いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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前将軍の下坂

前将軍の下坂

 この時竹中重固は関ヶ原の役に鳥居元忠を残して伏見城を留守せしめごとし、保砲隊若干を率いて二条城を守るの任に当たらんことを乞いたるも慶喜公許さず、反幕府の人々に気受けよき水戸藩の大場一真斉に二条城の留守を命じ刀を賜う、新選組頭近藤勇もまた留守を命ぜらる、慶喜公ついに二条城を発す、我が公、定敬朝臣、勝静朝臣等騎従す、時に酉の上刻なり、慶喜公は白布をもって両襷となし、以下片襷としもって標識となし、一小隊に各提燈一個を付するのみ、この時に当り徳川慶勝卿は深く納地の前途を憂へ、勝静朝臣が二条城を去らんとするを要し、説きていわく、宗家の困難思うに余りあり、しかりといえども内諭を奉ぜずんば名義立たずして慶勝もまた身を置くに地なし、慶勝領地の一部を出して宗家の不足を補うべし、必ず内諭を奉ぜられんことを請うと、その旨趣を手書きして勝静朝臣に付す、勝静朝臣答えずして発す、慶喜公の大阪に下りしは単に鎮撫にありしも朝臣深くこれを畏れる、後に長州藩より有栖川総裁宮に示せし所の事務条議の書中に左の言あり。

徳川内府下坂致候は実に彼の上策にして進退に窮し又は下の鎮撫に困りたる譯には決して無之浪花を根拠とし兵庫西ノ宮等の地を占め軍艦を以て海路を絶候時は京師数萬の生霊不日に飢餓に及ぶべきは必然に御座候萬一其策行われず候とも海路より東下関東へ割據する時は所言虎を野に放つの勢にて之又如何とも致方無之今日の情勢彼の利にして京地の不利眼前に有之候事

 薩藩大久保一蔵もまた十二月二十八日をもって、在藩蓑田傅兵衛に興うる書中に左の言あり。

下坂の儀大に謀略有之華城に根拠し親藩譜代を語ひ持重の策を以て五藩を離間し薩長を孤立の勢に為し隠に朝廷を謀り挽回せんとの密計に候由異説紛々たり云々

 二条城を去るに際し、慶喜公が我が林、佐川の二将に対し『予に深謀あり』と言われたるが、薩長二藩士のその心の内を除き、如何なる深謀かあるべき、けだし当時公の意向は除姦に傾き居たるがごとし、しからずんば偽言をもって部下を欺きたる、道徳に反する責を辞すべからざればなり。
 慶喜公の京都に発するや沿道の雑沓言うべからず、たちまちにして我が公と相失し、勝静朝臣もまた失す、行いて鳥羽に至り始めて相合す、慶喜公淀の橋本に憩い我が公等も従って憩う、しばらくして慶喜公騎して発す、我が公皆騎従す、八幡牧方に至れば握り飯を推置して将士に分つ、翌暁慶喜公守口に至り厩舎の庭上に床机を設けてこれに倚り、我が公および定敬朝臣、勝静朝臣等団坐し、火を焚きて暖を取り酒を暖めて共に酌む、慶喜公いわく、宰相京都に滞ること六年、その間の丹誠実に感ずべし、中将もまた同じ、しかして今このごとしこれ天なり、朝廷より譴責せらるゝの風説ありしに、事なくして暇を賜りしは不幸中の幸いと言うべし、畢竟卿等誠心の貫徹せるなりと慰諭することこれを久うす、十二月十三日申の刻慶喜公大阪に入る、城代牧野貞直朝臣膳羞を献ず、慶喜公その半割き我が公、定敬朝臣に賜う。
 同十三日岩倉具視朝臣は事務方策二条を挙げて薩藩に諮問す。

第一 四藩薩長土芸の議論離合に拘はらず薩長の兵力を以て何く迄も干戈を以て朝廷を奉護し成敗を天に任せ戦を一図に決する等の事

第二 暫く尾越の周旋を見て徳川氏大阪に於て鎮定の上両事件御受真に反正の実行挙り候はゞ寛大の御処置を以て既徃を咎めず議定職にても御採用其余列藩とも広く御用ひ氷炭相合して皇国を護持する等の事


 大久保一蔵は西郷吉之助らと議し、第二策の出つべきを答申す、具視朝臣はその議に従いて尾越二藩の周旋にゆだね、一蔵の書その秘密を漏らす者あり左のごとし。

右両条は九日御定算の通り萬事叡断に出て一戦と相成候上は第一条に出るの外無之候へ共八日より徹夜の朝議にて九日十時頃御退散相成候時宜合にて尾越芸三公は其儘の参議にて容堂公四時頃御参夫より小御所の衆議となり越土公大に徳川氏を助け即夜参朝を命ぜられ御評議席に召され度との御大論殊更土藩後藤なる者必死に之を推助し殆ど危に至り反正の実行挙り候上ならでは御採用然る可らず云々賢くも大守には御建言在せられ候尚紛々として決せず御勘考との御事にて一旦御開に此間後藤なる者頳りに周旋尽力す臣大守公を奉助砕身して論破し一藩を以て漸く是を拒くを得終に尾越公両事件御内諭の趣を奉し徳川氏をして反正の実行を挙けしむるの周旋を御受と相成り再度小御所に於て御評議尾越両公御受の趣言上を遂られたる御都合なり故に第二条に出るに非ざれば致方なし云々

 これ薩藩が諸藩の反抗を恐れて、一時討幕の鋒鋩を収めたるなり。
 十四日三職列座す、具視朝臣、慶永朝臣を見ていわく、大阪城未だ鎮静いたらず、輦下訛言ますます多く物情騒然たり、これ貴下の知る所なり、内府退官納地の奉命を遅緩せば恐らくは変を生ぜんよりて徳川慶勝卿と協議し速やかに命を奉ぜんことに力を尽くさんことを望むと、これにおいて慶永朝臣は豊信朝臣および戸田大和守と議し、共に具視朝臣に答えていわく、ただいま旗本の人心このごとくなれば内府容易に辞官納地の命を奉ずること能わざるべし、ゆえに徳川氏臣下の情に反せざらんことを請う、しからざれば大患従って生ぜざるを期せず、また官位は何の点に辞し領地はどれほどを献じて朝意に合すべきや、大阪の物情を調和するに先んじその程度を知らざるべからず、実に徳川氏の存亡天下治辞のかかる所なれば、事情を洞察し評議せられんことを請うと、具視朝臣いわく、貴下等の事情を推察せり、その書の出づるあらばまた議する所あるべし、ただし官位の事は辞退して可なり、これ決して貶降にあらず、ただ前内府と称すべきのみと、豊信朝臣心安んぜず、さらに後藤象二郎をして具視朝臣を訪わしむ、具視朝臣見るを許さずしていわく、すでに決定の大事なり、一人の談聞くべきにあらずと、象二郎懇請して止まず、具視朝臣強いて対面す、象二郎は豊信朝臣の意を告げていわく、大阪城の人心甚だ穏やかならず、しかして強いて辞官納地の命を奉ぜしめんとせばますます旗本を激怒せしめ、たちまち禍乱を生ぜん、慶永朝臣、豊信の大に憂うる所なり、願わくは他の方法を以て徳川氏を遇せられんことをと、具視朝臣いわく、大に不可なり、すでに先帝の顧命ありて真宸断を以て発せし所の命令なり、鎮撫の難きを以てこれを更むるは、いわゆる朝令暮改にして新政の今日に当り皇威不振の基とならん、慶永朝臣すでに死を決して辞官納地の命を奉ぜしめんとするを以て、挙朝その義気に感じ必ず成功を告げんことを望めり、しかして今その命を廃せんとするは予期せざる所なりと、断固として聴かず、象二郎再三哀訴したるも意を得る能はざりき。
 具視朝臣は十二月九日の大改革を以て、『先帝の顧命』によると称すれども、先朝の信用厚かりし朝彦親王、二条殿下、徳大寺公純公、近衛忠凞公、同忠房公等の人々一人もこの顧命ありしも知らず、その厳譴を具視朝臣ただ一人顧命ありきと称するは最も怪しむべし。
 時に九日の警報江戸に達するや、我が藩の留学生永岡敬次郎先つこれを耳にし、江戸留学生を芝新銭座の藩邸に会合してその方向を定めんとす、会する者四十余人皆いわく、戦機すでに起こるきざしがある学を修むるの秋にあらずと、たちたまち西上に決す、敬次郎、浮洲七郎等藩相上田学太輔に就いて西上の許可を請うや、学太輔容易に許さず、これにおいて敬次郎等学校奉行町田傅八を見て、藩相もし許さずんば脱して国難におもむかんとするの意を示したれば、学太輔その止むべからざるを察しその情を許し、江戸定詰大砲隊をして同行せしむ、大砲隊はすなわち学校奉行町田傅八の率いる所なり、書生隊は即日江戸を発し、大砲隊は翌日を以て発す、皆伊賀路をへて大阪に入る。
 かくのごとくして我が政体変革したれば当時滞阪中なる英米佛蘭伊孛の六国公使等登城し、老中に就いて今後外国事務を処理するの政治機関を問う、慶喜公思えらく、外交の事たる真に国体の如何に関せず、一日もその官なかるべからず、朝廷の設備すべからざるの間は進んでこれを維持し、その人定まるを待ちてこれを譲るにごとかずと、すなわち十六日在阪公使を黒書院に引見す、これにおいて佛国公使レオンロッシュは佛文の書を朗読す、その大要は日本政体変革後締盟各国はいずれの政府に向かって外事を交渉すべきかと言うにあり、慶喜公おもむろにこれに答えていわく、『我祖先東照公日本国の政体を立し事、大綱立ち萬目挙がり、二百余年、上天子より下庶人に至るまで、その徳を尊びその澤に浴せざるものなし、しかるに宇内の形勢一変し、外国と条約結びし以来、全美の良法も虧欠あるを免れず、余継統の初めよりこの事を熟考して、京師と協議しこの法を改革せんとす、この他念あるにあらず、偏
に憂国愛民の赤心より、余か祖宗以来傅承の政権を投げ打ち、広く天下の諸侯を集め、公議をつくし興論を採りて、余が国政府の建法変革を定めんと、信約をもって朝廷によせたり、この鴻業を成んため先帝より遺命ありて、幼主を扶翼するの摂政殿下を始め、宮堂上方数名、余か政権を帰すことを諾す、乍去諸侯の公議相決するまで諸事これまでの通り政権を執行すべし、との勅命なるにより、もっぱらその会議の期を待ち、断然その席に臨まんとせしに、あにはからんや、一朝数名の諸侯兵仗を帯して禁門に突入し、先帝顧命の摂政殿下をはじめ、宮堂上を放逐し、先朝譴斥の公卿等を引き入れて代わらしめ、最前勅命の旨を変し、公議を待たず将軍職をも廃止する事に至れり、余か旗下譜代の諸藩大に憤激し、日本の大法を壊り、皇国民臣に背きし暴戻の罪を責め、兵を挙ぐるの他なしと日夜余に迫れり、しかれども最初政権を放棄せしは、畢竟上下の人心を一和するためなるに、右様の過激に及ぶは素心にあらず、仮令如何なる正理ありとも、余より乱階をかもすこと決然なすに忍びざる処なり、ゆえに余この禍乱を避けんがため、一ト先下阪に及びしなり、しかれどもこの事他人より視るごとき事情にはあらず、余や国を憂へ民を愛する情より、彼の兇暴の所業を視るに、幼主を挾み叡慮に托し、私心を行い萬民を悩ます、見るに忍びず、なにぶん国の為に弁論せざるを得ず、万一異見の向をも告諭し、公議興論を問い、偏に我国の隆治を祈る、これ祖宗東照公愛民の余霊により、先帝の遺志を継がんと欲し、天下と同心協力して、正理を貫き事業をとげる、公議を定めんと希の他なし、ついては余か国と和親の条約を結びし各国は、国内の事務に関係するに及ばず、都て条理妨くる事なきを要す、余すでに条約の箇条残る所なく履行ひしなれば、なおこの上とも令誉を失ざる様各国の利益助け、追々全国の衆論をもって、我が国の政体を定むるまでは、条約を履み、各国と約せし条件を一々取り行い、始終の交際を全するは、余が任にある事なるは諒せらるべし』と。
 慶喜公は更に各国公使に告ぐるに、今後の親睦をもってし、かつ各員に別に面会を要するあらば、時に臨み引見すべきを演べてこれに礼す、各国公使もまた礼して退く、けだしこの公会は佛国公使レオンロッシュの注意に出づると云う。
 十五日松平慶永朝臣その臣中根雪江に命じ、参朝して後藤象二郎と協議し内調を計らしむ、雪江、象二郎と共に慶喜公への勅命書の内見をゆるさる。

先日尾越両藩を以て御沙汰之旨有之候処今以御情無之に付不得止辞官の趣被仰出候且領地返上の儀は天下の公論を以て其の宜きに従はる可く候事

 徳川慶勝卿、松平慶永朝臣へ勅命あり、左のごとし。

徳川内府進退の儀に付厚き思召も有之尾越両藩へ被仰出候儀も有之頃日出各周旋の次第は分明候へども今以て御情無之此上如此姿にて遅延候ては物議を生じ候儀に付不被為得止別紙の通被仰出候間右之旨早々可相達候事

 雪江いわく、領地返上の文字甚だ大阪城の人心に関す、よろしく改削せざるべからず、具視朝臣いわく、領地返上は緊要の文字にして改削するを得ず、かつこの文章は今夕尾越の重臣を召して交付すべし、雪江いわく、この勅命発表の後、もし徳川氏遵奉せざれば禍害測るべからず、先づ大阪城を調訂して、しかして後令を発せんことを請う、具視朝臣いわく、良し、時宜により朝廷特に命ぜずして内府の奉命を奏するも可なりと、山内豊信朝臣この草案を見て、領地返上の文字は大阪城の人心を激昂せしめ、内府公奉承意を達することあたわずと、更に草案を作り再び後藤象二郎を遣わして具視朝臣に謁してその案を出し、かつ言はしめていわく、この案のごとく成らずんば大阪城の人心を鎮撫し難し、朝廷もし採納せられずんば豊信は帰国の暇を請うべきのみと、其の案は左のごとし。

今般辞職被聞召候に付ては辞官の仰下され候且王政復古に付政府御用地差出すべく旁天下の公論を以てその宜きに従はるべく候事

 具視朝臣いわく、断じて採用し難し、しかるに採納せずんば帰国すと、豊信君は朝廷依頼柱石となす、しかるにその言行われざるを以て暇を請いて国に帰らば、何の面目ありて天下に立たんや、もし暇を請うあらば延議すみやかにこれを許さんと、象二郎して退く。
 十六日越前藩青山小三郎は後藤象二郎を訪ひ、慶永朝臣の意を致し前日の議について謀る所あり、象二郎いわく、この事密にせざれば成らず、参内して直接に論ずるはかえって事を難からしむるの恐れあり、貴老公の深慮を旨とし朝命更改を周旋すべし、今日の事予は中根雪江、酒井十之丞両参興と密に協議せば可ならんと、小三郎また辻将曹を訪ねてこれを謀る、将曹の見る所もまた象二郎に同じ、かついわく、この事の当否は公議に付し議定の職掌をもって公論するに如かずと、慶永朝臣はついに参内せず、雪江、十之丞参内協議して朝命を慶喜公の奏請文に改め、象二郎これを具視朝臣に出して同意を求む、弁難討論すること数刻夜に及んでようやく決す、その書案は左のごとし。

今般辞職被聞召候に付ては辞官仕りたく且王政復古に付政府御用途の儀も天下の公論を以て所領より差出候様仕り度奉存候事

 奏請書案は定まりたれども、徳川家にして果たしてこれを遵奉すべきや否やはなお疑問に属す、これにおいて後藤、中根、酒井等在京の若年寄永井尚志に謀らんとす、たまたま尚志は雪江を招き先つ宮中の近状を問う、雪江大略を述べる、尚志いわく、実に恐懼に堪えざるなり、過刻有司来り、共御尽きんとするを告ぐ、ゆえに従来の列によらしむ、なお二三十日を支うべし、しかれども聞く宮中の内帑散逸して寡少なりと、実に寒心すべし、先帝一周年の法会近きにあり、いかにして執行あらんか、かの洛中の混雑状見、大津の廃駅行旅の困難いまだ王政の美を称するに足らず、既にして雪江大阪城の形勢を問い、かつ朝旨の書案を示していわく、このところ言、朝廷強いて事を好むものにして是非するの要なし、雪江いわく、しからず、某ら力を尽くして平穏を計り辛うじてこれに至れり、尚志いわく、あるいはその言のごとくならん、しかれどもこの書案のごとき更に条理の存するなし、官位と将軍職とは自らその性質を異にする、今将軍その職を辞すと、いえども何ぞ必ずしも辞官の要あらんや、また領地の事は仮令朝命あらざるも、朝廷の匱乏を傍観すべきの理なし、励精皇室に尽くさんとするは素より内府公の心事なり、さきに政権奉還の際も、諸侯と共に協心戮力皇国維持の詔を奉戴せんことを期す、しかるにこのごとく疎外の冷遇を被るにおいては、早速如何ともなすことあたわざるなり、畢竟この書は巧辞をもって降官削地の事を書するものにして、自ら罪責の形を残す、今日長州すらなおかつ入京を許されたるに、内府公果たして何の罪ありてこのごとくなる、ただし内府公はいやしくも詔とあらば必ず奉戴して違背することなかるべしといえども、板倉勝静朝臣および予等皆命を奉ずるあたわず、足下は朝議このごとき書辞をもって至当となすか、大阪城にては大蔵大輔、容堂は何をなしつゝあるやと評論せりと、雪江いわく、しからば如何せば大阪城の人心に適するか、尚志答えていわく、朝廷過去を後悔し、九日以前に復せば従って匡救路もあるべし、これを要するに今日のごとき失体をかもしなるせし根源は実に二賊(薩長二藩か、一説には西郷、大久保)にあり、ゆえに彼の二賊を除くは今日の急務なり、貴老公にこの意をもって足下の斡旋をわずらわす、今や士気激昂の薩邸の襲撃目睫の間に迫れり、雪江いわく、今日貴下の余を招きし要件は二賊を除くにありや、尚志いわく、しかりよろしく貴老公に告けらるべしと、雪江帰りてこれを慶永朝臣に告ぐ、慶永朝臣長大息していわく、沈重なる玄蕃頭にして尚この言をなすかと、雪江これを象二郎に報す、象二郎もまた大に驚く、この日我が藩相田中土佐は京都残留の二番組堀半右衛門隊、林権助隊を率いて大阪城に下る、新選組頭近藤勇、本国寺水戸兵頭大庭一真斉と共に留まりて二条城を守りしに、議協はず勇出てゝ伏見に屯す、一日勇騎して巡視す、たまたま何者にか狙撃せられ銃丸その股を傷く、慶喜公これを聞き侍医を遣わし且つ自ら用いる所の寝具を賜う、我が公もまた医を遣わして慰問せしむ。
 十七日後藤象二郎、永井尚志をその旅館に訪ねていわく、昨日貴下が雪江に告ぐる所のごとくならば干戈たちまち輦下に動かん、それをもってこれを見るに、内府先づ人心鎮定の状を奏するを名として上洛し、尾越両侯をもって辞官納地の二件を奏請せしめ、勅栽の下るを待ちて参内し恩を謝せられなば、過日来の紛糾自ら一掃すべし、しかれば後図の策のごときは自ら生ぜん、今日の務は偏に平和を旨として内府公の上洛を斡旋せんことを望むと、反覆弁論せしかば、尚志も悟る所ありその議に従って慶永朝臣と協議して大阪に下り微力を致すべきを約し、即日慶永朝臣と尾州邸に会して評議す、象二郎、雪江および田中国之輔席に陪せり、席上内府公上洛し辞官納地の事を尾越両侯に口演し、両公これを書して上奏し、これを聞き召さるゝと同時に参内の詔ありて議定に補せらるべきに決し、かつ慶喜公参内の当日には尾越土の三侯も参内し、有栖川宮熾仁親王、山階宮晃親王、仁和寺宮嘉彰親王、並びに中山、正親町三条両前大納言と熟談を遂げ、岩倉具視朝臣これを周旋し、朝議ただちに決するようにせんとの事に内談整いたり、会議このごときに至りしは、けだし今朝具視朝臣は象二郎を招きて慶喜公の上洛を周旋すべきを命じ、しかしてその順序のごときは一任して問わずとなしたるによる、これにおいて尚志翌日をもって大阪に下り、雪江、国之輔もまた前に相談したる『今般辞職云々』の上奏案を携帯して下阪す。
 この時に当りて慶喜公大阪城にありて、数万の兵士囂々たるを患へその兵を配置す、播州街道西宮札の辻は小浜の兵若干人、京都街道守口は亀山の兵若干人、奈良街道堀口は姫路の兵若干人、紀州街道住吉口は肥後の兵若干人、本陣を真田天王寺とす、大阪にある者は歩兵頭横田五郎三郎の大兵二大隊、同河野外一郎の隊兵二大隊、同窪田泉三郎の隊兵一大隊、同小笠原石見守の隊兵一大隊、撤兵頭塙鍵三郎の隊兵五小隊、同三浦新十郎の隊兵六小隊、同巨細銀三郎の隊兵半大隊、銃隊頭杉浦八郎五郎の隊兵五小隊、大久保能登守の奥詰銃隊八小隊、谷主計の砲兵一座半なり、遊撃隊、新遊撃隊は市中並びに城外を巡邏し、見回組および奇兵隊、撤兵隊半小隊は十三川の渡頭を守り、徳山出羽守の歩兵二大隊、間宮鉄太郎を牧方に置き、また牧方淀に各騎兵を置きて傅令に供す、伏見は奉行官庁の衛兵一千余人に新選組を加える、大阪城外十四箇所の柵門に各歩兵一大隊を置く、京阪の間その要地徳川氏の兵ならざるなし、慶喜公は朝廷の処置を摡歎し、大目付戸川伊豆守をして左の上奏書を呈せしむ。

臣慶喜不肖の身を以て従来奉蒙無渝之寵恩恐感悚戴之至に不奉堪乍不及夙夜不安寝食苦心焦慮宇内之形勢を熟察仕政権一に出て萬国並立之御国威相輝候様広く天下の公議を盡し不朽之基本を相立度との微衷より祖宗継承之政権を奉帰同心協力政律御確定有之度普く列藩之見込可相尋趣建言仕猶将軍職御辞退も申上候処召之諸侯上京衆議相決迄者是迄之通可相心得旨御沙汰に付右参着之上者同心戮力天下之公議興論を採り大公至平之御規則相立度奉存候外他念無之鄙衷不空と感戴仕日夕企望罷在候処豈料や今度臣慶喜え顛末之御沙汰無之而已ならず詰合之列藩衆議だにも無之俄に一両藩戎装を以て宮闕に立入り未曾有之大変革被仰出候由にて先帝より御委託被為在候摂政殿下を停職し舊眷之宮堂上方を無故擯斥せられ遂に先帝譴責の公卿数名を抜擢し陪臣之輩猥りに玉座近く徘徊いたし数千年来之朝典を汚し其余之御旨意柄兼々被仰出候御沙汰の趣とは悉く霄壤相反し実以驚愕之至に奉候仮令聖継より被為出候御義に候とも可奉忠諌筈况や当今御幼冲之君に被為在候折柄右様之次第に立至候ては天下之乱階萬民塗炭眼前に迫り兼々獻言仕候素願も不相立金甌無釁之皇統も如何被為在候哉と奉恐痛候臣慶喜目今之深憂此事に御座候殊更外国交際之義者皇国一体に関係仕候不容易事件に付前件の如き聖断を矯候輩一時の所見を以て御処置相成候ては御信義を被為失後来皇国の大害を醸し候義者必然と別て深憂仕候間最前真之聖意より被仰出候御沙汰に従い天下の公論相決候迄は是迄之通取扱罷在候鄙言之趣御聞受被成下兼て申上候通公明正大速に天下列藩の衆議を被為盡生を挙け奸を退け萬世不朽の御規則相立上は奉寧宸襟下は萬民を安し候様仕度臣慶喜千萬懇願之至に奉聞仕候

 これに関し前老中より一門および譜代諸藩に通達し兵を徴す。

別紙御奏聞状此度差出候に付ては思召の程奉感激候面々は人数召連れ早々上阪候様可被致候事

 『天下の公論相決候迄は是迄之通取扱罷在候』とあるは、状態を九日以前に復せんとするものにて、この明に薩長等に対する宣戦令なり、また親藩等に兵を率いて上京を命ぜしは、すなわち今言う動員令なり、これより見れば慶喜公は兵力に訴えても、上奏の趣意を貫徹せんとしたるは疑いなきものとす。
 十八日朝廷大阪城北上の勢いを示すは、会津、桑名の強要する所ならんを疑い、尾越両侯に令して帰国を促そしむ。

徳川内府下阪以後鎮撫方の儀命し置れ候処会桑今に滞阪此頃山崎辺人数繰出し候哉の聞へ有之人心同様萬一念若の徒故なく事を発し候ては甚宜しからず候間会桑二藩早々帰国取計べく急度尽力あるべく更に御沙汰の事

 これにおいて徳川慶勝卿は翌日二藩帰国の周旋をなすべきことの答書を上れり、しかるに一方戸川伊豆守は慶喜公の上表をもたらし、この日夜をもって入京し、先つ永井尚志に謀らんとせしに、尚志は既に京都を発してあらざりしかば、さらに目付梅澤弥太郎と議し戸田忠至を訪ひ、上書を示して総裁宮に上らんとす、忠至驚きていわく、これ一大事なり明朝を待つべしと。
 翌十九日戸田忠至はひそかに岩倉具視朝臣を見てこれを告く、具視朝臣いわく、九日以来尾越土の三侯内府に反正の実を顕わさしめんとし、しきりに周旋するの際この書を上らば、朝廷ただちに問罪の使を出すに決し、三侯の苦心水泡に属せん、ゆえにしばらくこの書を我が手に留むべし、足下よろしくこの書を三侯に謀るべしと、忠至すなわち慶永朝臣に謀る、慶永朝臣いわく、この書激烈に過ぐ連日の尽力を空しからしむべし、公然の上奏はしばらく猶予すべしと、忠至またこれを豊信朝臣に告ぐ、豊信朝臣これを憂へ後藤象二郎をして具視朝臣に意見を問わしむ、具視朝臣いわく、彼の上奏の事は今朝忠至よりこれを開れけり、しかれどもその書を公表するときは万事休す、よりて忠至に告げてその書を我が手に留めたり、想うに今日の策は内府参内するにあらざれば不可なり、もし永井尚志の力にて内府を起こすに足らずんば、尾越両侯と共に容堂侯大阪に下りて迎へらるゝの外良策なかるべしと、すなわち未の刻豊信朝臣、慶永朝臣、戸田忠至相共に越前邸において戸川伊豆守に会し、これを慰諭していわく、奸を除くの上奏書は大阪城の積鬱をもらすの拙策なり、今日の実況偏に内府公の上洛を望む、朝旨奉戴の誠意をもってすみやかに参内あるにごとかず、この挙天下朝廷を安んずるの長策たるべしと、これにおいて伊豆守その説に服して上奏の使命を止め大阪に帰れり、かくてその夜具視朝臣はその上奏書を尾越両公に付托したれば、越前藩士毛受鹿之助急使を馳せて在阪の中根雪江に周旋尽力すべきを報じたれども、雪江すでに大阪を去りたる後にして遂にその意を達せず、先に雪江の大阪に至や、尾州藩士田中国之輔と共に大阪城に登り、永井尚志に面会せんとす、目付榎本対馬守両士を引見し、一書を出していわく、これ昨日戸川伊豆守の携へたる内府公の上奏書の謄書なり、足下これに就きて意見あらば見解を述べよと、両士これを見るに書中の趣旨実に大事に属するをもってこれを騰写し且ついわく、書中の事誠に至当にして更に言うべき所なし、しかれども朝廷の採納得て望むべからず、この書は何人に示せられたるか、対馬守いわく、戸田大和守をもって有栖川師宮(時に宮太宰師たり)に示せんことを期せり、雪江またいわく、宮以外にあらかじめ謀る所ありしか、対馬守いわく、謀る所なし、雪江いわく、これ拙策なり、内府公の意旨貫徹せざるのみならず、朝廷および徳川家共にその害を破らん、ゆえに京都の議ただ平穏に内府公の上洛を請い謀る、しかれどもこの書すでに出つまた如何ともすべからずと辞して分る、永井尚志両士を見ていわく、戸川伊豆守の上京するや共に謀り、しかして後上奏書を示せんとしたるも、事齟齬しすでに時期を逸せり、これに処する足下の意見如何、雪江いわく、公議に付するあるのみ、また一本を諸侯議定に出すを要す、自ら周旋の材料足るべしと、平山敬忠謄書一本を携えて来りて両人に付す、雪江等即夜京都に帰り、具視朝臣すでに上奏書を尾越両侯に付托せしを聞き、なお前議をもって周旋せんと欲し再び大阪におもむく。
 二十一日朝廷参興兼京都総取締田宮如雲に伏見市在出向取締を命じ、薩長土芸四藩に令していわく、

伏見表今度御変革彼是多端の虚に乗じ狼藉者の横行人心安からざる種に相聞へ候付急度巡邏鎮定可有之候

 土芸これを辞し薩長命に応じ兵を発して厳守す、二十二日中根雪江、田中国之輔大阪城に登りて先つ永井尚志、戸川伊豆守を見んとす、尚志等すでに京都におもむく、すなわち平山敬忠に面して京都の形勢を説き、内府公上洛せざるべからざるを述べる、敬忠これに賛す、雪江、慶喜公に謁して具状せんことを請う、敬忠いわく、内府公上洛の意あらばあるいわ引見あるべしと、午後板倉勝静朝臣、大河内正質朝臣、敬忠と共に雪江、国之輔を見て意見を問う、雪江、国之輔京都の事情を詳述し、かついわく、この機を逸せず内府公上洛して大勢を挽回し、人心を鎮定せずんばあるべからずと、議論最も剴切なり、勝静朝臣等これに従う、両士またいわく、辞官納地の事も共に決せられんことを請うと、勝静朝臣いわく、この事甚だ難しい到底今日に決すべからずと、これにおいて、両士先に具視朝臣の同意を得て決したる所の草案を出していわく、このごときを得ば尾越両より繕書して朝廷に奉呈すべしと、勝静朝臣はこれを受けて座を去る、すでにして正質朝臣、敬忠と共に出て両士に草案を示していわく、このごとくならば如何と、両士その圭角(かどのある言葉)ある文字を筆削したるに正質朝臣、敬忠一旦座を退き、しばらくありて勝静朝臣、正質朝臣、敬忠出てゝ論議反覆、終わりに改書して目付設楽備中守よりその書を交付す。

辞官の儀は朝廷の御沙汰次第に仕るべく、且政府御用途之儀は追て天下の公論全国の高割にて相供候様御決定相成候様可然事

 これより先戸川伊豆守の上京せるは、慶喜公の上洛は朝命に出づるを周旋せんが為なり、しかるに雪江等は辞官納地のこと未だ定まらずして召命あらば難事を生ずべきを告ぐ、ゆえに急使を馳せて雪江等の帰京を待ちて商議せしむるの命を伝える。
 永井尚志は二十一日をもって京都に至る、毛受鹿之助これを訪ねいて大阪の状況を問う、尚志いわく、戸川伊豆守大阪に帰り京都の状況を具申したるをもって、更に再議して上奏することを止め、京都の形勢に従い内府公上洛せられんとす、ゆえにその事を調査せんが為に来れりと、二十二日の夜慶永朝臣、永井尚志、後藤象二郎、福岡籐次、酒井十之丞、毛受鹿之助等山内豊信朝臣の旅館に相会し、辞官納地の事を定めざれば内府公の上洛は却って不可なり、先つこの事を定めざるべからず、しかるに京阪相隔たり往復に時日を費やし、むなしく遷延を免れず、ゆえに朝廷命をもって尾越両侯大阪に下り、内府公に具陳し、内府公朝命奉戴の後上洛をも謀るべし、すなわち明日三職ことごとく参内の事を上申して、尾越両侯よりその旨を建議するにごとかずと協定し、十之丞、鹿之助、徳川慶勝卿の旅館に至りてこれを報ず、慶勝卿もまたこれを賛し且ついわく、明日大阪に下り会桑の帰国を促さんとす、しかれども今しばらく延期を請うべしと、明日三職ことごとく参内の事を朝廷に申請せんとす。
 二十三日早天永井尚志は使いを越前邸に遣わして大阪の親書を贈る。

一翰奉呈上候然は只今阪地急騎便を以て兼て内諭御座候二箇条の儀に付申越候趣は雪江国之輔両人再び下阪にて削地辞官の儀に付云々被申聞候に別紙之通り御内答書出来両人も板倉伊賀守殿松平豊前守殿一覧致し加筆通り取直し相成候様致し度との旨に付其の通り取直しに相成申候右加筆通の書面にて宜しく候はゞ早速御差出に相成べく候へ供左も無之候ては所詮御上京の運びに相成兼候尤も右は公然御旗本の士へも相示し候様不相成候ては必ず大に沸騰鎮撫す可らざる勢に立至り候段申越候昨夜御内談の趣も御座候間取敢ず別紙相添此段申上候云々

 尋ねいで尚志越前邸に至り、後藤象二郎を招き共にこの書中について反覆討議し、大阪より送付する所の文案を添削して成れり、これにおいて尾越より建議の事あるをもって、三職ことごとく参内して審議あらんことを朝廷に申請す、たまたま戸川伊豆守、目付保田鋒太郎、越前邸に至りて慶喜公の土越両侯に興うるの手書を出す。

一翰呈進扨は戸川伊豆下阪御地之御模様委細致承知候何分にも早々上京致候様にとの趣云々致承知候素より誠意を以て皇国の御為に致度微衷追々建言も致候儀に付此度の儀迚も皇国の御為に相成儀候はゞ速に上京協力同心正義を盡度素志志情願候得共先頃既に大変革之節家来共鎮撫之為大阪へ引取候次第にて漸く説諭をも相加へ鎮定には相成候得共此度天下の為上京致候共家来共承候はゞ一向に危地に臨み候様存取又々沸騰難留に可到と熟知致候間此上之御尽力にて可相成は御所より御用有之に付被為召候様相成間敷哉左候はゞ家来にも如何様とも鎮撫説諭いたし早々上京候様可致委細は伊豆申含玄蕃折合せ可及御細咄候間深く御諒察可給候右上京之節は人数も召連候事故兼て宮闕は勿論市中末々乞誤解いたし猥りに驚動く不致様鎮撫方御心付可有之候余は両人の口吻に托し早々閣筆不悉
 十二月二十一日夜認  内府
  大蔵大輔殿
  容堂  殿


 しかれどもすでに尾越両侯朝旨を奉じて大阪に下るの議を出すに決したれば深く意に介せず、未の半刻慶勝卿、慶永朝臣、豊信朝臣、浅野長勲朝臣参内す、島津忠義朝臣朝せず、慶勝卿、慶永朝臣いわく、徳川氏官禄の事は朝廷より命令を発し、その書を奉じて大阪に下り慶喜に達し、その奉戴の後上洛を周旋せんと欲すとて、その稿案を出して議に付す、しかるに政府御用途とのみありて領地返上の文字あらざれば、政権奉還の実効立ち難しと論難する者ありて容易に決せず、休議再三におよぶ、従来小御所の会議たるや、下参興すなわち藩士にして参興に任ぜられたる者もこれに列するを例とせしに、豊信朝臣、慶永朝臣の建議により、この日参興は列せざりき、これ薩藩士の異論を防がんが為なり、議定および上参興の多くはいわく、内府すでに政権を奉還し、しかして領地を返上せざれば名実相副わず、誠意顕れずと、下参興の多数はその詰所において論じていわく、文字上に理義の当否を争いて騒乱の起こるを顧みざるは非なりと、ひとり薩州下参興この議を賛成せず、論難相尋いで出で決する所あらず、尾越両侯朝野の安危得失を弁折して暁天におよびしかば、熾仁親王および議定参興等皆退朝す、両侯意を得ずして空しく退朝す、この日岩倉具視朝臣病と称して朝せず、大久保一蔵尾越土の三侯議論沸騰するを見て、ひそかに書を具視朝臣に贈りあえて参内せんことを請う、しかれども具視朝臣ついに朝せざりき。
 この日徳川慶勝卿は朝廷の処置苛酷なるを憤り、書を上りて公卿の反省を促せり、文にいわく、

徳川内府を始め諸侯一般残らず領地差上げ普下率浜悉皆王土の体裁に相成候上新に朝廷より土地を裂き封彊を定めらるゝは皇化御一新の境も判然と相立候御処分と奉存候是は皇国永世の御制度と申す者に付即時急遽の御取計には如何加有之哉仍ては先々救急権道の旨を以て今日の処は別紙御沙汰書案の振に行わせられ時の御変通を相立られ天下億兆焦眉塗炭の急を救わせられ候上稍海外の御交際も宜しきを得邦内人心も安定の上前条永世不易の御制度を被立候ては如何候半哉尤も是は三百諸侯残らず参集会議にて御手丈夫に御決定在らせらるべき方と奉存候若し順序を誤られ候て一時救急の権道と永世不易の御制度と其時を選ばずして兼施され候ては天下人民惑乱救うべからざるに至り申すべくと深く心痛仕候に付不顧恐奉献言候
  慶勝


 しかれども薩藩はこれをも姑息の論となし、あくまでも領地返上の文字をもって徳川氏に迫らんとし、大久保一蔵は正親町三条実愛卿に説き、決して尾越土三藩の提議を採用すべからずといへり。
 二十四日岩倉具視朝臣は大久保一蔵をその邸に招きていわく、尾越土の三侯は慶喜への勅書に辞官納地の文字ありては人心を鎮撫することを得ずと主張し、象二郎また力を尽くして徳川氏を助く誠に以外なり、断然これを決せざるべからず、ゆえに書案を確定しもし諾せずんば已むを得ず尾越の周旋を絶ち、朝旨を厳命するの意を示さざるべからず、よろしく草案を作るべしと、一蔵すなわち書案を草し、これを具視朝臣に示していわく、一字も添削せざるを請うと、案にいわく、

一 今般辞職被聞召候に付ては朝廷辞官之例に倣い前内大臣と被仰出候事

一 政権返上被聞召候上は御政務用途之分徳川領地之内夫々取調之上天下之公論を以て返上候様可被仰付候事


 具視朝臣すなわちこの書を三職に下して朝議に付せしむ。






卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1
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  1. 2012/11/30(金) 21:30:42|
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戊辰開戦の責任者

戊辰開戦の責任者

 薩藩は既に長藩と提携して、あくまで討幕の企図を実行せんと欲し、十二月七日大久保一蔵、西郷吉之助等が岩倉具視朝臣の諮詢に答うるに、王政復古の基礎を建つるには、ひとたび干戈を動かし天下の耳目を一新し死中活を求むるにありと極言し、爾来事毎に徳川旗本および我が藩、桑名藩を激昂せしめたり、これをもって結局平和の改革を破り、戊辰の戦争を惹き起こせしめものは、実に具視朝臣および西郷、大久保の三者なりと言わざるべからず。
 当時具視朝臣および薩藩の所為に飽き足らず、邦家の前途を憂いて建言せしもの、ひとり豊信朝臣に止まらず、加州藩糟屋十兵衛、仙台藩但木土佐、阿州藩蜂須賀信濃、筑前藩久能四郎兵衛、肥後藩溝口孤雲、肥前藩酒井平兵衛、備前藩澤井権次郎、因州藩眞野代次郎、津藩藤堂仁右衛門、米沢藩眞野寒助、秋田藩長瀬兵部、久留米藩山村源太夫、南部藩西村久次郎、柳川藩十時摂津、津軽藩西館平一郎、二本松藩田辺市左衛門、対州藩扇源左衛門、新発田藩窪田平兵衛等この日二条城に相会し、肥後溝口孤雲その牛耳を執り左の建白書を上れり。

先般大非常の御変革被仰出候儀は既往の事柄一切捨させられ萬事公平正大衆議の会する所を以て一途の御政道相立速に神州治安の御鴻基を開かせられ候叡慮の旨奉拝承実に雀躍に堪へ申さず上下目を刮て御沙汰を相伺居候内去九日に至り俄に召の列藩兵士戒服の儘参朝就ては何と無く闕下騒々敷何方も驚愕罷在候処先帝以来御当職の二条殿下を始め官家数十人除職の上御門出入迄も差止められ且将軍家も除職解官のみならず頓て削封も可被仰出趣相聞右は必定御譴責の御譯も可有御座や其の儀は特と相辨申さず候へども将軍家祖宗以来世襲の大権差上られ只管御自責を以て聖業を被奉輔度との御趣意は末々迄も感賞仕り候折柄右様の御処置被為在候ては更始御一新の御手始他日如何様の御都合に成行申すべや実に杞憂の至に奉存候依之仰願くは差寄御所内外戎服等の儀至急に止められ一刻も早く人心鎮定の御沙汰に相成隨て摂政殿下を始め御取扱の儀も公平正大衆議の帰する所を以て御施工有之徃々彌以て御改革の御趣意屹と相貫候様被為在度幾重にも奉懇願候昨今形勢所謂百尺竿頭一歩を進むるの時節と奉存候間重畳恐入奉存候へども寸衷奉言上候誠恐誠惶頓首百拝
  十二月十二日
  連書


 具視朝臣はその建言を容れ、十三日令して宮中の戒厳を解き、九門を除くの外ことごとく諸藩の警衛を免じ、尋いて溝口孤雲を召し、その連書建白を賞し、自今忌憚なく意見を上陳すべしと命ぜり、しかるにこの日に至り慶喜公ついに我が公、定敬朝臣に就封の暇を賜い、贐するに鞍馬をもってす。

在所への御暇被下御馬被下之旨御意に候御序無之に付御目不被仰付候

 この唐突の命降りるや一藩愕然たり、我が公六年間の勤労に対し、慰労の片詞もなく、六年間その部下たりし我が公に謁見をさへ許されざりしは、我が藩士をして深く憤慨せしめたり、これによりて慶喜公は大阪に下るの決心をなし、我が藩相田中土佐を召していわく、彼ら兵威をもって幼帝を擁し、昨今の所為をなすに至る、ついには君側を清掃せざるを得ず、しかりといえども干戈を闕下に動かさば宸襟を悩まし奉るのみならず、外威の覬覦を来し、予の政権を奉還し国威を発揚せんとするの素願も水泡に属せんことを恐る、ゆえにしばらく大阪に下り人心を鎮定せんとす、宰相もまたよろしく従うべしと、すなわち書を朝廷に留め旗本を戒飾するの意を奏し、伺い済みを待たず下坂するを謝す。
 徳川慶勝卿、松平慶永の二侯もまた慶喜公同様の義を上奏す。
 この時にあたり二条城中においては、慶喜公の下坂に決することを聞き大に紛擾し鼎の沸くがごとし、我が藩大砲奉行林権助、別選組隊長佐川官兵衛等なかば玄闕に列なりなかば城門を塞ぎて、慶喜公の出づるを力争諌止せんとす、田中土佐いわく、何ぞ囂々たる宜しく退きて君命を待つべしと、権助、官兵衛いわく、あるいわ敵に計略あらんも知るべからず、決して夜間に発すべからず、仮令前将軍発するも我が公は出づべからずと、声色ともに烈し、我が公これを聞き急に権助、官兵衛を召す、会々大河内正質朝臣来り慶喜公の命を伝えて我が公を召す、権助、官兵衛は正質朝臣に従いて慶喜公の前に至る、定敬朝臣、勝静朝臣等皆座にあり、慶喜公自ら権助、官兵衛を招きていわく、聞く汝ら隊士の長なりと壮武愛すべし、汝ら予が下坂を止むるは何ゆえぞ、予あえて逃げるゝにあらず、権助、官兵衛いわく、まさに夜に入らんとす倉卒下坂せらるゝは危うし、願わくは斥候を設け兵威を厳にし明朝を待ちて発せられんことを、慶喜公いわく、大阪に下るの機失うべからず、斥候すでに設け兵威まさに張る汝ら恐るゝことなかれ権助、官兵衛再びいわく、大阪に下りて後ただちに東帰あらばいよいよ不可なり、慶喜公いわく、予これを知れり必ず君側の姦を除くべし、予に深謀ありしかりといえども事密ならざれば敗れる、今明言すべからずと、権助、官兵衛拝謝して出でゝ兵士を慰諭す、慶喜公すでに降官納地を承諾し、次いで『必討』すなわち討薩を部下に約し、その後討薩に必要なる会桑二藩の帰国を奏請し、議論の沸騰するや我が藩相田中土佐に『君側を清掃せざるを得ず』と明言し、また我が藩の林、佐川の二将に対し、右のごとく話されたるが公の意のあるところを知るに苦しむなり、思うに公才あれども確固たる信念なく、硬軟二論の間にさまよい、時には硬論に傾き時には軟論に傾く、その変化手をひるがえすがごとし、この上のごとき解すべからざる言動を説明するを得るべし。






卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/11/28(水) 20:16:51|
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小御所の会議

小御所の会議
 
 この日夜に入り天皇小御所に親臨し、総裁熾純仁親王、晃親王、前大納言中山忠能卿、同正親町三条実愛卿、中納言中御門経之卿、前大納言徳川慶勝卿、宰相松平慶永朝臣、浅野長勲朝臣、山内豊信朝臣、島津忠義朝臣、参興大原、萬里小路、長谷、岩倉、橋本の諸公卿、尾州の臣成瀬正肥、田宮如雲、越前の臣中根雪江、酒井十之丞、薩州の臣西郷吉之助、大久保一蔵、岩下左治右衛門、土州の臣後藤象二郎、福岡籐次、神山左多衛、等召し応じて小御所に会議す、中山忠能卿いわく、今日の会議は国是を定むべきの聖意に出づ、よろしく公正の議をつくすべしと、山内豊信朝臣は席を進め容を正していわく、大政維新の初に方に至当の公議をつくし、天下と休戚を同うせざるべからず、しかるに今日廟堂処置公明正大を欠くもの多し、五藩の兵を召し凶器をもって禁門を守らしむるは果たして何の意ぞや、徳川氏過失ありとするも、内府(徳川慶喜公)は祖宗二百余年の大権を奉還し、政令一途に出て、萬機公論に決せんことを期す、誠忠と言わざるべからず、いわんや祖宗以来数百年、太平の治績決して忘るべからず、しかるに今日の会議二三の公卿と五藩とを限り、内府等を召さざるはこれ決して公議を重んずるの聖旨にあらず、よろしく内府を召してこの会議に参せしむべしと、松平慶永朝臣、豊信朝臣の議を賛していわく、王政の始まりに当り刑罰を先にして徳義を後にするは不可なり、徳川氏二百年の功業は今日の罪責を償いて余りありと、岩倉具視朝臣声色を励ましていわく、徳川家康天下を治め蒼生を安んずるの功少なからずといえども、その子孫に至りては権威をもてあまし、皇室を凌虐し公卿諸侯を脅制し、ことに嘉永癸丑以来勅命を蔑如し綱記を紊乱し、縱に外国と条約を結び、憂国の親王公卿諸侯を幽固し、尊王の志士を残害せるその罪大なり、かつ内府果たしてその罪を悔ゆるあらば、官位を退き土地人民を返納すべし、いたずらに幕府の虚名を奉還すといえども、実力なおその手中にあり、その心のすべ未だ知るべからず、何ぞ国是の大議に参せしむべくけやんと、大久保一蔵これに賛し、後藤象二郎はこれを駁し、その他おおむね豊信朝臣、慶永朝臣に同意したるも、議論未だ決せずしてしばらく休息す、具視朝臣は豊信朝臣の再び抗論せんことを恐れ、休息の間人をして後藤を諭さしめ、後藤は豊信朝臣、慶永朝臣に説く、豊信朝臣、慶永朝臣は已むを得ずこれを容れたり、すでにして天皇再び小御所にのぞみ会議を再開す、豊信朝臣、慶永朝臣復之を争わず、終に徳川氏退官納地の件を決し、慶永朝臣をして慶喜公に風諭せしむ、豊信朝臣には血を流さずして維新の鴻業を建設する大抱負ありしが、具視朝臣に阻まれその正義の行われざりしは返す返すも遺憾の極みなり、しかして退官はしばらく置き納地に至りては一般諸侯に命ずべく、特に薩摩藩の如きは率先して実行すべきに、ひとり徳川氏にのみこれをせめる、かくある片手落ちの決議は徳川氏の部下の心服せざるは火を見るより明らかにして、ために兵乱の起こる恐れあるにもかかわらず、この決議をなせるは薩摩藩士等が血を流すにあらざれば維新の事業行われずとしたによる、よくよく維新の鴻業の比較的たやすく行われたるは、土佐の後藤等が豊信朝臣の旨を承けて慶喜公に説いて大政を奉還せしめたるによる、しかるに維新の業成りしとき、土佐藩に対する行賞の薩長に及ばざりしは、この日の豊信朝臣の正義、その後における土佐藩の公論とを、具視朝臣等が深く憎みたるによるという。
 この日二条城に集合せる旗本の兵、および諸藩兵等皆憤激していわく、内府公すでに政権を奉還し、大将軍を辞するの書をしめし、衆諸侯の上京を待ち公議の上に萬機を決すべきの聖勅を拝せり、しかるに唯五藩に限り廟議に参せしめ、内府公を疎外し大変革を行わんとす、これ薩摩士等が陰険なる二三の公卿と通牒し、幼冲の天子を擁して私意を遂げんとするものなり、これをしも放置せんか天下擾乱して収拾すべからざるに至るべし、しかず速やかに武力をもって君側の姦を除かんにはと、慶喜公は例により優柔不断、この説を納めるゝにもあらず又しりぞくるにもあらず只曖昧である。
 具視朝臣は二条城中の激昂甚だしきを聞きて、左衛門督大原重徳卿と共に朝命をもって尾州の田宮如雲、越前の毛受鹿之助を召して、ごとし二条城の旗本および諸藩兵誤って騒乱を生ぜば天下の大事なり、願わくば尾越二藩これを鎮撫せよと命ず、如雲等退きて各々その主に報ず、尾州は茜部小五郎、田中国之輔、越前は毛受鹿之助を二条城に遣わしこれを板倉勝静朝臣に告ぐ、勝静朝臣いわく、城中の鎮撫は吾が苦慮する所なり、よろしく内府公に具申すべしと、かついわく、朝廷過激の勅命あらば、あるいは支うべからざるに至らん、尾越二公よろしくこれを領して朝廷に風諭あらんことを望むと、三使帰りてこれを報ず、城中兵馬充満するを聞きて朝廷さらに兵備を厳にす。
 翌十日徳川慶勝卿は、松平慶永朝臣と共に二条城に登りて慶喜公に謁し、前夜宮中の議を伝えんとす、城中の諸士思えらく越前春嶽のごとき宗家の危急を顧みずみだりに京都より遁逃し、あるいは薩長に結ぶその志計るべからず、尾張老公もまた征長の大任を奉じ、長藩仮装の謹慎を容れて壇兵を班へし、諸侯の軽侮を招きついに今日に至らしむ、しかもあつかましく城に登るは薩州および岩倉等の術中に陷いて来れりに非ずして何ぞと、衆時に憤激罵言するものありしも、両侯はこれを聞かざるまねしてただちに進んで慶喜公に謁し、左右を退けて来意を啓す、慶喜公は勅命を拒むの意なしといえども部下の激怒を恐れて躊躇の色あり、両侯もまたこれをしかりとし、芸州の留守居三宅萬太夫が城中にあるを見て、曲さに城中の実況をその主浅野長勲朝臣に内報せしめ、復命の速やかに成し得ざるゆえんを告ぐ、尾州藩尾崎八右衛門禁闕より来りて両侯に告ぐるに、慶喜公朝旨拝受をうながすを伝える、両侯は困惑しかろうじて朝命を慶喜公に伝える。

辞将軍之事被聞食候事

 慶喜公つつしむて命を奉じ、かついわく、退官納地の事は人心の鎮静を待たざれば不測の禍害を生ぜんことを恐れる、ゆえにしばらく遷延して他日命を奉ずるの外なし、実に卿等目撃のごとしこれが斡旋を託すと、慶永朝臣等いかんともする能わざるを知り、ただちに参内し先つ参興の室に至りてその故を告ぐ、西郷吉之助、大久保一蔵服せずしていわく、内府が納地を謹承すると否とは朝旨の遵奉に関係あり、ゆえにこれを明瞭にせざるべからずと、慶永朝臣いわく、これを急にすれば二条城中の沸騰あるいは不測の変を生ずるも知るべからずと、弁駁数次、ついに総裁以下の衆議を開く、慶永朝臣の復命書差左のごとし。

奉帰政権将軍職辞退の儀被聞食候上は官位も一等を辞し奉り且政府御入費も差上度段申上候心底には候へども即今手元人心折合兼痛心の譯柄も御座候に付鎮定次第奉願上度候間此段相含於両人可然様及執奏呉候様申聞候事も御座候間於慶永天地へ誓って御請合申上候間徳川内府内願之筋御聞届被下候様奉願上候
  慶永


 この時にあたり徳川慶勝卿は、退官納地の即時に処決すべからざるをもって、唯尾越二藩に任せられんことを希望し、別に書を出せりという。
 この日我が藩の公用人倉澤右兵衛二条城に登り、意見を陳していわく、今日薩邸を襲撃せんとするごときは、無名の士にしてただに彼らをして好辞柄を得しむるに過ぎず、加うるに洛中兵燹に罹り従って観望の諸藩あるいわ意を我に絶つにいたらん、決して良策にあらず、前将軍すみやかに大阪に下り城に拠りて要路を絶ち、諸侯と謀りて堂々たる門罪の志を発するにごとかず、これ上策なり、江戸に東下し兵を養い諸侯に激して、おもむろに京師を去るべからずんば、公然彼か罪を鳴らして君側を清掃するの志を発すべし、これ下策なりと、老中格大河内正質朝臣いわく、議寔にリり、しかりといえども我一歩を引かば彼一歩を進めん、今戦わずして東下せば旗下の士気泪喪して兵威自ら屈せんと、右兵衛いわく、余が見る所は前途のごとしといえども、命令あらば戦を辞せざるなりと。
 十一日大河内正質朝臣、陸軍奉行竹中重固以下列座の上軍議あり、我が藩田中土佐、諏訪伊助、倉澤右兵衛、桑名藩小寺新五左衛門、吉村権左衛門、高野市郎左衛門等列席す、右兵衛前議を述ぶ、桑名藩の陳ぶるところ大略右兵衛の議に同じ、正質朝臣いわく、前将軍兵馬の権を辞し軍職なきもなお八百萬石を有して諸侯の上に在り、奸邪を討じて君側を清めむるに何の不可あらんと、慶喜公いわく、即今彼を襲い万一皇室を汚すなきを得んや、竹中重固、橋本卷太等いわく、薩邸を襲撃せば宮中に在るの兵帰りてこれを救うべし、その到るを待ちてこれを誅滅せば何ぞ皇室に累を及ぼすことあらんやと、慶喜公黙して決せず、この日長州の将毛利内匠兵を率いて京都に入る、よって朝廷内匠を召し勅旨を伝える。

多年尊王今度応召速に登京御満足に被思召候事
警衛場所之儀は追て可有御沙汰候事


 この日竹中重固は御用部屋に到り、板倉勝静朝臣を見ていわく、薩邸は断じて討伐せざるべからず、しかるに内府公躊躇して決せず、ゆえに会津藩の言動すこぶる手ぬるし、公等何ぞ速やか討伐を決せざると、大呼勝静朝臣に迫る朝臣黙然たり、たちまちにして慶喜公、勝静朝臣召す、重固退出す、二条城中の将士甚だ興奮す、慶喜公成す所を知らず、自ら必討の二大字を書して旗本の将士に示しわずかに鎮撫を謀る、慶喜公思えらく、会津、桑名二藩をして京都に在らしむるは騒乱を生ずるの基なりと、戸田忠至に命じて我が公定敬朝臣を帰国せしめんことを朝廷に請う、朝廷二藩の措置に苦しむをもってこれを機とし朝命を伝えしむ。

松平肥後守松平越中守右今般在所への御暇早々遣し度願之趣被聞食候事

 十二日山内豊信朝臣は廟堂の処置、ことごとく旧幕府と会津、桑名とを敵視し、更始一新の意を失い、王政復古の美をなす能わざらんことを憂憤し、左の建白書をしめす。

事を密を以て成るの理に因て僅に三四藩と謀り宮門を閉ち兵衛を置き非常を戒め朝廷大御変革御基本建させられ摂関両奏国事係共に廃せられ新に三職を立置し官武一途議事の意を興し候儀幾乎御創業の功に齊しく実に御盛事不過之と奉存候然るに右は御発顕後唯幕会桑而已これ視るの形勢有之既往を忘れず聊か更始一新の意わ欠き此儘を以て日を重ね候ては禍視る所に反して不測に生ずる事あれば注目偏なる可らず早く議事の体を起し召の諸侯且三職評議の規則を建て徒らに精神を費し候儀無之様朝廷の意実に公明正大にして偏固ならざる所以を顕はす可し乍恐堂上方より被仰下候筋専ら会桑暴挙の聞へを以て頻警戒斥候等の事命ぜられ候へ共多くは浮説流言に帰し空く驚動するのみと相成申候是等は既に五六藩命を受け兵備戒厳の上は進攻防戦共に相整い候譯にて御委任可然候徳川内府爵一等を下り政府入費を差上候義勿論政権を還し奉り将軍職排辞の上は徳川始諸侯とも左もあるべき筈なれども従来の体裁を以て急遽これを為す徒に暴動を促すのみ緩急斟酌あるべき儀にて越前宰相の取扱に御任せ遊ばされ第一議事公明の体早々御顕肝要と奉存候此段若し御採用にも掛り候はゞ則ち御評議所にて決を奉仰候誠恐誠惶頓首々々





卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/11/27(火) 19:34:20|
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政権奉還の上表

政権奉還の上表

 この日(十月十四日)大将軍徳川慶喜公は、所司代松平定敬朝臣をもって政権奉還の事を上奏す。
 即日小松帯刀、後藤象二郎、福岡籐次、辻将曹等、摂政二条斉敬公に謁していわく、大将軍の上奏必ず裁可せられんことを請う、否らずんば殿下の身に利あらざらんと、暗殺をも成しかねまじくほのめかしてこれを脅せしかば斉敬公これを諾す、仍て帯刀等ただちに二条城に登り、老中板倉勝静朝臣に謁して摂政殿下の許容したるを告げ、かつ曰く、その細目の如きは調査して進達せんと。
 十月十五日慶喜公に依りて参内す、我が公扈従す、左の詔諸を賜う。

祖宗以来御委任厚御依頼被為在候得共方今宇内の形勢を考察し建白の趣旨尤に被思食候間被聞召候猶天下と共に同心尽力致し皇国を維持可奏安宸襟御沙汰候事
大事件外夷一条者盡衆議其余諸大名同被仰出等者朝廷於両役取扱自余の儀者召諸候上京之上御決定定可有之夫迄之処徳川支配地市中取締等者先迄之通にて追て可及御沙汰候事


