は、叡慮に添わないことであったので、その去留を朝廷で論議することができなかったからである。

 



 ついに償金を払う     翌二十には、江戸からの報告が京師にとどいて、償金三十万両を英国に支払ったことを告げた。わが公は、忠精朝臣、勝静朝臣らとともに参内してこのことを奏した。その大意は、

償金三十万両の儀は、決してつかわさぬようにと精々仰せくだされ候ところ、小笠原図書頭、一存をもって去る五月九日、横浜においてさしつかわし候儀、これまでも度々厚く御さし留め仰せくだされ候ところ、右の次第ゆえ、尊慮のほどなんとも恐れ入り、かつは不都合の儀あくまで承知仕り候えども、よくよくよんどころなきこととお察しあそばさるべく候。もっとも図書頭には少なからざる見込みもこれある由、申しおり候こと、かつは三港拒絶の応接は、去る八日、図書頭が応接に及ぶべきのところ、面会いたさず、それゆえ、書状残しおき申し候。
右は、関東より書状をもって申し越し候。


 わが公らは、前書に副書きして、

前件の次第は、天朝に対して申訳これなく、なんとも深く恐入り候。このうえは、老中が帰府して応接致し候ても、とても及びがたく、大樹自身小田原駅までまかり越し、奸吏どもを相罰し、一橋、水戸らを呼びよせて、関東の情実をとくと聞きただし候うえにて、急速に攘夷の成功を奏上いたすべく、なにぶんにも大樹自身の発向を相願い候事。

 



 わが公の嘆き     そもそも償金の件と通商拒絶の件とは別問題であって、彼に償うべき相当の義務があるならば、それを先に償ってから、拒絶の議を持ち出すべきである。過激な堂上たちが、これほどはっきりした理非も顧みないで、朝議であくまで償金を支払うことを幕府に許さないので、その結果は、長行朝臣らに、違勅の処置にでるほかない仕儀にいたらせた。
 事がここまできては、わが公らも、公武一和を謀るには、過激堂上をしりぞけるよりほかに道のないことを嘆くばかりであった。
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  1. 2012/10/31(水) 17:53:25|
  2. 京都守護職始末1
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十五  石清水行幸     『京都守護職始末1』

 将軍参列できず     四月十一日、車駕は石清水八幡宮【注一】に行幸、親しく攘夷の成功を御祈願あらせられた。わが公は喪中なので、供奉(ぐぶ)には列しなかった。
 もともとこのことは真の叡慮から出たことではなく、過激な堂上がしきりにすすめてのことである。そのため、朝議では可否の説が区々であり、中川宮は徹頭徹尾これを可とせられず、そのため四日と令せられたのが、あらためて十一日となった。
 一方、聖上が将軍家に対して、きわめて優渥なのをみて、これを妬む輩【注二】が、八幡行幸の日を待って、ひそかにこれを謀ろうとするとの説が宮中にひろまり、前日ひそかにこれを幕府に報ずるものがあった。そこで諸有司は皆警戒し、将軍家の供奉をとり止めることにした。
 わが公これをきいて、今この未曽有の盛典に、将軍家が供奉に列しなければ、威名地に落ち、とりかえしがつかない、区々の輩など恐るるに足らないとさっそく徳川慶勝卿に謀った。
 卿はそのとき病褥にあったが、「もちろん、このような盛典に、武門が怖れて避けるようなことはあるべきでない。路次の警戒ならば、予も喪中で(卿もわが公とおなじく実父松平義建朝臣の喪中であった)じぶんはゆけないが、警備のことには助力しよう」と、相たずさえて二条城に登り、このことを争って、ともかくも供奉ということにとり決めた。
 しかし、夜半になって将軍家が急に発熱し、ときどき眩暈(めまい)もする容態となった。(お側衆の糟谷筑後守の言葉では、予は久しくお側に奉仕したが、紀邸から入られて以来、はじめての御苦悶であったとのことである。)将軍家はそれでも奮然として、「予が頭をもちあげられるかぎりは、かならず供奉に列する」と言われるのであったが、侍医たちが、絶対に不可と言う。そのうえ、後見職はまた眼病にかかられていたが、これをきくと、「将軍の身で、危きを冒すべきではない。予が代わって供奉しよう」と言い出した。
 わが公は、この際、将軍が供奉に列することのできないのは千載の遺憾といえども、病苦の体ではいかんともなしがたいとして、にわかにこの由を奏して、供奉を辞退し、典薬頭を賜わって一診せしめられんことを請うた。聖上はこれを聞(きこ)しめされて、お驚きと同時に御疑いもあらせられたが、典薬頭の奏するところをきかれて、叡慮は釈然とした。わが公は、家老の横山常徳に兵を率いて警衛させ、仙台藩の重臣片倉小十郎とともに前後に立て備えた。

 



 紛々たる風説     この日、二条右大臣斉敬公が宮中に留守をつとめていたところ、宮中の手うすに乗じて過激の徒が闖入し、親王殿下【注三】を奪って事をあげようとするとの風説があるのを耳にした。公はすぐさま、臣下の高島右衛門尉をわが公の営につかわし、非常に備えることを求めてきた。わが公は、秋月胤永、広沢安任らに兵をさずけて、宮門の外を警衛せしめ、ついに異事なく還幸あらせられた。当時の事情といえば、かくのごときものであった。
 ところが、このことについて、八幡宮は源氏の氏神である、将軍はその宝前で節刀を賜わり、攘夷の詔(みことのり)が出ることを怖れて、病気と称して、供奉しなかったのだという風説がひろがった。嫉妬の輩が言いふらしたことにちがいないが、その形跡上幾分事実のように見えたのは、是非ない次第であった。
 後見職も将軍家名代として供奉したものの、眼病【注四】がひどいということで、途中から帰館した。将軍家をつけねらうものがあるときいて、奮って代理に立ちながら、前後の容体から察して、この ような国家の大盛典に参列を欠かねばならぬほどの眼病でもないのに、中途から引きかえされたことは遺憾のきわみと言うべきである。この人は、はじめ勇にして、後に怯なる性質で、こういうことは、単にこの時のみにかぎったことではなかった。

 



 三条橋の張り紙     この月(四月)十七日、三条橋畔に張り紙をしたものがあった。
 はじめに将軍家の諱名(いみな)を特書し、上洛以来の事をしるし、さまざまの罵言、雑言をまじえ、慶喜卿のことは、八幡の神前で御用があるのに、出奔したと言い、板倉周防守、岡部駿河守らの奸吏が多く、井伊、安藤の二の舞を演じたなどと、文面はとるにも足らぬ無稽のことがらであったが、何ものの所為なるや八方探索してみたが、ついに証左を得ることができなかった。
 ときもとき、毛利慶親卿が帰国を言い出した。わが公がこれを留めたが、一向きき入れず、ついにその臣佐々木男也をよこして、藩事でやむをえないことがあると告げ、家臣を率いて国に帰った。京中ではもっぱら、あの張り紙は長門藩士の所為であり、痕跡をかくすために立ち去ったのだと評判しあったが、実否のほどはわからなかった。

 



 朝令暮改     十八日、伝奏衆から、今後十万石以上の諸侯は、三月交代で京都を守衛するようにとの勅旨が下った。
 それ以前、過激の堂上から、諸大名を京都、江戸と半々に参覲させるようにとの議があった。これは、幕府の権力を殺(そ)ごうとする目的から出たものであったが成功せず、いままた、この命が出たのであった。
かしこくも聖上が親しく将軍家に万事を委任して、よろしく諸侯を統率せよとの恩詔があってから、旬日も出ないのに、幕府に一応の商議もなく、ただちにこのような命が出たのである。その矛盾すること、往々かくのごとくである。
 それで、四月から六月に至るまで、上杉、奥平などの諸侯が参覲し、その後も参覲がつづいて、三条実美卿がその進止をつかさどった。以前に京都の守衛兵の命が出たときも、その統括を卿がつかさどった。
 これより卿の門前には、輿馬が群れをなし、その臣丹羽出雲守がまた過激の論を好むところから諸藩の過激武士や浮浪の徒が、卿の門に頻繁に出入した。なかでも、筑後の真木和泉、土佐の土方楠左衛門、長門の桂小五郎(後木戸準一郎とあらためた。また孝允ともいう)、肥後の佐久々助男也、坂木、後の轟武兵衛、石見津和野の福羽文三郎(今の美静)らがその巨魁で、彼らの名声は京中にとどろいていた。

 



 小笠原長行の東下     さきに、水戸慶篤卿を攘夷の目代として東下させ、英国からの要求の償金の件も、また幕府のはからいに任せるとあったが、ここに至って、過激の堂上らは償金拒絶を主張し、しばしば鷹司殿下に迫った。
 幕府でも、はじめに後見職から、英国の要求はいずれも従いがたしと諸藩に明示したことが、言質となって、いまさら、朝廷からの委任を楯に抗論することもできず、この日(十八日)、老中小笠原図書頭長行朝臣に命じ、東下して、償金拒絶のことに当らせた。長行朝臣は、ことが不可能に近いことを論じて辞退したが、後見職はこれを聴き入れず、再三強いられて、やむなく命を拝し、翌日、京都を発った。すでに意のうちでは何か期するところがあったらしく、はたして後日、一大物議を惹き起すこととなった。

 



 後見職奮起す     慶篤卿は、すでに東下していたが、攘夷の事には手を下さず、一日一日を過ごすのみであった。
 卿は性質が温和で、決断力に乏しく、元来大事にあたれる器ではなかった。そのうえ、藩臣もまた党派があって相和しない。そこで、重臣の武田正生らが後見職に書面を送り、攘夷のことはあまり事が重大すぎて、水戸一藩の力では堪えることができない、公が東下されて協力せられたい、請うてきた。
 後見職は上京以来、幕府のことが常に朝廷から掣肘するところとなり、予期に違うものが多いので、居常怏々(おうおう)としていたところへ武田からの手紙を見たので、大いに心がうごき、すぐにも東下して攘夷のことに当ろうと、その由を上奏した。
 わが公は、それをきいて大いにおどろき、駕をはせて後見職をたずね「将軍家がまだ年若で、ものごとに不慣れでもあり、参内の日、過激の堂上に時事について論じかけられたりしたとき、万一失言でもあれば、他日の証拠ともなり、不測の患いが生ずるようなことともなれば、悔いてもおよばない。ゆえに、後見職は決して、将軍家の左右から離れないように。それに、攘夷のことは慶篤卿がすでに任せられているのであるから、いま公が東下されれば、権が二つに分れて事がかえって渋滞するばかりである」と、再三東下を止めてみたが、後見職は、断じてそれに従おうとしなかった。みずから信じて決すると、さらに他言を容れないのが卿の特性であった。ことによると、卿は、十七日の張り札に刺激されて、みずから攘夷の局に当って、因循でないところをみせようという気負いがあったのかもしれない。

 



 攘夷督促の勅旨     十九日、伝奏衆から書状がきて、攘夷督促の勅旨を伝えられた。
 その大意は「外夷拒絶の期限が、五月十日をもってかならず断行する由、先達て奏聞あったについては、なお列藩にもこの旨を布告し、敵愾心を鼓舞するよう。往年、幕府が諸外国に和親の通商を許可したのは、奏聞を経ざることであったので、大いに天下の人心を沸騰させ、ついに今日のような形勢に至ったわけである。よって、一橋中納言東下のうえは、断然拒絶の実績を奏すべし伝々」とあった。
 後見職はそれに激発されて、四月二十二日、ついに京都を出発した。大目付岡部駿河守がこれにつき従って東下し、暁天に土山駅を出発しようとしたとき、賊数人が襲いかかった。従者がこれを追いはらい、用人某が負傷した。何者のしわざかわからなかったが、おそらく後見職を襲おうとして【注五】、誤って岡部へ斬りつけたものであろうという。

 



 慶勝卿を登用     後見職がすでに東下してしまったので、わが公は幕府に建議して、尾張慶勝卿に止まらせ、将軍家を輔翼せしめようとした。幕府もこの議を採用して、ただちにその趣旨を上奏すると、二十六日允裁があった。しかし、慶勝卿はあえて請けず、わが公が強いて諭して、ようやくこれを請けさせ、慶喜卿に代って、かりに後見職のことを摂することにさせた。
 はじめ、公武一和論の有力者中、慶勝卿は慶喜卿、慶永朝臣と折合(おりあい)がわるく、慶勝卿の名声が堂上間で嘖々たるものがあるにもかかわらず、公武一和の大議の時には、慶勝卿だけがのけものにされていた。卿の心中はおだやかならず、その臣長谷川惣蔵らは切歯して、慶喜卿、慶永朝臣のことを憤っていた。わが公は、慶勝卿の近親(卿はわが公の伯兄である)なので、特に調停の労をとられたことがしばしばであった。公武一和の有力者がことごとく京都を去ったので、公は建議して、慶勝卿を将軍家の補佐とさせたのである。

 



 将軍大阪を視察     そのとき、英仏の軍艦が摂海に来航するとの説が【注六】、京中に紛々としていた。しかるに摂津に警備がないので、将軍家が親しく巡視して、警備の充実をはからねばならないことになり、その事由を上奏して、四月二十一日条城を発した。
 わが藩に属している浪士の新選組二十余人が、将軍の駕に従いたいと申し出た。公はそこで、外島義直、広沢安任にこれを率いて扈従させた。彼らはみな揃いの姿で大刀を佩(お)び、状貌雄偉で、見るものはこれをおそれた。
 この一行は汽船に乗って紀州におもむき、和歌の浦から淡路をすぎ、明石を経て兵庫に至り、ときどきは徒歩立(かちだ)ちになった。いたるところ、人民は歓喜してこれを迎え、父老たちは涙をながし、大阪城代の行装にもおよばないといってなげいた。その労また想うべしである。
 将軍は大阪城にかえりつき、不用の役人を淘汰して、金二万両を賜わり、市民を賑わした。天保山の守衛の因幡藩と、堺の警備をしていた土佐藩が辞職を願い出ていたが、将軍家が二藩の重臣を召し、時勢の急要を説いたので、二藩の重臣も感奮して、その願い出を取り下げた。それから、近畿譜代の諸藩を糾合して、摂津の海の警備にあてるなど、処分がほぼ定まった。
 そのとき、朝廷から、姉小路公知朝臣が、将軍家のあとについて摂津辺の海を巡視する命をうけて到着した。それというのも、将軍家の下坂の後に、脱走した旗下の浅倉幸之助が、堂上家に出入して、関東の秘密をお知らせすると称して、種々の妄説を吐いた。そのうちに、将軍が摂津の海を巡視するのは、その実これに托して東帰するのが目的であると告げたので、公卿たちはこれを信じ、急に公知朝臣をつかわして、抑留しようとしたものである。
 将軍家が巡視を終って大阪城にかえると、公知朝臣もまた大阪にきた。そのとき、公知朝臣は、将軍が予を訪わるべきか、予がまず将軍を訪うべきかと、伴の者にたずねたという。当時の堂上が倨傲で、幕府を軽視していたことは、おおむねこの類のものであった。公知卿が登城して謁見したので、将軍は親しくその労を慰め、なお他に巡視すべき所があるが、同行されるかときかれたが、公知朝臣はこれを辞して帰京した。将軍家が軽装で難険を冒すときいて、同行を欲しなかったのである。その臆病なことも、この類である。

 



 浅倉幸之助     はじめ将軍家が下坂されてから、殿下や伝奏衆よりわが公に示されるところが、往々猜疑にわたり、意外のことが多いので、ひそかにその所以をさぐってみると、みな朝倉幸之助の欺罔(ぎもう)から出ていることがわかった。
 そのころ、幸之助はまた近衛前殿下に入謁して、将軍家の東帰の由を告げたので、前殿下は書を幸之助に托して下坂させ、将軍家を抑留せしめようとした。慶勝卿は前殿下に謁して、幸之助の素性を明かし、尊貴の近づくべからざる人間であると諫めた。前殿下は大いに驚き、人をはせて、托していた書を収めた。
 わが公は町奉行に命じ、これを捕えさせた。たまたま幸之助は近衛家を訪れる途中で、衣服も贅沢で、従僕の員数なども、僣上をきわめていた。町奉行の同心たちが、これを帰路に要して捕えた。
 国事参政の寄人らの公卿は、これをきいて大いに憤慨し、伝奏衆からわが公と慶勝卿へ書をよせて、朝倉幸之助は、前殿下が親書を托して周旋を命ずるほどの者なのに、ほしいままにこれを捕えるとはなにごとか、となじり、あわせてその釈放を求めてきた。

 




 慶勝卿 公卿を一喝      わが公はまた、書をもって「朝倉幸之助は幕府の脱籍者で、いまや禁を犯して京師に闖入した、その罪が一つ、身上を偽り、高貴の門に出入して、朝威をはばからざること、その罪の二、僣上の服装で儀従を用いること、その罪の三。幕府の罪臣が勝手に輦下を徘徊することは、天朝に対しても恐悚に堪えざるところであり、諸公もまた、彼のような罪臣に旨を授けて、何事かなされようとするのは、失体もはなはだしいと言わねばならない。そこで、これを捕えて典刑を正そうとしたまでである。」と答えた。慶勝卿の答えるところもまた同じであり、
「朝議で将軍の去留について、いやしくも危疑するところあるならば、慶勝、不肖ながら将軍輔翼の職にあり、命をかけてもかならず叡慮を貫徹させるつもりである。しかるに、かえって無頼の徒に依頼されるのは、そもそもいかなるおつもりか。慶勝をして事を托すに足らずと思われるのか」
 と言ったので、さすがに過激の堂上も一言も抗することなく、そのまま引き退った。

        



 【注】

【一 石清水八幡宮】 第八章注一五を見よ。

【二 これを妬む輩が…】 文久三年三月十七日石清水社行幸の議が決定された時、中山忠光が上京し、長州浪人とともに、行幸途中の天皇を奪い、将軍をも殺害する計画があるとか、浪人が公卿衆の中にまぎれこみ、天皇を奪い、勅を請うて将軍を討つであろうとかの流言があった。中山忠光は、もっとも急進的な尊攘派で、三月二十日、病と称して官位を辞し、ひそかに京都を脱出、長州に走っていた。

【三 親王殿下】 祐宮(さちのみや)、すなわち後の明治天皇。

【四 眼病】 一橋慶喜は、将軍の代理として石清水社行幸に供奉したが、天皇は社前で急に慶喜を召し、攘夷の節刀を授けようとした。これは三条実美ら尊攘派の計画であった。ところが慶喜は、腹痛のため、山下の寺院で静養していたので、これは行なわれず、尊攘派のもくろみは失敗した。尊攘派は慶喜が節刀を授けられ、攘夷の実行を誓わせられるのを恐れて、仮病を構えたのだと非難した。慶喜側の記録は、この説を否定し、節刀授与は予知するはずはなく、事実、病気で臥床していたと説明している。それはともかく、本書で「眼病がひどいということで、途中から帰館」とあるのは誤りで、慶喜は還幸の供奉の列に加わっている。それだけに、この「急病」は疑えば疑うことができよう。

【五 後見職を襲おうとして】 『徳川慶喜公伝』によれば、賊は慶喜をねらったのではなく、岡部長常(駿河守)が井伊直弼、安藤信正の意志を継ぐ者と信じ、彼の暗殺を企てたのだと説いている。岡部は大目付就任前、外国奉行の職にあり、勅使三条実美東下の際、攘夷の朝旨に従うのに反対した経歴がある。

【六 英仏の軍艦が摂海に来航するという説】 生麦事件の賠償に関し、英仏は直接将軍と交渉するため、軍艦を摂海に派遣するだろうとの流説があった。しかしこの流説があった四月下旬には、すでに二十一日、江戸の老中は、諸藩にたいし、償金は支払い、その上で改めて横浜港閉鎖の談判を行なうとの方針を通達し、二十八日には、支払を英国側に表明した。

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  1. 2012/10/31(水) 15:49:25|
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十四  島津三郎の入京およびその建議      『京都守護職始末1』

 流言飛語止まず     これよりさきに、朝廷はしばしば島津三郎を召したが、この月(三月)十四日、突如として上京した。しかし、三郎への守護職内命の流言飛語がまだ止まないで、長州人と浮浪の徒は大いにおどろき、百方過激の堂上に入説して、これに反対した。
 三郎は、中川宮、鷹司殿下らに拝謁して、「今日は伏蔵ないところを言上仕り候につき、忌諱や嫌疑などは御宥捨願い奉り候」と前置きして、左の建議を行なった。

一 攘夷の御決議軽率の儀、然るべからざると。

一 後見、総裁を奴僕のごとく御対偶あって、浮浪藩士の暴説を信ぜられるのは、最も然るべからず。かつ、御膝下において法外の儀これあり候を、そのままに召し置かれ候儀は、朝憲、幕令も行なわれざる姿にて、ただ乱世の基と嘆息に堪えず候事。

一 右につき、暴説を信用の堂上方は、すみやかに御退け、浮浪藩士の暴説家は、幕府より所置あるべき事。

一 宮(中川宮)、前関白(近衛前殿下)、中山、正親町三条等、以前のごとく御委任の事。

一 天下の大政は、征夷大将軍へ御委任の事。

一 長州父子の所存を、後見より質問あるべき事。

一 御親兵一条の事。

一 無用の諸大名、藩士はすべて帰国さすべき事。

一 主命のほかは藩士へ御面会御無用の事。浮浪はとりわけ然るべからざる事。

一 主家亡命の者を御信用は然るべからざる事。

一 英国の一条、諸外国の一条。

一 神宮御守衛として、親王方をさしつかわされ候はもっとも然るべからざる事。これは近国の大名へ命ぜられて至当の事。

一 浮浪藩士の心底よく御勘弁これありたき事。

 
 ほかに国事係、参政の廃止の件もあったと言う。要するに以上の数件のその論旨は、公武一和にほかならず、当時の京師のありさまがどのようであったか、これでわかるであろう。
 三郎は、在京十数日で帰国した。豊信朝臣、宗城朝臣ら公武一和の有力者も、次々に帰国して、わが公を助けて、衰勢を挽回することに力をつくすものは、ただ慶勝、慶喜の二卿あるのみとなった。

 



 将軍天盃を賜う     四月二日、将軍が召しによって参内した。徳川慶勝卿と、後見、守護の両職がこれに従った。
 聖上は小御所に出御あって、将軍家を召し、天盃と寮の御馬を賜わった。そのあとで、慶勝卿、慶喜卿およびわが公へも、酒饌を賜わり、重ねて将軍家を御学問所に召され、御内宴を開かせられ、御饌の陪食を命ぜられ、かしこくも数献の天盃を賜わり、従容閑話夜におよび、眷遇もっとも優渥をきわめた。駕に従う一同にも、酒饌を賜わった。将軍家は、この恩遇に感喜して、時のうつるのも知らなかった。
 過激の堂上はこれをみて悦ばず、目くばせをし、耳語してささやきかわしていた。
 中川宮がひそかにわが公に告げて言うには「聖上の本日の将軍への眷遇は前古に比類がない。おそらくは、他の嫉妬を招くであろう。よろしくその帰途に備えられたい」とのことであった。
 公はそこで、家臣の小室当節をわが営に帰して兵をひきつれ、禁門から二条城までの要所、要所に配備して、万一に備えた。ようやく初更になって、将軍家は退朝されたが、わが兵が所々に厳然とひかえているのを見て、旗本らは、はなはだこれをあやしんだ。ごく秘密のうちに事をはこんだので、旗本の輩はこれを知らなかったのである。後になって、この日宮中で、将軍をひそかにねらう謀計をめぐらす者のあったことをきいて、中川宮の言が偶然ではないことを知った。

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  1. 2012/10/31(水) 12:04:15|
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十三   わが公将軍家の東帰を止める     『京都守護職始末1』

 混乱起る     すなわち夜半になって、後見職から、わが公に急に二条城に登城するよう招き出しがあった。行ってみると、将軍家引留めの勅旨が下りていた。
 その大意は、英夷が渡来して関東の事情が切迫したため、大樹が帰府して防禦しようとするはもとよりよろしいが、京都ならびに近海の警備も大樹みずから指揮すべきである。接戦のときになって、君臣のあいだの情誼が相通じなければ、おのずからそこに隙を生じるに至る、ゆえに、大樹の帰府は、叡慮の安んぜざるところである。英夷のごときは、浪花の港にきたらしめて、もし戦端をひらくならば、大樹みずからこれを指揮すべきである。皇国の元気を挽回するこの機会にあたり、関東のごときは、よろしくその人を選んで任ずべし、ということであった。
 二条城では、そのとき、ひそかに将軍家の京師発足を二十三日と定め、人々はそれぞれ準備をととのえ、榊原政敬朝臣らはすでに先発隊として出発していた。
 勅旨をきいて、一同呆然として、往くものはまた還りなどして、すこぶる紛擾をきわめた。
 わが公は、この勅を拝して大いに喜びはしたものの、そのなかにあった、英艦を浪花港に引きよせ、戦端を開いて、大樹みずからこれを指揮すべしという一語をはなはだ怪しんだ。堂上家の臆病さは、外国船が兵庫港へくると言うのさえ怖れていたのに、と思い、不審でならなかったが、後にはたしてその実をつまびらかにすることができた。そのことは、下条にしるす。

 



