いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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皆さん、良いお年を!!

 雨にも負けず、風にも負けず、嫌がらせにも負けずに頑張ってまいりました。今年夏から始めたこの古書の書き起こし、歴史発掘事業も多くの読者がつきました。

 我ながら書き起こしをしながらにして、こんな難しいものなんか読んでくれるものなのかなあと思っておりましたが、蓋を開けてみたら毎日更新を楽しみにしてくれる人が多く居てくれて嬉しく思ってる次第です。難しいですが読み続ければ癖になりますよね、目から鱗の史実が満載ですので読書の皆さまにも、とても大きな価値を見出して貰っている事だと思われます。

 またこの事業は日本人の一人として、大きな声に掻き消された先人に捧げる思いで始めた功徳です。多くの読者の方もそれと同じ気持ちであろうと勝手に思い、その気持ちをエネルギーに変え頑張ってきました。

 ここ数日は、もう一つの運営ブログである『みそ汁の具』の記事を製作する事に取り掛かっていたのでこちらを御留守にしてしまいました。毎日楽しみにしててくれる読者の皆様には申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが(たった数日、大袈裟な(●>ω<●)…)、その流れに身を任せ今年はそのまま手を付けずに新年を迎えたいと思っています。

 また来年も頑張りますので皆さま御贔屓によろしくおねがいします!!来年の何時から始めるかとはまだ未定ですが心身共に清まったら始めていきたいと思ってます。その時はまたお知らせいたします。でわ皆さん!善いお年を御迎えくださいね... オモチ( ・σω・)〃Ω['゚*::お正月::*'゜]
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/12/30(日) 12:39:39|
  2. お知らせ
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宇都宮の攻略

宇都宮の攻略

 四月十八日、大鳥軍の先鋒は江上太郎、土方歳三、桑名藩の佐藤武助等これを率いて四月十九日黎明宇都宮を攻む桑名の兵先鋒たり、松本(信州)、黒羽(下野)、壬生(下野)、岩村田(信州)、須坂(信州)、彦根(江州)、大垣(濃州)、宇都宮(下野)、笠間(常陸)、等諸藩の西軍郊外に出でて東軍を迎い撃つ、東軍左右翼を張りこれを砲撃す、砲隊は神旗(白地に東照大権現と墨書したる大旗なり)を樹て中央よりし、江上、土方等殊死して挺進す、西軍ついに敗走す、東軍追跡し火を城下に放ち桑名兵槍刀を揮って進撃す、西軍退いて城に入る、東軍城門に迫る、西軍克く禦き相距ること十歩西軍槍を揮って来し犯し殺傷相当る、東軍俄かに拔くべからざるを知り左転じて敵の背後に出て火を城外の士邸に縦つ、城ついに陥り城主戸田越前守忠恕朝臣舘林に入る。
 四月二十日大鳥圭介等宇都宮に入りて市民を鎮撫し、城中の米倉を開いて市民を賑わす。
 これより先き日向内記の率いたる砲兵一番隊は、四月十八日頃大鳥軍より援兵を依頼し来るにより、領界なる五十里を発し一番分隊を今市に止め、組頭大沼城之助、遠山寅次郎をして二番三番分隊を率い、四月二十一日今市を発し鹿沼に宿陣せしむ。
 壬生藩の友平慎三郎、宇都宮進撃の事を大鳥軍に建策す、大鳥これを入れ四月二十二日午前二時出発することゝし、部署を定むること次のごとし。

{大鳥の『幕末寛戦史』には安塚の戦を四月二十三日夜二時とありて明瞭を缺き、宇都宮落城を四月二十四日とせり、しかれども藤澤氏の『会津藩大砲隊戊辰戦記』、またこれらの戦に参加したる諸藩の届書(太政官日誌にあり)を見れば、安塚の戦は四月二十二日の未明にて、宇都宮落城は二十三日なること明白なれば『寛戦史』を取らず。}

 本道(宇都宮より壬生へ約四里半)へ向かうべきは第七連隊並びに伝習隊の内四小隊その外砲兵、土工兵にして本多幸七郎これに将たり、雀宮(奥羽街道の駅にて宇都宮の南一里半に在り)より壬生に向うべき兵は伝習隊の内二小隊大川正次郎これを率い、我が砲兵隊は鹿沼より間道壬生に向う、総督大鳥は病のため攻撃軍に加わらず。{宇都宮より鹿沼へは僅に三里許なれば、壬生攻撃の打ち合わせは伝令をもって為したるなるべし。}

 本道の兵幕田(安塚の北十余町に在り)に至る、たまたま風雨暗黒咫尺を辨ぜずようやく安塚(壬生の北二里に在り)の後方に至る、天いまだ明けず、また安塚に向って進む、土因二藩等の西兵すでに安塚に来り、地利によりて胸壁を築き大砲を装置し、かつ兵を左右の林間に伏せ忽然三面より来撃す、我が先鋒敗走す、伝習隊の指図役某刀を抜き先頭に進み叱咤激励し縦横馳突す、我が全軍反戦し進みて胸壁を奪い大砲一門を鹵獲す、時に降雨寒冷諸兵大に疲労し死傷もまた多し、これにおいて全軍退却の令下る、我が藩士内田御守遊軍隊を率いて殿戦し兵を宇都宮に收む、右翼の兵すなわち鹿沼より進みたる我が砲兵隊の安塚に達したる時は、鹿沼より壬生に至るに安塚を経るは迂回なり、安塚において集合する申し合わせありしなるべし。
 大鳥軍の退却したる後なりき、今少し持ちこらえたらんには新手の我が援兵を得て大勝を得しならん、我が藩兵は手を空しくして宇都宮に入り城外に宿陣す。
 我が別軍大川隊は兵を潜めて直に壬生に至る、城外に在りし薩藩等の西兵狼狽し急に城に入りて防戦す、我が兵火を市中に放つといえども大雨のため火起こらず、しかして援軍来らず兵寡して城を攻むること能はず、しばらく戦って前の路を経て宇都宮に帰る、この役我が軍の死傷六十余人内士官八九人、尾花重太郎我が藩の米澤昌平これに死す、山瀬主馬の弟某年わずかに十六奮戦して敵兵を斃し重傷を負う(この年七月若松の病院にて死す)、四月二十三日西軍薩、大垣二藩の兵を主力とし、諸藩の兵と共に大挙して壬生街道より宇都宮を攻撃す、大鳥軍これを郊外に迎い撃ち、左右翼を張り三方よりこれを撃ち、西軍辟易して総崩れとならんとせしが、雀宮街道を守りたる加藤平内が御料兵は、結城の方より来りたる薩兵約百人、長兵約百人、大垣兵約百人を主力とする敵兵と戦い敗れ、且つ戦い且つ退き多く兵を失う、壬生街道においては因州勢の応援来着し我が軍利あらず、桑名兵、第七連隊をして明神山、八幡山を扼して戦はしむ、我が藩の砲兵隊はその名のごとくならず、大砲一門だも有せず、ただ臼砲一門を有せしのみ、しかも弾丸の提供甚だ乏し、始め追手を守りしが、これを幕兵に譲り日光口に守る、遠山寅次郎の二番分隊は城を出で迂回して壬生街道なる敵の輜重を襲い、臼砲一門並びに弾薬を鹵獲し帰る。

{味方も一同憤戦し八ッ半には大に模様よろしく一旦は敵を町外までも諸口より追い出したれども朝よりの戦にて上下死傷多く、かつ大小砲の弾薬も打ち尽くし、またこれを用意する道なきゆえ縦令今日一日防戦したりとも明朝に至れば全軍を引き挙げるより外に良策なし、よって今よりその事を各隊に伝え全軍を日光に収むるを良とす、すなわちその令を伝ふる中、敵また襲来大に苦戦の余り裏内(この二字詳ならず)に上り明神山の形勢を望むにこれまた激戦の体にて大砲の打ち合い盛んなり、かつ奥州街道を見るに歩兵も逃げる者続々として糸のごとくよっていよいよ引き揚げに決定し全隊を夫々引き纏め繰引せんと思えども格隊長死傷の者多く兵卒散乱意のごとくならず、ようやくに諸隊を引き揚げ一隊を残しこれをもって殿(しんがり)とし城外に出でゝ奥州街道に出でしに敵少しも追撃し来らざれど大砲を打ち懸けしにより少しは傷きたる者ありたれども容易に引き揚げて明神山にも引き揚げの事を通じ、残らず日光の方に赴きたり。}

 この日の戦に戦死したるは我が諸生隊の隊長相馬孫市を初めとし将校兵卒七八十人、総督大鳥も微傷を負い、土方歳三、遠山寅次郎、柿澤勇記(四月二十七日、日光において歿す)、本多幸七郎、伝習隊の指図役頭取大岡新吾等負傷す、

{『会津史』、また平石氏の『会津戊辰戦争史』等に四月二十三日宇都宮の戦に我が櫻井隊が参加したる旨記しあるも櫻井隊の参加せし証跡なし、櫻井家は死傷者非常に多きにも関わらず『殉難名簿』に宇都宮にて戦史したる者一人もなきは、参加せざる一証と云うべし。}

 かくて大鳥軍は奥州街道より左折し山越えにて日光街道に出で、徳次郎、大澤等の諸駅を経て二十四日今市に達せしが、前日の戦に疲労甚だしかりしのみならず、八里余を行軍し加ふるに糧食の乏しきをもってし実に苦難を極めきと云う、我が藩兵は二十三日迂回して小林村(今市の東三里に在り)に宿陣し、翌二十四日今市に帰る、先に今市に止れる砲兵隊の組頭竹本登が分隊は、宇都宮を援はんと例幣使街道より文挟(今市の南三里に在り)まで進軍せしが、宇都宮の敗を聞いて今市に帰る。
 元来今市は北は会津に、南は鹿沼を経て栃木、壬生に、西は日光に、西南は宇都宮に通ずる四通八達の要地なれば、全軍をここに止め敵の挙動を見るべしとは総督大鳥の意なりしも、将士日光参拝を望む者多かりければ、大鳥は軍を日光に移すことゝし、我が藩兵のみ今市に残りこれを守ることを希望し、我が藩兵の先任将校砲兵頭日向内記に謀りたるに、国境を防御すと称しこれに応ぜず兵を率いて五十里に帰る。

{当時我が藩は歎願中なれば今市に兵を止むること不法なるは論を持たず、これあるいは日向内記の兵を引き挙げたるゆえんか、しかるに先に大鳥軍の請により宇都宮に援兵を送りしはこの論と矛盾するがごとし。}

 しかして大鳥もまた兵を日光に収む。
 大鳥は当時名ある兵学者なりしも、実戦は勿論機動演習の経験すらもなければ万事手落ち多かりき、就中弾薬の準備甚だ手薄かりしかば用兵自由ならざりしは彼に取り如何ばかりか心外なりしならん。

{江戸出発以来弾薬の準備甚だ少し、そのゆえは屯所を出る時は夫々用意し置きたれども倉卒の間その係の者持ち出す事を得ざりしに由るなり、後より或人の周旋にて送りたる由なれども途中にて滞り達せず、鹿沼駅宿泊の節横地相会(何人なるや知れ難し)江戸より後れ来れるにより、この両人予々日光に在勤して、全て彼地の形勢を能く知りたるにより、宇都宮に着するや否や右両人を日光に遣わし小銃弾薬の製造をなさしめたり、今すでに五先発位は出来たれども製作よろしからずして軍用に適し難く、いよいよ困窮せるにより無據会津に頼みたり、弾薬運送の大切なる事は会て書物上にても心得居りたれども、今回のごとく前後混乱の間にあって如何にもなし難し、あぁ、}
 
 大鳥軍には江上太郎、内田衛守、牧原文吾、小池周吾等を初めとし我が藩人少なからず、しかして総督の本営の要路に一人の我が藩人なし、ゆえに我が藩人と総督との間に時に意思の疎通を欠くことなきにあらず、ここにおいて大鳥は我が藩人水島辨治、浮洲七郎、小出鐡之助を挙げて軍の参謀とせり。
 四月二十七日柿澤勇記没す享年三十六、鉢石町某寺に葬る大鳥深く痛惜す。

{勇記は剛邁の士なり、業を藩の鴻儒宗川茂に受く、忠誠公の守護職に補せらるゝや、家老横山常徳一藩有為の士を集めて公用局を組織す、勇記もまた挙げられてその物書きとなる、征長の時戦況を視察し我が藩の出兵を建言せるも用いられず。}

 この頃桑名藩兵、松平定敬朝臣のその支領越後柏崎に在るを聞き、大鳥軍に辞し路を会津に取りこれに赴く。
 板倉勝静朝臣父子は先に彦根兵に降り宇都宮に幽閉せられしが、十九日宇都宮落城の時脱出して日光に在り、大鳥が来るにより日光において干戈を動かし廟前に血を濺ぐを不可なりとし大鳥に説ききと云う、大鳥は戦の駆け引きによりては縦令弾丸神廟に降るといえども、無據次第なりと決心せるが、日光は兵を用ふるの地にあらざるをもってまた兵を引いて今市に帰る。
 四月二十八日幕府の陸軍奉行たりし松平太郎今市に来る。

{松平の来りしは我輩容易に戦争をなしては不宜能く天下の形勢を見定め暴動なき様兵隊の取り締まりをなし、しかして後動くべしと参政(徳川家の執政者を言うなるべし)よりの書付を持参せり、もっともすでに兵端開けし上は我より戦を求めずとも彼より争端を開く事相違いなしと思へり松平金子を持参せしによりて各隊へ分配せり。}

 太郎、大鳥に説いていわく、予大澤(今井の西南二里に在り)の土州藩の兵(この時大澤に土州藩兵十小隊あり)と休戦を議すべし、願わくは兵を日光に退け我が再び来るを待てと、大鳥これを諾し二十九日また日光に至る。

{松平休戦の談判は如何終りけん、休戦の行うべからざるは当然のことなれば、土州兵が直に拒絶したるなるべし。}

 閏四月朔日大鳥軍日光に在る者軍議二派に分る、甲はいわく、今ここに弾薬糧餉なし持久して窮困を待つは策の得たるものにあらず、一たび会津に入り規律を整え弾薬糧食を備え再挙するにしかずと、乙はいわく、今眼前に西兵の来るを見て戦わずして退くは武人の恥じる所なり、弾薬乏しといえども血戦して廟前に死せん、これ我が好墳墓地なりと、大鳥いわく、両説皆理り、乙説は壮快なりといえども士気の振るはざるを如何せん、甲説の穏なるにしかずと、よりて再び日光退却に決したるも、市川を発してより以来各地に転戦し多く傷者を生じこれを護送せざれば会津に入ること能はず、全軍の進退谷れり、すなわち内田衛守の言を容れ日光の寺僧をして西軍の陣に使し戦を中止するの交渉をなさしめんとしこれを物色したるに、一老僧あり死を犯して土州の陣に至り言ってわく、今この地戦端を開かば東照宮の兵燹に罹る必せり、願わくは休戦して東兵を退かしめよと、土州の隊長某答えていわく、もとより東照宮に怨あるにあらず賊徒を追討するのみとこれを諾す。

 この時の事に関し太政官日誌所載土州藩届書左のごとし。

上略 守部(のち子爵谷千城、当時土州藩の大監察)儀四五人相率い致斥候候処僧二人日光より参り暫時進軍留呉度段申出候得共私の退軍決而不相調(成の誤りか)乍併神廟放火の儀は不忍処に付賊徒督責し進て我軍に当る歟又は軍門に降伏する歟<決策し神廟灰燼を免れ候様説諭可致旨申聞候処賊徒等言語に窮し即夜退散 下略

 時に林正十郎(幕人)若松より来りて、大鳥に我が公の手書および葵紋章の羽織を贈り、兵士に酒殽料を贈りて戦労をねぎらう、正十郎いわく、会津よりもまた兵を出して援けんとし、すでに発する者あり、請う努力せよと、全軍感泣す、大鳥すなわち正十郎に托するに近状を報ずることをもってし、申の刻先鋒日光を発す、傷者は小佐越の本道より会津に入らしめ、全軍は間道六方越の険を踰えて会津に入らんとす、山道険悪にして牛馬通ぜず、八里の間人煙を絶つ、日すでに昏黒咫尺を辨ぜず、大軍雨後の深泥を踏み深山窮谷を跋渉し、行程およそ三里すでに夜半、樹蔭により枯葉を焚いて暖を執る、衆皆石を枕とし枝を折りて蓐となし露臥一睡をなす。
 閏四月二日険難を蹈みほとんど糧食を絶ちようやく日蔭村を経て日向村に至る、我が藩の和田忠蔵、磯上蔵之丞来り我が公の命を伝えていわく、兵が我が国境に入るゝを謝絶すと、

{当時我が藩は仙台、米沢に依頼し歎願書差出中なるをもって、客兵を国境内に入るゝを憚りたるなり、幕の古屋佐久左衛門、水戸の市川三左衛門等の客兵を同様の理由にて断りたるも、内情止を得ず国内を通過せしめ、越後に赴かしめしも同理由。}

 参謀水島辨治全軍を会津に退くるの止むべからざる理由を弁明し、両使これを諒とす。






卷四 総野の戦  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/26(水) 13:57:54|
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関宿の戦

関宿の戦
 
 四月十九日純義、貫義、誠忠、回天の諸隊は関宿の東南二里半の岩井駅に在り、西軍関宿に在るもの東軍を撃たんとし、薩兵一小隊約百人、長兵一中隊約百人、大垣二小隊約百人、四月二十日午前八時頃岩井より一里許の処にて衝突す、誠忠隊は槍刀隊なるをもって銃戦の間は用をなさず、我が兵苦戦利あらず、純義隊指図役秋山寅四郎(我が藩人、年二十七)、同齋藤友記(我が藩人、年二十一)これに戦死す、誠忠隊屈指の剣士数名斃れ、我が将長多くは死傷しついに大に敗る、純義隊指図役服部武太郎は隊長小池周吾を助けて且つ戦い且つ退き、ついに戦場の東北四里許の下妻に退却するを得たり。
 幕人石坂周蔵は勝安芳の使命を帯び江戸より下妻に来り、兵を収めて江戸に帰らんことを勧む、将士多くはこれに応ずる者あらず、ひとえに誠忠隊長山中孝司およびその残兵の兵士意気沮喪し、ついにこれに応ず、周蔵使命を全うすること能はざるを遺憾とし、別るゝに臨み詩を賦して懐を述べ、これを朗吟し扇を執って舞い而して去る、純義隊等の諸隊はその後宇都宮に行き大鳥軍に投ず。
 さても水海道より北進したる大鳥軍の先鋒江上太郎、土方歳三、土工兵頭吉澤勇次郎、小菅辰之助その他我が藩人小池帯刀、安部井政治、安部井壽太郎、山口亥佐美、桑名藩士と先づ下妻に至る、下妻は徳川氏の譜代大名井上辰若丸正巳が在所なり、藩士に勧誘して我に応ぜしめんとせしが一人の応ずる者なし、ついで下館(小里の東四里に在り)に至る、これもまた譜代大名石川若狭守総管が在所にして、総管は旧幕府の若年寄格兼陸軍奉行なりしが、藩士にして一人の我に応ずる者なし、僅かに金子と武器とを提供せしのみ。






卷四 総野の戦  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/24(月) 11:43:17|
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梁田の戦