 この如く政権奉還の表を上がりし前日に討幕密勅を下され、しかして慶喜公に賜わりし詔書には、政権を奉還するともなお天下と同心協力し、皇国を維持し、宸襟を安んずべしとの懇命ありて、詔旨全く相反し、一見すこぶる奇怪の観なき能わざるも、深くその事情を察すればすこしも怪しむに足らざるなり。
 当時朝廷は二条摂政殿下以下の要路者と、岩倉具視朝臣一味の公卿と二派に分かれ、慶喜公へ賜わりし詔書は二条摂政殿の手より出て、討幕の密勅は岩倉一派の密謀に成りしものなればなり、しかして摂政殿下より出でたる詔書の適法にして真勅なるは勿論なり。
 この日朝命ありて十萬石以上の諸侯を召す、特に松平慶永朝臣、鍋島斉正朝臣、山内豊信朝臣、伊達宗城朝臣、島津久光朝臣に速やかに上京すべきの命あり。
 十月二十日二条摂政殿下以下参朝し、十萬石以上の諸藩の重臣を会す傅奏、議奏は三条実美以下脱走人の件、並びに外国処分の件と、慶喜公稟議の件とを諮詢す。
 十月二十一日薩芸土三藩連署して意見書を議奏にしめす、諸藩の上陳する所もおおむね同じかりき、その大意は王政復古は大に賛成なれど、当時上京の噂ありし実美等の人々のことは、長防の処分と共に諸藩侯上京の上衆議をつくし決すべしと云うにあり。
 この時にあたりて前大納言徳川慶勝卿は形勢の切迫を視察して大に憂うる所あり、十月二十一日の日付にて手書を我が公に贈りて引退の時期なるを勧説す。

一書肅呈霜威相加候処彌々御情適打舞之至に候不日上京拝晤可致と海山相楽み候足下御事永々御在京年来御職掌之御功績も相顕候義早速功成名遂るの御場合とも見詰候間此節一旦御轉遷之方自然の天理にも相協朝家の御為別しては尊家之御為にも必定可然と朝暮存続候義に御座候尤武力之御家定めて御藩論も區々に可有之歟に候へ共愚見には機会今日に至りと存詰候間断然御決着必ず所仰に御座候尤右之義に付いては朝幕よりも何とか御沙汰も可有之哉何れとも御決心御藩中篤と御告諭に相成愚者之一得御採用萬々希入申候御間柄の至情に不堪欺く申入候心中迚も筆端に難述賤臣よりも猶申上候義も可有之能々御聴納可被下候頓首

 使者また来りて慶勝卿の意見を縷述したり、この時にあたり数百年因襲し来りたる武家政治を廃し、王政を行わんすることはほとんど確定したるも、この重大なる政態の変動をして有終の美あらしむるは、難事中の難事なり、如し一歩を過らんか測るべからざる事態を生じ、累を皇室に及ぼす恐れあり、慶勝卿の忠告に従って退京するは、身を保する上乗の策なるは我が公の熟知する所なれども、国歩艱難の秋にあたり一身の利害のため、先帝に対し奉り京都を墳墓の地となすを期し、王事に勤むべく誓いし言を食んで退京するは、我が公の忍ぶ所にあらず、ついに利害を顧みず慶勝卿の忠告を斥けゝり。
 同二十三日朝廷より幕府に令す、
  
五卿之事
自然上京候へば諸侯上京迄之処於浪花滞留之事
但従朝廷可申渡之事

外夷之事
召之諸侯上京之上御決定可相成候へ共夫迄之処差向候儀有之候はゞ諸侯上京迄外国之事情に通候両三藩と申合可取扱事


 この命令の出づるや我が藩及び紀州、熊本、津の藩士等倡首となり十萬石以上二十五六藩の諸藩士を東山圓山に会し議していわく、外国の事両三藩と協議処理すべしとの朝命は、衆議採納の趣旨に反せり、殊に両三藩と云うはその指す所あるが如し、よろしく傅奏議奏に質して朝旨を伺うべしと、両三藩を除くの外はことごとくこれを賛成したるをもって、傳議両奏に就てその理由を質す、然るにこの事に関しては延議に定見ありしにあらず、薩州藩吉井幸輔が議奏大納言柳原光愛卿の邸にまいり、外夷の事はその情に通暁したる者にあらざれば交渉甚だ難し、故に土州、薩州、芸州に命ぜば平穏ならんと説けるを軽信して命令を発するに至りしものなれば、両奏その事実を明言することを得ず甚だ答うるに窮せりと云う、果然十一月五日慶喜公上書して、両三藩とは果たしていずれなるか定めかねる所なるが、今一応諸藩衆議をつくすの趣旨に出でられんことを乞いたるに対し、同九日朝議においては両三藩の見込みなければ差向きたる事件については、諸藩衆議の上決定する所あるべきことを批答せられたり。
 斯くて諸侯上京までは、徳川家の職務略々舊によると定まりしかば、十月二十四日慶喜公、所司代松平定敬朝臣をして将軍職を辞するの表を上らしむ。

臣(慶喜)昨秋相続仕候節将軍職之議固く御辞退申上其後蒙御沙汰候に付御請仕奉職罷在候処今般奏聞仕候次第も有之候間将軍職御辞退奏申上度此段奏聞仕候以上

 十月二十七日朝廷は慶喜公の将軍職辞退の上表に対して左の如く沙汰せらる。

諸藩上京の上追て御沙汰の事
但夫迄の処これまでの通可心得候事


 これにおいて我が公自ら処するの計をなす、藩相等もって為らく大将軍己に政権を奉還しまた軍職を辞す、しかして守護職は固と幕府の置く所なれば、今日依然職にあるの理なし、かつ幕府と相離れて独立するは土津公の遺訓にそむく、よろしく職を辞して存亡を共にすべしと、我が公思うには、朝廷すでに諸侯の上京衆議をえるまで幕府をして旧により職をとらしむるの命あり、今これを知りて職を辞せば恐らくは軽躁に失せんと、よりて勝静朝臣を見てこれを謀る、勝静朝臣いわく、辞表提出はしばらくこれを見合わせ先づ進退を禀すべしと、すなわち十一月一日我が公幕府に稟請す。

今度御改革被仰出候に﨤付而者守護職の儀如何相心得可然哉奉伺候以上
即日指令あり曰く、
追而相達候迄は是迄之通可被心得候


 十一月八日摂政二条斉敬公は岩倉具視朝臣に寛典の命を伝えしむその書にいわく、

去三月二十九日被免入京候節住居洛外之事且月一度計帰宅不苦一宿外不相成候事
右被仰出有之候得共自今帰宅可為勝手被仰出候旨摂政殿下被命候事


 右の御沙汰ありしは具視朝臣一味の人々の運動の奏功したる為なるべし、しかしてその陰謀をば摂政殿下を始め要路の人々は全く知らざりしならん。
 十一月九日慶喜公思えらく、十月二十三日の朝命に、外国の情に通ずる両三藩と限らるゝは、公議興論の趣旨にそむくと左の稟請書をしめす、この日朝廷付箋してこれを裁可す。

外国取扱之儀此程相伺候処御付紙之両三藩は朝廷御見込も被為在候哉於私差定兼候間今一応諸藩衆議わ被盡候様仕度此段相伺候
  慶喜
付箋 両三藩之義於朝廷御見込不被為在候差向候義有之候節は諸藩衆議之上御決定に可相成候事


 この月朔日慶喜公長防処置の稟請書に対し、十一月九日朝廷これを裁可す。

長防之義寛大之処置可取計旨五月中被仰出候に付家老並末家吉川監物上坂候様松平安芸守を以て申達候処末家監物には不快に付家老一人上坂可致段届出候間少々も快候はゞ家老一同上坂可致旨猶又相達置候処重大之事件に付改て衆諸侯公議之上従朝廷御沙汰被為在候御儀と奉存候此段奉申上候以上
  慶喜
付箋 家老以下上坂之事従幕府沙汰有之候処猶従朝廷御沙汰有之候迄上坂可身合旨被相達候事


 これによりて慶喜公は浅野長勲朝臣をして、朝命を毛利家及び吉川監物に伝えしむ。

  松平安芸守
長防之義は早々寛大之処置可取計旨御所より被仰出候に付申達候義有之候間末家之内一人吉川監物並家老一人致上坂候様毛利家へ可相達旨当七月中相達置候へ共右は猶従朝廷御沙汰有之候迄上坂可見合旨申達候様従朝廷被仰出候間其段毛利家並吉川監物へも可相達候


 十一月十七日朝廷は幕府及び尾州、紀州、越前三藩に諮問書を下す。

政権之儀式家へ御委任以来数百年於朝廷廃絶之舊典即今難被為行届儀者十目の所視に候乍去奉還被聞食候上者神祇官を始太政官夫々舊議御再興之思召に候間何れ八省の外寮司之内へ諸藩を被召加年々交代可有勤仕細目之儀者追々被仰出朝廷御基本に被為在候間右に基き見込言上可有之思召候事

一 何れ往古郡県之通に者難相成に付封建の儘名文明に相立候様被遊度候

一 御政務筋往古之通に者迚も難相運被思召候得共総而新法而已之御政務に相成候而者甚不宜候間可相成義者精々舊儀に基き候様被思召候事


 十一月二十五日夜土州藩後藤象二郎、福岡籐次、神山左多衛はひそかに松平慶永朝臣に謁していわく、某等顧うに今日の謀はすみやかに在京の諸侯を会して至公の大本を立つるにあり、大本いやしくも立たば私意を挟む者ありといえども何ぞ意とするにたらん、しからば公平の議をなす各藩を糾合して上三卿を説き、しかして上京の諸侯を召して意見を尋問し、御前において誓言せしめば、議事院その他の条目も諸につくを得べしと、慶永朝臣いわく善しと、象二郎は慶永朝臣の臣中根雪江、酒井十之丞を見てその順序を定めていわく、越前は尾州、肥後に説き、土州は芸州に説き、芸州より因備を説かしむべく、薩州は土州より説くべしと、またいわく、明朝象二郎等、永井尚志を見てその意見を問いこれを報ずべしと、雪江等は尾州と肥後に説き、その後会同してこれを議し、次いで公卿に説くべきを約せり。
 これにおいて翌二十六日中根雪江は尾州藩田宮如雲をその旅宿に訪ねいてこれを謀りしに、如雲大にこれを賛成す、酒井十之丞は津田山三郎を肥後邸に訪ねしに、青池源右衛門もまた来り会しければ、十之丞は昨夜の議を説きしに、山三郎等いわく、我が藩さきに大将軍政権奉還の盛意を聞くを得て疑惑氷解感動する所あり、同志の各藩を一致して大将軍の盛意を貫徹するの外なし、すでに使を熊本に遣し、藩主細川慶順あるいは長岡良之助の上京を請いたり何ぞ異議あらんやと、後藤象二郎は永井尚志にその意を問いしに、尚志喜んでその議を賛し、先づ諸藩においてきっかけを開くべしとなし、大将軍の内意はついに郡県制度に変ぜんことを期するにありと、当時訛言紛々として、あるいは幕府密に旗本及び譜代の諸侯に命じて出兵をうながし、海陸並びに進んで京都に入らんとすと云い、あるいは大垣藩士井田五蔵策を幕府に献じ火を禁闕および藩邸に縦ち、乗輿を奉じて大阪に入り、西南諸侯を制御すべしと説きたりと伝へ、事変を生ずること旦夕に迫れるが如くなりしかば、岩倉具視朝臣洛北岩倉村にありてこれを聞き、大に憂へ薩州邸に微行し、吉井幸輔、伊地知正治を見てこれを告げ兵備を厳にせしむ。
 十一月二十七日松平慶永朝臣は薩の意向を知らんと欲し、大久保一蔵をその邸に招き今後の意見を問う、一蔵いわく、朝廷の基本立たざれば業成りがたし、しかして朝廷人材に乏しきを苦しむ、会議公論皆正大に帰するを要すれども、その基礎を定むるの順序に至りては、藩論未だ決せざれば答うる能はずと、慶永朝臣は重ねて大将軍内意のある所を告げしに、一蔵いわく、なお一層の実行を見ざれば疑惑を解きがたし、かつ紀州会桑等幕威を回復せんとするの計画あるを伝うる者あり、ゆえに大将軍はすみやかに実行せられんことを請いねがうと、この時薩州はすでに討幕の勅を受けたる後なれば、ただ言葉を瞹昧にして難しきを徳川氏に求めたるが如し、翌二十八日慶永朝臣さらに我が藩公用人手代木直右衛門を招きその意見を問う、直右衛門いわく、幕府すでに政権を奉還す、徳川氏自今朝命を奉じて政務を執ること至当なるべし、公議は諸藩の見るところによりて異なれば、果たして何れに帰するを知らずと、会薩両藩の執るところ大に差異あるゆえに一歩を誤らばたちまち変動を生ぜんことを恐れ、慶永朝臣は二条城に登り勝静朝臣を見て、一蔵の語る所を告げて薩州の疑団を解かんとしたるも薩人の密に岩倉具視朝臣と計りて大になすあらんとするをおぼえる能はざりき。
 これよりさき小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵、廣澤兵助、品川弥次郎、福田侠平等討幕の密勅を奉じて京師を発し、山口に到り兵を出すの議を定めんとし、十月二十二日周防三田尻に到る、当時薩長芸の三藩はすでに兵士の東上を期して、薩州の軍艦三隻三田尻にあり、第一艦大山格之助以下兵員四百、他の二藩は五小隊を乗せて討幕の密勅を待ち、まさに大阪に航せんとせしに、大将軍政権奉還ありしより、京都の形勢とみに変ぜしをもって、三藩兵の東上はその機にあらずとし、先づ薩州兵を別船に乗せて東上せしめ、格之助等は三艦と共に鹿児島に帰るに決し二十四日三田尻を発して一は東上し一は西に帰れり、長芸の二藩は薩州の報知を待ちてただちに兵を出さんとし、浅野長勲朝臣は毛利元徳と周防国新港に会し、島津忠義朝臣もしくは久光朝臣の来るを待ち共に京都に入らんとす。
 この時にあたりさきに島津久光朝臣の意見を受けて、公武合体論を主張せし奈良原幸五郎等は、鹿児島にありて討幕論を不可とす、ゆえに薩州は大兵を出すことあたわず、久光朝臣もまた病と称して朝召しに応ぜず、しかして忠義朝臣の久光朝臣に代わりて上京に決せしは、同藩非討幕派の不幸と言うべし、これにおいて大久保一蔵は先発し、忠義朝臣は西郷吉之助等を従えて鹿児島を発し、三田尻に至りて毛利元徳に会見し、薩長芸三藩は共に浪花を根居とし、薩摩の一軍は守衛の任に当り長芸これに力を添うること、薩摩の一軍はもっぱら京都を守衛し長芸の一藩これに応援すること、また聖篭を山崎路より西ノ宮に迎えてさらに芸州に奉還すべしと議定し、忠義朝臣等は大阪に出て十一月二十三日入京し相国寺に屯す、兵三千、一萬と声言す、二十八日浅野長勲朝臣は兵三百を率いて京都に入り妙顕寺に館す。
 長州は薩芸と相呼応し兵を発したれども、なお尋常の如く浅野長勲朝臣に謀りて書を傅奏にしめし、上坂を差控ゆべき命令と行違に、末家その外すでに出発せしにつき、大阪において朝命を待つべきと声明す。
 長州藩すでに薩芸と相約して出兵し、なおこの言をなすゆえんのものは、表面幕府にそむくの状あるを忌みて、末家その他すでに国を発したる後なりと称し、その実討幕を実行せんが為に、仮に芸州藩をして対面を装いはしめたるに過ぎず、鞠府丸には毛利内匠及び右田の一隊、癸亥丸には整武隊、丙辰丸には銃武隊、丙寅丸には右田一隊、乙丑丸には第二奇兵隊、満珠丸には銃武隊、庚申丸には奇兵隊、遊撃隊、慶応隊を乗せ、二十六日諸隊進んで御手洗港に至る、芸州兵これに合し、芸藩の諸兵総督岸九兵衛、兵艦を向導し、五艘には薩州芸州の微章、二艘には長州の微章をもちいて御手洗港を発し、二十九日摂州打出ノ浜に着し、大洲藩の先導を得て上陸し親王寺を本営とし、尋いで西ノ宮に移る、浅野長勲朝臣は京にありてこの報を得、書を朝廷にしめして長浜上坂を報告す。
 かつまた長勲朝臣はよく晦日ひそかに二条摂政殿下に申告して長浜の為に弁疎す。
 これもとより長州の内意を受け、巧言もって討幕にあらざるを表白せるに過ぎず、これにおいて幕府は事態の容易ならざるを察して警戒す、ことに我が藩桑名藩は長州の挙動を憤り、二条摂政殿下に謁して国に帰らしむべきを迫る、しかれども幕府はこれに反し勝静朝臣、松平慶永朝臣と議し長浜をして先づ大阪に滞留せしめ、朝命に従って進退せしむるに決し、戸田忠至に命じて朝廷に奏せしむ。
 長浜西ノ宮上陸して京都に入らんとするの風説行われたれば、十二月四日山崎関門の守衛藤堂高潔の家臣深井半左衛門幕府に受申して、長浜入京に際しての処置を仰ぐところあり。

防長御処置兼ねて寛大の御沙汰は被為在候へ共長人入京の義は勅許にも相成居不申山崎関門筋罷登候はゞ無論戦争の覚悟に相心得可然哉此段奉伺候事

 幕府はこれに対して長州人もし京都に入らんとせば、先づ朝命を請うべきを諭してこれをとどめ、強いて通過せんとば、討伐すべきことを内示す、半左衛門また幕府に藩兵の配置を改めんことを請う。

此度長州人の趣にて一昨日と昨日と凡千人計り摂州打出ノ浜へ上陸西ノ宮辺へ宿陣致し候趣に付伊州表は近畿の儀兼ねて援兵差出候筈に有之候へ共一両日出兵の隙も有之且警衛三ヶ所に相成兵勢相分かれ候故山崎街道自然今明日の際侵入候も難計候に付素より山崎表警衛人数は備置候へ共猶兵数増加仕度依て内分佐渡守宇治警衛所並に下立売御門護衛相徹し上牧並に高浜等川陸御関所防御仕度臨時不得止候儀に付急速御許容奉願候事

 幕府下立売門の撤兵を許さずして、宇治警衛の兵を分かちて山崎に合せしむ、この日芸州藩熊谷兵衛は長浜より島津忠義朝臣提出したり陳情書なりとて、長軍の参謀楫取素彦、国貞直人の連書にて在京の薩芸二藩の重臣に贈れる書を寄す。

先達て従朝廷御召登之段御達有之候砌末家中気分不相勝罷在重大の御沙汰筋等閑に打過候儀奉恐入候に付不取敢家老計発途為仕候段及御達置候処末家の内病気少にても快候はゞ一同大阪表へ可差出との御事に付種々保養相加候得共今以聢と無之余り遷延仕候ても重々奉恐入候に付淡路名代毛利平六郎並家老毛利内匠監物名代宮庄主水一同上坂為仕兼て芸州様御誘引の御約束に付出張仕候処於御手洗港重て従朝廷御沙汰被為在候迄の間上坂被止候段奉候へ共今般於朝廷大政被聞食□猶列藩の公議を被盡御基本可被為立被仰出候旨奉傅奉皇国の大慶不過之奉存候然る処是迄弊邑之儀奉蒙天譴以外の干戈に相及候次第毫末奉対朝廷異心無御座大膳父子に於ては不奉堪恐縮候へ共於武門不可止之場合と相成右時宜に及申候父子勤王之至誠天地に不愧と士民一圖思入候情義難黙止廔以取傅へ幕府へ言上に及候へ共微衷更に徹上仕兼必定中間擁蔽暗雲覆天日之義と晝夜泣血罷在候処豈圖今日之御機会と変轉仕実に大早雲霓之懐を為し浪花迄到着仕御沙汰相待罷在候間此上は幾応も宿志貫徹仕候様奉至願候旁之趣朝廷向宜御取計致御頼候以上
 長州藩 楫取素庵
       国貞直人


 この書の出づるや我が藩と桑名藩とは、長州藩は朝命を蔑如せるをもって帰国を命じ、また芸州藩を糺問あるべしと、二条摂政殿下、朝彦親王に迫れども朝議決せず議論紛々たり、大納言正親町三条実愛卿、前大納言中山忠能卿、中納言中御門経之卿、岩倉具視朝臣と謀りひそかに芸州の奉状に対し左の意味の沙汰書を下せしという。

可被仰出義も被為在候間各々上坂御沙汰可相待事

 十一月九日には『従朝廷御沙汰有之候迄上坂可見合』旨達せられ、長防処分は諸侯の衆議にて決することになりたるに、今この御沙汰ありたるは摂政殿下の裁可をへたるものにあらざるべし、これ蓋し具視朝臣が実愛卿等と謀り私に作成したるものゝ如し。
 この時にあたり山崎を守れる藤堂藩の隊長深井半左衛門は朝廷に稟請していわく、長州兵強いて関門を通過せんとせば、言うを待たず、戦を開くべしと、左大臣九条道孝公、右大臣大炊御門家信公、内大臣広幡忠禮公等その兵端を開かんことを恐れ、毛利父子赦免の事を松平慶永朝臣に謀る、慶永朝臣いわく、朝廷より天下の諸侯を召すゆえんのものはこの大事を議せしめんが為なり、しかして朝廷今この処置を専断せば何ぞ諸侯の会同を要せん、ゆえに諸侯の上京を待ちて議を決するに如かずと。
 五日松平慶永朝臣は二条城に登り、我が藩士の二条摂政殿下に迫りし、趣を慶喜公に告ぐ、慶喜公すなわち我が公に左の命を下し、長防処置の事一に聖断を仰がしむ。

長防御処置の儀に付ては妄に堂上方に立入り周旋ヶ間敷事有之候ては御処置の品従朝廷出候とも御真意に無様相当り恐入候儀に付朝廷の聖断を可奉仰事

平山敬忠はこの命を我が藩公用人手代木直右衛門につたへ、我が藩をしてさらに桑名藩その他の親藩につたえしむ、この間近衛、九条、広幡、柳原等の諸公卿は二条摂政殿下の邸に会して長州処分の評議を催し、ついに毛利大膳父子及び大宰府なる三条実美等五人の官位を復してその入京を許し、国事に関して罪を得たる公卿をも赦免することに内定し、翌六日二条摂政殿下は戸田忠至を召して、毛利父子入京参朝を許すの件を慶喜公に諮詢せしむ、忠至はただちに二条城に登りしに、御用部屋には板倉勝静朝臣、および我が公、定敬朝臣等在りしかば忠至思えらく、かくては議論沸騰し意思あるいは貫徹し難きの恐れありと、よりて勝静朝臣を別室に延いて使命を述ぶ、勝静朝臣、慶喜公に告ぐ、これにおいて慶喜公は我が公、定敬朝臣、老中以下の有司を召してこれを議せしむ、忠至いわく、すでに今日は政権奉還の後なれば、ひとえに朝議に従うべしと、我が公いわく、しからず朝廷国家の大事を議せんが為に諸侯を召す、しかしてこの如きの大事朝廷の独断をもって決するは不可なり、許否共に衆議をつくさしめ、しかしてその決する所によりて勅命下るを至当とすと、有司交々論じてついに決せず、翌七日慶喜公は奉答書を上げる。
  
長防御処置の議に付御内尋の趣拝承仕候右は私へ御尋座候議に候へば兼ねて被仰出候通り衆議を被為盡候上被仰出候方に可有御座真の英断を以て被仰出候儀に候はゞ別段存寄無御座候以上

 朝廷も強いて断行せず、しかれども時日を無駄に過ごせば山崎関門の戦起らんも知るべからざるを恐れ、藤堂藩に令して長藩強いて入京せんとするの形勢あらば、これを抑止して処置を仰がしむ。
 これより先岩倉具視朝臣は島津忠義朝臣、浅野長勲朝臣相ついで上京し、毛利内匠、毛利平六郎等兵を率い来りて西ノ宮にあるをもって、密に西郷吉之助、大久保一蔵等と謀り、徳川慶勝卿、松平慶永朝臣をその議に加えて、前大納言中山忠能卿、大納言正親町三条実愛卿をもって密書を奉請し、徳川氏を諸侯の列に降ろし朝廷の公武合体派を排斥し、自党をもって新政府を組織するの議を定め、この月八日をもって大号令を発せんとす、しかれども後藤象二郎、福岡籐次は山内豊信朝臣の入京を待たんことを請い、具視朝臣これを諾す、中山、正親町三条、諸卿は徳川氏の処分について異議あり、具視朝臣は西郷、大久保及び岩下左次右衛門に意見を問う、三人書をもってこれに答う、その旨趣は王政復古の原則極まりたる上は断然としてこれを実行し、徳川氏に対しては苛酷なる処置をなしために兵を動かすにいたるも、人心を一新する利益あれば顧慮するに及ばずとせるものゝ如し。
 八日二条摂政殿下は、国事係宮公卿及び徳川慶喜公以下在京の諸侯を朝廷に召して、三条実美以下および毛利父子の官位を復し入京を許し、幽閉の公卿を赦免するの件を議せしむ、慶喜公、我が公、定敬朝臣は朝せず、議論百出ついに決せずして暁に徹す、この夜子の刻二条摂政殿下はついに松平慶永朝臣に話していわく、過刻より薩州以下の諸藩士四方に奔走して尋常ならずという何故なるやと、慶永朝臣は心大に怖れて俄かに病と称して退朝す、すでにして尾州兵数百時期を誤り清和院門に到り、人馬喧噪し満朝の人色を失う、後重臣丹羽淳太郎参朝分疏陳謝するによりて皆心を安んじたり、当時人心不安を極めしを知るべし。
 具視朝臣は機失うべからずとなし、急に薩州、土州、芸州、尾州、越前五藩の重臣を招き、書を作りて明日の参朝うながす。
 
応召早速登京御満足候従て不容易大事件御評決之儀有之只今参朝可有之候間御沙汰候事

 朝廷戒厳令を下し、会津、桑名等の親藩、譜代、諸藩の九門守衛をやめ、薩州、土州、芸州、尾州、越前の兵をもってこれに代う。
 この如き命令はみな具視朝臣が西郷吉之助、大久保一蔵と謀りて計画せるところなり、これにおいて土州藩後藤象二郎は大に驚き、急きょ具視朝臣を見てつまりていわく、大号令を発せらるゝ日は徳川前大将軍を重職に補し、朝廷の枢機に参興せしめ、会津桑名以下の激動を鎮撫せしむるにありき、しかるにただちに戒厳の令を下し、時むべによりては、兵力をも辞せざるが如きは、前言を食むもまた甚だと言うべしと、具視朝臣答えていわく、これ衆議に出づる所にして、余一人の能くすべきにあらずと、象二郎は憮然として退く。
 九日侍従千種有任朝臣を勅使として岩倉邸につかわし、蟄居を免じ改飾参朝あるべきの命をつたえしむ。

今度以思召被免蟄居直に改飾参朝可有之旨被仰出候事

 また毛利敬親父子およびその末家を赦免するの勅を下すいわく、

此度大樹奉帰政権朝廷一新之折柄弥以天下之人心居合不相付に於ては追々改古の典も難被行深被悩宸襟候且来春御元服並立太后追々御大礼被為行且又先帝御一周忌に相成候に付所言既往不咎之御時節候故人心一和専要に被思召候間先年来長防之事件彼是混雑有之候得共寛大之御処置被為在大膳父子末家等被免入洛官位如元被改候旨被仰出候事

 十月十三日付の勅書にて、毛利父子は本官本位に復せられ入朝を命ぜられたるに、今また官位如元又被免入京とあるは心得難きことなり、十月十三日の勅書は忠能、実愛、経之三卿の私に作成したる偽勅書なるが如し、はたしてしからば実に怖れ多き極みというべし。
 
この日辰の刻薩州藩大久保一蔵、西郷吉之助等唐門前に来り、公卿の諸大夫と思わるゝ者と密語して門内に入り、しばらくして出て来りしが、薩州藩士二名美麗の戎装をなしたる者来りて一蔵と密語せり、しばらくして間もなく唐門を閉鎖し、薩州人門に立ちて出入りを誰可す、我が藩唐門衛舎の当直大砲隊組頭小池勝吉は不穏の情勢あるを見て、部下をつかわしてこれを蛤門守衛隊長番頭生駒五兵衛に報ぜしむ、すでにして薩州兵一中隊戎装し来りて唐門前に進みしが、転じて御台所門より入り、ついで芸州兵一小隊来る、勝吉行きて薩州兵に問いていわく、なぜに戎装をなすせしやと、薩兵答えていわく、寡君参内するに改心ありて許可を得たりと、また芸州兵に問いしに薩州兵より警衛すべきの報あるによりて、兵を出したるもその故をしらずと、我が藩の守兵心ひそかに死を期す、巳の刻我が藩の別選組隊長佐川官兵衛来り勝吉に告げていわく、衛舎を徹するの命あらんも知るべからずといえども、忍耐して礼を失うべからずと、未の刻島津忠義朝臣参内す、従者皆麻上下を着く、また土州兵半大隊唐門前に至りて警衛す、芸州兵銃丸を塡装して市中を巡邏す、この夜子の刻に至り、はたして蛤門、唐門の守衛土州藩に交付すべきの命を我が藩につたわる、我が藩公用人手代木直右衛門、田中左内、土州藩寺田典膳に会するを約し蛤門においてこれを待つ、守衛隊長番頭生駒五兵衛、大砲隊組頭小池勝吉等指揮してことごとく塵埃を清掃せしむ、寅の刻典膳一小隊を率い来りて授受を終わる、応接すこぶる慇懃なりき、これにおいて五兵衛等兵を率いて藩邸に入る。
 この時にあたりて朝廷三条実美以下五人の入京を許し、その位を復しその官においては前官を称し闕官の節復せらるべき御沙汰あり、また九条尚忠、久我建通、千種有文、岩倉具視、富小路敬直等諸公卿の蟄居を免じ復飾を命ず、その他滋野井実在、正親町公薫、滋野井公寿、鷲尾隆衆等諸公卿の如きもまた皆赦さる、具視朝臣等円頂に冠を戴きて朝廷に出仕すると云う、たちまちにして左の驚天動地の大勅命あり。

徳川内府従前御委任大政返上将軍職辞退之両条断然被聞召候抑癸丑以来未曾有之国難先帝頻年被悩宸襟候御次第衆庶之所知に候依之被決王政復古国威挽回之御基被為立候間自今摂関幕府等廃絶有之先つ仮に総裁議定参興之三職を置き万事被為行諸事神武創業之始に基き縉神武弁堂上地下別なく至当の公議を盡し天下と休戚を同し可被遊叡慮候に付各勉励盡忠報国之誠を以て可被奉公候事
一内覧勅間□国事御用係議奏武家傅奏守護職所司代総て被廃候事


 これにおいて熾仁親王を総裁とし、純仁親王、晃親王、前大納言中山忠能卿、同正親町三条実愛卿、中納言中御門経之卿、前大納言徳川慶勝卿、前宰相松平慶永朝臣、少将浅野長勲朝臣、前少将山内豊信朝臣、少将島津忠義朝臣を議定とし、宰相大辨萬里小路博房卿、三位長谷信篤卿、前中将岩倉具視朝臣、少将橋本実梁朝臣等を参興とし、外に尾越薩土芸の五藩より各三人を推薦して参興とす。
 また勅して弾正尹朝彦親王を始めとし、摂政二条斉敬、左大臣九条道孝、右大臣大炊御門家信、前関白前左大臣近衛忠凞、前関白前右大臣鷹司輔凞、前左大臣近衛忠房、前右大臣徳大寺公純、前右大臣一条実良、内大臣広幡忠礼、大納言日野資宗、同飛鳥井雅典、同柳原光愛、同葉室長順、同広橋胤保、中納言中院通富、同六条有容、同野宮定功、前宰相中将久世通凞、大蔵卿豊岡隨資、治部卿倉橋泰聡、宮内卿池尻胤房、刑部卿錦織久隆、三位伏原宣諭、右京大夫堤哲長、左京大夫交野時萬、中将裏辻公愛の諸公卿の参朝を停め謹慎を命ず、まさしく新政を喜ばざる疑いあるが為なりという、これにおいて廟堂の上公武合体派の影を止めず、実権は全く岩倉具視朝臣等の手に帰したり、この日山内豊信朝臣京都に入りただちに参内す、これより先後藤象二郎ひそかに中根雪江を招き計画の秘密を告げて慶永朝臣に報ぜしむ、慶永朝臣大に驚き雪江を二条城に遣わしてひそかに慶喜公に告ぐ慶喜公大に驚くといえども、部下の動揺を恐れ一人心中に秘して発せず、しかしてこの大号令遭遇すと云う、我が藩佐川官兵衛は藩相上田学大輔を見て建言していわく、朝廷の形勢この如きに至り早速いかんともすべからず、しかるにこの際万一粗暴の挙動あらば、我が公宿昔の忠誠にそむき、皇国の騒動を生ぜん、某これを謀るに兵を留めて京都の不慮に備え、公は少数の従者を隨いただちに国に帰るに如かず、これ今日に処する公の忠誠を全うするの策なりと、会々慶喜公の急使来りて我が藩相を召す、藩相田中土佐二条城に登る、慶喜公召見していわく、事すでに迫れり奮激の徒事を誤らんことを恐れる、これをもって急に大阪に下るべし、宰相(我が公)病を力めて来れと、土佐帰りてこれを申す、我が公ただちに徒歩して二条城に登る、前所司代老中その他の有司ことごとく城に登る。
 禁闕は尾州、備州、芸州、土州、薩州、五藩の兵これを守り、徳川旗本の兵五千余人、我が藩、桑名藩の兵等二条城の内外に充満し屹然として相対す、人心恟々口耳相屬す、我が公は板倉勝静朝臣を別室に延きて事を談ず、偶々我が藩の千葉権助馳せ来りていわく、ただ今前将軍近臣数輩を従い城門外へ出でんとす、我が兵これを知るものあり、望月新平等進みて姓名を問う、左右答えていわく目付なり、新平いわく、どこに行かんとするか、左右いわく、巡視せんと欲するのみと、正門を開鎖すべきを命じて帰る、願わくはこの如き軽挙なからんことを欲するがゆえに上申すと、これにおいて城中さらに沸騰し、慷慨の志士憤激すること甚し、若年寄竹中重固等慶喜公に謁して出城の不可なるを諫む、慶喜公いわく、この事なしと。






卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/11/25(日) 22:50:55|
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討幕の密勅

討幕の密勅

 同十四日大納言正親町三条実愛卿は薩州の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵及び長州の廣澤兵助をその自邸に召して、大将軍徳川慶喜を誅すべきの密勅および錦の御旗を授くと云う。

  左近衛権中将 源久光
 左近衛権少将 源茂久
詔源慶喜籍累世之威恃闔族之強妄賊害忠良数棄絶王命遂矯先帝詔而不懼擠萬民於溝壑而不顧罪悪所至神州将傾覆焉朕今為民之父母是賊而不討何以上謝先帝之霊下報萬民之深讐哉是朕深憂憤所在諒闇而不顧者萬不得已也汝宜体朕之心殄殺戮賊臣慶喜以速奏回天之偉勲而措生霊干山嶽之安此朕の願無敢或懈
 慶応三年十月十三日
  正二位 藤原忠能
  正二位 藤原実愛
  権中納言 藤原経之


 この密勅は具視朝臣が玉松操をして起草せしめたるなり、操は初め具視朝臣の知遇に感じ種々献所ありしが、のち具視朝臣のなす所初志と異なる所あるを知り、姦雄のために誤られたりと憤慨しこれと断てり、従来幕府に失政ありしは論なしといえども、臣道において不忠無道の行為ありしにあらず、治術において惨虐非道の処置ありしにあらず、国際上においてそそぎ難き恥辱を招きたるにもあらず、然るに今兵を挙げてこれを討滅せんとするは果たして何の理由あるか、孝明天皇は攘夷の志あらせられしも、徳川氏を疎外する志あらせられざりしは明白なりに、斯る勅書の出でしは遺憾千万なり。
 同時に我が公および松平定敬朝臣を誅すべきの御沙汰書をも下されしと云う。

   会津宰相
  桑名中将
右二人久滞在輦下助幕府之暴其罪不軽候依之速加誅戮旨被仰下候事
 十月十四日   忠能
           実愛
           経之
  薩摩中将殿
  同 少将殿


長藩へ賜りし幕府誅伐の密勅、並びに我が公および定敬朝臣誅伐の御沙汰書は全く同文なり、睢密勅の初行を参議大江慶親、左近衛権少将大江廣封に作れり、また御沙汰書の宛名を長門宰相殿、同少将殿作れり。
 嗚呼我が公は文久二年京都守護職の大任を受けて京都に上がり、爾来六年の間朝幕の間に斡旋し、幕府をして天朝尊崇せしめ、孝明天皇の叡旨により朝幕の一和を謀りしに、讒者の毒計に罹り天譴にふれ、ついにこの密勅下るに至れり、後年館林藩士岡谷繁実が、正親町三条実愛卿に討幕の詔に関し質疑したる質問録を見るに、この密勅は摂政二条斉敬公にも各親王殿下にもわずかも漏洩せざる秘密の事にて、我ら三人と岩倉具視の外知る者なかりきとあり、すでに摂政関白にも知らしめざりしことならんには、如何なる手続きをもって奏聞したりしか、その手続きありしならんにはこの書に記載あるべきに、何事の記載なきは甚だ疑うべし、故に討幕、毛利父子の赦免、討会桑の勅は、偽勅なりと疑う者あるは理由なきにあらず。
 小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵、廣澤兵助、福田俠平、品川弥次郎は連署して即日命を奉ずるの書を、岩倉、中山、正親町三条、中御門諸卿に呈する。






卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/11/23(金) 16:17:19|
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岩倉の野心     

岩倉の野心 
 
 これより先三条実美卿等は大宰府にありて薩長と謀り、西南の諸侯を説かしめ、また京都一味の公卿と結び内外より事を挙げんと欲し、土州藩坂本龍馬、中岡慎太郎を上京せしむ、坂本、中岡は公卿を歴訪せしかどもその人を得ず、大橋慎三に就いて岩倉具視朝臣を見るに及び、その常人に非らざるを知り、互いに相喜び方略を議し、大宰府に帰り報ず、実美卿は久しく具視朝臣を姦物視したるをもって容易に同意せざりしが、東久世通禧朝臣が中に居り務めてこれを和解したるにより、ようやく心解けこの年六月ついにその意を通ずるに至れりと云う、元来具視朝臣は公武一致論者なりしが、久しく幽閉のわざわい逢いて志を得ず、ひそかに諸藩の志士と会見し、時世の推移を見て公武一致論を固辞するの自己に不利なるを察し、ようやく王政復古論に変節するに至り、これを実行するには先ず要路に当たる関白二条斉敬公、朝彦親王を退くるに在りとなし、宰相中御門経之卿、三位大原重徳卿と謀り、慶応二年八月党を結びて直奏せしめたるに、孝明天皇は逆鱗し給い、盡くその議をしりぞけその不敬を責めてこれを処分す、どれほどもなくして天皇崩ず、これにおいて討幕の野心ある者は幼冲の天子を擁して素志を遂げんとせり、これより先文久三年堺町門の変ありし以来、長州人士の最も憎悪したるは朝彦親王と会薩二藩とす、親王は伏見邦家親王の御子にて、初め洛東なる青蓮院に住職せられ、後勅命により復飾し弾正尹に任じ、尹宮、賀陽宮、中川宮と称し賜う、長州人は親王をもって同論者とみなしたるが、堺町門の変は同親王の上奏によれるを知り、深く親王を怨み彼らの間においては親王をののしりて単に坊主と称し、また彼らは会奸薩賊とののしり恨みたりと云う、薩藩の実際の主たる久光朝臣は、実兄斉彬朝臣の意志を奉じ、公武合体論者なりしかば、これに昵懇せる者も皆公武合体論者なりしが故に、会薩の了解成りしをもって、堺町門の変、蛤門の変にあたり、両藩力を会わせ暴徒を鎮圧するを得たりしなり、然るに薩藩公武合体論者の勢力ようやく衰退し、西郷吉之助、大久保一蔵等過激論者が薩藩を左右するに至る、ここにおいて薩長の了解初めてなる、この時薩州邸潜伏せる山県狂介、品川弥次郎を長州に返し、吉之助、一蔵もまた長州に赴き、密に木戸準一郎、廣澤兵助等と議して討幕の議を決し、芸州藩をも説きてしたがはしむ、一蔵、弥次郎と共に京都に帰り具視朝臣を見てその状を告ぐ、時に十月六日なりしと云う、具視朝臣は討幕の密勅を得るに非ざればその名正しからず、天下の人心帰郷せざるを憂へ薩州藩小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵、長州藩廣澤兵助、品川弥次郎、芸州藩辻将曹、植田乙次郎、寺尾左十郎と共に中山忠能卿、中御門経之卿を見て三藩合議書を呈せしむ。

一 三藩軍兵大阪着船の一左右次第朝廷向断然の御尽力兼ねて奉願置候事

一 不容易御大事の御時節に付爲朝廷抛国家(国家とは面々の藩をいう)必死の尽力可致事

一 三藩決議確定の上は如何の異議被聞食候とも御疑惑被下間敷事


この覚書と共に事を挙ぐるの旨趣を述ふる一通を提出し、忠能卿に密奏を依頼したりと云う。
 同十三日中山忠能卿等密旨を具視朝臣に傅ふ、具視朝臣はその子息を遣わして廣澤兵助、大久保一蔵を招き、毛利大膳父子の官位を復し、入朝すべきの宣旨を授く。

 毛利宰相
 同 少将
戊午以来邦国多事天歩艱難のみぎり東西周旋その労不尠候処幕府暴戻の餘讒搆百出ついに乙丑丙寅の始末におよび候へども従来爲皇国竭忠誠候父子の至情徹底おいて先帝顧命の際も深く被留叡慮候よりの今般御意志継述本官本位に被復候間すみやかに可有入朝以干城の勤不可怠旨御沙汰候事
 慶応三年十月十三日
  忠能
  実愛
  経之






卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1 

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  1. 2012/11/22(木) 09:09:49|
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山内容堂の建白

山内容堂の建白

 慶応三丁卯年十月四日、山内豊信朝臣は薩長両藩の密に約して討幕の師を挙げんとし、芸州藩もまたこれに加わりたるを知り、天下の大乱に至らんことを憂へ、その家臣後藤象二郎、福岡藤次、神山佐多をして大阪に行きて建白書を大将軍徳川慶喜公に呈せしむ、次いで後藤象二郎等密に我が藩士に会合せんことを求めたるに依りて、公用人外島機兵、同手代木直右衛門、同上田傅治、これに面会す、象二郎いわく、このごろ天下の形勢外患日に迫り内憂もこれ極れり、早く経国の大策を定めずんば復た如何ともすること能はざるに至らん、寡君容堂深くこれを憂へ、以爲(おもえ)らく今や政令朝幕の二途に出ては人々適従する所を知らず、外国に接するが如き最も手を下し難し、故に今日の急務は先づ政令一途に出て、以て人心を収めんことをとらざるべからず、抑々幕府政権を執りて以来ほとんど三百年なり、然れども豈に能く百世の幕府あらんや、この際よろしく政権を皇室に奉還し上下議員を設けて政体を確立すべし、時勢を制し国を張り、皇室を泰山の安きに置くは唯この一策あるのみ、寡君及二三の家臣に命じて政権返上を建白せしむ、貴藩と弊藩とは平素交際親密なるを以てあえてこれを吐露す、願わくばともに尽力せられんことを、假令意義あるもすでに一二の藩と約する所あれば竟に中止すべからず、期亦旦夕に迫れり、請う熟慮して速やかに決答せられよと、三人帰り報ず、然れども議容易に決せず、すでにして慶喜公もまた我が公及び執政に土州藩の建白を示しこれを採納するの意を告ぐ、我が公すなわちその英断を称揚し遂に政権返上の議決す、これにおいて我が藩士中あるいは不平の言をなす者あり、我が公これを諭していわく、政権部門に帰してより皇室の式微なるは志士の慨歎する所なり、今大将軍大義を明にして、時勢を察してもってこの更革の議を決せらる、自今この意を体して皇室を翼戴すべきのみ、汝らみだりに議することなかれと、藩士これを服鷹して違はざるに至れり。
 この日(十月四日)、後藤象二郎二条城に至り、老中勝静朝臣に就きて説いていわく、このごろの急務はよろしく天下の公議を集め、政令を一新し、皇国独立の基礎を強固にし、以て外侮を防がざるべからず、事一日を緩うすれば一日宇内の大勢に後れんと、勝静朝臣これを納れ諸藩の意見を諮詢すべきを答う。
 十月六日浅野長勲朝臣またその藩相辻将曹をして、建白書を幕府に提出して時勢を論ぜしむ、この日薩州藩大山格之助等兵一大隊を率いて周防三田尻に来るという。
 十月八日慶喜公我が公に言ういわく、曩日原忠成の横死あり、板倉勝静香、永井尚志等必ず戒心あらん、よろしく新選組をしてその登営往来を護衛せしむべしと。

{安政年代より文久年代に至り、浮浪の徒京都において跋扈を極む、江戸において大に浪士を募り寄合鵜殿鳩翁、山岡鉄太郎、松岡萬等をしてこれを統轄せしむ、文久三年家茂将軍上洛の時、列外の警衛として中山道をへて京都に入る、蓋しこれをもって京都の浪士を圧せんとする策なりき、その京都に着するや議論嗷々(ごうごう)として挙動もまた粗暴を極む、英人の来り迫るの報あるや、東帰して攘夷の先鋒たらんことを望むものあり、また京都に止りて将軍を守衛せんことを望むものあり、鳩翁等力これを制御する能はず、ついに東帰せんとする者をば鳩翁自ら率いて東帰す、後これを新徴組と称し、庄内藩主酒井左衛門尉に付属せしめ江戸の保安に当らしむ、その京都に止まらんと欲する者を、会津家に付属せしめこれを新選組と云い京都の取締に当たらしむ、その壬生寺に止宿するにより世これを壬生浪士という、新選組規律厳粛士気勇悍守護職の用をなせる多し、初め芹沢鴨これが長たりしが後近藤勇これに代わり土方歳三次長なり}

 十月九日新選組隊長近藤勇守護職邸に来り報じていわく、隊士村山謙吉は土州浪人なるがその探知するところによれば、今や長州人召に応じて上京するに際し薩州は長州に勧むるに目下容易に上京すべきの秋にあらず、ただ戎装して大阪に来るを可とす、幕府必ずその戎装を厳責すべし、その時に臨んで歎願と称して入京せば、これを機として薩州兵は二条城を攻め、土州浪士、十津川浪士は守護職邸を襲い、新選組宿舎は他の浮浪の徒をして当たらしむべしと、この約已に成りてこの月十五日を期とし変をなすの策あり、ただし長州兵大阪に来らずば事を発せざるべしと、この事は独り謙吉のみならず、本国寺に住する水戸人のひそかに土州浪士に応ずる者を縛して鞠門して得る所もまた同じ実に危急旦夕に迫れり、速やかに戒厳せらるべしと。
 同十日慶喜公、板倉勝静朝臣をして政権返上に就き、ひそかに松平慶永朝臣に問はしめたるが慶永朝臣は賛成に躊躇せり。
 同十二日慶喜公は老中その他大目付、目付諸臣を召して、政権返上に就き諸藩に諮問せらるべき所の書を示してその意見を問う。諸臣唯々として命を奉ぜしも心中遺憾を抱くの徒少なからず、就中老中格大河内正質朝臣、大目付滝川具挙、陸軍奉行竹中重固、若年寄並外国総奉行平山敬忠等憤慨して幕威を維持せんとす。 

{徳川幕府の末年においては、重臣の大目付、目付等を集めて大事を議せしむることありき、本来大目付は老中に属し大名に関する事を監察し、目付は若年寄に属し旗本に関する事を監察して、各これを報告する事を勤めとす、而して大目付は三千石高にて布衣席を有す、諸大夫、布衣役高に就いては下の幕府陸軍武官制度の説明を見るべし。} 

この日幕府より在京の諸藩へ左の令あり。

国家之大事見込御尋之議有之候間詰合之重役明後十三日四ッ時二条城へ罷出候様尤重役詰合無之向は国事に携候者可能出候此段相達候

 これにおいて翌十三日四十余藩の重臣等を二条城に召し、勝静朝臣をして政権返上に関し意見を徴せしめ、また老中より旗本へも論達する所ありたり、この時我が藩においては家老内藤介右衛門、公用人外島機兵衛、公用方廣澤富次郎を遣せり。
 時に勝静朝臣、大目付戸田忠愛等出席して諮問案を廻覧せしめ、親しく将軍に謁して意見を陳べんと欲する者はその言を聴かんことを傅へしに、諸藩の重臣等多くは退出せるに薩州藩小松帯刀、土州藩後藤象二郎、及び芸州備前の重臣慶喜公に謁す、帯刀いわく、今日の英断を以て大綱すでに定まる、速やかに上奏せらるるに如かずと、他の三藩士も交々大同小異の言を上陳して退出せり。






 
卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1 

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  1. 2012/11/21(水) 16:45:08|
  2. 会津戊辰戦史1
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目次     会津戊辰戦史1

 会津戊辰戦争史1



卷一 大政奉還

山内容堂の建白

岩倉の野心

討幕の密勅

政権奉還の上表

小御所の会議

戊辰開戦の責任者

前将軍の下坂

領地返上に就き中根雪江の明弁

会津藩主従の誓書

薩藩士の暴掠

薩摩邸の焼討


卷二 伏見鳥羽の戦

討薩の表

開戦

慶喜公の東帰


卷三 江戸及近邦の形勢

我が公東帰の理由を明かす

我が公の退隠

我が公の登城を禁ず

慶喜公恭順の意を表す

神保修理の刑死

我が公会津に帰る

輪王寺宮の周旋

江戸の開城

輪王寺宮令旨を会津に賜う

上野彰義隊の戦

我が公榎本武揚に越後西軍の背後を衝かんことを勧む

榎本等軍艦を率いて亡命す

武川信臣の死

田口治八の死


卷四 総野の戦

近藤勇の死

結城内訌

梁田の戦

関宿の戦

宇都宮の攻略

会津に入る

東照宮神輿を移す

今市の戦

大田原城の陥落及び委棄

藤原の戦

大鳥圭介若松に入る

山川大蔵兵を彊内に收む


卷五東方の戦

我が藩四境を固む

仙台藩を国境に進む

上杉齊憲会津を救わんとす

仙台米沢二藩の周旋

会津藩相の歎願

世良修蔵等の専横

奥羽列藩の会合

世良修蔵を誅するの議

世良修蔵の殺戮

白河城の奪取


卷五東方の戦

白河城の陥落

奥羽越の同盟

奥羽越公議府の設置

西軍植田に至る

棚倉の陥落

泉城陥る

湯長谷陥る

平の戦

輪王寺宮を盟主に推す

平城陥る

法親王軍務を総覧す

棚倉回復戦の不成功

守山の降伏

二本松城の陥落

仙台兵の退去

軍議局の移転

相馬の背反

仙台藩の降伏

輪王寺宮の歎願

庄内の降伏

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  1. 2012/11/20(火) 08:48:49|
  2. 会津戊辰戦史1
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会津戊辰戦史とは

『会津戊辰戦史』とは『京都守護職始末』の著者である山川健次郎が編纂長(花見朔巳、荘田三平が編纂委員に選定される)となり、元会津藩士の古河末東が編纂した稿本が公平正確なる戊辰戦史の記述にある事からこれを増補訂正し、大正十一年に編纂を始め、昭和六年に完成し、同八年に発刊された書籍である。この著書は『京都守護職始末』の続編というべきものであり、慶応三年十月の大政奉還以後から戊辰戦争において敗れた側である会津藩の立場が叙述されてあり、大きな声にかき消された真実が記されている貴重な資料の内の一つです。のでぼちぼち頑張って書き起こしをしたいと思います。

東京大学出版会 日本史籍協会編纂 会津戊辰戦史1・2、全二巻を書き起こししますので幕末史を探求する方々において御参考にください。

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  1. 2012/11/19(月) 20:21:12|
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三十四  伏見開戦     『京都守護職始末2』

 悉く水泡     この日、わが前駆の隊が伏見に到達するや、関門守衛の諸藩兵が、急に関門を鎖(とざ)して、「徳川内府が兵を率いて入京することは、朝廷の禁ずるところ」と称して、あえて門を開かない。
 わが前隊は、これに答えて「内府は、召勅によって入朝するのである。兵を率いているのは、警戒、自衛のためにほかならない。朝廷が入京を禁じられるとは、われわれは未だ聞いていない。たとえ真に勅命で禁ぜられたとしても、これを犯す責任は、内府甘んじてこれを受け、決して累を諸君に及ぼさない。どうか聞いてほしい」とかれこれ問答をしているうちに、突然、彼の方より砲撃してきた。
 武門の習い、どうしてこれを黙過することができよう。ここに至って、わが公が多年辛苦し、尽瘁してきた公武一和は、むなしく一朝の水泡と化し去り、遂に戊辰変乱の基となった【注一】のである。噫(ああ)。





 【注】

【一 戊辰変乱の基となった】 明治元年正月二日、旧幕軍は、会津・桑名の藩兵を先鋒として京都に向け進軍した。これより先、朝廷側では、岩倉具視は、徳川慶勝・松平慶永の斡旋に期待するとの穏和論であったが、参与の大久保一蔵・西郷吉之助は討幕の強硬論を主張した。三日の朝議は、慶喜に上京中止を命ずることに決したが、すでに二日夕刻には、兵庫沖で旧幕府軍艦と薩州藩船との間に放火が交えられ、三日午後五時頃から、鳥羽、伏見で戦闘がはじまった。結果は薩長軍側の勝利におわった。
六日、慶喜は松平容保、松平定敬らを従えて、夜にまぎれ大阪城を脱出し、軍艦に投じて十二日江戸城に帰った。正月七日慶喜追討令が発せられ、十日には容保、定敬をはじめ旧幕府要路の官位は奪われた。東征大総督熾仁親王の指揮する京都軍は、三方より江戸に進撃し、三月十五日を期して江戸城総攻撃を行なう予定であったが、英国公使パークスの斡旋もあり、西郷吉之助と勝海舟との会談によって慶喜は恭順謝罪し、四月四日京都軍は無血入城した。
この日慶喜は水戸におもむき、藩校弘道館の一室で謹慎した。閏四月徳川氏の処分が決まり、田安亀之助(家達)が家督をつぎ、駿府七十万石に移封され、慶喜も駿府に移った。
他方、容保は二月十六日江戸を発して会津に帰ったが、藩では、薩長にたいする主戦論が支配し、戦備を整えるとともに、まず庄内藩と同盟をむすんだ。閏四月十一日には、仙台藩、米沢藩の呼びかけに応じ、盛岡・二本松・守山・棚倉・中村・三春・山形・福島・上ノ山・亀田・一ノ関の奥羽諸藩の重臣が白石城に集り、会津藩の救解を決議し、その恭順謝罪をみとめてほしいとの連署嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出した。そしてこれが却下されるや、五月三日二十五藩は奥羽列藩同盟を組織して対抗したが、これより先、閏四月二十日よりすでに各所で京都軍と戦闘をはじめた。戦況は京都軍に有利であり、七月二十九日二本松は落城し、九月三日米沢藩は降伏し、同十五日には仙台藩も降伏した。
参謀板垣退助の指揮する京都軍は、八月二十日より会津攻撃を始め、老幼婦女二千をふくめて、数千の籠城する若松城を包囲すること約一ヵ月に及んだ。ついに九月十六日、容保は降伏を申し入れ、二十二日開城し、容保、喜徳(余九麿)父子は滝沢村妙国寺に入り、藩兵も猪苗代で幽閉された。会津落城後間もなく盛岡、庄内等の諸藩も降り、ここに道北地方の戊辰戦役は終った。戦後の処分で、容保父子は永禁錮、その封土は没収されたが、明治二年十一月三日、松平家は容保の子容大を立てて家名を興し、陸奥斗南の三万石をあたえられた。ついで、五年正月六日、容保父子は、松平定敬等とともに赦免された。


〔下巻おわり〕

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  1. 2012/11/19(月) 19:17:26|
  2. 京都守護職始末2
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三十三 徳川慶喜卿、奸党の罪状を奏聞   『京都守護職始末2』

 薩摩断該の条々     三日、内府はまず大目付滝川播磨守に命じて、左の薩摩藩弾劾の上疏をもたせて入京させた。

臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事態を恐察し奉り候えば、一々朝廷の御真意にこれなく、まったく松平修理大夫が奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知るところ、殊に江戸、野州、総州、その外所々にて乱防、劫盗に及び候者も、同家来の唱導により、東西響応し、皇国を乱し候所業、別紙の通りにて、天人ともに憎むところに御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候よう御沙汰成し下されたく、万一御採用相成らず候わば、止むをえず誅戮を加え申すべく、この段謹んで奏聞し奉り候。

 薩摩奸党の者の罪状の事
一 大事件には衆議を尽すと仰せ出だされ候ところ、去月九日、突然、非常の変革を口実といたし、幼帝を侮り奉り、諸般の御処置、私論を主張のこと。

一 主上御幼冲の折から、先帝の御依託あらせられ候摂政殿下を廃止し、参内を止め候こと。

一 私意をもって宮、堂上を黜陟(ちゅつちょく)せしめ候こと。

一 九門その外御警衛と唱え、他藩の者を煽動し、兵仗をもって宮闕に迫り候条、朝廷を憚らざる大不敬のこと。

一 家来共、浮浪の徒を語り合わせ、屋敷へ屯集し、江戸市中に押込み強盗を致し、酒井左衛門尉〔庄内藩主酒井忠篤〕の人数屯所へ発砲、乱防し、その他、野州、総州所々にて焼討ち劫盗に及び候証跡、分明にこれあり候こと。

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  1. 2012/11/19(月) 19:01:00|
  2. 京都守護職始末2
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三十二  徳川慶喜卿、時事について上奏     『京都守護職始末2』

 憤怒の書状   越えて十八日、内府は大阪から、時事について左の書状〔注一〕を上がった。

臣慶喜、不肖の身をもって、従来無渝の寵恩を蒙り奉り、恐感悚戴の至りに堪え奉らず。及ばずながら夙夜寝食を安んぜず、苦心焦慮、宇内の形勢を熟察仕り、政権一途に出で万国と並立し、護国威相立ち候よう、広く天下の公議をつくし、不朽の御基本を相立てんとの微衷より、祖宗継承の政権を奉還し、同心協力、政律相立てたく、あまねく列藩の見込み相尋ねべき趣建言仕り、なお将軍職御辞退も申し上げ候ところ、お召しの諸侯上京し衆議相決し候まで、これまでの通り心得べき旨御沙汰につき、右参着の上、同心協力、天下の公議、与論を採り、大公至平の御規則相立てたく存じ奉り候外他念これなく、鄙衷空しからずと感戴仕り、日夕、企望罷りあり候ところ、あにはからんや、この度、慶喜へ顛末の御沙汰もなきのみならず、詰合(つめあ)いの列藩だにも御沙汰これなく、俄に一両藩、戎装(じゅうそう)をもって宮闕へ立ち入り、未曽有の大御変革を仰せ出だされ候由にて、先帝より御遺託あらせられ候摂政殿下を放廃し、旧眷の堂上方を故なく擯斥せられ、にわかに先帝が譴責の公卿数名を抜擢し、陪臣の輩みだりに帝坐近く徘徊し、数千年来の朝典を汚し、その余の御旨意柄かねがね仰せ出だされ候御沙汰の趣とは、ことごとく雲壌相反し、じつもって驚愕の至りに存じ奉り候。
たとえ聖断より出でさせられ候とも、忠諫し奉るべきはず、いわんや、当今幼冲の君にもあらせられ候折から、右ようの次第に立ち至り候ては、天下の乱階、万民の塗炭、眼前に迫り、かねがね建言仕り候素願も相立たず、金甌無欠(きんおうむけつ)の皇統もいかがあらせられ候やと恐痛し奉り、臣慶喜、自今の深憂、このことに御座候。
鄙言の趣、御聞受なしくだされ、かねて申し上げ候通り、公明正大、速やかに天下列藩の衆議をつくさせられ、正を挙げ、奸を退け、万世不朽の御規則相立て、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民を安んじ候よう仕りたく、臣慶喜、千万懇願の至りに存じ奉り候。この段、謹んで奏聞仕り候。