 親兵問題     これよりさき、諸藩のなかから親兵を徴するという朝議を、わが公が上奏してとりやめにしたことがあったが、またまた攘夷決定を理由として、この論が囂々(ごうごう)として再燃してきた。
 慶勝卿や豊信朝臣の力でも、この論を阻止しきれなくなったが、ここに及んでわが公が論じて言うには「諸藩から壮丁を献納させて、これに親兵の名を与えようか、左右の諸門の警衛のごときは、勢い親兵の任であるから、守護職の任務は単に洛の内外を守護するに止まることとなる。これでは幕府が守護職を置いた意味がなくなる。容保は、わが藩一藩を親兵に任ずるものである。諸藩より献納の兵は、京師の守衛兵としていただきたい」
そして、この議はいれられて、この日(三月十七日)、伝奏衆がその由を幕府に令した。
 幕府はすぐ、十万石以上の諸藩に令して、一万石あたり壮丁一人を出させることに決めた。長門藩は即日命に応じて、これを出した。そのとき、某侯は禄高一万石であったが、請願して壮丁一人を出した。時の人は「一人の守衛兵」といって、これを譏笑した。
 わが公は特に上奏して、わが全藩をもって守衛兵となし、別に人を出さないようにと請うて、その裁可を得た。そして、三条実美卿、豊岡随資卿、東久世通禧朝臣、正親町公董朝臣を守衛兵の長とした。

 



 真勅にあらず     三月二十二日、将軍はお召しによって参内した。後見、守護両職、老中以下の諸有司がつき従った。聖上は常御殿に出御されて、鷹司殿下一人が玉座に待っていた。
 将軍家を召しての詔に、「万事を委任したうえは、なお滞京して、諸侯を指揮するように。諸藩にも、将軍に委任したから、その指揮を受くべきを命ずべし。公武の一和は、億兆の安堵の基であるから、朕は特に意をこれに注ぐ」とあった。
 将軍家はこの恩詔を拝して、聖恩の優渥に感激し、殿下にむかってこれを拝謝し、東帰の意はない由を奏上した。殿下からはまた、「叡慮がこのとおりで万事を委任あらせられるからには、英国の償金要求のことなども、もとより委任中の事件であるから、関東に申しつかわし、無謀な戦争はしないように計らえ」という言葉があった。
 そこで、将軍から殿下にむかって、「前日賜うた勅旨には、英艦を浪花港にきたらしめて、兵端を開けば、臣みずからが指揮せよとのことであったが、いま親しく拝する恩詔とちがっているのは、前日の勅旨は更正されたのかどうか」とたずねた。殿下がこれに答えようとしたとき、聖上は親しく、
「浪花は帝都の要港である。万一にもかの地で兵端など開くようなことはなからしめよ。前のごとき勅旨を下したのは朕の毫も知らざるところ、いま親しく汝に命ずることだけを、汝すみやかに奉行せよ」
 ということであった。そこで、伝奏衆から伝える勅旨は真勅でないということが、いよいよつまびらかになった。
 はたして、過激な堂上は、この恩詔に不満をもち、後日賜わった勅書【注一】には、「将軍職は旧のごとく委任する。ただし、国事については、ただちに朝廷より御沙汰ある場合もこれあるべし」と書いてあった。当時の勅命の内外に齟齬(そご)していることは、おおむねこの類であった。

 



 幕臣らを説得     この日、慶喜卿、わが公、老中板倉勝静朝臣らには、小御所において殿下から優渥な勅諚をつたえられ、やがて将軍家が退出された。叡慮のかたじけなさに感泣して、将軍家も東へかえる気持ちは消えうせたが、左右の群小が望郷の念を禁じえず、ここに至ってもまだ滞京の勅旨を奉ずべきだと言う者が、はなはだ少なかった。
 そこで、わが公は「将軍家上洛以来、わずかに一度行幸の供奉をしただけで、ほかになにもすることなく、今日また優渥な恩詔をこうむりながら、それに報いもせず東へ帰ったならば、たちまち天怒に触れ、公武のあいだは疎隔してしまうであろう。よろしく滞京して、聖旨に報いねばなるまい」と説いても、公がいる前では、有司どもも唯々として口を閉じているが、公の姿がみえないと、たちまち喋々として東帰の議を立てるありさまで、国家報効が何のことであるかをまったくわきまえない者どもばかりであった。
 老中板倉勝静朝臣は、滞京の議に従ったが、同僚の水野忠静朝臣(この人は俗才、浅智で、事の大体を知らず、かつて中川宮に謁して事を議したとき、唯々として、じぶんの意見がなかったので、後になって、宮はある人に「和泉は真に賢路を塞ぐものだ」と言われたと言う)以下がこれを欲しないので、一人の力では大勢に勝てず、どうなりゆくかと事があやぶまれた。
 たまたま鷹司殿下が徳川慶勝卿を招いて、
「前日、聖上から親しく将軍滞京の詔があったうえは、万一にも東帰したら、不測の患が生じること目にみえている。卿、天下のため、かつは徳川家のためを思わば、よろしく将軍にすすめて、しばらく滞京して、攘夷の基本を立て、叡慮を貫徹し、億兆安堵の成績を挙げさせるがよろしかろう」
 と言われ、卿がそれに感奮して、わが公とともに二条城に登り、切に東下の不可を説いて滞京をすすめたので、諸有司もようやくこれに従った。

 



 将軍滞京と決す     将軍家滞京と決し、さきに松平慶永朝臣がみずから職を解いて国へ帰ってしまったので、朝廷はさらに、水戸中納言慶篤卿に「東下して攘夷のことにあたり、防禦のことは大樹目代の意をもってこれを指揮すべし。かつ、先代の遺志をついで力をつくし、掃攘の成功を奏すべし」という勅を下し、真の御太刀を賜わった。
 わが公は、それについて幕府に建議して、「昔から、人君が将に命じて軍を出す場合は、車の輪を君みずから推して、全権を委せるのがしきたりである。いま英夷に接するについても、遠くから掣肘することをせず、ひとえに慶喜卿に委任して、応待のごときは別に人撰してこれを命じられたがよろしい。むろん、水戸の藩臣もその撰に入れられるべきである。そうでなければ、成功は収め難い。ただし、このことは朝廷の方へも上奏すべきであろう」と言ったので、幕府でもそれを採用し、将軍家は慶篤卿を召して、よろしく勝算を立てて名義を正しくし、無謀の挙はつつしむようにと命じた。
 卿はその命令をうけると、幕府からの賜暇の許しも待たず、急いで東下した。

        



 【注】

【一 後日賜わった勅書】 この勅書は、三月二十二日の将軍参内に関係したものではない。三月七日の参内の際、関白より次のごとく達せられた。「征夷将軍の儀、是迄の通り御委任遊そばされ候上は、弥(いよいよ)以て叡慮遵奉、君臣の名分相正し、闔国一致(こうこくいっち)、攘夷の成功を奏し、人心帰服の所置これあるべく候。国事の儀に付ては、事柄に寄り、直に諸藩へ御沙汰あらせられ候間、兼て御沙汰成し置かれ候事」右の文章中、事柄によっては、直接諸藩へ御沙汰がある伝々は、五日に慶喜が参内した際に下された庶政委任の勅書の趣旨と矛盾するとし、慶喜は重ねてその真意を関白に聞いたが、要領をえなかった。本書は、この時のことを、二十二日より「後日」の勅書と誤記している。

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  1. 2012/10/30(火) 18:05:26|
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十二 加茂行幸     『京都守護職始末1』

 わが公感泣す     さきに英国軍艦来航の上奏があったとき、攘夷の叡慮がいよいよ切実であったところへ、将軍家が上洛したので、その決行もま近とおぼしめされ、親しくその成功の御祈願のため、三月十一日、車駕で加茂下上社【注一】に行幸あらせられた。
 関白以下公卿、殿上人、将軍以下後見、総裁両職在京の諸侯ことごとくが供奉した。関白、大臣は輿(こし)、その他の人々は騎馬で、折しもふってきた雨を避けて、おのおの緋傘をもって行列の人を覆い、その壮観は、真に古画を見るようであった。聖上の行幸は、数百年来絶えた旧典によったもので、この日は遠近の老幼、貴賤が路傍にひざまずいてこれを拝し奉り、または、拍手を打って稽首するなど、あたかも神仏を拝するような光景であった。
 すでに社頭に御着輦あらせたまい、神事が終り、神饌を分け賜うときになって、特に将軍家を召され、御手ずから天盃および神饌を賜い、慰撫の恩詔がことのほか優渥であったので、供奉の堂上人もたがいに目をみはるばかりであった。
 それもまた、かつて後見職が鷹司殿下に会って、将軍家参内についてのひそかに顧慮していることを打ちあけて話したとき、殿下はじぶんだけの意見として、聖上はもとより将軍にあつい信頼をよせていられても、いまは周囲をはばかって、深く包ませたまうばかりであるが、他日将軍家上洛の折には、かならず聖慮の優渥なことを知られることであろうと告げられた。はたして、前日の親勅と言い、今またこの恩遇とによって、叡慮のあるところをたしかに拝することができた。
 この日、わが公は喪中をはばかってお供には加わらなかったが、家老田中玄清に兵を率いさせて、行幸の路上を警護させた。還幸の後、聖慮の将軍家に優渥だったことをきいて、わが公は、公武一和の基礎は今日はじめて定まった、不肖容保、いささか先祖に報ずることができたと、感喜のあまり落涙するに至った。

 



 慶勝卿の奉書     さきに攘夷の期限を定めるにあたり【注二】、大樹(将軍)上洛のうえは、滞在十日を限るという勅旨があったとき、わが公の気持としては、将軍家が上洛された以上、しばらくは輦下にとどまり、万機親しく勅旨を仰いで決行することになれば、公武の一和は日々にふかまって、天下の人心をしずめることもできると期していたのに、すぐさま東下されてしまっては、その効がむなしいばかりか、公武のあいだにますます隙が入ることにならないともかぎらないと案じていた。
 そこで、尾張前大納言慶勝卿が、先日、三条実美卿の攘夷期限決定の勅使として来臨あったとき、卿がまだ上京していず、そのことにあずからなかったので、わが公は卿に説いて、この勅旨をひるがえし奉らんことの尽力方を勉めさせた。慶勝卿は、病に臥していたが、これを然りとし、病をおして、さっそく書を伝奏衆にあてて朝廷に奉った。

恭しんで思うに、兵は和をもって要となすと承り候えば、鷹懲(ようちょう)の事も、君臣御一和ならでは行き届きがたく存じ奉り候。君臣御一和に相成り候えば、人は帰嚮(ききょう)を知り申し候。かくの如くなればすなわち、普天率土一和せざるなし。而して後、攘夷の事行なわせられ申すべく存じ奉り候。去るものは日々に疎く、来るものは日々に親しむならい、大樹十日の在京、すぐさま東下と相成り候えば、御実御一和の有余おそらくはこれあるまじく、百余里の御遠別、程なく御間隙の生ずるは必然の道理と存じ奉り候。然るうえは、天下の勢これを救うべからざる場合に及ぶべく候わんか。是れ臣が病中ながら、日夜、寝食も安からざるところに御坐候。仰ぎ願わくば、大樹に命ぜられ、御一和相整え、四海帰一の場に相はこび候までは、 輦下に滞在これあり候よう仕りたく、昧死伏願仕るところに御坐候。かつはまた、攘夷の儀は、兼ねての期限の通り人を遣わして行なわせらるべく候。寿永の乱【注三】、頼朝、鎌倉にありながら、範頼、義経をして平氏を平げしむ、この一節をもっても、将軍自ら赴き候に及ばざること、現然と存じ奉り候。この段言上に奉りたく、おそれながら、かくのごとくに御坐候。誠惶誠恐頓首敬白(三月十日)





 将軍滞京の聖旨     朝廷は、これをゆるしたまい、この月十七日慶喜卿、勝静朝臣が召しにより参内して、殿下は左の聖旨を取りつがれた。

大樹帰府の儀を再応相願われ候えども、帰府あり候ては、いかなる変事出来(しゅったい)候もはかりがたく、さようのことあっては、実以て一大事の儀故、宸襟を悩まされ候間、天下のため、かつは徳川氏のためをもふかく思し召され候儀、今しばらく滞京あって、攘夷の基本相立ち、叡旨御貫徹、人心安堵の場合に至り候まで、宸襟を安んじ奉られ候よう、周旋これあるべく御沙汰候事。

 別紙

英夷の渡来につき、関東の事情切迫について、防禦のため大樹帰府の儀、尤もの訳柄には候えども、京都並びに近海の守備警衛の策略、大樹自ら指揮あるべく候。かつ、攘夷の折から、君臣一和せずば相叶わず候ところ、大樹関東へ帰府して東西に相離れ候ては、君臣の情意相通ぜず、自然間隔の姿に相成り、天下の形勢救うべからざるの場に至るべきについて、当節大樹帰府の儀は、叡慮において安んぜられず候間、滞京これあり、至衛の計略厚く相運ばせられ、宸襟を安んじ奉り候よう思し召し候。英夷応接の儀は浪花港へ相廻し、拒絶談判これあるべく、兵端を開き候節は、大樹自ら出張し、前軍を指揮し候うてこそ皇国の気挽回の機会これあるべく思し召され候間、関東防禦の儀は然るべき人を相選び申し付けらるべく候ようにと御沙汰候事(三月十七日)。

 しかるに、幕府当路の人々は、将軍滞京のことに関して、なお遅疑して決せず、三月十七日、わが公は書を幕府にたてまつった。

この度御上洛あそばされ候段、寛永以後の廃典を起させられ、じつに非常の御盛事、恐悦の御儀と存じ奉り候。しかるに、あまりにも僅かな御逗留を仰せ出され候段、おそれながら御一和の程もおぼつかなしと千万恐懼仕り候ところ、過日、天朝より御一和相整い、人心帰嚮候まで御滞京あそばされ候様仰せを蒙られ、まことに以て恐悦の御儀に候ところ、横浜表事情切迫致し候につき、この節、御帰府あそばされ候様に。さすれば、すでに蒙らせられたる朝命いまだ間もこれなく、御一和相整い、人心帰嚮と申す場合にも相至らず、強いて御東帰あそばされ候わば、叡慮の程も計りがたく、天朝に対されても御不都合の儀あらせらるべしと、ふかく心痛仕る儀に御坐候。よって、長々御滞京、御警衛あそばされ、叡念相達し候うえ、御帰府あそばされたき儀と存じ奉り候。いよいよもって夷情切迫致し候については、御沙汰の通り御後見、総裁職の内にて御下り掃攘の功相立て申すべく候。尤も私、当職仰せ付られ罷り登り候折、来春早々御上洛御警衛あそばさるべく仰せきけられ候間、日夜待ちあげ奉り、当節すでに御上京相成り、英仏国人等摂海へ渡来致すべく申しつかわし候趣にもこれあり、ことには重き朝廷の恩命を蒙らせられ候うえは、長く御滞京あそばれ、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民の帰嚮を致させられ、神州無窮の治安の基本相立ち候ようあそばされず候わでは、必至と相成らざる義と存じ奉り候。以上。
 




 慶永の辞任、帰国     しかし、後見職、総裁は、ともに、はじめから攘夷の不可能なことを知り、むしろ和親を望んでいるので、これに当るのを欲しない。
 そこで、総裁職は、「攘夷などとは、とうてい不可能なことであり、今日まで唯々として過ぎ来ったのは、機を見てその議をひるがえさせようと期していたからである。今この勅命を賜るに及んではいかんともなしがたい。いやしくも事の不可能を知りながら命を拝すのは、上をあざむくというものである。慶永はむしろ、譴(せめ)をこうむるとも、上をあざむくにはしのびない」と言って、わが公と慶喜卿とでその留任を勧告したけれども、病を称して辞職願の書を呈し、許命の下りるのも待たず、その月(三月)二十四日、卒然として帰国してしまった。幕府はその疎率(そそつ)をとがめ、人が馳せてこれを留めさせたが及ばず、後、命じて国許で謹慎せしめた。

 



 英国償金問題     右の勅旨を奉ずるについても、英国要求の償金を出すか否かの点がまだ決まらないでいたところ、いまやすでに攘夷と決定してしまったので、後見職もこの問題をしりぞけ、一文も与うべからずと主張したが、老中の人々はなおも安心がならず、この月(三月)十六日にこれをわが公に謀った。公は大いにこれを不可とし、そもそも生麦駅のことはわが方に非があるので、彼はこれを責めて償金を求めているので、理にかなったことである。攘夷にしても、名義だけは正しくしておかねばならない。ゆえに、彼の要求をみとめて我方の曲を償い、しかる後、断然攘夷を決行すべしと力説したが、後見職は、朝議いかんを慮り、逡巡して決せず、わが公は、「予はむしろ因循の汚名を着ても、外国に信義を失うには忍びない」と徳川慶勝卿に謀り、その由を朝廷に上奏した。

 



 江戸の不安     このとき、江戸でも攘夷令を発布したので、民間では浮説が紛々として、あるいは品川、高輪など海岸を焼き払うとか、あるいは、大名旗本以下士民の婦女老幼を挙げて、その国元か山間の地に移し、諸藩邸を兵営にするとか、それぞれ臆測を逞しうし、吠虚伝実、人心は恟恟となっていた。
 本城の留守役、尾張大納言茂徳卿をはじめ、諸有司が百万力をつくしてこれを鎮制しようとしても、人心は毫も安定せず、そのことが京都までもきこえてきて、将軍家につき従う人たちもまた、恟々として己のことばかりを慮かり、公武の事情や天下の大勢の何たるかを弁識せず、一人還御を唱えれば、百人たちまちこれに和し、あけくれ還御を促すのほか、ほとんど他事ないありさまで、将軍家もしらずしらず東帰の思いを起し、後見職もまたおなじく、ついにこの月(三月)十七日、みずから鷹司殿下をたずねて将軍の帰国を奏請した。
 わが公はこれをきいて、大いにおどろき、ただちに二条城に登って、後見職、老中の人々に、将軍家が二百年来の廃典を興してはるばる上洛され、いまだ何のなすところなく倉皇として東帰されれば、上は叡慮に背き、下は天下の人心を失い、また救うべからざる事態に至るであろうと、切に東帰を止めたが、皆依々として決まらず、そこで、徳川慶勝卿に謀って、相ともに殿下および伝議両奏のあいだを奔走し、滞京の勅旨を賜わることを請うた。





【注】

【一 加茂下上社】 第八章【注一四】を見よ。

【二 さきに攘夷の期限を定めるにあたり】 本書五七頁に記すように、文久三年二月、朝議は幕府に攘夷の期日を決定せよと督促した。そして勅使三条実美がこれを伝えたが、一橋慶喜と松平慶永は、将軍が上洛を終えて江戸に帰ったうえでなければ決しがたいと答えた。これにたいし三条は、将軍の滞京を十日間と予定し、江戸に帰る日を定めれば、攘夷の日を決定できるはずと主張した。この結果、朝議は将軍の滞在期間を十日間と定めた。そこで慶喜、慶永およびさきの三条との会見に関係した松平容保、山内豊信は二月十四日連帯して、将軍の往復の日数を考え、攘夷の期日を四月中旬とすると答えた。

【三 寿永の乱】 寿永三年(一一八四)源頼朝が範頼、義経に命じて、平氏の軍を瀬戸内海へ追討させた戦乱。いわゆる源平戦争を指す。この翌年、平氏は壇ノ浦でほろびた。

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  1. 2012/10/30(火) 11:30:09|
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十一  新選組     『京都守護職始末1』

 壬生浪士     十月、幕府老中の人々が、左の内旨をわが公に伝えてきた。

当所に罷りあり候浪士のうち、尽忠報国の志ある輩これある趣に相聞え候。右等の者ども、一方の御固(かため)を仰せ付けらるべく候間、その方一手に引きまとめ、差配致さるべく候事。

 はじめ京師に浮浪の徒が跋扈をきわめたとき、江戸でもおなじ轍を踏むことを慮って、大いに浪士を募り、寄合鵜殿鳩翁、山岡鉄太郎、松岡万らにこれを統轄させた。その衆は二百人余、将軍家上洛の途次、列外の護衛として、中山道を通って京都に入った。これによって、京都の浪士たちを圧迫しようという策であった。
 彼らが京都へ入るなり、議論嗷々(ごうごう)として、挙動もまた粗暴をきわめた。英国人来襲の報をきくと、すぐさま東帰して、攘夷の先駆けをしたいと望むものもあり、止まって将軍家を守衛したいと言うものもあり、鳩翁らがこれを制御しようとしても手に負えない。ついに、東帰せんとするものを鳩翁みずから率いて東下し、止まりたいと欲する者二十余人を、右の内旨によってわが公に付属させることにした。これを新選組という。壬生寺に屯集したので、世間では壬生浪士と称んだ。
 新選組【注一】は規律が厳粛で、志気勇悍、水火といえども辞せず、その後、諸浪士の来付するものもすこぶる多く、守護職のために役に立つことも大きかった。





 【注】

【一 新選組】 文久二年(一八六二)、浪人の横行は、京都だけではなく、江戸でもはなはだしかったので、幕府はその統制策として、十二月、講武所剣術教授方松平忠敏(主税助)、同剣術世話心得山岡鉄太郎(鉄舟)、小普請支配鵜殿長鋭(鳩翁)をして、その任にあたらせ、浪士組を編成した。そして翌三年の将軍上洛に、列外護衛として、京都に行かせ、京都浪士に対抗させた。彼らは葛野郡壬生村地蔵寺に宿所をおいたので、世に壬生浪人といわれる。ところがこの浪士組の首領清川八郎は、尊攘派志士であったので、国事参政、国事寄人ら尊攘派公卿に意を通じて、攘夷実行の行動に出ようとした。幕府は、当初の目的に反することとなったのに驚き、三月、英艦横浜渡来を理由に、清川ら二百人を江戸に帰らせた。しかし近藤勇(昌宜)、芹沢鴨、土方歳三らは、清川と意見がちがっていたので、そのまま滞京し、京都守護職の指揮下に入って、新選組と称することとなった。この後、新選組は多くの浪人を集め、京都尊攘派志士の取締りと襲撃の第一線に立った。

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  1. 2012/10/30(火) 07:19:35|
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十  将軍家入京     『京都守護職始末1』

 空前の質素簡略     三月四日、これよりさきに、浮浪の徒らが、過激の堂上と謀り、かねて任命のあった伊勢大廟への勅使発向の期日を、ことさらこの日と定め、途中、勅使の威光をもって、まさに入京しようとする将軍家に侮辱を与えようという、密謀のあることを探知したので、昧爽(ほのぼのあけ)のうちに将軍家は入京した。
 松平隠岐守勝成朝臣(伊予松山城主)を前駆として、一日さきに着京されたのである。殿(しんがり)は榊原式部大輔政敬朝臣(越後高田の城主)、扈従(こじゅう)の老中水野泉守忠精朝臣、板倉周防守勝静朝臣、若年寄田沼玄番頭意尊、稲葉兵部少輔正巳、その他諸有司の随従は、ことごとく旧典に従った。ただ諸大名の扈従については、昔の台徳(徳川秀忠)、大猷(徳川家光)二公の旧典はあるが、いまは諸藩がおおむね疲弊しているうえに、時事が多端なので諸事簡易を主(むね)とし、わずかに親藩二、三を従えるだけに止めた。その路々の宿泊なども、旧典には、その国郡の居城、もしくは陣屋をこれにあてたものであるが、いまは略して、 一般の諸侯と同じく、宿駅の本陣をもってこれにあて、旅装も近臣と同一にして、時にあるいは、徒歩(かちだち)したりして、その質素簡略は、じつに空前のことであった。
 この日、在京の諸侯はことごとくこれを郊迎し、二条城に登城して入京を賀した。わが公も、むろん同様であったが、将軍はわが公を近く召して、ひさびさの在京の労をなぐさめること悃篤(こんとく)をきわめた。

 



 明白なる叡慮     これよりさき、京中に流言があり、将軍家参内の日にまず詔(みことのり)してその職を解き、そのあとで謁を賜うということが言いふらされた。それで後見職が鷹司殿下に、親しく天位に咫尺(しせき)し奉り、叡慮の程をうかがうことを願ったが、国事係の堂上がこれを邪魔して、目的を達しなかった。
老中板倉勝静朝臣がこれをきき、大いに憤慨して、将軍家が叡慮遵奉の至誠をつくして、久しい間の廃典をおこして上洛したのに、その誠意が朝廷に貫徹せず、この説があるはなにゆえか。公はすみやかに力を尽さるべしと、後見職をはげました。わが公もまたおなじことを勧告された。
 そこで後見職は奮然と意を決して参内し、鷹司殿下に会って、将軍家が昨日入京した由を奏間し、かしこくも天位に咫尺(しせき)し奉り、新しく叡慮をうかがいたい旨を請うた。殿下は逡巡していたが、後見職は切に請うて止まなかった。国事係の堂上はこれをきいていたが、なに一つはからおうとはしない。ようやく殿下が上奏したところ、すぐさま勅許があったので、三月五日、後見職が参内して御前に召し出された。
 殿下は、玉座の右傍に侍し、すこしへだてて、伝議の両奏衆、国事係の堂上が列を正して着座せられた。慶喜卿は、玉座からはるか遠くはなれていたので、殿下にむかい、将軍の名代だから今すこし玉座に近づき奉るように請うた。殿下は老年で、耳がすこし遠い。慶喜卿のことばが聞きとれずいると、ことばはやくも天聴に達し、詔があって、近くに召させ給うた。
 慶喜卿は恭粛して坐をすすめ、まず将軍の命を奏し、次に「このごろ風説があって、家茂参内の日にまず将軍の職をやめ、それから謁をたまうなどと巷間に言いふらされているので、家茂はじめ臣らは大いにこれに惑っている次第、よって臣にあらかじめ叡慮のあるところを伺ってこいとのこと」と殿下にむかって言上したのを、聖上ははやくも聞こしめされ、
「いや、将軍職は旧のごとく万事を委任する。汝ら、浮説に惑うなかれ、もっとも、攘夷のことはいっそう励精すべし」
 と玉音琅々(ろうろう)として殿階に徹し、末席にいるものの耳にまで達したので、そのため一座は粛然とした。