梁田の戦

 伏見、鳥羽の戦において最も善く戦い、しかもついに潔く戦死したるは幕兵の上長官中歩奉行並佐久間信久並びに歩兵頭窪田鎮章二人のみ、信久率いたるは歩兵第十一連隊の若干(二個大隊)、鎮章が率いたるは第十二連隊の一個大隊なりしが、隊長の勇武に励まされ、将校は勿論兵卒に至るまで奮闘勇戦せるが、敗後残兵は正月下旬に江戸三番町の営舎に入れり(今の靖国神社の所在地)、元来旧幕府新軍制の兵は(勿論奥詰銃隊撤兵隊を除く)招募兵にて、その内には博徒無頼漢なども少なからず、さればどうもすれば上官の命を拒み、あるいは市街において乱暴の振る舞いをなすもの往々ありて、将校も駕馭に苦しみたる場合ありきと云う、しかるにこの二連隊の兵は血生臭き修羅場の経験を経しにより、いとゞさへ気荒き者どもなれば猶一層規律を乱るに至れり、江戸開城の説世に伝わるや各所に集団し慷慨の声を漏らし事態すこぶる不穏なりき、将校(大抵幕臣なりき)等の多くは己が身の行く末を慮るのみにて兵卒の鎮撫に努むることに怠り勝ちなりしが、二月五日の夜当直の将校数名を銃殺し、両連隊の兵三百余名、徳川幕府の再興を計るとなし、庄内藩に投ずると称し野州方面に脱走せり、この時、幕府の歩兵指図役{『柴田戦蹟史』中、『衝鋒隊戦史』には指図役頭取とあり、同書中『古谷佐久左衛門伝』には指図役とあり、雑誌『維新史料』の中の『慶応年間柳営御沙汰書』中、慶応二年七月十六日のところ、神奈川奉行支配定役並出役古谷佐久左衛門に大砲指図役下役並を命ぜられしことあり、また同三年二月十日砲兵指図役下役並古谷佐久左衛門の席次を進め、富士見御宝蔵番格となすこと見えたり、しからば僅々一ヶ年足らずの間に下役並より二階級飛んで指図役となるさへ異数なれば『衝鋒隊戦史』を取らず『古谷佐久左衛門』に従う。}
 古谷佐久左衛門は、すと築後久留米在の者にて本性を高松という(高松凌雲の実兄なり)、名は智珍、初め勝次と称す、幕府の小臣古谷氏に入婿してその家を相続す。{佐久左衛門英後に堪能なりしかば、下徒谷町に英学塾を開き居れるが、我が藩の澤次郎全秀、南虎次郎保壽、小出鐡之助光照など在塾せしと云う。}
 京都見廻組に属せる今井信郎、神奈川奉行支配調役内田荘次等と脱兵を収めて、素志を達するはこの時に在りとし、勝安芳の許可を得て、行いて下野佐久山において脱兵に追いおよび、慰撫してその方向を変ぜしめ、これを率いて一と先づ忍藩に預け勝に復命し、脱兵および他の兵員を援けられなば、これを率いて信越の方面を鎮撫すべしと請う、、徳川政府の人々は召募兵の始末に苦慮中なりければ、勝安芳は悦んで第六連隊の帥歩兵約六百名、大砲三門を付輿せしのみならず、古屋を歩兵頭、今井、内田を歩兵指図役頭取改役とせり、しかして信州中之郷代官所に在勤すべき命あり、こゝにおいて戊辰三月朔日江戸を発し、武州桶川に宿陣せる時隊の幹部左のごとし。

総督 古谷佐久左衛門
頭並隊長 内田荘次
同 今井信郎
参謀 楠山兼三郎
副隊長 天野新太郎
同 永井蠖伸齋(本名 鈴木蠖之進)
軍監 柳田勝太郎
余は略す。


{按ずるに勝太郎は理記と称し、この頃古屋隊幹部における我が藩士の一人なり、『梁田戦蹟史』には柳田の外に副隊長前田兵衛、本名桃澤彦次郎、軍監松田昌次郎、砲兵頭取礒野光太郎その他楯立郎、高橋一、蒲生誠一を載せ、註に残会津とあり、思うに衝鋒隊(古屋隊会津入りの後衝鋒隊と称す)が仙台へ落ちしとき会津へ残りしを云うならん、桃澤、松田の我が藩人なりしは勿論にて、会津にて加入したる礒野外三郎もまた会津人なるがごとし、思うにこれらの人々は古屋隊会津入りの後加入したる人々なるべし、また副隊長木村大作戦死とあり、大作も会津にて加入し越後口にて負傷し八月二十三日自宅にて自裁せり、梁田において戦史したる我が藩人は、柳田の外、指図役加藤惣左衛門、同野村駒三郎の二人のみ、我が藩士にして衝鋒隊に入り戦史せしは、指図役鈴木勇、同猪俣繁之助、同大岩元四郎、同渡部久吉、同金田吉十郎、同金井鐡之助、同田畑丹六、齋藤豊之進その外、米倉美軒、田中勇、手代木元助、天野由次郎、澤田権六、広田祐之助、五十嵐喜平太等なり、礒野等はあるいは変名なるかも知れざれば右戦死者の内なるかも知れず、とにかく衝鋒隊の将校下士には我が藩士余ほど加入したる様思はる、後にいたり大庭恭平、永岡久茂もこの隊に入れり。} 

 古屋隊の前軍三百二十名、今井信郎これに将たり、その後軍は三百八十名内田荘次これに将たり、中軍に砲兵士官二十六名その他将校下士卒八十余名にて総計八百数十名古屋佐久左衛門これを統ぶ、三月八日野州梁田に宿衛せるに薩長等の西軍来襲するの報あり、明けくれば三月九日未明西軍梁田宿の西方より攻め来る、古屋隊の前軍は宿の西端に出でゝこれを防ぎ、後軍は宿の後方より北方に出で西行して敵の左翼を衝く、我が兵大砲の威力や強かりけん、敵兵色めきたるにより追撃戦に移り十数町追いたるが、敵に新手の援兵加わりしため味方総崩れとなり、ついに余儀なく退却し渡良瀬川を渡りしが、敵の損害多大なりけん追撃をも為さゞりき、この日我が軍の戦死せるもの軍監柳田勝太郎を初めとし六十二名を算せり、負傷せる者もまた多かりき、ついで田沼を経て翌十日鹿沼に着、初めは日光へ行く予定なりしが議変じ会津へ行くことゝなり、十三日五十里に達す、十四日に主将古屋は参謀楠山兼三郎外一名と先発し、我が藩と交渉し二十二日総員若松に至る、後この隊を名付けて衝鋒隊と云う。

{柳田勝太郎名は重遠、我が藩士小右衛門が長子なり、質性剛邁容貌魁偉、一刀流の剣法に長じ儕輩のため畏敬せられ、佐川官兵衛、林又三郎等と親交せり、我が公の京都守護職たるやこれに従って京師に入り、伏見の敗後江戸に帰り藩を脱して古屋が隊に投ず、梁田の敗戦に重傷を負い、自刎して天晴なる再帰を遂げきと云う時に歳三十四、その京師に在るや歌一首を家族に遣わして懐を述ぶ。

そよと吹く風の便りを開くならは
花は都に散るとこそなれ

 この歌当時に膾炙(好評になって世間ニ知れ渡ること)せりと云う、また元治甲子年禁門守衛の折

九重の御垣となりて夜もすから
鎧の袖に月宿すなり

 右は『梁田戦蹟史』によれるが『戦蹟史』中、今井信郎の書たるものによれるところ甚だ多し、しかるに同氏の説くところ坂本龍馬殺害のことを初め不審しきもの甚だ多し、ゆえに取拾して引用せり。}


 初め我が藩兵を南方面(野州日光方面を俗に南方面と云う)に出さんとするや、日光の情況を探偵せんがため幌役木村熊之進を遺したるに、同所は我が兵の出張を歓迎するの誠意を確知し帰藩の上これを報告せり、これにより我が藩出兵の議確定し、先つ砲兵隊頭山川大蔵をしてその部下たる砲兵一番隊を引率して、三月十五日若松を発し南方面に向う、砲兵一番隊の編成は次のごとし、小隊頭竹本登、遠山寅次郎、大沼城之助の三名、甲子六十九名、寄合組三十六名銃手若干名とす、本体は元の林権助、白井五郎太夫の両隊の残兵をもってし編成したる隊にして、伏見鳥羽の激戦に深く経験を有する士をもって組織せり、しかしてその将校もまた得易からざるの材なり、三月二十一日大蔵転じて若年寄となり日向内記これに代わりて隊頭となる、ついで田中蔵人をして朱雀二番隊を率いて出兵せしむ、この隊は小隊頭、半隊頭嚮導並びに隊士八十四余人外に医師兵、粮方従者等若干名なり、外に猟師五十人を召募してこれに付属せしむ、また原平太夫をして別に青龍二番寄合組を率いて出兵せしむ、この隊は小隊頭、嚮導、隊士約八十名、また朱雀二番足軽隊もまた参加す、隊長櫻井弥一右衛門、小隊頭二名、半隊頭二名、隊士約八十名、青龍四番足軽隊中隊頭有賀左司馬の隊もまたこの方面に在り、その兵数櫻井隊とほぼ同じ、この外この方面の我が軍中に別伝習隊、相馬孫一の諸生隊ありて今市付近の村落に分屯す、外に唐木助之進もまた一隊の兵を率いてこの方面に在りたれども、今市付近の戦に参加したることなし、思うに熨斗口方面に在りたるものごとし。

{唐木隊は如何なる隊なりしか今知るべからず、兵制改革の時足軽白虎二番隊長は唐木助之進なるが、足軽白虎隊の戦地に出張せしを聞きしことなし、鈴木一郎右衛門が青龍一番足軽隊頭より、朱雀三番寄合組中隊頭となりしにより、唐木助之進代わりて青龍一番足軽組の中隊頭となりしにあらざるか、籠城中助之進この隊頭を免ぜられ、赤羽友晴これに代わると云う。}

 旧幕府の歩兵奉行大鳥圭介は勝、大久保、山岡等が恭順を唱うるを慨し、江戸にいて戦うことの不利なるを察し脱走して事を挙ぐるの志あり、その計画準備略々成るをもって、幕臣歩兵頭並本多幸七郎、歩兵指図役頭取大川正次郎、山角麒三郎その他陸軍の将校下士等三四十人、伝衆歩兵第二大隊およそ四百五十人と四月十一日向島法恩寺に集合し、糧食を備へ明日早天鴻台へ発するの令を伝ふ。

{初め徳川幕府の希望により仏国政府より陸軍教官として将校下士十数名を派遣す、これをミション、ミリテールすなわち軍事使命団と云い、参謀大尉シャノアンこれが長たり、従来幕府の兵制は蘭式または英式なりしが、仏国の将校より教育を受けたる兵を伝習生兵と称し三大隊あり、その第一大隊の兵営は追手前元酒井雅楽頭の中屋敷跡にて、今の東京憲兵隊本部敷地の北部に在りしをもって追手前伝習大隊と云いき、伏見戦争のまさに起こらんとする時、この隊は伏見奉行屋敷に在りしが、隊長小笠原石見守は病と称して下坂せしにより、役を免ぜられ正式の後任の任命なかりき、第二大隊の兵営は常州土浦藩主土屋釆女正の屋敷跡、今の小川町の西部に在りしをもって小川町の伝習大隊と云いき、歩兵頭並沼間慎次郎これが長たり、しかるに沼間は三月三日将校七名下士十一名と共に脱走して会津に投ぜしにより、この時隊長なし、第三大隊の兵営は今の三番町靖国神社の敷地に在りしをもって三番町の伝習大隊と云いき、歩兵頭並平岡芋作(後陸軍少将)これが長たりしが、この大隊は戊辰変乱に関係なし、この第三大隊の兵は招募兵にして麾下の士にあらず。}

四月十二日拂暁歩砲兵隊伍を整い本所竪川通を経て葛西の渡頭を踰ゆ、会々伝習生徒四五十人舟に乗り来りまた共に脱せんことを乞う、圭介等慰諭すれども聴かずついに隊中に加う、市川の渡頭に至れば歩兵指図役頭取小笠原新太郎舟をもって圭介等を迎えていわく、伝習第一大隊七百人、第七連隊三百五十人(招募兵なり)、桑名藩士ニ百人、土工兵(安部井壽太郎談次のごとし、『余の率いたる築城兵すなわち土工兵は江戸の鳶、石工、左官、土方等をもって組織したるものにて新門辰五郎、小梅岩吉の子分の者なりき、彼らは皆徳川氏の恩澤に報いんとして喜びて起ちたるなり』案ずるに土工兵を率いたるは壽太郎一人にあらず、安部井政治、小池帯刀、山口亥佐美など同隊に在りしものゝごとし)ニ百人来りて市川にありと、すなわち前岸に達し一寺院に至れば、流山の敗将土方歳三並びに新選組の一部工兵頭並吉澤勇次郎、同小菅辰之助(のち智淵、陸軍工兵大佐)、山瀬主馬、天野電四郎、{電四郎の役名不詳、『柳営御沙汰書』慶応二年二月の条に歩兵指図役頭取勤方天野雹四郎とあり、雹は電の誤りなるべし、果たして誤りとすればこの頃有為の士の昇進は甚だ早かりしにより、慶応四年頃は歩兵頭並には陞りしなるべし、よりに記す、戸主にあらざる者の役名を何約勤方と称するは幕末の制度なり。}

 歩兵指図役頭取鈴木蕃之助、歩兵指図役並江上太郎、同米沢昌平、同内田衛守、牧原文吾、柿澤勇記(以上が我が藩人)、立見鑑三郎(のち尚文、陸軍大将)、松浦秀人、馬場三九郎(以上桑名藩人)等あり、相議し軍を進めてまさに宇都宮に向かわんとす、圭介いわく、余が兵を率いてこれに来るは直ちに戦わんとするにあらず、一旦鴻台に屯集し江戸の形勢を見て事を挙けんと欲するなり、しかりといえども君等宇都宮に向かわんとすと、余もまた日光に至り世上の動静を見るもべきなり、皆いわく、伝習第一大隊およそ七百人、第七連隊三百五十人、および桑名藩の兵およそ二百人、土工兵二百人、これに公の兵およそ六百人を合すれば二千余人を得べし、別に大砲二門あり、しかれども全軍を統率するの人なくんば統一なく議論百出して戦機を失うの患あり、公願わくは総督たれと、圭介固辞すれども衆聴かず、ついに推して総督となし、軍を

先鋒 伝習第一大隊並に桑名藩士、大砲二門
中軍 伝習第二大隊
後軍 第七連隊


 の三隊に分つ、兵数おおよそ二千人、先鋒は江上太郎これを率い、土方歳三これを助く、中軍は本多幸七郎これに将たり、後軍の将は詳ならず、山瀬主馬ともまた第七連隊長朝比奈一なりとも云う、日光へ行き形勢を観て事を挙ぐることゝし市川を発す、時に四月十二日なりき、しかして多数の人員陸続きとして進みては人馬宿泊等に差支を生ずる恐れあるをもって、先鋒は水海道下館を経て、中軍後軍は小山壬生を経て宇都宮に集合すべきを約し、大鳥等は小山に向い十五日小山の南方約三里なる諸川駅に宿す、この日加藤平内は御料兵を率い、{御料兵とは幕府料の良家の子弟を募集して編成したるものにして、幕府の募兵通俗歩兵と称するものに、博徒その他無頼の徒多きと、大に選を異にせり。}

 撤兵頭天野加賀守は草風隊を率い、{幕兵中最終まで我が藩と進退を共にしたるは、ひとえに天野加賀守並びにその率いたる草風隊のみなりき。}

 元歩兵頭並三宅大学、歩兵指図役頭取牧野主計、歩兵頭米田桂次郎等と共に大鳥軍に加わりき。
 在阪橋の西軍総督府は参謀祖式金八郎に須阪、舘林二藩の兵を率いて四月五日結城を撃たしめしが、彰義隊はすでに江戸に返り水野忠勝知も西兵に抗する心もなければ、支領上総成東に在る養祖父勝進が許に脱せり、しかして総督府はその軍監香川敬三、同平川和太郎に彦根の兵三小隊、大砲一門および岩村田藩並びに元幕府の寄合岡田将監の兵若干を率いしめ宇都宮を経て日光に至らしむ、兼ねて日光に在りたる板倉勝静朝臣父子を捕えこれを宇都宮藩に預け、その従者は壬生藩をして預からしめ、一旦宇都宮に帰せるが、江戸の脱走兵等利根川をさかのぼり宝珠花、関宿を経て進み来るの報に接し、平川和太郎は彦根兵二小隊と笠間、壬生の兵若干を率いて四月十六日小山に至る。
 大鳥軍に加わらざる江戸の脱走兵小池周吾の純義隊、松平兵庫頭の貫義隊、および山中孝司の誠忠隊、小山に攻め寄せたるに彦根等結城に向って潰走す、脱走兵も長追せず且つ寡兵孤立して小山の守り難きをもって大行寺の渡を越えて退却す、ついで彦根等の西軍また小山に来る。
 結城に在陣せる祖式金八郎は大鳥軍の北上を探知し、一方使を宇都宮に遣わし助を乞い、また四月十六日結城と諸川との間なる武井村に胸壁を築き大鳥軍を阻止せんとせしが、大鳥の遺したる伝習隊二小隊の為め撃破せられ、結城に引き上げしが江戸に上がらんとし、ついに潰乱して僅かに身をもって免れ古河に達することを得たりしかば幾ばくもなく参謀を免ぜられき。
 宇都宮の西軍は祖式金八郎が急報に接し、軍監香川敬三は彦根の一小隊並びに足利、岩村田等の兵を率いて小山に来る、大鳥は兵を部署して三面より小山を攻む、敵兵敗走す、我が兵死傷者二十名に満たず敵の死傷七八十名なるべし、就中彦根の物頭青木貞兵衛の一小隊は隊長とも全滅せしと云う。
 四月十七日大鳥軍は昨日武井村の勝ち戦と云い、今日の戦勝と云い幸先よしと祝宴を開く、村民もまたあるいは酒を贈り、あるいは赤飯を焚き歌舞の声四方に鳴り渡れり、総督大鳥は諸将長と議し小山を引き払い本夜は壬生街道なる飯塚に泊せんとまさに出発せんとせし時、結城街道より須阪藩兵一小隊大砲一門、舘林藩兵半小隊、笠間藩兵二百五六十人、祖武金八郎、上田楠次これを率い来襲せり、兵士等多く祝酒に酩酊せるをもって大に混乱せしが、将校の激励によりついに敵を撃退せり、この戦に我が軍の死傷者三十を算せり、敵の死者二十四五名、傷者詳ならず、しかして黄昏に近く大鳥軍は二里の道を行軍して飯塚に宿営す、兼ねての約のごとく先鋒と宇都宮に会するには飯塚の北方二里の壬生を経るを順路とすれども、西軍の一部すでに壬生に在るをもって、壬生藩の請を入れ無益の衝突を避け、左に迂回し栃木を経て四月十八日合戦場に宿営す、四月十九日合戦場を出で鹿沼に向いしに東方に大火災起こるを見る、鹿沼に至り今朝我が軍の先鋒宇都宮を攻めてこれを略取せるの報に接す、この夜鹿沼に泊し四月二十日宇都宮に至る。






卷四 総野の戦  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/23(日) 12:05:49|
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結城内訌

結城内訌

 このころ総州結城藩主水野日向守の家老小幡兵馬等輿党六十人と共に西軍に内応し、日向守の弟禊之助を擁立して、その主日向守を追う、これにおいて日向守は江戸に至り藩臣四十人および彰義隊六十人を率いて帰り来り、入城せんとしたるも兵馬等拒んで容れず、三月十七日会津藩士田中左内、井深恒五郎兵を率いて古河に至り居ること数日、二十二日小山に赴き彰義隊に合し結城城を屠らんと欲す、二十四日進軍し黎明結城を襲い、我が兵三十人城の側面より進入し、兵馬等のため拘束せられたる老幼男女六十人を救い出し、火を城内に放ち兵馬を斬り余党数人を斃す、城いまだ陥らず日暮れ小山に帰陣す、この夜西兵および小幡の残党火を放ち江戸に向かって遁走せり、二十五日我が軍入城し水野老侯は藩士邸の焼け残りたるに宿陣す、しかるに小銃乏しきにより宮原尚記外一名を真岡の陣屋に遣わし、代官(旧幕府の代官)山内源七郎に交渉し、ミニュー、ゲベル取り交ぜ三百挺を借ることを得たり、後に至り源七郎が西軍に殺害せられたる理由の一はこの事なりしならん、かく兵器弾薬を準備したるが、四月四日彰義隊城を出でゝ江戸に赴き、ついで五日早朝日向守もまた江戸に遁がる、すでにして西軍の参謀祖式金八郎、香川敬三等大兵を率いて来り攻め衆寡敵せず、我が軍城を棄てゝ走り、七日今市に至る。





卷四 総野の戦  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/21(金) 15:51:04|
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近藤勇の死

近藤勇の死

 文久三年以来我が藩に付属したる新選組は、伏見、鳥羽大敗の後、組長近藤勇、副組長土方歳三これを率いる、幕府の軍艦順動丸に乗じ大阪を発し、正月某日江戸に着せしが(後慶喜公の蟄居せらるゝ上野山内の警備を命ぜらる)、勇等はまさに亡滅せんとする主家を救わんと画策せる時、甲府の志士等の内武力をもって西軍を防止せんとするもの多きを聞き、甲府に行きて彼らと協力することに決心せり、よくよく甲府は中仙道に近く江戸防備の第一線中に在るをもって、幕府はこれを江戸の外城として甚だ重要視せり、ゆえに享保年代に於いて柳澤吉里朝臣を大和の郡山に移せる以来、これを諸侯に輿へず直轄の地とし、幕末頃に在りては五百石以下ニ百石以上の士ニ百人を住居せしめ、これを交付勤番と云い、甲府勤番支配(三千石高役料千石)と云う諸大夫二人をしてこれを率いしむ、各支配の下に組頭二人、輿力十騎同心五十人あり、外に甲府町奉行(千石高布衣なるべし)ありてその部下も少なからず、また甲府の民政官たる代官もその部下と共に甲府に住居せり、かつ譜代の大名に命じて城代たらしめたり、戊辰の歳における右の役々を勤めしは左のごとし(慶応三年の武鑑に據る)。