 西郷らの建言     これよりさき、中山忠能、正親町三条実愛の両卿は、朝議がなお徳川氏に依る形跡のあるのを不満として、大いに異議を唱えた。その時、岩倉具視朝臣はこのことを聞き、ひそかに薩摩藩士西郷隆盛、大久保利通、岩下万平等にその意見を問うた。
よって、三人は左の書を呈した。

今般、御英断をもって王政復古の御基礎を立てさせられたく御発令については、必らず一混乱を生じ候やも計りがたく存じ奉り候えども、二百余念太平の旧習に汚染仕り候人心に御座候えば、一度干戈を動かし候方が、かえって天下の耳目を一新し、中原を定められ候御盛挙と相成るべく候えば、戦を決し候て、死中に活を得候の御着眼、もっとも急務と存じ奉り候。
しかしながら、戦は好んでなすべからざることは、大条理に於て動かすべからざるものに御座あるべく候。しかるに、無事にして朝廷、上の御威力を貫徹し、太政官代三職【注二】の公論をもって太政を議せられ候日に至り候ては、戦よりもなお難しとすべし。古より創業、守成の難易、論定しがたく、俊傑の士においても、後世識者の評を免かれ申さず候。いわんや、衰頽の今日に於てをや。詳考、深慮、御発令の一令を御誤り相成らず候儀、第一の事に存ぜられ候。
ついては、徳川家御処置振りの一重事、大略の御内定を伺い奉り候ところ、尾、越をして直ちに反正、謝罪の道を立てさせ候よう御諭しをもって、周旋命ぜられ候儀、更に至当、寛大の御趣意と感服奉り候。
全体、皇国、今日の危に至り候こと、大罪は、幕に帰するは論をまたずして明らかなる次第にて、すでに先に、十三日云々御確断の秘物【注三】の御一条まで及ばせらるべく候御事に御座候。この末の論相起り候とも、諸侯に列し、官一等を降し【注四】、領地を返上し、闕下に罪を謝し奉り候場合に至らず候わでは、公論に相背き、天下の人心もとより承伏仕るべき道理御座なく候間、右の御内議は、断乎として寸分も御動揺あらせられず、尾、越の周旋、もし行なわれず候節は、朝廷寛大の御趣意を奉ぜず、公論に反し、真の反正たらざるもの顕然に候えば、早々朝命、断然右の通り御沙汰相成るべき儀と存じ奉り候。
右御議定より下りての御処置振りは、公論、条理の上に於て、さらに御座あるまじく、もし寛大の名をつけさせられ、御処置その当を失われ候えば、御初政に条理公論を破り相成り候筋にて、朝権相振るわざるは論ずるまでもこれなく、必らず昔日の大患を生じ候儀相違御座なく候。
もし御趣意通り、真の反正をもって御実行挙り、謝罪の道相立ち候上は、御顧慮なく御採用相成るべきはもちろんに御座候。前条御尋問に預り、当〔島津〕修理大夫の趣意を奉じ、評議の形行申し上げ奉り候。一点の私心をもって大事を論ずべからざるは、兼ねて現上し奉り候通りに候間、よろしく御熟考云々。






 慶勝、慶永の忠告     はたして二十六日(十二月)、徳川慶勝、慶永両卿が勅を奉じて大阪城に来り、内府に勅旨を伝えて上京を促し、また両卿の私言として、この際、第一に官位を鷁退(げきたい)し、領邑を削減して供御(くご)にたてまつることを奏請すべきを勧めた。
 内府は「官位鷁退のことは予も前からそのつもりであって、異存はないが、領邑の問題は、累代世臣を扶持している関係上、未だしばらくこれを削減するわけにはゆかない。その事情を、予みずから入朝して親しく申し上げよう」と言われたので、両卿はこれを諾し、さらに「公の入京の際には、なるべく儀従(ともまわり)の人数を省略し、少人数、軽装でゆかれるのが得策で、万一、警戒の必要があれば、尾張、越前の兵で防備しよう」と言った。  内府がそれを応諾したので、両卿は京師に引き返した。





 薩藩邸を攻撃     これよりさき、江戸市街と常、総、野の諸州に盗賊が横行【注五】し、民家を劫掠することが連夜絶えないので、民心は恟恟として、ほとんど安堵の心地なく、夜になると闃(げき)として道ゆく人が絶えるに至った。
 幕府は庄内藩主(酒井左衛門尉忠厚朝臣)に命じて、江戸市中の警邏に当らせ、きびしく盗賊を逮捕させた。
 この月二十二日、江戸本城の後閣〔二の丸〕から火が出て、ことごとく焼け落ちた。人心はますます驚動【注六】した。
 翌二十三日夜、賊徒の一隊が庄内藩の兵営を襲って、発砲した。庄内藩はこれに応戦し、互いに死傷者を出したが、賊は遂に敗れ奔って、芝三田の薩摩藩邸と佐土原藩邸に逃げ込んだ。庄内藩は、すぐさまこのことを老中に報じ、指揮を仰いだ。
 翌日、老中、旗下の歩兵隊と前橋、松山、鯖江、上山等の諸藩に命じて、庄内藩とともに、薩摩、佐土原の二邸を撃たせた。それぞれ斬獲したが、余賊は上山藩の隊を衝き、品川から舟で西方へ逃れた。
この戦役で、わが藩の三田藩邸と、薩摩屋敷とが隣接しているので、わが公の用人小森久太郎が兵を督して備え、薩摩藩の留守居下役、益満休之助を捕え、諸藩が捕えた二十余人とともに江戸町奉行に連行した。





 慶喜公怒り上京を決意     越えて三十日(十二月)、この報が大阪に達した。内府はこれを聞いて、忿怒に堪えず、「薩摩藩がひそかに兇徒を使嗾し、関東をかき乱し、東西相応じて事を挙げようとしたに違いない。乱逆を企てるの罪は許すことができない」と、即夜、老中およびわが藩、桑名藩の重臣と会見し、その罪状を具申し、典刑を正したい旨を奏請することに決議を定め、入京の部署を定めた。
 慶応四年戊辰正月朔日、徳川内府は、召勅に応じて上京することとなった。
 まず、わが藩と桑名藩に歩兵隊をつけて、前駆(さきがけ)とし、先発させ、高松、姫路、小浜、鳥羽などの諸藩の兵が これにつづき、翌二日に順次、鳥羽伏見に向った。さきに、尾張、越前の両侯から、少人数軽装で入京せられたいとの忠告があったが、その後、江戸において薩摩藩士の兇暴を耳にして、これを弾劾し、事と次第によっては決行も辞さないとの勢いで、衆を尽して、その途に就いたのであった。





 【注】

【一 左の書】 この上奏文は、大目付戸川安愛(伊豆守)が、若年寄戸田忠至(大和守)を経て、総裁熾仁親王に提出しようとしてたが、忠至は上奏文の文意が激しいのに驚き、ひそかに岩倉に示して指揮を求めた。岩倉は、もしこれが提出されれば、慶喜問罪の師が発せられるだろうとのべ、これを抑留したので、戸川はそのまま持ち帰り、実際には上奏されなかった。

【二 三職】 総裁・議定・参与をさす。

【三 十三日云々御確断の秘物】 十三日、岩倉は大久保をまねいて、二策を示し、諮問した。その一は、薩長の兵をもって天皇を擁護し、勅命を奉ぜぬものを討伐し、その成敗は天に任せること、その二は、しばらく尾州、越前二藩の周旋に任せ、慶喜がもし反正の実を示し辞官納地を奏請するなら、寛大の処置をもって議定職に補するというのであった。大久保・岩下・西郷の意見は、しばらくは第二の方策で進むというにあった。

【四 官一等を降ろし…】 慶応三年十二月九日、王政復古の令を出した朝議は、慶喜をして官位一等を下り、所領中二百万石を新政府費用として差し出すことを命ずるに決した。十二月十日、議定徳川慶勝(尾州)と同松平慶永(越前)とは、二条城でこの朝旨を伝えたが、慶喜は旧幕兵の動揺を恐れて、明答の猶予を願った。当時徳川氏にたいする同情は、土州藩をはじめ諸藩の間に強かった。そこで尾・越・十三藩は、慶喜より辞官納地を申請する代りに、議定職に補するという案をもって周旋した。この案は、注三に見るように、岩倉の提示する第二案で、西郷・大久保らも支持したものであった。その後も、旧幕側に反対論が強いため容易に成功しなかったが、十二月二十八日慶喜の請書をえることができた。しかしすでに二十五日には、江戸で幕府側は薩州藩邸を焼打ちするという事件がおこり、それは鳥羽伏見の戦へと波及するに至った。

【五 盗賊が横行】 横行した盗賊の中に、薩州藩討幕派が 計画した関東擾乱計画による者があった。西郷は武力行使の名目を作ることに腐心した。彼の命をうけた益満休之助・伊牟田尚平は江戸に下って、浪士を徴募した。この薩州藩邸屯集の五百人の浪士は、治安をみだす目的で、徒党を組んで乱暴をはたらいた。一部の者は、下野国流山で兵を募り、また他の一部は、相模国萩野山中藩の陣営を襲うなど、関東各地で蜂起、放火、略奪が相次いだ。

【六 人心はますます驚動】 江戸城二の丸焼失については、薩州藩士が天璋院を奪おうとして放火したとか、大奥の女中が薩州藩士に通じて放火したとかの噂が流れた。旧幕府内では、勘定奉行小栗忠順(上野介)ら強硬派は、薩州藩邸を攻撃して、策動の根源を絶つべきだと主張した。

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  1. 2012/11/19(月) 18:13:35|
  2. 京都守護職始末2
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三十一  王政復古の詔勅     『京都守護職始末2』

 摂政・幕府等廃止     九日、王政復古の詔勅を下し賜うた。

徳川内府、従前御委任の大政返上と将軍職辞退の両条は、今般、断然と聞こし食(め)され候。そもそも癸丑〔嘉永六年、ペリー来航〕以来、未曽有の国難にて、先年も頻年宸襟を悩ませられ候次第は、衆庶の知るところに候。
これによって、叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回の御基を立たせられ候間、自今、摂関、幕府等廃せられ、総裁、議定(ぎじょう)、参予【注一】の三職を置かれ、万機を行なわせられ、諸事神武創業の始めにもとづき、縉紳(しんしん)、武井、堂上、地下(じげ)の別これなきの至当の公議をつくし、天下と休戚(きゅうせき)を同じくあそばさるべき叡慮に候条、各々勉励し、旧来の驕惰(きょうだ)の汚習を洗い、尽忠報国の至誠をもって奉公致すべく候事。


 また勅して、内覧、関白、国事掛、議奏、武家伝奏、守護職、所司代はすべて廃せられた。
 ここに至って、会津、桑名等佐幕藩の九門守護を罷(や)め、薩摩、土佐、安芸の諸藩がこれに代った。
 よって、わが藩は唐門、蛤門の守衛を土佐藩に交付し、また旧守護職邸にいた婦女たちを、ことごとく黒谷と鞍馬口の邸に移し、漸次会津へ帰還させた。





 幕臣らの鬱憤     はじめ十一月十四日、内府の政権奉還の上表があってから、堂上、諸侯らはたちまち内府以下守護職、老中、所司代等を疎外し、朝議があっても、これに与らしめず、諸藩士中の過激の徒はわれわれを仇敵視し、往々討幕を喋々した。
 徳川家旗下の諸士等は、この上表があってから、俄然権力を失い、心ひそかに平らかならざるものを抱いていたが、日々に情勢がわれに非になってゆくのを見聞するごとに、層一層、その念を増し、憤慨を禁じ得ない。「そもそも今回の内府公の英断は、本朝空前の盛挙であって、けだし人臣が上に奉ずる道として、これ以上の道はない。ゆえに、朝廷でもまたその至誠を嘉賞あって、天下とともに同心して力を致し、皇国を維持し、宸襟を安んじ奉るようにと詔があったのである。しかるに、かの諸藩等は、みだりに猜疑を逞しゅうし、公卿を誘惑して、わが公の至誠を讒害(ざんがい)し、かえって敵視させるとは何ごとであるか。君辱(はずか)しめらるれば臣死す、という言葉があるが、今がその秋(とき)である」と、口々に論じて喧囂を加えた。
 しかし、今や九門の守護もまた佐幕藩の手から去って以来、わが藩士や桑名藩士らも旗下連と和同して、おのおの切歯扼腕(せっしやくわん)し、機会を待ちかまえている有様であった。 





 一触即発     これを見て、わが公と定敬朝臣らは、二条城に入り、まず旗下や藩士等を切論懇告して、その気鋒をゆるめようとした。九門守衛の諸藩兵らも、この状況を見て、真意のあるところを悟らず、ひそかに往年の長門藩士の兇逆になぞらえて、ことさらに兵威を張り、二条城と対峙する勢いを示した。
 京中の人心は、これがために恟々として、荷担して起つまでになった。
 十一日、大阪にあった毛利内匠が、勅によって、兵を率いて京師に入ってきた。それを知ったわが衆は、さらに憤慨の度を高め、禍機の切迫は、ますます度を加え、旦夕を料(はか)りがたい状態となった。





 闕下の血を恐る     十二日、内府は、俄にわが公を召し、就封の暇を賜い、また馬を賜わった。
 つづいて、徳川慶勝、松平慶永の両卿が二条城に罷り、内府に謁して、目下の形勢について大いに危懽していることを述べ、速やかに旗下連やわが藩、桑名の勢を大阪城にうつし、禍乱を末萠に鎮定すべきことを勧めた。内府も、これを可として、わが家老田中玄清を召して「予、つらつら刻下の形勢を視るに、ついには君側の奸を清掃しなければなるまいと思う。しかし、闕下(けっか)を血でけがし、宮禁を驚動せしめると、かの毛利敬親の臣らの行為のようなことになることを恐れている。ゆえに、しばらく大阪城に避け、旗下の人心を鎮定しようと思う。宰相(わが公)も随伴して来るように」という命を下した。
 そして、左の上疏を草して、慶勝、慶永の二卿に託して朝廷に上(たてまつ)り、即日、二条城を出発した。わが公と桑名侯らも、藩士を率いて、これに従った。

防長御処置の儀につき、御尋ねの上叡慮の通り仰せ出だされ、異議申し上げ候もこれなき筋に候えども、万一異存の輩もこれあり、騒動に及ぶ儀も候わば、御幼君にもあらせられ候折から、自然、右様の儀これあり候わば、御驚動はもちろん、皇位も如何ならせらるべきやと深く叡慮を悩まされ候御次第にて、鎮撫、説得の力をつくし候よう御沙汰の趣、畏り奉り候。
その後、宮闕戒装をもって御固めの上、非常の御改革を仰せ出だされ候については、別して鎮撫方を深く痛心仕り候。諸役人はじめ、今日まで精々相さとし置き候えども、なにぶん多人数の鎮撫方深く心配仕り候。不肖ながら、誠意をもって尊王の道を尽し、罷りあり候えども、徒らに下輩の粗忽より水泡に属し候よう相成り候ては、この上にも深く恐れ入り奉り候儀につき、右人心折合い候まで、暫時大阪表へ罷り越し申し候。
右はまったく末々の者を鎮撫致し、禁闕の下、御安心の御場合に仕りたきまでの儀に御座候間、微衷の程、御諒察成し下されたく候。尤も、伺済みの上出立仕るべき儀に候えども、かれこれ手間取り候内に、万々一の軽挙の過誤より国家の大事を牽き出し候ては、かえって恐れ入り奉り候につき、すぐさま出発仕り候儀に御座候。よって、この段申し上げおき候。以上。


 尾張、越前両侯もまた、左の書を上(たてまつ)った。

この度、内府、政権を帰し奉り候につき、旗下軽輩の者にいたり、心得違いこれあり、自然、輦轂(れんこく)の下紛擾に相成り候ては、御幼帝にもあらせられ候折から、別に恐れ入り候間、人心の折合い候まで、暫時下坂、精々鎮撫行き届き候上にて、速やかに上京、御沙汰を待ち奉り候方然るべきやと存じ奉り候。会、桑二藩の儀も、一同召し連れ、一と先ず下坂、海路にて発途仕らせ候筈に御座候。
右は、伺済みの上、登程仕るべき筈に候えども、かれこれ機会を失い、万一不慮の儀出来候ては、皇国の大害につき、止むをえず即刻発途仕らせ候。内府に於ても、伺済みの上取り計らい候心得に候ところ、両人にて機会を熟慮し、相勤め申し候。右の儀は、まったく臣ら両人の取り計らいに候間、御譴責も御座候わば、謹んで甘んじ請け候心得に候事。






 京師を去る     越えて数日、わが藩は、京師留守居内藤信節、諏訪頼徳らが旧守護職邸を土佐藩に引き渡して下坂した。ここに至り、徳川の旗下と会津、桑名の藩士は、ことごとく京師を去った。





 【注】

【一 参予】 参与が正しい。総裁は有栖川宮熾仁親王、議定には純仁親王・晃親王・中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之・徳川慶勝・松平慶永・浅野茂勲・山内豊信・島津茂久、参与には大原重徳・万里小路博房・長谷川信篤・岩倉具視・橋本実梁が任ぜられ、ついで尾州・越前・芸州・土州・薩州の五藩士の中から後藤象二郎・西郷吉之助・大久保一蔵ら十五名が参与に任命された。これにたいし二条斉敬・朝彦親王・九条道孝・大炊御門家信・近衛忠煕・鷹司輔煕・近衛忠房・徳大寺公純・一条実良・広幡忠礼・柳原光愛・葉室長順・日野資宗・飛鳥井雅典らは罷免、参朝を停められた。

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  1. 2012/11/19(月) 17:53:16|
  2. 京都守護職始末2
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三十  毛利敬親父子の赦免     『京都守護職始末2』

 全公卿等を召集     これよりさき、朝廷召すところの諸侯らがようやく上京してきたので、十二月八日、朝廷では公卿、諸侯をことごとく召して、左の勅を下された。たまたまわが公は病んでいたので、家老上田学大輔に代わって参内せしめた。

このたび大樹、政権を奉還し、朝廷一新の折から、いよいよもって天下の人心折合い相付かざるにおいては、追々復古の典も行われがたく、深く宸襟を悩ませられ候。且つ来春は御元服並びに立太后追々御大札を行なわせられ、且つまた先帝御一周〔忌〕に相成り候につき、なおさら人心一和を専要に思し食(め)され候間、年来長防の事件、かれこれ混雑これあり候えども、寛大の御処置あらせられ、大膳父子、末家等入洛を免ぜられ、官位元の如くに復せられ候旨仰せ出だされ候事。





 わが公らを擯斥     この日、宮、堂上および薩摩、土佐、尾張、越前、安芸等の諸藩主およびその藩士らは、小御所に会合して、徳川内府の官位降等、采地削減等を議して、徹宵したという。しかも、わが公と松平定敬朝臣らを擯斥して、その議に列席させず、前日の勅旨にもとることも顧みないのは、まことに奇怪に堪えない次第【注一】である。





 【注】

【一 奇怪に堪えない次第】 慶応三年十二月八日夕刻から開かれた長州処分問題の朝議は、翌九日払暁おわり、辰の刻(午前八時)すぎ、摂政・議奏・武家伝奏・国事御用掛はいずれも退朝した。時に中山忠能・正親町三条実愛・長谷信篤、徳川慶勝・松平慶永・浅野茂勲は宮中に留まり、蟄居を免ぜられた岩倉具視を迎え入れた。ついで大久保も参朝、西郷は兵を率いて宮中の諸門を警備、かねてうちあわせていた熾仁親王・純仁親王・晃親王・大原重徳らの公卿、また山内豊信・島津久光が入朝、ここで摂政・関白・征夷大将軍を廃する王政復古の御沙汰が出た。これは大久保・岩倉らが中山を説得し、文久三年八月十八日政変の故知を踏襲し、摂政・議奏・武家伝奏・国事御用掛の参朝を停止し、薩州藩および二、三の雄藩の手で九門を固め、徳川氏を排除した倒幕派中心の新政府を樹立するクーデター計画を立て、これにもとづいての行動であった。

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  1. 2012/11/19(月) 17:51:58|
  2. 京都守護職始末2
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二十九  密勅     『京都守護職始末2』

 賊臣慶喜を殄戮せよ     この月(十月)十三日、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の諸卿から、薩摩、長門の二藩に、左の密勅【注一】を下し賜わったと言う。

詔(みことのり)す。源慶喜、累世の威を籍(か)り、闔族(こうぞく)の強を恃(たの)み、みだりに忠良を賊害し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼(おそ)れず、万民を溝壑(こうがく)に擠(おと)して顧みず、罪悪の至るところ、神州まさに傾覆せんとす。朕、今民の父母として、この賊にして討たずんば、何をもって、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報いんや。これ、朕の憂憤のあるところ、諒闇も顧みざるは、万止むべからざるなり、汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく)し、もって速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安きに措(お)くべし。この朕の願い、敢えて懈(おこた)ることあることなかれ。
 慶応三年十月十三日奉
  正二位 藤原忠能
  正二位 藤原実愛
  権中納言 藤原経之


 これと同時に、わが公と定敬朝臣を誅伐すべき旨の密勅をも下されたと言う。

   会津宰相
  桑名中将
右二人、久しく輦下に滞在し、幕賊の暴を助け、その罪軽からず。これによって、速やかに誅戮を加うべき旨仰せ下され候事。
 十月十四日
  忠能
  実愛
  経之

 
 嗚呼、わが公は、文久二年守護職の大任を受けて登京して以来、六年の間、公武の間に周旋して、幕府をして朝廷に尊崇せしめ、先朝の叡旨によりて公武一和を謀ったのに、はしなくも天譴に触れ、遂にこの密勅が出るに至ったのは、天か、命か。それとも姓駑にして至誠九天に達しないためであろうか。





 疑うべき問答録     最近出版された。岡谷某が正親町三条実愛公に倒幕の詔に関して質問した質問録【注二】というものをみると、

問 倒幕の勅書を薩長二藩に賜わったのは、いかなる次第でしょうか?
答 余と中御門の取り計らいだ。

問 中山公と(のの誤であろう)御名もありますが、これはいかなる次第でしょうか?
答 中山故一位は、名ばかりの加名である。それは岩倉(岩倉具視)の骨折りだ。

問 勅旨と称するものと、綸旨(りんし)との違いはどうですか?
答 薩長に賜わったのは綸旨というべきだろう。

問 綸旨の文案は何人(なんぴと)の起草に係ったものですか?
答 玉松操【注三】と言うものの文章だ。玉松は至って奇人であった。

問 筆者は何人(なんぴと)ですか?
答 薩州に賜わったのは余が書いた。長州に賜わったのは中御門が書いた。

問 右のことは二条摂政(二条斉敬)や親王方と御協議のあったことですか。
答 右のことは二条にも親王方にもすこしも漏らさず、極内々のことで、自分ら三人と岩倉の外、誰も知るものはない。

 
 とある。摂政関白殿下にも知らせ賜わなかったことであるなら、いったい如何なる手続きで執奏せられたのであろう。その手続きが踏んであったのなら、ここに記されてあるべきであるが、何の記載もない。疑うべきの極みである。





 将軍参内     十五日、将軍家は召しによって参内。わが公が扈従したが、その時、左の詔を賜わった。

祖宗以来御委任、厚く御依頼あらせられ候えども、方今、宇内の形勢を考察し、建白の旨趣尤もに思し召され候間、聞こし召され候。なお、天下と共に同心力を致し、皇国を維持し、宸襟を安んじ奉るべく御沙汰候事。

大事件外夷の一条は、衆議をつくし、その外諸大名の伺い仰せ出だされ等は、朝廷、両役に於て取り扱い、自余の議は、召しの諸侯上京の上御決定これあるべく、それまでのところ、支配地、市中取締り等はこれまでの通り、追って御沙汰に及ばれ候事。






 軍職を辞退     これによって、二十四日(十月)、将軍家は左の上奏をして、軍職を事態した。

臣慶喜、昨秋相続仕り候節、将軍職の儀、固く御辞退申し上げ、その後、厚く御沙汰を蒙り候につき、御受け仕り、奏職罷りあり候ところ、今般奏問仕り候次第もこれあり候間、将軍職を御辞退申し上げ奉りたく、この段奏聞仕り候。以上。

 即日、左の裁可を賜わった。

諸藩上京の上、追って御沙汰これあるべきこと。





 わが公の進退     ここにおいて、わが重臣らは、公の進退を評議して、「大将軍がすでに政権を奉権し、軍職を解かれることを奏請したとなれば、元来、幕府が設けた守護職の役を依然として奉職していては、事理を解しないように思われるであろう。その上、幕府を離れて独立することは、藩の遺訓に悖(もと)ることになる。速やかに職を辞されて、幕府と存亡を共にされんことを」ということになった。
 わが公は、この論をきいて、「なるほど、その議も一理あるが、朝廷がお召しの諸侯が上京し、衆議を経る時までは、旧通り幕府が百事を執り行なうようにということである。このことを知っていて、予が急に職を辞退すれば、おそらく軽忽のそしりを免れないであろう」と言われた。
 よって、老中板倉勝静朝臣に相談したところ、まず辞退を止めて、単に進退伺いを出すべしということになり、十一月朔日、左の書を呈した。

この度御改革を仰せ出でられ候については、守護職の儀、如何心得てしかるべきや、伺い奉り候。

 即日、「追って相達し候までは、これまでの通りと心得らるべく候」と指令があった。





 領国へ親書     十月十六日、わが公は、家臣内田武八(この頃、藩の用所、密事頭取の役にあった。密事頭取は幕府の奥祐筆頭取に相当する)を会津につかわし、親書を持たせて、幕臣を戒飭させた。その書面は、

態(わざ)と武八をつかわし候。ここもと容易ならざる形勢は、委曲を家老共より申しつかわし、承知致し候筈に候。この上は拙者の恃(たの)むところは、家老はじめ、一和一力に相成り、あらん限りの力をつくし、累代の御恩を報じ奉り候外、他事これなく候。
右はもとより覚悟の事に候えども、今日俄かにかくまで切迫致し候ことは、じつに不慮の儀に候。この上は、いかなる不慮の儀生じ候も計りがたく、ついても、軍政筋をはじめ改革をもっとも第一の急務と致し候ところ、右は明春、ここもとへ打寄り決議候筈に候えども、前段の都合については、大儀ながら至急に登京致しくれ、ただちに論決の上、万事、今日より手卸し致し候よう致したく候。
しかし、若狭も在国の事にこれあり(これより前、わが世子喜徳公は、九月十一日京師を発して東下した)、ことに留主の儀は古より大任と致し候ことに候えば、これまた申し合わせの上、一人は居残り、国内の儀いささかも案ずる筋これなきよう、破格に吟味をこらし、二百里の外相隔たり候とも、ここもとと合体し、予が苦心を察し、憤発興起致しくれ候よう頼み入り候なり。






 長藩奉命せず     さきに幕府が勅を奉じて、長門藩の重臣と末家の輩を大阪に召したが、来ようとしなかった。この頃になって、長州藩士らが、京師に潜入しはじめたという流説が紛紛と飛んだ。
 そこで、十一月朔日、幕府は左の書を奉って、勅旨を候した【注四】。

長坊の処置重大の事件につき、改めて衆諸侯の公議の上、朝廷より御沙汰あらせられ候御儀と存じ奉り候。

 十四日になって、左の勅が下った。

毛利大膳家老以上上坂のこと、幕府より沙汰これあり候ところ、なお、朝廷より御沙汰これあり候までは、上坂見合わすべき旨、相達せらるべく候事。

 よって、幕府は安芸藩に通牒して、このことを長門藩に通達させたが、長門藩は命を無視して、毛利淡路名代毛利内匠らは国を出て、十二月朔日、すでに摂津の尼ガ崎まで来たとの報があった。そこで幕府は、朝命を伝え、大阪で後命を待つように言ってやった。





 【注】

【一 密勅】 薩州藩は、一旦は土州藩の大政奉還建白の企てに同意したが、本心は挙兵討幕であり、大政奉還の成果を一気にくつがえす秘策、すなわち討幕の密勅降下を画策していた。薩州藩は、西郷、大久保が藩論を指導していたが、藩上層には倒幕を支持せぬものも多く、そのためにも詔勅の権威が必要であった。岩倉具視と手をむすんだ大久保、西郷は、十月八日中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之に詔勅の降下を要請し、岩倉の腹心玉松操の起草した倒幕の詔勅案を中山を経て「上奏」したという。但し「上奏」も「宸裁」も、それを証拠だてる史料は見当らない。この密勅降下は公卿では岩倉、中山、正親町三条、中御門以外は知るものがなかったが、同じ十四日、将軍慶喜は、武家伝奏を通じて、大政奉還の上奏を差し出した。十月十五日、内御所において各親王、摂政以下の正式朝議が開かれ、慶喜の奏請を勅許するその御沙汰書が出た。討幕の密勅が出ると日を同じくして、大政奉還建白が勅許されたことは、討幕の密勅の名義を失わせる効果をもつものであった。

【二 質問録】 岡谷繁実編「嵯峨実愛維新内外事情問録」(史談会速記録)。岡谷繁実(一八三五~一九一九)は館林藩士で、漢学文才に長じ、正親町三条実愛の知遇を得た。征長の役に際し、長州救解のために朝廷・長州間の裏面工作をおこなった。「名将言行録」等の著がある。

【三 玉松操】 一八一〇~七二。侍従山本公弘の第二子に生まれ、幼年、宇治醍醐寺に入り僧となったが、後還俗して山本毅軒、また玉松操と改称した。博学で、とくに皇学に詳しく、岩倉具視の知遇を得、その腹心として謀議に参画した。明治二年堂上に列せられ侍読となったが、新政を喜ばず辞官した。

【四 勅旨を候した】 長州藩は、先に幕府から末家および家老の上坂を命ぜられていたので、これに応ずるとの理由で、徳山藩世子毛利元功、支族吉川経幹の名代として家老宮庄主水、本藩家老毛利内匠に率兵上坂を命じた。そこで幕府はこの企てを阻止するため、末家、家老召致の中止を奏請し、十一月十四日の勅となったのである。

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  1. 2012/11/19(月) 16:15:02|
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二十八  政権奉還の上表     『京都守護職始末2』

 政権部門に移りて二百余年     薩摩藩士小松帯刀、土佐藩士後藤象二郎らは留まって、将軍家に謁し、今日の英断で大綱はすでに定まったから、速やかに上奏あらんことを勧進した。将軍家はこれを採納し、翌十四日、松平定敬朝臣から、左の上表を奉った。

臣慶喜、謹んで皇国の沿革を考え候に、昔王綱紐を解きて相家権を執り、保平の乱により、政権部門に移りてより、臣が祖宗に至り、さらに寵眷を蒙り二百余年、子孫その職を奉ずといえども、政刑当を失うこと少なからず、今日の形勢に至り候も、畢竟、薄徳の致すところ、慚懼に堪えず候。いわんや、当今外国の交際日に盛んなるより、いよいよ政権一途に出で申さず候わでは、綱紀立ちがたく候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷へ帰し奉り、広く天下の広義をつくし、聖断を仰ぎ、同心協力、ともに皇国を保護仕り候わば、必らずや海外万国と並び立つべく、臣慶喜、国家につくすところこれに過ぎずと存じ奉り候。なお、見込みの儀もこれあり候わば、申し聞けるべく旨、諸侯へ相達し置き候。この断、謹んで奏聞仕り候。以上。

 この日、帯刀、象二郎らは二条殿下に謁し、将軍家よりの上表を速やかに允裁あるべきを勧め、また二条城に登城して、老中に謁して、上奏がただちに勅裁ありそうな情勢であることを告げ、なお、、細目などは、不日建議すべき旨を陳べて退いた。

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  1. 2012/11/19(月) 16:00:40|
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二十七  政権奉還の議起る     『京都守護職始末2』

 公然たる廃幕論     この時にあたり、雲上の風色はまったく一変して、次第に幕府を疎外するのみならず、ややもすれば欠点を挙げて、これを強調し、公然と廃幕を囂々(ごうごう)するに至った。
 ゆえに、わが公が一歩退けば、たちまち公武の間は全く疎隔し、また一歩進めば、たちまち朝議の紛乱を招く有様である。ただわずかに、先朝から信頼を寄せていられる二条殿下と中川宮から、朝廷の消息を伺うのみで、それだけが、からくも公武一和をつなぐ一すじの細糸であった。





 後藤象二郎来る     果せるかな、十月四日、土佐藩士の後藤象二郎が、わが藩士に会見を求めてきた。そこで、外島義直と手代木勝任、上田伝治に合わしめた。象二郎が言うには、
「方今天下の形勢は、外患日に迫り、内は人心和せず、今、一大革新を断行しなければ、おそらく手のつけられない事態に至るであろう。寡君は憂慮措くあたわず、ひそかに思うには、方今、朝命と幕命とが二途に出て、往々適従するところに迷わしめ、特に外国交際のごときは、最も至難を極めている。これを善処するには、政令が一途に出て、人心の帰嚮を一定するの一あるのみ。そもそも徳川氏が政権を執って以来三百年になる。どうして幕府が百世もつくづくことがあろうか。今や政権を万世一系の皇室へ返し奉り、この時勢の危殆を挽回し、国威を日々に新しく拡張し、皇室を泰山の安きに置くのには、ただこの一策があるのみ、と涙をふるって、二、三の家臣に命じ、今回、政権の奉還を幕府に建議した。わが藩と貴藩とは、日頃交誼親眤の間柄であるから、腹心を吐露して申し上げるのだ。どうかこの議に賛助してほしい。万一あるいは賛助されないとしても、わが藩ではこの議を中止するわけにはいかない。すでに他の一、二藩と約するところがあり【注一】、期限もまた旦夕に迫っているゆえに、告げる次第である」
 と言った。わが家臣は、帰って報告した。
 すでにして、将軍家もまたわが公を召して、土佐藩の建議を示し、採納するつもりでいるとの意中を告げた。わが公は、その英断を賞揚し、遂に政権奉還の議は決した。
 わが公は家臣を諭して、「政権が将門に帰してより、皇室の式徴は、志あるものの常に慨嘆するところであった。今や大将軍家は、大義に照らし、時勢に鑑みて、断然明決された。これよりはその意を体して、ますます忠誠をつくし、万一の報効を勉めねばなるまい。汝らも、よくこの意を体し、努力して事に従え」と言われたので、一同粛然としてその命を奉った。
 この日(十月四日)、後藤象二郎が二条城に登城し、老中板倉勝静朝臣を通して「今日の急務は、よろしく天下の広議を集め、一新更張の方針をとり、皇国独立の基礎を鞏固(きょうこ)にし、それによって外侮を防ぐことが第一である。事一日おくれれば、一日だけ宇内の大勢からおくれることになる」と上言した。
 勝静朝臣はこの言を採納し、さらに諸藩の意見を諮詢したいと答えた。





 各藩の意見を徴す     十三日(十月)、幕府は在京五十余藩の重臣らを二条城に召し(わが藩は内藤信節、外島義直、広沢安任らが登城した)、将軍家みずから左の書を示して、意見を徴した。

わが皇国、時運の沿革を観るに、昔王綱〔天子のおきて〕紐を解きて、相家権を執り、保平の乱【注二】、政権部門に移りしより、わが祖宗に至り、さらに寵眷(ちょうけん)を蒙り二百余年、子孫相受け、われ、その職を奉ずといえども、政刑当を失うこと少なからず、今日の形勢に至り候も、畢竟、薄徳の致すところ、慚懼に堪えず候。いわんや当今、外国との交際日に盛んなるより、いよいよ朝権一途に出でず候わでは、綱紀立ちがたく候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し、広く天下の広議をつくし、聖断を仰ぎ、同心協力して、ともに皇国を保護し、必ず海外万国と並び立つべく、わが国家につくすところ、これに過ぎず候。さりながら、なお見込みの儀もこれあり候わば、いささかも忌諱を憚らず申し聞かすべく候。





 【注】

【一 他の一、二藩と約するところがあり】 慶応三年六月、土州藩の後藤象二郎は、山内豊信の命によって長崎から京都におもむく時、坂本竜馬とともに立案したのが、「船中八策」といわれるもので、政権を朝廷に帰し、広義政体の採用によって新政を樹立する方策であり、在京藩重役の同意をえて、これにもとづく大政奉還の建白をすることに決した。そこで象二郎は、薩州藩士小松帯刀、西郷吉之助を説き、その同意をえ、ついで芸州藩家老辻将曹とも会談し、賛成をえた。七月象二郎は、藩地の意向をまとめるため帰藩し、山内豊信の同意をえて、正式の藩論を決した上で、九月四日京都に帰った。しかしこの二カ月の間に、薩州藩の西郷と大久保は、挙兵倒幕の方針を実現する準備を急速にすすめていた。そして、大久保は薩藩の代表として長州を訪問し、九月十九日木戸孝允、広沢真臣ら長藩代表との間に、出兵盟約をむすび、別に薩州藩主島津茂久の弟島津備後は、九月十七日入京した。上京した後藤は、小松、西郷と合ったが、西郷は挙兵倒幕の計画を語って、大政奉還に関する貴藩との盟約を破棄する旨申し入れた、後藤は、芸州の辻の賛成をえて西郷説得に努め、ようやく十月二日、建白の提出に異論ない旨の言質をえたのである。こうして十月三日、後藤は老中板倉勝静を訪れ、山内豊信よりの大政奉還建白書を提出した。

【二 保平の乱】 保元平治の乱の略。保元の乱は、保元元年(一一五六)鳥羽法皇と崇徳上皇との不和を中心として起り、藤原頼長が崇徳上皇を奉じて政権をとろうとして、源為義、源為朝らを味方にして挙兵したが、官軍の源義朝、平清盛の軍に敗られ、上皇は讃岐に遷された戦乱。平治の乱は、平治元年(一一六〇)藤原信頼と源義朝が京都で謀叛を起し、源氏が平氏の軍に破られた戦乱。なお、第一四章注一参照。
この二つの戦乱によって、朝廷と藤原氏の勢力はとみに衰え、源平二氏を中心とする武士階級の興る気運がひらかれた。

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  1. 2012/11/19(月) 15:55:18|
  2. 京都守護職始末2
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二十六  嗣子余九麿初めて参内する     『京都守護職始末2』

 従五位下若狭守     六月九日、わが藩の嗣子余九麿が、はじめて将軍家に謁見した。将軍家は、この日、特にわが公父子を便殿に召して、宴を賜うた。
 六月二十八日になって、将軍家は余九麿を召して、親しく首服〔元服〕を加え、奏請して、従四位下侍従兼若狭守に叙任した。慶喜の喜の字を偏諱して、喜徳と名のらせ、刀一口(豊後定行作)を賜うた。わが公父子は謝礼として、太刀、馬代、巻物などを献上した。その他、静寛院宮【注一】、天璋院殿【注二】、御台所【注三】にそれぞれ献上物をした。
 越えて、七月二十三日、わが公は世子とともに参内し、任官、叙任の恩を謝し、天顔を拝し奉った。ただし、先帝の諒闇中なので、天盃を賜わることはなかった。
 これよりさき、わが公は春以来の病痾が全く癒えず、ややもすれば発病して、たちまち重きを加えることがしばしばであった。思うに、去年の大喪に、哀痛の極み、鬱憂が疾病を招来したものと思われる。家臣共はこぞって日夜痛心し、将軍家もまた憂慮された。





 東帰許可の事情     さきに幕府は、わが公の東下の内請を許しておきながら、言を左右に託して、なお、その東帰を許可しない。六月に入って、病状がすこし軽くなった。そこで、家臣を中川宮、摂政殿下、勝静朝臣のもとにやって、東帰の許可の催促をした。
 当時、在京の重臣から会津にいる重臣に送った書簡中、その時情を知るに便であるので、左に掲げる。

当十二日、板倉様へ罷り出で、主人御暇の儀、出勤致し候わば、早速御沙汰下され候よう、かねがね厚く仰せ聞けられ置き下され候ところ、ようやく当朔日出勤仕り候えども、今に何の御沙汰もこれなく候。
いかようの御都合御座あるべきや、相伺いたく罷り上り候旨申し上げ候えば、ことごとく御出勤に相成り候わば、早速御暇を仰せ出だされ候筈に候ところ、委細相弁じ候通り、今般、四藩出京しての建言等の儀については、只今御暇(おいとま)と申す所にも至り兼ね候儀に候えども、元来、止むをえざる次第これあり御暇下され候筈に候えば、この節御暇下され候外これあるまじく候えども、一旦罷り下られ、それのみにて登京致されざる含み等これあり候ては、必至と相成らざる旨仰せ聞けられ候につき、その段は、かねて御請合も申し上げおき候儀にもこれあり、且つ一年なり一年半なり御暇下され候年限中なりとも、事変と承り候わば、すぐさま駆け戻り候儀に御座候間、その段は決して御懸念下さるまじき旨を申し上げ候えば、御暇下され候に至り候ても、余九麿殿、年始、八朔、五節句【注四】の登城の儀相伺われ候うえ、御元服、首尾よくすまさせられ候うえにこれなく候わでは、相運ばざる義に候間、右伺い、急に差し出され候よう致したく、且つ摂政様、宮〔中川宮〕様にも、先だっては、御暇の儀止むをえざることと御決着に相成り居り候儀に候えども、御懸念もこれあり、この節に相至り候ては、いかが思し召し候や、なお右御両方へも、最も一応相伺い候うえ相運ぶべき旨、御懇切に仰せ聞けられ候につき、若殿様御登城御伺いの儀、早速取り計らわせ候ところ、一昨十三日、御伺いの通り仰せ進められ、且つ同日に摂政様へも罷り上り、御名(容保)御暇の儀、今に御沙汰御座なく候につき、板倉様へ罷り上がり御催促申し上げ候えば、なお御評議下さるべき旨、仰せ聞けられ候ところ、幕府より御伺い下され候わば、早速御暇下され候よう御含み下しおかれたき旨申し上げ候えば、この節に相成り候ては、別して御名殿を御留め申したきことは山々に候えども、只今強いて御留め申し候ては、御家の御ためにならざるはもちろん、押上げ天幕の御為に相成らざる儀につき、御暇下され候外これなく、委細は先だって、国情止むをえざる次第を承り留め候うえは、きっと決心罷りあり候儀に候えば、差し含み居り候はもちろんに候間、幕府の方へよく申し候よう、且つまた御暇下されて然るべしとの評議の節、宮には、只今会津家へ御暇を下され、もし跡に事変これあり候わば、いかがなされ候やなどと、御不承知の御口上等これあり候ては不都合に候間、宮へもとくと申し上げおき候よう、しかしながら、一旦罷り下り、それのみに致され候ては、決して相成らざる儀に候間、この段は、その方共も厚く相心得罷りあり候よう仰せ聞けられ候につき、御名様はもちろん、私共に致し候ても、ここもとを引き離れ候事はぞっこん相好まざる儀に候えども、かねて申し上げ候通りの件々、止むをえざるの次第これあり、御暇相願い候儀にて、事変これあり候わば、すぐさま罷り登り候儀にて、下りきりにいたし候所存など毛頭御座なく候間、その段はいささかも御懸念なし下されざるよう仕りたき旨、申し上げ候儀に候。
御名殿御暇については、その方ども、誰が残り候や、これまでよりも心易く、節々尋ねくれ候ようなどと、いろいろ御懇切の御事共にて、御一人様御居り等までも仰せ聞けられ候段々、深く深くありがたき仕合せと存じ奉り候旨、厚く御礼申し上げて退き候儀に候。
昨十四日、賀陽宮様へ罷り出で、摂政様、伊賀守(勝静朝臣は、この頃伊賀守と称していた)様へ申し上げ候都合をもって、逐一申し上げ候えば、先だってとは時勢も違い候ゆえ、御暇下され候外これあるまじくと存じ候えども、当節の形勢次第に切迫致し候。この末の見込みなどつきかね候儀、薩州なり、長州なりが暴動致さざるも、畢竟会津家を憚り候ゆえの儀に候間、今しばらく見合わせ候ようにと仰せ聞けられ候につき、主人罷り下り候とも、余九麿罷りあり、私共はじめ人数もそのまま残り居り候儀に候間、右の御懸念はさしてこれあるまじき旨申し上げ候えば、たとえ余九麿罷りあり、人数も残し置き候とも、御名罷りあり候程には、とても行き届かざるは顕然にて、且つ御名罷り下り候わば、容易に出京はこれあるまじくと、この段も案ぜられ候趣、仰せ聞けられ候につき、かねても申し上げ候通り、私の勝手をもって御暇相願い候には毛頭御座なく(中略)、御暇下され、罷り下り、再度罷り登らざる所存等毛頭御座なく、御暇下され候年限中なりとも、事変これあり候わば罷り登り候はもちろん、たとえ途中よりなりとも駆け戻り候儀にて、その段はきっと覚悟罷りあり候間、決して御案思下されざるよう仕りたき旨申し上げ候えば、大いに御うなずきの御様子にて、段々申し候趣もこれあり候については、御暇下され候外これあるまじく候えども、再度登京致さざる含みなど、いささかもこれあり候ては、必至と相成らざる儀、その方共も、きっと心得罷りあり、御用これあり、召され候わば、たしかに急速に登京致し候よう、せいぜい致すべき旨仰せ聞けられ候につき、その段きっと御請合い申し上げ、御暇の儀懇願致し候えば、差し含み罷りあるべき旨、仰せ聞けられ、且つ右については、余九麿にすこしも早く参内これあり候よう致したき旨、仰せ聞けられ候につき、そのへんの所も、よろしく願い奉り候旨を申し上げて退き候儀に候。(下略、六月十五日付)






 中川宮の憂慮     しかるに六月十六日、中川宮がわが家臣内藤信節を召して語られるには、「今日、諸公卿が俄かに参内して、殿下に何か要請しようとしているそうである。それで、殿下も、予も、病気と言って参内せず、しばらく彼らを避けて、動静を見ていようと思う。おそらく彼らの要請の大意は、毛利敬親父子の官位を復し、すみやかに上京させ、また大樹をしりぞけ、老中板倉伊賀守、小笠原壱岐守(長行朝臣、この頃壱岐守と称していた)、大目付永井玄蕃頭などを長門藩に引きつれてゆこうということと思われる。目下の情勢はかくのごとくで、如何ともなしがたい。ゆえに、宰相(わが公)が輦下に留まって、守護に精励してくれなければ、京師はたちまち不測の変を生ずるであろう。汝らも努力してほしい」ということであった。





 薄氷の上の幕府     ついで八月八日、将軍家もまたわが公を召して、親しく目下の情勢を縷々説明し、「殊に薩、土、肥前等が毛利敬親父子の官位復旧のことなどを建議し、先朝の勅詔をことごとくひるがえそうとしている。しかも朝廷は、このことを秘密にして、予に与り聞かせまいとしている。幕府の危いことは、じつに薄氷を踏むようである。一歩を誤れば、たちまち天下は擾乱となろう。ゆえに、卿も病気を勉め、東帰の念を断ち、在京して補翼されたい」と、寄命すこぶる懇篤であった。
 しかし、わが家臣の中には、なお前議をすてず、強いて東下の要請を議論するものもいた。
 わが公はこれを慰諭し、「わが藩の宗家との関係は、列藩と同じようには考えられない。宗家と衰退存亡を共にすることは、藩祖の遺訓である。今この危急の際に、宗家のひとり倒れるのを見るには忍びない。畏くも先朝の叡旨を奉体して、公武一和のため斃れて止むのみである」と言われた。
 家臣は言う言葉がなく、涙を呑んで大息するのみ。ふたたび東下を口にするものはなかった。





 【注】

【一 静寛院宮】 前将軍家茂夫人。和宮。一巻一九頁注六を見よ。

【二 天璋院】 前々将軍家定夫人。

【三 御台所】 将軍慶喜夫人。今出川実順の妹。名は省子(のち美賀子)。

【四 八朔、五節句】 八朔は陰暦八月朔日のこと。この日農家では、新穀を収めそれを祝う。五節句は、正月七日(人日)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、七月七日(七夕)、九月九日(重陽)の五つの式日。
 

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  1. 2012/11/19(月) 15:39:45|
  2. 京都守護職始末2
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二十五  わが公再度参議の恩詔を拝し、これを受ける     『京都守護職始末2』

 わが公感激す     二十三日、わが公は召しによって参内、伝奏衆飛鳥井雅典卿から、左の勅を伝えられた。

先帝の叡慮を遵奉、永々守護の職掌を相励み、その功少なからず、叡感候。これによって、参議に推任され候事。

 また命があり、再度の推任であるから固辞しても允(ゆる)さないということであったので、わが公は、恩命の至渥に恐懼し、それでもなお辞退の念があったので、このことを重臣たちに謀った。重臣たちは口をそろえて、「先帝の叡慮伝々とあり、特に固辞しないようにと言われたのを、さらに押して辞退するのは非礼にあたりましょう」と言う。
 そこで、ただちに幕府に稟し、五月二日、左の上表をして恩を謝した。

不肖の容保、守護職を命ぜられて以来、先帝の海嶽の厚眷、かつて分寸の功労もこれなく、恐懼仕り居り候ところ、料(はか)らずも天崩れ、地折れ、臣の慟哭、この上なく御座候。なお、報恩の道を日夜に心配仕り候えども、今上〔天皇〕御継述の日なお少なく、臣将順の儀も未だ浅し。
しかるに今般、存じ寄らず先帝の叡慮を遵奉し、永々守護の職掌を相励み、その功少なからずとの叡感思し召され、参議に推任せられる旨仰せ下され、伏謝して感泣す。すでに先年、参議を推任せられるの旨、御沙汰を蒙り、臣が不肖の堪ゆるところにこれなきをもって、先祖正之へ御追贈の儀を願の通り仰せつけられ、臣が栄耀これにすぎざる儀に御座候。
然るところ、またまたこの度の御寵命、重々の天恩、幾重にも辞謙申し上ぐべき儀に御座候えども、微衷を御垂憐のうえ、両朝のかくまでの御重命をこの上固辞仕り候ては、かえって恐縮至極に御座候間、その趣を幕府へも相伺い、謹んで御請け申し上げ奉り候。以上






 四藩主の建白     四月二十三日、慶永卿、豊信朝臣、久光朝臣、宗城朝臣が左の書状を幕府に奉り、意見を述べてきた。

天下の大政は公明正大、至公の極をつくし、明世的当、内外緩急の弁を明らかにし、御施行御座なく候わでは、相行なわれがたき儀もちろんに候。全体救うべからざるの今日に至りたる根由を推察仕り候えば、はばかりながら幕府の年来の御失体より醸し出され候。殊に長防再討の御一挙より、物議沸騰し、天下離反の姿に相及び候次第に御座候。
これによって、明日至当の筋をもって防長御処置急務たるべく、兵庫開港、防長の事件は、大いに緩急、先後、順序あるの段談合の上、しばしば建言仕り候儀にて、とくと退考仕り候ところ、右区別をもって曲直、当否の分を立てさせられ、御反正の御実跡の顕(あら)わるると顕われざるとに相拘わる事につき、虚心をもって御反察あらせられ候よう願い奉り候。
二件につき、朝廷に奉せしめらるべき旨拝承仕り候えども、全国の御安危に関係仕り候につき、是非、至公至大の道をもって、私権を抜かせられ、治久の大策を立てさせられ候よう御座ありたく、重大の事柄黙止しがたく、なお再考の趣言上仕り候。誠惶敬白。(五月二十三日


 これでみると、けだし防長のことを先にし、兵庫のことを後にずべしと言っているもののようである。





 衆論嗷々     二十四日、朝廷は諸侯を召し、この問題を延議せしめたところ、衆論嗷嗷として、ようやく翌朝になって、開港の止むをえないことに決定した。そこで、朝廷は左の勅令を配布した。

長防の儀、昨年上京の諸藩と、当年上京の四藩等、各々寛大の処置を御沙汰あるべく言上、大樹に於ても、寛大の処置を言上これあり、朝廷にも同様に思し召され候間、早々寛大の処置を計らるべきこと。
兵庫開港のことは、元来容易ならず、殊に先帝止めおかせられ候えども、大樹、余儀なき時勢を言上し、かつ諸藩の建白の趣もこれあり、当節上京の四藩も同様に申し上げ候間、まことに止むを得させられず、御差し許しに相成り候。ついては、諸事きっと取締り相立て申すべきこと。
  五月二十四日


 追達
兵庫止められ候こと、条約結約【注一】のこと、右取り消され候。


 この日、久光、豊信の二朝臣は、朝議に参列しなかったのに、「四藩も同様に」云々の言葉があるのは、怪しむべきことのようである。





 再び四藩主建白     つづいて、二十六日に至って、四人の人々が上書【注二】して、意見を述べてきた。その書面いわく、

兵庫開港、長防処置の一件は、当時容易ならざる御大事と存じ奉り候。全体、幕府の長防再討の妄挙は、無名の師を動かし、平威をもって圧倒致すべき心づもりに候ところ、全く奏功に至らず、天下の騒乱を引き出し候次第ゆえ、各藩人離反して、物議相起り候時宜に御座候。ついては、即今、国基を立てさせられ候急務は、公明正大の御処置をもって天下にのぞませられず候わでは、一円治り相付かず候。
長防の儀は、大膳父子の官位旧に戻し、平常の御沙汰に相成り、幕府反正の実跡相立て候儀第一と相心得申し候間、断然明白の実蹟相顕われ候うえ、天下の人心はじめて安堵仕るべく候。第二に、兵庫開港は、時勢相当の処置を立てさせされ、順序を得申すべくかねて勘考仕り候。先に御下問を蒙り候えども、未だ一同、勅問に対しお答え仕らざるうち、前文二件、順序区別をもって幕府へしばしば申し出でおき候ところ、一昨二十四日、長防の儀は寛大の処置を計らるべく、兵庫開港の儀は、当節上京の四藩も同様に申し上げ候間、まことに止むを得させられず御差し許しに相成り候云々の御沙汰の御書付を拝見し、じつもって意外の次第、驚愕に堪えざる仕合わせに御座候。
朝廷よりの御沙汰の儀なれば、容易に申し上げ奉るべき筋これなく、甚だ恐縮の至りに存じ奉り候えども、皇国の重大事なれば、事実相違の儀を黙止し罷りあり候場合に御座なく候間、止むをえず、一応御伺い上げ候。以上。(卯年五月二十六日)






 薩長提携成る     敬親の家臣らが禁闕に向って発砲したごときは、その罪を免かるべきでないことである。しかるに、それを今、何のいわれもなく、官位の復旧を論議するなどとは、じつに理解できないことである。また、「無名の師」云々の口実も、前に論じたごとく、慶勝卿の退兵を曲解したもので、再征と称するが、じつはこれも再征でなくして、退兵したのを再度集合させたにすぎない。
 思うに、この頃、薩長の提携全く成り、薩摩は幕府を攻める口実として、長州再征問題を言い出したのであろう。それにしても、慶永卿らの意中こそ奇怪至極である。





 【注】

【一 条約結約】 『徳川慶喜公伝』によれば「条約結改」となっている。条約改正の意味である。

【二 四人の人々が上書】 四月二十三日の松平慶永・山内豊信・島津久光・伊達宗城連署の建白書は、長州処分を寛大にして、この問題を解決するを先決すべしという勅旨であった。これにたいし幕府は兵庫開港の勅許を主眼としたが、四侯の建議に鑑み、長州処分と兵庫開港の同時解決を奏承することとした。朝議には、慶永、宗城のみが加わり、摂政の要請にもかかわらず、久光は病と称して応じなかった。薩州藩は、二十四日の御沙汰書中に、四藩と幕府と同意見のように扱っているのは、事実と相違していると不満をもち、この点を明らかにする伺書を朝廷に出すことを越前・土州・宇和島に交渉した。宗城はただちに同意し、慶永・豊信は強いて反対しなかったので、薩州藩の手で、二十六日付伺書を四藩の名で提出することとなった。
思うに、薩州としては、異論のきわめて多い両問題につき、幕府と責任をともにするのを嫌ったのである。慶永は、他の三藩と幕府との間を仲介しようとしたが、幕府としては、長州藩の嘆願書の提出をまって、藩主父子の官位復旧、領地安堵の処置をとることで、自己の両目を保とうとし、この方針を固辞したため、慶永の尽力も奏効しなかった。
八月四日、朝廷は、先の四藩の伺書にたいする返答の御沙汰書を出した。その内容は、長州処分の寛大と兵庫開港は幕府と同一なので、御取捨の上仰せ出されたのだというあいまいなもので、慶永は服したが、久光と宗城は承服せず、再度伺書を出した。こうして四侯と幕府・朝廷との関係は悪化したので、慶永・久光・宗城は八月に帰藩してしまった(豊信は早く五月帰藩)。
すでにこの時薩州の藩論は、倒幕の実行にかたまり、倒幕のための薩長芸同盟締結の交渉に着手していた。

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  1. 2012/11/19(月) 15:27:10|
  2. 京都守護職始末2
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二十四  天皇の御不予ならびに崩御     『京都守護職始末2』

 御疱瘡御悩     その頃、京師に疱瘡(ほうそう)が流行していた。この月(十二月)十八日、禁裏裡付【注一】の松平若狭守が、わが営に急使を馳せて、天皇の御悩の由を報じた。
 わが公は愕然として、馬を駆って参内し、天機をうかがい奉ったところ、御疱瘡に決定したということであった。よって数刻、殿上に伺候し、また家臣に命じて九門外を警邏させ、非常を戒めさせた。
 それ以来、日々参内して、御容子をうかがっていたが、二十五日夜半になって、御容態が悪化し、危篤との報を聞いて、参内し、天機をうかがい、暁になってひとまず退出したが、ふたたび参内して殿上に伺候すること連日に及んだ。





 践祚の儀御治定     二十六日、摂家および大臣、伝議の両奏衆が左の事項を奏上した。

一 御大統の儀御急決のこと。

一 殿下へ摂政を宣下のこと。

一 賀陽宮、御出勤のこと。

一 外戚の御取扱いのこと。

一 幽閉の堂上赦免のこと。

一 時宜次第、伝議へ警衛を付け、刀を添え候こと。


 これに対して勅裁があったので、摂家、大臣、伝議の両奏衆が小御所に列座して、殿下から左の勅を伝宣された。

一 主上御不予につき、親王受禅【注二】あるべきのところ、御大切、御残念ながら践祚御治定仰せ出だされ候こと。

一 准后、立后【注三】のこと、親王の思し召しあらせられ候間、明後年の春、立大后冊命(さくめい)と御治定のこと。

右につき、親王、准后へ一両日中に参賀のこと。


 二十八日、詔があって、関白二条斉敬公を摂政となした。





 億兆慟哭す     二十九日、辰の刻〔午前八時頃〕に、天皇は崩御【注四】された。
 天下諒闇【注五】の勅命が布かれ、億兆の蒼生は慟天哭地、天地はために晦冥となった。
 いわんや、京師守護の重職を奉じ、親しく聖旨を奉戴して、万一の報効を期していたわが公の悲しみにおいておや。公(おおやけ) のことにしてみても、公武一和の叡望は未だその基礎ができあがらず、国家の大勢が帰するところを知らないのに、俄然、大喪に際会し、人心は恟々として、統一して頼るべき所を失い、百事ほとんど去らんとする有様である。私事として考えてみても、数回にわたる優渥の聖詔が髣髴として今なお耳に聞えてくる。当時を追想するごとに、哀痛きわまって、腸を断つ思いであり、暗涙千行、満腔の遺憾はどこにも訴える所がない。
 遂に慶応二年も暮れていった。





 暗躍日々に多し     明くれば慶応三年丁卯、天下は諒闇であるので、雲物暗澹として、春もまた春でないようであるのに、諸藩士らは大喪中を憚るところもなく、かえって人心の沈憂しているのを機として、ひそかに宮堂上の間に入説するものが、日一日と多くなった。
 そのため、遂に公卿たちの間でも、互いに党を樹てて相軋轢(あつれき)し、伝奏衆の野宮定功卿のごときも、今は変心して、この月(正月)八日、中川宮に書を呈して、国事掛を辞任されるように勧めるに至った。