 



 公卿の謀破れる     慶喜卿はつつしんで聖恩のかたじけなさを拝し、御前をひきしりぞき、さらに殿下に謁して、親しく拝聴した聖詔を筆し賜わんことを請うた。殿下は承諾して、書きしるし賜うたが、単に、攘夷のことをいっそう励むようにとしか書いてない。後見職がつつしんで、聖詔の前のほうが省略されていることを争った。殿下は耳の遠いせいにして、その疎忽を詫び、入って聖旨をうかがい、ふたたび筆をとって、つぶさに勅諚を書きしるしてわたした。
 後見職はこれを拝受して退出したが、さすがに国事係の数人の堂上がその席にいても、一人もこれに争うもののなかったのは、叡慮があまり明白であって、私にこれをいかんともなしがたかったからである。
 この日、後見職は、国事係の人々を退けて、殿下と二人だけ御前にあがって上奏しようと決意していたものの、殿下の形勢が、それを申請することが不可能な状態だったので、ただそのことだけで退出されたが、二条城に帰って、将軍家に謁し、その顛末を言上したときは、すでに暁天であった。それによっても、時態のただごとでないことを察するに足りる。
 三月七日、将軍家の参内があって、在京の諸侯はことごとく扈従した。わが公は、実父松平義建朝臣の喪中なので、はばかって、同行しなかった。

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  1. 2012/10/30(火) 06:33:22|
  2. 京都守護職始末1
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九  浪士の悪戯      『京都守護職始末1』

 尊氏の首事件     右のように、過激浮浪の徒輩は、種々の手段をもって公武の一和を妨害し、将軍家入京のときが近づくに及んで、名分を正しくすべしという議論が朝野のあいだに喧々囂々と起った。
 はたして、二月二十二日の夜、浮浪の徒が等持院にある足利尊氏以下三代【注一】の将軍の木造の首を取って、これを三条大橋の下に梟(さら)し、その下にそれぞれの位牌を掛け、かたわらに左の文を書いた板札を立てた。
                                  
逆賊       
 足利尊氏     
 同 義詮     
 同 義満
名分を正すべき今日に当り、鎌倉以来の逆臣一吟味をとげ誅戮いたすべきところ、この三賊は巨魁たるによって、まずは醜像へ天誅を加うるものなり
 文久三年亥二月二十三日      
  逆賊足利十五代
この者の悪逆は、すでに先哲の弁駁(べんばく)するところ、万民のよく知るところにして、今更申すに及ばずと言えども、この度、この影像共を斬戮せしめしについては、贅言ながらいささかその罪状を示すべし。そもそもこの皇国の大道たるや、忠義の二字をもってその大本とするは、神代以来の御風習なるを、賊魁鎌倉頼朝世に出で、朝廷を悩まし奉り、不臣の手はじめをいたし、ついで北条足利に至りては、その罪悪じつに容るべからず。天地神人ともに誅するとことなり。然りといえども、当時天下錯乱、名分粉擾の世、朝廷御微力にして、その罪を糺し給うことあたわず、遺憾ただ悲しむべきなり。いまこの遺物を見るに至りても、真に憤激に堪えず。我々不敏なりといえども、五百年昔の世に出でたらんには、生首引抜かんものをと、拳を握り、切歯、片時も止むことあたわず、今こそ不臣の奴原の罪科を正すべきの機会なり。故に我々申し合せ、まずその巨賊の大罪を罰し、大義名分を明さんがため、昨夜等持院にあるところの高氏はじめ、その子孫の奴原の影像を取出し首をはね、これを梟首し、いささか旧来の蓄憤を散ずるものなり。
 亥二月二十三日
大将軍織田公により、右の賊統断滅し、いささかは愉快というべし。然るに、それより爾来今世に至り、この奸賊に超過し候ものあり、その党あまたにして、その罪悪足利氏の右に出ず。もしそれらの輩、ただちに旧悪を悔い、忠節をぬきんでて、鎌倉以来の悪弊を掃除し、朝廷を輔佐し奉り、古昔にかえし、積悪を償うところなくんば、満天下の有志追々大挙して、罪科を糺すべきものなり。
 右は三日の間晒(さら)しておくものなり。もし捨て候のものは、きっと罪科に行なうべきものなり。


 これはすなわち、公然と幕府を指称して、尊氏の首級を将軍に擬したものである。

 




 大庭機の密偵     はじめ、わが公が京師に入るや否や、公用局の下司(げし)大庭機に、浮浪の徒と交遊させ、その動勢をさぐらせた。大庭は知遇のかたじけなさに感激し、死をちかってその任務をつとめた。
 時に、浮浪の徒のなかに、江戸の人諸岡節斎、伊予の人三輪田綱一郎、下総の人宮和田勇太郎、信濃の人高松趙乃助、因幡の人仙石佐多男、石川一、陸奥の人長沢真古登、下総の人青柳健之助などが皆、平田篤胤【注二】の門人、もしくは没後の門人と称して、荒唐無稽の陋説を主張し、みずから尊王家を誇っていた。常陸の人建部建一郎、信濃の人角田由三郎、備前の人野呂久佐衛門、岡元太郎、京都の商人長尾郁三郎、小室利喜蔵(後に信夫)、近江の商人西川善六郎、浪人中島永吉など相和して、その論ずるところ、過激、疎暴至らざるなしといった状態であった。
 機はこれらと交遊して、その歓心を得、すこぶる崇信されるようになったので、木造梟首の企てがあったときも、機はためらう様子をみせず、みずから衆に先立ってこの暴挙をなし、ひそかに帰って、くわしくそれをわが公用局に報じた。

 



 公逮捕を決意     公はそれをきき、それまでは浪士に対して包容を主として、きわめて寛優であったのが、それ以来はやりかたをあらためた。
 そもそも、尊氏らについては、世論がさまざまあるが、いやしくも朝廷が官位を賜い、天下の政権をあずかってその功も少なくはない。このような尊貴の者をはずかしめることは、そのまま朝廷を侮辱するとおなじである。ことに、その暴行は、屍に鞭うつにひとしい。すみやかに彼らを逮捕して厳刑に処さなければ、国家の典刑が立ちがたいとして、二十五日の夜、町奉行に命じて、彼らを捕縛せしめようとした。
 すると、部下の与力平塚飄斎が町奉行に、木偶梟首の一党は、現に京師にいる者だけで四、五百人はあると聞き及ぶ。いまこれを捕えようとすれば、かならず余党が一時に蜂起して、守護職の力でも、あるいは制し難かろうと申し出た。
 それをきいて奉行やその部下の衆も躊躇し、しばらく逮捕の断行をのばして様子をみることをわが公に請うた。
 飄斎はまた、そのことを伊勢の人世古格太郎に知らせた。格太郎はまた、それを三条実美卿に告げた。そこで卿は、格太郎をつかわして、わが公に逮捕の中止をもとめた。

 



 飄斎の自殺     しかし公は、浮浪の徒がたとえ幾百人いようとも元来烏合の鼠輩、なにほどのことでもないし、たとえ彼等が強力であっても、国家の典刑は正さねばならないと思った。
 また、わが藩臣のうちでは、機密に参与している者で、飄斎が密事を世古に漏らしたことを怒り、赦すべからざることだとするものがいた。そのことが飄斎にきこえたので、飄斎は自殺をはかった。
 これはもともと永吉らの流言の策で、飄斎をうごかして、これを奉行に通報させて、浪人狩りを止めさせようとしたものであった。それとはさとらず、飄斎は騒擾の患いをまねくのを恐れて進言したのだった。機の言から、暴徒の所在をつきとめ、逮捕を町奉行に命じ、またその部下の与力同心らが浪士を怖れて失敗することを慮って、賊一人に対して上士二人、下士二人、足軽三人の割合でわが藩士を配置せしめて、与力同心の力をかりずとも、わが藩士のみにて十分逮捕の実力があがるように期したのであった。

 



 浪士を逮捕     二十六日の夜半、逮捕の諸隊は黒谷を発し、その一隊は、久佐衛門の住居のある満足稲荷神社前にむかい、他の一隊は、祗園新地の妓楼奈良屋にむかった。
 祗園では、綱一郎、建一郎、勇太郎、真古登を機といっしょに捕えた。満足稲荷神社前に行って久佐衛門、元太郎をたずねたが見あたらず、その隊を移して、二条衣棚(ころもたな)の綱一郎の寓居にいたり、節斎、趙之助、建之助を捕えた。佐多男は自決した。つづいて、郁三郎を捕え、永吉をさがしたが、姿がない。久佐衛門と善六とは、その後に、近江で逮捕された。

 



 伝奏衆に報告     翌二十七日、わが公は、その顛末を伝奏衆に上奏した。
その大意は、本月二十二日夜、言葉を尊王の大義に託し、足利三将軍の木像の首を抜いてこれをさらしたものを、昨夜捕えたが、彼らの所為の残逆なるさまは、墓をあばいて屍に鞭うつに等しい。足利氏については世の議論があるといえども、当時、朝廷が大政を委任し、官位を賜わったもので、これをはずかしめるのは、すなわち朝廷を侮辱するものである。加うるに、彼らは、表面足利氏に口をかりて、幕府を侮辱したのである。もし彼らの行為が尊王の衷情から出たものとするならば、さきに、言路洞開、草莽微賤の者でも進言をゆるしているのに、その令を奉ぜず、このような兇暴をあえてなすはずはない。これはじつに、上は朝憲をあなどり、下は、臣子の本分を忘れたものであって、日ならずこれを厳刑にするということであった。

 



 犯徒を寛典に処す     実美卿一派の堂上の人々はふかくこれを憂い、なんとかして、その罪をゆるめさせようと努力した。総裁、後見職も、大庭機の心事をあわれみ、これを救済しようと、特に町奉行をよんで、天保年間、大塩平八郎の隠謀を密告した某【注三】の例にならい、機をゆるすべきだと論じさせたが、わが公は断乎としてこれに従わない。そこで、衆議で、これら浮浪の徒を諸侯のもとに禁錮することに決した。
 わが公が機の特赦の議に従わないのをみて、両職がことさらに、ことごとくのものを寛典に処するようにはからったとの説もある。すなわち、大庭機と諸岡節斎とを信州上田藩主松平与十郎忠礼の家臣に、青柳健之助、建部建一郎を伊勢久居の藩主藤堂佐渡守高聰の家臣に、長沢真古登を遠江横須賀の藩主西尾鎰之助忠篤の家臣に、野呂久左衛門を越前勝山の藩主小笠原左衛門佐長守の家臣に、三輪田綱一郎を但馬豊岡の藩主京極飛騨守高厚の家臣に、宮和田勇太郎を伊勢薦野(こもの)の藩主土方聟千代雄永の家臣に、いずれもあずけられることになった。

 



 長尾郁三郎     ついで、七月十日、伝奏飛鳥井雅典卿から書をもって左のことを令せられた。

先達て、木首の一件にて召捕られ候浪人、おいおい大名へ、それぞれ預け申しつけられ候由、そのうち郁三郎儀は身柄も相違の由に候えども、やはりほかの浪人同様、大名へ預け申しつけられ候よう、よろしく取りはからわれるべきこと。

 長尾郁三郎は京都の富商で、かつて俳幕の堂上のために、その窮地を救ったことがしばしばあるので、これを禁獄させるのに忍びず、幕府の法令が、士分と町人であつかいのちがうことを知らず、一片の私情からこのような令書をだしたものであって、当時の縉紳家が国家の制典に無知だったことは、およそこの類のことが多いことでわかる。(郁三郎は、その後京都六角の牢に入れられていたが、翌年七月、戦乱の際、丹羽出雲らとともに斬罪になった)。
 この時また、町奉行から、あまねく洛中、洛外に発令があった。
 その大意は、彼の浪士らのごとく、大義名分に名をかりて、私意をはさみ、朝廷を侮辱するものは、いっさいこれをゆるさないが、真に尊王攘夷を志すものは、もとより朝廷、幕府においても嘉尚するところであるから、いよいよその志を励むように。ただし、みだりに過激に走り、騒擾を起すものは決してこれをゆるさないということであった。はじめ京師の人らは、わが公が浪士に対して寛大なのをみて、あるいはこれを疑うものも多かったが、ここに至って、その真意がどこにあるかをさとり、こぞってわれわれに依頼するに至った。

 



 学習院問題     二月二十五日、伝奏衆がわが公に勅旨をつたえて、学習院内があまりに狭隘であるから、わが藩士守衛の建物を新設すべしとのことであった。
 そこで、その計画を立てているところへ、またさらに評定所を設けて、あまねく公卿諸侯を会し、天下の訟獄を決断させるようにする。その建物の造営が間に合わないあいだは、学習院をそこの場所にあてるとの内旨がつたえられた。
 その時、長門藩は君臣ともに、足利三代の木像をはずかしめた浪人たちの罪をゆるすことを主張し、ついに、伝奏衆が、総裁職に書をよせて、前日、守護職の捕えた足利三代の木像をはずかしめた者たちは、その心事を酌量すればじつに正義の士と言うべきで、これを逮捕したことがよいことか、わるいことか、また人心がそれに服するかどうかを問わず、ともかくその刑期をゆるすべしということであった。
 わが藩士は、これをきいて沸然として、朝廷は彼らを正義とし、捕えたわれわれを不正と考えている。いやしくも兇暴を行うものをもって正義とするならば、国家の典刑はどこにあるかと息まき、なかにも、逮捕に直接あたった年壮血気の輩四十余人は、ことごとく正服して伝奏衆野宮定功卿の邸に集った。
 卿が病床にあったので、その臣大下右兵衛尉と会って大いに論ずるところがあったが、わが藩士の言い条がもっともであるということになり、卿の病気がなおり次第参朝して弁明することを約した。
 わが藩士らは、その足で学習院に詣り、三条西李知卿、姉小路公知朝臣、壬生基修朝臣、中山忠光朝臣らに謁し、左の書面を呈し、その所懐を述べた。

去月召捕り候浪士の輩は正義のきこえこれあり候ところ、そのままに相成り候ては人心騒擾致し候あいだ、召捕り候者ども早々出牢させ候よう仰せ出されこれありやに候ところ、右の者ども先般肥後守の申し上げ候通り、人臣至極の官位を蔑如致し候段、天朝を憚らず、この道一度相開け候わば、恐れながら、宮堂上の御方に対し奉りいかようの非礼相加え候ように成りゆくも計りがたく、余儀なく召捕り候儀にて、もとより至当の事に候。然るところ、彼らを正義の者と仰せ出され候は、なんたる件をお指しなされ候や、恐れながら、主上には御聖明にあらせられ候えば、断然右様の御沙汰これなき筈と存じ奉り候。
されば、なんたる訳柄(わけがら)にて右様の御沙汰御座候や。その根元承り届け、重大罪科にかかり候所置、公平の次第言上し奉り、至当の御沙汰下されず候では、壮年必死の輩、なにぶんとも居りあい申さず、ついに藩籍を脱し、いかなる恐れ入り候儀を生じ候も計りがたく候間、なにとぞ正、不正の間明白にして、天下後世の疑惑これなきよう御所置下されたく、私どもにおいて嘆願し奉り候。以上。(三月六日)


 諸公卿もその言葉に理があるので、争うこともできず、時にわが公は多事で、連日二条城にあったが、これをきいて大いに驚き、急に外島義直をつかわし、これをおさえさせた。
 義直がきてみると、衆はまさに、坊城俊克卿の邸にいたって弁疎しようとするところであった。義直がわが公の命を伝えたので、やむなく退帰した。義直はそこで、学習院の吏員某に会い、わが公の意から出たことでない由を謝して帰った。総裁職もまた書面を伝奏衆に送って、浪士どもを正義とするゆえんを知らず、いやしくも正義の士が兇暴の処為をするわけはない。これをあえてするは、すなわち不正の徒の証拠である。ゆえに断じてゆるすべからずと、辞気凛然たる申し分であったので、ついに事はそのままになった。
 事のはじまりは、さきに浮浪の徒が王政復古を説き、大内裏を造営し、評定所を設くることを論じ立てたが、そのときは公卿達が耳をかさなかったのに、いま急に学習院に評定所を授ける論が起ったのをしおに、彼の暴徒たちの特赦のことをとりあげようという密計に出たのだという。

 



 英国軍艦来る     そのころ、将軍家の入京がま近というので、翹首(ぎょうしゅ)してこれを待っていたところ、江戸から急報があって、英国軍艦数隻が横浜に来航し、去年武州生麦駅で、島津三郎のために英国人が殺害されたその復仇として、同氏の首級【注四】を渡されたい、もしそれができなければ賠償金をもらおうと言ってきた。
 そのほか、江戸御殿山の館の焼討ち【注五】、または外国人殺傷【注六】のことなど数件を合わせて、その賠償金を幕府に要求してきて、事はなはだ急である。わが応答によっては、ただちに兵端をひらきかねない先方の勢いであるということであった。
 そこで二月の二十八日、後見、総裁の両職およびわが公らは評議し、英国が日限を切って返答を迫ってきているが、将軍家旅行中ということで、うまく条理を立てて応待させるため、まず大目付竹本甲斐守にその旨を授けて、東下せしめた。
 すぐさま総裁職は参内して、英国軍艦来航のこと、竹本甲斐守東下のことを奏上してから、在京の諸藩を二条城にあつめ、この由を告げ、ことによると開戦になるやも計りがたいから、沿海に領邑をもつ職藩はすみやかに兵備を整え、万一に備えるようにと訓令した。沿海の諸藩は大いにおどろき、倉皇として京師を去って帰国するものが多かったので、それでなくても風声鶴唳にもおどろく京師の人心は、いまこの報があって諸藩があわただしく帰国するのを見るにおよび、種子の附会の流言が紛々として起り、甲説乙伝、人心恟々のありさまとなった。

 



 再び物情騒然     これに乗じて、浮浪の徒は、大いに幕府の因循を鳴らし、所々に張札をして、横浜または長崎に行って攘夷のさきがけをするための同志をあつめにかかった。過激の堂上も、これに傾聴して、殿下に迫るなど、すこぶる喧囂(けんごう)をきわめた。
 そこでわが公は、日夜警邏を厳重にして、不慮を戒めた。およそ春以来、わが公の多忙なことは、一つの難題を処理し終ると、すでに数件の難事件が双肩にかかっていて、あるときは禁中および親王公卿のあいだを奔走し、あるときは二条城に徹宵し、もしくは後見、総裁、諸藩の館に駕籠をはせるなど、夜をもって日に継ぎ、ほとんど寧居にいとまなく、その苦心、煩労は筆舌にあらわし得ないほどであった。

 



 【注】
     
【一 足利尊氏以下三代】 室町幕府の第一代将軍尊氏(一三〇五~五八)、第二代義詮(一三三〇~六七)、第三代義満(一三五八~一四〇八)を指す。
足利尊氏ははじめ鎌倉幕府に仕え、後醍醐天皇の反幕計画に参加、建武中興の勲功第一人者とされたが、のち光明天皇(北朝)を擁して後醍醐天皇(南朝)を擁する楠木正成らの軍をほろぼし、一三三八年征夷大将軍に任ぜられた。ために幕末の狂信的な尊王派の間では、尊氏らを逆賊とみなしたものである。

【二 平田篤胤】 一七七六~一八四三。本居宣長の没後の門人で、国学者。国学は、彼の手によって神道的色彩を濃くした。儒教、仏教を外来思想として排撃し、また従来の山王、両部、法華の諸神道をはじめ、渡会神道、垂加神道も、儒、仏の影響をうけたものとして非難し、復古神道を唱えた。その狂熱的神秘的学風は、宣長のあとをうける正統派から嫌われ、和歌、古典の研究を主とする江戸、京都の国学者からも忌まれたが、関東、中部、奥羽地方の神社神官や農村の庄屋層に信奉され、その中から尊王攘夷論を育てるに至った。

【三 大塩平八郎の陰謀を密告した某】 大塩平八郎(中斎)は大阪東町奉行所与力であるが、陽明学者として著名である。彼は、天保八年(一八三七)、米価暴騰して市民が生活に苦しみ、不正をはたらく役人、富商が民衆の窮状をかえりみぬのを憤り、挙兵を計画した。ところが、一味の同心平山助次郎が変心して、これを奉行に内報したので、予定を変じて急に事をおこした。この大塩の乱は一日で鎮定されたが、公然幕府に反抗して兵を挙げた最初の事件として、世人に衝撃をあたえた。乱後、大塩は自殺し、逮捕された関係者は厳罰に処せられたが、訴人平山は罰せられず、御抱席から御普代席へと格式をあげられた。もっとも同時に小普請入、つまり休職を命ぜられたから、賞与とはいえない。

【四 同氏の首級】 生麦事件にたいする英国側の幕府への要求は、謝罪と賠償金支払いとであり、島津久光の首級を得て伝々と求めたという事実はない。

【五 江戸御殿山の館の焼き討ち】 文久二年十二月十二日、高杉晋作、久坂玄瑞、志道聞多(井上馨)、伊藤俊輔(博文)ら、長州藩尊攘派は、竣工まぎわの御殿山英国公使館を焼きうちした。これよりさき、晋作らは横浜居留民を襲撃する計画であったが、実行直前、土州藩前藩主山内豊信、長州藩主毛利定広の慰撫をうけて、企てを中止した。

【六 外国人殺傷】 文久元年の水戸浪士、同二年の松本藩士による両度の東禅寺(英国公使館)襲撃事件で、公使館員・水兵を死傷させた。

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  1. 2012/10/28(日) 11:10:16|
  2. 京都守護職始末1
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八  わが公はじめて参内拝謁     『京都守護職始末1』

 御衣を賜わる     文久三年正月二日、わが公ははじめて参内し、新年を賀し奉り、小御所で竜顔を拝し、天杯を賜わった。また、去る年、伝奏衆【注一】から幕府に白(もう)した勅使待遇の礼をあらため、君臣の名分を明らかにすることに尽力した功を叡感あって、特に緋の御衣を下し賜わり、戦袍か直垂に作り直すがよいとの恩詔を下し賜った。武士で御料の御衣を賜わったのは、古来稀有のことで、殊に徳川幕府になってからは、けだし空前の隆恩であった。
 この日、わが公は御太刀、馬代、蝋燭などを献上した。親王御方への献上物もこれに準じ、準后(準三后の略称)御方【注二】には紅白の縮緬(ちりめん)を献じ、つつしんで在任の慶(よろこび)をあらわした。同四日、御太刀、馬代、蝋燭を献じて、新年の賀儀をあらわしたが、それが後々の前例となった(その他月々の献品のことがあるが、今はこれを略す)。

 



 摂海防備の調査     これよりさき、京師では、外舶が摂津の海へ入航するという浮説【注三】紛々たるものがあったので、朝廷は、在京の諸大名にその防備の方策を奏上させた。わが公は、家老田中玄清らに、淀川を下って各所の地勢を按検させた。
 彼らが帰ってきての報告に、山城の地は四面山岳が蜿蜒(えんえん)として繞(めぐ)り、自然の城壁をなし、まことに山城という名にそむかない。八幡山崎の辺で山々が両方から迫り、一水の通じるところ、これまた自然の関門を作っている。他の通路にも、嶮岨な地勢をえらんで関門を設ければ十分であると、その議数ヵ条を書いて奉った。そこで、八幡、山崎以下の要地に関所をつくらせた。

 




 騒然たる都     そのころ、将軍家の上洛がさしせまり、長門、因幡らをはじめ、諸藩主が続々と入京した。したがって、その藩士のうちに、過激な論を唱えてたがいに往来するものがあり、かの勇士と称する浮浪の徒も競ってその門に出入し、事実を横議すること鼎(かなえ)の沸くごときありさまであった。
 元来、京都人の風俗は優柔、沈着であったのだが、近頃、浮浪の徒が横行し殺伐をほしいままにしたために、人々はたがいに危惧の念を抱き、夜間は早くから門戸をとざし、往来はと絶え、風声鶴唳にもおどろいて立ち退くというありさまであったので、わが公は入京のはじめに当って、まず浮浪の横議を根底から鎮定しようとした。

 



 公卿の貧しさ     幕府の制度は戦国以来の旧習によるもので、今日の事情に適応しない点はこれを改め、また天皇家の御料は定額であるにもかかわらず物価は何倍にもなっていて、そのうえ、あいだに立つ小吏たちがかすめとったりするので、充備を欠いていた。殊に堂上家はもともと薄祿なので、すこぶる窮乏をきわめ、なかには、内職をして生計の資にあてているものもあり、その人たちが、常に幕吏の富裕なのをねたんでいたところへ、攘夷論が起って 、幕府の所置が当を失うことたびたびであった。
 そこへ浮浪の徒が入説煽動したりするので、ことはますます紛糾するばかりであった。そこで、公は御料に額を定める制を廃し、あわせて堂上家のふところを賑わせることなどを、幕府に建議した。そうなれば浮浪の徒は口実を失うはずなのに、その横暴は依然として続いた。
 そこで、町奉行に旨を論して、大いに鎮撫に力をつくさしめた。部下の与力山田省三(戊午の大獄を構成するのに預かって力があった者)らをしりぞけ、平塚飄斉、草間列五郎、諫川建次郎、北尾平次(戊年のことに坐して幽閉されていた者)を挙用し、その他、儒者の中島永吉(今の錫胤)をはじめ、かつては志士と称せられて罪を獲た輩をことごとくゆるし、ひたすら、民心の綬撫にはげみ、命令が行われなかったり、兇暴の訴えがあったりするごとに、公は、それをみな自分の不肖の致すところとして、一言も責を下僚に及ぼさなかったので、やがて下僚の輩もこれにならい、職責を重んじて尽瘁するようになった。