 城代
大河内輝照 上州高崎城主八万ニ千石

 甲府勤番支配
佐藤駿河守

 組頭
鳥居敬之丞
齋田左衛門
坂部量兵衛
柴田監物

 甲府町奉行
若菜三男三郎

 代官
中山誠一郎


{右は主として慶応三年の武鑑によりたるが、鹿島淑男が『近藤勇』『太政官日誌』等に大河内城代の名見えざるは不審し、西軍東下前に職を辞したるか又は逃げて帰邑したるなるべし。}

 右によりて見れば甲府の武備は十四五万石の大名の夫と程度において同じきものゝごとし。
 近藤勇、土方歳三は甲府を鎮撫することを徳川政府に請う、時に徳川政府の執政者勝安芳等は、主戦論者の江戸に在るを恭順の妨害となし、これをして江戸を去らしむるを必要とせる折柄なれば、勇等をして甲府に投ぜしむるは鎮撫に効なきのみならず、かえって主戦論者を煽動するは必然なるを知るも、江戸を去らしむる必要に迫られこれを許可せしのみならず、金五千両大砲二門小銃五百挺を賜う、勇等大に悦び隊名を変じて鎮撫隊となし、勇は大久保大和と、歳三は内藤隼人と称し自ら徳川開国の功臣に擬せり、よって上野の警備を遊撃隊に譲り、部下八十九人を率い三月朔日をもって江戸を発し、多摩郡は近藤、土方の郷里なれば兵を募りて若干名を得たり、次いで猿橋に至り西軍下諏訪よりまさに甲府に入らんとするを聞き、急行して駒飼に至れば甲府すでに敵の手に落ちたるを聞けり、これより先き西軍の参謀土州人谷千城は、甲府を取らざれば後顧の憂あるをもって、本道の兵を分ちて甲府に向かう事を建議せしに議容れられ、土州、因州、高遠の兵をもってこれに充て、高島藩(諏訪氏)を降しその兵を嚮導とし、五日甲府に入り勤番支配佐藤信崇より府城兵器を収めて城内に陣す、次いで主戦派の首領柴田監物等を輔縛し投ず、これにより主戦論者屏息し、また戦を口にする者なきに至る、勇が駒飼に至りしは三月五日にして西兵が甲府城に入りしもまた同日なり、勇等にして一両日前に甲府に入り同志を糾合して西軍に当りしならんには、容易く陥落すべくもあらず、勇が終生の怨とせしも故あることにこそ、勇は自ら等等力、勝沼等を巡察し、勝沼町中に関門を設け里人をしてこれを守らしめ、勝沼の東端なる街道の橋を徹して胸壁を築いてこれを守らしめ、また一部隊を割いて南に出で日川に沿ひて下り敵の側面を衝かんとせり、しかして我が兵が兵数約ニ百人なり、西軍は土州、因州、高遠の三藩にてその数五百人中左右三手に別れ攻め来る、時に三月六日の午前なりき、関門は敵兵の為に容易く打ち破られ、本街道において戦い酷なるとき、敵の左翼は山を踰え我が背後に出でしが為、我が兵ついに敗れ、且つ戦い且つ退き辛うじて笹子峠を踰ゆることを得たり。

{鹿島の近藤勇には、土方歳三は援兵を得んために早追にて引退したる旨記載し、後使命の事に関し何らの記事なし、この間の土方の行動全く不明なり。
この戦に我が藩士と自白せる山崎壮助と云う者、土州藩の手に捕えられて斬らる、この山崎は如何なる人か不明なり、『戊辰殉難名簿』にこの氏名あれど只単に三月六日勝沼において戦死とあるのみなり、鹿島の『近藤勇』にはこれに関し劇的挿話あれども取らず。
勝沼の戦に我が藩の田中左内、井深恒五郎、原源四郎外三四名参加し、新選組とは武州八王寺にて別れきと云う説あり。}


 この時近藤の声望全く地に墜ち収拾すべからざるに至り、ついに勇をして隊士に先だち江戸に帰らしむるに至れり、後近藤、土方は隊士若干を収め、また地に兵を募り下総国流山に陣す、時に東山道の西軍本営板橋に在りたるが、彦根、須阪等の兵に命じてこれを討たしむ、西兵越ヶ谷より兵を潜めて俄かに流山を襲う、新選組ついに勇捕えられ、

{勇が捕らえられたるにつき区々の説あれども、大兵に覆う掩撃せられて捕虜となりしと云う説正しきに似たり、太政官日誌第十三に因州の届あり、その内に『大監察香川敬三、小監察平川和太郎に鎮撫方被仰付薩藩有馬藤太、長藩祖式金八郎、土藩上田楠次へ軍略御委任右三名彦根藩、須阪藩及び岡田将監(旧幕府の寄合封禄五千石の旗本にていち早く西軍に降りし物)の兵三百余を率いて四月二日板橋御本営を発し、同五日有馬、上田両人越ヶ谷駅より兵を潜めて急に流山の賊を襲う賊徒狼狽なす所を不知悉く兵器を献じ降伏す賊魁大久保大和(近藤勇)を捕えて御本営に送る云々』とあり、また太政官日誌第十四条に長州第一大隊二番中隊々長楢崎頼三の記事あり『彦根藩、須阪藩、堀藩(須阪藩は堀藩なれば、この二字誤りならん)並元徳川旗本岡田某(将監なり}一手兵隊等御繰出しに相成都合百五十人許長州祖武式金八郎、岩倉殿御内香川敬三両人(平川和太郎の名脱せしならん)参謀として之を引率して四月朔日千住往還より押出す、同月二日流山に賊徒屯集の由にて乃押寄せ小銃を打懸け攻戦候処賊徒程なく分散し賊長近藤勇を檎にし板橋に檻送云々』とあり、両者の間に日付の差あれども大体同じ、因州の届は公文なればこれに従うべものごとし。

 四月十五日北豊島郡板橋において斬らる、勇死に臨み神色変ぜず従容として刃を受く時に年三十五、ついで首を京都に送り三条河原に梟す、その捨札は左のごとし。

 元新選組近藤勇事
     大和
此もの兇悪之罪迹あまた有之上州勝沼武州流山両所において官軍に敵対せし段大逆たるによって如此令梟首もの也


 しかして土方歳三は残兵を率いて市川に走る、

{甚だしいかな西軍の暴戻なるや、捕虜を殺すは当時の習慣なれば咎むべからざるも、勝沼、流山を犯罪地とし、これを勝沼、流山もしくは板橋に梟せずして、京都に梟したるは京都をもって犯罪地としたるを証するなり、勇が京都における行動は適法の命令によるものにして、罪迹と言うべからざるは今更論ずるまでもなきことなり、彼らは名を懲罰に借り実はその私怨を報ぜしに過ぎず。
近藤勇が墓は東京府北豊島郡板橋町に在り、ただし京都にて梟されし頭は如何なりけん、福島県北会津郡東山村天寧寺に近藤勇の石碑あり、正面には貫天院殿純忠誠義居士、側面には慶応四年戊辰四月二十五日俗称近藤勇藤原昌宣とあり、これ土方歳三が建てしものなり、勇が頭また髪を埋めしと云う説あれども、短日月の間に、頭もしくは髪が土方の手に入ると云うは信ぜられず、確証なき限りは、招魂碑と見るを可なりとす、また法名は我が公(会津藩主松平容保)の賜うところなるを加藤寛六郎氏が城中において親しく土方の語るを聞けりとの話あり。}






卷四 総野の戦  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/20(木) 11:21:04|
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田口治八の死

田口治八の死

 これより後数日国産奉行田中治八、また大名小路糺問局の獄に投ぜらる、治八精敏にして吏材あり、もっとも経済に長ず、初め我が君臣の江戸に去りて国に附く、治八切に国事を憂え留まりて潜匿し、経営惨澹を収めて軍資を補い、兵器等を購ひ、あるいは彼の彰義隊なる信意隊長武川信臣に供給するに銃砲弾薬軍資等をもってしたるがごとき皆その計画する所に出づ、ゆえに西軍に注目せらる、捜査急なるにおよび川越に至り姓名を変じて商賈と為る、この月十ニ日吏来りてまさに捕えんとし、その商名を呼ぶ、治八答えず、起て坐を改め従容として自ら呼んでいわく、吾は会津藩士某なり、請う士法をもって捕えよと、吏更に礼をもってこれを遇すと言う、治八獄中にあり更に賄うに三百両を以てす、十一月十五日赦され出つ、同ニ十四日病て歿せり、あるいはいわく毒殺せらると。
 これより先き姉崎の敗将福田八郎右衛門、仙台藩馬場升、二本松藩今泉理左衛門、我が藩廣澤安任、糺問局の獄に在り、十月三日我が山内熊之助投ぜられ、十一月七日に至り上野輪王寺法親王の執当覚王院義観、仙台藩相伹木土佐、同阪英力(二人首謀)、および瀬上主膳(参謀世良修藏を斬らしめたるに由る)等継で投ぜられ、井上文雄、草野御牧は国雅を詠じ我が藩を誉するを以てまた捕えらる、諸士の獄中に在るや、雅筵に擬し詩歌丹青唱酬しもって鬱屈の気を伸ぶ、左に囚中書画帖中の一斑を挙ぐべし。

(糺問局にありて)
稀なりと世にいふ老の阪路に
ひとやみるへく思はさりしを 「作者・文雄」

~~~~~~~~~~~~~~~~~

(たなし折)
敷島の道たりとて来てはてゝゝは
われも人やの数に入ぬる 「作者・御牧」

~~~~~~~~~~~~~~~~~

(徳川の独りそゝきて会津川いさきよき名そ世に流れけるとはやくよみおきけるをとかくいふ人やありけんかの国をひくとて刑法官にめされけれは)
言の葉のかのみちのくにかよへりと
さいなまるへく思ひかけきや 「作者・文雄」

~~~~~~~~~~~~~~~~~

(我よみおきたりし歌のうへに咎め給ふ事ありとて刑法官に召て糺問局の囚におしこめられしとき)
数ならぬわか言の葉のおほやけに
聞えあけてそ花は咲ける 「作者・御牧」

~~~~~~~~~~~~~~~~~

(不ニ山の画をかきて)
日の本ならふ山なき不ニのねの
高き心にわか世つくさむ 「作者・文雄」

~~~~~~~~~~~~~~~~~

よし俊君〔伹木土佐、瀬上主膳の一人なるべし〕の夜深け初雪ふりぬとつけ給ひけれは
知らてすきなん夜半の初雪 「作者・道直(福田八郎右衛門)」

~~~~~~~~~~~~~~~~~

(風流人のおなし心しあらさらは)
初雪をよしとし君の告さらは
老か眠もさまささらまし 「作者・文雄」

~~~~~~~~~~~~~~~~~

肌薄き人屋の夜風さえくれて
更行く空に初雪のふる
うは玉の夢おとろかす君なくは
知らて消なむ夜半の初雪 「作者・御牧」

~~~~~~~~~~~~~~~~~

憂き中にまたたのしみのある世なり
ひとやの庭につもるはつ雪 「作者・義観」

~~~~~~~~~~~~~~~~~

落葉ふく風の夜半とおもふ間に
初雪ふるときくもめつらし 「作者・時秀(阪英力)」

~~~~~~~~~~~~~~~~~

(囚中自遣)
不換一衣将十旬
虱生肌膚垢盈身
莫言囹圄苦辛事
方有沙場暴骨人 「作者・安任」

~~~~~~~~~~~~~~~~~

(獄中詠柏)
清標高節輿誰同
兄弟盟来十八公
千古忠臣皆景仰
莽朝愧死丈夫雄 「作者・義観」

~~~~~~~~~~~~~~~~~

(囚中作)
起臥一夜雨月余
虱蟣□得満襟裾
地他不省身理獄
育子撫孫為我廬 「作者・義観」

~~~~~~~~~~~~~~~~~
(ひとやの中に寝さめて)
冬の夜のしらみゆく空まちわたる
人屋の寝さめ堪へすもある哉 「作者・文雄」

~~~~~~~~~~~~~~~~~

(慶応四年の春のころ感ありてよめる)
人心会津の山のおくにこそ
都にしらぬ花はさくらめ 「作者・御牧」


 慶応四年の春、文雄と御牧とが諷雅集と云う、両人贈答の歌を載せたるを出版せしが、御牧が右の『人心会津の山』、文雄が『徳川の独り』の歌、また『思ひきや大阪の松のはかなくもくたかるゝ世とならんものとは』『行末のたのみも今はなかりけり君か千代田を人にかられて』等皆諷雅集に在りて罪を得しなり。






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/19(水) 17:45:32|
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武川信臣の死

武川信臣の死

 同月九日武川信臣刑せらる、信臣通称を三彦と称す、我が藩士内藤可隠の第三子なり、人となり温厚にして気節あり、最も国雅を善くす、この歳五月十五日彰義隊に属し変名して武川兵部と称し、信意隊長となり東台に戦う、後姓名を変じ他藩を称して都下に潜匿し、南保壽、桑名藩士川村兼四郎等と謀り、再び兵を集め部署略々定まり、まさに東奥に赴かんとす、一日信臣二人と共に佐々木源四郎(元我が藩士、出てゝ兄只三郎の後を承け幕府に仕ふ)が家に会す、たまたま因州人数十名闖入す、主人先つ出でゝその故を問へばたちたまち銃を発してこれを倒す、三人樓上に在り変を聞き下りくれば主人すでに死す、三人もまた捕えられ因州邸に幽せらる。
 信臣の彰義隊に在るや、その二兄内藤介右衛門、梶原平馬、藩相たるのゆえをもって推して藩相と称せられ、信臣もまた自ら兵部と称しすこぶる名望を収む、けだし一時の権略に出てしなり、これにいたりて因州人信臣等を疑い、一奴を拉し来りてこれを質す、奴信臣の我が藩人たるを証す、これより先き伏見の敗後廣澤安任紀州に赴くや、徒に一卒の膝を傷け蹣跚として歩するに遇う、安任その気力なお壮なるを見、行々語り心にこれを憐れみ囊銭を輿ふ、彼深くこれを感謝す、これは旧幕府某隊の卒名は宗兵衛傷けるを以て後れ来るなり、後安任、信臣と会合し語次これに及べり、信臣等の兵を集むるや遂にこれに従いてすこぶる用を弁ぜり、彰義隊敗るゝにおよび彼反覆して因州の兵に属し、これが先導をなし、また信臣等を証するに至れり。
 七月十日信臣因州邸より旧会津藩邸なる糺問局の獄に移さる、時に安任同獄に在り、安任の室は信臣と隣す、よりて起きてこれを伺い相語ることを得たり、安任戯れていわく、子の捕えらるゝ余輿りて力ありと、信臣莞爾としていわく、然りと、保壽、兼四郎先つ免され、安任と信臣となお残さる、すなわち相語ていわく、地下共に行くの友あり、また可ならずやと、信臣の訊鞠せらるゝや、薩長の暴横を論ずること甚だ痛烈なり、吏これを憎み稜木に坐せしめ大石を膝上に載せ層々累積し殆んど身に等しからんとす、骨砕け肉裂け流血淋漓たり、信臣神色自若として国雅を詠じていわく、

君と親の重きめくみにくらふれは
 千引の石の責はものかは


 と遂に屈せずして斬らる(信臣の斬首場は異説あり)、時に年ニ十四、後三日を経て赦令天下に布き、皆死を減ぜらるゝや時人信臣の為にこれを惜めり、赦令に先ちて斬に処せしは、けだし薩長有司の私に出つと云う、信臣因州邸に在りし時すでに自ら死を期し国雅を詠じて扇に書し、以て人に輿へその意を表せり。

暫し世に赤き心を見すれとも
 ちるにはもろき風の紅葉


 信臣刑せらるゝ後、我が国産方用達中島屋忠次郎と云う者、信臣の遺骸を収めて小塚原回向院に葬り、墓碣を建て辞世の国雅を刻すと云う。






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/18(火) 16:32:02|
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榎本等軍艦を率いて亡命す

榎本等軍艦を率いて亡命す

 八月十九日子の刻徳川氏の海軍副総裁榎本武揚、松平太郎、荒井郁之助等亡命し、同盟の士ニ千余人を開陽、回天、幡龍、千代田、神速、長鯨、美賀保、咸臨の八隻に分乗せしめ品川湾を出す、その咸臨、美賀保のニ艦は鹿島灘に至り颶風に遇いて沈没す、開陽艦は大砲ニ十六門を架し、汽力四百馬を兼ね、堅牢精緻本邦第一と称す、皆衆これに頼る、しかして慶喜公の恭順は喜ばず、大鳥圭介等の江戸を脱するや榎本等品川湾に在り、密かに謀を通じ機を見て相助くるを約す、奥羽越の連合聞くにおよび相議していわく、吾が輩この堅艦を率いて海上に横行し以て陸軍を援けば、天下の事は図るべしと豪語せりと云う、これに至りて左の書並びに別紙を勝安芳等に留めて去る。

寸楮拝啓愈秋凉之節各位益御壮健御鞅掌被為在候事欣然之至候陳ば我輩一同今度此地を退去致候情実別紙之通に候間御伝覧之上可相成は鎮将府へ御届可被下候尤帝閽並軍防局へは夫々手蔓を以て差出候ても達不達も難計候間更に貴所方を奉煩候儀に御座候我輩此一挙基より好み候処にあらず都て以此永々為皇国一和之基を開き度為に御座候日々之形勢言葉を以てするより事を以てするに不如と決心致候より此挙に及候も他意更に無之候天若不棄我時は目出度再開拝晤も出来可申否則命也我亦孰怨乍憚小拙相識之諸有司へ御序之節宜敷生前之一語御鴻声是祈不具

 徳川氏驚き急舸をしてこれを追はしむるもおよばず、これを朝廷に奏す、その別紙は王政維新と云うも、その実は一ニ強藩の独見私意に出てたるものなることを痛論したるものなれば、朝廷その書の辞悖慢なるを怒り、亀之助を讓む、徳川慶頼卿責を引て書を示す、朝廷すなわち榎本等に擬するに海盜をもってし、各国公使に告げてこれと接するなからしめ、令を天下に下して糧食を輿ふるを禁ず。
 九月八日詔して慶応四年を改めて明治元年となし、十月十三日天皇東京に行幸す、ニ十三日東征大総督熾仁親王東北鎮定を奏し、尋て錦旗節刀を奉還す、優詔して労を慰め金を武官に賜う差あり。






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/17(月) 14:46:40|
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我が公榎本武揚に越後西軍の背後を衝かんことを勧む

我が公榎本武揚に越後西軍の背後を衝かんことを勧む

 七月に至り仙台藩横尾東作、我が藩雑賀孫六郎、米沢藩佐藤市之允等榎本武揚が率いる軍艦に来り、我が公の書を携えて高田にある西軍の背後を衝かんことを説く、武揚左の復書を贈る。

謹而奉拝股御直書一通慥に雑賀故り落手拝読仕候然ば弊藩海軍一同之者不倶戴天の賊徒を誅伐可仕は勿論之素志にて且奥羽越御列藩義兵の盛挙乍微力一旦も早く御助力仕度存候へ共主家成行之段見届而後ならでは臣子の職掌如何と決心仕居候処前月既に封邑も相定候より直に移封之手立に取掛り弥当月中には寡君亀之助始隨従之家来共駿府表迄軍艦或運送船にて護送致し終り此一段遅くも来月二十日頃迄には野拙自身諸船を引率して仙台迄罷越同所にて奥羽の防禦遂撃之相談仕夫より所々へ相迫り可申候間左様御承知可被下候尚書外委細之儀雑賀子拝謁之上可奉申上野拙拝謁之期在近伏て願三公閣下臨時御保護可被遊候謹言
 七月ニ十一日  榎本釜次郎
松平祏堂様(祏堂は我が公退隠後の雅号なり)
徳山四郎左衛門(板倉伊賀守)
山中寛助様(小笠原壱岐守)


 榎本氏は海軍の技術にこそ長じたるならんも、天下の大勢を見るに迂愚もまた甚し、東軍の越後方面に於いて苦しみしは、西軍の海軍の助けありし一事なり、ごとし榎本氏にして大勢を見るの明ありにならんには、我が公の請を請け入れ率いる所の軍艦ニ三を割き、越後に遣わし、西軍の海軍を破砕したらんには、新潟陥らざるべく新発田の反覆もまたなかりしならん、この大切なる時期於いて戦の勝敗に関係なき主家の成行を見届くるを名として、悠々として品川に碇泊せしその心理情態実に知るべからず、奥羽連合存在してこそ榎本艦隊も重きをなすなれ、越後の戦敗れ会津も陥り従て連合も瓦解せんには、その艦隊何をか為し得べきか、しかるに時機に臨んで連合軍を援助せず、奥羽鎮定の後に至り始めて蝦夷地を経略せしは愚の至りと云うべし。