 中川宮の辞意     これよりさき、将軍家はわが公と謀って、殿下および議奏衆を通じて宮の参朝を促していたが、宮はふたたび紛議の生ずるのを慮って、たやすく応じようとされなかった。将軍家は、野宮のことを聞くに及んで、左の書を殿下に呈し、宮の辞職を引き止めた。

昨日はゆるゆる御対顔、謝し奉り候。しからばその節、御談し御座候賀陽宮〔中川宮〕の御進退の儀は、なおまた再応熟考仕り候えば、なにぶん不慮の次第より永々御引込みに相成り、今さら御所労とは申しながら、御大喪にのぞみ、御棺拝も相成りがたきようにては、なんとも恐れ入り候のみならず、御事体に於ても如何。且つこれまで皇国の御為、一と方ならず厚く御尽力も御座候儀ゆえ、是非御出仕あらせられ候ようこれなく候わでは、天下の耳目も如何これあるべきや。ついては、御国事掛御迷惑にて御願書等御座候とも、早々差し留められ、御出仕相成り候よう、よろしく御評議の程願い奉り候。
心付きに任せ、申し上げ候。早々頓首。


 しかし、時事日々に非であるのを知って、宮は心安んぜられず、遂に辞表を呈したが、殿下はこれを却けて、懇諭再三、ようやく二月十三日になって参朝あり、旧通り、朝議に参列された。





 大喪の恩赦     十五日、朝議は大喪による大赦を行ない、壬戌の年勅勘を蒙った人人、九条円心ら、甲子の年勅勘を蒙った有栖川宮その他堂上十余人に恩赦があった。作冬建言に座して【注六】勅勘を蒙った人々、常陸宮〔山階宮晃親王〕以下二十余人にもまた、恩赦の命があった。





 征長解兵を奉請     その時、幕府はまた、大喪によって征長の解兵を奏請しようとして、この日(二月十三日)、わが公と定敬朝臣を召し、将軍家に代ってこれを奏上するように命じた。
 わが公は、これを不可とし、「征長のことは、先帝の宸断に出て、当時の聖詔が未だ耳にのこっているほどである。しかるに、それを今、幕府から進んでこれを翻えそうとするのは、どういうつもりなのか、容保はじつにその可否に惑う。この使命はあえておことわりする」と辞退した。将軍家もまた強いてとは言わず、ただ旧のごとく職務に精励するように、と慰諭した。
 幕府は改めて、老中板倉勝静朝臣と所司代松平定敬朝臣に、征長解兵の奏請を命じた。





 わが藩士の怒り     わが藩臣らは、これを聞いて怫然として、
「征長のことは、じつに先帝の宸断に出たことで、当時、賊輩は禁闕に発砲し、兇逆の挙動、今なお歴歴として眼に浮かんでくる。わが公は病を勉めて、露営暁に達し、じつに櫛風沐雨の苦難を重ねたものである。以来、征長出師(すいし)の挙あるや、旗下および先鋒の諸藩の兵はおおむね怯懦で、毎戦利を得ず、いたずらに賊の勢いを猖獗ならしめた。ゆえに当大将軍御相続のはじめに、親征を勧め、わが公が一方の攻め口にあたることを請うたときも、逡巡して決せず、つづいて今また休戦を持ち出し、解兵を奏請するとは、そもどういうことなのか。いったい幕府は、叡旨を奉行することもできず、軍職にありながら武力を発揚することもできず、尽言を進めても採用もしない。また、わが公に大政に参与するように命じておきながら、これほどの大事を決定するのに、わが公に相談もなく、今ではもはや、輔翼の道は絶えた。顧みるに、わが公の今日までの報公で、いささかながら天恩の万分の一は報い奉ったし、宗家への義務もつくした。その上、藩祖公への遺訓にも背かなかったと信ずる。今はただ一刻も早く職を辞して、領土に帰るにしくはない。けだし、今がその時機である」
 と、甲論乙和、慷概の気運怫然たるものがあった。公はこれを慰諭されたが、わが藩臣らの議論がようやく過激になっていったのは、じつにこのことに起因している。
 正月二十九日、朝廷では、大行天皇【注七】を泉涌寺の陵に葬り、諡(おくりな)を孝明天皇と上(たてまつ)った。





 わが公辞意を決意     これよりさき、またわが公は病いがちで、十日あまり政務を見ないでいたが、この日、病を勉めて参内し、清涼殿西廂で御柩(ひつぎ)を拝し奉った。
 薄暮、御柩が出御あった。摂政、大将軍および諸公卿、守護職、老中、所司代等が扈従し奉り、儀式が終って、二月朔日、わが公は京師に帰った。
 ここにおいて、わが公は重臣を召して、「不肖容保、守護職を、奉じて以来、天恩の優渥、じつに海山にも比べられない。すでに大葬も終った。顧みるに方今の情勢からみて、容保の帰国は、かえって宗家のために益となるかもしれない。よって守護職を辞して、国に帰ろうと思う」と言われた。重臣等は、一人も意義はなかった。そこで、辞表を出すことに決めた。
 超えて五日、老中稲葉正邦朝臣が定敬朝臣とともにわが営に来たり、面会を求めた。わが公は病中であったので、ことわった。
 二人は、将軍家の内旨を持って来たと言うので、やむなく面会すると、二人は、病を勉めて旧のごとく奉職するようにとの台命を伝えた。わが公は先の理由を述べて、命に従わなかった。
 十一日(二月)、明日さらに辞表を幕府に呈出しようとして、重臣を二条殿下のもとにつかわし、そのことを幕府が上奏してきた場合には、速やかにお允(ゆる)しあるようにと内請し、またそのことを所司代定敬朝臣に告げ、翌十二日、辞表を幕府に呈した。
 時に、将軍家は大阪にあり、はるばる旨をさずけて、在京の老中板倉勝静朝臣、所司代松平定敬朝臣をつかわし、「辞表の趣旨は諒解するが、長防の処置が未だ終局せず、今俄かに裁可することはむずかしい。よって、旧来通り奉職するように」と諭し、また、わが家臣田中玄清、梶原影雄(平馬)をその席に召し、深く慰諭してわが公の辞意を止めさせようとした。玄清らは、公の帰邑がやむをえない事情を縷陳した。





 帰国中止の懇望     定敬朝臣らは、なおも諭して、「中将がしばしば辞職して北へ帰ろうとされる。公私のため、まことにやむをえない至情の程は、全く無理もないことで、速やかに允許あらせらるべきではあるが、近頃、薩摩藩が続続と大兵を京師に入れるにもかかわらず、跋扈を逞しうしないのは、中将が大兵を引きつれて、輦下にあるためである。中将が一度足をぬけば、どのような変が起るかも測られない。願わくば、北下のことはしばらく時機を待ち、旧のごとく職務に励精せよとの台命を奉体してほしい」ということであった。
 十八日、老中勝静朝臣は、わが家臣野村直臣と手代木勝任を招いて、将軍家の内諭をねんごろに告げ、左の手書を伝えた。

この程以来不参候ところ、所労如何の御様子に候や、甚だ案じ申し候。追々長引きに相成り候につき、かれこれの世説も差し起り、掛念少なからず候間、いささかも収まり候わば早々出勤致すべく、且つ種々の内情もこれあるべく候えども、方今容易ならざるの時勢にて、長防の処置も全く片づき申さず、内外多端の折りから、年来の苦心、ここに至り貫徹これなきようにては、我等に於ても不本意の筋につき、右の辺年寄共より家臣へ向け、委曲申し談じ候間、とくと承わり届け、一藩内の折合いよろしきよう幾重にも勘弁致し、速やかに出勤の程、頼み存じ候也。





 英兵庫開港を迫る     これよりさき、英国公使が江戸にあって、兵庫開港を促すこと頻り【注八】で、留守の老中共も、延期の言葉に窮していた。そのため、英国公使はますますこれを迫り、遂に、みずから帝都に入って談判すると言い出した。老中の人々は、このことを大阪に急報した。
 将軍家は遂に意を決して、これを奏請するため、急にわが公を召した。
わが公は病を勉めてうかがい、また時勢のやむをえないのを察して、その議に賛同し、三月十二日、ともに参内して奏請した。その大意は、

一昨丑年〔慶応元年〕の十月中、条約勅許の節、兵庫は止められ候旨御沙汰の趣、早速外国人へ申し渡すべく候ところ、さ候ては、たちまち瓦解に及び、折角平穏の御趣意も水泡に相帰すべく、且つ一旦、取結び候条約を相変じ候は、ただただ信を万国に失い候のみにて、所詮、行なわるべき儀にこれなく、その断深く仕り候えども、一時切迫の情態御諒察の上、条約を勅許あらせられ候儀、なおまたかれこれ申し上げ候も斟酌仕るべき筋につき、まずそのまま申し上げ置き、とくと熟考仕るべく存じ奉り候折から、長防の事件差し起り、引続き、故大樹の大故にも及び候。ついに開港の期限差し迫り、各国よりは毎々申し立て候条件もこれあり、右について、なお再応熟慮、勘弁相尽し候ところ、条約変更の儀、強いて施工仕り候は必定、義理曲直の論に及び、大いに不都合相生じ、詰り、百万の生霊いたずらに塗炭の苦しみ、皇国の御浮沈にも相拘わり候よう成りゆくべきは目前にこれあり、右ようの形勢に立ち至り候上、よんどころなく条約履行候ては、じつに御国体御威信ともすべて相立たず、職掌に於て、もっとも相済まざる次第、殊に堅艦、利器、彼の長所を採り、皇国の富強を謀り候は、今日の急務に候間、いずれも開港仕るべきは至当の儀にこれあり。(下略、三月十九日)





 朝議開港を許さず     書を奉ったが、朝議はしばらく同意せず、「兵庫開港は先帝の勅許し賜わなかったことであり、容易ならぬ重大事件であるから、諸藩に諮詢あるべく、幕府もまた再考すべし」と、伝奏衆飛鳥井雅典卿から達せられた。 将軍家はわが公らを召して、協議の上、左の奉答書を呈せられた。

兵庫開港条約履行の儀につき、過日、見込みの趣を建言仕り候ところ、右は重大の事件にて、先朝に体せられ候ても御沙汰に及ばれがたき筋につき、なお早々諸藩の見込みをも聞し召され候て、とくと再考仕るべき旨御沙汰の趣、畏り奉り、慶喜儀、年来闕下に罷りあり、先朝以来の御趣意のほども、親しく皇国の御為、利害得失を勘考候えば、いずれにも過日建言仕り候通りの儀に御座なくでは、永久に御国体相立ちがたく、軽重を斟酌仕り申し上げ候次第にて、この上に勘弁仕るべきよう御座なく候。且つ、一旦取結び条約変更の儀は、所詮相叶いがたき時勢に御座候間、各国より申し立て候儀これあるの節、過日建言の趣意をもって、それぞれ申し達しおき候ことに御座候。
尤も重大の事件につき、何とか取計らい申さず候わでは相すまざる儀に御座候ところ、これまで遷延仕りおり、今更かれこれ申し上げ候段、深く恐縮の至りと存じ奉り候。尤も国家の御安危の界につき、幾重にも一身に引きうけ、御断り申し上ぐべく存じ奉り候。
右の情実を、とくと御承知あらせられたく、この段御尋ねにつき、重ねて奏聞仕り候。以上。(三月二十一日)


 四月三日、松平慶永卿、鍋島斉正卿(閑叟)、山内豊信朝臣、伊達宗城朝臣、島津久光朝臣等が前後して入京してきた。よって朝廷では、兵庫開港、防長の所置についての意見を奉らせた。

 



 帰国の賜暇を申請     四月四日、先帝の御遺物である黄銅の花瓶、花台および御小屏風、絵巻物をわが公に賜わった。
 この時にあたって、わが公は重臣らをしばしば老中の人々につかわして、帰国を内請した。老中の人人も、今はやむをえないと察し、「朝廷において許可があれば、一年もしくは一年半の期限つきで帰国を許すが、守護職は解かず、帰国して留守中は、継子の余九麿を衛兵とともに京都に止めて、守護の職務を行なわせるように」とのことであった。
 そこで家臣を摂政殿下のもとにやり、帰国を申請させた。殿下もはじめのうちは許されなかったが、家臣らがそのやむをえないわけを縷々陳述したので、はじめて殿下の允裁が出た。
 そこで、四月八日、左の書面を幕府に呈して、賜暇を申請した。

拙者儀、不肖の身をもって、戌年〔文久二年〕中当職を仰せつけられ候て以来、都合六ヵ年に罷り成り候ところ、右については、莫大の御下米金も成し下され候儀に候えども、かねて内証逼迫致し候。下って昨年八月中、国元大火にて、城下の過半焼失し、加うるに非常の違作にて、当卯年出穀までの飯米も差し支え候振合いにこれあり、四民飢餓、離散の程、千万心配仕り候仕合せにて、自然、人気居り会わず、且つ永々の在京については、家中の風俗も相弛み、この節改革向きについても頑固の風習、家来共ばかりにては行き届かざることもあり、かたがたもって罷り下り、取締り向き手近に申しつけたく、よっては、しばらくの間御暇下しおかれたく、この節柄、右よう願い奉り候も至極恐縮の儀に御座候えども、その内実、止むをえざるの仕合せ、御憐察の上、御許容なされ候ようこの段よろしく御執り成し相願い候。以上。





 駿府転封案     老中の人々は、公の帰国を許したが、なお百万、その心を翻えさせようとして、左の内旨を下して、公を引き止めようとした。
 それは「領国が頻年の災危でもって、上下の苦心は察するにあまりがあり、東帰を願うのも真にやむをえないことと察する。思うに、会津は東北に僻在して不便である。顧みるに、海内今日の不安は、西南にあって、東北は何事もない。ゆえに、卿を駿府に移したいと思う。そもそも駿府は、京師と江戸との中枢に位して、枢要な地であるばかりでなく、神祖終焉の地域であるから、甲府とともに、諸侯を封じない所であるが、卿の家系は、他の諸侯とは比すべくもない。且つ多年忠勤をぬきんで、深く信頼しているから、この要鎮たらしめようと思う。ゆえに、東帰の情を忍んで、しばらく待っているように」と言うのであった。
 いくばくもなく、また内旨があって、家臣を駿河につかわし、城代、代官らにはかり、会津との郷村に実数を調べ、領域を按検させた。
 しかし、すでにその時は、大政奉還に際していて、遂にこのことは実現せずに終った。





 【注】

【一 禁裡付】 一巻一六三頁注一を見よ。

【二 親王】 睦仁親王、のちの明治天皇。母は典侍中山慶子(中山忠能の娘)。慶応三年正月九日践祚。時に数え年十六。

【三 准后、立后のこと】 准后は准三后の略。
親王、内親王、諸王、女御、御外祖父母、執政の大臣で、三宮(太皇太后宮、皇太后宮、皇后宮)に准ずる優遇をあたえられた者。この場合は、孝明天皇妃九条夙子(のちの英照皇太后)である。立后は公式に皇后を立てることをいうが、本文の意味は皇太后冊立(立太后)のことを指すと思われる。夙子は明治元年三月十八日、皇太后に冊立された。

【四 崩御】 孝明天皇の崩御は十二月二十五日亥半刻(午後十一時)であるが、喪を発せず、二十九日辰刻に崩御と発表された。そして、慶応三年正月二十七日大喪が執行された。


【五 諒闇】 天子が父子の喪に服する期間。幕府は在京諸侯および旗本に命じ、大喪の天機奉伺のため、十二月晦日総出仕を命じ、また年始松飾、普請、鳴物ならびに銃隊調練を禁止した。

【六 作冬建言に座して…】 慶応二年八月晦日中御門経之、大原重徳ら二十二人が列参し、これにたいし、十月二十七日晃親王をはじめ列参関係者が処罰されたこと。本書二一九頁を見よ。

【七 大行天皇】 天皇が崩御して、未だ諡を奉らぬ間の称。孝明天皇をさす。

【八 兵庫開港を促すこと頻り】 一九六頁注二にのべたように、四国連合艦隊長州攻撃事件後、列国は条約勅許と兵庫の早期開港とを要求した。しかし朝廷は兵庫については許さなかった。それにしても、文久二年のロンドン覚書によれば、江戸、大阪の開市、兵庫、新潟の開港の期日は、慶応三年十二月七日と定められていた。英国公使パークスは、この履行を強く幕府に要求した。フランス公使ロッシュも、反幕府を支持している英国が武力に訴えても条約の履行を幕府に迫るであろうから、それと対抗するためにも、少なくとも兵庫の開港を実行すべきだと説いた。これにたいし幕府は、長州処分の厄介な問題の解決に全力をそそぐためには、列国との紛争を避ける必要があって、兵庫開港を決意することとなった。

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  1. 2012/11/19(月) 15:11:25|
  2. 京都守護職始末2
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二十三  わが公の嗣余八麿を将軍の嗣とし、余九麿を改めて嗣とする     『京都守護職始末2』

 余九麿は十二歳     十二月朔日、徳川慶篤卿の弟余九麿(喜徳君、わが藩の世子)をわが公の養子にした。
 これよりさき、わが公は幕府の内諭により、徳川慶篤卿の弟民部大輔昭武(初名余八麿)を嗣子とする約束があったが、未だ公許を得ないうちに、将軍家が薨去された。
 中納言が宗家に入って継承する時、ある日、わが公に諭旨して「予が宗家を継いだけれども、方今、内外多難の日に際し、永くその負荷に堪えられぬことは言を持たない。ゆえに、今より親藩のなかから器量のある者をえらび、欧州にやって知見を広めさせ、その者をわが嗣にしたい。思うに、民部大輔がそれにふさわし人である。ところが、彼はかつて卿の嗣となる約束があった。しかし、そのような事情であるから、彼の弟の余九麿を卿の嗣に代えてほしい。余九麿は未だ年は十二であるが、民部大輔の弟でもあり、その所生は同じである。どうか、卿にこのことを承知してほしい」と言われた。
 わが藩臣たちは「民部君を養子とすることは、故大将軍の命に出たものであって、未だ墓の土も乾かないうちに、命にそむくのはしのびない」と言うものがあったが、わが公がこれを慰諭し、また「予も年若な子を養子としたい考えだ」と言われたので、藩臣らも、それに従った。





 征夷大将軍     十二月五日、朝廷は権中納言徳川慶喜卿を征夷大将軍に補し、正二位に叙し、権大納言に任ぜられた。その他兼補するところも、歴代将軍の旧典通りであった。つづいて、内大臣に任ぜられ、勅使として、権大納言飛鳥井雅典卿と権大納言野宮定功卿が、二条城にのぞみ、宣旨を伝えられた。
 わが公は老中、所司代とともに、その席につらなった。儀式が終って、わが公は太刀、馬代を献じて、これを賀した。
 この日、在京の諸大名らもそれぞれ登城し、太刀、馬代を献じてこれを賀することも、すべて旧例のごとくであった。

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  1. 2012/11/19(月) 13:57:05|
  2. 京都守護職始末2
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二十二  征夷大将軍徳川家茂公薨ずる     『京都守護職始末2』

 薩藩挙動を一変     七月二十日、征夷大将軍右大臣従一位徳川家茂公は、大阪城で薨じた。秘して、喪を発しなかった。
 この日、わが公は、前夜守衛総督が帰京されたので、まさに下坂して伺候しようとしている時、大阪から目付田村駒次郎が馳せつけて、急に守衛総督の下坂を促し、またわが公に、将軍薨去のことを告げて、下坂を止めた。わが公はこれを聞き、将軍の病中、一回も親しく伺候することのできなかったことを思うて、哀痛の情に堪えず、未だ殮(かりもがり)しない前に伺候しようと思い立ち、二条殿下、中川宮に願って、しばらく下坂の暇を内請した。
 すでに将軍の喪ははやくも京師に漏れ伝わっていたが、この時にあたり、薩摩藩のごときは、前日とはまったく挙動を一変し、公然と征長の非を鳴らして出兵を拒み、陸続と大兵を京師に入れるなど、物情騒然としてきた。
 ゆえに殿下は、詔を伝えて、わが公の下坂を許さず、守衛総督、守護職がみな輦下を去れば、叡慮を安んずることができない、容保はしばらく哀悼を忍んで、闕下を守護するようにとのことであった。それで、南下を思い止まった。





 慶喜卿継嗣を断る     幕府の継嗣問題が未だ定まらないので老中の人々は、わが在坂の家臣を城中に召して、慶喜卿を継嗣とすることをわが公に謀り、同時に二条殿下、中川宮から、叡慮をうかがうように命じた。そこで、家臣らは京師に馳せ帰り、ことの次第を報じた。わが公は、ただちに殿下と中川宮を通して叡慮を伺ったところ、天意もまた、すでに慶喜卿にあったので、そのことを大阪に報じた。
 その時、松平慶永卿は大阪にあり、老中の人々とともに慶喜卿に謁して、宗家をつぐことを懇請した。慶喜卿は辞退し、「予の資性は庸劣で、その上、人心を服する徳望がない。どうしてその任に当れようか。それに、往年継嗣問題のあった時にも、決して宗家を相続すまいと心に期しているのだ」と言って、急に袂(たもと)を払って、京師に帰ってしまった。
 老中板倉勝静朝臣は、後を追って京師に入り、わが公のもとで、松平定敬朝臣をまじえて会談の末、二条殿下と中川宮に請うて、慶喜卿を諭すことに一決し、ただちに両所に伺候し、このことを願った。殿下も、宮も、このことをもっともとし、慶喜卿を召して、叡慮のあるところを示し、継承のことを諭したが、慶喜卿はなお従わず、「万一叡慮をもって臣に継承を命ぜられるならば、自尽して謝罪し、継承の意のないことを明らかにしよう」と言い出した。
 殿下も、宮も、それ以上強うることができず、わが公、定敬朝臣も、ともに懇請してみるけれども、その答えは前と同じで、断乎として受け居れない。
 二十六日、わが公は板倉勝静朝臣とともに慶喜卿の館に詣り、言辞凱切(がいせつ)に継承を勧進すること再三に及んだので、卿は辞屈し、「内外の諸制度を予の意の通りに釐正することを許すならば、あるいは卿らの言葉に従ってもいい」とのことである。勝静朝臣は承諾したものの、すこし難色の気配があった。わが公は固くこれを誓い、切に継承を勧進して立ち去った。





 慶喜卿継承を諾す     この夜、殿下はまた慶喜卿を召して、「征長の師を出して、未だ功を奏しないうちに、大樹が逝去した。その上、新将軍の継承は未だきまらず、人心は疑惧を抱いて、日々恟々としている。これがために、畏くも叡慮しばらくも安んぜられない。卿はじめ将軍の後見たるものは、今、天下の安危をどう見るのか」と、すこぶる悃切に諭されたので、慶喜卿も慨然として、「慶喜不肖ではありますが、宗家の継承については、仰せに従いましょう。ただし、将軍職は、不肖にはとても荷が勝ちすぎておりますので、たとえ、他の諸侯に任ぜられることになっても、一一叡慮に従いましょう。ただ征長のことは、奮ってこれに当り、みずから旗下と譜代の諸侯を帥いて、征討の勅旨を奉行致すつもり。もし平定の日が来た時、その時、閫外の任を賜わる場合には、あえておことわりは致しますまい」と述べた。
 これで継承の問題も定まり、この月(七月)二十八日、わが公、定敬朝臣、勝静朝臣とともに、殿下を経て左の書を奉り、これを奏請した。

臣家茂儀、初春以来深疾罷りあり、その後やや治術を相加え、快和に趣き候ところ、当月初旬より再感、すでにこの程勅使をもって寵問を蒙り、じつに過分の鴻恩感戴の次第、しかるに病勢いよいよ進み、繁務に堪えず候より、この上危篤に臨み候わば、家族慶喜に相続仕らせたく、尤も防長の儀は至急につき、名代として出張仕らせたく、この段勅許の御沙汰成し下され候よう願い奉り候。

 そこで裁可の詔が下り、徳川慶喜卿は宗家に入って継嗣となった。





 敗報しきり     これよりさき、征長先鋒の官軍は連戦利あらず【注一】、長門藩兵らは勝に乗じて近隣を侵略し、津和野城を攻略して、城主亀井隠岐守茲鑑を降伏させた。つづいて、浜田城を陥るの報が、踵(くびす)を接して到来した。
 防長の士民は、薩摩藩に書を送って、その非行をのべて救いを請うた。
 よって七月二十二日、在京の薩摩藩留守役内田仲之助は、書を在京の三十余藩に伝え、越えて二十七日、島津久光朝臣、島津忠義朝臣らは連署して上奏し、幕府の失体を条挙し【注二】、長門藩を救解した。





 わが公決戦を主張     わが公はこれを聞いて、奮然として、「長門藩兵らが勢いに乗じて近畿に迫ることがあれば、在京の薩摩兵は必ずこれに応ずるであろう。はたして、しからば、前門の虎、後門の狼となり、如何ともなすすべがなくなるであろう。坐して敵の来るのを待つよりも、我から機先を制するにしくはない」と考え、「すなわち京師の守護を所司代に譲り、松平慶永卿、山内豊信朝臣にこれを輔翼させ、みずから在京の兵を引き連れて石州口から進み、中納言は山陽道の軍を督し、互いに約して勝敗を一挙に決めれば、他の諸軍も、また覚醒して、軍気を挽回することができよう」と、その謀を中納言に啓(もう)し、また重臣を老中のもとにやって、出征を催促した。
 中納言はこの議に賛同せず、ひたすらに、わが公が輦下を去れば朝議がたちまち一変するかも知れないと慮り、あえて許そうしない。すでに八月八日となった。
 中納言慶喜は参内し、十二日をもって征長の途に就く旨を奏上して、階辞した。朝廷は、御剣一口を賜うて、速やかに功を奏するようとの詔があった。





 休戦の議     官軍の敗報はしきりに達した。その上、肥後、柳川の兵が自国に引き上げてしまったので、小笠原長行朝臣は手の施しようがなく、舟で長崎に退いた。
 八月二日、長州兵は小倉を侵略し、城主小笠原豊千代丸は城に火を放って、香春(かはる)にのがれ、八月八日、官軍はことごとく広島に退いた。
 ここにおいて中納言は、征西の奏功しがたいことを慮り、俄かに休戦の評議にかかった。わが公は、大いにこれを不可とし、切に争ってみたが、容れられず、よって十一日、左の書籍を呈して、所思を陳上した。

一 台慮御決定、勅命をもって諸藩へ出兵を仰せつけられ、粉骨をつくし候藩もこれあり、あるいは城邑を失い候藩もこれあり。しかるに、只今に至り、御筋目違い候儀これなきに、解兵を仰せ出だされ候ては、上は天朝へ御対しあそばされ、中は諸侯、下は万民へも信義立たせられざる事。

一 奉命尽力の諸藩を御見殺しなされ、武道筋に於ていかがこれあるべきやの事。

一 違勅をもって賊名を負い候ものに、再勅出で候ては、義賊分明せず、忠否乱れ、天下の耳目違乱致し候事。

一 長賊、休兵の勅に応ぜず、長駆の勢に乗じ押寄せ候節に至り、諸藩へ進撃仰せつけられ候とも、一惰気に相成り候人衆の憤発致し候こと、これあるまじき事。

一 これまで天幕の命に応じ、攻めかかり諸侯藩へ、彼より復仇致し候わば、いかが御処置あそばされ候やの事。

一 諸侯上京して衆議をつくし候よう仰せつけられ候とも、これまでの御沙汰にも惑乱致し候末、披露の極、応命致さず候わば、再び振起の根、断絶致し候事。

一 たとえ上京致し候とも、疲弊の極、事実、再び出立致し候事相成るまじき事。応命出京候とも、天理に反し候師に候えば、解兵を当然の旨申し立て、あるいは申し募り、朝廷御動揺あそばされ候節はいかがあそばされるやの事。

一 天前に於て仰せ立てられ候件々、ことごとく相反し、節刀をも賜わり、御懇に仰せ聞かされ候件々の次第、御申訳これなく、勅諚御改めと相成り候わば、これまでのところは皆偽勅と相成り申すべき事。

一 前将軍様、半途にして薨御あそばされ、御相続様〔慶喜卿〕欲しいままに御変革あそばされ候ては、御孝道に於て御筋合いかがやの事。






 慶喜卿の変身     ついで家臣をやって、旨をうかがったが、中納言〔慶喜卿〕も老中も、一顧もしない態度であった。
 さきに継嗣の評議があったとき、中納言は、「予が将軍様の代理となって征長の局に当れば、三十日を出ずして山口を陥れ、防長をたちまち恭順させてみせる」と傲語し、節刀を賜わって階辞したのは、じつに未だ八月八日のことである。それが、十一日、九州よりの報告を得るや、すぐさま征長発途の令を取り止め、休兵のことを議するに至ったのだ。
 わが公は、ただただ慨嘆するのみであった。
 十五日、中納言は殿下のもとに詣り、休戦の議を陳述した。
 殿下は愕然として、「卿はさきに、故大樹の遺志をついで征長の任にあたり、すでに節刀まで賜うている。しかるに、未だその途にものぼらず、たちまちひるがえって休戦を唱えるとは、そもどういうつもりか。それで、列藩に対する面目はどうするのか」と詰問された。中納言は、「まことに仰せの通りではありますが、今日の事態となっては、また今日の時宜に応じた処分をせねばなりません」と述べ、十六日参内して、左のような書を奉った。

かねて言上仕り候通り、薄力菲才の私共、この上諸藩の指揮は所詮おぼつかなく、なおまた諸藩に於ても、かねての御主意も御座候折から、俄かに解兵仕り候わば、必定、それぞれの見据えも御座あるべく、就いては、この場に於て急速に諸藩を呼集し、めいめいの見込みもとくと承りとどけ、利害得失を論定の上、天下公論の帰着をもって、進退仕るべく存じ奉り候。
私議、これまで格別の御寵恩をもって、厚き御沙汰を蒙り、出陣に臨み、右様の儀を言上仕り候は、朝廷へ対し奉りじつに恐懼千万と存じ奉り候えども、この上御大事を誤り候ては、なおなお恐れ入り存じ奉り候につき、至情黙しがたく言上仕り候。この段、なにとぞ寛大の思し召しをもって、微衷の程よろしく聞し召し分けさせられ、御許容の御沙汰下され候よう願い奉り候。云々






 勝安房を起用す     朝廷の裁可があったので、十八日、中納言は勝安房守【注三】を中国に、梅沢孫太郎【注四】を鎮西につかわして、休兵の事を処置させた。
 安房守はかつて海軍を練習し、その名が諸藩の間に聞えていた。彼は、防長再征の挙があってから、幕府の有司に列して、これを不可とし、しきりに休戦を主張していた。それゆえ、彼にこの命が下ったわけである。彼は長州に出向いて、藩士らを諭し、兵を退けさせたが、中納言はわが公の反対を恐れて、そのことを告げなかった。そのうちに、すでに休戦の勅栽があったので、十九日、京師を辞して大阪城に入った。





 休戦の勅     八月二十日、幕府は大将軍の喪を発し、訃を奏したので、朝廷から左の勅を中納言に賜うた。

今度相続致し候につき、言上の趣もこれあり候えども、前将軍同様厚く御依頼あそばされ候間、政務筋はこれまでの通り取り扱い候よう相心得べき旨、御沙汰候事。

 また、休戦について左の勅が出た。

大樹薨去、上下衷情のほど御察しあそばされ候につき、暫時兵事を見合わせ候よう致すべき旨、御沙汰候事。

 よって二十五日、幕府は勅を伝えて、征長の師を回(かえ)した。ここにおいて、中納言は大いに規画するところあらんとして、手書を尾張、越前、筑前、土佐、肥後、薩摩、宇和島等の熱望のある列藩に送り、召集した。





 政体改革等を上訴     これよりさき、長門藩に通じる諸藩のものがしきりに宮、公卿の間に出入りして、朝議をひるがえそうと勉めていたが、聖上が叡明で、征長の綸命は終始一貫、赫々として烈日のごとくであったので、乗ずべき機がなくて、むなしく月日をすごしていた。そこへ今、休兵の勅命が出たのをみて、時至れりとなし、三十日(八月)、権大納言中御門経之卿、前左衛門督大原重徳卿以下二十三人【注五】が、俄かに参内して、国家重大の事件を親しく上奏することを要請した。
 その大意は、第一には、方今の時勢紛乱し、万民が塗炭の苦しみを受けている。これは必竟、幕府が、攘夷の叡旨を遵奉しないことが原因である。政体を改革されること(幕府は廃止すること)、第二には、壬戌、癸亥、甲子【注六】の年に勅勘を蒙った九条円心〔尚忠〕以下をことごとく赦免されたいこと、第三には、諸侯召集のことは、幕府の手でなく、朝廷から直接下命ありたいこと、などにすぎなかった(壬戌に勅勘を蒙ったのは九条尚忠公、久我建通公、岩倉具視朝臣、富子路〔敬直〕、〔千種〕有文朝臣らである。癸亥に勅勘を蒙ったのは、すなわち三条〔実美〕等の諸卿であり、甲子に勅勘を蒙ったのは、有栖川宮、鷹司輔煕公以下十余人である)。
 殿下はこれに答えて、「第一条は、幕府に限らず、斉敬もまた当職にあるから、その責をのがれることはできない」と言われた。経之卿らは、「いや、殿下ばかりではない、中川宮も、いやしくも輔佐の重任にあるからには、また責任を免れない」と論じた。殿下が重ねて、「第三条は、すでに幕府に委任の綸命が出ていて、今さらひるがえすことはできない」と言うと、重徳は身を進めて、「それならば第一条、第二条は、速やかに勅栽を仰ごう」と意気昂然として迫ってきた。





 聖上激怒     殿下がやむをえずこのことを奏上すると、聖上は赫と宸怒され、「重徳は何ものぞ。その身君側にありながら、党を結んで濫訴するとは。まずその僭上の罪を問わねばならぬ」と言われたので、殿下は恐悚してこれを救解し、出て綸命を伝えた。経之卿らは恐懼のあまり、額背に汗をながし、梢然と隊朝した。
 つづいて九月二日、堂上大原重徳卿を召して、親しく前日の濫訴を責め、また建議の趣旨を勅問された。重徳卿は恐懼、戦慄し、切に疎暴を謝して退朝した。





 中川宮ら暗殺の噂     その頃、経之卿らが宣言して、「殿下と中川宮の参内をうかがって、刺そうと企んでいるものがある」と言ったのを聞いて、衆情恟々として、真にそのことが起るような思いでいた。けだし、それも宮、殿下を威嚇して、みずから引退せしめようとしたものである。殿下と宮も、要慎をするのあまり、四日(九月)、ただちに辞表を奉った。





 朝議空白を生ず     権大納言柳原光愛卿が、この頃に内大臣近衛忠房公に送った書簡がある。左に録して、当時の情勢の一斑を示そう。

遅刻参内、相役六条、久世【注七】、武伝〔武家伝奏〕、飛鳥井〔雅典〕等が示談候ところ、同心につき、一同御前を願い申し上げ候。円心〔九条尚忠〕、素堂〔久我建通〕以下、出仕の御沙汰に相成り候わば、関白、賀陽宮〔中川宮〕は、決して出仕あらせられず、尤も、御前および国事御〔用〕掛、九条大納言〔道孝〕殿にも御同様の旨、御時節柄、関白殿以下国事御掛、御一人もあらせられず候ては、朝議は今日限りと相成るべく、さよう候わば、宸襟を悩ませられること十倍たるべく、恐れ入り候旨、言上に及び候ところ、御当惑、いかがなるべきやと仰せられ候。
よって申し上げ候には、なにとぞ去る三十日建白の輩へ、円心、素堂以下御赦免の事は一切御沙汰に及ばせられず、巳後この儀の建白は無用たるべき旨、中御門以下へ仰せ下され候て、関白殿を召し留めの御沙汰、早々にあらせらるべく申し入れ候ところ、御沙汰に、至当の儀、その分、早々参向して申し入るべく、尤も、急務は諸藩を召すの儀、早々御参、御取り計らいあるべきよう仰せ出だされ候。表向頭弁は【注八】、仰せ詞をもって例のごとく召し留め、巨細は只今、久世が勅使となって参向し、申し入れらるべく御治定候。
しかし、入夜に相成り、殿下御畏縮の旨、万一仰せられ候わば、明日は是非午〔十二時頃〕早早御参あり、諸藩召し以下御取計らい仰せ出だされ候。まず殿下のところは、この分御治定に候。賀陽宮、国事御扶助御断りを召し留められ候に御治定候。しかし、これは関白殿御出仕の上御沙汰の旨、御決答に候事。






 幽閉堂上の赦免を奏請     殿下が辞表を奉るに及んで、濫訴の公卿が俄かに勢いを得たあとに従って、有志と称する堂上が続々とあらわれ、この月(九月)五日、裏辻位公愛卿がまた書を奉って、幽閉堂上の勅勘赦免を奏請した。その大意は、

壬戌の幽閉人は朝廷を欺き、幕府に親しみ、恐れ多くも皇妹を東下し、それ以来毒気深く入り、縁によって朝廷を軽侮し、外夷を馴養し、公武一和を口実として、攘夷鎖港を一夕話に付し、陽に三港の勅許を称し、陰に兵庫の開港を約す。その期限の迫ること、外国の新聞にあらわる。
長防の乱も、その原因は夷因は夷国の猖獗を憤ることに起る。しからばすなわち、方今の乱階はみな壬戌の幽閉人の方寸より生ず。叡旨確乎、その罪を釈されざるを聞いて、正明至当の英断を感戴し、さらに衆庶をして勧懲の英断を仰がしめんことを願う。あえて叡慮を矯(た)むるに非ざるなり。
そもそも癸亥、甲子両度の幽閉人に至りては、過激にして上を凌(しの)ぐの罪を免れざるも、その本源は醜夷の猖獗を悪(にく)み、幕府の専権を憤り、国辱を雪(そそ)ぎ、皇威を復し、もって宸襟を安んじ奉らんと、自ら諸藩の激論に沈溺し、恍惚として覚えず疎暴にわたる。その跡悪(にく)むべきも、その心は感賞すべきものあり。しかるに、その情実を酌量せずして、これを壬戌の幽閉人に併せ、禁錮し、遂にその淑慝〔善悪〕を分たずんば、浮説流言、あるいはまさに不慮の姿を生ぜんとす。ゆえに今、長防解兵に際し、特別の御憐愍をもってこの輩を寛宥し、その器に従って、追次、朝班に臚列(ろれつ)せしめんことを願う。聞く、近日諸藩を召す。請う、早く淑慝を分別し、諸藩をして翕然(きゆう)、公明寛大の朝旨を仰がしめん。






 岩倉具視の密謀     過激派の視点より見る時は、裏辻卿の論ぜられたところこそ、当をえたものと見えるであろう。
 そもそも壬戌の年に勅勘を蒙った九条公以下は、みな佐幕の嫌疑で幽閉、退隠等に処せられたのであって、癸亥、甲子の罪人はまったくそれとは趣を異にしている。特別大赦などに止まり、幽閉を解かれるというだけならともかく、経之卿、重徳卿らの意向では、単に幽閉解除に止まらず、その官位を復し、重職にも輔せられたい希望であったことは、前に掲げた柳原光愛卿の手簡でも明らかである。
 経之卿がこのように矛盾した建議をしたのには、そもそも理由のあることである。岩倉具視朝臣は、公卿のなかで、智略と胆力に富んだ人であったが、かつて関東の有司と相談して和宮降嫁を画策し、大いに公武の一和を計ろうとして、時の不遇により遂に幽閉の身となった。しかし、勃々たる野心は彼をして遂に退隠の地にあらしめず、現在の情勢がすでに公武一和のむすがしいことを、早くも看破して、ひそかに倒幕を規画し、身近にある経之卿等に説いて、朝政に乗り出そうとする密謀に出たものである。裏辻卿はこれを知らず、昔通り公武一和説の岩倉とみなし、これを退けようとしたのみであった。





 辞職を諫止     その頃、中納言は大阪にあって、殿下と中川宮が辞表を出されたことを聞き、急に馳せて京師に入り、六日(九月)、伝奏衆から左の書を奉り、これを止められんことを奏請した。その大意は、

両殿(関白殿下と中川宮をさす)御辞職御差し留めに相成り候よう。もし重徳等の建言を御採用あそばされ、御辞表允(ゆる)され候時は、下として上を凌(しの)ぐの儀にて、朝慮立たせられまじく候間、是非とも両殿の辞表を御差し留め相成りたく、云々。

 時に中納言は、継承のゆえをもって、故将軍家の喪に服していた。よって、老中板倉勝静朝臣から、この書を奉った。
 この月、わが公も、伝奏衆飛鳥井雅典卿を経て、左の書を奉った。

この度、関白殿、賀陽宮の御辞職仰せ立てられ候由、当今、紛乱の御時勢に、枢密の御職務、万一御動揺に相成り候ようにては、天下の動静に相かかわり、国家の御為、もっての外の御儀と深く痛心仕り候。殊に、この程言上の通り、諸藩参集、速やかに利害得失を論定仕るべき折から、すべて御変遷の儀に御座候ては、御不都合の御儀と存じ奉候。
いわんや、万機の任御輔翼の職を一時に御辞職仰せ立てられ候段、朝廷いかようの御混雑これある儀と諸藩の疑惑を開き、この上意外の事変相生じ候よう相成り候ては、折角言上の素意も相貫かず、且つ追々の御勲労もこれあり、格別の御信任もあらせられ候御事ゆえ、この場に至り、かれこれの御次第これあるべきはずも御座なく、かたがたもって、早く差し留められ候儀もちろんとは存じ奉り候えども、じつに国家の御一大事に相かかるべしと、過慮仕り候につき、なにとぞ速やかに右の御沙汰下しなされ、上下安堵仕り候よう御取り計らいのほど願い奉り候。なにぶん切迫の御時勢、この段黙止しがたく言上仕り候。






 朝議二分す     この時に当り、大勢上の第一の主眼は、召集の諸藩の衆議を誰が主栽するか、ということにあったが、これについては、朝議が両岐に分れ、殿下と中川宮は、ひとえに汗の如き綸命を重んじ、幕府にこれを掌らしめようとし、山階宮および中御門経之卿以下三十余人は、諸藩士の煽動に惑わされ、綸命をひるがえすことが時宜に適した変通の路とし、殿下、中川宮の不参をよい機会として、朝議を手のうちに収めようと謀ったが、聖上が確乎としてこれを斥けられ、七日(九月)、伝奏衆飛鳥井雅典から、わが公に左の勅を下された。

徳川中納言言上の趣もこれあり、諸藩の衆議を聞こし食(め)さるべく候間、決議の趣は中納言をもって奏聞あるべき旨、仰せ出だされ候事。





 聖上辞職を許さず     これによって、諸藩の衆議は、依然として幕府の掌るところとなった。しかし第二の問題としては、二条殿下と中川宮が国事掛を辞任するか否かということがあった。なぜなら、殿下と宮は、常に一意専心、聖慮を奉戴して、公武一和の実績を挙げようと期し、その間、亳も他の私議を傾聴されなかった。いわんや諸藩士の入説などにおいておや。
 それゆえ、諸藩士は殿下と宮を傾けようと、堂上家を煽動して、あるいは公然と建議をもって、あるいは隠に威嚇するなど、種々の手をめぐらしたが、聖明の照鑑はあえてその辞職を允(ゆる)したまわず、まず殿下の参任を促し、超えて十四日、特に議奏衆から宮に左の内詔を下した。

去月三十日の列参にて言上の段は、甚だよろしからず思し召し候。よって、右の面々の御処置の儀は、有志の諸藩に御咨(と)い謀りあそばされ候はずにつき、宮にはすこしの御疑念もあらせられず候間、早々御出仕なされ候よう思し召され候事。

 宮はこれを辞退して、「叡慮の優渥は、じつに感荷恐悚に堪えず、速やかに参朝致しますが、自ら省みるに、不肖寸功を奏せず、聖恩にもとること多く、償う道もないほどです。ただ切にお願い致したいことは、関白に、一日も早く事を執らせたいことです」と奉答した。そこで、このことをひそかに中納言とわが公に報じ、叡慮のあるところを知らせた。
 それと言うのも、先月三十日以後、殿下と宮が参朝せられず、中納言もまた服喪中で、他人と接しなかったので、従って、宮中の情勢をつまびらかに知ることができないだろうと推察して、特にこの教命があったものと思われる。





 除服の期日問題     また、大勢上の第三の主眼は、中納言の除服〔忌みあけ〕の期日を早めるか否かにある。何となれば、中納言が除服すれば、必らず殿下と宮に祗候して、切にその辞職を諫止し、相提携して朝廷を固うし、他より乗ずる機会を与えないようにすることは必定である。ゆえに、除服の期を緩くして、急にお召しの諸侯を催促し、その来集を待って、はじめて除服の勅を下せば、中納言らは、朝廷の事を如何ともすることができないであろうと、これまた、諸藩士らが、もっぱら宮、堂上の間に入説【注九】するところであった。
 しかし、聖明の照鑑は、方今、国事多端の折、幕府の職を一日も空白にしてはおけないとあって、除服の期を十六日(九月)に早めた【注十】。
 それは、山階宮が参内、上奏されて、「慶喜の除服の期日は、従来の典例とは違っている。加うるに、たとえ彼が除服しても、関白殿下が未だ出仕されないから、朝議に列席させることはできないであろう。ゆえに、衆諸侯の参集の後に、除服の宣下あれば、典例の上からも、時宜の上からも、二つながらよろしかろうと存じます。」と申された。そこで、議奏衆が殿下に謁して、叡慮をうかがったところ、聖上は、それは時宜をわきまえない意見であるとして、斥けられた。
 宮は恐悚にたえず、十八日、上表して国事掛を辞退された。聖上はそれを允(ゆる)されなかったが、宮は自称して、宸怒をはばかり、参朝を停めた。
 この宮の建議は、じつは諸藩士入説の私議をそのまま挙奏したものにほかならなかった。およそ彼の輩の所論は、一方では時宜によって変通せねばならぬと蝶々しながら、自家のために不便なことがあると、昔の典例を膠守する。その説の前後矛盾していることは、常にこの類のことが多かった。
 二十六日(九月)伝奏衆から中納言へ左の勅が伝えられた。

大樹薨去につき、黄門〔中納言〕忌服を受けられ候ところ、当節の急務御多端について、格別の訳をもって別勅、除服これあるべき叡慮に候。この旨、申し入れ候事。





 各国使節を謁見     これよりさき、各国の使臣が、幕府の代替りが行われたについて、国書を呈し、入謁することを請うていた。中納言は未だ除服の勅がなかったので、その期日を延ぼしていたが、十月七日、左の上表をして大阪に赴いた。

横浜在留の仏蘭西(ふらんす)人、かねて国書を持参【注十一】致し候につき、大樹へ直渡ししたき旨たびたび申し立て候えども、進発中につき相断りおき候ところ、今般、代替りについては、各国使節と面会致し、その節、右の国書も受け取り候よう仕りたく存じ奉り候。しかるところ、方今、東帰仕り候おりもこれなく、その内、延期も相成りがたき儀に御座候間、五六日滞在の見込みをもって大阪表へ呼び寄せ候つもりに御座候。右は帝都に近きの儀につき、この段申し上げおき候事。





 謝恩の参内を排す     その頃、伝議の両奏衆が勅旨を奉じて、しきりに殿下の参仕を促したが、殿下は紛議を厭うて未だ参朝しない。しかして中納言は、ようやく除服の宣下があったのに、外国使臣謁見のゆえに大阪に行った。
 そこで在京の諸藩士らは、宮、堂上の間に入説して、中納言が除服をしても、謝恩の参内ははばかるべきだと痛論し、あわせて、朝廷がこれを受けることは非礼にあたると言い立てた。ゆえに、朝議もほとんどその方へ傾いた。思うに、除服の宣言がたとえあっても、謝恩の参内のない間は、朝議に列することができないしきたりがあるので、彼らはことさらにこの議を主張してすこしでも期日を延ばし、諸藩の参集を待とうという肚(はら)であった。





 提示所撤去事件     さきに、毛利経親が、その家臣に禁闕を犯させて以来、三条大橋の西詰の制札掲示所に、長藩が嘆願に名をかりて強訴し、禁闕に発砲した朝敵の所業を書いて掲示してあったが、この年の八月以来、何者かがこれを撤去すること三回に及んだ。
 わが藩では、これを探索させていたが、土佐の藩士がすこぶる疑わしい形跡があり、わが藩士の諏訪常吉が、土佐藩士荒尾騰作とそれについて語り合ったところ、騰作の言うには、「軽輩中に、あるいは檄徒がいるかもしれない。土佐藩士であるからと言って仮借(かしゃく)することなかれ」ということであったので、この月(九月)十二日の夜、新選組に命じ、掲示を徹する暴徒を捕えさせた。
 新選組では、退士二十余名を選び、これを二手に分ち、原田左之助、新井忠雄らにそれぞれ部下を率いさせ、橋の東西の商家に埋伏させた。別に退士二を乞食姿に扮装して、橋の上に伏させて、待期させた。子の刻〔深夜十二時頃〕になって、果して十名ばかりの暴徒が来て、掲示を撤去しようとしたので、橋の上の退士がそのことを報告した。二手の退士は、橋の東西から迫り、これを捕えようとすると、暴徒は抜刀してこれに抗してきた。遂に一名を斬り、一名を捕えた。詰問すると、土佐藩士宮川助五郎と名のった。
 土佐の留守居中村是助(弘毅)が、これを聞いて来り、「寡君父子は、公武の合体に尽力されること数年、今この無頼の臣を出したことは慙愧に堪えない。願わくば、助五郎をひそかに渡してほしい。藩法で処罰する」と言ったが、わが公は手代木勝任をやって、幕府の有司に相談させた。しかし、今になって、これを曖昧にするのは、典刑の許さないところだというので、遂に助五郎を送還することを取止めとなった。しかし、土佐とわが藩との旧交は、そのために害せられることはなかった。





 聖上大久保らの密謀を破る     十月十五日の夜、初更(亥の刻)、俄かに勅があって、伝議両奏衆を召し、聖上が親しく左の詔を下された。

徳川中納言の家督御礼、参内の儀につき、諸藩士共かれこれ申し立て相妨げ候段、陪臣として朝議を阻む、甚だもって相済まざることに候。自今、いかようの儀を申し候とも、決して御採用相ならざる旨御沙汰候事。

 そして、これを議奏衆柳原光愛卿から、山階宮と正親町三条実愛卿らに伝えられた。
 思うに、この宮以下の人々が諸藩士の所説を採用して内奏するところがあったけれども、聖上は、断然としてこれを斥け、さきに十五日をもって中納言の御礼参内の日とする勅を、儀奏衆に下されたのに対し、たまたま薩摩藩士大久保市蔵らが、前夜、近衛忠煕公の第(やしき)に祗候し、迫ってこの議を阻んだことが天聴に達したので、俄かにこの勅が出たのである。





 わが公辞職を申請     十六日(十月)、徳川慶喜卿参内し、本家継承の恩を謝した。わが公は老中、所司代とともに、これに扈従した。朝廷の恩遇はすべて、故将軍家の時と同じであった。
 その時、わが公が考えるには、「中納言は資性穎邁で、つとに声望があり、それに、先に本家継承を勧進したとき、内外諸政の確新のことを約束した。今、すでに継承もすみ、謝恩の典も終ったのであるから、きっとその実行にうつることであろう。そのときにあたり、不肖、守護職として京師にあること数年、嘱望が集って、あるいは新立の将軍家と掎角の勢いで対立するようなことがあっては、これ全く私事としても不利なことであり、国家にとっても有害である。速やかに職を辞し、将軍家に永く輦下に止まり、親しく禁闕を守護し、公武一和の実績をあげしめるにしく得策はない」と。
 また、この時に当って、諸雄藩が輪番に京都の守護に当るべきだという説が、諸藩士の間に行われていた。つまり、それをもって、わが公を退け、幕府の権力を殺(そ)ごうとする下心に出た策であった。
 わが公としては、将軍が滞京されて、守護の任に当られれば、諸雄藩守護の輪任など行われずにすむという考えであったので、十七日(十月)、左の書を呈して事態を申請した。

私議、先年当職を仰せつけられ候節、微力短才、重任に堪え候者にこれなく、強いて御詫び申し上げ候ところ、まもなく公方様御上洛あり、御直衛あそばさるべく、その中、しばらく相勤め申すべき旨仰せつけられ、御請け申し上げ候事に御座候。それ以来、種々の形勢に変じ、久しきを歴(へ)候うちには、自然権威を招き候姿になりゆき候心配も少なからず、かねがね懸念罷りあり候儀に御座候。
全体皇国の総容に於ても、京坂は中央枢要の地にて、鎌倉以来の得失、判然たる義のように相見え、御当家に於て遠く関東御開府あそばされ候は、その節おのずからその深慮あそばされ候儀に御座あるべく候えども、今日に推移候ては、天朝をば御直衛あそばさるる外に、重職御設けあそばされてしかるべくと存じ奉らず候。よって、私に当職を御免なし下され、相応の御用を仰せつけ下され候わば、別して有難く、いかにも微力をつくし、御奉公仕り候にて御座あるべく候。この段、厚く御垂察下されたく願い奉り候。謹言。


 幕府では老中板倉勝静朝臣から、「卿は従来、朝廷より厚く御倚頼あるから、その進退を、幕府で私に裁量しがたい。また現に、防長の処置も未だ終局していない。あるいは、さらに大旆を出すことにならぬとも測られない時である。従来通り職にあって、公武一和のために励むように」と辞職の申請を却下した。
 これよりさき、二条殿下は、しばしば参仕の召勅があったので、ようやく辞職の念をひるがえし、二十七日(十月)参内されたところ、俄かに詔があって、山階宮をはじめ正親町三条大納言実愛卿、大原前左衛門督重徳卿以下二十三人の公卿の参朝を停め、謹慎、閉門などの譴黜(けんちゅつ)があった。
 殿下は大いに畏れ、これもまったく臣が不肖で、その職に堪えないところから起ったことであるとして、しきりに寛宥を哀請されたが、聖上は、「かくのごとき上を上としない徒輩を宥(ゆる)さば、朝憲を何によって立てられよう」と仰せられて、厳としてこの宸断があった。
 満朝は悚然となり、それ以上、誰一人とて哀請するものはなかった。





 【注】

【一 連戦利あらず】 大島郡方面では、六月十一日、幕兵および松山藩兵が占領したが、高杉晋作の率いる第二奇兵隊、浩式隊等が奪回に向い、十五日に征長軍を敗退させた。芸州口方面では、六月十三日幕兵および彦根・高田・紀州・大垣・宮津の諸藩兵と奇兵隊の遊撃・御楯等諸隊を主力とする長州軍が交戦したが、征長軍を広島に退けることに成功した。石州口方面では、大村益次郎の指揮する南園隊等は、浜田・福山・津和野・紀州の諸藩兵を破り、浜田城を囲んだ。浜田藩主は七月十八日城を焼いて松江藩に逃れた。また小倉口方面では、高杉晋作、山県狂介の率いる奇兵隊等が、小倉・熊本・久留米・柳河・唐津および幕兵の征長軍と戦ったが、熊本藩家老長岡監物(是豪)は、再征反対意見を総指揮官小笠原長行に出し、兵をまとめて小倉を去った。幕兵や他藩兵も戦意なく、小倉藩が独立で戦うこととなったが、小笠原長行は将軍家茂の死を聞くとひそかに長崎に退去し、孤立無援の小倉藩主は、八月朔日城に火を放って田川郡香春に退去した。
征長軍の敗因は、軍隊の士気が低下し、戦意を失っていたこと、従軍諸藩間の協調を欠いていたこと、武器、戦術が旧態依然たるものであったことによる。幕兵および紀州藩兵の様式訓練をへたものを覗けば、大部分は立烏帽子、陣羽織、甲冑に刀槍をたずさえるという情況で、慶応元年の軍政改革によって、装備、戦術の様式化された長州軍に比し、いちじるしくたちおくれていた。

【二 幕府の失体を条挙し】 この建言の要点は、現在内外の憂患が百出している際、幕府が無名の軍を起したのは、大乱をひきおこすおそれがあるので、朝廷は長州藩にたいし寛大の詔を下し、かつ公儀の正論をつくさしめられ、政体変革、武備更張、遠戎賓服の中興の功業を成就せられたいというにあった。書中、慶応二年の百姓一揆、都市民のうちこわし、就中大阪、江戸のうちこわしの激発に言及したのは注目すべきことである。すなわち「既に一昨年、大乱の機相顕われ、屡々干戈を動かし、幾多の蒼生を殺し候上、眼前若州・信州辺の天災及び丹波・大和の一揆、兵庫・大阪・江戸の騒動(うちこわしをさす)伝承仕り候。即今兵庫・大阪の儀、将軍家御在陣中、号令整粛、軍威四方に煇くべきの処、却て足本の卑商賤民の如き厳威を憚らず大法を犯し候儀、いわゆる民、命に堪えざるの苦情に出候事にて、忍ぶべからざるの次第に御座候。
もはや鎮定の形にて候えども、米価はもちろん、諸色(物価の意味)未曽有の騰貴にて、既に当年災早水溢の憂も図られず、此上兵端を開き候ては、争論日に長じ、率土分崩(国家が分裂崩壊すること)救うべからざるの勢に及び候は案中にて、其時に当り外患を受け候節は、何を以て防禦仕るべきや、是れ卑臣年来痛心慨嘆する所に御座候」とのべている。

【三 勝安房守】 一八二三(文政六年)~一八九九(明治三二年)。名は義邦。海舟と号した。時に軍艦奉行。蘭学を学び、安政二年海軍伝衆生として、長崎でオランダ士官から伝習をうけ、ついで万延元年軍艦咸臨丸を指揮して太平洋を横断した。元治元年、神戸海軍操練所総管となったが、学生に坂本竜馬、陸奥宗光等があり、激徒養成の嫌疑をうけて免職された。彼は海軍関係を通じて、西南諸藩の志士と親しく、とくに西郷は勝の識見に心腹していた。

【四 梅沢孫太郎】 水戸藩士。一橋家用人として一橋慶喜に仕えていたが、慶喜が将軍となるや幕府の目付、ついで大目付に登用された。慶喜の腹臣として信頼が厚かった。

【五 二十三人】 列参の人数は二十二人である。この企ては、洛北岩倉村に蟄居していた岩倉具視の画策にもとづくものであった。

【六 壬戌、癸亥、甲子】  壬戌は文久二年、一巻一九七頁注九を見よ。癸亥は文久三年、一巻一九七頁を見よ。甲子は元治元年。

【七 六条、久世】 議奏六条有容、同久世通熙。柳原光愛も議奏であった。

【八 頭弁】 蔵人頭(天皇に近侍する蔵人の詰所、蔵人所の長官)で、大・中の弁官を兼ねた人。

【九 宮、堂上の間に入説】 慶喜は復臣原市之進をして、除服参内の宣旨を賜わることを運動させた。これにたいし薩州藩の大久保一蔵は、晃親王(山階宮)および近衛忠房等に入説してその妨害を試みた。

【十 十六日に早めた】 原文にはおそらく脱字があるであろう。慶喜は原市之進をして、十六日除服して、十七、八日頃参内の宣旨を賜わりたいと関白に請わしめた。これにたいし、薩摩の入説をうけた山階宮は反対し、諸大名の上京ののち、除服の宣下ありたいと上奏したのである。

【十一 かねて国書を持参】 フランス公司ロッシュが、ナポレオン三世の国書を捧呈することを申し出ていた。

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  1. 2012/11/19(月) 13:22:43|
  2. 京都守護職始末2
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二十一  将軍家入京、参内する     『京都守護職始末2』