 



 関白辞職す     この月(正月)十七日、長門藩主毛利大膳大夫慶親朝臣が、参議に任ぜられた。
 これまでは、近衛殿下の姻戚という理由から、常に多く薩州の議を採用してきた。三条実美卿ら、過激派の堂上の人々は、薩藩の主張がややもすれば公武一和にかたむくのを嫌忌して、長門藩を薩州の右に出させて、その威力を借りて素志をつらぬこうとし、慶親朝臣を中納言に陛(のぼ)せることを奏請した。しかし、その時、獅子王院宮(中川宮)と右大臣二条斉敬公、内大臣徳大寺公純公、左大将近衛忠房卿らは、その越階は希有の例【注四】として承知しなかったが、過激堂上が固く請うて止まないので、ついにやむをえず一階をすすめて参議に任じたのである。当時、過激堂上の跳梁が親王大臣を圧する情勢は、およそかくのごとくであった。
 このため近衛殿下の意中はおだやかでなく、卒然として辞職を奏請した。二十三日允裁(いんさい)があって、なお内覧【注五】今までのとおりとの宣下があり、前右大臣鷹司輔熙公が代って、関白、氏の長者【注六】の詔をこうむった。

 



 池内大学殺さる     二十二日(正月)夜、浮浪の徒が処士の池内大学【注七】を大阪で暗殺し、その首を難波橋にさらした。そのかたわらに、
「この者、正義の士に与して周旋していたが、寝返って姦吏に通じ、諸藩の誠忠の士を斃して、自分だけはうまくのがれていた。よって天誅を加える」
 と書いて掲示した。
 池内大学はもと京都の人で、儒学をもって堂上家に出入し、名声すこぶるきこえていた。戊午の嶽に罪をえて追放され、後ゆるされて大阪に居住し、名を退蔵と改め、前事に懲りてふたたび時事を談じなかった。しかし、彼の口から志士たちの秘密が漏泄することが多く、彼らから反覆の小人と罵られていた。この時、山内豊信朝臣(土佐藩主、隠居して容堂と号した)は上京の途次、大阪の旅館に大学を招き、酒食を与えて断じ、大学は夜ふけて帰途についた。四人の刺客が、彼を途に要して、駕のなかで殺した。

 



 耳を投げ込む     こえて二十四日、その左右の耳を切って、正親町三条実愛卿、中山大納言忠能卿の邸に、その一つずつを投げ込み、「戊午以来、千種、岩倉の二朝臣に同意し、両卿が酒井修理大夫をたすけ、賄賂をむさぼるなど罪あるをもって、三日のうちに議奏の職を辞めなければこの耳のようにする」
 との書き添えてあった。両卿は大いにおどろき、これを朝廷に言上した。満朝の人々も驚愕色を失い、三日後ついに両卿の職を罷免した。この時、高松三位保実卿が、急に尾張およびわが藩へ左のような書を寄せてきた。当時の朝廷の情況がそれでほぼ推察できよう。

急帖をもって貴意を得候。そは過日、浪華に於て討取り候池内大学の左右の耳を、中山家、正親町三条家へ、浪士共持込み候儀、宮中御評議軽からず相成りゆき、ついに昨夜、両亜相【注八】、議奏の御役御免、隠居相成り、このあとの万端の朝政の執器いかが相なるべきや、誠にもって案ぜられ候次第に落入り候。尤も、摂家万集会、御評議これあり候。この段、尾陽前亜相並びに会津候、越前候などへも急聴然るべしと存じ候。尤も一橋黄門公へは保実より急ぎ注進申し入れ候儀に候なり。
 正月二十八日
 尾陽候
 会 候
 その筋有志中急々


 



 賀川肇殺さる     二月の朔日の夜、かの徒七、八人が千種家に、四、五人が岩倉家に現われて、いずれも死人の手と封書を出し、これを入道殿(去年九条前関白【注九】、左大臣尚忠公、久我内大臣建通公、岩倉中将具視朝臣、千種小将有文朝臣、富小路中務大輔敬直朝臣、少将の掌侍(今城氏)、右衛門の内侍(堀川氏、具視朝臣の実妹)、勅勘をこうむり、落飾した。ゆえに入道殿と言った)に披露せられよと言った。両家の臣らは畏縮してその名を問うひまもなく、彼らもまたすぐさま立ち去った。
 その書をひらいてみて、死人の手が賀川肇の手とわかった。
「肇はかつて、公らの奸策を助けたことがある。それで献上する次第だ。きくところによれば、近日、少将、右衛門の両女官【注十】が複職するとのこと、もしそのようなことがあれば、これと同じ結果になると両女官に告げてほしい」
 と記してあった。
 肇は千種家の雑掌(雑事を扱う小役人)で、時事に奔走し、堂上や諸藩に名を知られていたものである。
 正月二十八日の夜、かの徒党十余人が白刃をふるって賀川の家に乱入し、さがしたが見あたらないので、代わりにその子を捕えて殺そうとした。肇は聞くに忍びず、壁のむこうから出てきてこれを制し、ついに殺された。彼らはその首と両手を断ち、壁に罪状を書き記したが、それには「献毒を謀り、また町奉行与力加納繁三郎、渡辺金三郎などとともに奸を謀り、あるいは少将、右衛門の両掌侍の復職を請願する」などの数件が書いてあった。ことの実否はわからないが、これは当時喧伝されたところの流説であった。

 



 殺掠相次ぐ     その夜また、後見職の旅館の前に、肇の首を白片木にのせ、奉書紙でこれを包み、かつ、小笠原図書頭、大目付岡部駿河守、目付沢勘七郎の三氏にあてた一書をそえてさし置いていった。
 その書の大意は「攘夷の勅を遵奉したからには、すみやかに夷狄を拒絶すべきであるのに、偸安にながれているのは、遵奉が名ばかりで、その実、開港通商を欲していることは疑いないことである。このように朝命をないがしろにするならば、天下の有志のものは決して許しておきはしない。よって、すみやかに攘夷の期限を定め、天下の疑惑を解くがよい。粗末な首級であるが、いささか攘夷の血祭として祝意をあらわす」というので、言辞無礼をきわめたものであった。
 朝廷、幕府の重職に対してすらこのとおりである。いわんや他においておや。あるいは町奉行部下同心の手先、または年行事(五人組や組合の事務にあたる者)らを某所で殺戮し、あるいは某町の商家に押し入って金銀をうばうなど、おおよそ日に二、三件、このような訴えのないことはない。彼らの兇暴はその極に達し、口を尊王攘夷にかりて、じつは酒色の費用に盗賊をなす者がおおかたである。
 しかし、町奉行の部下の与力、同心たちも、彼らの気勢に辟易して、誰一人進んで逮捕に力をつくそうとするものがなく、したがって犯人はあがらない。京中の人心は恟々として、その騒擾は、前に幾倍するものがあった。

 



 鎮撫の対策     この時、わが公は軽い病いで休んでおられたが、日一日と騒擾がはげしくなってゆくのを見すごしていられず、まず後見職に書をよせて、「近来浮浪の徒が輦轂(れんこく)の下もはばからず、兇暴日につのり、前夜は両議奏の邸に、一昨夜は、千種、岩倉両家に、また、貴館にもおしかけたとのこと。そもそも、彼らをして高貴を侮慢するに至らしめたのは、帰するところ容保の曠職の責であって、逃れることはできない。事のここに至ったゆえんを考えると、これまったく言路がふさがれ、下情が上に達しないためであると思うゆえに、すぐにも令を下して言路を洞開し、物情をしずめることが先決である。よって、その草案をつくって呈供する」と述べた。
 後見職はこれを見て、貴意はなはだけっこうではあるが、浮浪の徒がこれに乗じて、むらがり来って、囂々(ごうごう)と私見を主張するに至れば、その繁雑さには耐えられない、と言って、受けつけようとしない。わが公が再三これをうながすと、後見職は、この多忙の際にこれ以上煩雑を加えるのは迷惑至極、ただし、貴方一人でおやりになって他に累を及ぼさないのならば御勝手、という返事であった。
 公はもとより他を累するつもりはなく、自分でこれにあたるつもりでいたので、この旨を所司代牧野忠恭朝臣に示し、京中に発令させようとした。忠恭朝臣もまた逡巡して、このような未曽有のことは、老中の命がなければ行ない難いと言って従おうとしない。公は、いまこの機会を失ったら他日臍(ほぞ)を噛むことになろう、すぐさま町奉行に命じて、発令させるのが、捷径(はやみち)と考え、これを命令した。
 その大意は「今日、攘夷と事が決まり、旧弊を一新し、人心が協和すべきはずの時に、輦轂の下で勝手に人を殺害するものがあるのは、言路壅蔽の致すところである。以後あらためて、国事の得失に関することは、内外大小を問わず、はばかるところなく有志について進言すべし。もしはばかるところがある場合は、減封して呈供すべし。事柄によっては、直接守護職に会って陳述することも許す」というのであった。元来、当時の風習としては、一つの訴願にもかならず町内組合の連署をもって、まずその草案を町奉行部下の与力同心に示し、添削を受けてから上達することになっていたので、はなはだ煩わしいものであったのを、このときからその風を一掃して、人民のためにはたいへん便利なことになった。

 



 将軍上洛を促す     はじめわが公が守護職に任ずるや、過激な堂上たちが、幕府の親藩が守護職を選任することを嫌忌して、ひそかに島津久光と並任しようと謀った。幕府老中の人人はこれをきいて大いに憂慮し、わが藩の者もまた、久光が無位無官なのにわが公と並任せられるときいてあきたらず思う者が多かった。公は、それをさとして、いやしくも朝廷と幕府にとって稗益するのならば、三郎でも四郎でもよい、官位の有無など問題ではないと言われた。
 しかし老中の人々は心を安んぜず、久光の上京の前に将軍家が上洛あって、親しく禁闕を守護し、物情を鎮定すべきである。元来上洛のことは、大原勅使下向の時、確定したことであるから、いずれにしてもこの春早々上洛あるべきであると、すでにそのことは、公が江戸を発つ前に内諭されていたことであった。
 公は着京してから京師の情況をながめて、両守護職の処置はともかくとして、将軍家が早く上洛して万機にあたるようにならなければ、公武一和の実績はあがり難いことをさとり、この月(正月)二十八日、家臣丹羽宗源(勘解由)、外島善直にその旨を授けて東下させ、将軍家の上洛をうながさせた。

 



 英邁なる中川宮     二十九日(正月)、青蓮院門主尊融法親王に還俗(げんぞく)せよという内旨が下った。
 法親王は伏見貞敬親王の御子で、先帝の御猶子として青蓮院に入室して得度し、尊融法親王と称したまい、後、戊午の大獄に干連【注十一】して退隠され、獅子王院宮と称し、昨年七月青蓮院へ再住の命があった。天資英邁で、ふかく国事を憂え、ときどき天皇の諮詢をうけて意見を申し上げることがあったという(あるいは関東の俗吏らは、宮の真意を知らず、過激派の巨魁のように誤認し、江戸に迎えて清水家の家祿十万石を付けて、御心をやわらげたら、などと議するものもあったという)。
 そのようなわけで主上もふかく御依頼の念があったが、なにぶん法体であるので、しばしば玉座に咫尺(しせき)したもうこともできず、そのことを常に惜しまれていたところ、後見職上京のときの建議数条のなかに、宮の還俗のことにもふれていたので、主上はこれを嘉納あらせられて、この日のうちに、とくに内旨を下し賜うたのである。
 しかし、法親王は躊躇され、あえて命を拝されなかった。
 けだしその理由は、これよりさきに、諸藩士らが競って宮堂上のあいだに入説したが、薩摩藩の説は公武一和にあったので、親王は大いにこれを嘉したまい、その所説に耳を傾けられたので、その後出入りするものは、薩摩藩士ばかりとなった。そこで、他藩士は心平らかならず、なかでも長門藩士などはその主が中納言推任の議を否決されたという理由で、はなはだしく親王を怨むようになった。親王もまた、このことを慮りたまい、たやすく内旨を拝したまわず、この年の八月二十七日に至り、ようやく勅を奉じて還俗され、弾正尹【注十二】に任ぜられたもうた。尹宮と申し、また、賀陽殿におられたので、賀陽宮、または中川宮とも申し上げる。後の久邇宮朝彦親王の御事である。

 



 唐橋村惣助の首     この月(二月)七日、山内豊信朝臣の館の前に人の首級を風呂敷に包み、緘書をそえて投げ込んだものがある。
 その書の大意は「この首は唐橋村惣助【注十三】の首である。常に千種家に出入りして奸を助けていたものだ。いまはすでに攘夷と決し、大樹公(将軍)の上洛もま近である。この時にあたって、老公の処置は神州の安危にかかわるものだ。早く攘夷の期限を定め、宸襟を安んじ奉られるように。血祭りの証にこの首をたてまつる」というのであった。
 豊信朝臣は資性豪放であるが、事体を見る明があり、攘夷のなすべからざることをさとって、今日の急務はただ公武一和にありと考え、江戸にあったときも、後見総裁両職および伊達宗城朝臣とともに、攘夷の朝議をひるがえそうと議(はか)ったことがある。たまたまその藩臣武市半平太、小南五郎右衛門、土方楠左衛門(今の久元)一派の輩がそれをきいて、因循な俗論として憤慨し、ことさらこれを激せんがためにこの暴挙に出たということである。
 わが公はこれをきいて安心できず、即日病を押して鷹司殿下のもとに伺い、右等の兇暴の次第を述べ、「この輩は天威を恐れず尊貴をあなどる。罪万死に当るが、その根底をきわめてみれば、畢竟、上下の事情がへだたりすぎていることによる。ゆえに、あまねく令を発して、言路をひらく方法をとることにした。それでもなお令に従わないもの、また匿名の書を投じて人心を惑乱させるようなふるまいをする者があれば、容保、職責をもって厳にこれを逮捕する。ゆえに、堂上家においても、万一これらの事があっても、みだりに動揺されることのないように」と述べた。

 



 逮捕令を発す     殿下も大いに賛成して、ただちに奏聞されたところ、叡慮の浅からざる旨の通達があった。
 そこで、左のとおりの令を布達した。

当春以来、藩臣浮浪の徒、堂上家へ立ち入り、正義の士と唱え、種々の入説を致し候より、叡慮貫撤致さざること往々にこれあり。したがって不心得の者ども横行致し、無辜(むこ)のものを残害し、ほしいままに火を放ち、家屋を毀(こぼ)ち、あるいは張紙などをいたし町方を騒がせ、ついには容易ならざる巧みに及び候きこえもこれあり、言語同断の儀に候。しかるところ、今度は勿体なくも宸襟より発し、右等の弊風御改革あそばされ、取締り方きっと仰せつけられ候。御吟味もこれあり候間、一同安心致すべく候。なおまた、今度の叡慮の有難きを知らず、往々心得ちがいのものこれあり公けに申出でもこれなく、無根の説を立て、人心の迷惑を生じ候儀甚だいかがに候。もしまた存意これあらば忌憚なく申し出ずべき旨、かぬがね守護職の申付もこれあり候間、以来心得ちがいこれなきよう致すべき事。

 



 攘夷期限論起こる     これより後、轟式兵衛、中島永吉、藤本津乃助ら来謁して、陳述するところがあった。公も、家臣をつかわして往来、交遊せしめ、大いにその思うところを語らせた。
 しかし、浮浪の徒は、ただ一人として公然とやってきて所思を述べるものなく、ただ遠吠えに過激な横議を逞しゅうするにすぎない。
 さきにわが公は家臣丹羽宗源、外島義直の二人を東下させたが、まだその報告もこないうちに、はやくも関西の雄藩が続々入京し、かつ総裁職(松平慶永朝臣)と尾張前大納言慶勝卿らの入京があってから、かの浮浪の徒がしきりに堂上家に入説したので、にわかに攘夷の期限を定める論が、朝野の間に紛然としてきた。しかし、総裁職と土佐、宇和島二候らは、攘夷のなすべからざることを信じて、そのことに意を傾けようとしなかったが、ひとり長門藩は、君臣とも断然これを主張し、堂上家にあっては、三条実美卿がこれを主唱し、ともに名声一時隆々たるありさまであった。
 このゆえに実美卿の声望はほとんど満朝を圧して、関白殿下ですら時には屈従するに至った。わが公は家臣の野村直臣を卿のもとにつかわして、
「さきに容保が、横浜、長崎、箱館の三港をのこし、その他の開港を拒絶しておいて、後規画の熟すのを待って攘夷を断行するという議を建てたところ、公には賛同されたのに、今急にまた断然攘夷の期限を定めようと主張されると聞いたが、貴意ははたして如何」と聞かせた。卿の答えは、「予が前日中将の建議に賛同したのは、天下の人心がまだ攘夷に切迫していなかったからで、今は事情がちがう。天下の人心が滔々としてこれに傾き、形勢また前日の比ではない。ゆえに断然攘夷を決行しなければ、たちまち天下が四分五裂になる端緒をひらくことになる。これが、予が前日の所思をひるがえした理由だ」という。その方略は明らかではないが、真意がどこにあるかはおよそわかってきた。

 



 激派堂上の結束     二月七日、後見職は急騎をはせて、わが公と山内豊信朝臣とを総裁職の館に招き、その節は狩衣(かりぎぬ)の用意をするようにとの命令であった。そこで、公は急いでその館に至り、会議の後、後見、総裁両職と山内豊信朝臣らと相たずさえて、ただちに鷹司殿下の邸をたずねた。
 これはその日、正親町実徳卿、三条西李知卿、橋本実麗卿、豊岡随資卿、東園基敬朝臣、滋井実在朝臣、姉小路公知朝臣、壬生基修朝臣、正親町公董朝臣、石山基文朝臣、錦小路頼徳、沢宣嘉の十二人が合議の上、突然参朝して殿下に迫り、「朝廷がすでに攘夷と一決して勅を下したにもかかわらず、幕府が因循で、まだなんの処断も下そうとしない。勅命を軽んじることはなはだしい。今もし処置をしなかったら、有志の徒輩が憤慨のあまり暴発して、なにをしでかすかしれない。そのときは旦夕に迫っている。すみやかに攘夷の期限を定め、人心を安んじなかったなら、その危害の及ぶところは料(はか)り知ることができない」と詰めよった。
 殿下は、すでに浮浪の徒の兇暴に戦慄していたところへ、いままたこの言葉をきくに及んで、驚愕、周章一方でなく、急に人をはせて後見職にそのことを告げ、攘夷の期限を定めて早く奏聞するように、命じられていた。わが公らの殿下邸訪問はこのことによるものである。
 わが公は、事があまりに重大で、一、二京都にいる役人だけで決断すべきことではないので、そのとおり答えたが、殿下はひたすら浪士暴発の一事を怖れ、事の大小は顧みず、切に期限のことを命ずるばかりで、ほかのことには耳をかそうともしない。そこで、後見、総裁の両職とわが公と、豊信朝臣とで相談の結果、将軍家がすぐにも上洛されるのであるから、その時緒般の処置を評議し、将軍東帰の後で、はじめて攘夷を決行することにする、つまり、期限を定めることは将軍家の江戸帰城の日にしては、と申し上げたところ、殿下もどうやらそれを承諾された。
 しかし、それでもなお安心せず、次の日にはさらに裏辻侍従公愛朝臣と謀り、中島永吉を使者としてわが公に勧め、因幡侯(池田慶徳朝臣、すなわち慶喜卿の兄)とともに後見職に説き、某月某日と期限を確定すべしとせまるのであった。慶徳朝臣もまた、来り告げるところあろうとした。
 その時、熊本の藩士轟式兵衛が、中島永吉とともにわが藩士の館舎を訪れ「将軍家の上洛がま近だと言うのに、後見、総裁の人々が先達して上洛していながら、まだ何の処するところもなく、いたずらに数日をすごしている。あまつさえ攘夷決行が近づき、人心を鼓舞作興すべき時であるのに、有志の輩の敵愾の英気勃々たるのをかえって抑制するもののごとくである。そのゆえに人心は疑惑をいだき、ついに過般のごとく、人の首を後見職の邸に投げ入れるような事態にまで立ち至った。その威厳が滅殺したのは、公がみずからそうさせたようなものである。およそ海内の人心の赴くところは攘夷の一事にあって、朝廷もこれを勅し、幕府もこれを奉じている。有志はその日を一日千秋のおもいで待っているのだ。しかるに、荏苒(じんぜん)と日を送って、まだその準備一つしようとしないのは、じつに後見職が攘夷に対して意志がないからであろう。はたしてそれならば、これは違勅の罪をまぬかれない、諸君はよろしくすみやかに後見職に攘夷の決行を勧めなければならぬ。さもなくば、大事はこれより去るであろう」と言った。
 およそ有志と称する輩が一意攘夷を熱望していることは、おおむねかくのごとくである。

 



 事態切迫す     二月十一日、夜まさに半更になろうという時刻に、後見職が急騎をはせてわが公を迎えにきた。公が行ってみると、門前に人が群躁して、尋常の状態ではない。
 公が入謁すると、後見、総裁の両職と、山内豊信朝臣が額をあつめて、はなはだ憂色の態であった。
 後見職が眉をひそめて、まず口をひらいた。それによると「今夕まえぶれもなく、三条実美卿が退朝してただちに勅使として来駕された。野宮定功卿、橋本実麗卿、豊岡随資卿、阿野公誠卿、滋野井実在朝臣、正親町公董朝臣、姉小路公知朝臣の八人がこれにつきそい、いそぎ総裁、守護の両職が会して攘夷の期限を確定して奏聞すべしという勅命を伝えた。その切迫することかくのごとくである。如何なものか」と言うことであった。
 そこで、前日、関白殿下に答えたとおり奉答することに決し、後見、総裁、守護の三職および豊信朝臣とともに勅使に謁し、そのとおり奉答すると、実美卿は肯(がえん)ぜず、将軍家の買城の日をもって期限とすると言うが、それがいつのことになるや測り難い、はっきり某月某日と確定せよと言うのであった。
 後見職がその月日を確定するのは、後見、総裁、守護職だけの意見で決定すべきではないという事由を陳弁し、また、将軍家の帰城の日取りも、朝旨を請うて、緒般のことを処置してからであるから、これまたいつと月日をきめるわけにはゆかないと奉答した。実美卿も、それ以上強いることもできないので、それならば、将軍家が在京して諸事を終わるまでを十日と見て、海路東帰する期間を十日と見ることができよう、よって、将軍上洛から二十日を期して攘夷を断行するようにと言いわたした。後見職はこれを非難して、将軍在京を十日と限っても、万一延期しなければならない事情が出来(しゆつたい)した場合、かえって欺罔の罪をおかすことになると、論難数刻に及んだが、実美卿は聴こうとせず、ついに将軍上洛後二十日をもって期限とすることに決めて、勅使たちは退出した。そのあいだに、夜はまったく明けてしまった。
 この日の堂上家はことごとく天威を笠にきて、意気昂然、言葉づかいもきびしく、議論もしたがって過激で、すこしも寛仮の態はなく、もしその意のごとくならなければ、すぐ因循ときめつけるのであった。当時、因循という一語は、百害を意味するとおなじであった。ゆえに、こちらがおもむろに条理を立てて論じても、毫もこれを容れず、述べるにしたがって、いよいよ激するばかりであった。
かしこくも叡聖な主上が、このように怱卒に勅使を下され、急激に奉答をうながすのは、不可思議のきわみであるが、これにはふかい事情のあることである。

 




 三個条の建議     これよりさき、熊本藩士轟式兵衛、長門藩士久坂玄瑞、寺島忠三郎の三人が鷹司殿下に祗候して、三個条の建議をたてまつった。
 その建議の第一は、攘夷に一決したと言っても、幕府がこれを決行するとは信じられないから、確然とその期日を定めること。第二は、大いに言路を洞開して、草莽、微賤の者でも自由に権貴の門に出入して、進言せしむべきこと、第三は、朝廷に国事係が置かれてあるとはいえ人選が適当でないので、朝議が往々葛藤して進まない、よろしくこれを改選すべきこと、もしこの議を御採用がなければ、この場において三人とも自刃して相果てるつもりと、決死の覚悟で強迫した。
 殿下は、高齢のうえに性もまた温厚であったので、あまり過激の論は好むところではなかったが、自信が薄く、おのれの所見をあくまで押し通して他人を排斥するようなことができないので、表面上は衆議を容れるようなふうをとったので、諸藩士が多く出入し、なかでも長州藩士がもっとも多いことから、長州関白の称があった。
 けれども、関白の所論には往々にして反覆することが多い。これもまた、いろいろな入説を傾聴することがその原因であろう。ひそかにきくところによれば、かしこくも主上の御信任もうすく(このことは後に出てくる勅書につまびらかである)、ともすると、前関白近衛忠煕公や中川宮を通しての薩摩藩の意見の行われることが多いというので、有志の輩はこれを拒むために、ことさら言路洞開の要請をしたわけである。
 殿下はこの三人の決死の意気込みを見て大いに恐れ、三人の藩の留守居役をよびつけて、つれ帰らせた。その後、日ならずして、十二人の堂上がにわかに参内して殿下に迫り、それからすぐ八人の堂上が急劇の勅使となって、後見、総裁、守護職に迫ったというわけである。その趣旨は、浪士の強請とかわりのないものであった。それらを考えあわせてみると、その勅旨も、はたして、主上の御心であるか否かは多言を要しないところである。