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/17(月) 11:31:19|
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上野彰義隊の戦

上野彰義隊の戦

 十五日昧爽西軍大風雨に乗じ四面来り攻む、初め東軍の東台に在る者二千余人なりしが、事倉卒に起るをもってたまたも外出したる者は途塞がりて帰る能はず、また怯懦なる者は遁れて見兵一千余人も過ぎず、急に令を諸隊に伝えて各その陣地を守らしむ、薩州、熊本の兵呼騒して広小路より進みて南門に迫る、歩兵隊銃を叢めて一斉に射撃す、すこぶる殺傷多く西兵辟易す、会々因州兵湯島台に在る者火を喜見院に縦つ、不忍池の南に沿うて広小路に至り二藩の兵と合して攻撃す、山王台の彰義隊大砲を発し俯瞮してこれを撃つ、頃らくして安濃津兵下谷より進む、東台山下の旗亭により簾に潜みて狙撃す、彰義隊撃てこれをしりぞく、市民の密かに来りて台兵に投じ戦を助くる者もまた多し、長州、岡山、大村、佐土原、安濃津、尾州の兵本郷より来り先つ彰義隊の根津社に屯する者を撃ち、突進して三崎町に至る、この地岡陵高低道路狭隘加ふるに霖潦溢れ□跙進む能はず、彰義隊高きにより縦撃して北ぐるを追い薮下に至り、伏兵に遇うて潰ゆ、根津の南に富山、大聖寺の藩邸あり、水を隔てゝ東台と相対す、岡山、柳河、佐土原、尾州の兵これにより遙に臼砲を発し、また一隊を遣わして舟を不忍池に浮かべ、来りて穴稲荷門に迫る、彰義隊善く拒く、徳島、薩州、岡山、新発田、安濃津、彦根の兵来りて東門を攻む、彰義隊最も寡し啓運寺の兵邀撃してこれを走らせ逃くるを追うて徒町に至る、西兵反戦す、台兵且つ戦い且つ退く、養王院の兵出てゝこれを援け来撃して再びこれを走らす、この時に当り西兵東西南の諸門に吶喊す、彰義隊の奮闘一、百に当らざるなし、戦晨より午におよび勝敗いまだ決せず、南門の戦最も烈しく、両軍の吶喊砲声百千の雷霆一時に落下し来るが如く斃るゝ者甚だ多し、老樹の枝は大砲の破砕する所となり、音響を発して墜落し、砲弾に粉韲せられたる肉片は飛散し、樹幹に著いて血痕淋漓、その光景惨澹を極む、天野八郎等衆を督して四斤砲を発射せしむ、会々人あり大に呼んでいわく、今し方会津の藩士数十人敵中突撃せんとす、しばらく発砲を止よ、しからずんば我が軍相撃つの恐れありと、台兵少しく躊躇す、彼の兵これに乗じたちまち彰義隊に向かって猛撃す、衆驚きて動揺す、すでにして西兵勢に乗じてまさに南門を破らんとす、彰義隊撃って安濃津の兵を走らす、しかして薩州、佐賀、因州の兵代わりて進み攻撃甚だ急なり、台兵死傷相踵き後継なし、先つ破れ、西軍潮のごとくに来り迫り勢最も猖獗なり、時に天野八郎は鞍上に直立し大声衆を叱咤して防戦すといえども、諸門ついに敗る、これにおいて西兵三面均しく入り火を伽藍に縦つ、火、吉祥閣に及びしかして西兵充塞してまた防ぐべからず、彰義隊ついに北方の囲を衝いて潰走す、初め彰義隊皆勇をたのみて敵を軽んじもって意に介せず、満山の将士眼中西軍なし、かつ覚王院義観は得易ならざる才物なりしも、元来長袖者流にして用兵の道に暗く、衆心を収纜するの術なく、その幕下の諸隊のごとき陽に彰義隊本部の節度に従うといえども、各自ら用ひて号令一に出てず、坐して敵を待つこれその敗因の主なる一なり、我が藩野口留三郎等これに死す、諸兵の戦没したる者ニ百三十六人、死屍累積す、しかれども西軍憚りてあえてこれを歛むる者なし、箕輪園通寺の僧佛磨憤然としていわく、平等衆生を視るは吾が道なりと、すなわち官に請うて屍を集め山王台に荼毘し遺骨を園通寺に移して厚くこれを葬り、その残灰を台隅に埋む、彰義隊戦死之墓すなわちこれなり、爾後来り弔う者相踵き香花常に絶えず。
 同ニ十五日朝廷は徳川亀之助を駿府に封し七十万石を賜い、一橋および田安の両家を藩屏の列に加えらる。

駿河国府中之城主に被仰付領地高七十万石下賜候旨被仰出候事

但駿河国一園其余は遠江陸奥於両国下賜候事


 これより先き東台敗るゝの日、執当坊官等皆法親王の宮殿に至る、初め覚王院等議していわく、もし戦端を開くに至らば覚王院は本坊に留まり竹林坊光映は法親王を奉じて乱を避くべしと、この日法親王は朝餐を終り等覚院に移る、淨門院邦仙、常応院守慶従う、黒門の戦敗ると聞き竹林坊法親王を奉じて乱を三河島に避く、龍王院および諸臣兵士等馳せて従う、竹林坊諭していわく、従者多きは不可なりと、衆皆これを然りとし龍王院その他の諸臣は涕泣して別れ、竹林坊は法親王を奉じて上尾久村の渡頭に至り、従者実を里人に告ぐ、里人悲泣し夜密かに小舟をもってこれを渡す、竹林坊は法親王を奉じて下尾久村に至りわずかに一農家に潜匿す、覚王院、法親王を尋ねてこの処に来る、竹林坊いわく、人多ければ危うしと、覚王院すなわち去る、十六日法親王は浅草新堀東光院に移る、十七日市ヶ谷自證院に移る、この日自證院亮栄は法親王の行く所を尋ね、たまたま法親王の黒き麻の法衣を著け輪袈裟を掛け草履を穿ち笠をかぶり悄然として来り給うに逢う、従う者は竹林坊と疋田二郎とのみ、自證院涕泣してこれを迎ふ、淨門院、常応院もまた至る、淨門院等は日々市中近郊の情況を探れり、この時に当り西軍諸藩の兵等法親王を追跡し、薩長人のごときは法親王の潜匿し給いし民家に至り槍をもって天井を突きて暴行をなすに至る、また交付して法親王を誣ふるに叛を謀るをもってし、賞を懸けて物色すること最も急なり。
 五月二十三日自證院は徳川氏の臣羽倉鋼三郎をして榎本武揚に囑せしめ、法親王を奥州に赴かしめんとす、武揚いわく、法親王固より異図あるに非ず、ただ陳謝あらんのみと、自證院いわく、実に然り、然りといえども薩長人等法親王を憎むこと甚だし、恐らくは不足の害あらんと、武揚ついにこれを諾す、武揚法親王の乗艦に臨み白うしていわく、殿下もし錦旗を建つるがごとき事あらば請う、この行を辞せんと、法親王いわく、余すでに道に入る豈に世に望みあらんや、ただ上は天皇を安んじ下は万生を救いもって吾が道を維持せんと欲するのみと、すなわち誓書を武揚に賜う。
 同二十五日宮は医生のごとき御扮装にて自證院を御立あり、従者は淨門院邦仙、常応院守慶、鈴木安芸守、麻生生監、関右京、安藤直記等なり、鉄砲衆より上船品川海碇泊の長鯨艦に御転乗あり、二十八日平潟に御上陸ありて和泉寺に宿し給い、岩城平を御発しの後会米の兵途上を護し参らせて、六月六日会津へ御着あり若松城へ入り給いけり。
 五月十二日徳川茂栄卿上書して我が公並びに桑名侯の為に謝罪す。

臣茂栄誠恐誠懼謹で奉歎願候茂栄愚弟松平肥後松平越中年来慶喜屬下に罷在就中京摂間不容易事件之砌も慶喜同様不束之挙動有之恐多も奉悩宸襟候場合に陥り候段孰れも深く前非後侮仕今更一言之申上方無御座只管奉恐入候外他事無御座候依之不一方厳重謹慎罷在奉待天裁候趣承及申候抑京摂間之件臣茂栄に於て顛末之事情は更に相弁不申儀に付妄に傍観を以て奉申上候は重々恐入候得共右同人共儀は元来養子之身分家政向心底に不任儀も有之辺より遂に家来共統御之道を失し鎮撫方行届兼候処より奉觸逆鱗候段奉恐入候へ共骨肉之間より愚案仕候へは畢竟短才浅学之所致と被存実憫然之至にも御座候間縦令必誅不赦之罪状御座候共同人共前件之性質胸中一物も無御座候は厚御明鑒被成下抂て出格寛大之御処置被仰出候はゞ当人共に於て実以て再造之御仁徳徹骨銘肝之至不奉堪朝恩永く感戴可仕候は申上候迄も無御座右は乍恐御承知被為在候通臣茂栄骨肉之間柄にも御座候へば天性之私情難相禁嫌疑之場合相忘奉医冐瀆厳威候何卒洪大之御垂憐を以朝廷向幾重にも御取成右鄙願之趣御奏上被成下候様仕り度不奉堪伏願懇禱之至に候臣茂栄誠恐誠惶頓首百拝

 同ニ十七日右大臣三条実美勅使として静寛院宮に至り左の宸襟を賜う。

徳川家名相続以下夫々寛典相施候間御安心可被遊候尤御身上之義案労致候辺三条へ委細申含置候尚又御帰洛否之義御趣意承り度候

 五月ニ十九日徳川茂栄卿および徳川慶頼卿連署して書を朝廷に上り、輪王寺法親王の為に哀願す。
 東叡山の衆侶諸臣もまた書を示して哀訴する所あり。
 これにおいて関東平定したれば、七月十七日詔して江戸を改称して東京と言い、鎮台を廃して鎮将府を置き、東国の事務を総裁し、また東京府知事を置き府内の事務を掌らししむ、尋て徳川亀之助の歎願により慶喜の駿府に移ることを許す。
 この日大納言久我通久卿を東北遊撃軍将となし、出羽に赴きて鎮撫総督九条道孝卿を援けしむ。
 これより先き奥羽諸藩の同盟成り、幕府並びに会桑ニ藩の兵と合して西軍と相争い、また奥羽北越同盟軍政総督の名をもって討薩の檄文を発するに至りしかば、朝廷八月四日をもって、詔して奥羽の士民に諭し大義を弁じて自新せしめらる。

朝綱一たび弛みしより朝権久しく武門に委す、今朕祖宗の威霊に頼り、新に皇統を紹ぎ、大政古に復す、是全く大義名分の存する処にして、天下人心の帰向する所以なり、嚮に徳川慶喜政権を還す、亦自然の勢、況や近時宇内の形勢日に開け月に盛なり、此際に当りて政権一途、人心一定するに非ざれば、何を以て国体を持し、記綱を振はんや、玆に於て大に政法を一新し、公卿列藩及西方の士と輿に広く会議を輿し、万機公論に決するは素より天下の事一人の私する所に非ざればなり、然るに奥羽一隅未だ皇化に服せず、妄に陸梁し、禍を地方に延く、朕甚だこれを憂う、夫四海之内孰か朕の赤子にあらざる、率土之浜亦朕の一家なり、朕衆民に於て何ぞ四隅の別をし、敢て外視する事あらんや、惟朕の政体を妨け、朕の生民を害す、故に止む負えず五畿七道の兵を降し、以て基本逞を正す、顧ふに奥羽一隅の衆悉く乖乱混迷せんや、其間必ず大義を明にし、国体を弁する者あらん、或は其力及ばず、今日に至る、かくの如き者宜く此機を失はず、速に其方向を定め、以て其素心を表せば、朕親しく撰ぶ所あらん、縦令其党類と雖も、其罪を侮悟し改心服帰せば、朕豈これを隔視せんや、必す処するに至当の典を以てせん、玉石相混じ、薰蕕共に同うするは忍びざる所なり、汝衆庶宜しく此意を体認し、一時の誤りに因て千載の辱を遣すことなかれ






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/16(日) 20:34:00|
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輪王寺宮令旨を会津に賜ふ

輪王寺宮令旨を会津に賜ふ

 閏四月輪王寺宮法親王は密使を会津に発して、令旨を我が公および喜徳公に賜ふ。

客冬来、四藩兇賊等、欺罔 幼主、威逼延臣、違 先帝遺訓、而黜摂関幕府、背 桓武嘉謨、而毀神祠佛堂、可之免、手詔守護、誣 以朝敵名、興矯 命師、蹂躙蒼生、遂俾 幼主大不孝於 先帝、大不仁於百姓、暴逆奸詐、開闢以降所未曾有者有也、故今以子儀光弼之任、囑之貴藩、宜建大義之旗、以正安史天地不容之罪、上解 幼主之憂悩、下濟宗家之危急、万姓之倒懸矣、徒勉哉、天下所視、順逆已明、四民所望、雲霓爰新、勝算固不容疑者、輪王寺一品大王釣命執達如件
  慶応四年戊辰後四月
 大覚王院大僧都 義観華押
 海龍王院大僧都 堯忍華押

松平参議宰相殿
松平若狭守殿


 これに対し我が藩の主従感銘せしも道路閉塞せしにより奉答せざりき。
 同ニ十六日これより先き我が藩廣澤安任江戸に駐まりて君冤を雪がんと欲す、二月我が公の猶江戸に在るや、輪王寺宮親王およびニ十余諸侯によりて疏を上りて罪を朝廷に謝し、かつ王師に抗するにあらざるの意を明らかにす、この時に当りて薩長の威方に盛んにして、諸侯多くこれを憚る、ゆえにその疏一も朝に達するものなし、安任言へらくこれ我が公の至誠を没するものなり、必ず一たびこれを達してもって大義を述べんと、よりて大久保一翁、勝安芳を介して参謀西郷吉之助に説かんことを求む、二人安任の為にこれを吉之助に謀る、安芳また薩人益満休之助(勝安芳が門人なり)をしてこれを促さしむ、しかるに徳川氏のこと未だ決せず、朝廷いまだこの事に遑あらず、休之助なお斡旋怠らず、参謀海江田武治(信義、薩人、安任会て京師においてこれと交る)の語を安任に伝ふ、その辞至って懇切なり、これによりて我が公哀訴の疏を上るを得たり、けだしニ十余疏中達するを得たるもの只これあるのみ、安任更に休之助に托するに吉之助との会期をもってしたるもついに会見するに及ばず、この夕安任営中に囚われ、浜松藩屯所に置かる、ニ十八日銃手一小隊を発して、檻輿の前後を護り糺問所の獄に下さる(時に糺問所を、我が和田倉の旧邸に設けて獄を置く)、安任すなわち詩を賦して懐を述ぶ。

一日来投堅鎖中、無辜有罪付蒼空、丈夫名節重於死、任汝縦横論此躬

 同ニ十七日議政官は書を大総督府に致して輪王寺法親王の上京を促す、ニ十九日江戸有司は陸軍局に諭して兵士等の彰義隊に加わるを禁ず。
 この日大総督府は徳川亀之助(田安)を城中に召す、亀之助病あり徳川茂栄(一橋)代わって城に登る、よりて左の勅旨を伝ふ。
 
慶喜伏罪之上は徳川家名相続之儀祖宗以来之功労を被思食格別之叡慮を以て田安亀之助へ被仰出候事

但城地禄高の儀は追而可被仰出候事


 時に西軍はしばしば東台を攻撃せんと欲すれども兵寡きをもって果たさず、参謀大村益次郎策を尽くしまさに戦を開かんとす、大総督府さらに徳川亀之助へ命を伝え、上野山内なる徳川氏の霊位重器等を取片づけしむ、この頃伴門五郎、本田敏三郎、彰義隊の人々血気にはやり戦端を開くことを憂へ、覚王院に説きて鎮静謹慎せしめんとせしに、覚王院がいわく、兄等憂ふることなかれ、幕府の挽回は予が手裏に存すと、また転じて竹林坊に説きて隊兵を日光山に移さんことを勧めたるに、竹林坊はこれに反対し、幕府忠義の士は宗廟を守衛して徳川家輿廃の朝旨を待つ、あえて官軍に抗するにあらず、いわんや輪王寺宮ここに在りみだりに攻撃すべきならねば、万一危難あらば我これを防ぐに何かあらん、聞く奥羽諸侯同盟を謀ると、その大挙して来る遠きにあらざるべしとて皆聴かざりしと云う。
 かくて西軍は五月十五日をもって東叡山進撃の部署を定む、薩州、熊本、因州は湯島よりし、長州、佐賀、久留米、大村、佐土原の兵は本郷よりし、肥前、久留米の別隊は富山邸に向い、岡山、安濃津、佐土原、尾州の一隊は駒込の水戸邸に向かう、この時に当り彰義隊の東台に在る者一千余人、これを付属せる諸隊は純忠隊三百余人、遊撃隊百余人、歩兵八連隊、猶輿隊三百余人、旭隊(神奈川兵)百五十人、臥龍隊三百余人、精忠隊、貫義隊、信意隊(会津脱藩士)、神木隊(高田脱藩士)八十余人、浩気隊(小浜脱藩士)三十余人、水心隊(結城脱藩士)、卍字隊(関宿脱藩士)ニ十余人、松石隊(明石脱藩士)三十余人、高勝隊(高崎脱藩士)等無慮二千余人、にして会津庄内の諸藩遙かに声援をなし勢威大にふるう。
 薄暮小田井蔵太、仙台藩士小松某と共に覚王院を見て仙台中将に法親王の令旨を賜わらんことを請う、時に彰義隊士報じていわく、今夜四更西兵本山を囲むと、時に栃木辰次郎、大塚某も坐に在り躍然満を引いていわく、快なる哉と献酬して三更に至る、半夜小田井、法親王の密旨を奉じ囲を脱して奥州に使す、四使服部筑前守、河村某、岡某、馬を馳せて来り覚王院を見ていわく、事すでに急なり、田安公(徳川慶頼)甚だ憂慮す、請う学頭ニ執当を大総督府に遣わしてこれを救解せよと、覚王院いわく、田安公等皆彼らの術中に在りて自ら悟らざるを知るといえども、しばらく務めてこれに従うべしと、まさに学頭本覚院をして大総督府に赴かしめんとしたるに砲声すでに震う、三士すなわち帰る。

{上野に山門九箇あり、南に在りて正門とも云うべきは黒門と御成門にて、御成門を平常使用せざるは勿論なり、この二門は歩兵、万事二隊これを守る、山王台の下に西向せる門は南より東部の寺中に通ずるの門にしてこれを新黒門と云う、東方に車阪、屏風阪の二門ありて東に面す、また北方に通ずる阪本門(阪下門とも云う)あり、以上の四門の守備は純忠、精忠、遊撃の三隊これに当る、別に一隊を慶雲寺養王院に屯せしむ、西方に向い穴稲荷門あり、神木、浩気の二隊これを守り、また清水門、谷中門あり、この二門は歩兵、万事、旭、松石諸隊これを守る。}






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/16(日) 13:01:27|
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江戸の開城

江戸の開城

 慶喜公すでに恭順謹慎し、旗下の士もまた屏居し甚だしきは官守ある者もまた登城せざるに至る、けだし太平遊惰風をなして気概なきによれり、しかして西軍まさに江戸に迫らんとするの風聞あり、市民皆荷擔して難を避け騒擾特に甚だし、慷漑の志士相議していわく、伏見のこと薩長が我が先驅を遮りて先づ砲撃す、前将軍豈に錦旗に抗するの心あらんや、しかるに羅織誣罔して朝敵の汚名を負わしむるものは薩長の姦策に出づ、仮令前将軍は恭順して自ら責むるも国家を如何せん、相率いて難に殉ぜざるべからずと、切歯して剣を撫する者多し、市民の義に勇む者もまたふるっていわく、祖先以来徳川氏の恩澤に浴する事ここに三百年、吾等戮力して防御の策を講じ、西軍をして品川以北一歩も踏ましむべからず、もし利あらずんば死あるのみと、初め我が藩小池帯刀、安部政治、安倍井壽太郎、山口伊左美等は徳川氏の命により旗下の士と共に江戸城の要衝に胸壁を築きて防備を修む、時に勝安芳陸軍総裁にして松平太郎これに副たり、日々総裁より命を下していわく、今や前将軍恭順謹慎すゆえに防備の事は深く注意して人目を惹くべからずと、夜間に至ればまた命ありいわく、前将軍恭順す、速やかに防備を完成すべしと、徹宵事に従い防備全くなる、西城三角矢来に胸壁を築き、大砲二門を装置し、溝を穿ち掛け橋を架し、また小銃の部署を定め、馬場先門に大砲三門を装置し、その他の要衝もまたこのごとし、しかして兵杖弾薬糧餉等山積す、西軍百万来り攻むるも憂うるに足らずとなし、衆皆踴躍す、けだし幕士の計□は西軍の使節と桜田門において応接し、その半ばに火を揚げて暗号をなし、四方より相呼応して大砲を発射して攻撃するにありと云う、一日安部井壽太郎本営に至る、衆皆動揺紛擾して名状すべからず、あるいは憤慨し声を放って泣く者あり、これを江原鑄三郎に質するにいわく、勝安芳守反応し参謀西郷吉之助と高輪の薩邸に会し、謝罪開城に決す、ゆえに積日の苦心皆水泡に帰したり、松平太郎はこれを憤慨し前将軍の前に出て自刃せんとしたるも能はざりきと、その他の幕士等皆異口同音にいう、事すでにこれに至りては如何ともなすべからず、実に鉄砲に対して恥づべきなり、願わくはこれを会津に送りて戦用に供せしめよと、これにおいて江戸城は一戦せずして西軍の有となる、志士皆憤慨して相率いてまさに江戸を去らんとす。
 四月四日勅使先鋒総督少将橋本実梁、副総督中納言柳原前光西城に入る、徳川の臣屬道を掃ひて供張し、盛服してこれを迎ふ、勅使、中納言徳川慶頼に詔を宣す。