 優渥なる恩待     二十二日、将軍家は入京し、参内された。わが公は先立って参内し、これを迎えた。聖上は小御所に出御あり、将軍家は進んで竜顔を拝し、去年以来、しばしば勅召があったのに、入覲の遅緩した罪を謝し奉った。
 聖上は親しく恩諭の詔があり、且つ「一橋中納言、会津中将、桑名少将は長らく京師にいて、よく人情形勢を知っている。卿はよろしく百事をこの三人に諮詢し、特に長防のことは遺算なく処理して、朕の意を安んぜよ」とのことであった。将軍家は謹んで、これを奉じた。やがてまた御学問所に召され、恩待数刻におよび、その優渥なことは、前年と変わらなかった。
 この日、将軍家へ伝奏衆から、小御所において勅書が伝えられた。その大意は、

一 防長の処置は滞坂して熟議をこらすべし。

一 処置の旨趣は奏聞すべし。

一 征長の事は軽挙に走るべからず。

一 公平至当に処置すべし。


 将軍家はこれを拝受し、天がようやく暁になる頃になって退朝された。わが公はつき従って、二条城に詣った。
 将軍家は今回の恩眷に対して、感銘の情が辞色にあふれていた。わが公もこれを拝聴して、感泣し、「よって長く在坂され、長防の処置を決し、また諸藩の革新を成就し、宸襟を安んじ奉らないうちは、誓って東下されることのないように」と悃々と上言した。将軍家も大いに然りとし、老中以下、席につらなる輩も、一人として異議を言うものはなかった。





 長州処分案     この日(二十三日)、慶喜卿とわが公、所司代が老中と会い、長防の処置を評議した。
 老中の意見は、おおむね毛利父子に切腹させ、所領は取上げというのであったが、中には、それを苛酷すぎると言う者が一、二あって、決定に至らなかった。慶喜卿は、父は蟄居、子は切腹、封土は減封という説であった。
 わが公の意見としとは、「いやしくも禁闕に発砲した大罪は切腹、褫封(ちほう)ももとより当然であるが、酷に失するとの物議のあることも考慮せねばならない。ひそかに聞くところでは、肥後、土佐、久留米等の諸藩は、おおむね幕府に委任するのを可としているが、その処罰については、父子の助命、封土の半分または三分の一を取り上げることを希望しているという。人心の向うところもまた察しなければならぬ。もし法度をふりかざして、厳罰を用い、万一、それを非とする諸藩が続々と群起することになれば、勢い兵力で平定しなければならない。顧みるに、方今の幕府の独力で、これを征服することができるであろうか。ゆえに、父子を助命し、周防一国を取り上げるのがよい」というのであった。このように衆議がかけはなれているので、遂に決定を見ずに終った。





 懇篤なる慰労     この日、将軍家は、特にわが公と定敬朝臣を近く召して、頻年その職務に劬労(くろう)したことを慰め、懇篤をきわめた。罷り出ようとする時に、なおわが公を留めて、去年からの病状を慰問され、かつ賊徒の禁門砲撃の状況を諮問し、時の過ぎるのも忘れて款語した。話のうち、往々、慶喜卿を嫌悪される口ぶりがあった。そこで、わが公は慶喜卿の忠勤ぶりをつぶさに称揚し、その意を解くことができた。
 わが公の退出にあたって、将軍家は、またさらに召して、「朝命もあることであるから、あとを追って大阪に来て、長防の処置の評議に参加してくれるように」と面命された。
 この日、老中らもまた、こぞって、去年以来のわが公の労をねぎらった。前々から幕府の有司たちは、わが公が一意朝旨にのみおもねり、幕府の不利など毫も顧みないものと猜疑していた。近頃、やや釈然としかけていたが、それでもなお未だ安んじないものがあったのが、ここにおいて全く疑いのかたまりが氷塊し、わが公が依頼するに足ることをはじめてさとり、それからは百事を相談するようになった。何と遅々たるものであろうか。
 しかし、この信頼もまた一時のことで、まもなくまたもと通り、わが公を信じなくなるに至った。





 小笠原長行再任     二十四日(閏五月)、将軍家は二条城を発して、大阪に行く。
 二十七日、わが公は、翌日大阪に行くので、参内、階辞し、二十八日、大阪に至り、一心寺に館をきめた。日々登城し、廟議に参与し、六月十五日に帰京した。
 この時、幕府の諸有司中、有志の者は、小笠原長行を再び老中に補することが目下の急務であると主張した。わが公もそれに賛成であり、大阪に在る間、慶喜卿とともに老中たちを説得して、長行の再任を議した。まもなく長行は老中に補せられた。





 毛利淡路ら哀訴     これよりさき、長門の支藩毛利淡路、吉川監物らは、安芸藩を中に立てて書を幕府に呈し、宗藩のために哀訴するところがあった。よって、幕府はこれを大阪に召し、既往現今の事情などを推究して、そのあとで、処置を決めることにし、十七日(六月)、慶喜卿、わが公、老中安倍正外朝臣とともに参内し、このことを上奏した。
 伝奏衆はそれに対して、総督、守護職が同時に下坂すれば、京師の守護の責任者がいない、毛利淡路らが上坂するまでは、二人のうち交番で下坂するように、との勅を伝えた。それ以後、総督とわが公が交番に下坂して、大議に参じた。
 八月朔日、幕府がさきに(元治元年二月)賜うた加棒の地のとりきめがあり、近江で一万五千石、和泉で一万石余、越後で二万五千石を賜うとの命があった。
 九月朔日、京師の下立売の官邸が落成したので、この日、ここに移った。





 長藩の情勢一変     この頃、長門藩では敬親(毛利慶親は、さきに幕府から下賜された前将軍家慶の慶の字をはぎとられ、慶を敬に改めた)父子を中心に、過激派が全く勢いを得てきていた。そして、さきに砲撃して怒りを買った諸外国とひそかに和議を結び、また薩摩、土佐、筑前等の雄藩と款(よしみ)を通じて、緩急の時の援助を請い、大いに幕府と戦う準備を整えて、しきりに兵衆を鼓舞して、気ほとんど関西を呑む勢いとなった。
 朝廷、幕府は、未だそのことを夢にも知らず、単に孤立無援で、制御しやすいものと思い込み、淡路らが上京するのを待ち暮らしていた。あにはからんや、先方の情勢ら一変して、前日哀訴した時とは比較にならないので、淡路は病気と言って延期を願い出てきた。
 幕府は、さらに毛利讃岐、毛利左京および本藩の家老二人に上坂を命じ、八月十七日から四十日間を期日とし、もしその期を過ごしたら、ただちに大旆(たいはい)を進めて再三の違勅の罪を責めることを通告した。先方はおもてには恭順を示し、それを承諾しながら、期日が迫っても、なお病と称して出てこようとしない。
 わが公は、いよいよ将軍家の出征と聞いて、慶喜卿、定敬朝臣と相議し、「征夷のことは、幕府が私敵を討伐するのとは違い、畏くも勅旨を奉ずるのであるから、いま大旆を出す前に、よろしくまず入朝して、事の次第を奏上し、階辞の典を挙げるべきである」と建議した。将軍家もこのことを嘉納し、ただちに十五日(九月)、大阪を発して京師に入った。よってわが公は、家老萱野長修(権兵衛)をつかわし、郊迎させた。十六日、わが公は二条城に登城し、将軍家の入居を賀し、その後、日々登城して大議に参与し、画賛【注一】するところが多かった。






 将軍出征の階辞     二十二日(九月)、将軍家が参内あって、左の表を奉り、階辞した。わが公も、それに扈従した。

防長の儀については、かねて奏聞仕りおき候通り、条理、順序を追い、不審の件々をとくと糺問の上、それぞれ処置仕るべく存じ奉り、毛利淡路、吉川監物大阪表へ早々罷り登り候よう申し達し候ところ、登坂延引仕り候につき、自然、両人に於て差し支え候わば、外の末藩ならびに大膳の家老共のうち、申し合わせ、当月二十七日までに相違なく出る坂候よう重ねて申し達し候えども、今もって登坂の模様もこれなく、この上いよいよ違背に及び候わば、もはや寛宥の取り計らいも仕りがたく候につき、余儀なく旌旗(せいき)を進め、罪状相糺し申すべく存じ奉り候。尤も兵機は緩急、その外とくと熟考の上、遺算これなきよう処置仕るべく存じ奉り候。この段奏聞仕り候。

 聖上は、これを嘉納あらせられ、親しくなって黽勉〔勉め励み〕事に従うべしと詔あって、恩遇きわめて渥く、また御剣と陣羽織を賜わったが、それは、古代の節刀の儀式に凝したとのことである。将軍家は謹んで奉戴し、翌日大阪に帰った。





 外艦兵庫へ来る     これよりさき(六月十九日)、英、仏、蘭三国の軍艦九隻【注二】が兵庫港に舶し、切に開港のことを幕府に迫った。しかし、いまはその時機でないという理由で、幕府は要請に応ぜず、懇諭数十日に及んだが、事が決しない。
 ところが二十四日(九月)に、俄然、将軍家から使者を馳せて、左の手書を慶喜卿に渡し、卿とわが公とを召した。

一筆申し進め候。外国人と応接のため、昨日豊後守をつかわし候ところ、唯今罷り帰り、委細に承知候ところ、天下の重事じつに言語に絶し候次第に至り候間、即刻御下坂相成るべく候。
書外にて申し入るべく、他事これなく候。不備。なおなお、肥後守儀も御同道これあるべく候。


 老中からも書を贈って、慶喜卿の下坂を請うてきた。その大意。

一 国事の急務につき、極々すみやかに御下坂あそばさるべく候こと。

一 右の儀につき、関白殿へ仰せ上げられおき候こと。

一 前条の事件につき、近々御上洛あそばされ候こと。

一 なおもって、肥後守儀是非とも下坂候よう、きっと仰せ出だされ候間、この段御意相願い候。
くれぐれも速やかに、即刻、前後御考えに及ばず候間、御下坂専一に存じ奉り候こと。


 そこでわが公は、慶喜卿とともにただちに二条殿下に詣り、下坂の暇を請うた。殿下はこれを聞いて、事情はやむをえないとしても、中納言〔慶喜〕一人下坂し、守護職は任が重く輦下をはなれてはならないとのことで、二人が再願しても聴き入れられなかった。よって、重臣西郷近潔(勇左衛門)を慶喜卿に随伴させて、その事情を述べさせることにした。





 幕府開港を許す     二十六日(九月)、二条殿下は、わが重臣を召して、某々の諸藩士(肥後藩士浅井春九朗、久留米藩士久徳与朗とのこと)が幕府に重大な議があると聞いて、会津中将は列藩の嘱望する人であるから、是非とも下坂して、会議に出席すべきであると建議した。中川宮も、それに賛成し、相共に奏聞したところ、はやく下坂させよとの命があった。夜に入って(亥の刻)、伝奏衆が勅を伝えて下坂の暇を賜わった。
 その時、慶喜卿から、会議が終って帰京する旨を家臣に報じさせてきたので、しばらくその帰京を待ってから、下坂することを奏請した。
 暁になって、さきに大阪にやった家臣の西郷近潔が帰京して、慶喜卿からの伝言を伝えた。その大意は、はじめ慶喜卿が下坂してみると、老中から使番某を途中までつかわして、外国人との商議はおだやかに局を結ぶことになろう。ゆえに、総督も、守護職も下坂なさるには及ばないという知らせであった。慶喜卿は、事の委細を極めなければ帰京して奏聞のしようもないと思い、急に馬に鞭を打って、暁天大阪城に着き、ただちに老中に面会し、事の理由を問うた。
 阿部正外朝臣が進み出て、「英仏人が、かねがねの条約に改めて勅許を得るとともに、条約通り、兵庫開港のことにつき、明日中に許否の確答がほしいと迫ること切で、僕らが意をつくし、百万諭してみたが、彼らは頑として聴こうとしない。もし明日が過ぎたならば、闕下に推参するか、もしくは大阪城に詣り、親しく大君にあって談判しようと、辞色決然として、とうてい翻心させることができない。ゆえに、止むをえず開港を許すことに決定した」とのことである。





 天譴を覚悟     慶喜卿はこれを聞いて大いに驚き、勅許も得ずに、幕府がひそかに開港を許したことの不当を詰責した。
 正外朝臣と松前崇広朝臣が言うには、「勅許を得なかったことの不当は、僕らもとよりこれを知っているが、これを拒絶すれば、その場で手切れという返答なので、はたして開戦とでもなれば、我に勝算なく、結果は言うにしのびない辱を受けることになろう。万一の時は、上は天朝に対し奉り、うちは祖宗に対せられ、下は億兆の民に対して、半言の詫びの言葉もない。今、勅許を得ないでひそかに開港を許せば、たちまち天譴(てんけん)にふれ、海内人心の紛擾を招くことは、必至である。しかし、これを前件に比べれば、事の軽重は言を費すに及ばない。ゆえにまずこれを許して、予らで責任をとり、天朝に謝罪し奉るのほかに道はない。万一、朝廷で御許しがない節は、将軍家がお咎めを引いて職を辞し、謝し奉るとしても、国家に災いを及ぼすよりはましである」と言い、論弁してやまなかった。





 将軍嘆息するのみ     ここにおいて慶喜卿は、将軍家に謁して、老中を召し、「開港のことは今、防長処置の問題があるので、それが結着するまで、期限を延ばしてくれるように言葉をつくして諭したら、彼とても、了解しないわけはあるまい。万一、無謀にも彼から戦端を開いてきたら、そのときは、じつに止むをえない。今、勝手に開港を許して、天譴を蒙るようなことがあれば、諸藩はことごとく立ち上って、幕府に背き、海内は四部五裂となって、遂に収拾のつかない事態に至るかもしれない。その際に乗じて、外人が不逞にも国をうかがうような事態となったらどうなるか。卿ら、さらに熟考して尽力するように」と懇々諭してみたが、正外朝臣らは「事がすでにここまで来てしまっては、施すべき手段がない」として、卿の言葉に従う気色もない。ほかの老中は、また一言を発しない。
 将軍家もまた、「予は叡慮に従い奉ろうと誓いながら、時勢が非で、事が意のごとくにならない。聖恩に背く罪は逃れる路がない」と言って、慨嘆するばかりである。
 慶喜公は早速、わが公に手書を送って、その事情を詳報した。





 髭、月代剃るまじく候     わが公はこれを見て、大息して思うに、「不肖、職を奉じて以来、一億幕府を輔翼し、叡慮を遵奉させ、公武一和の実績をあげて、国家の安寧を保とうとする以外のことは考えなかった。そもそも横浜港をすら鎖(とざ)すようとの勅があるのに、いわんや、今また勝手に兵庫港を許可するにおいておや。朝廷から幕府に、どのような所罰があっても、弁解の道はない。わが微力では、天朝と幕府の間の融和につくす道は、すでに絶えた。職を辞して、罪を待つよりほかはない」と、すなわちその旨を重臣に諭し、左の訓戒を発するように命じた。

一 この度の御一条については、中将様にも深く御恐縮、御慎みなされ御座候間、御家中一統にも、きっと相慎み、いかにも恐縮、逼塞罷りあり、高声、高咄、かたく相禁じ申すべきこと。

一 髭、月代剃るまじく候。但し、御所堂上方へ罷り出で候面々は苦しからず候こと。

一 所々御屋敷当番の面々は、夜中、穏便に交代致すべきこと。






 井上元七郎     二十八日の暁天、大阪にある家臣広沢安任は、慶喜卿の旨をふくみ、馳せて京師に帰り、次のように報告した。
 慶喜卿から急にお召しがあり、命があって、さきに英仏等の腹を探らせるために、ひそかに大阪の町奉行井上元七郎を召して、内意をふくめ、阿部正外朝臣の使いと称して兵庫に至り、三国の使臣に会見して、「開港のことは皇帝陛下の裁可を得るのでなければ条約は締結しがたい。たとえ大君(将軍家)が一時の条約を結んでも、それは大君だけの私の約束にすぎない。それで、皇帝陛下の裁可をうるには、今からおよそ十日間の時日を要する。諸君が、日本帝国の真正の条約を欲するならば、しばらく待て」と言わせた。
 三国の使臣は、しばらくはそれを信じなかったが、元七郎が、「わが国の習慣で言葉の真実なことを証明するのに血誓ということがある。いま諸君のために、これをしよう」と言って、脇差の小刀を取って、指を指した。
 使臣らは、あわててこれを止め、前の失言を謝し、その請を容れて、言うには、「もし十日で決定しなければ、なお四、五日は延ばしてもかまわない。さきに酷しく強請したのは、急に迫れば事必ず成就すると教えた人があったからだ。貴国の事情が右のごとくならば、なにも今明日と限ったわけではない」という言葉であった。





 一座唖然とす     元七郎は馳せ帰って、このことを慶喜卿に具陳した。すぐさま一緒に登城して、老中らを集め、元七郎にその顛末を語らせた。
 一座は唖然とすりばかりであった。
 慶喜公は、正外朝臣、崇広朝臣に向って、「卿らはさきに、再三懇諭してみたが先方で承知しないと言ったが、どうしたわけか」と言うと、二人は大いに慚謝した。そこで、退いて、後の命を待たせた。
 幕府の評議はこれで一変し、明日は将軍が上洛あって、三国要求の顛末を奏上し、勅栽を仰ぐことに決したというのであった。
 わが公はこれを聞いて、手を額にあて、「不肖容保の報効の道は未だ絶えていない」と言って喜んだ。





 二老中罷免     この夕、慶喜卿が帰京した。そこで、相共に参内して、明日、将軍家が上洛の由を奏上した。
 ところが、すでに二十九の昼すぎになったが、将軍家の上洛がない。すぐに大阪からの伝説があって、阿部、松前両閣老が事にあたり、幕府の評議がまた変ったと言うのである。
 そこで慶喜卿は、わが公と定敬朝臣を招き、「将軍家上洛の遅延した理由を奏上しなければ、朝廷に対して失礼となる。それに、正外、崇広の二朝臣が依然として政務をとるとなると、必らず紛議が起るであろう。急に行って処置しなければ、おそらく悔いても及ばないことになろう。察するところ、事態は容易ではない。中将も共に行って力をつくしてほしい」とあって、相共に参内し、殿下から事の次第を奏上し、下坂の暇を請うた。
 殿下は、守護職の下坂をゆるさず、また言うには、「近日の面倒は、全く阿部正外と松前崇広の二人から出たものである。速やかに勅旨を下し、二人に厳刑を加えれば、事がうまくゆくのではないか」とのことであったので、慶喜卿とわが公は、二人のために哀請し、ようやく殿下を承知させた。
 しばらくして勅があり、阿部正外、松前崇広の二人の官位をうばい、領地に帰って、後命を持たせるようにとあった。また徳川慶喜が急いで下坂し、大樹の上洛を促すようにとのことであった。この間、数刻の時をすごし、暁近くなって、二人はようやく退朝した。





 茂徳卿らの動向     その頃、徳川大納言茂徳卿(尾張藩主、後に茂栄と改めた)と老中小笠原長行朝臣とがともに伏見まで来て、何事か奏請しようとしていると報じてきた。わが公はさきに、正外、崇広の二人を罪し、将軍家の上洛を促すこととなれば、旗下の動揺【注三】が甚だしかろうと憂慮していたところへ、今茂徳が老中とともに入朝しようとしていると聞き、これは必らず一紛議があったに違いない、予が出向いて、朝旨を開示しなければ、どのような事変になるかもしれないと思って、慶喜卿に謀り、殿下のもとに詣って、下坂の暇を請うた。
 殿下は依然として許さず、「まず伏見に行って、徳川茂徳、小笠原長行の来意を尋ねよ」と言われた。そこでわが公は馬を飛ばして、伏見に赴いた。じつに十月朔日、申の刻〔午後四時頃〕のことである。
 つづいて慶喜卿、定敬朝臣も来て、茂徳卿の館に詣り、その来由を問うた。すると、卿は「この事は秘密で、奏上に先立って漏らすわけにはゆかない。ただ諸君は、その通りに奏上せよ」と言って、慶喜卿が一、二耳にしたことについて質問しても、答えない。
 慶喜卿は憤然として座を立ち、定敬朝臣とともに京師に帰った。その時に、長行朝臣は未だ到着していなかったので、わが公もまた家臣一、二人を残して、京師に帰った。





 わが公茫然自失     二日の暁、長行朝臣が伏見に着いた。わが家臣が、わが公の命をうけてこれを迎え、来意を問うたが、長行朝臣は「じきに貴邸を訪ね、肥州に会って話そう」と言うだけで、他は答えない。
 晩になってから、長行朝臣が来て言うには「事秘密に属するのであるが、いささか大意を告げよう。一つは開港の勅許、一つは将軍職を慶喜卿にゆずることの奏請である。決して他にもらさないように」とのことであった。わが公はこれを聞いて、茫然自失し、一語も発することができなかった。
 けだし、両条とも至大の重事で、殊に将軍職の謙職のことのごときは、あらかじめわが公に諮詢してしかるべきなのに、ひたすら秘密のうちにこの大事を奏請するに及んで、なおその事情の委曲を告げもせず、従来の重き委任を無視するのは、じつに意外なことであって、わが主従は憮然とするばかりであった。





 将軍辞任の上表     この日、茂徳卿から左の上表があった。

臣家茂、幼弱不才の身をもって、これまでみだりに征夷の大任を蒙りながら、日夜勉励も及ばず罷りあり候ところ、内外多事の時にあたり、上は宸襟を安んじ、下は万民を鎮むる能わず、加うるに国を富まし、兵を強うして、皇威を海外に輝かし候力これなく、ついに職掌を汚し申すべしと痛心のあまり、胸痛強く、鬱閉致し罷りあり候。
しかるところ、臣家茂家族の内にて、慶喜儀は年来闕下に罷りあり、事務にも通達仕り、大任に堪え申すべく存じ奉り候につき、臣家茂退隠し、慶喜に相続仕らせ、政務を相譲りたく候間、臣家茂の時のごとく、諸事御委任下しおかれ候ように希い奉り候。尤も、当今、時務の儀については、別紙をもって奏聞仕り候間、右慶喜へ御沙汰御座候よう願いおき奉り候。


 別紙
臣家茂、謹しみて宇内の形勢を熟考仕り候ところ、近来、追々変遷致し、和親を結び、有無を通じ、互いに富強を計り候風習に推移候。
これ天地自然の気数、止むをえざるの勢にこれあるべく存じ奉り候。ついては、皇国に限り一向御外交存じなされず候わでは、卑怯退縮の姿と相成り、御国体、御国威とも相立ち申すまじく、すでに先年、下田港において【注四】、アメリカ使節と和親条約を取り替わせ相成り候も、右等斟酌の上、奏聞をとげ、御許容相成り候儀にて、それ以来、追々鎖国の旧格を変じ、富強の基ゆうやく相開き候ところ、その後、外交拒絶の儀仰せ出だされ候につき、成るべきだけは聖諭遵奉仕りたき志願に御座候えども、無謀の掃攘は致すまじき旨、なお仰せ出だされ候趣もこれあり候間、いずれにも富国強兵の策相立ち候上ならでは、膺懲の典も行なわれがたく、ついては、彼の長ずる所を採り、貿易の利をもって多くの船礟〔軍艦大砲〕を設備し、夷をもって夷を制するの術を講じ候こと、当今第一の急務と存じ奉り候。
これまで種々苦心罷りあり候折から、防長の事件相起り、遂に大阪城まで出張仕り候ところ、料(はか)らずも夷舶兵庫港へ渡来し、条約の廉々(かどかど)、改めて勅許これあり候よう申し立て、もし臣家茂に於て取り計らいかね候えば、彼闕下へ罷り出で、直に申し立つべき旨申し張り、種々論談をつくし応接仕り候えども、なにぶん承諾仕らず、さりとて無謀の干戈をうごかし候ては、必勝の利おぼつかなく、たとえ一時の勝算これあり候とも、四方環海の御国柄、東西南北、旦(あした)に暮に攻掠を受け候て、戦争やむなき時は、皇国の生民の糜爛(びらん)このときより相始まり申すべく、不仁不慈、この上はこれあるまじく、まことにもって嘆かわしき儀、臣一家の存亡は差し置き、宝祚の御安危にも関係仕り、じつもって容易ならざる儀にて、陛下万民を覆育あそばされ候御仁徳にも相戻り申すべきや。
臣家茂に於ても、職掌相立ち申さざる間、右等のところ、とくと思し召し分けさせられ、恐れながら、衆口にも御動揺これなく、断然と御卓識を立てさせられ、なにとぞ改めて条約につき、虚を去り、実を存じ、至当の談判仕り候儀、判然と勅許成し下され候よう仕りたく、さ候えば、いかようにも尽力仕り、外は外夷制馭の実備を立て、内は防長追討の功を遂げ、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民を安堵せしめ、祖先の志に報い申すべき志願に御座候。いかように英武の御国に候とも、万一内乱、外寇一時にさしあつまり、西洋万国を敵に引きうけ候ては、ついには聖体の安危にもかかわり、万民塗炭の苦に陥り候は必然の儀にて、まことにもって痛哭、慨嘆の極み、かりにも治国、安民の任を荷い候職務に於て、いかよう御沙汰御座候とも施行仕り候儀は、なにぶんにも忍び嘆く存じ奉り候。
よって、前文申し上げ候通り、速やかに勅許の御沙汰を成し下され候わば、宝祚の無窮、万民の大幸この上なく、千々万々、懇願し奉り候。まこと不任、悲嘆、号泣の至りと存じ奉り候。尤も、外夷、闕下に罷り出で候よう相成り候ては、深く恐れ入り奉る儀につき、せいぜい尽力、談判をとげ、来る七日まで兵庫港へ差し控えさせ候間、なるべく早々御沙汰成し下され候よう仕りたく、この段奏聞し奉り候。


 幕府はまた井上元七郎を兵庫につかわし、三国の公使に会見して、十日間の延期を締約した。





 東帰引止めに奔走     三日(十月)、わが公は慶喜卿のもとをたずね、将軍家よりの上表の件については商議した。その時に、大阪から飛報があって、将軍家が東帰の令を発し、今夜伏見に宿泊すると知らせてきた。つづいてまた、東帰は海路をとり、いま船の支度中であるとも言ってきた。
 わが公は、愕然として蹶起し、今日将軍家が東帰されれば、大事はことごとく去るだろう、引き止めねばならぬとして、奏請するいとまもなく、馬を馳せて淀橋まで来ると、はやくも旗下の武士が隊を整えて前進してくるのに出会った。そこで、東帰の路程を尋ねると、「将軍家は陸路を帰られることとなり、僕らはその前駆であります」と答えて、過ぎていった。
 その時、また大阪から飛報があり、将軍の東帰は陸路であるとのこと。時はすでに申の刻〔午後四時頃〕を過ぎていた。定敬朝臣もまた馳せてきて、共に伏見まで帰った。
 そこへまた総督が追いつき、伝奏衆からのわが公への左の勅を伝えた。

実否計りがたく候えども、大樹の東帰の催しこれあるかの由、風聞候。ただ今もし東帰候ては、たちまち混雑大事に及ぶべく候間、滞坂これあり候よう、早々下坂し、尽力これあるべき旨御沙汰候事。





 紛々たる報知     その時、流説があって、将軍は陸路で帰ると見せかけて、じつは海路をとるのだという。そこでわが公は、慶喜卿とともに、急に淀に向った。そこへ、たちまち飛騎が来て、「陸路をとられるのが真実です」と言う。それでは、とわが公たちが轡(くつわ)を返そうとすると、さらに海路であるという知らせ。一報一説、紛々として、いずれが真実で、いずれが偽報なのか、見当がつかない。
 しばらくして、また報があって、台駕は今夜、枚方(ひらかた)に泊るとのこと。日はまさに暮れんとしていた。
 わが公は、報告が転変して信を置くことができない。もし逡巡していれば時期を失う、速やかに枚方にゆくよりほかはないとして、定敬朝臣を京師に帰して、守護に充(あ)て、夜の四つ半〔午後十一時〕頃、慶喜卿とともに川舟に乗って伏見を発し、橋本までゆくと、また早馬が飛んできて、「台駕はすでに枚方を出発して陸路を数里も進んでいる。暁方には伏見に着くだろう」と知らせてきた。
 そこでまた、急に舵を転じ、川をさかのぼって、伏見に帰って待っていると、果して、四日未明に、将軍家の駕が伏見に着いた。
 定敬朝臣もまた京師から駈け来って、相共に将軍家に謁し、「条約開港の事は、元来叡慮の厭(いと)わせられることではあるが、今日の時勢はもはや前日の比ではないので、よろしく情状をつまびらかにさせて奏請し、臣らもまた至誠をつくして奏請すれば、聖明も必らず照鑒(しょうかん)を垂れ賜うであろう。それに、防長のことが未だ結局していないのに、中途でにわかに東帰されれば、たちまち天下人心の帰嚮を失い、これを挽回することは不能である。従って、祖宗の業も、これで地に堕ちることになろう。願わくば台駕を二条城にとどめ、朝旨を奉じて庶績を挙げるように」再三苦請したので、将軍家の心もようやく釈(ひら)け、これを嘉納して、ただちに東帰をとりやめ、二条城に入った。





 条約勅許を上書     そこで、慶喜卿、わが公、定敬朝臣、長行朝臣らが参内して、伝奏衆から左の書を奉った。

この程、計らずも外国人兵庫港へ渡来し、条約の儀を改めて勅許これあり候よう申し立て、もし幕府に於て取り計らいかね候わば、闕下へ罷り出で、直に申し上ぐべき旨を申し張り、種々力をつくし応接仕り、来る七日までは相控え候えども、いずれにも御許容これなく候わでは、退帆仕らず、さりとて無謀の干戈(かんか)を動かし候えば、必勝の利おぼつかなく、たとえ一時の勝算これあり候とも、わが一孤島の地をもって西洋万国を敵に引き受け候えば、幕府の存亡はしばらく差し置き、ついには宝祚(ほうそ)の御安危にも拘わり、万民は塗炭の苦を受け申すべく、まことにもって容易ならざる儀にて、陛下万民を覆育あそばされ候御仁徳にも相戻り、ついに治国安民の任を荷い候職務に於て、いかよう御沙汰御座候とも施行仕る儀、何分とも忍びがたく存じ奉り候。右のところ、とくと思し召し分けなされ、早々勅許成し下さられ候よう仕りたく、さ候えば、いかようにも尽力仕り、外国船退航仕り候〔よう〕取り計らい申すべく存じ奉り候。以上。





 条約遂に勅許     書を奉ったが、朝廷はしばらく可とせず【注五】、明日(五日)、加賀、薩摩、肥後、肥前、越前、土佐、久留米その他十五藩の重臣三十九人を召して、このことを諮詢した。わが公は家臣野村直臣、広沢安任、手代木勝任、上田伝治らを評議に参加せしめた。
 諸藩の議論は、それぞれ趣を異にしているが、おおむね大同小異で、開港許可は止むをえないというところに帰着し、ただ一、二藩の異議があったのみであった。これで評議ははじめて決定し、この夜、伝奏衆から優詔を垂れ、将軍の譲職をお許しなく、また開港条約について左の勅を賜わった。

このたび兵庫表へ異船渡来につき、作四日大樹より一橋中納言、松平肥後守、松平越中守、小笠原壱岐守をもって、段々遮って言上の次第これあり、夜を徹し、今晩に至って追々議論し、今日諸藩共を召させられ、御尋問のところ、十に八九は御許容しかるべしとの衆評暗合し、まことに止むことを得させられず、別紙の通り仰せ出だされ候事。
十月五日
条約の儀、御許容あらせられ候間、至当の所置致すべき事。
別紙の通り仰せ出だされ候については、これまでの条約は品々不都合の廉(かど)これあり、叡慮に応ぜず候につき、新たに取り調べ伺い申すべく、諸藩衆評の上にて御取り極め相成るべき事。
兵庫の儀は止められ候事。


 



 外舶悉く去る     ここにおいて、数年の間むすばれて解けなかった条約の問題は、はじめて解決をえたわけである。将軍塚は、これを奉戴して、謹んで左の書を奉った。

臣家茂、幼弱不才の身をもって大任を蒙り、内外多事の時にあたり、遂に職掌を汚し申すべく、且つ近来胸痛、鬱閉の症を相発し、大任に堪えがたく存じ奉り、叡慮の程をも顧みず、退隠の願書を差し出し候ところ、御沙汰に及ばれがたき段、仰せ出だされ、何とも当惑仕り候。
もとより決心仕り候儀、今更思い止まりがたく、再願仕りたく再三再四熟考仕り候ところ、これまでの不行届は御咎めもこれなく、加うるに御沙汰に及ばれがたきとの朝命を蒙り、感激のあまり病を推して出勤仕り、従前の非を改め、日新の徳を修め、浮華を去り、質実をつとめ、政道を確然と相立て候上、上は宸襟を安んじ、下は万民を保ち候ようお呼ばずながら勉励仕るべく存じ奉り候。これによって、謹んで申し上げ奉り候。


 右のごとく条約の勅許があったので、すなわち老中松平宗秀朝臣、大目付永井玄蕃頭(主水正尚志)、大阪町奉行井上主水正(初名元七郎)を兵庫にやって、三国の公使にその旨を通じ、さらに横浜で商議するように伝えさせた。公使らはこれを了承して、八日、九日の二日の間に、ことごとく兵庫を解纜(かいらん)して横浜に向った【注六】。




 わが公の苦労     思えば、はじめわが公は攘夷の不可能なことを知り、守護職に補せられた時、まず幕府に書を奉り、三港(長崎、函館、横浜)の開港をゆるし、他の港を拒絶することを建議した。守護職の職について、上京するに及んで、叡慮が固く攘夷にあるのを知って、如何ともしがたく、持論を変えるわけではないが、謹んで叡慮に奉従していた。ただ心中では、常に叡慮をひるがえされる時のくることを望み、ひたすら公武一和に尽瘁してきたのである。
 今や幕府が開港の勅許を請うに及んで、大勢のやむをえないことを洞察し、遂に意を決して、これに賛同した。この頃には、朝廷の当路の人々もまた、攘夷が不可能で、開港のやむをえないことがわかっていたけれども、前説をたやすく変えるとの誹(そしり)をはばかって、しばらくはこれに賛同しない人が多かったので、わが公は、公用人を諸藩の有志の人のもとにやって遊説させ、遂に十余藩の会議にまでもちこみ、開港の勅許をこうむるに至ったのである。
 わが公は、この事に関して、前月二十五日からこの日までの間に、伏見に馬を馳せること二回、その他、公卿の間をあちこち奔走すること十日、その間、ほとんど寝食の暇もない有様であった。蒲柳(ほりゅう)の質の上に、病上りの労躯であったわが公に、万一のことでもあってはと、家臣どもは、深く憂慮していた。





 薩長連合の風説     この月(十月)二十七日、将軍家の参内があり、前件の恩を謝した。わが公が扈従したことも例の通りであった。越えて十一月三日、将軍家は大阪に行った。
 これよりさき、長門藩がひそかに薩摩、土佐の諸藩と相和しているとの説が、ようやく聞えてきたので、幕府は大目付永井玄蕃頭、目付戸川鉡三郎を安芸につかわし、不審数件【注七】について審問させた。わが公もまた新選組の頭取近藤勇を随伴せしめ【注八】、十一月七日、一同は大阪を出発した。





 近藤勇の報告     この月(十二月)二十二日、新選組の頭取近藤勇が帰京して、長防の情勢を報告した。その大略は、

一 芸州に来りたる長門藩家老宍戸備後介は、その実、奇兵隊用掛、山形某と称する軽輩にて、その余もみな偽名【注九】なること。

一 君臣、陽に謹慎、恭順を表すといえども、陰に戦闘の準備に汲々たること。

一 山口に会議所を設け、諸隊より選抜の者これに会し、諸事を決し、且つ削封は、寸地もこれを背(がえん)ぜずと主張し、諸藩もまたひそかに征長を可とせざること。

一 芸州出張の旗下の兵、彦根、榊原らの諸藩兵、勇気沮喪甚だしく、これをして戦わしむるも勝算おぼつかなきこと。
右のごとき情態につき、長門藩は謹慎恭順を表し、伏罪の形にこれあるについては、この上ふかく取詰るに及ばず、寛大の御処置の方しかるべくと存じ奉り候。


 この夕、永井玄蕃頭が上京し、書面をもって具陳してきたことも、ほぼこれと同じであった。
 そこでわが公は、定敬朝臣とともに慶喜卿の館にまいり、再三審議のはて、遂に小笠原長行朝臣、若年寄の稲葉兵部少輔正己、大目付永井玄蕃頭に、なお室賀伊予守を加え、更に安芸につかわし、敬親父子を糺問することに決し、二十五日、永井玄蕃頭と滝川播磨守に書面をもたせ、大阪にやって、このことを建議した。しかし、幕府は躊躇して、しばらくその採否を決しようとしなかった。





 慶応元年は暮れぬ     二十七日、わが公が召しによって参内したところ、伝奏衆、野宮定功卿から、左の恩詔を賜わった。

山陵多年荒蕪に及び、かねがね恐れ思し召され候ところ、去る文久二年、大樹においては、御修補の儀を尊奉し、一切戸田越前守へ委任、同人の代として同性の大和守を上京せしめ、五畿内、丹州の諸山陵百有余個所の御修補【注十】、すみやかに成功相成り候段、畢竟、発業の砌(みぎり)、厚く評議の上差図致し候ゆえ、積年の叡慮一時に遂(と)げさせられ、御追考相立ち候段、御満足に思し召され、よって御賞として裏付の狩衣賜わり候事。

 わが公は、これを拝戴し、恩光一層を加えて、ここに慶応元年も暮れていった。





 再び毛利処分案     慶応二年正月四日、わが公は参内あって、小御所で天顔を拝し、正月の賀を述べ奉った。例年通りである。
 これよりさき、幕府は徳川茂徳卿を征長先鋒総督に任じたが、卿は辞退して受けなかった。思うに、その兄慶勝卿が再征に不賛成であったからである。そこで、徳川茂承卿を総督とし、茂徳卿に後殿(しんがり)を命じたが、この日、これを罷(や)めて、茂徳卿を江戸城の留守とした。
 去歳、わが公は慶喜卿、定敬朝臣らとともに、老中小笠原長行朝臣を安芸につかわして、毛利敬親父子を糺問せしめるよう幕府に建議した。幕府はその時は問題にしようとしなかったが、この歳になってから、老中板倉勝清朝臣、小笠原長行朝臣を京師につかわし、わが公と定敬朝臣を慶喜卿の館に会し、台命を伝えて、敬親父子の糺問のことはしばらく惜いて、特に寛大の処置をとるよう建議せよとのことである。
 慶喜卿はこれを非とし、糺問してから後にその罪を論ずるのでなければ、国家の典刑が立たないと、前からの持説をひるがえさない。勝清朝臣らは退いてから、ひそかにわが公に「中納言〔慶喜卿〕の言葉も理がないではないが、方今の情勢では実行困難である。どうか中納言を説き伏せて、台旨に従い、寛大な処置をさせるようにしてほしい」とのことであった。
 公はそこで、そのことを慶喜卿に告げ、ふたたび卿の館で会合した。慶喜卿の言うには、「長防〔三十六万九千石〕のうち、十五万石を与え、その余はとりあげ」とのことで、わが公と定敬朝臣とは、半分を削るべしという意見である。勝清朝臣が進み出て、「江戸の同列の意見では、十万石を削ることに決まり、台慮もまたすでに寛大を旨とされている。公らもまた台慮を体して、再考されたい」と言ったので、慶喜卿も、その半分を削る議に賛同した。
 しかし、勝清朝臣は固く前議を主張するので、遂に決定を見ず、その後、また勝清朝臣は、慶喜卿の館で会合することを求めたが、慶喜卿は人をやって、前日通りの議ならば会う必要がないと拒絶させた。勝清朝臣が再三請うたが、慶喜卿も頑としてきかない。そこで勝清朝臣らは憤然として、議が決しないままでいたずらに数日を経るのに忍びず、大阪に下って事由を将軍家に上陳すると言って、下坂の途に就いた。
 慶喜卿は勝清朝臣の下坂の決心を開くと、急にわが公と定敬朝臣に使いを出して、それを止めさせようとした。しかし、勝清朝臣はそれをきかず、下坂した。ほどなく勝清朝臣は上京し、慶喜卿の館に、わが公と定敬朝臣とを会し、十万石を削って父子を隠居、蟄居させるという台命を演達した。





 十万石取り上げ     そこで二十二日(三月)、相共に参内して、左の書を奉った。

毛利大膳父子、家政行き届かず、家来共一昨年七月、父子の黒印の軍令状【注十一】を所持し、京都へ乱入し、禁闕に対し奉り発砲に及び候段、天朝を恐れざる所行、不届き至極につき、大膳父子を厳科に処すべきところ、益田右衛門介、福原越後、国司信濃らに於ては、条々の主意を失い、非礼非義、暴動に及び候につき、三人を斬首して実検に備え、並びに参謀の者共にそれぞれ誅戮を加え、任用人を失うの段深く入り、侮悟伏罪し、相慎み罷りあり候趣、自判の書をもって申し立て、なおその後疑惑の件々相聞き候につき、永井主水正、戸川鉡三郎、松野孫八郎を差しつかわし、相糺(ただ)し候ところ、いよいよ恭順、謹慎罷りあり候趣につき、大膳父子の朝敵の罪名を相除き候。
さりながら、畢竟、不明にして統御の道を失い、家来の者、朝敵の名を犯し候段、その科軽からず、然りといえども祖先の忠勤を思い、格別寛大の主意をもって、高の内十万石を取り上げ、大膳は隠居、蟄居、長門は永の蟄居、家督の儀は、しかるべき者に相続申しつくべく候。右衛門介、越後、信濃の家名の儀は、永世断絶たるべく候。この段奏聞を遂げ候。以上。


 朝廷でも左の詔を下して、これを裁可された。

長防の処置の儀、祖先より勲功もこれあるにつき、寛典を行なわるる思し召しの儀を決議言上し、聞し召され候。なお、国内平穏、宸襟を安んじ奉るよう仰せ出だされ候事。

別紙
長防の処置の儀、決議言上、昨日聞し召され候えども、自然疎暴の処置これあり候ては、内憂外患の治乱にかかわり候儀につき、かたがた宸襟を悩ませられ候間、人心紛乱致さざるよう、公明至当の処置致すべく仰せ出だされ候事(正月二十三日)。

 二十六日に至って、さらに左の勅命を下された。

長防の処置の儀、決議申し含められ候。方今の形勢、外患内憂、紛乱にては、国体において深く宸襟を悩ませられ候間、仁恵をもって早々に至当の処置を施し、国内平穏に、宸襟を安んじ候よう仰せ出だされ候事。

別紙
拾万石いよいよ取上げに於ては、せいぜい下田(げでん)を撰び、拘乱せざるよう厚く勘弁あるべく、決して疎暴の処置これなきよう、かたがた申し入れおき候事(正月二十六日)。





 小笠原長行広島へ     これによって、幕府は老中小笠原長行朝臣に長防所置の全権を委ね、左の条章をさずけて、広島につかわした。

一 長防の処置の儀、全権を与え候間、万事見込み通り、十分に取り計らい申すべき事。

一 事の緩急により、必ず出馬致すべき事。

一 処置ずみの上は、速やかに上洛候条、必らず東下は致さざる事。
右の条々、その意を得るべきもの也。


 また、大目付永井玄蕃頭および室賀伊予守以下の有司を随従させた。みな、去年わが公等が建議した通りになったのである。
 越えて二月四日より、長行朝臣以下が前後して西に下った。

  



 薩藩出兵を拒む     この時にあたり、諸藩では長防再征の非を鳴らして、朝廷や幕府に建白するものが日に日に多きを加え、薩摩藩のごときは【注十二】、まったく前日の所思をひるがえし、断然として出兵の命を拒んだ。そのために、朝議がややもすればその方に傾きそうになるのであった。
 薩摩藩が幕府に奉った書にいわく、

即今、内外危急の時節、防長の御処置の儀、その当否によって皇国の御興廃に相成り候重事にて、まことにもって容易ならざる御儀に候ところ、追々御達しの趣もあらせられ、なおまた、来る二十一日までに大膳父子等召し呼ばれて、もしこの度、御請け仕らず候えば、速やかに御討入りに相成り候につき、その旨相心得、御指図を待ち奉り候よう仰せ渡され候趣、承知仕り候。
一昨年、尾張前大納言様総督として御差し向け、伏罪の筋相立ち、解兵と相成り候ところ、かえって御譴責同様の御都合にて、なかんずく神速に御上洛の朝命を御請けこれなきのみならず、改めて容易ならざる企てのこれある由をもって、御再討を仰せ出だされ、御進発に相成り、ついに今日の形勢に立至り、御討入りの時宜に相成り候えば、天下の乱階を開かせらるるの事実明白なる事に御座候。朝廷より、時世相応の御処置をもって、寛典に処せられ候御趣意もあらせられ候ところ、御奉戴これなき由伝聞仕り、天下衆人の物議喧々として聞くに堪えざる次第に御座候。
征伐は天下の重典、国家の大事にて、後世青史に恥じざる名文、大義判然として相立ち、その罪を鳴らし、令を聞かずして四方響応致し候ようにこれなく候わでは、至当と申しがたく、もっとも凶器、妄(みだ)りに動かすべからざるの大戒もこれあり、当節、天下の耳目相開き候えば、無名をもって会機【注十三】振るうべからざるは顕然、明著なる限りに御座候。万々一にも国人の討つべからずと謂うに於ては、かえって撥乱済世の御職掌にて、動揺を醸し出され候場合に相当り、前条の天理に相戻り候戦闘は、大義に於て御請け仕りがたく、たとえ出兵の命令を承知仕り候とも、やむをえず御断り申し上げ候間、虚心をもって御聞きとどけ下され候よう願い奉り候。右の趣、京都詰重役共より申し上げ候よう申し越し候間、この段申し上げ候。以上。(四月十六日)






 諸藩も出兵を拒む     征長の出兵を拒んだ他藩の論も【注十四】、ほぼこれに類似したものであった。
 これらの藩々の論のなかで、主眼とするところは、三家老以下謀臣の斬罪、父子の寺院蟄居、山口城の破却、五堂上【注十五】の引渡しなどをもって、長州に対する所罰は終局したもののように考えたようである。しかし、家老等の斬罪、蟄居は、彼らの方からただ侮悟、謹慎を表したのにすぎず、山口の旧城を再建したことが、当時行われていた法令に違背【注十六】したものであるから破却させただけで、このことを長州藩の処罰と見ることができぬことはもちろんである。また五堂上の引渡しも、五人の人々に対する処罰の手続きであって、長州に関したことではない。それなればこそ、長州でも処分が結了したとは認めていないで、「なにぶん御沙汰を待ち奉り候」と、自判の証書に記してあるではないか。慶勝卿が広島より陣払いをして京師にのぼり、長州の伏罪を上奏したときの勅令に、「この上は防長の処置の儀は即今の急務」とあり、前にのべた四ヵ条が長州処罰の結了であったら、どうして即今の急務であるはずがあろう。
 処分が未済であることは、上は朝廷、幕府から諸藩にいたるまで、これを認めている事実は明瞭である。それを早忽にも慶喜卿が、幕府の命もないのに兵を解散させてしまったので、長藩の処罰が困難なことになり、そのため時日は遷延し、薩摩藩などに無名の死に兵を出したくないという口実を与えることになってしまったのだ。それも畢竟は、老中連中が因循なために機会をのがし、遂に救いがたい結果を招くに至ったものである。





 小笠原長行の苦境     長行朝臣らが広島まで行っても、これがために奮って命を行なうことができず、ひそかにわが公に書を贈って事情を訴えてきた。左に録して、当時の情勢の一斑を示す。

去る四日大阪表を発程、同七日の夕芸州に着き仕り候。出立前より風邪気にて、大いに快方にはおもむき候えども、いまもってすきっと致さず、日々寄合いは致し候えども、なにぶん疲労甚だしく、右ゆえに御文通も延引に相成り候段、何とも恐悚し奉り候。
さてその後、御所中もいたって静謐の由、まったくいろいろ御骨折の儀と千万ありがたく、うしろ髪ひかれ候ようの懸念もこれなく、まずまず安心、この上とも御尽力ひとえに願い奉り候。
御栽許申し渡しも段々と延引と相成り、さぞさぞ御はがゆく思し召さるべく、遥かに察し奉り候。ようやく付人の人数も相揃い候間、処置に取りかかり候心得に御座候。
防長の模様も着後かれこれ承り候えども、なにぶん、しかと致し候事相分らず、当表へもなにか相応に入り込みおり候やにも相聞え、日々飲酒等にてしゃれおり、殊の外不行跡の様子に御座候。当領主格別の寛大にて【注十七】、右等の儀は一向に頓着致さず、そのまま差し置き候様子に相見え候。御裁可申し渡しの儀も、一旦は異議なく御請け申し上げ、その上にて嘆願など差し出し申すべきやの模様に相聞え候。万一、今一層寛大の御沙汰等、再三、再四嘆願致し候わば、その時、御所より、またなんぞ御沙汰候の儀も計りがたく、右様に御座候ては、処置は決して出来申さず候。
なにさま手を替え、品を替え、願い出で候とも、御所にて一切御取り上げこれなきよう致したく、万々一にも、嘆願の主意により取り上げずしては叶いがたき儀もこれあり候わば、小生より早早に申し上ぐべく、身不肖ながら小生儀は、上より全権を御付与下されて当地へ出張致しおり候上は、取り用うべき事は速やかに取り上げ、また取り用いがたき儀は差し押え候間、たとえ筋相もっともに聞し召され候とも、外方より願い出で候儀を御取り上げは堅く御無用に願い奉り候。この儀御採用これなく、筋ちがいの所より出で候事を御取り上げ御座候ては、なにぶんにも処置出来かね、つまり天下の御大事と相成り申すべく候間、皇国の御為を思し召され、よくよく御勘考あらせられ候よう、前もって関白殿、賀陽宮〔中川宮〕様その外へも仰せ上げられおき下され候よう懇祷し奉り候。
右等の儀は、かねて堅く御契約申し上げ候事ゆえ、またまた申し上げ候てはなにか尊君様を御頼みがいなく存じ上げ候ようにて、畏縮至極に御座候えども、御所のところ、なにぶん懸念に堪えず、くどくも申し上げ候段、深く御推察希い奉り候。もっとも、一橋殿へも申し上げ、越中守へも申しつかわし候間、御一同御一致にて、御所の予防、御尽力くれぐれも希い奉り候。右の段申し上げたく、かくのごとくに御座候。微衷深く御諒察下さるべく候。頓首謹言。(二月十三日)






 形勢日々に非     時に、形勢は日を追って非になり、事々に予期に反して逆行する事が多いので、朝議で万一の変替があってはと、四月六日、守衛総督、守護職、所司代が相携えて二条殿下および中川宮を訪ね、長防の処置について、他よりいかなる手段で何事かを建議があっても、すでに幕府に委任の詔のある上は、断乎として斥け、幕府をして委任の実功を立てさせるよう内請したところ、叡慮はすでに確乎としているから憂慮には及ばぬと慰諭された。





 倉敷代官所を襲う     この月(四月)十日、長門藩の亡命の徒が【注十八】、備中の倉敷の代官所と浅尾藩等に来攻した。
 藩主蒔田相模守広孝は、京都見廻組の組頭の役にあったが、この報を聞いて、いそいで帰国してこれを討伐することを願い出た。朝廷はこれを許されたので、わが公は家臣を随伴させた。しかし、未だ国元に着かないうちに、備前藩、松山藩の兵が賊を撃って、事は平定した。
 二十日、さきに八幡、山崎の関門営築が竣功したので、この日、幕府からわが公に、時服十五襲(かさね)を賜うて、その功を賞され、また、そのことに直接当った家臣に、時服と白銀を功の差に従って、それぞれ賜うた。
 これよりさき、すでに広島に着いていた長行朝臣は、同所の国泰寺で、大目付永井主水正、室賀伊予守、目付松野孫八郎など列座のうえ、毛利敬親の家臣ならびにその分家四家の家臣に、左のような申渡しをした。

毛利大膳、同長門、家政不行届にて、家来の者黒印の軍令状を所持して京師へ乱入、禁闕へ発砲候条、天朝を恐れざるの所業、不届至極につき、厳科に処すべきところ、任用人を失い、益田右衛門介、福原越後、国司信濃、出先に於て条々の主意を取り失い、暴動に及び候段、罪科のがれがたく、深く恐れ入り、三人の首級を実検に備え、なお参謀の者共斬首申しつけ、寺院に蟄居し相慎み罷りあり候旨、自判の書面をもって申し立て、その後、御疑惑の件々相聞え候につき、大目付をもって御糺問のところ、いよいよ恭順、謹慎罷りあり候由、申し立ての趣は御聞き届け相成り候えども、元来、臣下統御の道を失い、家来の者に至るまで朝敵の罪を犯し候段、その科軽からず、不埒の至りに候。
さりながら、祖先以来の勤功も思し召され、格別寛大の御主意をもって御奏聞の上、高のうち、十万石を召し上げられ、大膳は蟄居、隠居し、長門は永蟄居仰せつけられ、家督として興丸〔毛利敬親の孫〕へ二十六万九千四百十一石を下され候。家来右衛門介、越後、信濃の家名の儀は、永世断絶たるべき旨仰せ出だされ候事。(五月朔日)


 そして、期日を定めて、敬親父子の奉命の請書を徴することとした。





 遂に討伐軍進む     たまたま彼の藩臣が内訌を生じ【注十九】、百数十人が亡命するなど、紛擾を極めているという理由で、再三延期を請うばかりか、芸州にいる彼の重臣宍戸備後介(今の宍戸璣)、小田村素太郎(今の揖取素彦)らが、病気と言って、命を奉じない。その上、長門藩亡命の徒が備中倉敷などで暴挙の報があったりして、長行朝臣は大いにその不逞を怒り、五月九日、まず備後介と素太郎の二人を広島藩に拘禁した。二人はその罪を弁疎したが、聴かず、再三違勅の罪を鳴らして、断然討伐と決定し、その事情を幕府に報じ、六月二日、長行みずから豊前に航し、小倉口の軍を督した。
 幕府は長行朝臣の報によって、急に征長総督徳川茂承卿を進発させ、老中松平宗秀朝臣が副将となり、この月(六月)五日、広島に入った。





 征伐の顛末を上奏     七日、幕府は左の書を奉って、その顛末を上奏した。

五月朔日、毛利大膳父子に裁許を申し渡し、興丸へ家督を申しつけ、且つ家政を取締り、領内を鎮静候よう毛利左京、毛利淡路、毛利讃岐、吉川監物等へ申し渡し、なお過激の挙動に及び候につき、家来共のうち重立ち候者を広島へ呼び出し、その余の者共もそれぞれ処置仕るべき段、同月八日奏聞を遂げ候通りに御座候。
右はいずれも家来共の儀につき、早々帰国、二十日までに当人の請書差し出すべき旨を申し渡し候ところ、十八日に至って吉川監物より使者をもって、大膳父子はじめ申し渡す御裁許の条条、奉命の儀、闔国(こうこく)の士民惑乱し、名代の者帰邑しかけ、不都合の儀もこれあり、ようやくその節罷り帰り、かたがた道路懸隔の場所にて、急速に三末家の申し合せの都合もできがたく、二十日までの期限差し迫り、いかにも手段相成りがたく候間、二十九まで猶予の嘆願仕り、大膳父子の奉命不行届の事実、余儀なく候間、申し立ての通り承り届け、万一期限までに請書を差し出さざる候節は、速やかに門罪の師を差し向くべき旨をも達しおき候ところ、闔国の士民、疑惑、憂憤、切迫の情状、鎮撫届きがたく候間、この上なお寛大の御沙汰これあり候よう、三末家、監物より申し出で、彼より嘆願致し候。期限に至り、遂に受書を差し出さず候。
これまで国情の程を推察の上、斟酌、勘弁をつくし候ところ、右の始末に至り、朝命を遵奉致さず、裁許違背候条、国家の大典相立たず候間、余儀なく問罪の師を差し向け、抗命の者を征伐仕り候。この段、奏聞を遂げ候。


 朝廷では左の勅を下して、これを裁可された。

毛利大膳父子裁許の儀、大樹より先般、天聴を経候うえ申し達し候ところ、違背に及び候、問罪の師を差し向け候旨、奏聞を遂げ、聞し召され候事。(六月九日)





 長防国境へ進撃     幕府はただちに令を下して、兵を長防国境に進めた。そこで、京師でもまた戒厳する必要があるので、二十日(六月)、伝奏衆から左の勅をわが公に伝えた。

非常の節、九門のうち、家老以下八人までは乗馬にて苦しからず、唐門内の御警衛人員二十人まで入りこみ、塀重門【注二十】南東の方の仮屋へ相詰むべき事。

 すでにして、官軍の先鋒の諸藩の兵は長防を攻めたが、勝利を得ず、従って、日に日に戦意を失っていった。
 老中松平宗秀朝臣は、はかばかしい勝算もないとみて、さきに広島藩に拘禁しておいた宍戸備後介、小田村素太郎を独断で放ちかえし、その君臣に諭して、自新を促さしめた、征長総督徳川茂承卿は、その専権をせめ、屏居して後命を待たせた。





 ゲベル銃に敗る     七月五日、宗秀朝臣は左の書を大阪在住の老中におくって、このことについて陳述した。

この度、説得人をつかわし候儀は、壱岐守殿はじめ御役人向に一人も相談仕らず、愚存の見込みにて申しつかわし候ことに御座候。長防御討入りについては、諸大名へ人数差し出し候よう仰せつけられ候ところ、いずれも事を左右に寄せ、人数を差し出さず、たまたま差し出し候向きも少人数、すこし多き分は農民共が過半にて、御供御軍勢の向きは米、金に不自由し、拝借等相願い、兵勢甚だもって振わず。鉄砲等も官軍はゲベル【注二十一】甚だ少なく、火縄付きの和筒(わづつ)のみ。長は、農人に至るまでゲベル砲〔銃の誤り〕を相用い、必取の英気鋭く、なおまた薩人も長防へ心を寄せ、英夷も長へ応援【注二十二】致し候様子。この分にては、とても速やかに御成功はおぼつかなく、よってひとまず彼らの憤怒の気をゆるめ候ため、備後介を差し返し候伝々。

 幕府は、これを省せず、宗秀朝臣を大阪に召しかえし、その職をうばい、これを大阪城代のもとに禁錮した。





 将軍発病     これよりさき、将軍家は、大阪城にあって発病された。わが公はこれを聞いて、驚愕措くあたわず、七月二日、まず家臣野村直臣を馳せて候せしめ、以後家臣を大阪に留め、日夜、病をうかがって報告させたが、容態日々に重きを加えた。十六日(七月)、在大阪の老中から、奥右筆長谷川亥之助を馳せて、将軍の病状の危篤を急報し、また総督の下坂を促してきた。
 わが公は大いにおどろき、相共に下坂しようとすると、守衛総督はこれを止めて、「このような時勢に、君と二人賛下を去るのは得策でない。よろしく予の帰京を待って後に下坂されよ」とあったので、家老北原光裕(采女)を守衛総督に随伴させ、代って御見舞いにやった。
 はやくもこの事が天聴に達したので、畏くも深く宸襟を悩ませられ、十九日には、特に伝奏衆飛鳥井前大納言雅典卿を勅使とし、大阪城に行って病いを問わせ、見舞いの物を賜うなど、叡旨きわめて憂渥であった。