 




 有志者暴発の勢い     朝議がすでに右のごとくであるから、浮浪の徒はこれに雷同して、幕府を因循、苟安とののしり、公然と暴発を唱えてはばかるところがなかった。
 二月十五日、後見職、総裁、守護職、それから伊達宗城朝臣(前宇和島藩主)、山内豊信朝臣らが二条城に会して、この処置を相談した。これより前に、後見職から、有志たちのその暴行はにくむべきではあるが、その志は、一片国を憂うるあまり、君親を捨てて国家につくそうというのである、ゆえに、罪をゆるし、その志を賞すれば、彼らもまた恩に感じて、乱暴を止めるだろうと言う意見が出た。
 わが公は、これを不可として、浪士の患いはなかなか根がふかい。その根本にさかのぼって弊害をのぞく方法を講ぜず、かえってこれを賞めて歓心を買うようなことをすれば、いたずらに彼らの笑侮を招くだけである。ただ、もとのとおり、大目に見て放置しておくのがよいという説をとった。
 事がすでにここにいたり、轟式兵衛らが鷹司殿下に迫ると聞いて、後見職、総裁は、これを除き去らなければいけないと、その徒数十人の名を記し、逮捕させることを主張した。わが公は、かたく前議を執り、後見職らが指して浮浪の徒とする姓名のなかには現に藩士であり、過激の徒とはみられないものも入っている。たとえ過激の徒であるとしても、その罪状が明確でないものが多い、玉石混淆でことごとく追捕すれば、戊午の大獄の再演になってしまう。いましばらくこれを包容し、根本を治めてから、その枝葉に及ぶべきだと論じた。豊信朝臣らもこれに賛同し、総裁職らはかたくとって聞かなかったが、ついにたがいに譲歩し、浮浪の徒を説諭してその主家に帰参させ、主人のない者は、幕府がこれを養うということに議決した。
 堂上家もまたその輩を厭悪して、翌十六日、伝奏衆坊城俊克、野宮定功の両卿から、書面をもって命を伝えて言うには、さきに輦轂(れんこく)のもとでみだりに人を殺し、また奇怪な所業をなすことは厳重に禁じておいたにもかかわらず、いまなお暴行を止めない輩は、よろしく糺索(きゅうさく)して、厳重に処分すべし、一藩の力で不可能ならば、いずれの藩と協力すべきか、その所見を具申すべしということであった。
 わが公はすぐさま駕籠を命じて殿下のもとにまいり、前議を報告した。殿下も首肯し、予の気持は、浮浪の徒をとりしずめたいだけのことで、あまり厳重な処罰をして、平地に風波を立てるようなことは望ましくない。時に、一橋や春岳(慶永)にも謀ってきたか否かと言うので、わが公がまだであると答えると、それならば、その文をあらため、ひたすら鎮静というところに重点を置くようにとのことばであった。わが公はまた、文中の一藩の力伝々は、わが固陋の臣がこれにひっかかり、朝廷の信頼がないものと考えて憂憤するようなことになることを恐れる、と申し出で、殿下もその文をあらためることを約された。浪士逮捕のことを中心することができたのは、みなわが公の尽力であった。
 また、わが公は数隊の兵に、終夜、市街を巡邏せしめたが、それも浮浪の徒に暴行を謹み、反省せしめようと欲したからである。

 




 攘夷勅旨を演達     さきに、後見、総裁、守護職と山内豊信朝臣の連署で、攘夷の期限を奉答したので、朝廷では、二月十七日に堂上家、翌十八日に在京の諸侯を参内せしめた。その人々は、徳川慶喜卿、同慶勝卿(尾州老侯、わが公の実兄)、同茂徳卿(尾州藩主、慶勝卿の養子で、その実弟、またわが公の兄)、黒田斉溥朝臣(筑前侯)、細川慶順朝臣(肥後侯)、蜂須賀茂韶朝臣(雲州侯)、上杉斉憲朝臣(米沢侯)、伊達宗城朝臣(宇和島老侯)、中川久昭(岡侯)およびわが公ら、二十一藩の諸侯である。主上は小御所に出御あって、関白勅旨を演達した。いわく。

近来、醜夷猖獗を逞しうし、興国を覬覦(がいゆ)し、皇国実に容易ならざる形勢につき、万一国体を汚し、神器を欠くのことあるにおいては、列祖の神霊にむかわせられて、これまったく当今寡徳の故とふかく宸衷(しんちゅう)を痛ませられ候について、蛮夷拒絶の叡慮を奉戴し、固有の忠勇を奮起し、すみやかに攘夷の功を遂げ、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民を救い、黠慮(かつりょ)をして永く覬覦の念を絶たしめ、神州を汚さず国体を損ぜざるようとの叡慮にあらせられ候事。

 右一紙、

攘夷拒絶の期限一定に於いては、闔国(こうこく)の人民心を戮(あわ)して忠誠を励むべきはもちろんの儀に候。先年来有志の輩、忠誠報国の純忠をもって周旋候儀、叡慮斜ならず候。よって尚又、言路を洞開せられ、草莽微賤の言といえども叡聞に達し、忠告至当の論は淪没、雍塞(ようそく)せざるようとの深重の思召しに候間、各々忠言を韜(くらま)さず、学習院へ参上致し、御用掛の人人へ揚言すべしと仰せ出でられ候間、乱雑の儀これなきよう相心得申し出でらるべく候事(二月十八日)。

 天皇入御あり、一同勅旨を謹承して廊下に退いた。なおまた、議奏三条実美卿、広幡忠礼卿が書をもって諸侯に告げて言う。

攘夷の期限は大樹公御上洛のうえ言上のおもむきにて、作冬、勅使の勅答これあり候ところ、方今段々容易ならざる時勢差し迫り候につき、過日お使をもって一橋中納言へ御尋ね相成り候ところ、別紙の通り申し上げ候間、心得のため見置かれ候事。今日仰せ渡され候については、所存これあり候わば申し出でらるべく、尚又、忠誠を励むべく候事。

 本文に別紙とあるのは、慶喜卿以下連署して国事係に出した攘夷の期限に関する答書のことである。


 



 人事の争い     この日、朝廷はまた、さきに設けた国事係について、その人を精選し、さらに国事参政には橋本実麗卿、豊岡随資卿、東久世通禧朝臣、姉小路公知朝臣をこれに補し、三条西李知卿、庭田重胤卿、徳大寺実則卿、六条有容卿、柳原光愛卿、河鰭公述朝臣、橋本実梁朝臣、万里小路博房朝臣、勘解由小路資生朝臣を国事御用掛に任じた。正親町実徳卿、滋野井実在朝臣、東園基敬朝臣、正親町公董朝臣、壬生基修朝臣、中山忠光朝臣、四条隆謌朝臣、錦小路頼徳朝臣、沢宣嘉朝臣を同寄人(よりうど)とした。はじめ、壮年過激の堂上家がさきに立って、国事係の必要を痛論し、関白両職に迫って、ついに去冬、これを置く旨の勅令が発せられたものである。
 ところで、その職についたのは関白大臣両職の公卿らであって、いわゆる有志の壮年堂上は、実則卿(徳大寺)等数人にすぎず、それがため諸藩士の有志らや浮浪の徒らは、その計画が大いに齟齬(そご)し、国事掛の精選を激論し、ついにその交迭を見るに至った。以来、国事掛はまったく過激派をもって組織され、諸藩士、浮浪の徒の機関となり、関白以下を圧迫し、朝権をもっぱらにし、専横至らざるところなしというありさまとなった。

 




 親征の議を献ず     こえて二十日、長門守定広朝臣は書面をたてまつって、加茂【注十四】八幡【注十五】へ行幸を請い、かつは御親征の議を献じた。その書にいわく。

今度、非常の宸断(しんだん)を以て測海(そくかい)の大寇を帰攘し、皇国の武威を八蛮に御輝かしあそばされたき思召しにつき、必意御親征をあそばされず候では相叶うまじき御時勢と奉察いたし候。癸丑(嘉永六年)以来度々伊勢、石清水に攘夷安民の御祈誓あそばされ候事に御座候。此度も攘夷奉幣使を御発しこれあり、非常の御破格をもって御参詣あそばされ、御代代様の叡霊に御報告これなくては相叶うまじき儀と存じ奉り候。此度は、大堰(おおい)、嵐山等の行幸の類にはこれなく、未曽有の大耻辱を雪(そそ)がせられ、皇国を堅猛に固めさせられたく、御孝敬の御至誠、四海に顕嚇(けんかく)あらせられたく、所謂天行健(すこやか)と申す儀に存じ奉り候。加茂、泉涌寺【注十六】の御参詣も、すなわち御親征、御巡狩の思召しにて出でさせられ、速やかに御施行あらせられたく、献芹(きん)の微衷【注十七】伏して願い上げ奉り候。恐惶謹言。

 この月二十八日、定広朝臣は再度上書して、親征の策を献じた。
 近ごろ御親征の議論は、政海の下層にいる浮浪の徒のあいだでさかんに問題になっていたが、堂上の人はまだその論に賛同するものが少ないので、定広朝臣に献策せしめたのである。これが、御親征のことが表面にあらわれたはじめである。
 徳川氏がそもそも将軍の職に置かれたのは、何のためか。天皇に代り奉り、軍国の万機を統轄するためではなかったか。幕府を廃して、朝廷が天下の政を統べられる時がきたのならば、御親征もまたゆえなしとしないが、征夷大将軍の職をのこしておきながら御親征のあるべきはずがないのは、識者を持つまでもなくわかりきったことである。そのために、世人は、親征の議は廃幕、つまり討幕の献策であるとひそかに言いあっていた。

 




 野宮邸への強談    二月二十一日、伝奏衆が書をもって、わが公に、「学習院【注十八】を開き、草莽微賤の者にも進言、献策を許すのはいいが、万一狂気胡乱(うろん)の徒がやってこないとも図りがたい。よって、警衛の士を出してほしい」と命ぜられた。
 思うに、これは、前日、浮浪の徒二十人ほどが夜に乗じて伝奏野宮定功卿の邸にきて、みずから浪士と名のって謁を請うた。卿は大いに怖れて、家臣を出し、言いたいことを問わしめたが、彼らは、事重大で、人づてには話し難いと言う。やむをえず召し入れると、入謁するものはわずか三人で、ほかは外にいて待っていた。
 その三人が三ヵ条の建議を述べた。
 その一は、将軍が近々上洛するとのことであるが、この際朝廷はよろしく名分を正さなければならないこと、その二は、将軍の上洛はじつに千載一遇の大機会であるから、この際政権を復すべきこと、その三には、裏辻侍従(公愛朝臣)が正義の人であるのに廃黜されているが、よろしくその職を復すべしと言うのであった(これよりさき、公愛朝臣は、攘夷に関する私見を朝議のように諸藩に言いふらしてたかどで、勅勘をこうむっていたのである)。
 卿はこれにさとして、予の一存では採否が決し難いゆえ、他日朝議にかけようと言うと、彼らはそれならば、日をきめて採否の返事を聞こうと言う。事が決定すれば招くから、居所を告げよとの卿の言葉に、彼らもとより浮浪の輩で、宿所もきめていないらしく、では、後日参上するとのみ答えるのであった。この対応のあいだにも、外に待っているものが、刀を引き抜いて松の枝を折ったりして、暗に勇威を示していた。
 その夜、四条家を訪ねたものも同断であった。
 そのようなわけから、朝議のうえ、特に叙上のような命令が下ったものである。
 しかし、以上は表面の朝議で、内情は、学習院の警衛をわが公に命じ、もし浪士の駕馭を誤った場合、そのことを名目として、守護職を免じさせようとの策である。このことは、前殿下に中山忠光朝臣が語ったことで、ひそかに前殿下がわが公を警戒せられたのである。それをみても、いかにわが公が過激堂上や浮浪の輩に忌憚されていたかがわかるであろう。

 



 将軍の上洛決定     これよりさき、わが公は書をもって、しばしば将軍の上洛をうながしていたが、関東では、その路程について議定せず、前には海路で大阪へ到るとの報があったが、また変じて陸路となり、二月二十一日に出発との報があったので、後見、総裁、守護職がともに、鷹司殿下と近衛前殿下、中川宮を通じて、この由を奏上し、また将軍家上洛参内の日に、戊午以来の失政の咎(とが)を引いて、官位一等引下げを奏請し、朝廷もまた、もとのとおり万機を委任あらんことをと稟請した。
 このことが天聴に達すると、御嘉納あって、特に官位鷁退(げきたい)のことはその議に及ばず、という恩詔を下し給うた。過激の堂上はこれをきいてあき足らず、議論が粉々として、ついに伝奏衆から後見職へ、今度の大樹上洛参内の日に、旧来の待遇の式をあらためて、現官位の品等の待遇で接待あるべしとの内旨が下った。
 そもそも征夷大将軍が主職であることは、いまさら喋々するまでもない、それで徳川氏が政権を執って以来、朝廷の優遇がことに厚く、台徳(徳川秀忠の法号)、大猷(徳川家光の法号)の二公の上洛の時も、現官位の品等にかかわりなく、これを関白の上席に置いて、閫職(将軍の権)の重大なことを表示せられたものであった。
しかるに、現将軍は、就職されてまだ日が浅く、官は右大臣であるから、単に官位の品等による場合は、関白殿下はもちろん二条、一条の二大臣の下席に列せざるを得ない。思うに、それによって、幕府の威厳を引きおろそうという排幕の党の計画であった。
 総裁職はこれを聞いて大いに色をなし、そもそも征夷大将軍の職は、閫外の重任であって、関白の上に班次するのは古来の制度である。しかるに今、理由もなくその職掌をさしおき、現官位の品等をもってしようとするのは、じつに将軍家をはずかしめるものである。これを見るにしのびない、半途から〔将軍の〕駕をかえすほかはないと憤るのであった。
 山内豊伸朝臣はこれをきいて、総裁職の御言葉も一理はあるが、それではあまり早計である。もう一度奏請して旧典に復させよう。さもなければ、予はこのまま国へ帰る、とたがいに自説をまげない。わが公はこれを調停して、総裁職に、しばらくこれを忍んで旧典にもどすことに尽力させることにして、まず相たずさえて中川宮のもとを訪れ、このことを申請した。
 宮はこのことに同意見ではあったが、朝廷の事は一人の力ではなんともなしがたいと諭した。
 そこでさらに、近衛前殿下、鷹司殿下の両公に謁し、すでに将軍家は前年来の失政の咎を感じて、官位一等引下げ申し出で、叡旨遵奉の実を奉ろうとして、天恩優渥、特殊の恩詔を賜わっている。ねがわくばこの叡慮をひろめ、昔どおり万機御委任の実を明らかにし、待遇の典など、すべて旧制によっていただきたい。さもなければ、幕府の威は地に落ち、諸藩を統馭することができず、四分五裂の状態にもなりかねない由を述べた。両公も、もっとものこととしてそれを聞いた。

 



 守護職罷免の陰謀     この時、過激な堂上のあいだで、諸藩の勇壮の士を微して朝廷の親兵としようとし、また、彦根藩に対する処分がまだ手ぬるいとして、罰を加えるべきだという議論が出ていた。
 おそらくこの二件は、去年三条実美卿が勅使として東下し、江戸滞在のあいだに京師から追命があり、卿がこれを幕府に宣せられたが、幕府ではこれに意義があり、山内豊信朝臣が三条家と姻戚関係があるので、不可とする理由を説かせた。卿もまた、それ専任の勅使ではないので、強いてこれと争わず、将軍上洛の時を待ってこれを審議すべしとしたが、いままたこの議が再燃した。過激の堂上は、このことをとりたてて、将軍待遇復興に代えようとしたのである。
 そこでまた、豊信朝臣をして、実美卿にその不可を陳述せしめたが、卿は聴かず、浮浪の徒らもまたそれをききつけて、その必要を喋々するにいたった。その理由とするところは、往年、内裏炎上の際【注十九】、かしこくも倉皇として宮闕(きゅうけつ)を出御されたとき、わずか数人の堂上が供奉するに過ぎず、しかも公卿、女官のけじめもなく、ことごとく徒歩のままであり、しばらくして、官人等がかけつけて供奉した。今や非常の時に、万一またこのようならば、じつに忍びざるところである。ゆえに、これに備えんがためであるという。だが、それは口実であって、過激堂上がおのおの自家の爪牙を蓄えようという下心からのことであることは目に見えている。
 わが公はこれを聞いて「親兵を置くことは往年ならばやむを得ないところがあったかもしれないが、いまは臣が守護職として、数千の兵を引きつれて京師にある、これこそ、親兵ではないか。これをさしおいて、さらに別の親兵を置くことは、すなわち臣らをもって烏合(うごう)の衆に劣ったものとされるにひとしい。おそらく、そのことは、天皇の御意からではあるまい」と強く言ったので、以来、堂上の議論もすこしおとなしくなった。





 【注】

【一 伝奏衆】 武家伝奏のこと。武家伝奏は、朝廷の役人であるが、幕府との交渉にあたるを役目とし、就任の際には、幕府にたいし隔意をもたず、朝廷の事情は、幕府の尋問にたいし率直に答える旨の誓紙を幕府に出すのを例とした。

     
【二 准后】 三后(太皇太后、皇太后、皇后)に准ずる待遇を与えられた者という意味である。この場合、孝明天皇の女御夙子(九条尚忠の娘)で、後の英照皇太后である。

【三 外舶が摂津の海へ入港するという浮説】 生麦事件にたいする幕府の態度を不満とし、イギリス艦隊が、文久三年(一八六三)二月上洛する将軍および幕閣と交渉するため、摂津海上にくるであろうという風聞があった。

【四 越階は希有の例】 大名の叙任は、家格によって先例ができ、それが厳格に守られていた。国主大名のうち、加賀の前田氏、薩摩の島津氏が参議になりうるほかは、毛利氏も他の国主大名と同じく従四位下侍従または従四位上少将に任ぜられた。したがって、参議になるは破格のことであり、島と肩を並べる意味をもっていた。


【五 内覧】 太政官からの公文書を天皇に奏聞する前に、内見する職務である。摂政、関白、前関白等が、とくに宣旨をうけて、この職をおこなった。

【六 氏の長者】 氏の上とも言い、氏族の長のことで、宗家として一族を統率して朝廷に仕える者を言う。室町時代以後は、藤原氏の摂関となった者および源氏の征夷大将軍となった者だけがこれを称した。

【七 池内大学】 大学(陶所、奉時)は京都商家の出で、儒者として知恩院宮尊超法親王、青蓮院宮尊融法親王の侍読となり、公卿子弟を弟子にもっていた関係から、水戸藩が朝廷にはたらきかける斡旋の役目をもち、反幕派として活躍した。安政の大獄が起ると、身を隠していたが、突然京都町奉行所に自首した。このころ、幕府から賄賂をうけ変節したという噂が流れていた。幕府の尋問をうけ、中追放の処分をうけたが、文久二年和宮婚儀の祝としての大赦によって宥された。

【八 両亜相】 亜相は大納言。この場合は正親町三条実愛と中山忠能。

【九 去年九条前関白…】 九条尚忠は、佐幕派公卿の中心人物と目され、尊攘派志士の非難をうけていた。久我建通、岩倉具視、 千種有文、富小路敬直は、和宮降嫁の実現に尽力した責任者として目されていた。少将掌侍今城重子は、和宮東下に供奉した左近衛権中将今城定国の妹であり、右衛門掌侍堀河紀子は、岩倉具視の実妹である。そこで尊攘派は、右の四人の公卿と二人の女官は、和宮降嫁に奔走した佐幕派であるというので「四奸二嬪」と悪口し、排斥運動を起した。彼らは、暗殺を口にして脅迫したので、朝廷側は、有文、具視、敬直に諭して、近習の役をやめさせ、重子、紀子を宮中から退出させた。しかし尊攘派の攻撃はやまず、志士の意をうけた広幡忠礼、正親町実徳ら十三人の公卿が建通、具視、有文を弾劾する文を近衛関白に提出した。その結果、建通、具視、有文、敬直は辞官、蟄居し、剃髪することとなり、重子、紀子は辞職、隠居、尚忠は剃髪、重慎の処分をうけた。しかしその後も激徒の威嚇は続いたので、彼らの洛中居住を禁ずることとし、いずれも郊外に人目を忍び閉居謹慎する身となった。文久二年九月のことである。この排斥運動の結果、朝廷での尊攘派の勢力が確立した。本書五六頁に記されている三条実美ら攘夷督責の勅使を幕府に派する計画は、この成果の上に実現したのである。

【十 両女官】 注九を見よ。

【十一 戊午の大獄に干連して】 第二章注五を見よ。


【十二 弾正尹】 弾正台の長官。弾正台は令に規定されている役所で、不法を糺弾し風俗を粛正する任務をもっている。

【十三 唐橋村惣助】 千種家の領地葛野郡唐橋村の庄屋。千種家に出入し、有文の行動を助けたと目されていた。

【十四 加茂】 賀茂別雷神社(上社)と加茂御祖神社(下社)。古来、朝廷の尊崇をうけ、延喜式では明神大社に列せられ、国家的神社とされた。

【十五 八幡】 石清水八幡宮。宇佐八幡宮を勧請したもので、朝廷の信仰あつく、また源氏が八幡大神を自家の祖神と考えたことから、武人の神とされた。文永・弘安の役(元寇)には、亀山上皇が参籠して、異敵追討を祈願された故事もあり、ペリー来航以来、朝廷は外敵撃退を祈ることはしばしばであった。

【十六 泉涌寺】 京都市東山区今熊野町にあり、真言宗泉涌寺派の大本山である。四条天皇の遺骸を当山内に葬って以来、歴代の山陵で本寺域に営まれるものが多く、皇室の香華院として崇敬されてきた。

【十七 献芹の微衷】 呂氏春秋に「野人芹を美として至尊に献ぜんと願う」とあり、進物の謙辞。ここでは忠義の謙辞。

【十八 学習院】 天保十三年(一八四二)幕府と交渉の結果、公家子弟の教育機関としての学問設立の議が決し、弘化四年(一八四七)三月開校された。文久三年二月、草莽微賤の者も、学習院にきて時事を建言できるとの朝旨が下り、ついで、志士の領袖は学習院出仕に補せられることとなり、ここは尊攘派公卿と志士の集会場となった。

【十九 往年、内裏炎上の際】 安政元年(一八五四)四月六日の内裏炎上をさす。天皇に供奉したのは、近習当番のほか六、七人にすぎず、下加茂 社に避難し、ついで聖護院に移った。

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  1. 2012/10/27(土) 16:32:13|
  2. 京都守護職始末1
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七  わが公の入京     『京都守護職始末1 』

 盛大なる儀従     同九日、公はまた江戸を発して、二十四日巳の上刻(午前九時)、京都に入った。町奉行永井主水正、滝川播磨守が属僚をしたがえて、三条橋の東に迎えた。
 公はただちに宿館には入らず、本禅寺で旅装を礼服(麻上下)にあらため、関白近衛忠熙公の邸にいたり、天機をお伺いしてから、東山の麓の金戒光明寺の宿館に入った。
 この日は、路の両側に羅列して、その行列を見る市民が蹴上から黒谷まで、すきまもなくつづき、馬上の公をとりまく儀従は、一里あまりにわたり、家老横山常徳が殿(しんがり)であった。その儀従もまた数十人、あたかも大名のようであった。
 さきに京都所司代酒井忠義朝臣、および京都守衛の彦根藩士らは、浪士の鎮圧を誤ったために、京中ではひそかに腰抜武士と機笑するものが多かった。幕府譜代の大名たちも、大概そのようなものと誤想していたため、所司代、町奉行はあっても、これをあなどり、依頼の念がなかったのが、いま公の入京に当り、その儀従が盛大で、そのうえ、途中、関白殿下のもとに立ち寄り、天機をうかがうなどのしかたをみて、それぞれ手を額にあてて迎え、人心はやや安んじた。これよりさき、近畿諸藩の兵を微して九門を守らせていたのも、ここに至ってことごとくとりやめることとなった。
 二十五日、公ははじめて近衛殿下に参謁し、おもむろに満腔の赤誠を開陳し、「方今の急務は海内の人心一和がなにより先決で、その人心一和は主として公武の一和であり、それが欠けては、どんな良謀、上策があっても決して実行することができない。これに反して、人心一和すれば、どのようなこともできないことはない。容保不肖ながら、公武一和のためならば、死を誓ってもこれに当たる決意である」と述べられた。殿下も大いにこれを賞嘆され、款待に時を移し、そのうえ、随臣の小森一貫(始め久太郎、後一貫斉とあらためる)、小野権之丞らも拝謁を賜った。けだし殿下は資性温厚で、年齢も積み、何事にも練れた人柄のかたであった。

 



 長土の画策     はじめ薩長土の三藩が京都に勢力を得たのだが、おなじ三藩と言われていても、薩摩の所論がなにかと長土の考えと異なるところがあったので、長土はそれを喜んでいなかった。たまたま殿下が職を拝することになってからは、かつて近親の関係【注一】があったために、薩摩の建議に傾くことが多く、そのため殿下のことを薩州関白などと呼ぶようにさえなった。
 長土の二藩は、薩摩の勢力を殺ごうとして、三条実美卿、姉小路公知朝臣のもとに出入した。両卿は小壮気鋭であったため、二藩の者の説を信じ、なにかと殿下と相抗したために、朝議も相表裏することしばしばで、諸公卿の非難を招き、しだいに職を辞めたい気持ちになっていたところ、今わが公の意中をきくにおよんで、相符号するところが多いので、自分もまた、明らさまにその事情と意中とを開陳し、たがいに相倚るべき気持を抱くにいたった。