徳川慶喜欺罔天朝の末終に不可言の所業に至候段深被為悩宸襟依之御親征海陸諸道進軍の処侮悟謹慎無ニ念の趣被聞食被為垂皇愍の余り別紙の通り被仰出候条謹て御請可有之候就ては本月十一日を期辰とし各件処置可致様御沙汰の事

右期日既に寛宥の御沙汰に候上は更に歎願哀訴等は断然不被聞食恩威両立確乎拔の叡慮に候速に拝膺不可有異議者也


第一条 慶喜去十ニ月以来奉煩天朝剰へ兵力を以て犯皇都連日錦旗に発砲し重罪たるにより為追討官軍被差向候処段々真実恭順謹慎の意を表し謝罪申出候に付ては祖先以来ニ百余年治国の功業殊に水戸譄大納言積年の志業不浅旁以特別深厚の思召被為在左の条件実効相立候上は被処寛典徳川家名被立下慶喜死罪一等被宥候間水戸表へ退き謹慎可罷在事

第二条 城明渡し尾州藩へ可相渡事

第三条 軍艦鉄砲引渡可申追て相当可差返事

第四条 城内住居の家臣御城外へ引退謹慎可罷在の事

第五条 慶喜叛謀相助候者重罪たるに依り可被処厳科の処格別の寛典を以て死一等可被宥候間相当の処置致し可言上の事

但万石以上以朝裁而処置被為在候事


 四月九日彰義隊長小田井蔵太東叡山に来り覚王院に請うていわく、前将軍不日水戸に赴かれんとす、隊士従はんことを請うも聴かされず、願わくは東叡山に在りて輪王寺宮を護らんと、覚王院いわく、法親王はすでにこれ桑門鷦の身なり、何ぞ兵の御衛を要せんや、止むなくんば宝器を護らんのみと、これより先きすでに江戸城を献ず、ゆえに紅葉山霊廟の木主および城中の名器は移して本山に在り、この日覚王院、徳川慶頼を見てこれを謀る、慶頼これを可とす、即日彰義隊に命じて宝器を御衛せしむ。
 四月十一日大鳥圭介等慷漑の士相率いて東北に走る。
 四月ニ十五日太政官弁事より在京諸侯並びに諸藩貢士に伝えて徳川継嗣秩禄の事を下問す。

徳川慶喜段々侮悟恭順之趣愈謝罪之実効相立候は慶喜之処分且家名被下置候に付相続人並秩禄高之儀衆議公論を執て御裁決被遊度思召にて議事有之候間明後ニ十七日巳刻迄に右見込之儀封書に致し重臣を以太政官代へ可差出様被仰出候事

 しかるに諸藩貢士の提出せる意見書によるに、継嗣は望を尾張、紀伊、越前に屬し、秩禄は三百万石以下に擬せしもの多かりきという。
 これより先き四月ニ十一日、大総督熾仁親王江戸城に入り給うや、そのニ十七日徳川茂栄卿は書を大総督府に上りて徳川氏の家臣切迫の情を述ぶ。
 これより先き伏見宮邦家親王書を輪王寺宮法親王に送り朝覲を勧められしが、ニ十八日また邦家親王等大総督府および徳川慶頼に告げてついに閏四月十九日をもって輪王寺宮法親王朝覲発程の期となす、これをもって都下騒然たり、初め法親王の駿府より帰るや市民相言ていわく、恒例によりて法親王四月をもって日光山に赴かば、恐らくは都下灰燼とならんと、徳川慶頼深くこれを憂へ法親王に請うてこれを止む、法親王すなわち日光山の代理をもって祭典を修めしめ、都下ようやく安静なるを得たりしに、今にわかに朝観を聞きてまた驚愕す、越えて閏四月十一日法親王ついに朝観を止め、書を京師および大総督府に致していわく、法親王まさに朝観せんとする日あり、しかるに都下騒然農商業を廃す、まさに今王政一新三道各鎮撫使を下し、士民を懐柔するに当り、法親王の行このごとくならば恐らくは朝旨に戻らん、請う鎮静を待て後に発せんと、しかして法親王この後ついに出でず。






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/15(土) 19:05:14|
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輪王寺宮の周旋

輪王寺宮の周旋

 これより先き二月十一日大久保一翁、慶喜公の命により輪王寺宮公現法親王に謁していわく、こなた寡君城に在り屏居自ら責む、しかれども天怒いまだ晴れず征使まさに東下せんとす、よりて明日本山に屏居すべし、願わくは法親王自ら京師に赴きて哀訴せられん事をと、これにおいてニ十一日法親王東台を発す、覚王院、龍王院、自證院等従う、ニ十ニ日藤沢に至り自證院をして法親王の手簡を勅使に到さしむ、ニ十五日小田原に達す、三月三日大総督府の報を伝えていわく、大総督宮法親王を駿府城に待つ、請う速やかに駕を進めよと、これより先き目付平岡庄七、慶喜公、我が公の為に罪を謝するの書を携え来りて法親王に示す、四日小田原を発し三島駅に宿す、六日駿府に達す、橋本左中将その館を避けてこれを奉す、七日法親王駿府城に入り大総督宮熾仁親王と見る、橋本、柳原、正親町、西四辻の人々席を隔てゝ侍す、橋本、柳原両卿は東海道の征使、正親町、西四辻両卿は大総督府の参謀たり、法親王、慶喜公の謝罪書を大総督宮に示して申救具に至る、大総督宮いわく、余すでに聖旨を奉じてこれに在り、これを熟議して答へん、法親王よろしく東帰して慶喜に報ずべしと、これにおいて覚王院、龍王院、正親町、西四辻ニ卿に謁せんことを請う、薩藩士西郷吉之助、宇和島藩士林玖十郎二人を見ていわく、ニ□我らをして代わらしむと、覚王院すなわち六十余侯哀訴の書および慶喜公、我が公の為に罪を謝するの書を示し、また法親王の旨を申述す、十ニ日法親王また駿府城に入り大総督宮を見る、正親町、西四辻ニ卿侍す、大総督宮、慶喜公の謝罪書を見ていわく、慶喜のこの書虚飾すこぶる多し、また徒に謝罪を語るも未だ実効あらず、苟も実効あらば必ず寛典もって処せん、家系城地憂うる所にあらずと、すなわちこれを返す、玖十郎、覚王院、自證院を見てまた六十余侯哀訴の書、および慶喜公、我が公の為に罪を謝するの書を返す、覚王院その詳細を問う、玖十郎いわく、そもそも朝敵の譴至厳なり、古入鹿、将門等のごとき知るべきなり、近日毛利敬親のごときもまたしかり、しかして今至誠天を貫く、すでにこれを許す、ただし徳川氏の処するところ恐らくは未だ至当ならず、かつ慶喜公自ら兵を率いて禁闕に迫る、何ぞ咎を前駆に帰すべけんや、覚王院いわく、上表すでに君側の奸を除くという、何ぞ朝敵といわんや、かつ慶喜屏居して自ら責め、訴てまさに朝裁を奉ぜんとす、今臣子罪を君父に得るあり、訴ていわく、君や父や死生は唯命のままなりと、豈これを外してまた罪を謝するの道あらんや、玖十郎答えず、また実効を問う、いわく罪を軍門に謝し江戸城および軍器戦艦を献ぜよ、このごとくならばその死を生じその絶を継かん、いわく法親王密かに憂いていわく、日をもって程を計れば天兵今応に江戸に入るべし、入らばすなわち諸臣紛擾してあるいは事端を生ぜん、あえて問う、これをなすこと如何と、玖十郎答えていわく、天兵本叛を討す、服すればこれを措く、慶喜すでに恭順す、すなわち南川崎、北戸田、西八王子を限り次してもって罪を問わん、またいわく旗下の士に正論を待するもの大久保一翁等数人ありと聞く、いやしくも一ニ輩をして来らしめば何ぞ法親王の駕をわずらわさんと、この日法親王小田原における薩藩士の暴行を大総督宮および橋本、柳原ニ卿に語る、大総督宮赧然としていわく、あえて不恭を謝すと、即日命じてこれを戒むと云う、十三日覚王院駿府を発し、十六日午の刻を過ぐる頃西域に達し、若年寄平岡丹波守、同浅野美作守、御側服部筑前守、川勝備後守、大久保一翁等を見て詳にこれを告ぐ、我が藩河原善左衛門、覚王院を帰徒に候す、覚王院駿府の事情を略説す、善左衛門大息して涙下る、覚王院慰諭していわく、法親王いわく宗家事成りて、しかして後これに続かん、駿府の哀訴宗家いまだ成らず、ゆえに未だこれを呈するにおよばずして帰る、しかりといえども本立ては末自ら全うし、今まさに本立たんとす、何ぞ深く憂うるをなさんと、薄暮覚王院慶喜公に大慈院に謁していわく、細川侯家臣を馳せ春嶽の書を致し、静寛院宮の女使を慰め法親王の哀訴を諭す、皆これ手に唾せずして城地を挙くるの策謀なり、公なお悟らずんばまさに実効斯に立て社禝亡びんとす、慶喜公いわく、しからばこれをなすこと如何と、いわく内兵力を充実し外恭順を尽くすに在りと、この日(ニ十一日)法親王東台に帰る、しかも三月ニ十一日天皇大阪に行幸ありて大に親征の師を起こさんとし給う、前途いまだ測るべからず。
 三月ニ十ニ日我が藩士佐川又三郎、石黒恒松旧幕兵の為に過り襲われ両名共に傷つき又三郎ついに歿す。






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/15(土) 10:40:43|
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我が公会津に帰る

我が公会津に帰る

 二月十六日我が公は和田倉邸を発し会津に帰る、扈従する者左のごとし。

先備  頭 千葉権助
    甲子十六人


 しかして砲兵隊は千住まで扈従する。
 この時大阪より大野英馬、南摩八之丞、諏訪常吉、肩輿を飛ばして和田倉邸に至る、我が公の国に帰らんとするを聞き走り入りて謁す、我が公行装のまま三人を近く召して京摂および上国の形勢を親問す、三人つまびらかに上言す、我が公いわく、なおつまびらかに藩相等に告げよと、篤く三人を慰労し発程す、諸士涕鳴咽してこれを送る。
 庄内藩酒井忠篤朝臣もまた慶喜公の命により国に帰る、大久保一翁は慶喜公の意を承けて松平定敬朝臣に説いていわく、江戸に謹慎するは不可なり、よろしく僻遠の地に避けて恭順朝裁を待つべしと、これにおいて定敬朝臣は横浜より仏国商船に乗りて新潟に航し、柏崎の封地に移る、従者百人、その他は陸路会津を経て柏崎に至る。
 この時我が藩相梶原平馬、藩士鈴木多門等横浜にてフランス人スネル(弟)に計り、小銃八百挺並びに付属の諸具弾薬器械等を購ひ、また多門、佐瀬八太夫周旋尽力して旧幕府勘定奉行某より金を借りて船載し、スネル(兄)および長岡藩河井継之助等と共にアメリカ汽船に搭し、三月二十六日新潟に上陸す、また一柳幾馬、池上岩次郎、神尾鐡之丞等旧幕府より品川砲台の大砲および弾薬諸器械を借り、旧幕府の順動艦に搭し箱舘に至り、同所砲台の大砲弾薬等を借りて新潟に送る。
 二月十八日より三月朔日に至るまで我が藩江戸常詰の婦女子を漸次会津に還す、一柳幾馬をしてこれを監督せしむ、郡役所の吏員道路駅亭の諸事および貨物運輸を司る、各駅混雑かつ人馬缺乏し諸駅に滞留し、三月ニ十に至りてようやく会津に至るを得たり、また芝邸病院および同邸内傷者は、三月朔日より三日の間に帰国せしめられたり、我が藩小池帯刀、安倍井政治、安倍井壽太郎、山口伊佐美、築城研究の命を受け龍の口門外旧幕府作事方に移る、すでにして西軍来り迫らんとする説ありに、我が藩の兵器乏しきを聞き、帯刀等四人相議して旧幕府に請うてミニーゲベル銃若干挺および付属の諸具弾薬その他品川海砲台の弾薬を借りて会津に送る。
 二月ニ十日朝廷は諸軍従軍の兵士を戒勅す。

今般御親政之儀者先達被仰出候通万民塗炭之苦を被為救度以叡断御決定有之候上は王政復古之為最第一之儀に候間万端慈憐之御趣意貫徹候半ならては忽悖人望自ら兵威緩怠にも至候間不法乱行は勿論聊之雖為失錯堅被立令右等之御趣意篤と相弁至小僕迄厚加教諭心違無之様肝要に候実に今度之儀は重大之事に候間公武之差別更無之候へ共殊更王公以下諸有司之家僕共厳重謹慎無之候ては不相成候自然違背之輩於有之者以政令可被及御沙汰旨に候此段為御心得申入候事

 二月ニ十一日より我が砲兵隊々長山川大蔵以下、小川町陸軍所に於いて仏国教師に従い練兵を演習す。
 この日朝廷松平慶永朝臣を召し、大納言中山忠能卿をもって慶喜公の謝罪書に対し左の命を伝ふ。

慶喜謝罪之状東征大総督を被置候上は右手を経ずしては言上之儀は難被聞召筋に付宜く其順序を以て執奏有之候はゞ思召之上可被仰出候事

 これより先き慶永朝臣は慶喜公の謝罪書を岩倉具視朝臣に提出せしに、具視朝臣はこれを中山、正親町三条、徳大寺等の諸卿に出さしむ、よりて慶永朝臣は謝罪書の必ず採納せらるゝことを信じてこれを慶喜公に報ぜしに、今この命令に接して驚愕し、急使を江戸に馳せてこれを田安大納言に報じ、大総督の本営に就て謝罪書を示すべきことを勤む。
 当時我が藩河原善左衛門は、徳川氏の軍および我が軍大阪を去り江戸に帰るを聞き、若松より馳せて江戸に来る、時に徳川氏の将士慶喜公の東帰を悦ばず胥議していわく、今の計をなす外国の力を籍るに在り、しからずんば輪王寺法親王を奉じてもって天下に号令せん、これあるいは東照公の謀を胎すゆえんなりと、あるいはいわく、先づ亟根を扼しもって列藩に令せんと、善左衛門は我が藩の外島機兵衛等と議していわく、外国の力に頼り仮令これに勝つも天下後世これを何とか言はん、かつその手綱絆を脱する難かるべく、しかして輪王寺法親王を奉ずるは我が国体の許さゞるところにして延元の古逆臣すでにこれを行う者ありしも今再びこれを行うに忍びんや(後奥州の戦に東軍振りはざしは、その原因種々あるべきも統一を欠き諸藩多くは単独に作戦を計画せるは一原因たること疑いなし、日光口に於いては他に比して我が軍振ひ常に攻勢に出で、西軍を苦しめ得たるは東軍の統一せるによる、ゆえに白石に連合軍の本部を置き、法親王を盟主と仰き奉り、諸藩の人材を参謀とし、号令をして一途より出てしむべしと云う論なきにあらざりしも、延元の悪例に陥るを恐れてそのこと行われざりき、これ我が藩士等の尊王心の厚き一証とすべきか)、今日不幸にして朝敵の名を負うも忠邪曲直天下自ら公論あり、このニ策は反て自ら朝敵の名を取るゆえんなり、すでに親政の詔下ると聞く何ぞこれを敵視することを得んや、ただ帰順あるのみと、善左衛門また我が衆に言ていわく、事すでにここに至りては如何ともすべからず、朝敵の名を負い天下の兵を受く豈に勝算あらんや、しかず大総督府に哀訴して罪を謝せんには、しかりといえどもこれをなす死をもってせずんば達するを得ざらん、余第一にこの事に任ぜん、もし意を達するを得ざればすなわち死せん、しかして余に次ぐ者もこのごとく反覆して止まずんば、その至誠阿仁豈に達せざるの理あらんやと、決死の状面に顯る、この時に当りて衆議囂々主戦の論を絶叫してこれを顧みる者なし、あえてこれを主張せば禍立ところに至らんとす、桃澤克之丞密かに善左衛門を諭していわく、今や衆の激動このごとし、何ぞ足下の議論を容れんや、これを敢えてせば禍種を回らさゞらん、しばらく黙して趨勢を見るべしと、善左衛門大息していわく、余深思熟考すといえども国家を保全するの道これを外にしては他に求むべからず、余郷国を出るに臨み大総督に哀訴して死せんと欲し、新たに禮服を製してこれをもたらせり、嗚呼我が国家の亡ぶる日なからんと、これよりまた言はず、後八月ニ十三日西軍若松に迫るの時、善左衛門その子勝太郎と郊外に防戦し父子共に花々しく戦死せり。
 この時に当り旧幕府の諸有司陸海軍の将士等議していわく、一旦兵端を啓ける上は縦令敗るゝも我が精神を貫かざるべからず、陸海共に兵を進むべしと、しかるに爾来形勢一変し会て京摂に在りて要路に当りし閣老等は皆廃せられ、勝安芳、大久保一翁等は新たに採用せられて慶喜公の補佐となれり、我が藩は旧幕人および各藩に交渉して伏見戦争の趣旨を貫かんと欲し、再び兵を進むることを主張す、旧幕府の陸海軍および各藩もまた我が藩の主張を賛成する者ありといえども、慶喜公は伏見の一戦に大勢の不可なるを察する所ありけん、爾来一意恭順謹慎して謝罪の実を表せんとするに至り、準備の策はついに行われずして止む、会々大久保一翁は慶喜公の命を伝えていわく、会津藩の紛骨碎身は未だかつて忘却せず、今分離するは甚だ遺憾なりといえども、西軍の江戸に入るまさに近きにあらんとす、ゆえに会津藩士のこの処に在るは恭順謹慎に害あらんことを恐る、速やかに国に帰らんことを希望すと。
 三月三日我が藩相および練兵演習の輩および諸有司皆漸次に帰り、越えて五日我が藩相西郷頼母は最後に江戸を発して会津に帰る、この時江戸に留まる者左のごとし。

梶原平馬
鈴木多門
佐瀬八太夫
一柳幾馬
池上岩次郎
廣澤富次郎
小池帯刀
安部井政治
安部井壽太郎
山口伊左美
栃木大学
栃木辰次郎
米沢昌平
柿沼勇記
神尾鐡之丞
南寅次郎(のち保)
柳田勝太郎(理記と変名す)
服部武太郎(西東軍司と変名す)
佐川主殿
石黒恒松(のち則賢、上村恒ニと変名す)
内田衛守(工藤と変名す)
水島辨治(のち純)
江上太郎(秋月登之助と変名す)
牧原文吾(松井九郎と変名す)
秋山寅四郎
原直鐡
簗瀬克吉
小池周吾
小出徹之助(のち光照)
齋藤友記