 【注】

【一 画賛】 将軍が長州藩征討の勅許を得るまでには、本書では述べられていないが、以下のような経緯があった。
将軍家は九月十六日入京し、直ちに参内勅許を奏請する予定であったが、延臣の間に再征反対論強く、そのため病気という名目で参内を延期した。朝廷内の異論は、すでに再征反対に藩論を決した薩州藩の大久保一蔵(利通)が晃親王・内大臣近衛忠房・議奏正親町三条実愛等にたいし、長州処分および外国交渉については、諸侯を京都に召集し、衆議をもって定むべきだと入説していたからである。これにたいし、慶喜と容保は、朝彦親王や関白二条斉敬に運動し、その結果二十日の朝議では、近衛らの反対を排して、ようやく翌払暁再征の勅許をあたえることを決した。しかし、大久保はさらに関白を説得し、将軍参内の当日に、関白は朝議の再議を主張した。慶喜・容保は、かくては将軍以下その職を辞するの外なしとまで極言し、ようやく関白を同意させた。このため将軍の参内は、六ツ半時(午後七時)に延び、退出したのは、翌日の丑の刻(午前二時)であった。

【二 三国の軍艦九隻が…】 英・米・仏・蘭の四国は、下関攻撃によって、長州藩が攘夷の方針を撤回するに至った結果に自信をもち、さらにすすんで、多年の希望である条約勅許と兵庫の無期開港を解決しようとした。すでにイギリスは、幕府が独力では対外問題を処理する力をまたぬことを見抜き、通商条約の勅許をえる必要を唱え、三国の同意をえた。また兵庫の開港期日は、はじめ条約では、兵庫は一八六三年一月一日(文久二年十一月十二日)開港する予定とされていたが、幕府は、朝廷および攘夷派の攻撃を緩和するため、兵庫・新潟の開港、江戸・大阪の開市の延期を交渉した。外国側も、幕府の苦しい立場を救うためこれを受諾し、文久二年五月、 ロンドン覚書を調印し、二港・二市の開港開市を慶応三年十二月七日まで延期することとした。ところが元治元年幕府が横浜鎖港を提議してきたので、外国側からすれば、ロンドン覚書を破棄する提案をおこなう理由ができたと見なした。まず期日に先立つ兵庫の開港がねらわれたのは、兵庫の背景である近畿の経済的重要さと、京都近傍の開港がもたらす政治的意義の大きさに着目したからである。
機会は、元治元年九月下関での外船砲撃にたいする償禁として、幕府が三百万ドルを支払うとの条約が成立したことによってもたらされた。幕府は、長州征伐のため財政困窮し、第一回分五十万ドル以外の支払の一箇年延期を求めた。そこで四国代表は、条約勅許、兵庫の先期開港、輸入税率の引き下げの三条件がえられれば、償金の三分の二を放棄するとの方針を決し、上坂中の 将軍と交渉するため、有力な艦隊を大阪に送ることとした。幕府はこの企てを中止させる努力をしたが、英・仏・蘭の九隻より成る艦隊は、慶応元年九月十六日兵庫沖に進航した。これは再征勅許奏請のため、将軍が上洛した当日であった。九月二十三日、老中阿部正外(豊後守)は、英国旗艦において四国代表と会見、その強硬な態度を知り、二十六日の回答を約束するほかはなかった。

【三 旗下の動揺】 当時は慣例からすれば、朝廷が幕吏の免職を幕府に命ずるということは、前例のないことであり、当然旗本の強い反対が予想された。

【四 先年下田港において…】 安政四年五月二十六日調印された日米約定(下田条約ともいう)をさす。内容は貨幣交換の規定と裁判権の規定を主とし、日米和親条約(神奈川条約)の内容を拡充し、通商条約への道を開いたものである。

【五 朝廷はしばらく可とせず】 慶応元年十月四日の朝議には、一橋慶喜、松平容保、松平定敬、小笠原長行も加わり、条約の必要を説いたが、決定しなかった。近衛内大臣は、夜ひそかに薩州藩士藤井良節らをまねき、薩州藩の力で外国人と応接し退帆させることを申し入れた。藤井は大久保一蔵、岩下佐次右衛門(方平)と協議し、勅使を差遣されれば、これを擁してわが藩では十に八、九交渉を成功させる見込みがあると回答した。そこで朝廷は大原重徳を兵庫に遣わし、薩摩をして護衛させるという案にほとんど内定した。もしこれが実現されれば、京都政局では、薩州藩が幕府に代わるほどの地位をえる結果となるので、慶喜と容保はその阻止に懸命の努力をはらい、ようやく五日午前三時、朝議は、在京諸藩の代表の意見を求めることに決定した。以上の経過は、本書では省略されている。

【六 横浜に向った】 列国は、兵庫を即時開港しない代償として、下関償金を期日通り支払うこと、税率の改訂は江戸で協議することの幕府の覚書をえて、艦隊を横浜に帰した。

【七 不審数件】 永井尚志らの訊問は、次の八項であった。(1)藩主父子が慎中、内訌鎮静のため出張した経緯、(2)内訌鎮静後も、藩主父子が山口にあり所々に巡行する理由、(3)一旦破却の山口城を再築したこと、(4)謹慎中、藩士が馬関来泊の英人と懇親接待したこと、(5)所持の蒸汽船をアメリカ人に売払うため、家臣村田蔵六(大村益次郎)に花押のある証書を差し遣わし、世子定広も夷人と対応したこと、(6)大小砲を夷人より買入たこと、(7)筑前の公卿と交通していること、(8)末家、家老の上坂延期のこと。これにたいし長州藩使節宍戸備後助は、そのすべてを否定し、暗に再征を非難する言辞さえ示した。しかし長州寛典論をもつ永井は、謹慎し命を待つとの宍戸らの書面を受け取り、帰坂した。

【八 近藤勇を随伴せしめ】 近藤勇は、宍戸とともに広島に来ていた長州藩士広沢兵助(真臣)を訪れ、帰藩の際同行されたいと願った。長州藩の内情を探るためである。しかしこれは拒絶され、結局藩内に入ることはできなかった。

【九 偽名】 宍戸備後介(本書には介とあるが、助が正しい)は山県半蔵(のちの宍戸たまき)の仮名である。彼は急進派で、元治元年九月、保守派のため小納戸役を罷免されたが、慶応元年十月中老雇に登用され、対幕交渉にあたることとなった。近藤勇の報告にある「奇兵隊用掛山県某」とは、藩内戦当時奇兵隊を指揮した山県狂介(有朋)をさすのであろうが、半蔵と狂介とは別人である。

【十 山陵百余個所の御修補】 一巻四一頁注二を見よ。

【十一 黒印の軍令状】 六七頁を見よ。

【十二 薩摩藩のごときは…】 薩州藩と長州藩の間柄は、文久三年八月十八日の政変および禁門の変によって、きわめて悪化していた。したがって第一回長州征伐のはじまる時期には、西郷吉之助も、長州にたいする厳罰論を唱えていたが、長州藩におもむいて急進派領袖と会見するに及んで、長州寛典論に変説するようになった。西郷や大久保一蔵(利通)は、長州再征には反対で、雄藩連合の力で時局を収拾する案を考え、反幕の色彩を強めた。しかし薩長両藩士の対立感情は根深く、容易に和解の糸口は開けなかった。
そこで土佐脱藩の士である中岡慎太郎や坂本竜馬が斡旋にあたった。その結果、慶応元年七月長州藩は、長崎で小銃、汽船の購入を薩摩の助力で実現することとなり、両藩提携の機運は急速にすすんだ。ついで慶応二年正月、桂小五郎(木戸孝允)と西郷・大久保・小松帯刀らの会談によって、幕府と長州藩が開戦した場合、薩州藩が援助することを約した薩長密約が成立した。

【十三 会機】 「会機」は『島津久光実紀』によれば「兵器」とある。

【十四 他藩の論も…】 征長再征に反対の意見を表明した藩主は、尾州藩の徳川慶勝、越前藩の松平茂昭、備前藩の池田茂政、芸州藩の浅野茂長、津藩の藤堂高猷、竜野藩の脇阪安斐、紀州藩の徳川茂承、阿波藩の蜂須賀斉裕、熊本藩の細川慶順等であり、いずれも、現在の時点で再征を行なうのは名義明らかならず、天下の紛乱がおこるもととなろうとの趣旨であった。

【十五 五堂上】 一五八頁七を見よ。

【十六 法令に違背】 幕府が大名統制のため制定した武家諸法度は、新しく城郭をきずくことを禁止している。

【十七 当領主格別の寛大にて】 芸州藩は芸州口先鋒を命ぜられていたが、藩論は、長州処分を寛大にして、戦争なく事態を解決せよというにあり、藩主浅野茂長は、小笠原長行に、事を慎重に運ぶべしとの意見書を出し、これが納れられぬこととなると、出兵を辞退してしまった。

【十八 長門藩亡命の徒が…】 第二奇兵隊(南奇兵隊ともいう)の脱退事件で、この隊は慶応元年正月結成されたものであるが、慶応二年四月立石孫一郎ら百余人(隊員の大多数)が暴動をおこした。そして本営を襲って兵器を奪い、脱藩して備中倉敷代官所を焼きはらい、さらに浅尾藩領に入った。浅尾藩は、備前藩、備中松山藩や幕兵の応援をえて、これを四散させた。暴動の理由は、明らかでないが、諸隊にたいする藩庁の統制が強まる中で、隊員の三四パーセントの士分格と、それ以外の庶民出身者の対立が増し、それに指導者間の勢力争いがからんだこと、隊員が藩庁の対幕方針が軟弱にすぎると不満をもっていたこと等によると推測される。

【十九 彼の藩臣が内訌を生じ】 慶応元年三月には、藩論は、急進派の主張する武備恭順に決定し(本書一五九頁注一一を見よ)、特に幕府が再征の方針を明らかにしてからは、挙藩一致して幕府に対抗する姿勢が固まったから、この時、内訌を理由に回答延期を求めたのは、真実を偽っての理由づけであった。

【二十 塀重門】 平地門ともいう。中門の一で、表門と母屋の間にある門。左右に方柱があって笠木はなく扉は二枚開きの中門。

【二十一 ゲベル】 天保三年以降高島秋帆らが輸入した歩兵銃。ナポレオン戦争時代まで欧州各国で用いられたもので、輸入品はオランダ軍制式銃。銃身は鍛鉄製、前装式滑腔銃で、照星と照門はあるが照尺度はない。銃尾の右側に火門があり、はじめは燧石式であったが、安政年間から雷管式のものが輸入された。幕末時代に最も多く輸入された銃で、かつ各藩で模型製造されたため、形状や口径のまちまちなゲベル銃が存在するが、舶載品では、口径一七・五ミリ、全長約一五〇センチ、重量四・八キロ。

【二十二 英夷も長へ応援】 四国連合艦隊長州攻撃事件および条約勅許の事件の後、イギリス公使パークスは、幕府にたいする信頼の念を薄くし、薩長等の反幕派雄藩の力に期待し、その接近につとめた。これにたいしフランス公使ロッシュは、幕府支持の方針を強く出し、軍事的・経済的援助をすすめた。慶応二年五月、第二回征長の役の戦闘勃発直前、パークスは海路下関におもむき、長州藩士と会見、ついで長崎を経て薩州藩を訪問した。
この英国公使の行動を牽制するため、幕府の勧告に応じて、ロッシュも長崎におもむき、薩州から帰ったパークスと会見、幕府と長州藩との間の調停を試みることを協議し、両人は下関海峡にもどり、各国に長州藩士と小笠原長行とに会見した。しかし調停の不可能を知ると、パークスは、予定に従って宇和島訪問に向かった。パークスの行動は、長州藩を激励する効果をもった。また彼と関係ふかい長崎市のイギリス商人グラバーは、薩長の武器輸入の求めに応じて活躍した。

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  1. 2012/11/18(日) 17:23:28|
  2. 京都守護職始末2
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二十  わが公の病まったく癒える     『京都守護職始末2』

 わが鈴声に吉凶を卜す     時に、わが公は病がまったく快癒したので、この日(四月八日)参内して、天機をうかがった。また、病中しばしば勅問を垂れ、特に、典薬頭(てんやくのかみ)を賜うなどの恩を謝した。
 翌日、聖上は二条殿下から、「病気が全快致し候深く御満足に思し召され…」との勅を伝え、杉折三重に、文庫一個を賜わった。また殿下は、その諸大夫の北小路治部権大輔をもって、「さきに聖上は、容保の病気が久しきにわたるのを宸憂あらせられ、特に内侍所にその快復を勅祷され、畏くも、日々内侍所の軒廊まで渡御され、鈴の声を聞し召して、病の軽重を卜(うらな)い給うた。はじめは鈴の声がすこぶる陰気で、凶なので、大いに宸襟を労せられたが、日を経て、鈴のひびきが吉に転じたので、叡慮はようやく平らかになり、日々快復の報を待たせ給うていたところ、昨日、参内の由を聞し召され、御喜悦のあまりこの恩賜があったのだ」と説明した。
 わが公は、謹んでこれを拝承し、恐懼感激、おくところを知らなかった。





 外島義直の報告     二十二日、外島義直が江戸から早打ちで帰京し、老中の返答を報告した。
 それにゆると、「今回、将軍家が進発の令を布(し)いたのは、まず大阪に到って、専心、長防の処置を決する目的のためだ。ゆえに、長防の処置が決しない間は、将軍家を京師に招き、入覲するようとの勅召がないように切望する。これは、ひとえに肥州の尽力によるほかはない。その理由は、従来、有司の大半と旗下の武士らは、例外なく上洛、進発を嫌悪し、今もなお不賛成の議が紛々として絶えない。しかし、再三の勅召を黙止するわけにもゆかないと説いて、強いて進発を断行したのだ。しかるに、将軍家が一旦勅召によって入朝した場合、万一過激堂上に迫られて、そのため将軍家の威権を損ずるようなことがあれば、それこそ物議沸騰して、遂に人心瓦解に至ることも考えられる。そこで、肥州の尽力を煩わさねばならないのだ」とのことであった。
 義直は、その言い分の当らないことを難じて、固くこれを辞退したが、老中の人々は、「卿の言うことはもとよりその通りであるが、この地の事情が前述の通りで、ここで理非を論じている場合ではない。よろしく、この事情を肥州に開陳してほしい」と再三懇諭した。義直も、いたずらにここで理非を争っていると、あるいは進発をも取り止めるに至るかも図られない、と考え直し、了承して帰途についた。
 思うに、幕府の有司たちの大半は、朝廷の真意は幕府を倒すつもりであると猜疑し、それゆえに、しばしば入朝することは、将軍の威権を減殺することになり、遂には衰亡を招くものとなしていた。従って、旗下の武士たちは二百数十年の間の太平の遊惰に昏睡するのあまり、山川遠路の跋渉を苦に思い、将軍家が江戸を出るのを欲しない結果が、滔々として前説に不和雷同し、囂々(ごうごう)として否議を唱える結果になったのである。





 旗本連の怯懦     わが公はこのことを聞き、憤然として、「去年来、しばしば勅召があった末、ようやく上坂となったのに、将軍が宮中に入覲されないとなると、敬上の礼を失することこれより甚だしきはない。もし天譴を蒙ったなら、真に一言の謝辞もないであろう。事がそこまでいったならば、たちまち諸藩の心を失い、物議を招くだけではすまない。長防の徒の耳にそれが入れば、幕府が朝廷を軽蔑しているという口実を作り、非を鳴らすことは必至である。この時に、どう弁解の言葉があるか。旗下の士輩が沸騰するがごときは、要するに家来共の不平不懣で、これを取り鎮めることは、何の難しいことがあろう」と考えて、わが公は、すぐさま書面をしたため、老臣に持たせて東下させようとした。
 折も折、目付の由比図書がきた。そこで、公がその気持を語ると、図書は感奮して、みずから東下して、このことに当ることを願った。それで、図書によく旨をふくめ、義直を随伴者としてつけてやった。
四月二十八日、わが公は、召によって参内し、小御所で竜顔を拝した。聖上は特に、わが公の病気快癒についての最も憂渥なる恩詔を賜わった。わが公は感泣してこれを拝し、退いた。





 入朝問題にこだわる     五月六日、由比図書とわが家臣外島義直は江戸に着き、ただちに登城して、老中に謁見し、わが公の手書を呈して、その書にふくまれた本旨を説明した。
 老中はこれを聞いて、「元来入覲を嫌うのは、台慮ではなく、旗下の士たちの気持として、京師に滞在するのを喜ばないことに因るだけのことだから、肥州の尽力で、速やかに下坂の暇を賜わるようにしてくれれば、何の文句もない。ただし、このことは事前に指令されると、たちまち俗論が紛起して、風波を生ずることになるゆえに、その期にのぞんで、台慮だからと言って急に入覲の令を出せば、あえて異議をさしはさむものはないだろう」と答えた。
 その翌日、また義直を招んで、老中から、「入朝のことは、台慮はもとより、同列の間でも異議はない。ただし、上奏書がまだ決定していないので、台慮を労することが残っている」とのことであった。義直はこれに答えて、「すでに去年朝廷から、諸藩主が伏見を通行するときには、必ず入朝して天機をうかがうようにという勅書が出ている。いわんや、将軍家においておや、入朝するのに、別に奏聞の書の必要はないと思う。ただ肥後守に、この意を体して力を致すべき旨の報翰を賜われば、それで十分と思う」と言う旨を述べた。
 老中は同意したが、なお不安らしく、「将軍家が大津に着いた日、勅召の御使を賜わったならば、あるいは俗論の紛起をうながさずにすむと思うから、肥後守にも、あらかじめ頼んで、無事にゆくように尽力されることを望む」と言った。義直は、「それらのことは寡君の方寸にあることで、毫も諸公が煩慮されることはない」と答えた。議は熟し、ただちに義直は帰京の途についた。





 勤務手当復活     十四日、幕府は、わが公の名代として江戸の重臣を召して、老中水野忠精朝臣から左の台命を伝えた。

常野の賊徒、暴行して京師へ接近に及び候ところ、追討のため速やかに人数を差し出し、賊徒降参し、鎮静に及び候条、一段の事に候旨、仰せ出だされ候。

 十五日、水口の城主加藤左京大夫が、わが公に代って登城し、将軍家に謁し、太刀一腰、黄金二枚、錦三十把を献じて、藩祖正之卿の贈位の謝礼をし、さらに太刀一腰、黄金三枚、巻物十を献じて、増封の恩を謝した。
 十六日、幕府は、ふたたびわが公に、守護職勤務中、月々金一万両、米二千俵を賜うことになった。わけは、幕府の有司らの、わが公に対する嫌疑がすこしく解けたからである。





 膳所藩の内通者     すでにして、将軍家は陸路進発の途につき、閏五月二十一日、大津に入ったとの報があった。
 これよりさき、膳所藩士のなかに、ひそかに長門藩に通じて【注一】いたものがあって、その事が露顕した。藩主本多主膳正康穣は、ことごとくこれを誅し、その顛末を幕府に報告した。
 後また、本多の家臣らのうち、将軍家が膳所城に館(やかた)する日を待ちうけ、弑逆を謀るものがあるという訛言があった。幕府は疑念を抱き、路程と宿所を変え、膳所城を避けて、大津に進むように令した。
 康穣は、ひどくこのことを気に病み、重臣本多頼母をわが公のもとにつかわして、救解を求め、あわせて膳所城に御泊りのことを願い出た。わが公は、家臣の小野権之丞に書簡をもたせて、東下させた。途中、近江の守山駅で、台駕と行き遇(あ)うた。そこで、老中安倍正外朝臣に謁して、わが公の書を呈し、使命の趣を述べて、本多のために悃請してみたが、館を再三変更するのは事宜を失うばかりでなく、大津に直行した方が入朝に便利だという理由で、これを受け入れなかった。
 閏五月二十日、わが公は慶喜卿とともに参内し、まず伝奏衆から、将軍家が日ならず上洛の由を内奏し、また、殿下と伝奏衆に謁して、将軍家の入朝と下坂について内請するところがあった。これについては、何の異議もなかった。
 翌二十一日、重臣田中玄清を大津駅につかわし、台駕を迎え、あわせて長旅の安否をうかがい、また老中の人々に会って、前件の委細を上陳した。





 【注】

【一 ひそかに長門藩に通じ…】 膳所藩の家老戸田護左衛門の子川瀬太宰は、聖護院宮(嘉言親王)に仕え、文久二年尊攘運動に加わって活躍した。慶応元年川瀬を中心とする膳所藩尊攘派が、将軍が膳所城に入る日に事を起すを画策していると会津藩に訴える者があり、閏五月、京都町奉行の捕吏が川瀬を近江路に捕え、藩庁も彼の同志十一人を捕えた(川瀬は翌二年六月斬に処せられた)。

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  1. 2012/11/17(土) 18:51:52|
  2. 京都守護職始末2
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十九  七月戦役の行賞     『京都守護職始末2』

 金七千両を賞賜     この月(十二月)十八日、幕府は、わが公の名代米津伊勢守を江戸城に召して、老中から左の台命を伝え、将軍家の佩用の刀(筑前国弘作、代金百枚)を賜うた。

毛利大膳家来、多人数押して京に入り、禁闕に迫り、乱防に及び候節、病中のところ早速参内し、御守衛の儀、格別勉励相勤め、家来共には身命を惜しまず、烈戦致し、諸手の救応ならびに防禦の指図など、諸事相届き、かつ賊徒集屯まかりあり候山崎表へも人数を差し出し、速やかに攻め落し、抜群に相働き候段、御聴に達し候ところ、かねて仰せつけられおき候職掌を厚く相心得、家来の末々に至るまで申し付け方よろしく、一同忠勤にて、身命を惜しまず相働き候段、御満足に思し召さる。これによって拝領物仰せつけられ候。

 また、わが将士にも金七千両を賞賜された。わが公と同時に、左の賞を行なわれた。

刀 (備前国倫光、代金五十枚) 一に兼光 井伊掃部頭直憲朝臣

刀 (備前国雲次、代金五十枚) 一に兼次 松平越前守茂昭朝臣

刀 (越中国則重、代金百五十枚) 島津修理大夫茂久朝臣

刀 (筑後国光世、代金七十枚) 一に常世 戸田采女正氏彬朝臣

刀 (豊後国国行、代金十三枚) 蒔田相模広考

 
 蒔田相模守は備中浅尾藩主で、同時、幕府見廻組組頭として在京し、七月の戦役に功があった。そのゆえに、特にこの賞を受けた。

 



 老中わが公を嘲笑     これよりさき、再応勅を下して、将軍家の西上を促したが、幕府の諸有司は、征長三十六藩の向背が未だ測り知れず、しばらく西上の期日を延ばし、その動静を見る方がよいとし、ただ大目付の中で一、二人、進発を可とするものがあったが、旗本の輩は皆こぞって、このことを忌み、中には、一人の大名が叛くのに、大将がみずから親征に乗り出す必要がどこにあるという口実をもって、強硬に反対するものもあった。老中のなかには、これを憂慮するものもあったが、一、二の力では如何ともしがたく、漫然として遷延するのみである。
 わが公は、再応の詔勅があるのに、将軍家がこれを報じないとすれば、遂に宸怒に触れるに至ることを憂え、しばしば老中に書面を送って促すのだが、これまた答えようとしない。よって、更に書面をしたため、家臣小森久太郎に旨をさずけて兼ねて東下させ、このことを促さしめたのことは前に記した通りである。
 時に、老中板倉勝静朝臣は辞職し、酒井忠績朝臣、水野忠精朝臣らが旧進をもってもっぱら事にあたっているけれども、京師の事情に暗く、ひたすら旧套を墨守し、わが公を指して、「彼はただ京師の守護にすぎない。大将軍の進退をかれこれ言うのは僭越だ」とか、「彼は朝廷にとり入って、実行し難いことを言いたてて幕府を困らせるものである」などと言って嘲笑し、久太郎が三旬にわたって、東下在留していても、一辞の答えるところもなく、遂に要領をえないまま帰らねばならなかった。





 松前崇広上京     たまたま老中松前伊豆守崇広朝臣【注一】が、長門藩処分の命を奉じて大阪に来た。禁裏守衛総督慶喜卿は、武田正生等を掃蕩のため越前に向っており、崇広朝臣が海陸軍総奉行を兼職していたので、この月京師に入り、かりに総督の任を摂することになった。
 そこで二条殿下、中川宮、山階宮らが彼を召して、叡旨を諭し、速やかに東帰して将軍の西上を促し、それでもなお出発しないようならば、中川宮が勅使として下る旨を述べられた。





 老中の責任     この時にあたり、幕府の老中もしくは元老中の人で、有能な人物となると、まず板倉勝静朝臣、小笠原長行朝臣、松前崇広朝臣の三氏に指を屈しなければならない。
 勝静朝臣は、幕府の賢相松平楽翁定信朝臣の子で、三氏のうちでもっとも年長であり、職見も高く、人を見る明もあった。また家臣中にも、よくこれを補佐する者がいた。朝臣はしばしば京師にのぼって、上国の形勢にあかるく、公武一和が大勢上の基本であることをよく認識し、深くわが公を信頼していた。しかし、このころ勝静朝臣は老中を免ぜられて、職になかった。
 長行は果断で、実行力に富み、賢良を起用してこれを信任し、幕府の役人中、長行の推薦にあずかったものは、どれも一時の才物であった。長行もまた京師の形勢に通じ、常にわが公に同情を表わしていた。その長行も、前に償金の件により官位をうばわれ【注二】、また職にいない。
 崇広朝臣は庶子、貧窮の境遇から松前家に入って相続した人で、深く下情に通じていた。また、その性質は剛腹、果敢で、おのれの信ずるところは必らず行う勇気をもった人であった。しかし、朝臣は未だ京師の大勢については暗く、幕府が今日のように衰勢に陥ったのは、畢竟、諸侯の意思、進退に気がねをして右顧左眄(うこさべん)、いたずらに逡巡苟且し、祖宗の大法に従って、政治を強力に進めないからであると考え、今その衰勢を挽回するには、御三家も頼みにならず、越前、会津も頼みにならず、親藩に依頼することがそもそも幕府の失威の病根とし、兵制を改革し、諸侯には頼らずして、旗下の兵力だけで長州の鼻柱をくじく外はないと思い込んだようである。わが公が久しく京地にいて、公武一和を主張するのを、ただ朝廷におもねり、幕府に不利なようにするものとして、わが公を猜疑する幕府有司中の巨魁は、この朝臣であった。それゆえに、わが公らが将軍家進発を主張するのを疑い、これは、いたずらに幕府の威光を衰退させるものと思い込み、わが公が東下させた家臣らに対し、あからさまに不同意を表明したのは、この朝臣一人のみであった。
 しかるに、将軍家の進発は、もと勅諚に出たものであって、いたずらにそのままにしておくわけにもゆかないので、崇広朝臣自身、京師の形勢を究めつくそうと思い立ち、遂に上京ということになったのである。
 しかし、来てみると、京師の状況は関東において想像したとはその趣きを大いに異(こと)にして、且つわが公の誠意に一点の疑うべきところのないことを洞視し、従来の主張を一変するに至った。今また、中川宮殿下らの教命によって、崇広朝臣ははじめて叡慮の優渥なことと、公武一和が大勢上の根本であることをさとり、恐れ、且つよろこび、謹んで命を奉じたが、その時は大勢がすでに去り、機会はふたたび来ず、内には良臣を退け、外には外藩の歓心を失い、幕府を孤立無援にし、遂に救うことができない事態に至らしめたのは、朝臣のあずかるところが多く、その責めを逃れることはできない。





 崇広朝臣の陳弁書  慶喜卿もまた、崇広朝臣の上京を聞き、左の書を送って、帰京するまで待つように言ったが、崇広朝臣はこれに従おうとせず、書を贈ってこれを謝し、またわが公と定敬朝臣に左の書をのこして、怱忙として東下していった。

一橋公より御直書つかわされ、拝見致し候ところ、別紙写しの通りに候間、則(すなわ)ち、別紙の通り御受け差し上げ候。御心得までに貴覧に入れ候。仰せに随い候て滞京罷りあり候ては、出立の日限極めがたく、しかる節は、じつに機会を失し候のみにてはこれなく(中略)、不都合相生じ申すべく候間、今般の大事は天下の安危に係り候重大の儀に候間、もはや決心仕り、御受け差し上げ候事に候(中略)。
今日すでに桑名侯へ決心申し置き候通り、断然と一進を捨て候覚悟に罷りあり、これにより今日もわざと貴亭へ出で申さず(中略)、内々一紙は、すなわち二通したため差し上げ候。右にてしかるべきや、又は宜しからず候わば、仰せ下され次第、したためかえ差し出すべく候(前後略す)。
十二月二十三日  伊豆守


  会津賢公
 なおなお、御用込み乱筆、文略御免

  来書写し 一橋卿書


寒天の砌(みぎ)り、この度は遠路を御苦労千万に存じ候。殊に拙者出張中、京地の御守衛も御心得、御入京の由、わけて御大儀の事と遠察いたし候。この程は、京地の模様いかがに候や。段々存外の長陣にて、久しく消息も絶えおり候ところ、さだめて御鎮静これあるべく、自然、異状も候わば、御申し越し御座候よう致したく、はた又御用筋これある儀にて、御帰府相成るべきやの由にも伝承致し候ところ、賊徒の処置ぶりも大略目途相立ち候につき、拙者儀、明日方帰陣し、大抵二十六日方には着京の心得にこれあり候。
右につき、出張以来の沿革、形勢をくわしく関東へ申し上げたく、御用筋は相心得ず候えども、苦しからざる儀に候わば、拙者の着京までの間、暫時、御滞留これあり候よう相成るまじきや。
この段、御報承知致したく候。陣中、取り込み草々申し入れ候。書余は面唔を期し候。以上。
  海津にて 一橋中納言  
  松前伊豆守殿


 御受書写し
御書下され、拝見仕り候。甚寒の節に御座候ところ、ますます御機嫌よくあらせられ、恐悦に存じ奉り候。陳(のぶ)れば、仰せ下され候趣、委細畏れ奉り候ところ、この度、俄かに帰府仕り候儀は、差向きの御用柄にて時日を移しがたく候につき、滞京の上、御目通りと申すわけは相成りがたく候間、御暇仰せ出だされ次第、速やかに出立仕り候心得に御座候。
尤も自然御暇前(いとも)に御帰京にも相成り候えば、当地において御目通り申し上げ奉り候儀に存じ奉り候えども、前文の通り、取り急ぎ候間、なにぶんにも御帰京御待ち申し上げ奉りかね候。さりながら、仰せ下され候御日割通り御帰陣相成り候わば、大津駅辺にて御目通り相成るべきやとも存じ奉り候。この段、御請けかたがた申し上げ奉り候。恐惶謹言。
  十二月二十三日  松前伊豆守中納言様


  極秘要書 裏謹封
一 帰府の上、尽力致し候儀は、決心罷りあり候故、必ず御進発の儀、事実を尽し極めて申し上ぐべく、さりながら、いかようの御沙汰を蒙るべきやも計りがたく候間、この段相聞かれ候わば、同列へ厳重の御沙汰仰せ出され候よう、きっと御周旋これありたく、この条、堅く御約束申し候えども、その上にもなにぶん御因循相成り候とて、急ぎ勅使御下向の処置に至り候ては、じつに殿下へ仰せられ候通り、それまでの御事にて恐れ入り奉り候ことに御座候間、この条を再三再四御猶予、御尽力にて、厳重に巨細の御模様柄仰せつかわさるべく候。または、御両君の内、急いで御出府候とも、いずれの道、勅使下向は御止めこれありたく候えども、その上のところはこれ天、と嘆息の外御座なく候。

一 拙者が御咎めを蒙り候とて、もとより天下のため、君へ忠勤と覚悟致し候上は、さらに驚き申さず候。しかし、過日御内話の通り、殿下の思し召しもこれあり、なんとか仰せつかわされ方御座候時は、ふたたび尽力も相成るべき場に至り申すべく候。しかし、これも思し召し次第に候。

一 立花出雲守【注三】は、御内談通り御暇出(いとま)で候わば、成るべきだけ御延しに相成り、拙者の着府と同日ぐらいか、又は、一二日あとにて着相成り候ように致したく候。御軍艦に候えば、五六日ぐらいにて着に相成り候間、当地より下坂、それより乗組の隙など御考え合わせこれありたく候。尤も、今度仰せつけられ候御用向き相済み候えども、外に御用筋のこれあり、尤も少々の内滞京申すべき旨仰せ出され候方、しかるべく候。

一 過日御沙汰これあり候同列上京の有無は、今に返事相達し申さず候。不審に思し召され候間、早々否可を申し上げ、尤も、拙者帰府仰せ出だされ候節、御沙汰これあるべきところ、談落(はなしお)ちに相成り候故、厳重に旅行先まで申しつかわし候よう御沙汰の旨御したため入れ、御書状つかわさるべく候。その内へ、豊後の不都合の儀にて着し候えども、尹宮の仰せの程もこれあり候条、申し通す方失念申さざるようと、尹宮より仰せられ候旨に御したためこれありたく候。

一 同列が上京致し候節は、随分御叱りこれあり、悔悟致し候程の御沙汰これなくては宜しからず候。さりながら、それきりのように相成り申すべきようの御沙汰はこれなきよう。これは、くれぐれも御頼み申し候。寛大にても、征伐にても、御進発これなくては、天下の治乱の際、御安危の場合と申すところ十二分に発明申し候よう、寛猛の御説得第一に候。右は立花出雲守も同様に御座候事。

一 拙者の出立あとより御申し越しこれあるべきの段、及び御談じ候同列の儀は、過日の御沙汰出でおり候上は、もはや取りつかわしに及ばず候。

一 殿下、両宮【注四】には、段々厚く御沙汰を蒙り、関東の御為と相成り候儀は、即ち国家のためにて、この機会を御失いこれあり候ては、じつに瓦解、御尽力もなにも取り成しかたこれなき旨、品々御心底御抱えなく仰せ聞かされ、まことに有難く、安心仕り、一増気力を得、速やかに尽力致し候儀、御礼篤く、しかるべく御頼み申し候。

一 御談にこれあり候えども、じつに変心など致すべき存念これあり候えば、御存じのごとく、殿下、両宮へ大言致され候者にはこれなく、直に覚悟仕りおり候故、もはや証文相立ち、一書は差し上げず候。この書面が則ち至極の証にこれあり候。
右条々したたむべき儀にこれなく候えども、つまるところ天下の為と存じ候故、極秘に手違い出で申さざるまでに、したため差し出し候。後日御都合済みの時に、御返却これありたく候。以上。
  十二月二十四日  福山(松前)
  会津君
  桑名君

 
 二十七日、慶喜卿が帰京され、ただちに参内あって、賊徒掃蕩の事を上奏した。徳川昭武とわが藩兵もまた、帰京してきた。





 長防鎮定の件々を上奏     この日、征長総督徳川慶勝卿が広島からの使いを派遣して、左の書を奉り、毛利敬親の謝罪があったので、解厳の事を上奏した。

毛利大膳父子追討、臣慶勝、総督として芸州広島へ出陣仕り候ところ、彼に於ては、ひたすら悔悟、伏罪仕り、長防はまったく鎮静に及び、この段御届け申し上げ候。これによって、長防の鎮静の方を三末家【注五】、吉川監物ならびに大膳家老にきっと申しつけ、松平越前守をはじめ討手の輩に、陣払いの儀を申し渡し候。慶勝儀も引払い申し候。委細は近日登京し、奏聞仕るべく候えども、件々の次第、別紙に取り綴り、言上し奉り候。

 別紙
一 罪魁益田右衛門介、福原越後、国司信濃は厳刑に行ない、首級実検に差し出し、その余の参謀の者どもも斬首申しつけたる旨申し出で候事。

一 暴臣ども、輦下に於て騒擾の始末は 、大膳父子の平常の緩(ゆるが)せの罪科逃れたく、これによって寺院に蟄居し、恐懼(きょうく)し罷りあり候。なにぶんの御沙汰を待ち奉る旨、自判の証書ならびに国司信濃へ軍令状を相渡し候始末恐れ入り候旨の書付をも添えて差し出し、三末家の者よりも恐れ入り候自判の証書を差し出し、右証書等、都合五通を差し出し候。

一 山口は新築の事につき【注六】、破却致すべく申し渡し、則ち見届けのために、家老石河佐渡守を差し向け、並びに立合いのために御目付戸川鉡三郎を差し出し候ところ、破却の体(てい)、異議これなき旨、佐渡守、鉡三郎よりこれを申し達す。

一 三条実美はじめ五人【注七】は、松平美濃守、細川越中守、有馬中務大輔、松平修理大夫、松平肥前守に分配し、各々国元へ引き取り、御預り取り計らい候はずのこと。

一 大膳父子の萩城立退(たちの)き、寺院蟄居の体(てい)、佐渡守はじめ見届け候ところ、城中異議なく、父子は菩提所天樹院に蟄居罷りあり、謹慎の体(てい)疑わしき儀これなき旨、佐渡守、鉡三郎より申し達し候。

一 長防領内の村市人民も、謹慎、恭順の体(てい)疑わしき儀これなく、佐渡守、鉡三郎これを申し達す。





 軽率なる陣払い     敬親父子が悔悟、伏罪し、長防が全く鎮静した旨、この上奏書に記されてあるけれども、これは全く表面のことであって、毛利藩の過激派が一時、佐幕党に圧迫させられたにすぎなかった。この事情を深くも探明しようとせず、その所罪の軽重によっては、佐幕党といえども、たやすく承知するか否かも、未だわからないのに、慶勝公は、軽率にも解厳の令を発して、討手の諸侯に陣払いを命じられたことは、奇怪至極なことである。これが原因の一つとなって、後日、天下の紛議を越し、幕府滅亡を招来したのである。





 慶勝卿の所見     長防処罰に関しての慶勝卿の所見は、彼が若年寄稲葉兵部少輔正己(房州館山藩主)に送った書に、つまびらかである。

別紙の通り御届け申し候。それについて、今般の御処置ぶりにより、実に天下の安危、治乱の界にこれあり、この上なき御大事と存じ奉り候。
いかが相成り候て御為然るべきやと苦心の至りに堪えず、昼夜、寝食を安んぜず熟考仕り候えども、なにぶん不肖の某、殊に一己の偏見にては甚だおぼつかなきにつき、諸藩をも承り、とくと折衷仕り候ところ、結局別紙の御処置に相成り候方、至極の御為と一決、存じつめ候儀に御座候。
もし、これより超え候御処置に相成り候ては、当今の形勢、思わざる破れを生じ申すべく、さよう相成り候て、段々増長し、遂に天下の大乱をも引き出し候も計りがたく、きわめて御不為の至りと存じ奉り候間、必ずここに御決評相成り候よう、朝暮に志願し奉り候。尤も、罪案の儀は総督において申し上ぐべき儀にはこれなく候えども、この一件、御処置の次第により天下の安危に関係仕るべき御儀と存じ奉り候につき、見込みの大綱の趣、別紙に書き取り、申し上げ奉り候事。(十二月)


 別紙
一 毛利大膳父子に隠居仰せつけられ、薙髪(ていはつ)仰せつけらるべく候こと。

一 毛利家の儀、祖先以来、公武の勤め筋の旧功もこれある家柄の訳をもって、親族の内しかるべき者へ家名御立て成し下され、長防のうち十一万石を削除し、その余、萩城をも下さることに相成るべきこと。
但し、削地の儀は、諸大名の内へ御預けに相成るべきこと。

一 毛利三末家の儀は、本藩御所置の釣合いをもって、それぞれ相応に仰せつけらるべきこと。

一 御削除の儀は、当節長防の四民、恭順誠慎の体(てい)をもって相考え候ては、旧来の恩信格別に相見え候間、当分の内、御削除はもちろん、別紙の通りに御座候えども、さらに旧主を離れ候ては、人心の変動も計りがたく候間、やはりそのままに御領置きに相成るべきや。なお、御参考のため申し上げ候。且つ右削地の儀は、摂海辺、海岸御厳備の折には宛(あ)て行ない候ても、なおさら別格の儀に存じ奉り候。

一 三末家の儀は、本藩に準じ、御処置あらせらるべきかに御座候ところ、当時鎮静方について尽力罷りあり候儀につき、その品(しな)をもって御処置御座あるべく候わんやのこと。

一 吉川監物儀、宋藩の鎮撫方を誠実に尽力いたし候儀につき、なんらの御沙汰あらせられざる方に候わんやのこと。






 幕命行き違う     さても、そのようなわけで、徳川慶勝卿は、元治二年(この年四月、慶応と改元した)正月元日、広島の陣を撤収し、海路帰途についたが、同日大目付大久保紀伊守、目付山口駿河守が上使として、閣老連署名の幕府の命令書をもって広島に着いた。しかし、その時はすでに総督慶勝卿が出帆の後であったので、両使者は陸を馳せて、本郷駅で総督に謁し、命令書を渡した。その文にいわく、

一 毛利大膳父子を江戸表へ差し下しのこと。
 但し、御人数のうちにて警衛のこと。

一 三条以下七人を江戸表へ差し下しのこと。

一 大膳家来共相慎しませおき、御下知を相待ち候よう、吉川はじめ末家共の内へ御達しなさるべきこと。

一 江戸表より御下知これあり候まで、所々出張の御人数をはじめ、引き揚げこれなく、いよいよ油断なく護衛なさるべきこと。

右の通り御取計らいなさるべく候こと。
  子十二月二十七日  老中連署

 
 総督慶勝卿は、この書に対して左のような返翰を書いた。

毛利大膳父子ならびに三条以下の御所置の儀につき、御書付の趣、畏り奉り候。しかるところ、右一条については、段々熟考の上、見込の次第等委細、稲葉民部大輔、永井主水正、戸川鉡三郎をもって申し上げ、なお家来をもって老中まで申し達し候儀につき、只今に於て、右の外なんとも勘弁をよくしたがたく、ともかく前顕申し上げおき候趣をもって、とくと御評議成し下させられ候よう仕りたく、尤も前以て伺い申すべきかに候ところ、さ候ては、遠路臨機の取計らい、とても行き届かず、兼ねて御墨印を拝領し、御委任の御儀につき、専ら公武の御為を存じ上げ候て取計らい候儀に御座候間、右等の趣、厚く御汲み取り、この上の御所置御座候よう仕りたく存じ奉り候。よって御受け申し上げ候。
一旦解厳の令を布いたあとで、すぐまた陣払いの命を取り消すなどということは、至難なことに違いないであろう。且つ慶勝卿は、長門の実力をきわめて軽くみて、四方に兵を備えて囲むまでもなく、長藩はどのような幕府の命令にも従順なものと見なしたようである。また、長防はともかくも、西国の雄藩らが寛大な処置を主張するのを見て、おのが所置こそ公武の御為と思われなされたらしく、そのようなわけで、幕命を顧みず、解厳の命を実行してしまったのである。






 再び将軍上洛の勅     元治二年正月四日、征長総督徳川慶勝卿から、毛利敬親父子伏罪の状を上奏した。よって、朝廷から、左の勅を幕府に下した。

毛利大膳父子伏罪の形跡、相顕(あら)われ候につき、追討諸藩一同、凱陣に及び候由、尾張前大納言、書取りをもっての言上を聞し召され、この上は防長の所置の儀、即今の急務にして、もっとも皇国の大事と思し召され候間、かねて御沙汰の通り、大樹速やかに上坂し、叡慮を安んぜられ候よう、きっと所置これあるべき旨、更に仰せ出だされ候事。





 将軍不発途を令す     そもそも将軍家の上洛のことについては、去冬、二条殿下から阿部正外朝臣に、つづいて殿下および中川宮、山階宮から松前崇広朝臣に、つぶさに叡旨を伝え、将軍家の上洛を促しつづけた。二人もまたよくこのことを諒承し、教命を奉じて江戸に帰ったが、その後、絶えて、何の消息もない。
そこで、今この勅を下されたのに、幕府はそれに反して、この月十五日、左のような令を頒布した。

毛利大膳父子追討のため、総督尾張前大納言殿芸州表へ出張致され候ところ、ひたすら悔悟、伏罪致し候段、前大納言殿より仰せ上げられ候については、長防共鎮静に及び候につき、この上の御所置の儀は、当地に於てあそばさるべく候。よって、御進発はあそばされず候。時宜により、なおまた仰せ出だされ候儀もこれあるべく候間、かねてその心得にて罷りあるべく候。

 また、毛利父子を江戸に召して、その所置を決しようと、尾張藩にその護送を命じ、三条実美以下の公卿も同じく、彼らを留置している久留米、筑前、肥後等の五藩に江戸へ護送するように命じ、大目付駒井甲斐守、目付御手洗幹一郎にその指揮をさせるなど、毫も朝旨などを問題にせず、依然として、幕府の旧套に拘泥するのみであった。一方、朝議では、諸大名を召して、毛利父子の所罰について諮詢されようとしていた。朝廷と幕府の所置の相表裏していること、かくの如くであった。

 



 わが公江戸行きを決心     わが公は、これを見聞するに及んで、憂悶にたえず、幕府の有司たちが、朝旨を顧みず、みだりに旧套に拘泥して、ひとり得々としている迷夢は、厳に警醒しなければならないと同時に、朝議もまた、さきに幕府に政治を委任する聖詔を出しておきながら、いままた勅を下して諸侯を召さば【注八】、政令が二途に出ることになって、恐らく物議紛乱を招くであろう。それに、幕府の有司らは、京都の事情に暗いところから、遂には、綸命反覆の誹議を蝶々とし、その結果、公武の間の不協和を来たすことになることも図り知れない。じつに、国家のために座視していられる秋ではないと考え、急に病を勉めて、馳せて伝奏衆を通し、諸侯を召す命を出すことの延期を請い、同時に、幕府の有司らの無経験なことを陳弁し、みずから江戸に出向いて、叡旨の真意をよく説き諭し、将軍家と相携えて、速やかに上京する旨を内奏した。
 二日朔日、朝廷は、わが公の東下を裁可され、伝奏衆、飛鳥井雅典卿から、左の旨を伝えられた。

昨晦日、神保内蔵助をもって、東下の御暇(おいとま)を内願候ところ、京都守護職の儀は、至極大切にて、必至と御許容あそばされがたき筋には候えども、国家のため、深く存じ込み候誠意を叡感に思し召され、しばらくのうち御暇仰せ出だされ候。
 ただし、両三日の内、御暇の参内仰せつけられ候事。






 二老中上京の報     たまたま老中松前崇広朝臣から、密々に左の書を送ってきて、幕府の情勢を報じてきた。

御用にて下り候を因幡(老中諏訪忠誠朝臣)、備前(同上牧野忠恭朝臣)、雅楽(同上酒井忠績朝臣)大いに懸念致し、木村摂津守(目付)をして、途にて大磯に迎え、朝命の旨趣を問わしむるとえども答えず候ところ、又々同人をもって、品川に止り御沙汰を待つべきの趣申し越し候。あまりのことにつき、日を詰め候て、八日(正月)着くや否や、水野(老中忠精朝臣)へ行き論じ候ところ、種々なだめ、且つしばらく登城見合わすべき旨につき、止むをえずその意に任せ候ところ、御用ぶりも承り届けざるに、十一日、俄かに伯耆(老中松平宗秀朝臣)、豊後(同上阿部正外朝臣)、京都への御使い仰せつけられ候次第にて、拙生は遠からず厳命を蒙るべく候。
両人の上京の用向きは、多少の黄金をもたらし、大砲一座、歩兵四大隊を率い、賂(まいない)を行ない、御上洛、御進発なからしめ、諸藩の九門御守衛に替わるに歩兵をもってせんと欲するなり。備(牧野)、因(諏訪)などは、国家の事はさしおき、飼鳥、植木に心を労し、諸役人役替はみな酒井、牧野、諏訪の三人の手になる。かくの如くにては、国家収まり、上の御安堵に帰すべき見据えはかつてこれなく候。
今度、両人着京候わば、殿下はじめ、厳命をもって両人の屈服仕るように致したく、右服し候わば、御上洛か御進発かに相成るべく候。しかし、勅使御下向となれば表向きに相成り候。両人のところは、即刻御地を出立に成り候とも、内々の事と考えられ候、御含み下さるべく候。
別紙個条書の廉々(かどかど)、御怒りの色にて十分御責め相成り候よう、もし承服これなきときは、これまでの御尽力の廉々、みな水泡と相成るべく候。
追い返しなされ候程に候えば、私へ仰せ含められ候御用筋のところも相立ち申すべく候。その外、大嘆息の次第これあり、尤も御為に相成らず候間、備、因を退くべし、退くべし。
もはや、かくの如き上は、恐れながら百事瓦解し、列藩は相背き候段に至るべきか。今この機会を失い候ては、のちにいかほど御沙汰候ても、甲斐あるまじく候につき、この段、伯、豊両人の着以前に申し上げ候。拙生、関白殿、両宮へ申し上げ候条々もこれあり候ところ、もはや再び拝謁の面皮はこれなく候間、遠からず致仕願うべく存じ居り候。しかるべく仰せ上げられ下されたく候。(前後を略す。正月十二日付、わが公、桑名侯宛、崇広朝臣署名)


別紙個条書
殿下、尹宮、山階宮へ罷り出で候節、御沙汰の旨相伺い候内、和泉〔老中水野和泉守忠精〕へ咄しおき候分の覚え。

一 勅使御下向御内決相成り居り、当時しばらく御見合せの事。但し野宮〔以下記述なし〕

一 尹宮御自身御周旋のために御下向の思し召しにあらせられ候ところ、叡慮も御暗合に候こと。

一 御進発これなくとも、天機御伺いに御上洛なされず候わでは相すまず候。君臣の礼儀に於て、是非御上洛これあるべきこと。

一 毛利が朝敵の罪を謝し奉り候とも、そのこと当るや否や。列藩も異存の程御尋ねこれあり、上にも入らせられ、朝議の上御決しのこと。但し、寛大の所置と相成り候ときはもちろん、御進発、御上洛の内これなく候わでは相成らず候事。

 
 公はこの書を得て、大いに驚き、切に阿部正外朝臣、松平宗秀朝臣の上京を待ちわびた。そのため、東下の期日を延ばすこととし、このことを二条殿下に啓(もう)した。
 十三日、二条殿下から叡慮を伝えて、聖上が特に、わが公の東下について、将軍上洛のことを凝滞(とどこおり)なくはこび、叡慮を貫徹せしめるように、また病中の旅の安全のためにと、内侍所と吉田神社にお祈りあったことを告げ、その御符を賜うた。





 手当一万両を停止     この日、幕府の有司らは、総督、守護職勤務中の例月の一万両の賜金を停止した。その理由は、総督、守護職、所司代らが心をもっぱら朝廷のためにのみ傾けて、幕府の不利を顧みないという幕府有司らの猜疑心からである。
 世間の流説によると、宗秀朝臣は京師に着くなり、伝奏衆野宮定功卿を訪ねて、内儀八個条の奏請を乞うたということである。その第四条は、慶喜卿を江戸に帰らしめること、第五条は、わが公をも帰して守護職を廃すること、第八条は、定敬朝臣の所司代を免職し、宗秀朝臣が老中のままで兼職するという三個条が入っていたという。しかし、朝廷の有様を察するに、その議がとうてい実行できないことをさとって、その奏請を罷(や)めたということである。





 二条公激怒     すでにその時、正外朝臣、宗秀朝臣の二閣老が入京した。その行装は、松前崇広朝臣が報じてきた通りであった。
 二条殿下は二人を招いて、まず正外朝臣を責め、「卿は去年、大樹上洛の勅を奉じて東へ帰り、その後、松前伊豆守が上京したので、同じく勅を示して東帰させるなど、事再三に及ぶも、実行する様子がない。今また、突然に多衆を擁して来たのは、何のわけか」と申されたので、正外朝臣は答えに惑い、「上京の理由は、常州、野州の乱が未だ全く鎮定しませんので、一橋中納言を迎えるためでございます」と述べた。
 すると、その言葉も終らないうちに、殿下は、「一橋中納言は、去年大樹に代って輦下に留まり、現に禁裏守衛、摂海防禦総督の重要な職にある。幕府がこれを召還しようとするのはどういうわけか」と詰問した。宗秀朝臣がその時、進み出て、「これは同役の老中共の決議で、将軍の命というわけではございません」と答えた。「そうすると、卿らは、大樹に稟せずに勝手に事を決めるのか。また酒井雅楽頭、水野和泉守は、すでに去々年以来の事情を知っているはずである。その決議には、彼らも参画したのか」という殿下の質問に、宗秀は、「いや、これはただ宗秀一個の意見を申し上げておるのです」と答えた。
 この時、殿下は赫(かつ)として、「卿は、新たに職について、公武の事情を知らないのに、みだりに一時を糊塗しようとする。だから、言葉の前後が整わないのだ」と申されたので、二人とも言葉に窮し、それ以上弁疏することもできない。二人は速やかに東下して、将軍の上洛を促すことを命ぜられて、引き下った。
 ついで、左のような勅旨を授けられた。

大樹、数度の上洛ありといえども、東西懸け隔たり、事情否塞す。よろしく早々上洛して協和の策をめぐらし、宸襟を安んずべし。

 そこで二十五日に、正外朝臣は京師を発し、江戸に下った。宗秀朝臣は大阪に留まって、征長のことに当ることになった。
 十三日、伝奏衆飛鳥井雅典卿が、左の勅を伝えて、わが公の東下を停めた。

先般、東下の御暇を仰せ出でられ候ところ、今度、阿部豊後守へ厚く仰せ含められ、差し下され候については、豊後守より一応様子を奏聞致し候まで、これまで通り罷りあり候よう、さらに仰せ出だされ候事。





 わが公黒谷へ移る     三月朔日、わが公は病痾がまだ本復せず、医師たちがしきりに忠告するので、この日、左の書を奉って奏請した。

容保儀、去夏変動の節【注九】、病中を押して御花畑へ相詰め、その後、追々快方には趣き候えども、とかく食事相進まず、気分も全く相復さず候ところ、畢竟は運動これなき故にも御座あるべく候や。この上、歩行にても仕り候わば、果敢行全快仕るべくと存じ奉り候。よって、人数は残しおき、御警衛仕らせ、この節より黒谷旅宿へまかり越し、加養仕りたく存じ奉り候。
 
 七日、伝奏衆野宮定功卿が、左の勅を伝えてこれを許可した。

過日、願い立て候黒谷引移りの儀、御許容あそばされ候。しかし、御用の節はもちろん、さなく候とも、折々御花畑へ相詰め候よう仰せ出だされ候事。

 よって、この月九日、黒谷の営に移った。





 将軍上洛延期策     正外朝臣らは上京したものの、その目的を達することができず、かえって将軍家の上洛を促す勅旨を奉じて東帰する、との報が江戸に達すると、幕府の有司らは案に相違し、老中の人々は、左の書をわが公に送って、その期日を延ばす運動をするように言ってきた。

今度御上坂の儀、なお又、御所より仰せ出だされ候御趣意のところ、委細御承知あらせられ、早々にも御上坂あらせらるべきはずのところ、長州御所置の儀は、それぞれ御厳重に御取り掛りに相成りおることゆえ、唯今のところにて、当地を御踏み出しに相成りては、とても御十分の御所置は出来させられがたく、毎々の御沙汰のところは、深く恐れ入り思し召され候えども、当今のところにて、当地を御動きに相成り候ては、かえって皇国の御為、然るべからず候間、右御所置、大方御見留の上にて御上坂あそばさるべく、いささか聖慮に違わせられ候思し召しは毛頭あらせられず候えども、誠にもって御拠(よん)どころなき御場合につき、いずれにも御猶予のところ、厚く御含み御取計らいに相成り候よう。
しかしながら、長州の動静により候ては、時宜次第、速やかに御上坂の上、御所置もあそばさるべく思し召し候儀につき、この段も御含み、関白殿へも厚く仰せ上げられ候よう存じ候事。






 わが公切に上洛を促す     わが公はこれを見て、彼らの天下の形勢に暗く、かつ朝旨を軽んずることになるのを慨(なげ)き、すぐさま左の書を書いて、切に将軍家の上洛を促した。

御所より伯耆守殿、豊後守殿へ御渡しに相成り候書取の儀につき、仰せの趣、承知致し候。右は、一通り書取をもって御承知なされ、直に御申し越しなされ候にこれあるべく候えども、御所にても、この節の形勢、深切に御考えあそばされ、止むを得させられず委曲を仰せ含められ、豊州、そのために東下にも相成り候儀に候えば、同方着の上、御模様親しく御聞取り、なお深く御勘考御座候よう致したく、且つ長州の御処置の儀は、それぞれ厳重に御取掛りに相成り候については、その表を御動座に相成り候ては、御為しかるべからざる旨、御申し越しの御旨意、さだめて深く思し召しあらせられ候わんなれども、この節の形勢にては、大膳父子を召され候とも、とても出府致すまじく、御所にても前文の通り深き思し召しこれあり、度々仰せ出だされ候儀に候えば、いずれにも御上洛の上御所置御座なく候わでは相成らざる儀、さもなく候わでは、じつに容易ならざる御不為を相生じ申すべく、甚だ心痛、御案じ申し上げ候。
右の次第に候えば、御所間の取計らい方なにぶん当惑のみならず、甚だ御不都合に相成り候。
いずれにも豊州より親しく御聞取りなされ候わば、御分りなさるべく候間、なおその上にて厚く御勘考御座候よう致したく、右は越中守(所司代松平定敬朝臣)にも見込みを相尋ね候ところ、同論に候。これらの時情御推察、悪しからず御汲み取りの程、国家のために祈り奉り候。まずは貴答まで、かくの如くに候。


 また、特に左の書を阿部正外朝臣に送って、速やかに上洛の決行あらんことを奨めた。

この程、そこもと御同列より、御拠(よん)どころなき儀にて御上洛をしばらく御延引あそばされたき旨申し越され候ところ、その表の御都合は、委詳、先日貴所より相伺い推察致し居り候えども、ここもと差し迫り候ことも貴所御実検の通りにて、御上洛あそばされず候にては、救うべからざるの勢に相成り、百事の病根はここに帰し候間、即ち御実検のところをもって御精々(せいぜい)の程をこれより祈り候。
御同列よりの来翰は、一通りの書面にて承知の上申し越され候ことにて、貴所が親しく御演説なされ候わば、さだめて貫通致すべく、小子の所願は、じつにこれのみに御座候。もっとも御同列は、貴所の御着の上、親しく聞き取りも候わば、ここもとの模様相分り、御上洛も自然御引立てこれあるべく候間、右御承知の上、吉報を日夜仰望し、待ち奉り候。右申し上げたく、早々かくの如くに御座候。






 江戸の情勢     ところがこれと入れ違いに、正外朝臣は左の書簡を送って、江戸の情勢を報じてきた。

御上洛の一条も、帰府の上段々申し上げ、同列へもとくと申し談じ候ところ、委細に相分り、なおなお商議をつくし、種々の難事これあり、なにぶん十分に行届き申さず候えども、まず御上坂と申すことには一決仕り候ところ、連状にて申し上げ候通り、速やかと申すことには参りがたく、右のところはなにとぞ御含み下さるべく候。
就いては、伝奏衆へ右の段、拙より申し上ぐべきはずに御座候ところ、別文の通り、御所より仰せ出だされ候御趣意のところには、なにぶん及び兼ね候御答え申し上げ候も、深く恐れ入り候間、甚だ恐縮の至りには御座候えども、この段御含みにて、よろしく仰せ上げられ下さるべく候。
且つ、貴兄御出府の儀は、当節甚だ不都合に御座候間、必らず必らず御差し含みしかるべく候。押して御参府等御座候ては、かえって御上坂も御難しきように相成るべくと深く心痛致し候間、くれぐれも御見合せと存じ奉り候。


 江戸の情勢が右のごとくであるので、四月二日、わが公は書面を裁し、家臣外島義直にこれを持たせ、また、つぶさに京師および長防の状況を含めて東下させ、将軍家の上洛を催促させた。