 



 公武一和諸につく     はじめ公が田中玄清、外島義直を上京させて、在任の準備をさせるに当って、堂上家に出入して朝廷の事情を伺い知ることも急務の一つであるけれども、わが公家が昔から堂上家と姻親を結んでいないので、どこにも頼るべき家がなかった。
 時に、幕府より歴世山陵の修築【注二】を命じられていた戸田越前守忠恕朝臣(下野宇都宮藩主)の一族忠至(時に間瀬和三郎、後に戸田大和守と称した)が京都に上り、そのことを奉行していたが、かつてその忠至が、わが藩の長沼流の兵学を学び、かつは、昔からわが藩と戸田家とは親密な間柄であった関係から、玄清らはまず忠至に会って事情をうちあけた。そこで、忠至は、その宗家正親町三条実愛卿(今の嵯峨侯爵家の先代)が議奏職にあったので、仲介して卿に謁見させ、ついで三条実美卿の招見があり、この両卿のおかげで、ほぼ伺い知ることができたところ、いままた近衛殿下と肺肝相照らすこととなり、公武一和の事は、はじめてその端諸をつかむことができた。

 



 朝制の大改革     この月九日、朝廷は国事掛、参政、寄人の三職【注三】を置き、関白前左大臣忠熙公、議奏中納言実美卿(三条)、大納言忠能卿(中山)、大納言実愛卿(正親町三条)、中納言雅典卿(飛鳥井)、宰相中将公誠(阿野)、伝奏大納言俊克卿(坊城)、宰相中将定功卿(野宮)らにこれを兼補させ、ほかに青蓮院宮尊融法親王、左大臣忠香公(一条)、右大臣斉敬公(二条)、前右大臣輔熙公(鷹司)、内大臣公純公(徳大寺)、左大将忠房卿(近衛)、大納言実良卿(一条)、大納言忠礼卿(広幡)、大納言家言卿(大炊御門)、中納言重胤卿(庭田)、中納言李知卿(三条西)、中納言実則卿(徳大寺)、宰相中将有容卿(六条)、左衛門督重徳卿(大原)、三位信篤卿(長谷)、少将公述朝臣(河鰭)、侍従公愛朝臣(裏辻)、侍従実梁朝臣(橋本)、右中弁博房朝臣(万里小路)、中務少輔資生朝臣(勘解由小路)らをもってこれに補し、後に少将公知朝臣(姉小路)をこれに加えた。
 そもそも朝廷の実務にあたるのは関白と、伝奏、議奏の両職であって、関東への命令その他、武家に関することは伝奏がこれに当り、朝廷の典礼や公卿の任命などは議奏が司り、関白は、その両職の上にあって統轄しているので、この三職以外の公卿は、大臣と言い、納言と言っても、要するに栄誉の名称にすぎない。ところが、関白はもちろん、両職に補せられるには門地の定めがあって、有為な公卿があっても朝議に列することはゆるされなかった。癸丑(嘉永六年)、甲寅(安政元年)以来【注四】、国事多端の折から、広く人材を登庸する途をひらかねばならないので、国事御用掛を置いてはという議が起り、壮年の堂上家や諸藩士浮浪の途の説をよろこぶ人たちは、さかんにこのことを主張し、ついに朝議はこれを決定した。
 関白両職の他に、行政の機関を改定するのは、徳川氏執政以来の一大変革としなければならない。





 【注】

【一 近親の関係】 関白近衛忠熙の妻は薩州藩前藩主島津斉彬の養女であった。

【二 歴世山陵の修築】 荒廃した山陵(歴代天皇の陵)を修補する意見は、幕末尊王論の抬頭とともに各方面で主張され、幕府も嘉永年間から調査に着手した。しかしその実行は文久になってからである。宇都宮藩主戸田忠恕(越前守)は、山陵修補に熱意をもち、文久二年、折から江戸にきていた勅使大原重徳と松平慶永に陳情した。そして慶永のすすめに従い、潤八月建白書を老中板倉勝静に提出した。公武合体の実現を企画していた幕府は、この意見をとりあげ、忠恕を山陵御取締向御普請御用に任じ、家老戸田忠至(大和守)がその名大として実務を担当した。忠至は山陵の調査をおこない、神武天皇陵の修補から実行したが、これが機会となり、各地の大名が領内山陵の修補を願い出、その実行にあたる気運が生じた。

【三 国事掛、参政、寄人の三職】 文久二年十二月九日、国事御用掛をおき、青蓮 院宮尊融法親王(中川宮)、関白近衛忠熙ら二十九人の公卿をこれに補した。その職務は、国政の討議にあったが、彼らは上級公卿で、従って穏健な意見の持主が大部分であるため、尊攘派は不満であった。翌年二月十三日、御用掛とは別に国事参政と国事寄人の職が設置されたが、これに任じられたのは、小壮で急進的な尊攘派公卿で、志士との関係の深い人々であり、このため御用掛の実権は参政、寄人の両職に移ることとなった。

【四 癸丑甲寅以来】 癸丑は嘉永六年(一八五三)で、アメリカ使節ペリーが来航して開国を求め、甲寅は安政元年(一八五四)であり、ペリーが再渡来し、ついに日米和親条約がむすばれた年である。

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  1. 2012/10/26(金) 16:59:46|
  2. 京都守護職始末1
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六  公武一和について幕府に建議する     『京都守護職始末1 』

 わが公の書籍     そこでわが公は、 輦下の鎮護が職責であることにはちがいないが、目的は公武の一和にある。叡慮は攘夷一つに傾いてしばしば綸命を下されるが、幕府がその実績を挙げられない以上、一和の機会もない。元来、攘夷はなかなか行われることではないから、まず三港以外の通商を拒絶し、しばらく時機を待ってゆるゆると叡慮をひるがえし奉るより方法はないと考え、そのことを幕府に建議した。

不肖の私重き御政事にあずかり、殊に京都守護職を仰せつけられ冥加至極、有難き仕合せに存じ奉り候。これによって万分の一も護国恩に報い奉りたく、日夜苦心し候えども、浅職寡聞の至り、さしたる見込も御坐なく恐れ入り存じ奉り候えども、この節柄と申し、当職まかりあり候間、鄙見の程忌諱を憚らず申し上げ奉り候。方今の形勢、外夷の跳梁日々にはなはだしく、勿体なくも上は叡慮を悩まし奉り、下は人民不折合と成りゆき、深く心配仕り、家来どもへ申しつけ、内外の衆議を聞きとらせ、かつ京師へもつかわし、彼の地の様子も伺わせ候ところ、主上においては鎖国攘夷と御確定あそばされ、したがって京中にはもちろん、関西の列候、諸浪士までも開国の説を相唱え候者は頃日これなき程に承わり候。
右の通り、夷人を嫌い候人情に候ところ、公辺においては、ますます夷人を御叮嚀に御取扱いの御都合より、人気騒々しく種々の変乱も出来仕り候と察せられ候。畢竟、戊午の年の御奏聞もなく調印済を始めとして、摂泉開港御差し許し、御府内の在留、御殿山の造館など、皆もって主上の御本意にあらせられず、御逆鱗もあらせられ、総容の不居合と相成り、殺害等もこれあるわけと愚察仕り候。かつは先年堀田備中守、間部下総守等をはじめ京都につかわされ候ところ【注一】、品々御行違いの儀もこれあるやにて、当時に至り候ては、恐れ多くも関東にては橘詐権謀(けつさけんぼう)をもって京都を御取り扱いあそばされ候とて、追々御信用も御薄くならせされ、外藩等へ御依頼あそばすことと存じ奉り候。将軍様にはもとより御別意あらせられ候儀には御坐なく候えども、まったく御役人方の不取計らいより事起り、公武の御間御一和なきよう相響き、誠にもって恐れ入り候儀、歎かわしき次第と存じ奉り候。このうえ御殿山の夷館【注二】出来、御府内へ常住致し、諸港御開きに相成り候わば、御逆鱗は申すに及ばず、列藩の動揺に相成り、皇国総容の居合、必至と宜しからず、いかようなる異変出来候も計りがたく候間、いずれにも叡慮に応じ、人情に相叶い、御国体も相立ち、君臣御一致の御処置肝要と存じ奉り候。長崎、箱館、横浜の儀はこれまで通り据え置かれ、御殿山の夷館、摂泉の開港【注三】、御府内の留住、遊歩の事など、御英断御拒絶あそばされたく候。尤も、これまで不取計らいを致し候諸役人は、所当仰せつけられ、彼も諸雑費掛り候分は償いあそばされたく候御趣意を、くわしく綸解致し候わば宜しかるべくと存じ奉り候。しかるに、前文の通り主上もっぱら鎖国をおぼしめされ候ところへ、三港差置き候と申すにては叡慮にもとり候ように候えども、長崎は昔年よりの開港場なり、下田開港の儀は主上にも御余儀なしと御聞入れに相成り、かつは宇内の形熟考仕り候ところ、海外万国日々に聞け、往来互市いたし、各々権利を争うの時勢に相成り、皇国のみ鎖国孤立と申すにては、彼の事情を知ってその長所を取るに由なく、攻守の道も充分届きがたく、すでにこれまで往来互市候えばこそ、大鑑、巨砲もでき、海軍の御備えも相立ち、武備充実の助けと相成り候儀顕然に御坐候間、三港はそのまま据え置かれ、条約制度改正致し、万一も我が制度を破り、無礼不敬の儀これあり候節は、すぐさま御打払い相成り候わば、すなわち攘夷の御注意に相叶い、叡慮を安んじ奉り、人心も居合い申すべくと存じ奉り候。これまでは夷人不礼にて驕慢日々に相つのり候えども、さらに御構いこれなく、御国人のみ御取締りきびしきよう世上へは相取れ、まったく御役人方の姑息苟安にして死を恐るるところより、かくは夷人の跋扈を致させ候ものと心得おり候よう見うけられ候。よってこの度、歪曲を綸解いたし候にも、実に決戦の御覚悟あそばされたく候。尤も応接の儀は御国是しかと立たせられ候上に、しかるべく者へ全権御委任仰せつけられ候わば、機に臨み、変に随い、いかようにも処置の道御座あるべく、これすなわち公武御一和の係わるところにして、皇国の盛衰の界、天下治乱の分かれ目と相成り申すべく、至極の御大切の御場合と存じ奉り候。私事守護職仰せつけられ、罷りのぼり候については、御尊崇の御趣意相達し申し候わんでは相成らず、よって深く思し召しこませられ候攘夷の叡慮御遵奉あそばされ候儀、専要と存じ奉り候。
しかるところ、開鎖の儀は至極の重大の事件に御坐候間、来春御上洛までに内外大小名の存じ寄り、銘々御直ちにも御聞取りあそばされ逐一御奏聞のうえ至当のところへ御決定あそばされたく存じ奉り候。さもなく御坐候では、自然守護の任も立ち兼ね候儀と存じ奉り、昼夜苦心仕り、家来どもまで見込を相たずね、決心仕り候儀に御座候。もし御許容なく御坐候わば、容易ならざるこの度の大任相勤むべき見込さらに御坐なく候間、御詫にても申し上げる外御坐なくと、ふかく恐懼し奉り候。
右申し上げ候存意の次第、とくと御覧察、御英断あらせられ候よう、ひとえに
願い奉り候。

但し、本文御英断あそばされ候上は、応接方至極御大切に御座候間、しかるべき人物、身柄にかかわらず格別に御登庸、全権御委任あそばされ、やむをえざるの事件ども真実に諭解せしめ、至極誠実に御処置御坐候わば、黠夷も承服つかまつるべくと存じ奉り候。

一 いよいよもって右の愚意御採用下され候わば、先日仰せ出でられ候武備充実の儀標準御坐なく候では、昇平倫安の情、決戦の覚悟これなく、御趣意貫徹つかまつり候儀計りがたく候。このたび叡慮遵奉いたされ三港の外拒絶については、いかなる異変も計りがたく候間、先日仰せられ聞き置き候武備充実の儀は、すなわち右等のために候条、なおまた御沙汰あらせ候わば、御改革の御趣意もいちじるしく相立ち、御国威もさらに張りつかまつるべき儀と存じ奉り候。以上。(九月)


 時に幕府の諸有司は、こぞって開港に傾いていたこととて、この建議を見るなり、時務に通じない意見としてこれを斤けにかかった。わが公は憤然として反覆論弁したので、ようやく採納することになったものの、ついにこれは実行されずに終わった。
 この時、朝廷では攘夷の断行に急であって、さらに三条中納言実美卿、姉小路左中将公知朝臣を勅使として東下させ、実行を督促されようとした。


 実美卿に会う     これよりさきに、柴太一郎が江戸を発足しようとして、出羽上の山の人金子与三郎に会ったところ、金子が言うには、伊勢に山田大路親彦(御炊大夫)という憂国の士がいるから、君はまず彼と会って相談すれば、上国の形勢がくわしくわかるばかりでなく、君の任務をつくすうえにもすこぶる便宜を得るだろうということで、柴もそれをもっともと思い、江戸からまず伊勢にゆき、山田大路に面会してから、その紹介で松坂の人世古格太郎【注四】に会った。世古は松坂の富豪で、転法輪家(三条家)に信用を得、数年来同家に出入りている。
 柴はその紹介をえて、野村直臣とともに実美卿に謁したところ、実美卿はこのたびの東下りの事を告げ、「従来幕府の勅使をもてなす札がすこぶる簡倣になった。近来ようやく改めるようになったと言うが、先に大原重徳卿東下の時もまだまったく故態を改めないという。今後予の東下についても、幕府の礼遇が備わらない場合には、そのことで争わざるをえまい。そのようなことになったら、幕府の失体はなはだしいということになり、人心の向背に関係してくるであろう。幸い君の主人中将が顕職にあり、敬上の意を体している人ときいている。君らが中将にこのことを話し、しばらく上京の期日をのばし、予の東下を待ち、勅使待遇の礼をあらためて、幕府の敬上の典をあきらかにした方がいい。中将ならばこの事の実行はむずかしいことであるまい。中将の上京遅延の上奏、その他朝廷に関する事々は、予がまた中将のために一臂の労をとってもいい。これまた予にとっては至難なことではない」ということであった。
 これによって、直臣、太一郎は、前後して江戸に帰ってきた。それ以来、わが藩士は転法輪家にときどき出入りして、諸事を談じあうこととなった。
 ある日、太一郎は、さきにわが公が幕府に呈した三港外閉鎖の建議書を、実美卿の覧に供した。それから数日たって、卿が太一郎を召し、汝の主人の建白書を乙夜の御覧(天覧)に供したところ、往来の攘夷を論ずるものは、過激に渉るのでなければ、因遁に失し、一つも適切な議論がなかった。この儀はどうやら中正で、すぐさま実行にうつすべきであると仰せられ、御手許に留め置かれた。ひそかに汝にこのことを知らせておく、とのことであった。わが公が聖明の信任を得られたのは、この建白書が始まりというわけである。
直臣らが東下して、実美卿の旨を話すと、公は大いにこれを然りとして、すなわち幕府に建議して、ことごとく旧格を改正させた。

 再び勅使東下す     やがて十一月、実美卿らは左の勅書をたずさえて東下した【注五】。

攘夷の念は先年来今日に至って絶えず。日夜之を患う。柳営においても格々変革して新政を施し、朕を慰めんとす。怡悦斜ならず。然るに、天下をあげて攘夷一定せざるにおいては、人心の一致も致しがたからんか。かつは、人心不一致により異乱、邦内に起らんことを怖る。早く攘夷を決し、大小名に布告せよ。その策略の如きは武臣の職掌。速やかに衆議を尽し、良策を定め、醜夷を拒絶せよ。これ朕が意(こころ)なり 

     右一紙、別紙一通口代
 
今般、攘夷の議決定これあり、天下に布告とも相成候上は、外夷何時海岸を劫掠し、畿内に蘭入の程も計りがたく候間、禁闕の御守衛厳重に仰せつけられたく思し召され候。然るところ、海国は、それぞれの防禦もこれあり、海岸に引離れ侯諸藩は、救援の手当これあり侯事につき、辺鄙より畿内に警衛差出候には、自然不行届の筋も出来すべく、かつ、自国の兵備手うすと相成り、国力の疲弊にも至るべく候間、京都守護の儀は御親兵とも称すべき護衛の人数を置かれず候では、実に以て宸襟をも安らかならせられず候間、諸藩より身材強幹、忠勇気節の徒を選ばせられ、時勢に随い、旧典を御斟酌に相成り、御親兵とあそばされたく思し召され候。
右親兵を置かせられ候については武器、食料等、これに準じ候間、これまた諸藩へ仰せつけられたく候。況(いわ)んやこれらの儀は制度に相渡り候ことにつき、関東において取計らい、諸藩へ伝達これあり候よう仰せ出されたく候。もっとも即今の急務に候間、早速評定これあるべく御沙汰あらせられ候事。


 実美卿らが江戸に着くと、将軍家は、総裁職松平慶永朝臣をして郊迎させ、入城の日には、将軍みずから玄関に出て迎えるなど、その礼遇がまことに鄭重をきわめ、実美卿らとしても、予想外なほどであったので、実美卿らは、これはみなにわが公の敬上の衷悃から出たところとして、それ以来公武一和のことについて、互いに輔車相依るべきことを約し、十二月七日帰途につかれた。

【注】

【一 …京都につかわされ候ところ】 日米通商条約の勅許をえるため、安政五年二月老中堀田正睦(備中守)が上京、ついで八月老中間部詮勝(下総守)が上京し、朝廷の説得を試みたが、ともに失敗した。

【二 御殿山の夷館】 これまで江戸の列国公使館は、市中の寺院をもってあてていたが、列国は幕府と折衡した結果、品川御殿山に、公使館の本建築をおこなうこととなった。

【三 摂泉の開港】 列国との通商条約の規定により、安政六年(一八五九)六月二日に、横浜、長崎、箱館の三港が開かれたが、さらに新潟は安政六年十二月九日、兵庫は文久二年十一月十二日に開港し、江戸は文久元年十二月二日、大阪は文久二年十一月十二日に開市するときめられていた。このうち兵庫、大阪は京都の近傍であり、朝廷も強くこれに反対していたので、幕府はこれらの開市開港の延期を列国に交渉した。そして文久二年正月、勘定奉行兼外国奉行竹内保徳らの施設をヨーロッパに派遣して、交渉にあたらせた。その結果、江戸、大阪、兵庫、新潟の開市開港を、一八六三年一月一日より起算し五カ年間延期することができた。

【四 世古格太郎】 生家は伊勢松坂の酒造家で、紀州藩の用達をつとめた富家。儒学、国学に通じ、三条実萬の知遇をえ、水戸藩密勅問題に関係し、安政の大獄の時、捕えられ追放の刑をうけた。文久二年大赦をうけ、ふたたび尊攘運動に加わり、三条実美との関係が深かった。

【五 東下した】 薩州藩の島津久光が擁する勅使大原重徳東下が実現すると、次は長州藩、土州藩尊攘派が、より強硬な攘夷の勅旨を伝える勅使派遣の計画をたてた。
この実現されたのが、正使三条実美、副使姉子路公知の東下で、土州藩主山内豊範をしたがえ、攘夷督促と親兵設置の朝旨を幕府に伝えた。幕府は攘夷実行は誓約したが、親兵設置はことわった。

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  1. 2012/10/26(金) 16:24:58|
  2. 京都守護職始末1
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五  守護職の奉命     『京都守護職始末1 』

 京を視察させる     この年(文久二年)潤八月朔日、わが公がお召しによって登城すると、京都守護職に任じ、正四位下に位をのぼせ、役料五万石を賜わる旨の台命があった。つぎに老中の人々から、上京の費用として金三万両を貸し与えられた。
 ついで幕府は牧野備前守忠恭朝臣(越後長岡の城主)を所司代に、寄合永井尚志(主水正、後に玄蕃頭)を京都町奉行に挙げ、また高家(儀式、典礼をつかさどる家柄)中条信礼(中務大輔)を京都詰として守護職を補翼すべきことを命じた。
 これによって、公はまず、家老の田中玄清と公用人野村直臣(左兵衛)、小室当節(金吾)、外島義直のほかに、柴太一郎(当時秀次)、大庭機(恭平)、柿沢重任(勇記)、宗像靖共(直太郎)等を京都につかわし、在任の準備をさせ、かつは目下の京師の情勢を視察させた。

 



 無頼の徒横行す     時に京師では関西の諸藩士があまたあつまっていて、その藩の周旋方という名目で宮や堂上方の門に出入し、時事を論議していた。したがって、かの志士と称する徒も、それぞれこれに夤縁雷同(いんえんらいどう)してさかんに激論を主張し、初対面の人に会うときは、某はかくかくの脱藩人である、あるいは何年以前幽閉されたことのあるものだなどと、あたかもそれが無上の栄誉ででもあるように公言し、また、浪士と自称するものの、中には農商の子弟で、無頼で郷関を逐われたようなものなども少なくない。
 およそこの連中は、鎖港と言えば正義と考え、勤王家を重んじ、開港を説くものは浴論ときめつけ、佐幕家と言えば卑しいものとした。あたかも開港佐幕は無比の罪名のようである。この徒は常に宮、堂上の門に出入りし、荒唐無稽な空論を喋々してこれを煽動し、はなはだしい場合には、彼らの一夕の坐上の空論が、翌日たちまち汗のごとく綸命となることさえあった。じつに、暗々裏に朝権をぬすむと言っても過評ではない。
 彼らはいまわが藩士の入京をきいて(中には会津藩のあることすら知らず、わが標札を見てくわいづ藩とはどこの大名かと、傍人にきいている者さえあり、こんな連中が国事を呶々(どど)するのであるから、その綸旨がどんなものかおもいやられる)、日夕来訪して、開鎖の所見をききにくるものが頻繁であったが、わが藩士は職責を重んじてこれに答えず、ひとり大庭機は年若く意気さかんで、広く彼らと交通し、一意見をもっているので、大いに彼らをあいてに議論し、あいてを圧倒するのであった。彼らもそのために機を推崇することはなはだしく、自然彼らの情況もわかり、同時に京師の形勢もつまびらかにすることができて、しばしばこれを江戸に急報した。

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  1. 2012/10/25(木) 18:14:16|
  2. 京都守護職始末1
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四  西郷、田中両家老の諫止     『京都守護職始末1』

 京を死場所に     事情が右のようであるから、公も今は辞するのに言葉もなく、翻然として奉命と決心されたとき、たまたま家老の西郷近悳(頼母)、田中玄清(土佐)が会津から道を急いで到着し、公に謁して会見した。 そして、このころの情勢から見て、幕府の形勢が非であることを述べ、いまこの至難の局に当るのは、まるで薪を負って火を救おうとするようなもので、おそらく労多くしてその功がないだろうと、言辞凱切、至誠面にあふれて諫めるのであった。
公は、その席にいる江戸家老横山常徳、留守居堀長守(七太夫)等を召して、近悳らのことばを告げ、「これはじつに余の初志であったが、しかし台命しきりに下り、臣子の情誼としてももはや辞することばがない。聞き及べば、はじめ余が再三固辞したのを一身の安全を計るものとするものがあったとやら。そもそも我家には、宗家と衰退存亡をともにすべしという藩祖公の遺訓がある。そのうえ数台隆恩に浴していることを、余不肖といえども一日も報效を忘れたことはない。ただ、不才のため万一の過失から宗家に累を及ぼしはせぬかと、そのことを怖れただけのことである。他の批判で進退を決するようなことはないが、いやしくも安きをむさぼるとあっては、決心するよりほかはあるまい。しかし、このような重任を拝するとなれば、我ら君臣の心が一致しなければその効果はみられないであろう。卿ら、よろしく審議をつくして余の進退のことを考えてほしい」とのことであったので、常徳をはじめ、いずれも公の衷悃に感激し、このうえは義の重きにつくばかりで、他日のことなどとやかく論ずべきときではない、君臣もろともに京師の地を死場所としようと、ついに議は決した。

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  1. 2012/10/25(木) 17:47:26|
  2. 京都守護職始末1
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三  生麦の変     『京都守護職始末1』