 この頃我が藩の先備甲子勤佐川主殿、
{我が公の京都守護職を命ぜらるゝや、藩士のニ三男以下にして弓馬槍力の四術の免許を有する者、もしくは四術を究めざるも一術に堪能なる者約ニ十五名を選抜し、京都常詰先備と称し扈従せしむ、後人員六十余人となり、その一部を割き一隊を編成せり、これ伏見鳥羽にて奮戦せる佐川官兵衛の別選組なり、また甲子とは諸隊に在る士分を云う}
 同石黒恒松、内田衛守、江上太郎、昌平校の学生米沢昌平、小姓簗瀬克吉、同原直鐡等七人藩庁の諒解を得て脱藩の形式を取り、如何なる手蔓にてか西丸に於いて歩兵指図役並に任ぜられ歩兵第七連隊付を命ぜらる、連隊長は朝比奈一にして歩兵頭米田桂次郎これが副たり、営所は我が藩の和田倉内の旧邸なれども、市中取締を命ぜられたるにより分屯所を呉服橋外堀端の空き商店に設けたり、我が藩の小姓小池周吾姓名を変じ滝川右京と称し、幕府の脱走兵五六十名を率いて船橋、八幡辺りを徘徊するの報あり、佐川主殿思えらく各自に小分立するは策の得たるものにあらず、協力一団たるにしかずと、滝川が船橋に在るを聞き、三月ニ十一日石黒と共に至りて滝川に面会を求めたるも来らず、下士四条その外一名来るにより、佐川小分立の不可なるを説き、速やかに帰府すべきを説けども滝川固く取って聞かずついに要領を得ず、翌三月ニ十ニ日船にて帰府し、夕刻日本橋西河岸に上陸し某料理屋にて晩餐を喫す、その時暴漢八九名あり、店員を階段より突き落とす等乱暴を極むるにより、職責上傍観する能はずこれを詰責したるに、彼らついに抜刀したるも佐川に小傷を負わせて逃げ去れり、これ幕府騎兵隊の者の由なるが帰路第七連隊の分屯所に立ち寄り、西河岸の某料理店に乱暴者ある由を訴えたるにより、分屯所より十四五名一団となりて佐川等の至る室に来り、ただちに抜刀せしにより佐川、石黒はよんどころなく応戦せしが佐川、石黒共に重傷を負う、しかして来襲せし者は逃げ去れり、右十四五名の人々は佐川等と同等の人々なれど、佐川等勤務日なお浅く互いに面貌を知らず且つ夜中の事にて味方と戦をなせしなり、争闘猶了らざるに強敵にして苦戦中の由を報ずる者あるにより、江上太郎等数名至りたるが初めて佐川、石黒なるを知り、百方手当したるも佐川はついに絶命せり、佐川の遺骸は第七連隊士総員により盛大なる式を行い下谷広徳寺に葬れり、石黒は加療して傷癒え船にて岩城領江綱に上陸し八月十九日若松に着せりと云う、第七連隊に入りたる我が藩士はその首領とも目すべき佐川を失い、石黒は負傷して隊を去り、江上は伝習隊に入り、ついに止りて東軍に投じたるは米沢、内田、牧原、原、簗瀬のみなりき、しかして米沢は野州安塚において戦死せり。
 三月八日上杉齊憲朝臣、重臣堀尾保助を京都に馳せしめ建白書を上る。

夫神州之皇統一系万古不易東海表に独立して不受外侮者君臣一和人心固結間隙の可乗なきが故に御座候癸丑以来洋艦来湊要港に拠り我虚実を察し猶覬覦を生じ駸々日に迫る今や東征北伐兵連禍結列藩奔命に疲れ万民徴発に苦候折柄彼乗虚窺間鯨鯢の欲を逞するやも難計千古無窮之金甌万一尺寸土壌も彼に蹂躙被致候はゞ仮令関東を汚潴にし奥羽を席巻するの御鴻業被為立候も上被為対在天列聖之尊霊如何可被為在哉臣齊憲痛心苦慮此事に御座候況や玉体九重を離れ遠く大旆を進められ候等の義に至り候ては彌以不堪驚愕日夜悲歎罷在候側聞徳川慶喜寛永寺に蟄居席稿待罪恐懼恭順之外無他事会津容保亦竄国侮悟謹慎罷在哉の由に候へは皇威既に遠邇に輝き朝憲凛然相立候仰願くは皇運隆興百度一新の此際益山海の御度量を広大に被遊神武不殺の聖徳を垂れ共に之を寛典に処し其旨社を存せられ速に大旆を返し干戈を戢め更始一新以安反側君臣一和以防外侮候様仕り度奉存候臣齋憲遐方に僻在仕事情も不察御成算も御座候内彼是申上候義千万不堪恐縮候へ共皇国御大事之際と存込徴衷具に呈露仕候条御諒察の程伏て奉仰望候誠恐々々屯首謹言

齋憲朝臣は更に使節を秋田、南部、津軽、山県、上ノ山、二本松、福島、相馬等に遣わし皇国のため討伐の不可なるを諌め、万民の疾苦を救わんことを謀る、仙台、米沢両藩の使節前後京に入れども顧みる者なかりき。
 三月十日これより先き三月ニ日江戸城は大目付梅沢孫太郎を使節とした東山道総督府に歎願したるに、越えて七日東山道総督府参謀より孫太郎に指令あり。

徳川慶喜家来共歎願書三通被致伝達及被露候処右は早速朝廷へ御差出可有之乍法去此度先鋒総督之勅命を蒙り御発向に付今更私に進軍を止め候事は難被遊何分大総督宮及東海北陸両道之総督共於江戸表御会議之上可被仰渡候尤慶喜一身之進退は朝命を被為伺候上に無之候ては私之取計難相成候右之趣慶喜家来共へ可被申渡旨御沙汰候間御達申入候
  東山道総督府参謀


 孫太郎帰り報ず、よりてこの日川勝備後守は旗下士に諭告し、慶喜恭順の趣意を守り心得違いの事なからしめ、また十三日に至り重ねて旗下諸士を戒むる所ありたり。
 三月十三日西郷吉之助江戸に入り高輪なる薩邸に館す、翌日大久保一翁、勝安芳は慶喜公の謝罪書をもたらし、江戸高輪の薩州邸に大総督参謀西郷吉之助に就てその条款を陳ぶ。






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/14(金) 20:03:39|
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神保修理の刑死

神保修理の刑死

 二月十三日我が藩神保修理を三田邸に檻送し使を賜う、これより先き修理は慶喜公および我が公、定敬朝臣の後を追い、浅野忠之助と共に路を東海道に取り江戸に下る、我が将士修理が大阪城中に在らざるを見て罵りていわく、内府公の我が公および桑名侯等を要し、全軍を捨てゝ密かに東下せらるゝはこれ修理が上言を信じてならん、ゆえに彼もまた逃る、顧ふに修理は西藩の人士に相識多ければ、西軍に通じたるもまた知るべからず、早くこれを斬らざりしを恨むと、修理は開陽艦に後るゝこと三日にして江戸に帰る、当時勝安芳に答ふるの書あり。

華書被成下奉拝誦候于今春寒料峭御座候処先以て御安健奉拝賀候老寡君へ御別紙被成下且過日も御書被遺深重之尊慮乍憚実に泣血の至りにて重々御同意奉存候乍不及是非其処に微力見据徹底不仕候ては万事苟且何事も決て不行結局外国呑噬を受候時勢深く御同情奉存候是非此中拝謁貴慮相伺度存居候処趣々用向差湊一日一日相後れ今日は是非出立不致候半ては不叶事に相成背本意残懐奉存候扨々不思議の時勢長息泣血の至に御座候書不盡言一応の御受のみ奉呈寸楮候故御判読可被下候拝復
  修理


 後我が将士等の大阪より江戸に帰るに及びいよいよ沸騰し、我が公および藩相に迫りていわく、伏見戦争の兵機を阻害し、今日に至らしめたるは皆彼が罪なり、かの奸賊を誅戮せざるべからずと、過激の壮士等相共に修理を刺さんとするに至る、我が公は修理がその害に遭はんことを慮りて国に帰るを止め、和田倉邸に幽囚す、時に勝安芳これを聞きその禍に罹らんことを察し、慶喜公に告げ公命を以て修理を召さんとするや、壮士等この事を聞き更に紛擾しその処決を促して止まず、修理また幽室中よりしばしば書を示して審問を求むれども省せられず、この日をもって三田邸に檻送せられ遂に死を賜う、死に臨みて従よう左右を顧みていわく、余固より罪なし、しかれども君命を奉ずるは臣の分なりと、剣に伏して斃る、その死する前日一詩を紙上に書して密かに人に托して安芳に贈れり。

一死元甘、雖然向後奸邪得時、忠良失志、則我国再興難期、君等努力報国家、真僕所願也。

 生死報君何足愁、人臣節義斃而休、遺言後世弔吾者、請見岳飛有罪不。


 時に年三十、芝白金三光町興襌寺に葬る、絶命の和歌にいわく、

帰り来ん時よと親のおもうころ、

 果敢なきたより聞くべかりけり。


 江原素六いわく、神保修理は年齢資望余か上に在り、平生親交あり、戊辰の正月六日敗報しきりに大阪城に達するの際城中にて修理に逢う、修理いわく、敗軍このごときに至りては、内府公に速やかに東帰せらるゝの勝れるにしかず、大阪城に據りて戦うがごときは策の得たるものにあらずと、余もまた大にその説を賛成したり、余は修理と別れ、橋本に至りて防戦したりしが、修理が果たしてこの説を内府公に上言したるや否やを知らずと、あるいはいわく、修理は慶喜公以下の東帰を聞きて大に驚き、藩相田中土佐に謀りていわく、内府公の東帰その機にあらず、却って後害あらんことを恐る、急に馳せて諌止するにしかずと、土佐これを賛す、修理すなわち単騎鞭を挙げて兵庫に至れば、開陽艦すでに抜錨したるの後にして及ばざりきと、あるいは修理は怯懦なるが故に内府公の東帰を勧め己もまた遁れたりと、惜しいや文獻の徴すべきものなく、その真相を詳にする能はず、ただ内府公東帰の発議者として壮士の嗷々たるとき、修理が一言もこれに対して弁解せざりしことゝ、後年に至り江原氏の話を総合すれば、修理が内府公に東帰を献策したるは疑いなきがごとし、彼が西軍に通ぜしとか、あるいは怯懦なるが故に東帰を献策せしと云うがごときは採るに足らざるなり。
 ニ月十五日我が公、京師、鳥羽、淀、八幡に戦いたる兵士およびフランス兵式練習を命ぜられたる隊士を和田倉邸内馬場に召見す、申の下刻より集合す、首座は戦争に従い且つ練習を命ぜられたる者、次座は戦争に従い練習を命ぜられざる者、三座は戦争に従わずして練習を命ぜられたる者なり、時に日すでに闇く、大提燈数個を点じ、我が公自ら臨みて慰労していわく、先日汝らの奮戦感称するに堪えず、しかるに内府公俄かに東下せらる、予はその前途を憂い公に従って東下したり、これを全体に告げざりしは予大にこれを慚づ、家を慶徳に譲り必ず恢復せざるべからず、汝ら皆一致勉励して能くこれを助けよ、予篤く汝らに依頼すと、隊士皆叩頭感泣す、すでにして酒を賜うていわく、時春寒に属す宜しく過飲すべしと、隊士歓喜す。






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/14(金) 11:38:32|
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慶喜公恭順の意を表す

慶喜公恭順の意を表す

 同十一日慶喜公江戸城を出でゝ東叡山寛永寺大慈院に入りて恭順謹慎の意を表せんとし、平岡丹後守をして命を伝えしむ。

別紙之趣布衣以下の面々且御目見以下末々迄不曳様可達旨支配の面々へ可被致通達候事

別紙
東叡山へ御謹慎中西城の義は一橋玄同殿へ御頼被成候旨被仰出候間是迄の通り相勤候様可被致候事


 またいわく、

今度上意の趣御恭順とは乍申御不束の御罪を御一新に被為引受御謹慎可被為在段臣子の分にては実以奉恐入候義に付御趣意柄厚相弁心得違無之様可被致候事

 慶喜公親書を示す。

今度追討使御差向可被遊段被仰出候哉の趣遙に奉承知誠に以て驚入候次第に候右は全く予か一身より生候義にて天怒に触れ候段一言の申上様無之義に付何様の御沙汰有之候共無遺恨奉命致候心得にて別紙之通奏聞状差出候依之東叡山に退き謹慎罷在罪を一身に引受只管朝廷へ御詫申上億万の生霊塗炭の苦を免れ候様致し度と至願此事に候就ては何れも予が意を体認し心得違無之恭順の道不取失様可致し候

 夫々へ奏聞の義御頼書面冩
今度御追討使御差向可被為在哉の趣遙に奉承知誠以驚入奉恐入候次第に御座候段右全臣慶喜一身之不束より生候義にて天怒に触候段一言の申上様も無御座次第に付此上如何様の御沙汰御座候共聊無遺恨奉畏候所存にて東叡山に謹慎罷在候其段下々へも厚く申諭仮令官軍御差向御座候共不敬の義等毫末も不為仕心得に御座候へ共弊国の義は四方の士民輻湊の土地にも御座候得ば多人数中には万一心得違の者も無之共難申右辺より恭順の意を取失ひ不慮の義等有之候節は猶更奉恐入候而既ならず億万の生霊塗炭の苦を蒙候様にては実以不忍次第に付何卒官軍御差向の義暫時御猶予被成下臣慶喜の一身被罪無罪の生民塗炭の苦を免れ候様仕度臣慶喜今日懇願此事に御座候右之趣厚御諒察被成下前文の次第御聞届被為在候様涕泣奉懇願候此段御奏聞被成下候様奉願候以上
  慶喜


 先に慶喜公は時勢を洞察し、政権を皇室に奉還し、天下の公議を尽くし皇基を恢張せんとし、我が公固よりこれを翼賛す、朝廷また慶喜公の上奏を栽し、詔していわく、諸侯を進退するを除くの外自余の事務はよろしく旧によりてこれを掌るべしと、しかるに去年十ニ月九日の変革は諸侯の集議を経ざるのみならず、会桑両藩の禁闕宿衛を罷め、薩長土芸の兵をもってこれに代え、先帝御親任の大官を発黜し、摂関を罷免し、却って先帝譴責の公卿をして朝議に列せしむるに至る、慶喜公が忠君愛国の至誠は朝廷においても優遇あるべきにこれに反す、要するにこれ薩長が同臭一味の公卿と通謀して政権を掌握せんとするには、幼冲なる天子の聡明を壅蔽塞し、飽くまでも慶喜公および会桑を敵視し、一戦を試みんと欲するに由れり、ゆえに我が公は君側の奸邪を掃攘し、慶喜公政権奉還の誠意を明白にして至公至平の政体を確立するは、すなわち天下国家に尽くす所以なりと信じ、しばしばこれを慶喜公に建白せり、しかして伏見の戦は薩の挑戦に応じたるに過ぎずして、決して王政復古に反対したるに在らざるは明白の事実なり、ゆえに内に顧みて少しもやましき事なしといえども。料らずも天怒に触れ譴責を蒙るに逢うては、臣子の情として疾痛して天閽に訴ふるの外なきに至れり、これにおいて我が公は輪王寺宮に就て哀訴す。

不肖容保謹而奉言上候去戍年(文久ニ年)以来在京奉職仕候処蒙無限之天恩冥加至極奉存候然処宗家慶喜以下不束の次第にて天怒に触れ御親政被仰出候段遙に奉伺誠以驚愕之至奉悩宸襟候条重々恐入奉存候京都の義は容保守護職に有之ながら今日の形勢に立至候段畢竟容保上は慶喜を輔翼して不能安宸襟下は頑固疎暴の家臣共を制御不行届の所到に御座候間何卒慶喜儀寛大の思召を以て御取扱被成下度奉懇願候容保義は退隠の上在所へ引退恭順謹慎御沙汰奉待候右之趣宜御執成御奏聞之儀伏而奉懇願候誠恐敬白
 辰二月  容保謹上


 我が藩相田中土佐、神保内蔵助等、尾張侯、肥後侯、高松侯等ニ十ニ諸侯に頼りて歎願書を上る。

寡君容保儀去戍年京都守護職被命候処力を計り分を量りて其任に勝ざらん事を恐れ固辞候へ共其時之御事体皇国の安危に拘候御場合故強て可相勤旨被命候に付先大樹尊王之旨趣遵守奉職仕候処蒙先帝無限之寵眷御賞誉の宸襟を下し賜り其外屢々宸筆及諸品拜戴仕大病之節は辱も至尊の御身を以て於内侍所御祈祷被遊下当朝に至ても先帝以来叡慮遵奉守護職掌相励候譯を以叡慮思召被下参議被推任前後天恩之難有主従感戴罷在候容保之誠実一毫も私意無之候は終始相替候義無御座候伏見戦争の義は徳川前内府上洛先供一同登京之途中被発砲武門之習不得共及応戦候義にて闕下を犯候義等毛頭無之は万人所共知に御座候右に付天怒を蒙り候段に相至り臣子の至情日夜不堪慟哭悲歎候間寸時も早く雲霧快晴一藩の人民安堵仕候様伏て奉懇願候

別紙宸翰之義は先帝御深慮被為在賜り候義に付深く筺底に蔵置候へ共国事危急の場合に付御内々奉入御覧候


 しかるに土佐藩は辞して承けず、他は皆承けて答えず、けだし皆薩長を憚りてならん、この時京師開戦の報に接し西上する所の藩兵江戸に至り東帰の兵と相逢う、すなわち共に国に帰らしむ。
 桑名の若年寄より書を松平定敬朝臣に贈りその菩提寺に入ることを諷す、桑名藩の志士等大にこれを争い、夜に至り密かに封書を定敬朝臣に示す。

大阪以来の御事如何に御無念に在しまし候はんと徴臣共深く奉恐察候京都所司代御奉職以来四ヶ年の久しき間日夜御寝食をも安んぜられず天朝幕府の為に御忠勤を盡させられしこと今更申上る迄も無之事に候日月欲明浮雲蔽之桂菊欲香群臭奪之と申す如く薩州の賊幼冲の主上を擁し朝廷に跋扈するに依て終に朝譴を得させられ候こと実に痛恨骨髄に徹する義にて是を除かざれば清明の天地たらしむること能はず多年御忠勤も水泡と相成るに付大阪出兵の事誠に不得止次第に御座候不幸にして伏見下鳥羽の戦敗れ今日の事体に立至りしこと畢竟徴臣共が戦に勤めざりしが故にて数百年間御恩禄に浴し候申甲斐もなく万死尚其罪を免れざる事と奉存候此上は如何にもして再挙の計を決し御免罪を雪き奉らんこと臣等の本分に候得ば江戸到着以来苦心焦慮偏に藩論を一定せしめんことに尽力罷在候得共如何せん一身の安全を求め臣子の大節を外にする者多き為め俗論正義を壓するの状態如何許りか御残念に在らせられ候はんと奉恐察候徴臣共の一身は既に国家の為に捨たる者に候得ば何程の危難辛苦も物の数とは致し不申候得共弱輩愚昧の身にて藩論を一定せしめんことは何分微力に及び難く今は御威光を奉仰候外無之候間何卒明日御入院の前に御家来一同を召させられ御尊慮の程御達し被下候様伏て奉願上候然るときは徴臣共に於ても御余光に依て藩論を一定せしめ上は御免罪を雪ぎ奉り下は一分の忠義をも立つること相叶ひ可申と奉存候今日の大計を定むるの道此外には有之間敷に付何分にも愚衷の程御採用被下置度候誠惶誠恐頓首百拜

 定敬朝臣すなわち諸臣を書院に引見していわく、東下以来撫恤意のごとくならず、衆の苦辛察するに余りあり、予今夕より深川霊厳寺に入るべし、汝ら自愛努力して報国を謀るべしと、諸臣涕泣せざるはなし、これにおいて定敬朝臣ついに出て霊厳寺に移る。
 二月十ニ日伊達慶邦朝臣は其臣大条孫三郎をして海路上京せしめ、出師追討の猶予を請うの上奏書を上らしむ、しかれども孫三郎京師に入るの日は、すでに征東総督東下の後なりしかば、在京の同藩士三好監物これを拒みていわく、今に及んで捧呈すべきにあらずと、孫三郎もまたこれに同意し、ついに使命を達せざりきと云う、上奏書にいわく、