 老中らの反省     この月(四月)六日、さきに江戸につかわしてあった家臣の井深重義(宅右衛門)が、路を急いで帰京し、報告して言うには、去月二十九日に至って、俄かに老中が重義を江戸城に召して、次のように言った。
 「将軍家上洛、上坂についてはしばしば詔勅が下り、また肥州(わが公)の鎮定上申があったので、将軍家の進発はとり止めた。
 しかるにこの頃、長防に激徒が再起して、朝命に反抗するという報がある。さきに尾張総督から鎮定の由を上奏したのに、またもや宸襟を悩ましめ奉ることに至ったのは、じつに恐悚に耐えないところである。これも畢竟、派遣した大目付、目付らが事をゆるがせに扱ったからで、賊徒らが未だ心をゆるせぬ状況であると見てとったら、いかに尾張総督から鎮定の言上があっても、つまびらかに事情を調べて上申すべきで、その時、速やかに進発あって、追討すべきであったのだ。今に至って、倉皇として上洛してみたとて、いささかの名義も立たず、朝廷へ上奏する要件さえなく、真に軽怱の挙にすぎないであろう。
 ゆえに、まずこの地にあって、さきに派遣した大目付、目付らの報告によって、長防の処置を議決し、しかる後にこれをもたらして上洛、上奏し、あわせて、昨年来の上洛の遅緩の罪を謝し奉ることと決まった。
 よって、いましばらくの延期を、肥州から奏請あらんことを切望する。
 また従来、肥州の身上について、讒誣(ざんぶ)の説が紛々として、一時は同列中にも、これに惑わされたものがあったが、今日では、一意、公武一和のために尽瘁(じんすい)せられている事情が明白となり、一点の疑いを抱くものも絶えてなくたった。
 顧みると、去年以来、あるいは使者を東下させ、あるいは書面を送るなどして、しばしば忠悃を尽くされたにもかかわらず、こちらからの報告は委曲を尽くさなかった。思えば、慚愧に耐えない次第である。自今以後は態度を改め、そちらからの使者を東下せしむれば、速やかに面会することにする。特に京師の事情については、〔尾張・紀伊・水戸の〕三家諸卿からの報告でも一切採用せず、一々肥州の報ずるところに従い、東西一致して事に従うつもりである。卿もよろしくこのことを服膺(ふくよう)して、つまびらかに肥州に開陳せよ。また、上洛のことについて、万一、予期した時日よりも遅延することがあっても、肥州が東下することのないことを希望する。そのわけは、方今の形勢をみて、守護職が一日も闕下を去るべきでないと思うからだ。
 以上は、同列の間で決議したことではあるが、一一上聴に達し、裁可を得て縷陳するのである」
 というのであった。大目付大久保豊後守と杉浦兵庫頭らが、しきりに守護職が輦下を去るべきでないと忠告したとのことである。





 依然たる延期奏請     けだし、当時の幕府の情勢は、諸有司の議論が両岐に分れていた。一つは、上洛の事でしばしば勅命があり、また、殿下および総督、守護職らが切にそのことを促すので、止むをえず進発を発表はしたが、時たまたま東照宮二百五十回忌【注十】の大祭があるので、これを口実に、しばらく発程の期を延ばせば、その間に、長門藩のごときも、君臣が憂悶のあまり内変を生じ、骨肉相食み、自滅を招くに至るであろう、今、激徒蜂起の聞えがあっても、元来烏合の浮浪の集まりで、何のなすところもあるまい。なまじいに怱々(そうそう)として上洛し、みずから威厳を減殺するよりも、泰然として江戸に腰をすえ、おもむろに威勢を更張すべきである、というもので、酒井忠績朝臣、水野忠精朝臣らの持論である。因循、苟安を事とする輩は、これに付和し、その数はすこぶる多衆であった。
 もう一つの説は、今日なお旧套を墨守して、一日を過せば、一日だけ衰廃を招き、救いがたい結果になってしまう。非常時には、非常な所置でのぞまねばならない、というので、松前崇広朝臣、阿部正外朝臣の主張である。有為の人たちがこれに賛同するけれども、その人数は甚だ少ない。そのため、今上洛に決しながらも、なお延期を奏請するに至ったのである。





 長州反逆の兆     この時、老中松平宗秀朝臣が大阪にあって、長防の所置を担任していたところ、毛利敬親父子が激徒のために迫られ【注十一】、遂に朝旨に違反し、恭順を破って近国に兵を出そうとするなど、反逆の形跡が著明になってきたので、宗秀朝臣は大目付の永井主水正らを大阪に止め、みずから東下して、台命をうかがいに来ることになった。
 そこで、わが公は上洛延期の奏請を止め、八日(四月)ふたたび井深重義を東下させて、将軍の上洛を促した。





 【注】

【一 老中松前伊豆守崇広朝臣が…】 本書の記述では、老中松前崇広上京の事情は必ずしも明らかではない。
長州藩が三家老・四参謀の処刑を行ない、恭順の意を表してのち、十一月十五日藩主は萩城外天樹院に蟄居し、伏罪書を征長総督に差出した。総督徳川慶勝は、参議の西郷吉之助の意見より、長州藩の処分の正式決定をまたず、とりあえず撤兵する意見であった。しかしこれには江戸の幕閣首脳は反対であった。というのは、長州藩内に恭順に反対する勢力が強く、十二月十六日高杉晋作は、遊撃・力士の二隊を率いて下関の会所を占領、萩をめざして進撃をはじめていたからである。在府老中は、総督の撤兵方針は、在京の一橋慶喜の画策によるものと誤解していた。事実は、慶喜自らも、征長総督の真意をはかりかねて不満であったのだが、以前からの慶喜にたいする江戸の老中の猜疑が、こうした誤解を生んだのである。
十二月十五日、老中松前崇広・若年寄立花種恭(出雲守)は、京都に到着した。
その目的は慶喜を江戸に還すことであった。しかし慶喜が江戸に行くことは、関白二条斉敬から拒まれ、かえって関白・中川宮・松平容保から将軍の上洛を促された。他方で征長総督は、長州藩内の内戦勃発にもかかわらず、藩内は鎮静恭順しているとの理由で、十二月二十七日征長軍の撤兵をした。

【二 償金の件により官位をうばわれ】 生麦事件償金支払を弁明するため、兵を率いて上京し、処罰されたこと。一巻一三一頁注二を見よ。

【三 立花出雲守】 若年寄立花種恭。松前崇広とともに上京した。本章注一を見よ。

【四 両宮】 中川宮(朝彦親王、駕陽宮)と山階宮(晃親王)。一巻五一頁および二三〇頁注四を見よ。

【五 末家】 長州藩主毛利家と同族である徳山藩主毛利元蕃、長府藩主毛利元周、清末藩主毛利元純。

【六 山口は新築の事につき…】 文久三年長州藩は攘夷実行にあたり、萩城は海上からの外国軍艦の攻撃をうけやすいので、藩主の居所から山口に移し、ここにかりの築城をした。総督府は長州藩伏罪の様子をたしかめるため、目付戸川鉡三郎、尾州藩家老石河光晃 (佐渡守)を巡見使として派遣した。戸川らは十一月十九日山口に至り、同城破却の見分を行ない、異状なく破却と報告したが、それはたんなる形式に止まった。

【七 三条実美はじめ五人】 文久三年八月十八日政変に長州に走った三条実美ら七人の公卿(一巻一九七頁を見よ)のうち、沢宣嘉は生野の乱(一巻二二九頁注一を見よ)参加のため脱走、錦小路頼徳は元治元年四月二十五日病没した。三条はじめ五卿については、幕府は長州藩にたいして、その引き渡しを恭順の条件としていたが、長州藩急進派の諸隊がこれに反対した。そこで征長総督は、筑前藩の周旋によって、とりあえず五卿を筑前に移す妥協案を出し、西郷の長州藩にたいする説得が功を奏して、慶応元年正月十四日、五卿は長府を発し、太宰府に移り、筑前・薩州・佐賀・熊本・久留米五藩がこれを警固することとなった。

【八 勅を下して諸侯を召さば】 徳川慶勝は、長州藩処分協議のため有力大名を召されたいとの内願を関白に申し出た。そして一橋慶喜はこれに同意した(『徳川慶喜公伝』)。

【九 去夏変動の節】 禁門の変(蛤御門の変)のこと。本巻九〇頁以下を見よ。

【十 東照宮二百五十回忌】 慶応元年四月七日から十七日まで、徳川家康二百五十回忌の法令が下野日光山で行われ、勅使左近衛権中将松本宗有、右近衛権中将四辻公賀が参列した。

【十一 激徒のために迫られ】 元治元年十二月、高杉晋作らの下関襲撃があってから、長州藩急進派の諸隊の態勢がかたまり、慶応元年正月六日、奇兵隊・南園隊・膺懲隊百余名が藩庁軍を襲って会堂を占領し、ついで本営を山口に移した。諸隊の蹶起とその優勢をみた中立派の藩士は、藩庁の粛正と内戦の中止を主張し、藩主敬親もこの意見を納れて、保守派を要路から退け、三月、外に恭順を尽し内に武備を厳にするとの急進派の主張をもって藩論を統一した。
諸隊結成の先駆は、文久三年六月、外国との交戦に備えるため高杉晋作によって結成された奇兵隊にあった。これは家格・身分にかかわらず、力量本位をたてまえとする隊で、したがって農・商身分の者も入隊できた。こうした正規の藩士軍隊以外の諸隊は、御楯隊・鴻城隊・遊撃隊・南園隊等十一も結成され、急進派の統率する軍事力となった。ほかに農・商兵を編成した農商隊、たとえば郷勇隊(農兵)・市勇隊(商兵)・神威隊(社人)・金剛隊(僧侶)・維新団(部落民)等多数が編成された。

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  1. 2012/11/17(土) 17:39:27|
  2. 京都守護職始末2
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十八  主上わが公の平癒を祈らせ賜う     『京都守護職始末2』

 洗米を下賜さる     わが公は、さきに病を勉めて宿衛して以来、日夜心身を労することが多かったが、特に七月十九日以降は、あるいは徹宵すること数夜に及び、あるいは庭上に露営するなど、すこぶる労苦をきわめた。このゆえに、事変が鎮定するに及んで、病はとみに重きを加えた。
 九月二日、殿下は家臣神保利孝を召し、「主上には容保の病気に甚だ叡慮をかけさせられ、天下多事の今日、一日も早く全快するよう望ませられている。よって、ごく内々にて煎薬、菓子を賜わる」とのことであった。
 こえて六日、殿下はまた家臣を召し、「主上は内侍所に出御あって、容保の疾病平癒を祈らせ賜い、その洗米【注一】を下賜された。但し、このことはごく内々にすべし」とのことであった。けだし、このようなことは摂簶槐門【注二】においてすら、古来稀有の優恩である。いわんや武門においておや。真に千古未曽有の恩遇である。
 五日、聖上は、わが公の七月十九日の戦功を叡感あり、左の勅賞を垂れ、御剣一口(赤銅の鳩の丸、金の桐の御紋、鞘は梨子地、鍔には金の御紋を散らしてある)を賜うた。

このたび長藩の士暴挙に及び候ところ、速やかに出張、凶徒を追い退け候段、叡感斜めならず候。これによって、御剣一腰(ひとふり)これを賜い候。

 別紙
たびたび宿衛、家来どもにも大儀に思し食(め)され候事

 



 関東の情況     わが江戸在住の重臣が、同役に書を送って、関東の情況を報じてきた。

当九日、御逢いに相成り趣につき、私(野村直臣)ならびに富次郎(広沢安任)、才一(柏崎才一、留守居)、桑名様にて小寺、秋山罷り出で候ところ、伯耆守様(宗秀朝臣)、和泉守様【注三】(忠精朝臣)御逢いに相成り候につき、委細これまで申し上げ候御進発の儀をはじめ段々申し上げ候ところ、御尤もと仰せ聞かせられ候えども、御心に入り候御様子にこれなく、御式一通りの御逢いと存ぜられ候。
その節、仰せ聞かされ候には、二百年来泰平打ち続き、武備弛緩し候ゆえ、簡易の御取調べにても何分敢取を果たさず、しかし、軍装御上覧(これよりさき、幕府は旗下の士の軍装上覧を令した)にも相成り候順序に相運び候事ゆえ、御進発の期限は申し聞かせ難く候えども、面々心に占い候わば、大方相分り申すべき旨仰せ聞かされ候については、近寄り候儀と存ぜられ候。
尾州前様〔徳川慶勝〕、御総督の儀御請に相成らざる趣につき、一橋様御相当の儀を申し上げ候えば、御選挙筋私どもより申し上げ候儀御腹立の御様子に御座候ところ、御名様(わが公を指す)より仰せ聞かされ候儀機密といえども、これまで申し上げ来たり候次第を申し上げ候えば、御落意に相成り、なお御評議もこれあるべき旨仰せ聞かさる。但し、尾州前御病気の御模様により、京師までは御出張遊ばさるべき趣、委細は久太郎(小森久太郎)京師へ申し上げ候わずの旨(以上は野村直臣の口上)、左兵衛(直臣)申し出で、御老中様より御名様への御書御渡しに相成り候由にて差し出し候。
さてまた、「一昨十一日、大御目付衆より御呼び出しにつき罷り出で候ところ、京都御守護職重き御用向につき、早打ちにて罷り下り候者の中には、公用人調役体(てい)の者罷り下り候やに相聞え、その上、御役宅に罷り出で相伺い、甚だ宜しからず。以来は公用人に限り申すべし。右御用振により御逢い等願い候節は、御役宅へ罷り出でず、西丸へ罷り出で、御逢い願い候わば早速御逢い成されるはず、土井出羽守様、京極越前守様【注四】御出座にて御口達これあり。このほど御老中方、野村左兵衛をはじめ御逢いこれあり候ところ、左兵衛儀、日数相立ち候まで御逢いこれなく、何か不快に存じ候ようにては宜しからず、じつに御用多く、やむをえず延引に相成り候儀に候間、悪しからず存じ候よう申し聞かすべき旨をも仰せ聞かされ候」(以上は荒川登の口上)旨、荒川登(わが江戸留守居)申し出で候。
右については、右兵衛儀「この上は逗留罷りあり候とて、ほかに周旋方の見込み御座なく候間、右の御書持参して罷り登り、これまでの順序委細に申し上げ候方しかるべきや」(以上は野村直臣の口上)の旨、演説申し出で候ところ、「御上坂御促しの儀については、在京の諸藩よりも罷り下り、周旋致し候やにも相聞え候ところ、御家にて残らず帰京致し候形相、相聞え候わば、右罷り下り居り候者の気込みもいかがこれあるや。いずれ御出馬の御模様相済まざるうち、残らず相登り候儀は然るまじく候間、御自分ならびに才一儀は相残り、一同精力致し、秀次、富次郎儀、右の御書持参し、早々に出で起(た)ち罷り登り、これまでの手続き委細申し上げ候よう」(以上はわが重臣の口上)申し聞け候。
(九月十二日)






 わが公の憂い     十四日、幕府は特に守護職在勤中、毎月金一万両、米二千俵を賜い、費用に充(あ)てしめた。
 いったい、将軍家が進発するか否かは、幕府の死活に関するところであるのに、老中の人々はこれを察せず、遷延日月を送り、わが家臣の東下した者に謁見を許すことさえ容易でない。これは畢竟、彼らが上国の形勢にうとく、征長進発のことを重大視せず、座しているのみであるからである。わが公は深くこれを憂え、九月十七日、書を直に将軍家に奉り、その進発をうながした。その書にいわく、

伏して啓上奉り候。秋冷いよいよ増し候ところ、ますます御機嫌よくあそばされ候御儀拝承仕り、恐悦至極、敬賀し奉り候。
然らば、過日、長藩人恐れ多くも禁闕を憚からず発砲仕り、不届き至極、言語に絶し候儀に候ところ、早速諸藩へ追討仰せつけられ、引き続き御進発あそばさるべく旨仰せ出だされ候につき、天朝においても御頼もしく思し召され候よう伺い奉り、一統にも有難く存じ奉り、勇躍奮起罷りあり、中輿の御大業立てなさるべきと、大早の雨、久霖(ながあめ)の晴を祈る思いを成し、じつに千載の一時失うべからざるの好機会と御進発を仰ぎ望み奉りおり候ところ、今もって御日限も仰せ出でられず、天朝においても甚だ御案思あそばされ候ように伺い奉り、一統にも疑惑致し、気勢弛み、惰気生じ候ように見聞し仕り候。
昔、唐国の楚の荘王【注五】は、荊楚一国の重にてすら、自国の使者が敵国にて殺され候旨聞くや否や、投袂して素足、丸こし(丸こしとは無刀のことを言う)にてただ一人駆け出し、剣、履、車等は跡より漸く追いつき参り候くらいに急速に進発致し候て、攻め囲み候ゆえ、難なく敵を討ち平らげ、服従致し候。まして、堂々たる神州征夷の御職掌にあらせられ、余多(あまた)の大小名が羽翼を推戴し候儀にて、楚荘とは格別の御儀に御座候。仰ぎ願わくば神祖の沐雨櫛風、万死一生、嶮岨艱難、あくまで嘗めさせられ候御事、深く厚く御想像あそばされ、創業開基の思し召しあらせられ、御一己様御方寸より勇断憤発あそばされ候わば、靡(な)びき従わざる従者は一人もこれあるまじく存じ奉り候。はたまた、御一己様へ御不敬仕り候儀とも違い、禁闕へ発砲致し候ほどの者を御征伐のための御進発御遅緩に相成り候ては、天朝御尊崇筋へも相響き、せっかく一心一致して翼戴奉り、勇躍奮起仕り候諸藩も追々瓦解致すべく、中輿の御大業いかがあらせらるべきかと杞憂仕り罷りあり候。
当節柄、自余のことはしばらく差しおかれ、ただただ一刻も早く御進発あそばされ、上は叡慮を安んじ奉り、下は一統の望みに叶いなされ、速やかに御退治、中興の御大業を立てなされ候よう仕りたく、不肖を顧みず、忌諱を憚からず、寸忠、言を包まず言上仕り候。何とぞ深く御諒察成し下され候よう、万々願い上げ奉り候。恐惶再拝謹白。


再び白(もう)し奉り候。次第に秋冷相増し候ところ、皇国のため厚く御自愛あそばされ下され候よう願い奉り候。私儀、春来の長病、今もって平癒仕らず、不動にして曠職罷りあり候身分にて、御進発を促し奉り候も恐縮至極に御座候えども、皇国安危の機会黙止し難く、病中ながら執筆し献芹仕り候螻蟻(ろうぎ)の微忠【注六】、御諒察成し下され候よう伏して懇願奉り候。

三たび白(もう)し奉り候。御進発御遅緩に相成り候につき、促し奉るべきため、肥後、薩摩、久留米、桑名等の諸藩よりそれぞれ家臣出府仕らせ候由にこれあり、私よりも家臣差し下し、御老中まで申しつかわしおき候ところ、情実貫徹致さざる儀と相見え、今もって御日取も仰せ出でられず、病躯にて万事行き届きかね、胸中甚だ切迫仕り候につき、今般は御煩労を掛け奉るをも憚らず、御直(おじき)に献言し奉り候。幾重にも御垂仁、御採納下しおかれたく嘆願し奉り候。

 



 捗らぬ将軍進発     また、江戸にある重臣は、書を京師の重臣に送って関東の形勢を報じた。

一 御進発の儀、追々御延引に相成りおり、今に御比合等も相分らざる振合にて、じつに機会を失せられ候ては御取戻しにも相成らざる儀につき、御主意を奉じ、せいぜい尽力致し候よう、野村左兵衛、石沢民衛(わが江戸留守居)へもくれぐれも申し聞かせおき、昼夜奔走致しおり候儀に候ところ、御憤発の御様子もいちじるしく相見えざる段、当惑の事に候。
すでにこの間、久留米藩久徳与十郎、罷り下り候由につき、薩州海江田武治(今の信義)、熊本藩上村彦次郎等申し合わせ、しきりに御果敢行の儀、尽力致し候由のところ、先達てより御家において左兵衛はじめあまり迫り候て申し上げ候儀、閣老方もっとも御嫌いに相成り、御城へ罷り出で、大小監察〔目付〕へ申し上げ候儀も何となくうるさく存ぜられ候様子、追々相分り候由。
右につき、与十郎存じ寄り申すには、尊藩仰せ立てらるるの趣、尤もと御聞き成され候ても、公辺の御事業相運ばず、上より前段の通り御嫌い成され候にてこれあるべく候間、少少手を御引き、御見合わせ成されたく、さ候わば、拙者ども申し合わせ、閣老方へ激さざるよう、天下公論をもって尊藩の御論へ応援致すべく候。是非とも御急ぎあそばされ候よう致したき趣、談ずるこれあり候由につき、その意を任せ、暫次手を引かせおり候儀に候。

一 作二十二日、薩州岩下佐治右衛門(今の方平)早追いにて上京致し候由、右の訳柄(わけがら)は、もと御側御用御取次相勤められ、当時勤仕並大久保越中守〔忠寛〕殿の心付(こころづけ)にて、京都表の島津備後〔薩州藩主島津茂久の弟〕様よりの御口上をもって、御進発御促しの儀、天璋院様【注七】へ申し上げ候わば、御同方様には、かねて御勢いもあらせられ候由につき、京地の事情呑み込みの上御沙汰出で候わば、御果敢行に相成るべしとの策略の由、機密に承り候由に候。

一 松平伊豆守(信古朝臣)様、御留守居閣老方の内へ罷り出で、公用人をもって伺い候には、吉田(信古朝臣の居城)御宿城の取調べにつき、修復罷りあり候ところ、十月末までにこれなく候わでは出来かね候趣に御座候ところ、右にて御差支えは御座あるまじきやの旨申し候えば、公用人相伺い候上、来月末までに御出来に候わば、御気遣いこれあるまじき旨内密に申し候由。右等をもっても、来月中には御六ヵ敷かに察せられ候趣申し出で候。

一 京都織殿へ、御進発御入用の御旗御注文に相成り、未だ出来申さず候由。

一 久留米藩下村貞次郎儀、御目付石野民部殿へ罷り出で、密々相伺い候には、いずれ御進発近々に相成り候由申され候由。右石野殿は、久留米末家の由にて存ぜられ候儀は、腹臓なく相咄され方の由に候。
右条々は左兵衛申し出で候。なお、この先、機会を見合わせ、存分に尽力致し候よう申し聞け候。なおなお、この筋の公辺の御取り計らいぶり、先達て中と違い、諸藩周旋等のために御処置付け候と申す体(てい)にこれなく、すべての機至極密にしおかれ、とみに発せられ候と申す御振合に相成り候ところ、近頃異国より至極堅牢なる軍艦御買入れに相成り【注八】、未だ着船に相成らざる由。右着にも相成り候わば、にわかに海陸に転ぜられ、御出帆などと申す御都合等に万一相成るまじき儀にもこれなくと察せられ候由、左兵衛申し出で候。(九月二十三日)






 武市半平太ら死す     二十二日、幕府はわが公の名代安部摂津守を江戸城に召し、老中が台命を伝えて、左の賞賜があった。

御上洛の筋、御用向格段心配取り扱い候につき、これを下さる。(大和包清作刀一腰)

 山内豊信朝臣は、過激の徒が国家の大計を誤まるのを憂え、土佐藩士中、京地にあって有害無益の暴論を主張するものに帰藩を命じたが、その徒らはなお先非を侮悟せず、跋扈(ばっこ)旧に倍する有様であったので、怒り、この月五日、安岡哲馬ら二十余人を斬り、武市半平太、平井収二郎らを幽閉し、次いでこれを誅した【注九】。





 二条殿下の詰問     十月朔日、老中阿部豊後守正外朝臣が二条殿下に入謁し、摂海防備の未だ整わないことを説いて、暗に通商を拒絶することができないことを諷した。
 すると、殿下は怫然(ふつぜん)として、「外国の船舶が摂海に入った場合、将軍がその職にいられると思うか」と言われた。正外朝臣は黙していた。殿下は重ねて、「さきに征長の勅を発して、将軍の上洛をうながしたけれども、その後、絶えて消息がないではないか。よって、不日さらに勅使を遣わし、上洛をうながすことに決定した」と言われた。正外朝臣は愕然として、「正外、謹んで教命を奉じ、将軍上洛のことは死をもって私が促進致します。どうか勅使東下のことをお取り止め下さい」と述べた。殿下は、ようやく顔色をやわらげられた。
 正外朝臣は、翌日京師を発って、江戸に帰った。

 



 尾張藩士をなじる     さきに、幕府が徳川慶勝卿を征長総督に任ずるや、卿は尾張の城邑にあって、命令を受けても出立しようとしなかった。すでに朝廷は将軍家の上洛を督促するに至っているのに、慶勝卿はなおも発途しようとしない。
 そこで、わが公は九月二十六日、家臣小森久太郎を名古屋につかわし、出発をうながしたところ、ようやく入京してきた。けれども、依然として征西の色はなく、十月七日に及んで、はじめて先鋒諸藩の重臣らを自分の館(知恩院)に招き、宴会を催すという有様であった。
皆はその緩漫さを怒って、ただちに辞去し、さらに肥後藩の上田久兵衛、道家角左衛門、久留米藩の吉村武兵衛、安芸藩の梶川虎蔵らの諸藩士(薩摩、肥後、土佐、久留米、安芸、彦根、宇和島、津、松山、小倉、小田原、忍〔おし〕、桑名)がわが藩士手代木勝任のもとに会合し、尾張藩士を招いて、出征緩漫の事由をなじった。そして、「征長総督の大任を受けて、このように遅緩するようであれば、諸藩はこれにより惰気を生じ、人心解体して、遂に不測の変を生ずるに至るだろう。また戦は機に投ずることが肝要であり、この機をひとたび失えば、幕府の威権はたちまち失墜し、必らず瓦解土崩の乱境に陥るだろう。あなた方はこれをどうされるおつもりか」と言うと、尾張藩士らは陳弁して「兵は国の大事で、万一失錯があれば、ひとり尾張藩のみでなく、ひいては宗家の興廃に関するので、百事完備するのを待って出発しようとしているのだ。さきに数ヵ条のことについて幕府の指示を請うたが、未だその指令がこない。だから遅れているのだ」と言う。
 諸藩士は即座に反駁して、「まず敵境にのぞんで機変を制するのが軍旅の常套である。いたずらに坐して事の完備するのを待つのは、じつに兵を知らないもののなすことである」と言うと、尾張藩士はさすがに折れ、遂に十四日に大阪に行き、諸藩を部署に配置しようと約束して、去った。





 老中どもの愚かさ     これまで、わが公はしばしば家臣を東下させて、将軍進発の猶予すべからざるを老中に説かせてきたが、はかばかしい返事さえなかったのに【注十】、ようやくこの月(十一月)九日になって、老中の人々から左の書をわが公に送ってきた。

毛利大膳父子等の儀は、もとより朝敵御征伐御急務の事につき、御所向へ対せられ候ても片時も御遅緩これあるわけにはこれなくは勿論の儀に候間、速やかに御進発、御征討あそばさるべき思し召しにて、すでに右御用意等もそれぞれ急速に仰せつけられ、御進発の儀については決して御動(おんゆるぎ)はあらせられざることに候えども、尾張前大納言殿はじめ追悼の面々、未だ一戦の含みもこれなく候間、右の面々攻めかかりの注進次第、速やかに御進発あそばさるべき思し召しにて、なお、このたび別紙に申し進め候通り、前大納言殿はじめそれぞれ仰せ出でられ候につき、右注進次第、早速御進発あそばされ候はずに候えども、当節御地の形勢いかがに候や。当地にては、大膳父子御処置ぶり、寛緩の御沙汰も出るべきやとの風聞、諸藩にもこれあり、右等一同甚だ心配致し候。上にも、深く心配あそばされ候儀に御座候。
前書の通り、注進次第速やかに御進発あそばされ候についても、堂上方そのほか御所向面々のうち、なお彼に心を傾け候か。その余にも、かれこれいかがの周旋等致し候ようの輩これあり候ては、一同人気立ち候折から、一層混雑を生じ、御所向御取り締まりは勿論、当節の場合なおさら御一大事にもこれあり、容易ならざる次第に候。以後、諸藩より何様の儀申し出で候とも、関白殿はじめ堂上の面々等一同いよいよ決心し、御所向において御不都合の御処置は決してこれなくと申す儀をしかと御承知あらせられたく、もはや右様の儀もこれあるまじく候えども、もし大膳父子等寛緩の御処置等の説これある次第に至り、右等の勅諚にても万一出で候ようにては、何分御処置も相立ち難く、その辺深く心配致し候間、御自分よりその筋へ仰せ立てられ、右様の儀は決してこれなくと申す儀、御所向よりしかと御書付をもって出で、右を当地へ御差し越し相成り候よう致したく、この段厚く御含み、しかるべく御勘考、御取計らいこれあり候よう存じ奉り候。(十月九日)


 別紙
毛利大膳父子はじめ御征伐の儀は、最も御急務のことにつき、追々尾張大納言殿はじめ追討の面々へ仰せ出でられ候次第もこれあり、もはや御手順も相整い候えども、右は面々未だ攻めかかりの注進これなく候につき、なおこのたび別紙の通り前大納言へ仰せ出でられ、攻めかかりの注進次第、速やかに御進発あそばさるべき思し召しに候間、右の御心得にて伝奏衆へもしかるべく御達しおかれ候ようにと存じ候。(十月九日)

なおもって、前大納言殿へ仰せ出でられ候儀は、今更、美濃守(老中稲葉長門守、のち美濃守正邦朝臣)へ申し越され、同人御使を相勤め候はずに候。かつ前文の趣、一橋殿へも申し上げおかれ候ようにと存じ候。

 尾張前大納言殿へ
毛利大膳父子はじめ御征伐の儀は、かねて仰せ出でられ候通り御急務のことにつき、御遅延相成り候ては、御所へ対せられ仰せられる訳もこれなく、すでに御進発御用意等ももはや相整いおり、即今御発途あそばさるべき思し召しに候えども、一戦の御左右もこれなく候に、御軽率に御進発はあそばされ難き思し召しにつき、右の御注進をなされ待ち候御儀に候間、急速に御出張、討手の面々へ御指揮あられ、攻めかかりの次第迅速に仰せ下され候様との上意に候。

 右の書によれば、関東の閣老等は、関ヵ原の役に東照公〔徳川家康の法号〕がたやすく出発されなかった故事を学んだもののようであるが、それと今とは場合が異なるのに、その轍(わだち)を踏もうとして、遷延時期を失ったのは笑止のきわみと言うべきである。また、長州を寛大に処置すべからざる旨の書付を、朝廷より下賜せられることをわが公に委託するがごときは、上国の形勢を知らず、迂愚をつくしたものと言うべきである。





 三条らの処置問題     十二日、征長総督徳川慶勝卿、副将松平越前守茂昭朝臣が入朝して、階辞した。朝廷は剣馬を賜わり、これを節刀【注十一】になぞらえた。次いで、二将は大阪へ行った。わが公は家臣小野権之丞ら四人を派遣し、征長諸藩の労をねぎらった。
 この時にあたり、過激派の堂上はことごとく要路を去ったので、今は朝議をひるがえす憂いはなくなったようであるけれども、大炊御門家信をはじめ三条、毛利に荷担する人々は堂上に少なくなく、時勢の非なるを見て、彼らは一時的に雌伏(しふく)しているが、また何らかの陰謀をはたらくかもわからない。長州征討に際して、まず三条以下の人々の処置が一歩でも誤ったならば、過激派の人々はこれを口実として、何らかの事を企てるかもわからない。
 この日、幕府は閣老稲葉正邦朝臣を参内せしめて、三条以下の処置に関して朝廷の令旨を賜わりたいと請わしめた。朝廷は、彼らは今は庶人であるから一切関与するところではない。との令旨であった。





 聖上短刀を賜うた     十六日、伝奏衆飛鳥井雅典卿より、わが公に左の勅を下した。

凝華洞に於ける御警衛詰、今しばらく勤仕これあるよう先達て仰せ出だされ候ところ、日を追い向寒の頃ひとしお苦労と思し召され候えども、征長相済み候までは、同所に於いて守護これあるべく、更に御沙汰候事。

 二十五日、聖上は更にわが公の勤労を叡感あり、左の勅を下し、御短刀一口(兼恒作、金具模様、蒔絵等、下絵は檜腹内匠少允平在照、金具造りは後藤勘兵衛光文、蒔絵は永田習水斎)を賜うた。

国家のため、じつに励忠、出格の廉(かど)、殊に七月以来の苦勤を厚く褒賞なされ候事。





 再び将軍に発途を促す     わが公が、しばしば将軍御進発の建議をしたにもかかわらず、幕府老中の人々の、征討戦争の始まるのを待って関東を発信しようという考えの愚なることは、今さら論ずる必要はないが、しかし中川宮殿下をはじめ皆は、将軍家が進発して早く征長問題を処分することを希望していた。
 この頃、中川宮はわが家臣小森一貫を召して申されるには、「将軍進発の勅命が再三に及んでいるのに、未だ発途の様子もない。もはや朝廷においては、専命の勅使を発するほかはないということに朝議はほとんど決定した」とのことである。一貫は帰って、このことをわが公に報じた。
 わが公はそこで、久太郎を東下させ、次の親書を将軍家に奉った。

一礼謹みて申し上げ奉り候。このたびの征長御進発の儀、かねて御所にて深く御案じあそばされ候につき、阿部豊後守(正外朝臣)へ御深切に仰せらるる含みも御座候ところ、これまた勤めずの由相聞え、いよいよ御案じを増し、勅使差し立て相成り候ほかこれなくとの御評議に御座候趣、伺い奉り候。
然(しか)はもとより上様の思し召しより出で候えば、御威光も相立ち候儀に候ところ、勅使の御促しを御請けあそばされ候ようにては、せっかくの思し召しも相立たず候ゆえ、右を御控え下され候よう一橋殿ならびに所司代一同、かたく相願いおき候場合に差し迫り、追討の諸藩は勿論、一統手を合わせて御進発を仰望仕り候気向(きむき)に御座候間、なにとぞ御英断をもって急に御発ちあそばされ候よう仕りたく、伏して懇願奉り候。
(十月二十九日)


一筆拝呈仕り候。日を追い寒冷相募り候ところ、公方様にはますます御機嫌よく御座あそばさるべく珍重に存じ奉り候。各方にもいよいよ御精勤に御座候わん、賀し奉り候。
追々御進発も、その御地御都合もあらせられ候わんなれども、当表の風評区々に相成り、最先達て奏聞致し候御申し遣わしの儀もこれあり、ほどよく申し上げおき候えども、御所にてはいよいよ御案じあそばされ候が、豊後守殿御勤めずの由相聞え、畢竟、過日御深切に仰せ含められ候廉々(かどかど)相立たざる儀とますます御案じを増し、勅使差し下し候ほかこれあるまじくとの御評議に御座候由、相伺い候。しかしながら、それにては、御威光も相立ち難きにつき、御控えに相成り候よう強いて相願いおき、まずまず勅使のところは相止めおり候えども、この上御延引に相成り候ては、勅使いよいよ差し下され候勢に相見え候。拙夫においても毎々申し上げ、この上申し上げ方もこれなく、しかしながら、勅使さし止められ候力もこれなく候間、なにとぞ御精精のほど願い奉り候。別封(将軍への上書をいう)、右の趣意にて申し上げ候間、御前へ御差し上げ下され候よう願い奉り候。(十月二十九日)
 
なおなお、時下せっかく御自愛なさるべく、国家のため願い奉り候。当今時情の儀、紙上に尽くし難きことども、公用人態(わざ)と差し下し候間、御繁用の御中御聴き下さるべく候。


 十一月四日、朝廷は十五万俵増献のことを嘉納した。





 長藩三家老の首級を差し出す     この月十八、征長総督徳川慶勝卿は、広島より使を上(たてまつ)り、長門藩謝罪のことを上奏した。

毛利大膳家来志道安房儀、当月十三日、芸州二十日市と申すところまで罷り出で、申し達し候は、当七月、京都において暴動に及び候罪魁、益田右衛門介、福原越後、国司信濃三人の首級持参仕り、実検に備えたく、よろしく指図これあるよう仕りたき旨、松平安芸守家来まで申し立て候。
右は右衛門介等存命に候わば、生活のまま差し出さるべき筋合のところ、安芸守をもって先達て申し聞け候趣、未だ相達せざるうちに斬首し差し出し候につき、右首級、広島国泰寺へ護送の上、同寺へ差し置き、護衛仕らせおき、臣慶勝儀、一作十六日広島表へ到着仕り候につき、今日、右衛門介始め首級実検仕り候ところ、相違御座なく候。且つ、暴動に及び候みぎり、参謀大膳家来宍戸左馬介、佐久間左兵衛、竹内庄兵衛、中村九郎儀国もとにおいて斬首申しつけ、ならびに久坂義助、寺島忠三郎、来島又兵衛儀、暴挙の筋京師において相果て候旨安房申し立て候。それについては、右衛門介始め三人の首級実検ずみの上、吉川監物へ差し遣わし【注十二】申し候。
右等の趣、幕府へ申し達し候につき、これにより言上し奉り候。誠恐敬白。






 天狗党討伐     これよりさき、水戸藩重臣武田正生〔耕雲斎〕らは、攘夷の先鋒と唱えて浮浪の徒を嘯集し、常州、野州の間を横行【注十三】していた。
 幕府は若年寄田沼玄蕃頭意尊を総将とし、隣邦諸藩に命じてこれを討伐させた。正生等は支えきれず、残兵を率いて亡命し、慶喜卿に嘆訴することがあると声言し、中山道より越前に入った。沿道の諸藩はこれを防止できない。そこで、急を慶喜卿に報じた。慶喜卿はみずから出陣して、これを蕩平しようと奏請した。
 この日(十一月十八日)、伝奏衆は勅を伝え、討伐にわが藩兵を随伴させることになった。

このたび常野脱走の徒鎮撫のため、一橋中納言出張に相成り候間、その藩、人数を差し添うべし、尤も、京都守護職にこれあり候間、必ず多人数には及ぶまじく候。

 そこでわが公は、隊長生駒直道、大砲奉行林安道(権助)、軍監井深重義等に、その部下を率いて従わしめた。



 複雑な関東内部の思惑と動向     この頃、東下させていた家臣小森一貫(久太郎)より、関東の情報をその同役に送ってきた。

なおなお、円覚院(上野東叡山の塔中〔たっちゅう〕)より承り候には、固く口留めの誓紙を差し出し候ことゆえ、御心得下されたく、中将様(わが公)へも申し上げくれまじき旨。

御道中いよいよ御障りなく御上着なされ候わん、賀し奉り候。しからば、豊田少進(上野宮の侍なるべし)のこと委細承り候ところ、今暁出立致し候由、別紙の通り申し越し候。
昨日、円覚院より承り候ところ、御門主様【注十四】(上野宮を言う)には御上京の御沙汰はまずこれなく、併せて京師の模様次第には何とも申し難き候趣申し候。右少進御差し登せの儀は、もともと政府と御懇談の上、去年二十五日御門主様御登城、御書付御老中様へ御渡しなされ、それより当月六日、伯州公(老中松平宗秀朝臣)上使として上野へ御出でに相成り、少進御登させのことに相成り候由。
右の御主意は、諸藩にてこの筋は疲弊甚だしく、この上御追討等仰せつけられ候ては、ますます難渋に行き迫り候次第、殊には関東にても両度御上洛、諸方、海防の御手当等御散財のみ打ち続き、この上御進発あそばされ候ようにては、御取賄(おんとりまかない)つきかね候仕合せゆえ、御進発御延引朝廷より仰せ出でられ候よう、尤も長州へは御門主様より御説得これあり、これまでの罪状、赦願致し候ようなされたく、さ候えば万民塗炭の苦を免かれ候こと、且つ長州も大国のことに候えば、なかなか早速の御追討にも相成るまじく、この筋御進発になられ、外国も間近に碇泊致しおり候ことなれば、その虚を伺い、いかようのことを仕出で候やも計り難く、且つ長州のこと、これまでも御堪忍なされおき候ことゆえ、ここにて御堪忍袋を御切りなされ候ては、これまでの御仁恵もこれなく相成り候ゆえ、是非是非寛仁の御処置あそばされ候よう、御門主御嘆願の由に御座候。
その余、細々の儀もこれある様子に候えども、まず大意は右の趣に御座候。昨日までは少進の出起相分りかね候につき、今日、間合せつかわし候ところ、出立し候趣、別紙(この別紙は伝わっていない)の通り申し越し候間、明朝、高松氏(阿部の家臣)出起し、早(早追のこと)にて登り候由にて、この事のみ申し上げ候。(十一月十二日、野村直臣宛)


豊田少進の上京の趣は、委細高松佐吉登り候筋、野村氏へ書状をもって申し上げ候間、御承知下され候はずに候。高松の出起につき、十二日暮ごろ参りくれ候につき、右の一件相咄し候ところ、一向に存ぜざる趣申し候につき、なお豊後様(白川藩、阿部豊後守正外朝臣、老中)に有無相伺いくれ候ように相頼み候ところ、早速相伺い、右の次第、実事においては、手紙をもって早速申しつかわし候はず、もし虚説に候わば、申しつかわさざるはずに相約し候ところ、なにごとも申しつかわさずに出起致し候。よって、豊後守様にも御承知の由、仰せられ候事と相見え候。
右をもって相考え候えば、やはり豊後様も一つ穴の狐にはこれあるまじき、甚だ不審なることに存ぜられ候。しかし、少進上京の上いかようのことを申し候や、小子より申し上げ候次第に候わば、いよいよ不審このことと存じ奉り候。右の筋は、高松はじめ御家臣共、同藩同様の心得にて、なにごとも打ちあかし候は御見合わせなされたきことに御座候。かようの筋には、御家へ間者につけおかれ候も計りがたく候間(中略)、御用心専一と存じ奉り候。二条様、宮様、徳大寺様辺へも、しかるべく御都合なされおき候よう愚考仕り候。且つ不審の廉(かど)、もっとも一事に御座候。石の上にも三年と申すことを豊州様が申され候趣に御座候ところ、さほどの事に候えば、営中にて皆々存じおり、坊主共もことごとく存じ居り候ものに御座候ところ、一向に存ぜざる由に御座候間、これらのところはなお探索の上、あとより申し上ぐべく候。
且つまた、尾州様よりきびしく御進発御促し、豊州公の御策略も段々愚考仕り候には、右等をもって御追討を引延しおき、御門主様の御嘆願をもって寛大の御処置などの御注文にはあるまじきや、よっては尾州様より御促しは宜しかるべく候えども、御促しは御促し、御取詰は御取詰と申すようにありたきことに御座候。いずれにても、同時の形勢にては、日々に御進発の気候は薄く相成るように伺われ候。
酒井侯(老中酒井雅楽頭忠績朝臣)、泉州侯(老中水野和泉守忠精朝臣)、豊州侯も、小子へ御逢いなされ候事と申すことに相成りおれど、今にいずれ様よりも御日取りは申し参らず候。小子が持参仕り候御直書の御模様は、右の次第にて、一向に相分り申さず候間、なお追々申し上げ候。くれぐれも白川藩の御用心は肝要の御事と存じ奉り候。まったく懐中の虫にこれあるべくと存ぜられ候。右等の次第共、とくと御評議の上、御用の間(わが在京都の家老たちを指す)御前へも仰せ上げおかれ候よう伝々。(十一月十四日)
追啓、長州近辺へ御老若御用の趣は、御座の間にて仰せを蒙られ候儀故、一切相分らず候。


別紙、豊州様の儀は、愚考の趣を取り調べ、上田一学(わが在江戸の若年寄、のち学大輔)殿へも相伺い候ところ、御同人の御心付けには、豊州様には、京都方の仁と、ここもと御閣老方の存ぜられ候ところより、この度の一条、豊州様へは御咄合い御座なき故、まったく御存じこれなきことにもこれあるべきや、一学殿の御心付に御座候間、この段も御含みまでに申し上げ候。さりながら、本書に申し上げ候通り、この一事ばかりに候わば、上田殿御心付御尤もに候えども、石の上にも三年のところをもって考え候えば、いかがこれあるべきやと存じ奉り候。なお、御勘考下さるべく候(十一月十四日)。

また、

水野様(水野和泉守忠精朝臣)へ御逢いの儀相願い候ところ、今日は御不勤故、御逢いなさりかね候えども、そのうち御逢いなさるべき旨、一応御用人値賀(ねが)をもって申し上げ候よう仰せられ候につき、七左衛門(値賀のこと)をもって申し上げ候は、この度、御名直書をもって申し上げ候次第、まずしばらくのところは御差し控えに相成り候えども、この上御進発の御日取りも仰せ出だされず、いよいよ御遅寛と申すことに相成り候ては、とても一橋様、桑名様、御名も御尽力のなさるべきようこれなき段に相至り申すべくと、御一統様御苦心至極の思し召し、しかし勅使御下向と相成り候わば、かよう御申し開きこれあり候間、御下向相成り候てもよろしと申す御折りもあらせられ候わば、その段相伺い、御一統様の御苦心あそばされざるよう仕りたく存じ奉り候。さなくば、幾日頃までには御進発仰せ出だされ候御都合に候間、それまで勅使の御沙汰を御差し控えに相成り候ようと申す御都合に候わば、そこを以て、御一統様御尽力あそばされ候ようにも申し上ぐべく存じ奉り候。
さりながら、あまり寛々とあそばされ候うちに、打出の方々御取りかかりに相成り、吉川の見込みの通り、手を束ね、降を願い候節は、もはや御追討、御進発の名目も無と相成り、御進発あそばさるべき時節を御失いなされ候よう相成るべきやと存じ奉り候。
さて、禁闕に向って、かくまで乱暴致し候朝敵を御見かけ、ただよそよそしく御覧あそばされ候よう相響き候ては、臣子の情実において、いかが御座あるべきや。他より非を入れ候節は、非も入るべきことと存じ奉り候。この節、御進発あそばされ候えば、第一御尊奉の筋相立ち、御武威を更に張り仕り、諸藩の気請けもよろしく、人気引立ち候次第、毎々申し上げられ候通りの大機会に御座候ところ、御進発これなく候えば、右に反し候は顕然の儀に御座候。
畢竟、この度の勅使の御沙汰は、右等のところ厚く御含みあらせられ、誠に御深切より出で候事にて、関東を悪しかれとての御沙汰には御座なく候えども、万一□□□れ候節は、御信切の深きほど、御悪(にく)しみもふかく相成り候は人情に候えば、甚だ御大切の御場合と、御一統様御苦心あそばされ候次第に御座候。且つ、只今は諸藩の□□関東を押し立て、天下を治めず候わでは相成らずと申すところ、一定致しおり候ようには候えども、勅使御下向の節は、程よく御断り相立ち候御妙策あらせられ候とも、後日に至り、またまた激論沸騰致すまじきも計りがたく、尤も、諸藩共に激徒大分にこれある様子に候えば、時勢により、当時は鎮り居り候えども、その中には隙を伺いおり候者も多分にこれあるべく候えば、一昨年、作春のごとき世に相成り候は、まことに紙一重に御座候ところ、さよう相成り候節は、きっと違勅と申す儀を相唱え候は必定と存ぜられ候。その節に至り候ては、なかなか御名尽力には、とても行き及び申さず候。
尤も、当職を仰せつけられ京都表へつかわされ候も、恐れながら、上様御手長仕り、御尊奉の筋をはじめ、関東の御都合相整い候ための儀に候えども、京地の御模様何程申し上げ候ても、右に御応じ下されず候わでは、彼地にまかりあり候詮(せん)もこれなく、いかんとも尽力仕るべきよう御座なく、その上、自然、京都方などと申す名目を唱え出し、離間説を申し触らし候ように相成候は、目前に御座候。
すでに、この節、御上には御座あるまじく候えども、京都方などと申しおり候者もこれありやに相聞き候。右様の御振合に相成り候ては、彼地にまかりある御為筋はさしおき、却(かえ)って御不都合を生じ候段に相至り申すべしと苦心至極に存じ奉り候。
右等の次第とも、厚く御勘考の上にて御返書下されたき旨申し上げ候えば、一々御尤もの次第にて、一存にて御挨拶成りかね候次第もこれあり候間、なお出勤の上、逢い候よう致すべき旨仰せ聞けられ候につき、罷り帰り、その後、御出勤なされ候翌日、御退出へ相伺い候ところ、値賀をもって仰せ出され候には、一々御尤もの次第に御座候えども、当春上京のみぎり、御直断申し上げおき候通り、何もここもとの形勢相変り候儀もこれなく、御進発のところは、御総督様より第一左右次第と申すことに相成りおり候えば、まもなく御左右もこれあるべく存ぜられ候。
春中上京の節、関白様へ御直談申し上げ候事共も、罷り下り候ては、なにぶんその通りにも運びかね候事情もこれあり、苦心致し居り候次第にて、御名様思し召し通りにもいらず、甚だ心配致しおり候事ばかりに候。御返書の儀は、御用番が取り計らい候事に候えば、なお、阿部様へとくと申し上げ候よう致すべく、逢い候ても外に申すべきようもこれなく、尤も、御用も取り込みおり候につき、逢わざる趣、仰せ聞けられ候。
白川侯には、委細、野村氏御承知の通り、藩中より罷り出で候嫌疑を御厭いなされ候趣につき、御用人まで手紙にて問い合わせおり候ところ、十八日に至り、日取りをきめ候ことは、御用の有無によりむずかしく候間、御退出へ罷り出で、相伺い候よう申し聞けられ候間、すぐさま十八日に参殿し、相伺い候ところ、御用これあり、御逢いなされかね候趣につき、それより日々二十三日まで相伺い候ところ、御用多にて、なにぶん気の毒ながら逢いかね候間、御返書したため相渡し候節は御逢いなさるべき旨、河久保(小石衛門、阿部の家臣)をもって仰せ聞けられ候につき、御返翰御したためなされ候上お逢いと申すにては、申し上げ候ても詮なき事ゆえ、水野様へ申し上げ候通り、同人より申し上げくれ候よう相願い候。
その節、同人の申し候には、三四日のうちには、御返翰御出来なさるべきやと相伺い候ところ、出来候と仰せられ候えども、二十六日は御寄合日に候間、その節、御同職様へ御相談に相成るべく候間、二十七日に罷かり出で候よう申し候につき、同日参殿致し候心得に候えども、多分御返書御渡しには相成るまじくと存じ候。いずれ、御進発の有無、御談じに相成らざる内は、御返書は出で申すまじく、この御返翰はよほど御ひねりなされ候事と考えられ候。


一 二十二日、松前(老中、松前伊豆守崇広朝臣)公御出起、甲州路より御上りの由、武田耕雲斎、甲州へ越し候風聞【注十五】これあり候につき、御見廻りなされ候由、愚察には、なるたけ手間取り、芸州辺へ御出でなされ候ころは、もはや長州辺は降参に成りおり候えば、御進発は御見合せの注進なさるべき御策略かと相考え候。
その外、上野の豊田の一条【注十六】もこれあり、かたがた御進発御延引と相成り候上にて、御返翰も入らぬものになされたき御含みかも計りがたく、いずれも手のつけようこれなき仕懸けにばかり御取り計らい付候ように伺われ、右の様子とも御局中御評議の上、御用の間(わが家老を指す)御前へもよろしく御取り計らい下されたく願い奉り候。(十一月二十四日)


なおなお、先便の豊田少進の一条、阿部様御承知なされざるよう申し上げ候ところ、河久保へ高松が頼み参り候由、跡にて相分り候。
営中の御様子は全虚に御座候。この段御心得までに申し上げ候。


 



 天狗党の最後     十二月三日、慶喜卿は、その弟徳川昭武(わが公と嗣子の約束がある)とともに京師を発した。幕府の歩兵と、わが藩兵、加賀、筑前、小田原等の兵がこれに従い、大津に宿をとった。
 たまたまそのとき、大垣藩から檄を飛ばして、武田正生らが越前から西近江に向おうとしていると急報してきた。そこで、堅田から今津、岡村を経て、十六日、慶喜卿は海津に、昭武は山中村に屯宿した。そして、左のような令を諸隊に下した。

賊徒共、嘆願の筋これある趣をもって、加州はじめ段々に手配のもようと相聞え候間、右ようの儀に取り合い、襲撃の機会を取り失い候ては、大事に及ぶべきは勿論、たとえいかようの嘆願の筋これあり候とも、一旦公辺の御人数へ敵対致せし者につき、加州はじめ早々手はずの上、残らず打留め候よう致すべく候。

 この夜、加賀の藩兵から、賊が新保に至り、明日開戦すべきを報じてきた。慶喜卿はすぐさま、わが藩の兵を疋田(越前)に向わせた。時に、天(そら)は大雪が降り、酷寒ほとんど膚(はだえ)を裂くばかりであった。所存の村民はみな乱を避けて、家はみな空屋であるので、兵士の飢寒は甚だしかった。わが兵糧奉行の河原善左衛門は、四方に奔走して食糧を提供した。
 十九日、賊軍は疋田、曽々木に達し、険要の地を扼すにいたった。二十二日、幕府の目付織田市蔵が来たって、賊が加賀藩に降伏したことを報じた。慶喜卿はすぐさま令を下し、戒厳を解き、降人を加賀、彦根、若狭の三藩にあずけた。その後、これを敦賀の寺院、倉庫に禁錮し、明くる年二月、幕命によってことごとく斬罪に処した。





 【注】

【一 洗米】 神仏に供えるため清く洗った白米。

【二 摂簶竹槐門】 摂簶は摂政の異称。槐門は大臣の異称。

【三 伯耆守様、和泉守様】 老中本荘宗秀(宮津藩主)、同水野忠精(山形藩主)。

【四 土井出羽守様、京極越前守様】 大目付土井利用、同京極高朗。

【五 昔、唐国の楚の荘王は…】 春秋左氏伝にあり、春秋戦国時代に、宋と争っていた楚の荘王は、使臣の申舟が宋の謀臣華元により殺されたと聞いて、怒り、家臣が後を追うひまもなく率先して敵に向ったという故事をさす。

【六 螻蟻の微忠 】 螻蟻は小人という意味。忠義のへりくだった表現。

【七 天璋院】 将軍家定夫人。薩州藩主島津斉彬の養女敬子。近衛忠熙の養女として家定の夫人となる。

【八 軍艦御買入れに相成り】 アメリカから買い入れ、慶応元年二月二十日引き渡された富士艦であろう。

【九 これを誅した】 武市瑞山を首領とする土佐尊攘派については、一巻一八七頁注一を見よ。土州藩の尊攘派は、文久二年十月の攘夷勅使東下の時期が最盛期であった。こののち山内豊信の公武合体論が藩論を支配するに及んで、藩庁の圧迫が加わり、文久三年六月、平井収二郎(隅山)、間崎哲馬(滄浪)、弘瀬健太ら領袖が自刃を命ぜられ、九月二十一日にはいっせいに弾圧がおこなわれ、多数の志士が投獄処罰された。瑞山はこの時逮捕され、慶応元年閏五月十一日切腹を命ぜられた。こののち尊攘派の多くは脱藩して、倒幕運動に従事することとなる。本文中の安岡哲馬は、前記間崎哲馬と同じ尊攘派志士安岡覚之助(正義)とを混同した誤りと推測される。

【十 はかばかしい返事さえなかった】 幕府が将軍進発の実行をおくらせたのは、第一には、進発を布告さえすれば長州藩にただちに服罪するであろうと甘く見ていたこと、第二に、進発の準備が整わなかったことのためであった。老中阿部正外は征長副将松平茂昭(越前藩主)にたいし、「御進発あるべき事は疾(はや)くより治定せられてあれど、二百余年中絶せし事故、万事不整頓。第一諸物頭は老人のみ、其組子も老幼打交じりなり。故にこれを淘汰するのみも容易ならざる事業なるに、武器類も多くは古損に属し、其を修繕するにも多数の時日を要し、頗る困却」(『征長出陣記』)とのべている。幕府は、征長総督が出陣し、戦闘が開始されれば、将軍は進発すると弁明し、これにたいし征長総督徳川慶勝や諸藩は、まず将軍が進発し、軍の士気を高めるべきだと主張した。両者ともに、諸藩兵の士気と戦争の勝敗に自信をもたず、万一の敗北に責任を負いたくなかったのである。

【十一 節刀】 奈良時代、将軍出征の時、天子から賜わる刀。中国の制にならったもの。

【十二 吉川監物へ差し遣わし】 監物は長州藩支族(岩国)吉川経幹。長州藩主毛利慶親は、朝廷と幕府への斡旋を経幹に依頼した。経幹はこれに応じ、芸州藩に周旋を頼んだ。他方長州藩内では、保守派が抬頭し、藩権力をにぎって、幕府への恭順謝罪という方針を決定した。時に征長総督徳川慶勝およびその親任をえて参謀の役をしていた薩州藩士西郷吉之助(隆盛)は、戦わずして屈服せしめること、長州人同志をして争わしめること、を得策とすることとの意見をもち、経幹と会見して、妥協工作をすすめた。この結果、長州藩庁は、急進派藩士の反対をおさえ、十一月十一日、禁門の変の責任者益田、国司に自刃を命じ、その首級は岩国に送られ、福原も同地に護送され自刃、さらに萩の獄に拘禁されていた宍戸左馬助、佐久間左兵衛、竹内正兵衛、中村九郎の四人の参謀も斬罪に処せられた。三家老の首級は広島に送られて征長総督の実検に備えられ、経幹も、広島で幕使に会い、長州藩処分の寛大を嘆願した。

【十三 常州、野州の間を横行】 本書五九頁注一六を見よ。

【十四 御門主様】 輪王寺宮慈性法親王。一八一三~一八六七。有栖川宮韶仁親王の第二子。弘化二年江戸上野輪王寺の門跡となり、慶応三年五月寺務を公現法親王(のちの北白川宮能久親王)に譲った。親王は水戸の徳川斉昭夫人(有栖川宮熾仁親王の娘)の甥にあたっていたので、斉昭に接近し、攘夷運動の同情者と見られ、坂下門外の変(一巻一七頁注一を見よ)にも、尊攘派志士は輪王寺宮を擁立して挙兵する計画を立てた。

【十五 風聞】 この風聞は誤伝である。耕雲斎の再期については五九頁注一六を見よ。

【十六 上野の豊田の一条】 上野輪王寺宮の使者豊田少進が上京した件。

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  1. 2012/11/17(土) 16:24:57|
  2. 京都守護職始末2
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十七  蛤門の戦     『京都守護職始末2』

 わが死傷者甚大     さて、嵯峨兵の一部の児玉、来島の率いる賊兵は、烏丸通蛤門と下立売門との間に集合して、公卿の八条邸の南の塀柵を破って闖入し、新在家を北にのぼり、わが蛤門の守備の兵に砲撃を加えた。わが隊長一瀬伝五郎らは士卒を督して、これと戦った。
 はじめ、わが衛兵たちは、敵が門外から来るものと予想して、大砲二門を門の外に引き出し、烏丸通を東に向って蛤門を攻める敵を待っていたが、賊兵が新在家から攻めてきたので、いそいで大砲を門内に引き入れ、南に向って砲撃を開始した。賊兵は、遂に敵することができないで、公卿の石山邸に入って、そこからわが兵を砲撃した(石山邸には、前夜から賊兵が潜伏していたということである)。わが兵はこれと戦って、死傷者が数多く出た。来島らは、必死に兵を鼓舞して奮励せしめたが、勢いが振るわない。そのうち、桑名の兵士もわが軍に加わって、共に進み、遂に来島を仆した。賊衆は瓦解して敗走した。
 その日の戦でもっとも激戦だったのは、蛤門であった。ゆえに、この日の戦を蛤門の戦と世称するようになった。
 これよりさき、わが江戸の重臣達は、京地に変のあることを慮(おもんぱか)って、一隊の兵を編制し、井深重義を将として上京させた。この朝(七月十九日)、黒谷に着いた。留主の重臣は、井深隊に黒谷を守備させ、それまで留守をしていた生駒直道の隊をやって、わが蛤門の守衛を授けさせた。直道は堺町門から入り、凝華洞前に屯集した。