 空前の大任     さきに勅使大原重徳卿が西に帰るや、島津三郎もそれに従って西上し、その途中、武州の生麦駅で、英国人が儀従を犯したかどでこれを斬首したが(世にこれを生麦の変とよぶ【注一】)、入京するに及んで、諸公卿はその疎暴を論難するどころでなく、かえって勇敢たのむに足るとなし、殊に先に伏見において浮浪の徒の騒擾をしずめ、今また、勅使にしたがって攘夷督促の綸命をくだし、幕府をしてこれを奉戴させた、その効、大なりというわけで、長く彼を輦下にとどめて守護の任にあたらせようとした。
 しかし、長州土州の二藩がこれを喜ばないので、まだ命を発せずにいたが、幕府はそれをきいて、外藩を京都の守護職にするのは得策でないばかりか、しまいには制令が分岐する害をきたす恐れがあり、人心が帰嚮(ききょう)に迷うようにもならぬとも計り難い、はやく親藩中から守護職を選ばねばならぬと気づいたが、親藩中で重望があり、そのうえ兵力の充実したものを求めるとなると、まず指を越前、会津の両家に屈しなければならない。
 しかしるに、越前の慶永朝臣は現に総裁職にあるから、幕府の儀はわが公にこれをあてようと、まずわが家老横山常徳(主税)を召して、その内意を示した。
 たまたま公が時疫にかかっていたので重臣を登城させ、老中に会って、「いやしくも台命とあらば、何事にせよお受けするのが藩祖からの家訓でもあり、つつしんで命を奉じもしようが、顧みるに容保は才うすく、この空前の大任に当たる自信がない。そのうえ、わが城邑は東北に僻在していて、家臣らはおおむね都の風習にはくらく、なまじいに台命と藩祖の遺訓を重んじて、浅才を忘れ、大任に当たるとしても、万一の過失のあった場合一身一家のあやまちでは納まらず、累を宗家に及ぼさぬともはかれぬ。宗家に累を及ぼすことは、すなわち国家に累を及ぼすとおなじで、万死もこれで償いがたい。願わくば微意御諒察下されたい」と言って固辞したが、幕府の有司たちは耳にも入れず、慶永朝臣のごときは、駕で駆けつけて勧告にこれつとめた。わが公は病をおして面接し、ねんごろに奉命をすすめられるのをかたくことわりつづけた。

 



 松平慶永の勧誘     慶永朝臣らはきかず、あるいは書をよせ、あるいは重臣を招くなど、頻繁な勧誘日夜たえずといったありさまであった。いま、左にその一班を示そう。

一翰啓上つかまつり候。秋の余熱なお去り兼ね候ところ、まずもって公方様はますます御機嫌よくいらせられ候条御心をやすんじられるべく候。いよいよの御清栄珍重に存じ候。さてまた、貴恙はいかがあらせられ候や。日々関情の次第、なにぶん御摂養の上、一日も早く御登城ねがい奉り候。
かつまた御家老横山主税よび出し、申しきかせ候儀いかがお聞きとり下され候や。 而して方今、京師の方よりしきりに風説も相きこえ、不穏の様子。殊に薩州屋敷も(御出勤の上委細申し上ぐべく候)いつ暴発の患も料りがたく、そのうえ伝奏より三郎高官位任叙の儀も申し越し(このころ島津三郎に官位任叙の内命があり、後につまびらかである)、刑部殿(一橋慶喜)はじめ一同深くこの節憂痛至極に御坐候。
それについても京師御手薄にてはなにぶん相成りがたく、是非にも御受けなさらず候では、公武合体に至り兼ね申すと存じ奉り候。
当今(この二三日)右の仕合ゆえ、なにとぞなにとぞ一旦御受けにさえ相成り候えば、その上の御内願筋などは小生が尽力申し、是非々々御都合相成り候よう取りはからい申したく存じ奉り候。
昨今かくのごときの儀故、一旦の御受けは速やかになし下されたく、ひとえに以て懇願し奉り候。すなわち、今日も召され候ておたずねもあらせられ、上にも殊の外の御心配に御坐候。私御役前に取り候ても、早々御出勤の上、一旦御受け相成り候えば、大原(重徳)への申訳も相立ち、第一御尊奉筋にとり最上の御都合に御坐候。機会は失うべからず、速やかに御英断なし下され候様願い奉り候。御国元の御都合もあらせらるべく候えども、それまで相待ち候ては、すなわち足下の御受遅滞に及び候ては、上の御尊奉筋に関係致し、容易ならざる儀、右のところ御汲察下さるべく候。早々主税始めへ御談じ、御返答下さるべく候。まずは右用事のみ。早々。不備(八月七日付、慶永朝臣自署春嶽)
     
尚々、時下御自愛専念に候。土津公(会津藩祖先中将正之公の神諡、正之公は徳川二代将軍秀忠の三男である)以来の御家柄と申し、旁々今の艱難を御亮察下され、只今御受け相成り候わば、将軍家の重んじさせられる京師の信義も相立ち、私共に於ても有難く存じ奉り候。
激切の儀申し上げ候は、甚だ恐れ入り候えども、公方様御いとおしく、姑息の様に候えども、御心配の御様子見上げ候えば、落涙の外これなく存じ奉り候。台徳院様(秀忠公の諡)の御血脈の公方様、土津様御末胤の貴兄に候えば、御情においては御同様と存じ奉り候。徳川氏の信不信の相立ち、公武御合体の有無は貴兄の受の断、不断にあり。小生泣いて申し上げ候も、方今台徳院様、土津公あらせられ候わば、必ず御受けに相成り申すべくと存じ奉り候。末世に候えども御同情と存じ奉り候。以上。
また一翰謹んで啓上つかまつり候。とかく蒸熱に御坐候ところいよいよ御安情、珍重に存じ奉り候。然らば、今朝申し上げ候儀いかが御聞取り下され候や。
何分関心の次第、日々京師の事については一同焦慮罷りあり候。
今日も御前へ罷り出で候ところ、段々の御たずねもこれあり、御受け御待兼ねあそばされ候御様子にあらせられ候。それにつき今夕退出より登館仕り、御病床へ罷り出で御談判致したく候。早々。(慶永朝臣署名、春嶽)






 【注】

【一 生麦の変】 文久二年(一八六二)八月二十一日、島津久光は兵四百をしたがえ、江戸を出発、帰国の途についた。行列が生麦にさしかかった時、婦人をまじえたイギリス人四名が騎馬でくるのに出会った。先供の者が、手まねで引きかえせと合図したが、英人は一旦は、騎馬のまま道のわきにさけたが、久光のかごが近づくと、引き返えそうと馬の向きを変えたため、かえって行列にふれる結果となった。攘夷熱のたかかった藩士奈良原喜左衛門や有村武次(海江田信義)らは、その一人を無礼者と斬り殺し、他の二人を負傷させた。イギリス側は翌年二月、正式に陳謝と償金十万ポンドを幕府に要求し、薩州藩には下手人の処刑と遺族扶助料、慰謝料二万五千ポンドを要求した。幕府はこれを承諾したが、薩摩は下手人は行方不明と称して要求を拒否した。そのため、七集のイギリス艦隊は、翌年七月二日、鹿児島城下に砲撃を加え、薩藩も反撃し、戦闘は三時間半に及んだ。結局、犯人は捕え次第処刑する、償金は払うということで、九月、薩英間に講和が成立した。生麦事件は、攘夷の実行のあらわれとして、全国の志士に刺激をあたえ、外国側も強硬な対抗策をとる原因の一をなしたが、薩英戦争は、かえって、その後の両者の接近をもたらすきっかけとなった。

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  1. 2012/10/25(木) 17:02:01|
  2. 京都守護職始末1
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二  諸浪士の跋扈     『京都守護職始末1 』

軽薄なる攘夷論     さきに井伊直弼朝臣の凶変があり、つづいて老中安藤信正朝臣の坂下門外の遭難【注一】のことがあって、それ以来幕府の威厳はとみにおとろえ、ようやく軽悔の念をいだくものが多くなった。
 特に京師では、諸藩脱藩の武士や草莽の徒がみずから有志者と名のって、さかんに攘夷を主張し、陸続として踵を接し、公卿の門に入説した。およそこの徒の言うことは、幕府が開国を断行したのは、多年昇平になれて遊惰にながれた余弊のしからしめるところで、おぞくも外国人の威嚇に恐怖し、決然とこれと争う勇気なく、一時の偸安に出でたものだとし、外国人を夷狄禽獣と呼び、嗷々として鎖国攘夷を口にするが、さて一つとして確固とした定見があってのことでなく、はなはだしいものは昔の元寇【注二】とくらべて神風の霊験を頼むものさえある。
 そして公卿と言えばまた、おおむね宇内の大勢を知らず、かつ多年の窮乏に苦しんで、ひそかに武家の隆盛をうらやむものが多く、好んでこれらの入説に耳を傾け、ただちにそれが実現されるもののように迷信し、相ともに尊王攘夷を唱えた。
 そのようなわけで自然、公武の方針が表裏になり、昔は百事幕府に委任し、垂拱して治平をみそなわした朝廷が、いまはかえって幕府を掣肘するに至った。そこまできても幕府は、何らみずからを顧みるところがなく、いたずらに旧套を墨守するだけで萎靡してふるわない。そこで、それを見兼ねた海内の雄藩がそれぞれその反省をうながし、かつは内治の釐正について進言献策することとなった。
 そのもっとも率先的なものは、薩摩、長門、土佐の三藩である。俗に三藩の称があるのもそういうわけであるが、この三藩がまたその議を一つにせず、あるものは豊臣氏の制度にならって、雄藩主五人を挙げて幕府の大老となすべしと言い、あるものは将軍に後見職を置き、雄藩一、二を挙げて大老となすべしなどと、意見を異にするが、その根底の攘夷の実現ということでは、衆論は同一轍であった。
 そこで、有志と自称する浮浪の徒は開戦が旦夕に迫っていると妄想し、輦下をはばかりもせず、数十人党を結んで京中を横行し【注三】、あるいは富豪に迫って軍資と称して米金をかすめとり、あるいは異論者を殺戮して血祭と唱え、横暴至らざるところのないありさまである。当時、彦根の藩兵が京都守衛に当たっていたが、この暴勢に辟易して手の下しようもない。

 



 島津久光の上京     たまたま島津三郎(実名忠教、後久光、はじめ周防和泉三郎と称し、後従四位上左近衛権中将に任じ、大隅守と称す)がその主に代わって上京するとの報があった。京都では訛言がふりまかれた。三郎のくる目的は、浮浪の徒を駆って攘夷の先鋒を奉請するにあると。
 所司代酒井修理大夫忠義朝臣(若狭小浜城主)はあらかじめ事変を慮って、倉皇として二条城に入り、みずからまもると同時に、急を幕府に知らせた。京中はそのため加担して起ち、白昼戸をとざし、夜間は行人の姿を見ないありさまとなった。
 やがて、三郎は京師に入った。浮浪の徒はこれを待ちうけ、強請すこぶる騒擾をきわめた。朝廷はすなわち三郎に命じてこれを鎮定させた。三郎は勅旨もってこの連中を諭し、そのうち頑強で屈服しないものはこれを殺戮し、日ならずして事がまったく平定した(世にこれを伏見寺田屋の変【注四】という)。これ以来、三郎の名声は一時に隆々としてきた。
 そのときすでに、三郎は時事について奏上するところがあったが、その概略は次のとおりである。

一 閣老久世大和守に早々上京致すよう、きっと仰せ渡され候てはいかが御座あるべく候や。

一 栗田宮(尊融法親王)、鷹司太閤(政通公、法体となられて後拙山と号した)、鷹司右府公(輔煕公)御慎み【注五】解きあらせられ候てはいかが御座あるべく候や。

一 関東においても一橋殿、尾張大納言、越前中将、土州、宇和島、御慎み解きあらせられ候てはいかが御座あるべく候や。右は罪科の有無まったく存じ奉らず候えども、天下の風評、かつはこの節難波辺の所々に充満致し居り候浪士の説を承り候ところ、この御方々を恨み奉り衆怒の帰するところに御座候間、これらの御所置これなく候では、爆発目下におこり、人心一和と申すところに至り申すまじくと存じ奉り候につき、愚慮の程心胆を叩いて申上げ奉り候。

一 関東において安藤対馬守にはすみやかに退役仰せつけられ候ように御座候では、人心□乱、変乱の基と相成るべくと存じ奉り候。

一 御慎み解きの上は、一橋殿御後見、越前中将殿御大老職にあらせられ候てはいかが御座候や。右等の処、人心一和の基本と恐れながら存じ奉り候。

一 前件の儀仰せ渡されについては、恐れながら朝廷の御威光立たせられ候わんによって、関東有司急速にこれを取用いの儀いかが御座候やと存じ奉り候間、一、二の大名へ御内勅下され、結局見届け候よう仰せつけられてはいかが御座あるべく候や。

一 越前在職候わば、上京仰せつけられ、朝廷御遵奉の道相立ち、邪正の弁も明白に相成るよう仰せきかされたく存じ上げ奉り候ことに御座候。公武御合体、上下一致の上、異人の所置は天下の公論をもって、永世貫徹致し候明断定めさせられ、皇威諸蛮へ輝き候ようなされたく存じ奉り候。右は、近頃僭越の至り、もとより鉄鉞(てつえつ)の罪をまぬがれず、恐縮し奉り候儀に御座候えども、近来、世態を観察仕り候ところ、綱維日に廃弛し、人心和せず、滅亡の極変故四出し、終に異人の正朔(太陽暦)を奉じ候よう相成候やも計りがたく、恐れながら玉体も安らかならせられざるように承り、かつは本文の事件叡慮の向かわせられ候ところに候やと伺い奉り候。遠慮を徹底し、公武御合体を補佐し、人心一和の道を御成就なされ候よう御座ありたく、一二件国論を受け、内々言上し奉り云々(うんぬん)、


 



 勅使東下す     朝廷はこれを採納されて、この年(文久二年)五月、大原左衛門督重徳卿が勅使として東下され、三郎がその護衛をつとめた。勅書にいう。
    
朕惟うに方今の時勢、夷狄猖獗をほしいままにし、幕吏措置を失い、天下騒然として万民、塗炭に墜ちんとす。朕ふかくこれを憂い、仰いでは祖宗に恥じ、俯しては蒼生に愧ず。而して幕吏奏して曰う。
近来国民協和せず、それをもって膺懲の師を挙ぐるあたわず、願わくば、皇妹を大樹(将軍)に降嫁されんことを。すなわち公武一和、而して、天下力をつくして以て夷戎を掃攘せんと。故にその請うところを許す。
而して、幕吏連署して、十年内必ず夷戎を攘わんと言う。
朕甚だこれをよろこび、丹誠をぬきんで神に祈り、以てその成功を待つ。昨臘和宮関東に入るや【注六】、千種少将、岩倉少将を使して【注七】天下大赦の事を諭し、且つ告げて曰う。国政は旧によって大概を関東に委ねるも、外夷の事のごときはすなわち我国の一大事なり。その国体に係るごときはみな朕に問うて後議を定め、或いは二、三外藩の臣に夷戎の所置を予り聞かしめよと。幕吏対えて曰う。
宸意、事甚だ重大にして、にわかに奉行し難し。請う、しばらく猶予あれと。而して頃日、列藩ひそかに謀議を献ずるものあり。薩摩、長門の二藩は、殊に親しく来りて事を奏す。かつは山陽、南海、西国の忠士、すでに蜂起し、密かに奏して言う。幕吏、奸徒日々に多く、正義を地に委し、王家を蔑にし、戎狄に睦んで物貨濫出し、国用の耗、万民困弊の極は、ほとんど夷戎の管轄を受けるに至るは日ならずと知るべきなり。ねがわくば旌旗を挙げ、鸞輿を奉じ、函嶺において幕府の姦吏を誅せんことをと。或いは曰う。
大平漫閑遊惰の弊をのぞかんためには、京師の姦徒を誅すべしと。
又曰う。幕府を顧みず、攘夷の令を五畿七道の諸藩に下すべしと。
その衆議のごとき、ついに忠誠憂国の至情に出ずといえども、事甚だ激烈なり。まず薩長を喩して、事鎖厭せしめ【注八】、その他、幕府の老吏久世大和守を召すに、往復して日をふれども未だ唯諾を告げずして、先に昨臘喩すところの大赦を行う。
それ大樹猶弱にして、何ぞ失これあらん。但し、幕吏因循にして安きをむさぼり、撫馭術を失うことかくの如くならば、国家の傾覆立って待つべきなり。
朕日日憂懼す。所謂、一日の安を倫んで百年の患を忘れるという整賢の遺訓、以て鑑とすべし。まさに内文徳を修め、外武衛を備え、断然として攘夷の功を建つべきなり。
ここにおいて衆議を斟酌し、中道を執り守り、徳川をして祖先の功業を再構し、天下の綱紀を張らしめんとす。よって三事を策す。その一に、大樹に令して大小名を率い、上洛して公卿大夫と共に国家を治め、夷戎を攘わんことを議し、上は祖神の宸怒を慰め、下は義臣の帰嚮(ききょう)に従い、万民和育の基を啓き、天下を泰山の安きに比せんとなり。その二には豊太閤の故典にならい、沿海の大藩五国をして五大老と称し、国政、防禦、夷戎の処置を諮り決せしめば、すなわち環海の武備堅固となり、確然として必ず攘夷の功あがらん。その三には、一橋刑部卿に令し、大樹を授けしめ、越前前中将を大老職に任じ、幕府内外の政を輔佐せしめ、まさに左衽(ひだりえり。異人の風俗のこと)の辱め受けざらしむ。
これ万人の望むところとして、恐らくは違わざらむ。朕が意、この三事を決す。
この故に、使を関東につかわすは、けだし幕府をして三事のうち一を選んで以て行なわしめんとすなり。
これ以てあまねく群臣に詢れ。群臣も忌憚するところなく各々心丹を啓沃し、よろしくとう言を奉れ。」(本書は重徳卿の関東にもたらしたものと世に称するけれども、末文のところ疑わしくも思われる。)

 




 幕政を改革     幕府は綸命を受けて大いに悟り、一橋刑部卿(慶喜卿)を後見職に、松平慶永朝臣(越前旧主隠居、時に春嶽と号した)を政治総裁職【注九】にあげ、将軍上洛のことを議定し、つづいて旧来の弊政改革を決行して、「非常の厳革」とそれをよんだ。 まず諸大名の家眷をその領地にかえし【注十】、また、平素の服装や儀従の人数をへらし、華美の弊習を去り、簡易な実用を採り、閑職や冗員の陶太を行った。特に、戊午の大嶽で罪をうけて幽閉されている輩をゆるし【注十一】、故井伊直弼朝臣がこの大獄を決行したことが専恣な取り計らいだったという理由で、その封十万石を削って退咎し、それに組した役人たちを処罰するなど、着々実行して、一時は人目をおどろかした。中でも井伊家の退咎のごときは、前後撞着の処置で、すこぶる失体に類することであるが、これも一時人心を収攬するためとあって、やむをえない処置に出たものである。

 



 【注】

【一 坂下門外での遭難】 坂下門外の変という。井伊大老亡きあと、幕閣の中心にあったのは、老中安藤信正(信睦)であった。彼は安政の大獄後、悪化していた朝廷と幕府との関係を改善する「公武合体」を実現しようとした。
そのため将軍家茂(慶福)の夫人に、孝明天皇の妹である和宮を迎える策をたて、公卿や志士の反対をおしきって、これを実現した。このため安藤は志士のうらみを買ったが、これを助長させたのは、幕府が孝明天皇の退位を陰謀しているという噂が流れたことであった。長州藩と水戸藩の尊攘派は、安藤襲撃計画をたて、これに宇都宮の兵学者大橋訥庵らの挙兵計画が合流した。かくて文久二年(一八六二)一月十五日、水戸の浪士平山兵介ら六人が、坂下門外で安藤をおそって、これを傷つけた。安藤はまもなく老中の職を去った。

【二 元寇】 文永十一年(一二七四)および弘安四年(一二八一)に元のフビライの軍が博多に来攻、将兵の奮戦と台風の助もあって元軍を大敗させた事件。

【三 京中を横行し】 文久二年(一八六二)後半、京都では、尊攘派の手によって、張り紙、投げ文、放火、生晒し、暗殺などの脅迫行為が次々におこなわれた。彼らはこれを「天誅」すなわち天に代わって逆賊を誅するのだと称した。暗殺の被害者は、佐幕派公卿の九条家の家臣である島田左近、尊攘派に反対する行動をとったと見られた越後の浪士、本間精一郎、京都町奉行組与力渡辺金三郎ら四名をはじめ十数名をかぞえた。また井伊大老の片腕である長野主善の愛人村山可寿江は、生晒しのはずかしめをうけた。また両替商、質商、米穀商、貿易商の不正を非難し、天誅を加えるとおどしたり張り紙、投げ文がばらまかれた。これにたいし所司代や京都町奉行は、ほとんど取締りの力をもたず京都は無警察状態の混乱におちいった。

【四 伏見寺田屋の変】 薩摩藩主島津茂久の父島津久光が、藩兵千人をひきい、幕政改革を実現させる目的で、鹿児島を出発したのは、文久二年(一八六二)三月十六日であった。京都に集っていた薩州藩をはじめ諸藩の尊攘派志士は、これを機会に倒幕の兵を挙げようと計画していた。しかし久光は、幕府と朝廷との協力関係、すなわち公武合体を目標としていて、倒幕の急進的行動には反対であった。志士側は、西郷吉之助(隆盛)を派遣して、久光を説得しようとしたが、久光は面会を許さず、西郷を流罪にした。そこで京都の尊攘派は、自分だけでまず兵をあげ、情況を打開しようとした。彼らは、薩摩の船宿である伏見の寺田屋に集合した。これを知った久光は、奈良原喜八郎(繁)を使者として、薩摩尊攘派の旗頭である有馬新七に挙兵の中止を命じた。しかし有馬はこれにしたがわない。奈良原ら使者側は「上意」とさけんで斬りかかり、有馬ら六名の薩摩志士は死んだ。これが寺田屋の変であるが、これにより真木和泉、田中河内介ら志士も、意気を失って、挙兵をとりやめた。そして、この鎮撫に成功した久光の名声は、一段と高まることとなった。

【五 御慎み】 安政の大獄の措置として、幕府は水戸藩への内勅に関係した朝臣の処罰を朝廷に要求した。安政六年二月十七日、天皇は栗田宮(青蓮院宮尊融法親王、のち中川宮)を慎に、内大臣一条忠香、権大納言二条斎敬に十日の慎、儀奏久我建通、武家伝奏広橋光成に五日の慎、武家伝奏萬里小路正房に三十日の慎、儀奏加勢正親町三条実愛に十日の慎を命じた。さらに朝廷、幕府間の接衡の焦点となっていた前関白鷹司政通、左大臣近衛忠熙、右大臣鷹司輔熙、前内大臣三条実萬は、辞官・剃髪・慎の処分をうけた。

【六 和泉関東に入る】 和宮が将軍家茂と結婚したこと。文久元年(一八六一)十月二十日、和宮は京都を出発、十一月十五日江戸に着き、翌年二月十一日婚儀の式をあげられた。なお、本章注一を参照。

【七 千種少将、岩倉少将を使して】 和泉の東下に随従した左近衛権少将千種有文と右近衛権少将岩倉具視。千種と岩倉は、天皇の意を受けて、老中久世広周、同安藤信正に面会し、第一は鷹司政通、同輔熙、近衛忠熙らの処分の解除を求めるとともに、幕府に廃帝の企てがあるとの風説について詰問した。将軍はその企てがないとの誓書を出した。また和宮降嫁の条件である攘夷の期限と方略を質問したのにたいし、老中は、いずれ条約を破棄する計画であるが、時期は慎重にしたいと答えた。

【八 事鎖厭せしめ】 別本によれば「薩長の輩を喩して鎮圧せしむ」とある。

【九 政治総裁職】 当時の資料には「政事総裁職」とある。越前前藩主松平慶永を政事総裁職とし、幕政の中枢にすえることに、幕閣は異論はなかったが、一橋慶喜の登用には反対があった。しかし慶永の説得によって、文久二年七月六日、慶喜は将軍後見職に、同月九日慶永は政事総裁職に就任した。

【十 家眷をその領地にかえし】 大名の妻子は人質の意味で、江戸藩邸にとどめおくきまりであったが、江戸藩邸の家臣を減じ、その費用を節約するため帰国を許すこととなった。なおこの時、参勤交代制の全般的改革があり、従来隙年であった江戸在任を三年に一回とした。各藩財政の窮乏を救い、これを軍備充実にふりむけさせるため、大名統制をゆるめたのである。 

【十一 幽閉されている輩をゆるし】 文久二年八月、久世広周(関宿藩主)、安藤信正(平藩主)の老中在任中の失政を責め、隠居、急度慎に処した。さらに十一月には、安政大獄の審理関係者を罰し、彦根藩主井伊直憲にたいして、直弼の追罰として、十万石の削減を命じた。他方、和宮婚儀の祝儀として大獄連座者をはじめ、桜田門外の変、坂下門外の変など、尊攘運動遭難者のいっせい大赦をおこなった。

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  1. 2012/10/25(木) 16:58:33|
  2. 京都守護職始末1
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一  京都守護職の起因      『京都守護職始末1』

 鎖国から開国へ     そもそも徳川氏が豊臣氏に代わって政権を執るや、もっぱら鎌倉幕府の制にのっとり、みずからは関東八州の険要の地に拠って、まずその根本をかため、群雄を諸国に分封するに際しては、枢要な地には譜代【注一】、もしくは近親の諸将を配置して万一のときの衝にあたらしめ、京都には所司代を置いて譜代の近親をその職にあて、畿内から西の総鎮を兼ねさせることにした。
 そのようなわけで、一度命令が発せられると、いわゆる置郵して命を伝えるよりもすみやかに伝わり、すこしの凝滞もなく整然として行績の効果があがった。特に朝廷に対しては、供御の御料の増献をはじめとして、久しく絶えていた立后【注二】、立坊【注三】、大嘗会【注四】など種々の式典を再興して、皇室を敬う誠心をつくしたので、朝廷においてもまた、嘉尚のあまり優渥な待遇をたまわることとなって、上下の関係は洋洋として融和し、国内は靡然としてその徳化に浴し、昇平を唱うること二百六十余年の久しきに及んだ。武門が政権を執って以来、このようなことは未だかつてなかったことである。
 ところが安政のはじめになって、幕府は祖宗からの鎖国の制度をひるがえして、開国の方針にあらためた。これまでつづいた国是の大体を変更したのであるから、その影響はあらゆる方面に及び、漸次あらためなければならないことが次々に出てくるのは当然の情勢である。京都守護職を置くことになったのもその一例で、わが旧藩主故正三位松平容保こそ、この職についた始めで、また終わりの人であった。