就徳川慶喜叛逆為追討近日官軍東海東山北陸三道より可被進発之旨被仰出候に付ては奥羽之諸藩宜知尊王之大義相共に合謀可援六師征討之勢旨御沙汰之趣以御書付被仰渡猶又会津容保此度徳川慶喜叛逆に興し錦旗へ発砲大逆無道に付可被遂征討候事に候間臣慶邦一手を以て本城襲撃を速に可奏追討之功旨御沙汰之趣謹て奉畏候若松は東北之一孤城と雖も臣慶邦一手に襲撃被仰付候段は武門之面目にも叶ひ難有奉存候速に藩中へ布告出陣之用意仕官軍御進発之期は速に応援襲撃可仕候然る処弊藩奥海之浜に僻在仕道路遼遠朝廷御決議御深旨も詳細に不奉弁畿内上国之形勢等唯々伝聞而已言上仕候義千万恐悚之至奉存候へ共既に深く言路を被為開候上は存付候次第黙止居候ては臣子の分難盡不顧忌諱左に奉言上候
王政復古朝議御一新之柄一旦天下之兵を被為動関東御征伐被為仕候段は乍恐重大之事件深き叡慮も被為在候上と奉存候へ共天下之人心帰意仕候事に無之候ては難被成就ては先達て慶喜御用被為在参内可仕旨御沙汰に付会桑等を先手と仕り上京仕途中右両藩より官軍へ発砲仕候は叛逆無粉大逆無道之朝敵に付追討将軍を以て御征伐被為在候様御布告相成候処慶喜臣子等に布告之趣にては先手之者関門へ指懸候節俄に薩藩勢より及発砲不得止事戦闘に至候由に有之如何にも倉卒粉擾之間発砲孰れか先孰れか後分明に不相弁風聞も有之臣慶邦御沙汰之趣奉疑慶喜布告之旨を信し候には決て無之候へ共発砲前後判然不相弁より人心一定不仕一条に御座候徳川先祖禍乱を定め揆乱反正之大勲労は今更申上候迄も無之累世偃武修文海内を鎮静仕候事既にニ百年之久敷に及澆季武威漸く不振遂に嘉永癸丑以来外夷陸続粉至人心頽然其間には慶喜処置不得宜失体不当之義も不少有之候へ共今日に至り既に政令帰一公平正大之旨を以て皇国を奉帰候上は又何事を企望仕可奉背朝廷人心之疑惑十に九は可有之人心一定不仕二条に御座候方今王政復古紀綱一新万民刮目見民如赤子民之奉仰朝廷亦如父母一夫不得其所者なきを欽慕之折柄一朝海内之兵を被為動無辜之万民水火塗炭之苦に陷候段可哀可憐之至必ず幼帝之叡慮被為在候義には有之間敷と人心之疑惑十に九は可有之是人心一定不仕三条に御座候慶喜既に退去仕候後て泰然不動愈恭順罷在候由然るに先年毛利大膳大夫家来共於闕下発砲仕候は一時卒爾之誤一旦朝敵之汚名を蒙候へ共其情実明白相顕候上は寛大之御仁恕を以て官位復古入京御免被成下候義慶喜迚も一旦祖先之大功を被為棄徒に発砲前後を以て叛名を被為定候ては諸藩之心服は勿論下々賤民に至る迄感服は仕間敷人心之疑惑十に九は可有之是人心一定不仕四条に御座候抑又外夷御交通之義追々御多端に被為成当今既に十余国にも及び当時一旦天下之大兵を動かし四海鼎沸之勢に至り候へば彼等と雖も必ず坐して傍観不仕如何なる挙動に及ぶも難計然るときは御国辱を宇内万民へ被為流候姿にも相成人心之疑惑而已ならず寒心抱憂痛哭仕候は彼是を以て深く熟慮仕候に朝廷出師追討之義暫く御用捨被為在慶喜等御譴責之義広く諸藩之論定を被為盡天下と共に正大明白無偏無黨之公論に帰候御処置被為在候はゞ必しも不労兵師彼自ら服従可仕候此段窃に奉懇願企望候古語にも輝徳不輝兵を先王之美徳と仕又裴普公之言に処置得宜能服其心と申確言も御座候へば是等之処へ御目的を被為注王政復古曠世之御成業御大成被為在候様仕度臣慶邦徴衷御諒察被成下候様偏に奉懇望候若噪慮御追討と申事にては諸藩之向背も難計海内分裂群雄割拠慶元以前之大乱を醸し却て轉福為禍と申者にて千万非計之得者と臣慶邦邦窃に痛心恐惶仕候不肖之浅見論過抔にて御採用にも相成間敷覚悟仕候へ如是御成運之機会に逢ひ徒に黙止仕候ては却て不忠之筋にも当り可申と不顧越爼謹て奉言上候臣慶邦誠恐頓首謹言






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/13(木) 10:49:18|
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我が公の登城を禁ず

我が公の登城を禁ず

 二月八日慶喜公より我が公に登城すべきの命あれども病を移して出でず、藩相内藤介右衛門代わって登城す、命ありいわく、藩士は皆国に帰らしめその少数を留めよと、しかもこの夕慶喜公より命じて我が公の登城を禁ず。{朝に登城の命あり夕に登城を禁ず、けだし廟議の変ありしか、なお調査を要す。}
 同九日総裁有栖川宮熾仁親王を東征大総督となし、議定嘉仁親王を海軍総督となし、澤為量卿を奥羽鎮撫総督となし、醍醐忠敬卿を副総督となす。
 同十日伊達慶邦朝臣は手書をもってその家臣に会津征伐の命下りたるを告げ、併せて将来の注意を示す。

徳川家叛逆に付追討被仰出会津は予等一手を以て本城を襲撃すべき由等の御沙汰書別紙之通に候間一統拝見可仕候然るに方今外国の覬覦も有之折柄右様内乱を促し候ては却って皇国の御大事に可相成と深く心痛の事に候間依ては干戈を不被為動理非曲直分明に被相糺公平の御沙汰を以て神州を泰山の安きに被為置候様遂奏聞候存意に付此度大条孫三郎上京申付候乍併如何なる形勢に立至候哉も難計場合に候間何れも軍忠を盡し武命を輝候様厚く相含早々仕度罷在差図次第出陣の心懸可有之猶右に付存慮の旨も候はゞ可申聞候事






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/12(水) 14:27:43|
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我が公の退隠

我が公の退隠

 同四日ころより先き我が公、慶喜公に禀して到仕退隠し、家を喜徳公に譲らんと請う、この日これを許す。
 同五日慶喜公は恭順謹慎の書を松平慶永朝臣によりて朝廷に上る。

慶喜相続以来乍不及勤王之道心を盡し罷在候へ共菲才薄徳事々不行届加之近日之事端奉愕宸襟候次第に立至り奉恐入候ニ付謹慎罷在伏而奉仰朝栽候此段御奏聞被成下候様奉願候以上
 二月  慶喜


副啓今般鎮撫使東下之由相聞自然関内江戸市中迄相越候様にては兼々鎮静方は厚申付置候得共人心動揺過激之輩如何様之義可相生哉も難計深く謹慎罷在候旨意を失ひ候様成行候ては深く奉恐悚候間可相成は鎮撫使東下の儀無之様御含之程御頼申候以上
 二月  慶喜
  大蔵大輔殿


 別紙
先般憚朝憲退隠仕相続之儀差極相願候儀は家来共申立其外無據事情有之故相願候得共猶熟考致候へば右様之儀相願候ては深く恐入候儀に付改て別紙之通相願候間可然御周旋之程偏に御頼申候以上
 二月  慶喜
  大蔵大輔殿


 慶永朝臣はただちにこの書を朝廷に示して、鎮撫使の東下を止めんことを請いしも、固より止むることを得ざりき。
 かくて事情いよいよ切迫したれば、我が藩においても、あらかじめこれに備ふる所なかるべからず、二月七日佐川官兵衛を中隊司令官に特選し、また藩兵十八歳より三十五歳まで江戸に留まる者、フランス式撤兵練習を命ぜられ、旗下の兵と共に日々江戸城中において仏人に就いて親しく教授を受く。
 
 大砲隊を改めて砲兵隊と称す、人員左のごとし。
砲兵頭 山川大蔵
同並勤 上田新八郎
指図役 竹本登
同 上田伝治
同 遠山寅次郎
甲子六十八名、寄合組三十六名、足軽若干名


 上田八郎右衛門隊撤兵修行を命ぜられ、江戸に留まる者左のごとし。
隊長 上田八郎右衛門
甲子十五名






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  1. 2012/12/12(水) 12:04:10|
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我が公東帰の理由を明かす

我が公東帰の理由を明かす

 慶応四年正月十二日慶喜公芝の浜殿に上陸し、我が公、定敬朝臣、忠惇朝臣、勝静朝臣等を従ふ、時に我が藩の留守居神尾鐡之丞江戸城中に在り、我が公を馬場先門に迎ふ、我が公唯一騎にて来る、用人荒川善蔵もまた城中より出て我が公に西丸下乗橋に謁す、我が公、善蔵、鐡之丞を従いて登城す。 
 これより先、大阪において我が藩士等、慶喜公、我が公の東下を聞きて恟々たり、加ふるに西兵あるいは奈良に至りあるいは大阪に至る等の浮説を懸念し、ただちに馳せて君側に至るの議あらざりき、小姓平番簗瀬克吉、小池周吾いわく、余等生平君側に侍す、今公ただ一人東下す、寸時も安んずること能はず、速やかに馳せて公に追及扈 従べし、縦令これを衆に告ぐるも余等と意見を意にするを恐れると、これにおいて断然決心してひそかにこれを原直鐡に告げて発し、奈良を過ぎ、この日江戸に至る、我が公これを聞く、善く決心して速やかに馳せ下りしを賞す。
 同十五日朝廷より奥羽諸藩に令を下す。

就徳川慶喜叛逆為追討近日官軍東山北陸三道可令進発の旨被仰出候付ては奥羽の諸藩宜知尊王之大義相共援六師征討之勢旨御沙汰候事

 この日神保修理、浅羽忠之助、江戸和田倉邸に至る、ただちに西城に登り我が公に謁して平安を賀し、かついわく、左右の臣一人も従うものなく、その艱苦拝察に余りありと、我が公いわく、事急にして卿等に告ぐるの暇なく甚だ苦慮せり、卿等善く速やかに下れりと、我が公退城して和田倉邸に帰る。
 忠之助、我が公に謁していわく、公今回の事藩相等に告げず独り修理のみに告げて東下せらる、臣その情状を審にせず、かつ藩相等の心理如何を知らず、臣ひそかにこれを憂ふと、我が公いわく、これ予が過なり、忠之助いわく、正月五日の夜大阪城にて命あり、縦令城を枕にして戦死するも紛骨力を尽くさゞるべからずと、しかるに修理に東下の事を告げられしは何ぞや、我が公いわく、しかりその時汝の言によれば天保山沖に内府公の乗艦至るの説あり、あるいは東下の命あらんも知るべからずと、ゆえに予城を枕にするの語あり、当時内府公東下の形勢なきにしもあらず、しかれども予は累々建言したることあれば必ず東下なからんと思惟したるも、いささか心頭に懸ることなきにあらず、幸に修理白書院に在るを見たりしをもって、一旦緩急あらん時を慮りひそかにこれを告げたるなり、もし内府公東下の議判然たらんには老臣等に告げ、かつ内府公を苦諌せんと思へり、しかるに間もなく定敬朝臣急きょ予に告げていわく、内府公東下に決し且つ会桑は平生衆人目を囑す、速やかに我に従うべしとの命ありと、予驚きて走り謁し苦ろにこれを止むれども肯ぜずして却りて怒りに遭う、予の力如何ともすること能はず、ゆえに老臣等に告げんと御用部屋の口に至れども諸臣一人も見ず、予思えらく内府公に従って東下せんと欲せば諸臣に義を失い、諸臣に義を立てんと欲せば内府公に義を失う、二つながら全うすること能はず、むしろ公を先にして臣を後にせんと決心してついに公に従って共に発せり、予艦中内府公に言ていわく、五日の夜命あり、戦すでにここに至る、縦令万騎戦没して一騎となるとも阪城を枕として快戦すべし、阪城破るゝとも関東あり、関東破るゝとも水戸あり、決して中途にして止むべきにあらずと、しかるに遽然東下せらるゝは何ぞや、公いわく、このごとく命ぜざれば衆兵奮発せず、ゆえに権宜をもって命ぜしなりと、慶喜公のこの答えこそ奇怪なれ、どこまでも戦わんとすればこそ衆兵を奮発せしむる必要あれ、恭順東帰と決したる上は恭順の妨害となるべき激勤の命令を発するの理なし、思うに変説を自白するを慙ちてしかる曖昧なる答えをなせるなるべし。
 慶喜公家を徳川茂栄卿に譲りて退隠することを命ず、茂栄卿止むを得ず一旦命を奉じ、これを我が公、定敬朝臣に告ぐ、我が公、定敬朝臣いわく、思うに今は内府公退隠の時にあらず、これ大に不可なりと、茂栄卿いわく、然らば内府公に謁してこれを辞すべし、我が公、定敬朝臣いわく、内府公一旦命あり、公もまたこれを奉ず、今にしてこれを辞するも恐らくは許さゞるべし、しかれども努めてこれを辞すべしと。
 我が公、定敬朝臣すなわち勝静朝臣に告げ、固く内府公の退隠を止む、もしその説採納せられずんば、より公務を辞せんと、勝静朝臣これを慶喜公に告ぐ、慶喜公聴かずしていわく、容保、定敬公務を辞するとも如何ともなすべからずと、ゆえに我が公、定敬朝臣病を移して出でず、定敬朝臣は一橋邸(実兄茂栄卿の家)に寓せしが、この日我が和田倉邸小書院に寓し、二十九日ついに築地の桑名邸に移る、時に旗下の人士また往々疑いて思えらく、一橋公継嗣の事も大阪より東下の事ももっぱら我が公、定敬朝臣の意に出てたるなりと、これをもって定敬朝臣は一橋邸の寓を移す。
 その後板倉勝静朝臣手簡をもって我が公の登城を勤むといえども、我が公固辞して出でず、後また慶喜公の命を告げていわく、陽はに公務を免するにあらず、古によりて御用部屋に出てゝ公務を処理せよと、往復数回に及ぶ、慶喜公また目付松平伊勢守をして我が公の登城を促すといえどもついに固辞して出でず、けだし我が公深意あり、国に帰りて国本を鞏固にせんことを期したるによれり。
 江戸にて藤堂高潔朝臣使いを遣わし謝していわく、前日山崎関門にて我が藩の兵発砲したるは、西軍より迫られ止むを得ず、故らに砲口を高く向けわずかに発砲して責を塞ぎしのみ、しかるに弾丸貴藩の屯衛に至ると聞くと、実に分疏するに言葉なし、今や貴藩兵の我が江戸邸を討伐するの説あり、幸に寛怒を賜へと、高潔朝臣、また上野法親王に請うて慶喜公に分疏し、また我が公にも分疏を請う、ゆえに法親王使僧を我が邸に遣わしてこれを調停せらる。{藤堂藩の鄙劣これを形容するに言なし、堕落の極度に至れしもの、予皇国のためにこれを辱つ。}
 すでにして我が藩相等漸次東下す、我が公酒肴を賜うて厚く款待す、諸兵江戸に至る毎に、藩相をしてこれを品川に迎えしめて慰問し、また和田倉邸に召し見て面あたり労問す、就中大砲隊、別選組の兵士には特にその奮発苦戦を称揚す、毎にいわく、内府公東下す、ゆえに前徒を見んが為に従う、事急きょに出て卿等に告げず予大にこれを慚づ、今より家を慶徳にゆずり、恢復せずんば止むべからず、今後篤く卿等に依頼すと、衆皆感激す、時に我が藩の傷者大阪より江戸に至り芝新銭座邸に在り、我が公、佐倉藩医佐藤春海に嘱して治療せしむ、かつて正角艦中に在りて傷者を療せし奥平藩の医某、春海の門に入て懇切に療す、我が公フランス医ハルトマンに嘱し日々病院に来りて療せしむ、我が公また自らこれに臨み、小森一貫齋の先導にて親しく負傷者に就きてこれを慰問し、かつ伏見、鳥羽、淀、八幡等の戦況を問い、見舞品を賜いこれを慰む、越えて二十日、慶喜公騎馬にて老中板倉勝静朝臣、老中格軍事総裁稲葉兵部大輔、若年寄石川若狭守、若年寄格浅野美作守、陸軍奉行藤沢志摩守、騎兵奉行岸大隈守、目付設楽備中守その他奥向騎兵の諸員を従へて新銭座邸を訪ふ、藩相梶原平馬、若年寄西郷勇衛門これを迎えて先導す、慶喜公一々傷者の臥床に就きて慰労す、中に重傷者高津仲三郎と云う者あり、慶喜公に向い戦況を具陳し、かつ伏見、鳥羽の敗因をもって幕軍の怯懦に帰す、慶喜公、平馬並びに勇左衛門を召し藩士の勇武を感賞す。

{慶喜公は後年伏見の一戦は、我が公が幕命を矯めて諸侯に命じたるがごとく弁疏するを常とせりと云へり、ごとし果たしてしからば本文、伏見、鳥羽の負傷兵の見舞は、無意味なり、偽善なり、笑うべし。}

 かくて正月十五日に至り、朝廷まさに東海、東山、北陸三道並びに進みて慶喜公追討の軍を発せんとし、奥羽諸藩に令して六師征討の勢を助けしめ、尋で十七日朝廷より伊達慶邦に命を伝ふ。

会津容保今度徳川慶喜之謀反に興し錦旗に発砲し大逆無道既に可被発征伐軍之処其藩一手を以て可襲撃本城之趣出願不失武道奮発之条神妙之至御満足に被思召候依之願之通被仰付候間速に可奏追討之功之旨御沙汰之事

 仙台藩相但木土佐はその書の譎詐を怒りて参興三条西李知朝臣を見ていわく、弊藩会て追討を請いたることあらざるに、今御沙汰書を見るに出願云々の語ありて事実に反せり、よろしく訂正せらるべしと、李知朝臣いわく、かくのごときは武門の面目これに過ぐるものなからん、訂正の必要あらざるべしと、土佐いわく、名実相反するは事の正しきものにあらず、いやしくも朝廷においてかくのごとき曖昧の事あらんやと、李知朝臣辞届し、後数日訂正して前書と交換せり、いわく、

  仙台中将
会津容保今度徳川慶喜の反謀に興し錦旗に発砲し大逆無道可被発征討軍候間其藩一手を以て本城襲撃速に可奏追討之功旨御沙汰候事


 同十九日慶喜公親書を静寛院宮に示して恭順の意を陳ふ。

慶喜相続より以来相変らず尊王の道専ら相心懸居候へども此程の事件一時の行違とは乍申奉対朝延奉恐入候就ては私儀は退陰仕跡式の義は相選の上申付候積に御座候然る処道路の浮説にも可有之とは奉存候へども御軍勢差向られ候様にも伝聞仕只今右様の御事御座候ては臣子の至情より万一騒乱を正し奉悩叡慮候様相成候ては猶又私従来尊王の本意に無御座候間此度御趣旨の御沙汰被成候様仕度何卒私心底の程御照察被遊猶此上当家無事永続仕不相変忠勤を盡し候事出来候様御所御都合宜しく御周旋被成下候様御願申上候目出度可祝
  慶喜


 これにおいて宮は手書を裁して歎願のため女使を京都へ遣わさるべきに定まり二十一日上﨟土御門藤子は宮より橋本大納言実麗卿同少将実梁朝臣へ宛てたる書と慶喜公の書と共にこれを携えて出発せり宮の御書は、

叡慮の程伺不申願出候は恐入候へ共心痛に堪兼こゝろのみ参らせ候去る三日内府事召に依りて上洛処不慮の戦争に相成り朝敵汚名を蒙り帰府の処徳川征伐の為官軍差向られ候様に承り当家の浮沈此時と存し苦心致し候内府より承り候趣委細藤申入候通りに付何分雙方を承はり不申候ては理非分兼候此度の一件は兎も角内府是迄重々不行届の儘内府一身は如何様とも仰付られ何卒家名立行候様幾重にも願度後世迄当家朝敵の汚名を残し候事私身に取ては実に残念に存参らせ候何とそ私への御憐愍と思召汚名を清め家名相立候様私命にかへて願参らせ候呉々官軍差下され御取つぶし相成候ては私事当家滅亡を見てながらへ居候も残念に候間急度覚悟致し候心得に付私一命は惜み不申し候へ共朝敵と共々に身命を捨ては朝廷に恐入候事に候誠に心痛致し居候何卒心事御憐察あらせ願通家名の処御憐愍あらせられ候はゞ私は申迄も無之一門家僕の者共深く朝恩被蒙候事と存参らせ候何卒々々此処よくよく御申入頼参らせ候猶同役衆へも御申伝にて御取計の事幾重にも御願申入参らせ候以上

 幕府の士伴門五郎、本田敏三等はこの切迫せるを見て、大に同志の士を募り、朝廷に哀訴せんと回文を発して招集す、天野八郎等六十七人来り会す、伴、本田等澁澤喜作を訪ふ、坐に尾高惇忠等在り、二十三日また浅草本願寺に会す、同盟する者百余人、彰義隊と称し、澁澤喜作を頭取に、天野八郎を副頭取に、伴、本田、須永某を幹事に選び、身命を投げ打ちて徳川氏の窘辱を一洗して反逆の薩藩を戮滅し、上を以て朝廷を尊奉し下は万民を安堵せしめんと血誓し、輪王寺宮の西上に依り朝廷の処置を待ち、府下を鎮撫し非常を警むるに決し、屯営を上野に置けり。
 二十四日朝廷は伊達慶邦朝臣に朝命を伝ふ。