 賊鷹司邸に拠る     さてまた、益田右衛門介は、十八日の夜、真木和泉、寺島忠三郎、入江九一らを鷹司邸に潜伏させ、十九日には、伏見の兵、河原町藩邸の諸兵と合流して、禁中に攻め入ろうと計画を立てた。益田自身は、小兵で山崎の陣の留主をし、その余の者は、ことごとく鷹司邸に集合せしめた。
 しかし、伏見の兵は、大垣兵のためにもろくも破られて合体することができず、ただわずかに河原町の藩邸から小人数の兵が会してきただけであった。
 賊兵は、鷹司邸の塀を楯にして、横から堺町門を守る越前兵を砲撃した。露出した越前兵は、塀のうちからうち出す賊兵のために撃ち破られ、北をさして退いた。つづいて彦根、桑名の兵が来て授(たす)けたが、賊兵は鷹司邸を固守して、容易に退く気色がない。
わが生駒隊は、西院参町から迂廻して、裏門から九条邸に入った。





 十五ドエム砲を放つ     凝華洞には、当時の巨砲、十五ドエム砲【注一】が一門備えてあった。わが大砲の打手らは、これを西殿町の賀陽殿の前に据え、生駒家と手はずをきめて、鷹司邸の西北の角を砲撃し、塀の崩壊するのを合図に、生駒隊は九条邸から出て鷹司邸を破り、邸内に闖入し、大砲の打手も、崩壊した西北角から攻め入ることを約束した。
 十五ドエム砲数発を放つと、はたして塀がくずれた。九条邸内のわが兵は邸の門を開き、鷹司邸に攻めかかった。わが甲士渡辺弥右衛門が門扉をうち破り、野村秀次郎らが門内に突入して、門内から扉をひらき、わが衆はことごとく邸内に進入した。大砲の打出たちも、同時に邸内に進入した。大砲の打出たちも、同時に邸内におどり込んだ。
 賊は狼狽して敗走した。





 久坂義助ら     その時、薩摩、越前、桑名の兵も来って助けたが、たまたま鷹司邸から火が起ったので、賊将久坂義助、寺島忠三郎、入江九一らは、逃げきれないことを知って、屠腹して死に、真木和泉は負傷しながらも、残兵を率いて、鷹司邸の南裏門から逃れ出た。





 砲声雷の如し     はじめ九条河原に屯集していたわが兵は、夜半に稲荷山の砲声を聞くや、陣将神保利孝は、部下の長坂光昭の一隊と新選組を稲荷山に派遣したところ、戦はすでに終って敵の集騎も見えないので、九条河原に帰ってきた。
 すると、また北の方に、雷のような砲声である。
 急いで北上し、蛤門に来てみると、ここでも戦はすでに終っていた。神保の部下の加須屋の一隊は、稲荷山の砲声を聞いたとき、陣将の命で、桑名兵の一隊とともに伏見に行ってみたが、ここもまた賊が逃げたあとで、影もない。ただ彦根兵が長州邸に火をかけているのを見るのみであった。
 神保の部下の坂本隊、大砲隊は、北方の砲声を聞いて、馳せつけて丸太橋通に来てみると、鷹司邸内で、戦いの真最中であった。そこで、彦根兵らと南裏門を囲んでいると、そこへ真木和泉らの突出兵が現われ、これを迎え撃って敗った。真木は、わずかに身をもって逃れた。
 彦根兵、浅尾兵らは真木らを追撃して、多くのものを斬獲した。
 さきに、中立売で薩兵のために破られた賊の残兵が、商家に隠れ込んだので、薩兵はただちに火を放って、これを撃った。たまたま風がはげしかったので、火の手は所々に飛び散り、鷹司邸の火と合して、西は堀川まで焼けひろがり、南は九条野まで至るありさまで、ほとんど洛中を焼きつくした。





 殿上人の恐怖     この日、長州兵のうち出す諸門への砲撃は猛烈をきわめ、弾丸が内垣に雨とふりそそいだ。殿上人らは、こぞってふるえ上った。
 わが公は、所司代定敬朝臣とともに玉座を守護し奉ろうと、小御所の廊下まで進むと、慶喜卿が出てきて、「予が出て、諸兵の指揮にあたるから、君らは入って玉座を守護し奉るように」と言った。そこで二人は、常御殿の廊下に進んだ。二条殿下は、わが公を進めて、御前の縁にさぶらわせた。
 やがて、侍従が警蹕(けいひつ)の声を発して、わが公と定敬朝臣の家臣を退かせ、殿上正面の障子が開いた。二人が稽首粛拝すると、聖上は、かしこくも親しく慰労の詔を賜うた。
 そこで、わが公は殿下に向って、謹んで本日の騒擾が宸襟を驚かし奉るに至った止むをえぬ事情を奏し、戦いが一時激しくても、数刻を出でずしてこれを掃蕩するつもりであるから、どうか毫も天意を労することのないようにと述べた。聖上もその言葉を諒承された。それで、車駕遷御の私議【注二】もたちまち止み、殿上人の心もはじめて安堵を得た。わが公は、定敬朝臣とともに、小御所の庭上に席を設けて、宿衛した。伝奏、議奏、その他の諸公卿がやってきては、しばしばなりゆきを議した。
 そのうち、鷹司邸に火の手があがったので、堂上人はまたまた狼狽し、堺町門の官軍が敗北して、賊兵が凝華洞に放火したのではないかと言って騒ぎ立てた。わが公は答えて、「火がもし凝華洞であるならば、洞内の家屋は新築であるから煙が白いはずだ。この煙が黒いところをみると、必ず凝華洞ではなく、鷹司邸であろう。いまに勝ちいくさの報がある」
 と説いたので、衆心ようやく安堵した。
 しばらくすると、はたして賊兵が退却したという報知が至った。





 泰然たる聖上     その前に、総督が殿上をさがると、建春門で、わが公用人手代木勝任に出会い、「慶徳(因幡侯。慶喜卿の実兄)、茂政(備前侯、慶喜卿の実弟)は、わが同胞であるが、その家臣共の気持は測りがたいものがある。ゆえに、自分が出て指揮をとろうと思う。ただ心配なのは、禁中の驚動が甚だしいことで、万一車駕が宮廷を出て遷幸するようなことになれば、大事は去ることになるかもしれない。汝はやく禁内に入って、この気持を中将に告げよ」と言った。勝任は馳せて、このことを公に報告した。
 しかし、聖上の御言動は、泰然として平素に変ることなく、砲声や喊(とき)の声も、鳥声が耳に過ぎるように気に止められない。殿上はそれによって、はじめて粛然とした。
 晩におよんで、総督以下諸藩に左の勅を賜わり、戦功を賞された。

鳳闕の下、不慮の乱擾のところ、一同勢を出し、丹精を抽(ぬき)んで候段、叡慮めならず、大儀に思し召し候事。

 わが公は、大阪城代の松平信古朝臣に激をとばせて、長州兵追討の勅旨を伝令した。

長州人みだりに押し入り候につき、御所より追討候よう仰せ出だされ候間、もし在坂の者は二念なく打ち留めらるべく候。登坂の者は、摂海にて打ち留めらるべく候。

 この戦で、わが兵の死傷者は合わせて、五十余名であった。後日、それぞれの功労によって賞を賜うた。

 



 六角獄舎の悲劇     この日、六角の獄舎において【注三】、三条家の臣丹羽出雲、平野次郎、長尾郁三郎、その他浮浪の徒ら三十余人が破獄を企てたという理由で、ことごとく斬罪に処された。
 そもそもこれらの徒は、その跡は悪(にく)むべきであるが、その志は決して悪むべきではない。いわんや、その罪状も未だ判然としていないのである。それに、三十余人がことごとくそろって、破獄を企てたとは考えられない。けだし獄吏が破獄と誣(し)いて、断罪したにすぎない。
 あとになってこれを聞いて、わが公は大いに憂え、きびしく町奉行らを戒められたということである。





 真木和泉ら自尽     二十日、薩摩兵は、嵯峨の天竜寺に向った。 賊はすでに逃げ去り、僅かに足軽一人を捕えただけであった。その時、たまたま敵の遺留していった硝薬が火を発し、轟然と暴発し、寺塔がことごとく破砕した。
 わが藩の神保利孝の隊と大砲隊、新選組等は、山崎天王山に向い、二十一日の暁天に、山麓から進撃した。賊は山嶺に拠って、応戦数刻に及んだが、やがて、賊営から火が起った。わが兵が争い登ってみると、賊将真木和泉をはじめ、ことごとく自尽し、伏屍二十余人、焦爛したものが多かった。わが兵は大砲二門と器械、弾薬等を収めて、帰った。





 長藩の大阪邸を破壊     はじめ勅命が出て、長州兵に退去を命ぜらるるや、長州の三将ならびに久坂、寺島、入江らは、国許からの大兵を待っても、とても間に合わないうち追討の命が出ることを見越して、やや退兵の方に意が傾いていたのを、真木和泉らの浮浪の徒は、それをもって、幕府を恐れているからだと言い、慶喜卿が八方慰諭してわれわれを退兵せしめようとしているのは、畢竟、長州の兵力に拮抗できないのをさとっているからに外ならず、ゆえに、幕府や会津、薩摩の恐るるに足りないことは火を見るよりもあきらかなことである。今、このような千載一遇の機会に際し、退兵するなどとはもってのほかで、一戦に雌雄を決し、宿望を達するのは、この秋(とき)をおいてほかにないと論じ立てた。かかる場合、勇壮な論が勢力を得るのは、ありがちなことであるから、真木らの論が遂に実行されて、この一戦になったもののようである。
 しかし、真木が天王山に逃げのびてきた時、久坂、寺島、入江らはすでに戦死し、長州の三将はすでに西奔していた。真木は、前言の責任上、遂に自殺したものであるという。しかし、ここで死んだ者のなかには、長州藩の兵は一人もいなかった。
 天王山を落したわが勢は、次いで長門藩とその末藩の大阪邸を破壊し、米四万八千俵を収めて帰った。幕府は後に、その米を京師の罹災した人民にふるまった。





 長防へ追討の勅令     二十三日、長門藩兵の不臣の所業が、藩主毛利慶親卿父子の命令に出たものである証拠が明確になったので、朝廷は左のような勅命を布告した。

松平大膳夫儀、兼ねて入京を禁じ候ところ、陪臣福原越後をもって、名は嘆願に託し、その実は強訴にて、国司信濃、益田右衛門介ら追々差し出し候につき、寛大の仁恕をもってこれを扱うといえども、さらに悔悟の意なく、言を左右に寄せ、容易ならざる趣意を含み、すでにみずから兵端を開き、禁闕に対して発砲し候条、その罪軽からず、加うるに父子黒印の軍令状【注四】を国司信濃に授けし由、全く軍謀顕然に候。かたがた長防へ押し寄せ追討これあるべきこと。





 長州派公卿の参朝を停止     次いで、慶親卿父子の官位を褫(うば)った。
 この日、朝廷では、有栖川宮および鷹司前関白輔熙公、大炊御門大納言家信卿、正親町大納言実徳卿、中山前大納言忠能卿、日野大納言資宗卿、橋本中納言実麗以下、公卿十余人の参朝を停止した。これは、さきに長州兵の入京を許すことを主張し、また長門藩を曲庇したことがあったからである。





 将軍家上洛を促す     この時に当って、公武一和の基礎を造ろうとするならば、戦勝の余威に乗じて、将軍家みずから進発して征長の任に当り、一挙に長防を破り、すでに傾きかけた幕府の威信を張るに如くはないと、わが公から建議書を関東の閣老に送った。その書面にいわく、

一翰拝呈致し候。残暑未だ退かず候えども、天機ますます御麗しく御座あそばされ候間、御降心なさるべく候。将軍様にも、ますます御機嫌よく御座あそばされ候わん、珍重と賀し奉り候。各位様にもいよいよ御清適、御勤仕珍重と賀し奉り候。
過日、使者を差し下し候間、委細御聞き取り下され候わん長藩の逆意は、今日に相始まり候ことにもこれなく候えども、すぐさま禁闕に発砲致し候わんとは、じつに意外の挙動にて、恐れ多くも主上は常御殿に成らせられ、神器【注五】も舁(かつ)ぎ出し候ばかりに致し、玉座殆ど御遷(うつ)りに相成り候わんこと数度に及び、公卿、御宮等、供奉(ぐぶ)の用意を致し、宮中の鳴動雷のごとく、形情筆紙に尽し難く候。
右は十九日に御座候ところ、二十日夜、怪しき者宮中に入りこみ候とか申し、又々動揺致し、この時に、主上には紫宸殿に出御あそばされ、三器〔三種の神器〕も舁(かつ)ぎ出すばかり、外よりは御警衛の者共入り込み、混雑申すまでもこれなく、ようやくの事にて沈静に相成り候。
右等に就いても、一橋殿はじめ役々の尽力一方ならざる事に御座候。さて又、諸手差し向け候ところ、嵯峨は一人も残りこれなく、薩州の手にて焼き払い候。山崎は少々残党もこれあり、砲戦致し候えども、家来共にて乗取り候。伏見は井伊、戸田等にて打ちとめ、焼払い、八幡は前日より残党これなく候。大阪も追々の注進、落人打取り、召捕等少なからず、屋敷内には一人もこれなく引払い、西宮、兵庫辺に長人落ちゆくの模様、追々申し来たり候。長門守には、備後鞆(とも)の津まで出で候由に御座候。この上は九門内外をはじめ、大阪、兵庫、明石等、それぞれ備えを設け、西海並びに山陰、山陽、南海の二十三国に命じ、押し申しつけ候ところ、今日追討の御綸旨も出で候間、諸手相そろえ、進み候ばかりに御座候。
ついても、先達て中より申し進め候通り、御無人にてなんとも行き兼ね候間、力量これあり候者は破格に御擢用、御役免ぜられ候者も、それぞれ長ずる所をもって御用に相成り、右等御召しつれにて、すぐさま御上洛、万端の御指図あそばされ候わば、中輿の御功業日を指して成就致し候ことと存じ奉り候。諸手の監軍等、その人にこれなく候わでは、御威光、なんとも振起仕らず候間、この段御熟察下さるべく候。右申し進めたく、早々かくの如くに御座候。以上。
七月二十三日。


追啓、時下御自愛祈り奉り候。一橋殿はじめ小子等、いずれも御所内に於て廊下など拝借、今に詰めおり候。いずれも無異に御座候間、憚りながら御休意下さるべく候。

別啓、再三申し進め候えども、無人にてはなんとも致しかたこれなく候間、大和守、周防守等はじめ、杉浦兵庫頭、大久保豊後守、岩田半太郎等、大小監察、御使番等、復職仰せつけられ候よう仕りたく、この節柄、たがいに私意を去り、公義に趣き候よう御処置これなく候わでは相成らず、右は一橋殿へも、とくと申し上げ候上申し進め候間、急速に御伺いの上、御取計らい御座候よう伝々






 京鎮静にかえる     二十四日、朝廷は、京中がようやく鎮静にかえったので、総督、守護職、老中(稲葉正邦朝臣)、所司代の宿衛を免じた。さらに、二人を隔日に宿衛させることにした。よって、わが公は翌日、凝華洞の仮営に移った。つづいて、総督、老中、所司代の宿衛も免ぜられたが、なお兵士をして禁門を守らせた。
 三十日、朝廷では、わが兵の連日の宿衛の労をねぎらい、饌を賜うた。





 親藩譜代に人材なし     この頃、わが公は天下の大勢を察するに、親藩、譜代の諸藩外の諸藩中、薩摩藩の内心は容易に信をおくことができないにしても、公武一和はもともと久光朝臣の宿論であるから、今後、幕府側の失態がなければ、まず与党とみなすことができよう。土佐、仙台、肥後、筑前、久留米の五藩は、一和論の士人が藩政に当っているから、これも憂えるには足りないであろう。ただ芸州、因州、備前、加賀のみが長州の説に傾いているようであるが、今度の勝利の勢を駆って、一挙に長州を挫けば、芸、因らの諸藩はもとより与(くみ)しやすい。この時期を失ってはならない。
 しかるに、わが公は病がますます重く、徳川慶勝卿も未だ出京していない。親藩中で頼みになるのは、ただ慶永卿があるのみである。その慶永卿が京都守護職を免ぜられたので、家臣中には、往々にしてそれを越前家へ侮辱を加えたものとみて、慶永卿が隠居の身で、なまじいなことをし出して、恥を受け、その上財力を費したことで不満としているものが多い。したがって、慶永卿もまた心平らかでなく、藩土に籠居して、国事に無関心のごとくである。慶永卿は、織見はあるが決断力に乏しく、智はあっても勇気に欠け、永くともにことをなす人ではないが、この人をのぞいては他の有為の人がない。





 慶永卿へ出馬要請     そこで、慶喜卿と謀って、慶永卿の出京を促した。慶喜卿は目付役戸川鉡三郎、わが公は手代木勝任を福井にやった。その書面にいわく、

一朶(ひとえだ)呈上仕り候。秋暑いまもって甚だしく御座候ところ、いよいよ御安寧賀し奉り候。然らば貴君、この程は少々御不快の由拝承し、いかがなされ候や、御案じ申し上げ候。なお、委細を相伺いたく存じ奉り候。
さてこの度、長州藩士、恐れ多くも禁闕を犯し、逆跡、言語同断に御座候。即ち御家来、堺町の烈戦、感佩仕り候。しかるところ、官賊の名義いよいよ一定し、すぐさま防長を追討の御綸旨を下し給わり、天下皆これに赴き候。この上の一挙は、治乱の機間に候ところ、残憾至極に御座候えども、御家門、御譜代等の人物に乏しく、政府の御威光は甚だおぼつかなく、万目ひとえに公に属し候間、御所労中なんとも御煩労に御座候えども、皇国のため徳川御家のため、至急に御命駕なされたく、少子に於ても懇願奉り候。よって、家臣手代木直右衛門を差し出し候間、委細は同人より御聞きとり下され候よう希い奉り候。右申し上げたく、かくのごとくに御座候。
(七月二十七日)


 勝任に、慶永から渡された返書は、

貴翰拝閲仕り候。尊論のごとく秋暑甚だしく候ところ、まずもって御壮剛にて御奉職、欣賀の至りに御座候。
さてこの度は、長藩暴発にて禁掖を犯し奉り候逆罪、言語同断の次第ども、逐一伝承し、恐惶に堪えず候。その節も相変らず御忠節、共に御予備も御行届き、その上御藩臣、その所々にて苦戦し、義勇を励まし、賊魁も御手に死し候趣、天下の御名誉これにすぎず、感憤の至りに存じ奉り候。
右については、官賊の名義一定し、長賊追討の降勅にて、この上の一挙、治乱の機間に候ところ、御家門、御譜代等人物に乏しく、政府の御威望もいかにも御残憾の旨、御同意千万に存じ奉り候。右ゆえ、小生上京して参謀も仕るべき旨、わざわざ御家臣直右衛門御差し下し、委細仰せ下され候趣、逐一拝承仕り候。
則ち、一橋殿よりも戸川監察を差し下され、申し達し候趣とも御同様の儀にて、身にとり家にとり、本懐の至りに候えども、唯々重任に堪えず、何とも当惑至極仕り申し候。
右につき、一橋公へ御請の次第もこれあり、委細直右衛門へ家来共より申し聞け候間、御聞取り下され候よう仕りたく存じ奉り候。賤恙(せんよう)の儀、御懇尋下され、万謝し奉り候。先日来、瘧疾(おこり)を相煩い居り候えども、この頃は追々軽少に相成り、不日全癒仕るべく、別して秋暑に逢い、かたがた難儀罷りあり候。右裁答、かくの如くに御座候。頓首。(八月三日)。


再び暢(の)ぶ。賢兄にも永々御不快の趣、甚だ懸念罷りあり候ところ、追々御快然の御模様、天下のために賀すべきの至りに候。この節、一方ならず賢労、恐察に堪えず候。時下御自愛専一と存じ奉り候。又云う。直右衛門を呼出し、面唔に及ぶべきのところ、一昨日、戸川と応接し、その後瘧疾起り、昨日は大いに疲れ候。早々、不本意に候えども、面尽するあたわず、御海恕希い奉り候

 慶永卿は、遂に立たなかった。





 老中を東下せしむ     八月二日、当時在京の老中阿部正外朝臣に命じて、東下して、将軍の上洛を促さしめた。この時、家臣野村直臣、広沢安任に命じて、正外朝臣に随行させ、将軍家の上洛を謀らしめた。
 八月三日、総督は感状を薩摩、越前、桑名、彦根、大垣およびわが藩等におくって、去月十九日以来の戦功を賞した。
 四日、幕府は、さきにわが藩士が京中の不逞の徒を追捕したことの賞として、金千両を賜うた。
 五日、征長の勅諚が江戸に達したので、守護職、所司代に次の旨を下した。

長防征伐の儀、諸家へも仰せつけられ候えども、なお引きつづき御進発もあそばさるべき旨、仰せ出だされ候。よって、銘々いよいよ忠勤を励み、御主意の趣、厚く相心得候よう致すべき旨、仰せ出だされ候。





 征長総督の人事     十三日、幕府は薩摩、肥後、安芸、久留米、土佐、彦根等三十余藩に命じて、征長の部署をきめ、徳川茂承卿を征長総督に任じた。次いで、これを罷(や)め、徳川慶勝卿に代らせた。
 はじめ朝廷での内議では、慶喜卿を征長軍の総督とし、慶永卿を副総督とすることに内定していたが、関東で別人を任命したので、長州の処分など百事御委任の方針をもって、内議は遂に実行に至らなかった。
 幕府はわが公の功労を賞して、左のような感状を与えた。

松平大膳大夫の家来共入京し、禁闕に迫り、砲発及び乱妨候節、その方早速参内し、御守護相勤め、家来共も烈戦に及び、兼ねて御委任の新選組にも速やかに出張し、多人数を打取り候段、巨細御聴に達し候ところ、常々申しつけ方よろしく、一同忠勤を励み候段、比類なき動き神妙に思し召し候。この段申し聞かすべき旨、上意に候事。





 更に閣老に書を送る     阿部正外朝臣の東下するや、その目的は将軍家の上洛にあったにもかかわらず、その後、何らの報告もなく、また随行した家臣たちは、老中の人々から謁見の許しもない。今日の場合、猶予してはいられないので、この月十九日、幕府の監察小出五郎左衛門に、柴太一郎と桑名藩の森弥一左衛門を付して、大阪から海路江戸に下らせ、左のような書面を関東の閣老たちに送った。

一書拝啓仕り候。日を追って秋涼を相催し候ところ、天朝にはますます御安全、御地に於ても上々様いよいよ御機嫌よく御座あそばされ、恐悦至極に存じ奉り候。次に、各様もいよいよ御安健に御勤めなさるべく、恐賀し奉り候。
然して、長州御征伐を諸藩へ仰せつけられ、引続き御進発あそばされ候旨仰せ出だされ、一統勇踊、奮興罷りあり、じつに千載に一時も再得すべからざるの好機会に御座候間、なにとぞ一刻も早々御進発あそばされ候よう仰望奉り候。
万一御遅延に相成り候ようにては、討手の諸藩に於ても、自然気勢相弛み、顧慮、傍勧の念を生じ候やも計り難く、兵は拙速を貴ぶともこれあり、くれぐれも急速に御進発御座候よう存じ奉り候。
さて、本月五日より夷人ども長州へ砲戦【注六】に及び候由、よっては、長州の御処置ぶり議論もいろいろに御座候ところ、いずれも夷人どもに是非とも戦相止め候て、急に引取り候よう説得仰せつけられて然るべき筋と、一橋殿はじめ評議相決し、すでに朝廷に於ても、もっともと御聞きずみにも相成り、肥、薩、土州、久留米等の外藩の向きよりも打ち置かず説得し、急に引取り候よう幕府に於て御処置これなく候わでは、議論紛々と相生じ申すべしとの建言もこれあり、すぐさま引取り候よう、一橋殿より御指図これあって然るべき義と存じ奉り候えども、元来、横浜出帆の砌(みぎり)、御応接の次第も相分らず、前後不都合の応接に成りゆき候ては、外国に対し候ことにもこれあり、御取戻しも相成り難く、少少手遅れに相成り候とも、その御表より速やかに引取り候よう、使節遣わされ候よう致したく、委細の儀は、一橋殿より小出五郎左衛門を差し遣わされ候えども、なおまた家来へ申し含め差し下し候間、当地の事情御尋ね御座候よう存じ奉り候。(八月十九日)






 幕府雍蔽の極     柴太一郎が東下の後、書をその同役に送って、関係ある事情を報じてきたが、当時の形勢を知るに役立つ。その書面は、

着後、御模様を御伺い候ところ、御地とは一体に気候違い居り、とかく因循、沙汰の限りにて、第一、御進発それぞれ御手配これある御様子には御座候えども、未だ御発途の御日限なども定まらず、急には御むずかしき勢いに御座候。来月中旬、御旗本の行軍御上覧仰せ出だされ候。
右御覧後の事に候えば、来月末か十月始めに相成るべくとも申し候。またこの度は、前広(ママ)御日限等は仰せ出でられず、臨時御進発と申すに相成り候儀にて、右の行軍御上覧には、御含みもこれあるようとの風評も御座候。いずれ急には御運びには相成らざる形勢に御座候。


一 御総督の儀、老公(慶勝公)より御詫び仰せ上げられ候。その趣意は、総督儀は至極重任に候ところ、不肖儀、殊に所労にて不行届の儀、関ヶ原、大阪、神君の御親政の例をもって御進発あそばされ候わば、たとえ病中ながらも押して出陣し、幕下につき尽力仕るべく候間、総督の名義は御免下され候よう仰せ立てられ候由。
右について、彦三郎(尾張藩士、水野彦三郎)出府致し候。しかるに、是非是非御請なされ候ようとの事にても御許容これなき趣にて、彦三郎帰国致し申し候。よって好機会ゆえ、一橋公に潜らせられ候ようと、しきりに周旋致し候えども、御同公、ここもとにて存外御疑い【注七】おられ候振合いにて、中々御冰解に至りかね、遺憾の事共に御座候。

一 長州襲来の外夷御説得の義は、御趣意通りに御処置に相成り候由に御座候間、御安堵下されたく候。さて、この度出府仕り見候ところ、大雍蔽(ようへい)の極に相成りおり、御役人御逢いこれなく、着後は御城にて御目付衆に申し上げ候までにて、未だ閣老方へ拝謁も仕らず候。左兵衛(わが藩士野村直臣)先生なども、同様未だ拝謁これなく、阿部様へ両度御親類(わが松平家の三世正容公の室は阿部正武朝臣の息女である。また、わが五世容頌公の室は阿部正允朝臣の息女である)の訳をもって、御内々に拝謁致され候由、小生共を差し下され候せんもこれなく候ゆえ、左兵衛先生はじめ、森、小寺(ともに桑名藩士。森弥左衛門、小寺新五左衛門)など一同に、閣老へ罷り出で、迫って拝謁相願い候ても、委細は小出または監察より聞き届け候儀に候とて、御逢いこれなく、遂には激論に及び候えども、御用多または御所労とて、いつもむなしく帰り候次第。止むをえず公用人に御模様を相伺い候ところ、これまた近頃はなにも御洩らしこれなく、一切存ぜず候由にて、ひそかに伺い候ところ、近年言路御洞開の蔽、近頃はみだりに相成り、御威光にも相響き、折角の御治定に相成り候ことも、入説より相変じ、かえって御都合に相成らざる故、藩士等へも御逢いこれなく、且つ廟堂の儀は一切洩らさざるようとの御趣意にて、御役人御申し合せの上、じつは御逢いこれなき由、御目付様などへ相願い候ても、御伺いの上ならでは、御面会これなきの振合いに候。みだりに御逢いこれなきは、至極御尤もに御座候えども、事柄により、人により、この度の御使などは御事柄余事とは違い、野村先生はじめ御逢いこれなきと申すは、論を得ず、言語同断の儀にて、なんとも憤怒に堪えざる仕合せ、種々手をつくし、右の雍蔽(ようへい)より破却仕らず候わでは、余事の周旋も致し方これなき次第にて、日々桑藩はじめ打寄り、まことに枝葉のことにて空しく日を送り居り、なんとも嘆息の至り、是非に及ばざる儀を御推察下さるべく候。
この度、阿部候、小出様御登りに相成り候ところ、御用ぶりすら相伺い候こと相成らざる仕合せ、御局中(わが藩公用局)御人少のところ、ただ空しく滞留致し居るも恐れ入り候間、御同船相願い、帰京仕るべくと存じ候えども、右の通りにて、なにぶん報命仕り候ようもこれなく候間、もすこし滞留、御進発の日限にても相分り次第、帰京仕り候つもりに御座候。

一 広沢事も、小生着以前、親対面として帰国、一両日中には出府と考えられ候。

一 その後、御地の御模様はいかが御座候や、さぞ御心配どもと遠察罷りあり候。かように御処置、御因循相成り候ては、せっかく諸藩憤発仕り候ところも瓦解仕るべくと、懸念罷りあり候。なお、この上諸君の御尽力、国家のために願い奉り候。(八月二十八日)


別啓 今日御城へまかり出で、御勘定奉行小栗上野介様へ御逢い申し、御進発の儀相伺い候ところ、御同人様には、一々御同論の御様子にて仰せられ候は、自分なども、是非この度は急に御進発に相成らず候わでは第一御職掌も立たせられざる儀にて、かように御遅緩相成りおり、もし瓦解仕り候えば、とても御挽回の道はこれあるまじき義、かれこれ存じよりも申し上げ候えども、近頃、自分共にも閣老衆は容易に御逢いこれなきことに相成り、もっとも筋ちがいの儀として、御採用これなき次第に候。
右、御進発急に御運び相成りかね候には、きっと伝伝これある事にて、阿部公なども、大いに御尽力もこれあり候御様子に御座候えども、ここもとにては、とても成され方これなき故、御上京の上、御名様(わが公を指す)はじめ、仰せ談ぜられ、御一策あそばされ候御積りにての御上京と察せられ候旨仰せ候につき、右御差支えの次第はいかようの御事にやと押して相伺い候えども、じつに自分の愚察に候えば、委詳は存せずとて、決して仰せ聞けられず、小出様に相伺い候御咄のうち、同様、御進発は急に御運びに相成りかね候には、大いに次第これあることにて、何程ここもとにて尽力仕り候ても、右の病は去りかね申し候。その次第、只今申し聞かせ候ても栓なき儀、もっとも申し聞かせかね候由に候とて、御口外これなく、委細は京師にて相談すべしとの事に御座候(中略)。御両人の御口気を卜し候に、なにやら閣老中御異論の御方にてもこれあるよう察せられ申し候。
右の通り、大小御目付衆などへも容易にこれなき様子にて、だいぶ御不平の御方もこれあり、随分沸騰致し居り候ことにおぼえ申し候。右の次第どもにて、阿部様、小出様にも、ここもとにて他の都合もこれあり、御逢いこれなく候とも、その地にては御子細もこれあるまじく候間、委詳は御同人より御聞取り下さるべく候。(八月二十八日夜)


 



 毛利父子の官位を剥奪     八月二十四日、幕府は、勅命によって毛利慶親卿父子の官位を褫(うば)い【注八】、同時に、松平の称号と将軍家慶の諱(いみな)である慶の一次を褫(うば)った。

松平大膳大夫家来共、禁闕に迫り、発砲し候条、天朝を恐れざる次第、特に父子の軍令状を家来へ遣わし候始末、重々不届の至りにつき、父子とも官位並びに御一字の御称号、召し放され候旨仰せ出だされ候。この段心得のため、向々へ達せらるべく候。
その後、慶親はみずから敬親と称した。






 勅命も上洛を促す     三十日、朝廷では、さらに左の勅を下して、将軍家の上洛をうながした。

長防追討仰せ出だされ候につき、大樹にも進発これあるべき旨、至当の儀に思し召され、日を逐って支度これあり、いよいよ進発とは思し召され候えども、自然因循に及び候ては、人心にも差し障り候間、早々上坂これあるようにあそばされたく仰せ出され候事。

 この日、池田筑後守等が欧州から帰航し、通商拒絶の議【注九】が遂に就(な)らなかったことを復命した。幕府は、彼が使命を果さなかったことを責めて、職を褫った。
 この頃(八月五日)、英仏両国の軍艦が馬関を砲撃【注十】して、去年の復讐をした。長門藩は応戦してみたが、手もなく敗北し、遂に辟易して和を講じた。






 幕府役人の暗愚     九月朔日、幕府は元和大阪征討の例【注十一】にならって、将軍みずから師を率いて長州を征伐するに当り、この日、令を下して、文久二年以前の制【注十二】に復し、諸侯は各隔年に江戸に参覲し、かつ家眷をふたたび江戸邸において、人質にしようとした。しかし、朝廷からその許可がなく、そのことは遂に実行にいたらなかった。
 この時代において、参覲、人質等の制度を復旧することが不可能なことは、上国の実状に通じているものならば、誰が知らぬ者があろう。しかるに、関東の有司輩は、一時の過激党の失敗を誤認し、暴威が旧に復したものとおもいなし、行うべくもない法令を分布しようとするに至ったものである。





 【注】

【一 十五ドエム砲】 ドエム(duim)はオランダの長さの単位。センチメートルの旧称。十五ドエム砲とは口径十五センチメートルの大砲のこと。

【二 車駕遷御の私議】 放火のはげしかった時には、宮中では、下賀茂遷幸の議がおこり、板興を常御殿東階下に準備したが、実行なくすんだ。

【三 六角の獄舎において…】 戦闘のため生じた火災は、市中広範囲におよび、火は六角獄にせまろうとした。獄吏は、囚人がこの機に生じ破牢を企てていると称し、三十三人を殺した。この挙は、上司の指令を持たず、獄吏が独断で実施したものと思われる。この遭厄志士の中には、大和天誅組の変(一巻二一〇頁注二を見よ)、但馬生野の変(一巻二二九頁注一を見よ)の関係者が多数をしめていた。

【四 父子黒印の軍令状】 六月二十四日毛利慶親父子が国司信濃にあたえた、黒印をおした軍令状のことで、内容は本書六七頁に掲載されている。これは禁門の変の時、中立売門の辺で薩州藩の手に押収され、長州藩主父子がみずから京都攻撃を指揮したとの証拠とされた。

【五 神器】 古来天皇の皇位のしるしとされた八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)の三種の宝物。鏡は伊勢神宮、剣は熱田神宮に祀られてからは、曲玉と模造の鏡・剣とを宮中においた。

【六 夷人ども長州へ砲戦】 四国連合艦隊が長州藩に砲撃を加えた事件。本書七七頁注四および本章注一〇を見よ。

【七 御疑い…】 一橋慶喜は、つとに将軍に二心をいだいているのではないかと老中から疑われていた。慶喜が在京幕吏を代表して、将軍は征長に進発すべしと主張したのにたいし、江戸の老中は、将軍進発を呼号すれば、実行しなくても、長州藩は屈服するであろうと見、実施を引きのばしていた。

【八 慶親卿父子の官位を褫い】 大名の官位任叙の権は幕府がもち、幕府の推挙によって行なわれることは、元和元年制定された禁中公家並公家諸法度できめられていた。
松平氏は本来家門(三家以外の徳川の分家)をして称さしめたが、外様にたいしても、恩恵として松平の姓をあたえた。
長州藩の毛利氏もその恩恵をうけた。将軍の諱の一字をあたえることも、大名統制策であり、毛利慶親の「慶」は将軍家慶の一字拝領を許されたものである。

【九 通商拒絶の儀…】 横浜鎖港談判のため渡欧した幕府使節池田筑後守(長発)の一行は、元治元年三月フランスに到着したが、すでに仏国政府は英・米・蘭政府と連絡し、日本の要求を拒絶する方針をきめていた。したがって鎖港の交渉は不可能であり、池田もあきらめて、五月パリー約定に調印した。パリー約定の内容は、下関海峡で砲撃された仏軍艦への賠償支払、下関海峡の解放、日仏間の貿易拡大のための関税改正というものであり、鎖国の目的とは正反対の結果となった。池田は七月十七日帰国し、海外の形勢を説き、攘夷の不可を主張した意見書を提出したが、幕府は幕令に反したという理由で、七月二十三日、筑後守の禄六百石をとりあげ、隠居・蟄居を命じ、副使河津祐邦にも小普請入・ 逼塞を命じ、かつ翌日、国内の紛乱をおこすおそれありとの理由で、パリー約定を廃棄した。本書は池田の復命の日を八月三十日としているが、これは誤りである。

【十 英仏両国軍艦が馬関を砲撃…】 英・仏・米・蘭四国連合艦隊十六隻と長州藩との交戦は八月五・六日に行なわれ、彼我の武器の差から、長州沿岸防備の砲台はほとんど破壊占拠された。そこで長州藩は講和に決し、高杉晋作を講和使節にし、井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)をしてこれを助けさせ、この交渉の結果、十四日、キューバ提督の要求をいれた講和条約が成立した。その内容は、下関海峡通航の外国船の優遇、償金の支払であったが、講和成立後、長州藩と四国、とくにイギリスとの友好関係が急速に開かれることとなった。長州藩尊攘派は、実戦の経験によって、攘夷の無謀をさとるとともに、幕府に対抗する軍備を整えるため、積極的に外国との交易を開く必要を感じたからである。

【十一 元和大阪追討の例】 元和元年(一六一五年)、豊臣氏を滅した大阪夏の陣。

【十二 文久二年以前の制】 文久二年潤八月、幕府は参勤交代制および諸大名妻子在府制度を改正したが(上巻二〇頁注一〇を見よ)、元治元年九月一日、この両制度をもとにもどすと発令した。しかし諸大名は、種々口実を設けて守らず、実行されなかった。

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  1. 2012/11/16(金) 16:34:39|
  2. 京都守護職始末2
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十六  戦端を開く     『京都守護職始末2』

 長軍諸戦に敗る     十八日の夜、亥の刻〔午後十時頃〕に、福原越後は兵五百ばかりを率いて伏見を出発した。
 天竜屯集の藩兵がにわかに変を生じたので、鎮撫のために入京するのだとふれさせながら、進んで直違橋を過ぎた。ここを守る大垣藩の守兵は、あらかじめ路傍に埋伏していたが、福原勢が近づくと、にわかに起って、これを砲撃した。賊兵は狼狽し、数丁ばかり退いた。越後らは、兵を叱咤して、備えを立て直し進んだが、大垣兵は大砲数発を放って、これを撃った。もとより浮き足立った賊兵が、何でこれを支え得よう。総崩れとなって大敗し、越後はわずかに命を免かれたが、遂に見方軍と合することができなかった。
 一方、伏見を守っていた彦根兵は、伏見の長州邸に火を放って砲撃をはじめた。賊兵は今は伏見にも居たたまれず、大阪をさして奔走した。
 稲荷山の砲声が禁闕に達するや、朝廷は左の勅書を授けて、わが公を召された。

長州脱藩の士等の挙動すこぶる差し迫り、すでに兵端を開くの由、相聞ゆ。速やかに総督以下、在京の諸藩の兵たち、力を尽して征伐し、いよいよ朝権を輝かすべきこと。

 



 砲声中を参内     時すでに暁天となり、砲声が蛤門の方から聞えてきた。わが公が参内しようとすると、たまたまそこへ、小森一貫(久太郎)が、伝奏衆の旨を受けて馳せ来って、建春門から参内するようにと告げた。
 わが公は、そこで病を勉めて、駕籠で凝華洞を出て、建春門、北穴門で駕籠から下り、左右から助けられて、承明門(禁闕南門内で、紫宸殿前の門である)前を過ぎ、平唐門(唐門を入って右に行き、神嘉殿に行く間にある門)内の仮屋まで着いた。定敬朝臣が先に来ていた。大原重徳卿がわが公を迎え、病苦を労(いた)わり、手を執り扶(たす)けて殿上に進ましめた。そして、殿下に就いて、天機をうかがった。





 中立売門へ攻撃     その頃、国司信濃は、すでに夜半に嵯峨を出で、天竜寺に屯集していた兵の一部を率いて、その一手は、中立売門の筑前兵を撃ち破り、門内に闖入してきた。また、ほかの一手は、中立売門の南にある烏丸邸の裡門(うらもん)から邸内に闖入し、それから日野邸の正門を押しひらき、唐門を守衛していたわが藩の内藤信節の軍に砲撃をしかけてきた。
 これよりさき、唐門前に集っていた諸藩の守兵は、新在家に砲声が起るや、ことごとく北にのがれ、いまはただ、わが内藤の一隊だけが門前を守っているばかりであった。賊兵は、日野邸の塀のうちを拠点にしてさかんにわが兵を攻撃したが、わが兵はあいにく拠るべき地物がなかった。そのうち硝薬が尽きたらしく、砲撃は数刻で止んだ。




 賊兵散乱     わが軍事奉行飯田重慎、甲長の町野伊左衛門らは奮励して衆を鼓舞し、槍を入れさせた。部下の窪田伴治が率先して槍をふるい、敵中に飛び入って数人を倒して、みずからも死んだ。飯河小膳、町野源乃助らが、あとにつづいて槍をふるい、大いに戦った。
たまたま薩摩の隊長某が部下を率いて、乾門から吶喊(とっかん)して来て応援した。
 賊兵は遂に敗れ、日野邸に逃げ込み、鳥丸邸をぬけて烏丸通へのがれ出たが、そこへたまたま相国寺の薩摩邸から出てきた薩摩勢が、烏丸通の北からやってきてこれを撃ち、筑前兵は中立売門内から、これに応援した。
 敗余の賊兵が、どうして新手の薩兵に当ることができよう。ひた崩れに崩れて、ちりぢりになり、信濃はわずかに身をもってのがれた。

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  1. 2012/11/15(木) 20:45:59|
  2. 京都守護職始末2
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十五  長防追討の勅による総督慶喜卿の令と部署     『京都守護職始末2』

 長剿討の令を発す     福原の挙動を察するに、勅諚を奉ずる意のないこと判然たるものがあるので、朝議でも、退去時刻の経過を期として追討することに決し、守衛総督慶喜卿に、すみやかに違勅を剿討(そうとう)すべしと勅を下した。そこで総督は、諸藩にこれを命令した。

長州藩士、頃日出願これある趣に候えども、多人数兵器を携えて屯集し、穏かならず候につき、早々引払い、福原越後少人数にて伏見に罷りあり、出願の儀は穏かに、その筋をもって寛大の御沙汰を相待ち候よう、朝廷の御趣意をもって説諭致させ候えども、侮悟、鎮静と相唱え、国司信濃、増田右衛門介など引き続き罷り登り、かえって人数追々と相増し、再三願書を差し出し、恐れ多くも去る八月【注一】以後の御処置は、実の叡慮にこれなきなどと申し立て、兵威を仮り、遮りて嘆願罷りあり候条、朝廷を劫(おびや)かし奉り候所業、不届至極につき、屯集罷りあり候長藩のもの征伐の儀、天朝より仰せ出だされ候。
就いては、長防二国の動揺も計り難く候間、押えの儀きっと相心得、以後罷り登り候者はもちろん、国許に於てもいかがの所為これあらば、すみやかに人数をさしむけ、誅戮致すべく候。
但し、時宜の見計らい、主人々々が出張口より攻め入るべきこと。


 



 各藩の部署     すでにして、左のごとく部署を定めて、それを諸藩に令した。

伏見
一ノ先 戸田采女正氏彬朝臣(病気につき、重臣名代) 大垣藩

二ノ先 井伊掃部頭直憲朝臣 彦根藩
 但し、掃部頭は禁闕を守るべし。かつ桃山は井伊家にて、只今より取り布くべし。

二ノ見 松平肥後守容保朝臣 会津藩
    松平越中守定敬朝臣 桑名藩
 但し、職柄につき方面の諸軍を令し、進退を司るべし。

伏見長州屋敷へ入る
    蒔田相模守広孝(京見廻組組頭) 備中浅尾藩

監軍 御目付某
 但し、二ノ見にありて諸軍に令を伝うべし。

遊兵 有馬遠江守道純朝臣 越前丸岡藩

   小笠原大膳大夫忠幹朝臣 小倉藩
 但し、伏見勝利の後、戸田、有馬、小笠原の三手、地形をしめて、ここに備え、その余ら山崎の奇兵たるべし。

八幡 松平伯耆守宗秀朝臣 丹後宮津藩
 但し、事発せざる前には、八幡山を取り布くこと肝要なり。

山崎
先手 柳沢甲斐守保申 郡山藩

二ノ見 藤堂和泉守高猷朝臣 津藩
但し、藤堂は八幡も心得べし。

東寺 一橋中納言慶喜卿

本陣警衛 会津兵

監軍 御目付某

奇兵 細川越中守慶順朝臣 熊本藩
   有馬中務大夫慶頼朝臣 久留米藩

天竜寺
右一ノ先 島津修理大夫茂久朝臣 薩摩藩

右二ノ先 本多主膳正康穣 近江膳所藩

右二ノ見 松平越前守茂昭朝臣 越前藩

左一ノ先 大久保加賀守忠礼 小田原藩

左二ノ見 松平隠岐守勝成朝臣 予州松山藩

洞ヶ峠 九鬼大隅守隆都 丹波綾部藩
     織田山城守信氏 丹波栢原藩

坂本 朽木近江守綱張 丹波福知山藩

伏見土州屋敷 山内土佐守豊範朝臣 土佐藩

市中廻り 市橋下総守長和 近江仁正寺藩

長州対州屋敷押え 前田筑前守慶寧朝臣名代重役 加賀世子

監軍 御目付某
 但し、二ノ見にありて方面の諸軍に令を伝うべし。

遊兵 青山因幡守忠畝 丹波篠山藩

締り役 前田筑前守慶寧 加賀世子
 但し、三条辺りにありて機に応じ応援すべし。

豊後橋 間部卍治 越前鯖江藩
    小出伊勢守英尚 丹波園部藩
 但し、宇治橋も心得べし。

老ガ坂 松平豊前守信篤朝臣 丹波亀山藩

下加茂 仙石讃岐守久利 但馬出石藩

上加茂 池田相模守慶徳朝臣 因幡藩

鷹ガ峯 池田備前守茂政朝臣 備前藩

上加茂より川側手前 尾州勢


 右の部署のうち、対州の邸に抑えの軍を置いたのは、この藩の動向が未だ知りたがたいことによってのことと見える。

 



 逆寄せの計画     朝議がいよいよ征討と決すると、因州藩のみならず、他の藩士でも長州に同情を表するものがあって、このことを長州人に報告した。長州人が目ざす相手は、わが藩である。長州が坐して征討を受けるとなると、他の藩も止むをえず勅令に従い、長州を敵としなければならないから、むしろ逆寄(さかよ)せして、禁闕に迫り、会津兵にのみ挑戦することになれば、他藩は両端を顧望して動かないであろう。そうすれば、一挙に会津を破り、至尊を擁し奉って天下に号令すれば、宿望を達すること掌中にありと考えて、兵を次のように部署した。
 福原越後が率いる伏見邸の人数を本街道にすすめ、河原町の長州屋敷に潜伏している長州藩士と浪人たちと合併し、鷹司邸の裏門から入って、凝華洞の正面に出る。また、益田右衛門介の率いる長州藩士と浪人組は、福原と同時に鷹司邸に集合するものとし、また、嵯峨の天竜寺にこもる国司信濃の率いる長州勢は、児玉小民部、来島又兵衛に随伴し、三手に分れ、中立売、蛤、下立売の三門から御所に突入することにした。その他、若干名の銃手を精選して、長州と気脈を通じる公卿日野、勧修寺、石山などの邸内に埋伏させ、わが公が唐門から参内せられるのを狙撃させようとして、塀裏に足場をかけて埋伏させた。
 わが公が、唐門ではなく建春門、北穴門から参内されたため、この謀計が水泡になったことが、後になってわかった。





 国賊肥後守     十八日の夜、国司信濃は、その部下に左の部署の令を発した。福原越後もまた、同じような令を発したことであろう。

国賊肥後守を討ち取るため、今夜子(ね)の刻〔深夜零時頃〕御花畑(凝華洞)の宿所へ押し入り申し候につき、信濃は中立売、児玉小民部は下立売辺、森鬼太郎(来島又兵衛)は出水通を行軍し、九門に入りこむ戦略、肝要たるべく候。しかしながら、敵は肥後守のみのことにつき、列藩の内なるたけ取合いに及ばざるよう致すべき旨申し説き候うえ、無理に指揮候えば、余儀なく相戦い申すべく候。第一御所内の事に候えども、賊を討ち洩らし候ては相すまず候えば、大砲小銃の打ち方を用い候よう仕るべく候こと。(越前藩人がこの令書を拾得した)

 



 わが藩兵は千五百     この時、京都にあるわが藩兵の軍勢の数は、昨年八月以来、二陣(八隊)であって、外に公の親兵らを合わせると、およそ千五百人内外であった。
 そのうち一陣、すなわち四隊の兵と、大砲打手ならびに新選組をば、家老神保利孝に与え、竹田街道の九条河原に陣をとり、伏見の長州勢に備えた。残りの一陣の兵のうち、陣将内藤信節は唐門前を守り、番頭一瀬隆智、山内蔵人はそれぞれ一隊を率いて蛤門を守衛した。また番頭生駒直道は、一隊の兵をもって黒谷の本営の留守をした。
 この夜(十八日の夜)、深便におよんで長州勢が逆寄せするらしいとの報を得たので、警戒し、ますます守りを厳重にした。
 この時、諸門、各藩の受持ちは、寺町門は肥後、堺町門は越前、下立売門は土佐、石薬師門は阿波とし、禁門の南門は一橋、建春門(俗に日の御門という)は紀州、唐門はわが藩、清所門は桑名藩とした。これは主なる守衛兵を掲げただけで、各門【注二】に他の藩士がいて、これに応援する手はずになっていた。





 【注】

【一 去る八月】 文久三年八月十八日の政変をさす。

【二 各門】 御所各門の概略図(上巻一二〇頁)および御築地地内図(上巻挿込)を見られたい。

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  1. 2012/11/15(木) 18:42:28|
  2. 京都守護職始末2
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十四  長州藩士川端亀之助から定敬朝臣に呈した緘書ならびに送戦書     『京都守護職始末2』

 わが公の罪状を述べる     七月十八日、慶喜卿は、なおも人事において尽さないところがあるとでも思われたのであろう、長州邸の留守居役乃美織江を召して、兵を退けるように説諭されたが、織江は、自分の力ではとても実行できないと言って辞退し、家老を召されるようにと請うた。慶喜卿は、本日中に退兵させなければ、追討する旨を言い渡した。織江は退いて、このことを三家老に報じた。
 長門藩士川端亀之助(本名は椿弥十朗、長州の留守居役)は、緘書四通を所司代松平定敬朝臣の邸に呈した。
 その大要は、出奔した七人の堂上方と毛利慶親卿父子の冤(むじつ)を訴え、攘夷の朝議を去年の秋八月十八日以前の状態にひるがえし、また君側の奸をのぞくために、その軍勢がすでに山崎を発したという文言であった。その中に、君側の奸としてわが公の罪状を述べた書面もあり、その大略は次の通りである。

根体、今日、かくのごとく内乱、外患の一時に相迫り、神州崩裂の勢を醸し候は、別冊亡命の徒より縷陳申し上げ奉り候通り、まったくもって松平肥後守その職を得ざるよりのこと、天下衆人の知るところにして、今日に相成り候ては、私共に於ても、積年の叡慮をいよいよ貫徹し奉り、祖宗億兆に対させられ候御盛徳を奉らんと決心仕り候えども、亡命の徒同様、肥後守を誅除仕り候ほかは御座あるまじく存じ奉り候。
宰相と同姓の長門守も、右外夷畿海に闖入については、押して罷りのぼり御警衛仕り、なおまた叡慮を伺い定め奉り候儀もこれあるべきかに相聞き候については、私共臣子は、その主を輔翼するの情義により、せめて内乱の基と相成り候族(やから)なりとも取形付け候て、主人の責労を相分ちたく一同決心仕り候につき、大官重職の肥後守には候えども、僭越の罪は後日いかよう御厳刑蒙り奉り候ても苦しからず、眼前の神州の安危、存亡にかかわり候姦賊と相定め候うえは、しばらくも猶予相成りがたく候間、亡命の輩引き纏(まと)い、国賊を誅除仕り、謹んで天、幕の御指揮を待ち奉るべくと一決仕り候間、なにとぞ肥後守儀、早々九闕内を御追い払い、洛外へなりとも引き退かせ、尋常に天誅を請け候よう仰せつけられ、なお赫然宸怒あそばされ、国賊を誅除あそばされるの勅諚を、幕府並びに列藩へ仰せ出だされたく懇願し奉り候。
かようの儀、手下に於ては、つゆ相好み候次第は御座なきのみならずして、天下の大不韙を冒し候儀、いかにも憚り多く候えども、じつは国家の御為止むをえざるの仕合わせに御座候間、誓時、御恕免仰せつけられ下され候よう愁祈誠祷、泣血怨憤の至りにたえず、万死謹んで仕え奉り候。(七月十八日付、三家老連署)


  別紙 送戦書
謹んで按ずるに、陛下の攘夷の御志は弘化年来、終始画一の御事、今日といえども潜らせられ候御儀はあらせられずと存じ上げ奉り候ところ、去秋以来御撓(たわ)みあそばされ候よう相疑う儀これあり、民を恤(あわれ)むの儀は御天性にわたらせられ、猶更御深切にあらせられ、裏々島々の小民まで艱苦を致さず、億兆安然として、その所をえざるものこれなきようとの御素志にあらせられ候えば、普天率土、誰か感戴し奉らざらん。
しかるに交易に害にて、僻土に至るまで一民も疾苦を免るる者これなく、殊に輦轂の下にては殺気悽惨、人心恟々、朝に夕を恤(うれえ)ずとも申すべく、じつに恐れ入り候次第に御座候。
そのゆえんを相たずね候に、松平肥後守の所為に御座候。肥後守はその性剛服にて、庸劣、名文等を相弁えず、また家来共も奥州の荒僻の寒土に候えば、ただその威を張り、城市を虐げることのみにして、天朝の貴きところ、叡慮のかくも有難くあらせられ候御事をも相弁じ申さず、縉紳を欺き、義士を忌み、昔時の山法師の悪業よりも甚だしく、その罪を数え候に、十指を屈せずといえども、その大なるもののみあげ候わば、去年八月、調練を叡覧あそばさるべく仰せ出だされ候節、調練には不用の野戦砲数挺を御花畑へ相運びおき、劫喝のために相備え、同十八日未明に、御築地内をも憚らず連発仕り、禁闕へ押し入り候こと、これ大罪の一つなり。
関白鷹司公並びに三条殿以下、当時勅勘を蒙られ候御国事掛、寄人らの御方まで、いずれも国家の柱石にいらせられ、聖明を御輔佐あらせられ候ところ、その大徳、高才、純忠、至誠を恐れ入り奉り候より、百万讒毀(ざんき)し、にわかに参朝を停め、ついに幽閉、沈淪の御身となし奉り候、その罪の一つなり。
戎狄(じゅうてき)を悪(にく)ませられ候御事は申すに及ばず、外夷に相交り候儀は、その宗家、先に厳禁の致しかたこれあり候ところ、長崎表に役人をつかわしおき、国産絹糸、油等を交易仕り、年々些少の私利を得候穢心をもって、二港だけは残したき段、しきりに懇訴仕り、叡慮を遵奉仕らず、祖先の掟を破壊仕り候こと、これその罪の一つなり。
当春、延議にて、肥後守の守護職しかるべからずとて、越前家へ仰せつけられ候については、殆んど進退差し迫り、遷延罷りあり候うち、処処に謁を請い、またその職を得、窮困のあまり市井の無頼を致集して壬生(みぶ)に屯(たむろ)させ、且つ家来に祿米を宛て行ない申さざるや、市井に横行し、僅かに過ちあれば、ただちにその家産を没収し、あるいは夜陰辻切りして、持参の物を奪い取らさせ、洛中洛外を擾乱仕り候、それその罪の一つなり。
そのもっとも甚だしきにいたり候ては、去月五日の夜、にわかに兵勢を繰り出し、藩邸を取り囲み、かつ旅宿等に押し入り、多人数を殺害し、縛収し、家にあるところの財、衣服等まで盗み取り、なおまた同月二十七日、何故とも知らず、剣戟を相用い、にわかに参内し、乗輿を御玄関に平づけ、九闕をもって身囲いとなす手段、無法無礼にて、朝憲を憚らず、幕法を守らざる次第、普天率土、驚愕、憤怒の至りに堪えず候。その悪虐、暴戻の形勢に相顕われ候大なるもの、おおよそかくの如くに御座候えば、その小なるものに至りては筆紙に尽し難く、いわんやその心術、朝廷を軽視仕り候ことは、藤原信頼【注一】、木曽義仲【注二】にも相越え候。
畢竟、彼ようの者、重き御役儀を冒し候ゆえ、攘夷の叡慮も、恤民の思し召しも貫徹仕らざるのみならず、天下大乱の本、皇国必滅の秋に御座候。微臣ら主人、並びに三条殿以下、御寛宥仰せつけられ、攘夷の御国是すみやかに相立て候儀、天地鬼神に誓い、哀訴、嘆願申し出で訴ところ、かつてもって御採用仰せ出でられず、これまた肥後守の所為をもって、すでに時日を経、ついに浮浪煽乱の像を誣讒(ふざん)し、干戈内乱の禍を顧みず、列藩を欺き、廟議を促し奉り、あまつさえ、もったいなくも鳳輦を揺動し奉らんとまで姦謀を相巧み【注三】候段、もはや天下万民のために、そのままには相置きがたく、陛下祖宗の御為に誅伐仕らず候わでは相叶わざる儀につき、肥後守儀、闕下に於て討伐相加え候間、すみやかに九闕を御追い払い、洛外へ引退し候よう仰せつけられ、なお嚇然宸怒、天誅の勅諚をすみやかに仰せ出だし下され候よう願い奉り候。暫時、輦轂の下を騒擾仕り候儀もこれあるべく、深く恐れ入り奉り候えども、その段は止むをえざる義につき、御宥免仰せつけられ候よう願い奉り候。微臣ら恐懼に堪えず、屏居、懇祈、誠祷の至り、万死、泣血して謹んで仕え奉り候。
  長防浪士中


 右の問罪書が、福原、増田らの諸人の手に成るものだとしたら、福原たちの事理に暗いこと、いまさら論ずる必要のないことである。





 【注】

【一 藤原信頼】 一一三三(長承二年)~一一五九(平治元年)。平安末期の公卿。信頼は後白河上皇の親任をえて勢力をもっていた藤原通憲を排斥するため、源義朝と謀り、平清盛の熊野詣の隙に挙兵した(平治の乱)。一時朝廷を制圧し、権勢をほしいままにしたが、間もなく平家に攻められて、捕えらえ、殺された。

【二 木曽義仲】 一一五四(久寿元年)~一一八四(元暦三年)。源義賢の次子。治承四年、以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じて信濃に挙兵し、平家の軍を破って、寿永二年京都に入った。しかし後白河法皇は、義仲の排斥を策したので、彼は法皇を幽閉し、朝廷を改造し、法皇の近臣を解官した。だが源頼朝軍の攻撃をうけて敗れ、戦死した。

【三 奸媒を相巧み】 会津藩が天皇を彦根に移すことを計画しているとの噂が立ち、公卿や藩士の中にもこれを信ずるものが少なくなかった。長州藩側がこれを容保排斥の理由として宣伝したことは、いうまでもない。そしてこの彦根遷幸に、松代藩士で、当時幕府海陸備向掛手付の役にあった佐久間象山が関係していたとの噂が立ち、元治元年七月十一日、象山は京都木屋町の街上で浪士のため殺害された。

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  1. 2012/11/15(木) 18:01:28|
  2. 京都守護職始末2
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