 



 戊午の大獄     はじめに幕府が開国の方針を断行するについては、それがじつはわが国未曽有の大事であるのに、勅栽も待たずに決行したことは、事蒼皇に出た蹟があるので、かしこくも朝廷の嫌疑にふれ、したがって公卿や諸侯のなかにもこれを憤慨し、国是を鎖国に挽回しようとして攘夷を主張する輩が多く、ひいては草莽の徒にいたるまで滔々としてこれに雷同し、人心はようやく恟恟として、ここに内乱のきざしがあらわれくるに至った。
 この時にあたって、幕府の大老井伊掃部頭直弼朝臣は、はやくも既背の人心を収攬して幕府の権勢を発揚しようという意図から、世に言う戊午の大獄【注五】を起こしたが、その処置が貴紳草莽のけじめもつけず、当を失い、過酷きわまるものであったので、その結果は、いつそう衆心を離叛させることとなった。
 なかでも水戸藩のごときは、憤激もっともはなはだしく、その藩士たちは、直弼朝臣を不倶戴天の仇敵とし、ついに万延元年三月三日、登城の途中、桜田門に待ちうけてこれを殺害するに至った【注六】。
 これはじつに未曽有の大珍事であるうえに、御三家【注七】の一つ水戸家臣の所為というので、上下の驚愕は言うまでもなく、とりわけ将軍家はその兇暴をはげしく怒られ、にわかに溜間席【注八】の諸大名を召し、そのことについて諮詢された。
 わが公もまたこの召命をうけて、三月下旬江戸に着いた。

 



 水戸藩密勅問題     これよりさき、戊午の大獄のそもそもの原因となった、朝廷から水戸家に賜った勅書【注九】があって、幕府からそれを奉還するようしばしば水戸家に令したのだが、水戸の藩士は言を左右にして一向にその令を奉じないばかりか、あまつさえ徒党を結んで国境を守り、勅書が万一国境を出るようなことがあれば、兵力に訴えてもそれを取り戻そうなどと唱導して、幕使に礼を失するなど、その無状もまたはなはだしかった。
 わが公らが登城してみると、老中久世大和守広周朝臣、安藤対馬守信正朝臣などが台旨を伝えて、水戸藩士の兇暴の罪を鳴らし、尾張、紀伊の両家に命じ、兵力にかけて典刑を正そうと強硬な手段をもち出していた。わが公は大いにおどろいて、「なるほど水戸藩士の兇暴はじつにたとえようのないものであるが、しかし水戸藩は朝廷の御信頼もあついし、列藩の嘱望するところでもある。なによりも御三家の筆頭ではないか。思うに、今回のことは、一部藩士の過激分子が脱藩してこの挙に及んだものであり、もとより水戸家も取締り緩慢の責は免れないとしても、藩みずからが犯した事とは事情が異なるから、その顛末をよく探求し、また天下の大勢にも鑑みて、他日に累をのこさないようにするこそ今日の急務ではあるまいか」と論じたが、老中たちは、「台慮がすでに決せられたあとで今さらひるがえすべくもない、足下に申分があるなら、御自身将軍に言上なさるがよい」という返答で、意見を容れようとしない。わが公もまた、それ以上言うこともなく退出せられた。
 執権職として塩梅(あんばい)の任にある者が、この至当な建議を聞きながら、一人としてこれを執達(しったつ)するものがないのはじつに心外のきわみであるが、それによっても当時の幕府の廟議がいかに切迫していたかを、推知することができよう。
 その後いくばくもなくまたお召しがあり、将軍家から親しくわが公の意見を諮問され、その言を嘉納されて、水戸藩問罪のことは沙汰止みになった。将軍家は、わが公のはからいを深く嘉賞され、この年(万延元年)十二月十二日、左近衛権中将に官位を昇進された。
 そこでわが公は、さらに宗家と水戸家とのあいだを和融させようと、文久元年三月、家臣外島義直(機兵衛)、秋月胤永(悌次郎)の二人に旨をさずけて、上州館林につかわし、館林の藩臣岡谷繁実(当時、紐吾)が水戸家の事情にくわしいと言うので、これに就いて問わしめた。しかし繁実は、わが公の予期に反し、水戸の事情にくわしくないとわかったので、外島、秋月の二人は常陸の笠間に足をのばし、加藤有隣(後、桜老)に会って、ほぼ水戸の事情をきき知り、ただちに水戸に行って、武田正生(修理、後伊賀守、号は耕雲斎)、原忠成(市之進)に面会した。このとき正生、忠成等は、同藩の過激の徒の兇暴なふるまいが主家に累を及ぼしたことから日夜憂慮にしずみ、茫然としてなすところをしらないありさまだったので、いまわが公の意を聞くに及んで、あたかも津口で舟をみつけたように、大いによろこび、胸襟をひらいて事の顛末を陳述し、ひたすら救解を求めた。
 この復命をきいてわが公は、ただちに委細を幕府に言上して言いなだめる一方、水戸藩とはまた家臣を往復させ、切にさとして恭順の実を表すようにさせたので、一滴の血も流さずに勅書を返上させ、事なくすべてはおさまった。
 将軍家は、わが公のこの調停の労を嘉賞され、これよりときどき登城して遠慮なく年寄どもと相談するようにと台命があった。これが、わが公が将軍家の信任をこうむり、同時に幕府の諸有司に推重される始まりであって、じつは文久二年五月三日のことであった。

 



 【注】

【一 譜代】 譜代大名。江戸時代の大名の中で関ヶ原の戦以前から徳川氏の臣であった者をいう。

【二 立后】 公式に皇后を立てること。

【三 立坊】 立太子。

【四 大嘗会】 大嘗祭、おおなめまつりともいう。天皇が即位の礼ののち初めて大嘗宮で行う新嘗祭。その年の新穀をもって、みずから天照大神および天神、地祗を祀る大礼で、神事の最大のものであった。

【五 戊午の大獄】 安政の大獄ともいう。安政四年(一八五七)、アメリカ総領事ハリスは、幕府に通商条約の締結をせまった。幕府首脳は、これをやむをえないこととし、交渉をすすめるとともに、その勅許をえようとしたが、大名、藩士、浪人のなかに、開国に反対する攘夷派が勢力をもった。彼らは朝廷にはたらきかけ、その権威をかりて、目的を達しようとした。水戸藩前藩主徳川斉昭とその家臣が、その中心であった。
他方、当時の十三代将軍家定は、凡庸また病身であったので、そのあとつぎの問題が生じた。幕府首脳の施政に批判的な大名、藩士は、聰明の聞こえの高かった一橋慶喜(徳川斉昭の実子)をあとつぎにしようとし、これまた朝廷にはたらきかける運動をした。
越前藩主松平慶永と腹心橋本左内が、その派の中心であった。これにたいして彦根藩主井伊直弼や幕府首脳は、将軍周辺の婦人たちとむすんで、慶喜を推すことに反対し、血縁の近い紀州藩主徳川慶福を候補者に推して運動した。こうして条約問題と将軍継嗣問題が同時に起こったため、これを機会に封建支配者内部の対立は公然化した。もともと攘夷派と一橋擁立派とは、政治的立場が一致するものではなかったが、幕府の現状に批判的である点で、次第に連携がとられ、朝廷とむすんだ反幕閣の大きな勢力ができあがる形勢となった。これを見た幕府首脳は、安政五年四月、井伊直弼を大老に就任させ、幕閣を強化するとともに、強硬策をとることとなった。直弼は、一方では、勅許をえられぬままに、日米通商条約の調印を断行し、他方、慶福を将軍継嗣に決定して、そのうえで攘夷派、一橋派の弾圧をおこなった。すなわち水戸の徳川斉昭父子、尾張藩主徳川慶恕、越前の松平慶永に隠居、謹慎を命じた。ついで、梅田雲浜、頼三樹三郎ら、公卿とむすんでいた浪人たち、小林民部権大輔ら反幕派公卿の家臣、橋本左内、吉田松陰、鵜飼吉左衛門ら、水戸、越前、長州、薩摩の藩士等、百余人を逮捕し、処刑した。さらに翌年には、反幕派に加担したという理由で、左大臣近衛忠煕、右大臣鷹司輔煕、前関白鷹司政通、前内大臣三条実萬は官を辞し剃髪することとなった。この安政の大獄を契機に、幕閣批判の勢力は、尊王攘夷派として結集し、一層反幕の色彩を濃くすることとなった。

【六 殺害するに至った】 桜田門外の変という。安政の大獄の弾圧政策は、志士の間に井伊大老にたいする反感をつのらせ、大老暗殺計画がたてられた。その中心は、水戸藩の金子孫二郎、高橋多一郎、関鉄之介、薩州藩の有馬新七らであった。万延元年(一八六〇)桃の節句の三月三日、井伊大老が登城のため桜田門にさしかかった時、十七名の刺士がこれを襲撃した。彼らは関鉄之介ら水戸藩士と薩摩の浪人有村治左衛門であった。大老が白昼江戸城の門前で殺されたことは、幕府の権威の失墜を世人に印象づけた。

【七 御三家】 大名の最高の家格で、徳川氏の親族として、もっとも重んじられた。徳川家康の子は、重要な藩の藩主に任じられたが、その中で、尾州藩主となった九子義直、紀州藩主となった十子頼宣、水戸藩主となった十一子頼房の後だけが継続し、三家と称され、重大な政務の相談をうけ、また将軍家の系統が絶えれば、養子となって継ぐのを例とした。

【八 溜間席】 江戸城中での大名の詰所は、大名の家格によって、大廊下、大広間、溜間、帝鑑間、雁間、柳間、菊間に区別された。溜間は、徳川の分家である家門のなかの高松、桑名、会津の松平家、および譜代の名家である井伊、本多(岡崎)、酒井(庄内と姫路)、榊原の諸家が列した。また老中を退職した者は、一代限り溜間詰格を命ぜられた。すなわち幕府に近い関係の実力藩主のグループで、定日に登城して、政務に関与する特権をもっていた。

【九 水戸藩に賜わった勅書】 幕府が、勅許なしに日米通商条約に調印したことは、攘夷の意見をもつ孝明天皇や近衛忠煕、三条実萬たち朝臣の憤激をまねいた。これにはたらきかけた攘夷派志士の策動もあって、安政五年八月七日、水戸藩に勅書が下がった。その内容は「開港してはならぬという勅答にそむいて条約を結んだ幕府のやり方を不満に思う。諸大名と合議して、しかるべく幕府を助けよ」というものであった。水戸藩の志士は、この勅書を諸藩に伝達し、朝旨の実現をはかり、これによって、井伊派を攻撃し、斉昭らの処分解除をおこなわせようとした。これにたいし幕府は、勅書の伝達を禁止し、さらにこれを返還させるよう水戸藩にせまり、ついに勅諚返納の勅書をもらいうけ、これを水戸に伝えた。そこで、これにしたがおうとする水戸藩首脳と藩士穏健派にたいし、尊攘派は返納を実力で阻止しようとして、幕府と 水戸藩、また水戸藩士内部の対立は激化した。斉昭もついに勅書を幕府を通じて返納するに同意するほかはなかった。こうした情勢のなかで、尊攘派は、井伊大老暗殺を計画し、桜田門外の変をひきおこした。

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  1. 2012/10/24(水) 20:26:39|
  2. 京都守護職始末1
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源忠誠公略年譜     『京都守護職始末1』

 公は諱を容保、号は祐堂、または芳山と言う。陸奥の国、会津の城主松平氏第八世忠恭公の嫡子となったが、じつは美濃の国高須の城主従四位下左近衛権少将、中務大輔松平義建朝臣の第六子で、母は古森氏、天保六年十二月二十九日、江戸四谷の第(やしき)で生まれた。小字は銈之丞、弘化三年四月二十七日、忠恭公の嫡子となり、その女を配された。
 八月十五日、はじめて大将軍徳川家慶公に謁した。十二月十六日従四位下侍従に叙任し、若狭守を兼ね、家例をもって溜間詰となった。嘉永五年二月十日、父公が薨ぜられた。潤の二月二十五日封を襲ぎ、肥後守に遷る。この月、家老六人が大将軍の謁をたまうなど、すべて家例どおりである。十二月二十六日、左近衛権少将に進んだ。
 六年四月、安房、上総の戍所を巡視して、士卒の操練、舟船の運用などを視てあるき、また封内の孝義者および力田の者を賞し、高齢者に賑給した。
 六月米国使節ペルリが相模国浦賀に来航し、国書を幕府に呈して、和親条約を結ぶことを請うた。幕府はすなわち有司をつかわしてこれを久里浜に延いて会見するに当たり、わが藩は命をうけて舟師を出し、これに備えた。幕府は和親条約の許否について、諸大名の議を徴した。公は、同班の井伊掃部頭らとともに、宇内の情勢を論じて許可すべしと建言した。この時、わが藩兵は大いに房総守衛の警備を張り、城邑の兵もまた馳せ参じた。後に、幕府はその労を賞した。十月幕府はわが房総の戍衛を免じ、さらに品川湾第二砲台の戍衛を命じた。
 安政元年正月、米国使節がふたたび来航して、幕府に回答を求めた。公はまた前の意見を執って、進言するところがあった。幕府はついに和親を許すこととなった。
 六年九月、幕府はわが品川湾砲台の戍衛を免じ、蝦夷の地(東西別より西沢喜に至る。その間網走地方を除き、海岸およそ九十里)を賜うた。ここにおいて士卒を移して、拓地および漁事を監督させた。
 万延元年三月、江戸桜田門の変があった。幕府は急に溜間の諸侯を召した。公は道をいそいで江戸に到り、ついで、幕府と水戸藩のあいだを調停するところがあった。十二月十二日、左近衛権中将にすすむ。
 文久元年十月、夫人卒去された。
 二年五月三日、幕府は公に命じて大政に参与させた。潤八月朔日、幕府は公を京都守護職とし、正四位下にのぼせ、職棒五万石を賜うた。十二月九日、上京の途にのぼり、二十四日京師に入り、黒谷金戒光明寺を宿館とした。
 三年正月二日、はじめて参内、就任のことを奏し、物を献上した。親王、準后にもおなじく献上した。この日、小御所で竜顔を拝し、天盃を賜い、そのうえ御料の純緋の御衣を賜わった。さきに幕府に建議して、勅使待遇の礼を改正させた功を賞し給うたのである。四月、ふたたび参内、正月の賀を奉り、物を献じた。以後それが例となった。これよりしばしば参内、または親王、摂関、公卿の間を来往し、大いに公武一和のために尽瘁した。よってかしこくも聖上から御信任をこうむり、恩遇日に優渥を加えた。
 三月四日、大将軍家茂公が上洛した。公はそのため、公武のあいだに尽瘁した(それより再三上洛があったが、くわしいことは本書のなかにあるので、略して記さない)。
 七月二十九日、はじめて軍隊操練を天覧に供え、その翌日、大和錦二巻、白銀二百枚を賞賜あり。八月五日、ふたたびこれを天覧に供え畢って、水干、馬具、黄金、などを賜わった。十八日、長門藩士が堺町御門の守衛を免ぜられた事件があった。公が参内して鎮撫にあたったが、そのことも本編にくわしく記してある。
 二十四日、幕府は将軍家佩用の双刀を賜うた。その時の功を賞したものである。二十六日、朝廷でもまたその功を賞し、御待古しの御末広と絹五匹を賜い、かつ兵士たちには金若干を恩賜せられた。十月九日、さらに宸翰と御製二首を賜わって、公の忠誠を優賞し給うた。
 十五日、幕府は、わが守護職就任以来、用途多端なことを察して、累代の領地陸奥会津大沼郡五万石の地を役知として賜うた。十二月十三日、幕府、備前行包の刀を賜い、さきに将軍家上洛のあいだの輔弼の功を賞した。
 元治元年二月ふたたび宸翰を賜わり、公武一和についての叡旨数カ条を下し賜うた。十日、幕府は公の就任以来の励精を賞して封五万石を加え賜うた。
 十一日、幕府は勅を奉じて、毛利慶親卿父子の罪を問おうとした。そこで、公は守護職を罷め、陸軍総裁職となり、ついで軍事総裁職と改めた。
 十二日、朝廷は、公の就任以来の功労を嘉賞あって、参議就任の詔があったが、公はそれを辞退した。さらに、この叡賞を祖宗正之公に移し賜わんことを奏請し、允栽があり、正之公に従三位を贈られた。十六日、また宸翰を賜わり、御依頼の内旨を下し給うた。この日、将軍家は御手ずから備前秀光の刀を賜い、守護職勤中の労を慰められた。三月十四日、朝廷は奏請をゆるして参議を免じた(これよりさき、公卿、諸侯を国事参与としたが、わが公もまたこれに輔された)。四月七日、幕府は公の軍事総裁職を免じて、ふたたび京都守護職に任じた。けだし叡慮から出たものである。
 六月、毛利慶親卿はその家老福原越後らに兵を授けて上京させ、七月十九日、長門藩士国司信濃らが兵を率いて禁闕に迫った。公は病を冒して参内、防備を指揮し、ついにこれを撃退した。その後、禁内に数十日宿衛をつづけ、そのため病重く、奏請して旅館に療養した。
 九月五日、朝廷は公の忠勤を嘉賞あり、兼恒作蒔絵装飾の短刀を賜うた。六日、聖上は公の病悩を宸憂あらせられ、特に内侍所にその平癒を祈らせ給い、御幣、洗米を賜わった。
 十四日、幕府はわが守護職中の費用の多端を察し、月々金一万両、米二千俵を賜うた。二十二日、また大和包清作の刀を賜い、さきの将軍家滞京の輔弼の功を賞した。十二月十八日、幕府は去る七月十九日の功を賞して、筑前国弘作の装刀を賜うた。
 慶応元年四月九日、聖上は公の病が小康をえたと聞こしめされ、関白二条斉敬に詔をつたえ、杉折と御物数品を賜うた。
 二年七日、大将軍家茂公は大阪城にあって、病いがつのり、二十日、ついに薨じた。一橋慶喜公が入って宗家を嗣ぎ、十二月五日、征夷大将軍に任ぜられた。この月、水戸の故中納言斉昭卿の第十九子、余九麿を養嫡子ときめた。後、将軍家はこれに首服を加え、偏諱を賜うて、喜徳とあらため、従四位下侍従に叙し、若狭守を兼ねた。
 この月、聖上御悩、公は日夜参内し、天機をうかがい奉った。二十九日、ついに崩御。公は御葬送の供奉を勤めた。
 慶応三年正月、御大葬によって征長解兵の例が出た。四月四日先帝の御遺物を拝蔵した。二十三日、参議に推された。この日、兵庫開港の勅許が出た。
 これによりさきに、英仏等の諸外国の公使が、幕府にこれを請うことしきりであった。わが公は将軍家の旨を奉じて、時勢のやむをえないことを論じて、公卿、諸侯に説いたので、ついにここに至って請を允された次第である。
 十月四日、土佐藩士後藤象次郎が主命をもって、幕府に政権奉還をすすめた。公は、それに賛同であった。
 十四日、将軍家政権奉還を奏請した。翌日にその允栽があった。二十四日、征夷大将軍の職を解かれんことを奏請し、即日允栽があったが、なおしばらくは旧通り政事にあたらせられた。
 十二月九日詔があって、摂関、幕府、伝議両奏、守護職、所司代等が廃された。そこで十二日、徳川内府以下がことごとく大阪に退いた。
 四年正月、徳川内府が詔によって上京した。わが公もこれに従うた。
 三日、わが前駆の一隊が京師守兵の砲撃に逢い、対抗したが、ついに利なく、大阪に還った。つづいて内府以下、東下の途についたが、わが公もまた同道した。
 十二日、江戸に還った。その時に、朝廷から徳川氏征討の大号令があったことを伝え聞いた。そこで二月四日、書を輪王寺宮にたてまつり、救解を哀請し、即日致仕した。
 この日、わが家老連署で、尾張以下二十二藩の救解を願い出た。十六日、わが公は江戸を発し、二十二日、会津に帰った。
 その時に、朝廷から、わが隣藩に命じてわが藩を征するという報があった。そこで書を贈って、その冤を弁疏した。また仙台、米沢以下の諸藩も連署して、鎮撫総督に書を呈し、わが藩の無罪を訴えたが、その言が聴かれず、賊に味方するものとされた。ここにいたって哀訴の路が絶え、ついに奥羽同盟が成立した。
 八月、西軍がわが封境に迫った。君臣籠城し、死守防戦、数旬にわたったが、衆寡敵せず、城をあけわたして罪を請うた。
 十月十九日、公父子は会津を発し、十一月二日東京に入った。即日、公は因幡藩に、世子は久留米藩に幽閉された。十二月七日、さらに両藩に永の預けということになった。
 明治二年五月、わが家老萱野長修は首謀の罪で死刑に処せられ、その余はことごとく、死を宥された。六月三日、容大公が生まれた。
 九月二十八日、家名再興の恩命があり、十一月四日、華族に列せられ、陸奥国で高三万石支配を命ぜられた。十二月七日、さらに公を和歌山に遷した。
 四年三月十四日、公父子の御預けが解け、家にあって謹慎することになった。
 五年正月六日、謹慎を解かれた。九年十一月一日、特旨をもって、従五位に叙された。
 十三年二月二日、東照宮々司に補された。三月十三日、上野東照宮々司を兼任した。五月十八日、特旨によって正四位にのぼり、六月二十一日、岩代国土津神社祠官を兼ねた。十七年、願いによって東照宮々司を免ぜられた。
 二十年九月、ふたたび東照宮々司に補された。二荒山神社宮司を兼ねる。十二月六日、従三位にのぼった。二十六年九月二十二日、願によって二荒山神社宮司を免ぜられた。十二月四日、特旨をもって正三位にのぼった。
 五日、病んで薨じた。年五十八。諡して忠誠霊神という。九日、東京内藤新宿正受院域中に神葬された。

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  1. 2012/10/23(火) 18:16:26|
  2. 京都守護職始末1
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目次     『京都守護職始末1』

  源忠誠公略年譜

一 京都守護職の起因

二 諸浪士の跋扈

三 生麦の変

四 西郷、田中両家老の諫止

五 守護職の奉命

六 公武一和について幕府に建議する

七 わが公の入京

八 わが公はじめて参内拝謁する

九 浪士の悪戯

十 将軍家入京

十一 新選組

十二 加茂行幸

十三 わが公将軍家の東帰を止める

十四 島津三郎の入京およびそのその建議

十五 石清水行幸

十六 石清水行幸は夏の叡慮ではなかったこと

十七 姉小路公知朝臣の暗殺

十八 九門守衛の配備

十九 長行朝臣がわが公に送った陳情書

二十 長藩の外舶砲撃

二十一 わが公から老中へ送った書面

二十二 守護職東下の御下命ならびに幕府への御沙汰書

二十三 わが公と近衛前殿下に賜った御宸翰

二十四 二条斉敬公懇話の大略

二十五 馬揃の天覧

二十六 土佐、会津の提携

二十七 薩摩、会津の提携

二十八 七堂上の西奔

二十九 御宸翰ならびに御製を賜う

三十 中川宮に賜わった御宸翰

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  1. 2012/10/21(日) 17:12:50|
  2. 京都守護職始末1
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京都守護職始末とは

 『京都守護職始末』とは、明治三十年、孝明天皇三十年祭の折に、元会津藩家老・山川浩が、もうすでに維新から三十年も経過しているので本当の事を書いても大丈夫であろうと思い著述を始める。その後、山川浩が没すると、弟の山川健次郎が執筆を受け継ぎ、健次郎が東京帝国大学総長就任前後の明治末期から大正にかけて完成したと言われる。

 この著書が世に出る契機は、『観樹将軍回顧録』の著者で知られる元長州藩士三浦俉桜に対し健次郎が、明治以降、逆賊とされてしまって困窮している会津松平家の救済を訴え出た事が発端となる。

 逆賊とされてしまっていた会津松平家に対する救済運動の困難な状況の中、健次郎は三浦に対し、京都守護職時代の会津藩主である松平容保が与えられた、孝明天皇からの宸翰(京都守護職始末に所収)を見せる事によって、会津藩が逆賊でなかった証明をする事で政府から三万円が下賜され、なんとか会津松平家の救済となった。

 この会津松平家の救済運動の最中、明治三十五年、健次郎は三浦から『京都守護職始末』の出版をしないよう求められた。健次郎は会津松平家の救済運動を成功させる為に、やむなくその要望を呑むが、時期を待ち明治四十四年に強硬刊行し世に出る事となった。

 この著書は会津藩が京都守護職を務めた文久二年から慶応四年正月までの事が記されている。明治以降の認識では朝敵賊軍とされてしまっている会津藩だが、実は戊辰戦争で西南軍に敗れるまでは京都守護職として立派に天皇を守護し皇軍としてその役を務めていた真実が書かれています。その真実が、世間に周知されるのを嫌がった為に戊辰戦争の勝者側である西南諸藩で構成されている明治政府により長らく刊行禁止とされてしまっていた貴重な存在がこの著書です。本来、幕末史を語る上では欠かせない逸品ですが未だ日の目に当たってるとは言い難い。

 平凡社 山川浩著 遠山茂樹校注 金子光晴訳 京都守護職始末1・2、全二巻を書き起こししますので幕末史を探求する方々において御参考にください。



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  1. 2012/10/21(日) 12:08:26|
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