今度会津本城襲撃被仰付候に付上杉弾正大弼佐竹右京大夫南部美濃守等応援之儀被仰付候間此段相達候事

 二月二日朝命あり。

東征御進軍可被為在候に付大御軍議被仰出候依之去る二十八日将軍宮御帰洛被為在候此段申達候事

 同三日巳半刻天皇二条城太政官代に行幸諸藩に親政の詔を発す。

今度慶喜以下賊徒等江戸城に遁れ益暴威を恣にし四海鼎沸万民塗炭に堕んとするを忍ひ給はず叡断を以て御親政征被仰出候付ては御人選を以て被置大総督候間其旨相心得畿内七道大小藩各軍旅用意可有之候不日軍議御決定可被仰出御旨趣可有之候間御沙汰次第奉命馳参るべく候宜諸軍戮力一同勉励可盡忠戦旨被仰出候事






卷三 江戸近邦の形勢  会津戊辰戦史1

 





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  1. 2012/12/11(火) 18:50:02|
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慶喜公の東帰

慶喜公の東帰

この夜(六日)亥の刻慶喜公ひそかに米国軍艦に投乗し、翌七日さらに幕府の軍艦開陽艦に轉乗し海路江戸に帰る、我が公、定敬朝臣並びに老中酒井忠惇朝臣、大目付戸川忠愛、外国奉行山口直毅、目付榎本道章等従う。
 五日の日に慶喜公が激励の台命を発したる後、東下のおもいむら々々と起こり処に、その深夜神保修理が東下の入説にやや心を決したるも我が公および定敬朝臣には勿論、幕臣中気概ある者には固く秘せられけり、ただ勝静朝臣と永井尚志とに東下のことをほのめかされしに二人は東帰再挙の事と信じて賛成したりと云う、出発間際に至り我が公に東下陪従の命あり、東下のことをこの時まで我が公に秘せられしは、我が公は勿論我が藩士が極諌せんことを恐れてなり、我が公東下のことを聞きその不可なる理由を縷陳すれども、知はもって諌を防ぐに足るべき慶喜公なれば、なぜ我が公の諌を入るべき、果ては憤怒して陪従東下を厳命するに至れり、我が公今は止むをえず、その愛撫せる我が公が将士を捨てゝ涙を呑んで東下に倍従せり。
 これより先この夜我が公近侍浅羽忠之助に言いていわく、敗軍このごとし城を枕として戦没するも力を尽くさゞるべからずと、またいわく、神保修理を招くべしと、忠之助いわく、修理恐らくはすでに本願寺の本営に至りならん明旦を期すべきかと、我が公いわく速やかに招くべしと、けだし慶喜公の命なり、忠之助すなわち用所{用所は我が藩政の主要なるものを取り扱うところにて、幕府の右筆所のごとし。}の吏渡辺定之助をして修理を招かしむ、修理すなわち登城して慶喜公に謁す、その言知る者なし。
 丑の刻修理、忠之助を招きていわく、大刀を携え来れと、共に御用部屋の口に至る、修理いわく、内府公東下せんとし我が公もまた陪従に決すると、忠之助驚きていわく何ぞや、修理いわく、ゆえあり家老神保内蔵助、上田学大輔および子と余とを従うとの命なり、しかれども事極めて機密なり必ず漏洩することなかれと、忠之助すなわち我が公の要品を携えて御用部屋の口に至る、修理いわく、公の命を待ち内蔵助、学大輔に告げて言へ、公両人を召す、速やかに大刀を携え来れ、公城樓に登らんと欲すと、忠之助いわく、藩相以下未だ公の東下を知らざるか、修理いわく、未だ知らず、忠之助いわく、我が将士苦戦利あらず死傷甚だ多し、これを棄てゝ公独り東下せらるゝは不義なり、他日何の顔ありて将士を見んや諌止せざるべからずと、修理いわく、公命じて云う内府公の命なり、これを如何ともなすべからずと、忠之助いわく、君を不義に陥れなば臣道何をもってか立たん、必ず諌止せざるべからずと、修理その理に服して共に坊主(殿中の指令をなすもの。)をして我が公に謁せんことを請はしむ、坊主すなわち入りまた出でゞいわく、公今内府公の前に在りと、修理、忠之助しきりに苦慮し、しばしば謁せんことを請へども得ず、倉澤右兵衛、小野権之丞{小野は初め近侍なりしが、家老横山常徳抜擢して公用人となす。}もまたしきりに謁せんことを請う、しかれども坊主の言初めのごとし、桑名藩隊長松平某もまたいわく、ただいま兵を収めて来れり、桑侯に謁せんことを請うも、侯また内府公の前に在りとて許せれずと、佐川官兵衛座に在り、竹中重固に言いていわく、幕将一人戦地に臨み歩兵一大隊を守口に止めよと反覆弁論す、重固依違として答えず、かえりみて修理に言いていわく、子の意如何と、修理もまた官兵衛が論を賛す、重固ついに半ばにして出づ、たまたま陸軍奉行並戸田勝強来る、官兵衛また反覆勧説す、勝強ついにこれに同意し自ら戦地に臨むに決せり。
 紀州の家老水野大炊頭来りいわく、新宮より七騎を従い馬を馳せて来る、今日一大隊の兵着阪すべし、寡君の着阪は両三日中にあるべしと、忠之助等いわく、兵庫の兵備全からず請う兵を分ちてこれを助けずや、また山崎蹴上の方面より進撃するもべきならんか、大炊頭いわく、今日着阪の兵を率いて奈良より京都に入らんと、修理いわく、形勢すこぶる急なり、恐らくは明日大阪城中に砲弾落下するも知るべからず、大炊頭奮激していわく、大阪城焼亡せば更に大幸なり、殿屋中に安居すれば怯懦となり士気ふるはず、殿屋灰尽となりて露営せば衆皆奮発勇気自ら倍せんと、会々汽船天保山海に至り慶喜公東下の説あり、大炊頭これを聞き怒っていわく、果たしてしからば寡君の出阪を止めん、天下の事ここに終わらんと、時に近侍金子忠之進も来りて側にあり、姫路の藩士もまた来り藩侯に謁せんとす、侯もまた内府公の前に在りとて許されず、修理、忠之助ますます苦慮し、同朋頭池田貞阿弥に托していわく、大急事あり速やかに謁せんと欲すこれを我が公に聞せよと、彼諾して入る、また出でゝいわく、御錠口{将軍諸侯の邸と表と奥とあり、御錠口はその堺にてこれより内奥へは特殊の人の外、男子の入るをことを禁ぜしなり。}より内は小子等入ることを得ず、ゆえにこれを奥に托せりしばらくして面せらるべしと、すでにして滝川具挙奥より出でゞ修理に密語す、修理、忠之助に言いていわく、内府公、我が公、桑名侯、姫路侯、板倉侯に東下すと、走りて藩相の座に至りこれを告ぐ、内藤介右衛門いわく、これ必ず訛伝ならん、しかれども外に漏洩せば人心動揺せん浪語することなかれと、忠之助いわく、余往きて虚実を探らんと走りて出づ、修理もまた走りて出づ、時すでに天明けんとす、けだしこの時忠之助、修理は慶喜公の東帰を信ぜしなり。{七日昧爽修理、忠之助本願寺における公の厩に至り、厩長野村彦五郎に議して鞍馬二頭を借り一鞭ただちに天保山を指して馳す、前路に方りて衆人傘を戴くありしかば、心ひそかに見て内府公一行ならんと思い追及すれば、幕人外国人の汽船に行くを送れるなり、両人また馳せて木津川に至る、船中に松平信古、大阪城代牧野忠直在りて扈従の士各両三名を従うのみ、これを見て修理馬より下りる、両侯手を挙げてこれを招く、いたれば両侯いわく、惟ふに内府公はすでに乗船せしならんと、ゆえにその船に追及せんとす卿等も共に至るべしと、修理、忠之助大に喜び、市人に金を興へて馬を本願寺に還さしめ両侯に従う、乗船に先立ち本願寺の本営に書を遣わしてこれを告げんと欲す、両侯しきりに乗船を促すゆえに書するの暇なく、乗船して後鉛筆をとりて大略を書し船夫の帰るに托して藩相に告げんとす、すでにして大風烈しく小船を進むること能はず、海上には汽船煙を揚げまさに抜錨せんとするあり、思えらくこれ必ず内府公、我が公の乗船ならんと神魂飛場すれども如何ともすること能はず、すでに天保山沖に至る船覆へらんとするもの数たび、海水船中に入りて甚だ危うし、止むことを得ずまた上陸し風浪の収まるを待たんとすれども、その期知るべからず、ゆえに陸行するにしかずと議す、会々若年寄並平山敬忠来りていわく、内府公は今や碇泊して由良港に在らん、よろしく往きて乗船陪従すべしと、すでにして怒涛なお収まらず、桑名藩用心三宅弥忽右衛門、近侍中島香嘉取馬を馳せて来りいわく、寡君内府公に従いて東下すと聞き重臣にも告げずして来れり事状如何と、修理、忠之助詳に告ぐるに実をもってし且ついわく、陸行して由良港に至らんと、弥忽右衛門、嘉取も同行せんことを請う、修理、忠之助詳に事状を書して藩相に告げんと欲すれども事急にして能はず、ゆえに初め船中にて書きたる書を笠間侯の騎兵に帰るに托す、弥忽右衛門、嘉取いわく、余等も詳に書するに暇あらず、請う子等の書中に弊藩へもその事を告げんことを書せよと、すなわちこれを加書す、たまたま笠間侯の臣某来りて侯を諌めていわく、この地を捨て東下するは不可なり、もし敵兵来らば快戦して死せんのみと、笠間侯いわく、内府公このごとき大事を我等に告げずして東下するは怪訝に堪えず、よりて公に謁してその意を問わんとすと某の諌を容れざりき、すなわち吉田侯、笠間侯以下修理、忠之助等十二人午前頃この処を発し堺に至る、時に幕兵大阪を退きて紀州に赴く者項背相望む、風ますます暴く且つ昨夜より大に困疲し未だ貝塚に至らざるに日すでに闇し、よって貝塚に宿す。
吉田侯、笠間侯および修理、忠之助等議していわく、今日に至りて風なお収まらず、もし紀州に至るも乗船すること能はずして陸行せば甚だ迂回なり、大和路を経て伊勢松坂に至り乗船するの便なるにしかずと、すなわち原路に帰り間路より大和路に赴く、修理、忠之助いわく、両侯と分かれて馳するにしかずと、すなわちこれを両侯に告ぐ、吉田侯手書を托していわく、途中我が兵に逢はゞこれを達せよと、笠間公いわく、江戸に至らば日比谷邸某に詳にこの状況を告げよと、修理、忠之助托して馳す、途中桑名藩の兵退くに追及し、また鳥羽の兵に逢う、皆我が藩の奮戦を嘆称す、長谷に至りて吉田藩の兵多く至るに逢う、隊長在らず、すなわち目付某に逢いて侯の手書を致す、修理、忠之助疲労艱苦を極め松坂に至るも風未だ収まらずして船を発すること能はず、止むことを得ず東海道に出でんと八軒を経て津城下に至る、津藩の兵上野に赴くに逢う、各戦袍を着け銃を携え騒擾甚だし、城下に至るや郭門にて姓名を問い簿冊に記して通行を許す、夜半頃ようやく四日市に至り休ふ、会々和歌山の士某轎を飛ばし来りていわく、津田監物命じていわく、過刻松坂を過ぎられしを聞き、面晤せんと欲したるもすでに去れり、ゆえに我をして詳に京摂の形勢を問はしむと、修理すなわちこれを詳説して発す、九日沸暁桑名に至る、市人家財を船載して難を避けんと騒擾を極む、老幼婦女涕泣奔走し、あるいは児子を京摂に出せる者形勢如何を問う者多し、修理、忠之助これより轎を飛ばして江戸に至る、忠之助が大阪を発するとき、孝明天皇が我が公に賜いし宸翰を奉持して帰東せしがため、宸翰全きを得たるをもってその帰路を詳記せり。}


 かくて朝廷にては大阪の兵伏見鳥羽の両道に進出するを聞き、それぞれ部署を定めてこれに備えしめ、四日仁和寺宮嘉彰親王を征東大将軍に任じ、七月布告して征討の命を伝ふいわく、

徳川慶喜天下の形勢不得止を察し大政返上将軍職辞退相願候に付朝議の上断然被聞職候処唯大政返上と申のみにて於朝廷土地人民御保不被遊候ては御聖業不被為立候に付尾越両侯を以て其実効御訊問被遊候節於慶喜は奉畏入候へ共麾下並会桑の者承服不仕万一暴挙可仕哉も難計候に付只管鎮撫に尽力仕居候旨尾越より及言上候間朝廷には慶喜真に恭順を盡し候様思召既徃の罪不被為問列藩上座にも可被仰付の所豈画んや大阪城に引取候は元より詐謀にて去三日麾下の者を引率し剰へ帰国被仰付候会桑等を先鋒として闕下を奉犯候勢ひ現在彼より兵端を開き候上は慶喜反状明白終始奉欺朝廷大逆無道不可逃此上は於朝廷御宥恕之道も絶果不被為得已御追討被仰出候抑兵端己に相開上は速に賊徒御平治万民塗炭の苦被為救度叡慮に候間今般仁和寺宮征東将軍に被任候に付ては是迄偸安怠情に打過或は両端を抱き或は賊徒に従居候譜代臣下の者たり共真に悔悟奮発国家の為盡忠の士有之候輩は寛大の思召を以て御採用可被為在依戦功此行末徳川家の義に付歎願の義も候はゞ其筋に依り御許容可有之候然るに此御時節に至り不弁大義賊徒と謀を通じ或は潜居被致候者は朝敵同様厳刑に可被処候間心得違無之様御沙汰に候事

但征討将軍を置れ候上は即時前件号令可被発は勿論に候へ共於旗下粗暴の途壅蔽爰に至り候哉と彼是と深重の思召を以て御遅延の処三日より今七日に至り阪兵日に雖敗走益出兵不被為得已断然本文の通被仰出候各藩吏卒に至る迄方向を定め天下の為め奉公可有之事


 また阪軍においては今朝若年寄永井尚志、大目付滝川具挙等慶喜公、我が公定敬朝臣以下東下の事を諸軍に告げていわく、

今般当地御東下被遊候に付ては在来諸藩所御警衛の面々人数引上げ江戸表又は在所表等へ都合次第罷越不苦旨豊前守殿被仰渡候間其旨相心得別紙の面々早々順達可有之候右之段申進候以上

 別紙姓名(表中誤りあるものゝ如し)

松平美濃守(筑前)

紀伊中納言(紀伊)

松平右近将監(浜田)

戸田采女正(大垣)

松平若狭守(藩詳ならず松平酒井の誤りか)

松平阿波守(徳島)

松平甲斐守(郡山)

稲垣平右衛門(鳥羽)

松平讃岐守(高松)

松平伊予守(松山)

牧野駿河守(長岡)

井伊帰部頭(彦根)

栃木近江守(福知山)

加藤遠江守(大洲)

植村駿河守(大和高取)

森美作守(赤穂)

稲垣右京亮(近江山上)

岡部筑前守(岸和田)

土井大炊頭(古河)

大久保加賀守(小田原)

松平兵部大輔(明石)

九鬼長門守(摂津三田)

松平刑部大輔(吉田)

松平下総守(忍)

柳生但馬守(大和柳生)


 諸軍これを聞きて解体し、城中の紛擾甚だし、幕兵は午後より紀州に赴き江戸に帰るべきの命あり、尚志いわく、会津桑名の兵は皆紀州より乗船して江戸に至るべし、すでに和歌山藩に約する所ありと、当時我が藩士においても議論まちまちにして、あるいは大阪城によりて快戦せんとするあり、あるいは速やかに東下し我が公に謁して後再挙を図るにしかずとなすあり、あるいは又内府公、我が公すでに東下す残兵皆死すといえども遺憾なし、進んで奮戦し、もし事成らばただちに京都に入らんと主張する者ありて議論憤然たり、この外に伊賀を経て東下するの儀あり、倉澤右兵衛、田中八郎兵衛、柴太一郎いわく、我が兵連日苦戦してほとんど不眠不休特に疲労を極め、最早伊賀を経由すること能はず、且つ津藩の郷背疑なきにあらず、むしろ紀州に至りしばらく休ひて後東下するにしかずと、衆この議を賛成す、午時より幕兵大阪城を発す雑踏甚だし、我が兵夜半より東本願寺の本営を発せんとす、会々兵口或は京橋に来るの説あり、ある人いわく、寡兵をこの地に留めて徒死せしめんよりは、むしろ速やかに退くにしかずと議論沸騰す。
 時に我が兵金穀欠乏す、よりて諏訪常吉をして和歌山藩に至り、まさに我が兵の通過せんとするを告げ且つこれを謀らしめ、陸路大島に至りその地より海に航して三河吉田に至るまでの旅費を給せしむ、また和歌浦において若年寄永井尚志および勘定奉行小野広胖について幕府の金五千両を借る。
 これより先開陽艦長榎本武揚は戦況の可ならざるを見、かつ海軍の戦略を陸軍総督に告げんとして、六日の夜艦員尾形幸次郎、伊藤鐵五郎、我が藩士雑賀孫六を従えて大阪に上陸す、時に伏見、鳥羽、淀等の戦い利あらず、敗報しきりに至る、武揚憤慨して総督の本営に至り、議する所あり、この日早天大阪城に登るに、守衛の兵なく永井尚志、平山敬忠等の徒に密議するあるのみ、よりて其のゆえを問うに答えていわく、内府公以下昨夜深便密に城を出でて軍艦に搭すと、武揚茫然としてその為すなきを浩歎し、徳川家の運命これに尽くるを知り、慶喜公の室に入りて文書什器刀剣等を収めて軍艦に送致せしめ、まさに城を出でんとし勘定奉行小野広胖に会ふ、広胖いわく、金蔵に古金十八万両ありといえどもこれを運搬するの良法なきに困むと、武揚いわく、何の難き事かあらん余これを運搬すべしと、尾形幸次郎、雑賀孫六に命じ荷車五輛人夫若干を雇使して八軒屋に運搬せしむ、しかるにその量重きに苦み且つ戦争の起らんことを怖れて逃れ去らんとす、武揚怒って幸次郎、孫六をして刀を抜きてこれを督せしめ、もし肯ぜざる者はこれを斬るべしと厳命し、ついに三十石積の船に移して不二山艦に送るを得たりと云う。
 慶喜公の東下するに当り目付妻木多宮を大阪城に留めて上奏書を上り、かつ本城を尾州越前両藩に交付せしめんとす、多宮すなわち尾越両藩の大阪勤務の藩士を召す、尾州藩士はたまたま出でゞ邸に在らざりしかば会するに及ばず、越前藩士岡本晋太郎来る、多宮上奏書と親書とを交付し且ついわく、本城もまた共に交付了りたるものと心得べしと、晋太郎いわく、実に貴諭のごとし、しかりといえども尾州藩士未だ来らざれば今ただちにこれを受け難し主命によりて答ふべしと、すなわち馬を馳せて京都に至りてこれを慶永朝臣に示す、その上奏書並び親書左のごとし。

此度上京先供途中偶然之行違より近畿騒然に及候段不得止場合にて素奉対天朝他心無之段は兼て御諒知之通に候併聊たりとも奉悩宸襟候段恐入候に付浪花城は尾張大納言松平大蔵大輔に相托し謹て東退任候以上
 正月  慶喜


此度上京先供途中偶然の行違より近畿騒然に及候段不得止之場合にて素奉対朝他心無之段は兼て御諒知之通に候兵聊たたりとも奉悩宸襟候段恐入候儀に付謹て浪花城各へ相預退去帰東に及候間右之趣可然御執成御奉聞有之度頼及候
 正月七日  慶喜
  
 尾張大納言殿
 松平大蔵大輔殿


 薄暮に至りて尾州藩浅野辰蔵来る、晋太郎の上京を聞きてその帰阪を待ちて再び登城すべきを約して退く。
 正月六日山内容堂の密使坂井藤蔵、野村糺、東本願寺の我が本営を訪ひ、南摩八之丞、三阪市郎右衛門に面していわく、余等老寡君容堂の命をもって作五日京都を発し、奈良路を経て昨夜大阪に入り、今日早天城に登り永井尚志に面せんとしたれども能はず、よりて貴藩について幸に内府公の意を探るを得ば、容堂は中間に在りてその宜しきを制するを得べしとなし、余等をしてこれを詳にせんとするなり、よりて先づ三日以来の京都の形勢より陳べんに、客臘以来容堂建言の意達せず、薩長の専恣を憤り病と称して出でず、伏見関門守衛の命あるもあえてこれを受けず、ただ伏見市中巡邏の命は固辞すること能はず僅かに一小隊を出せしに過ぎず、三日は交代の期にして後の一小隊伏見に至り、前の一小隊未だ去らず故に二小隊在りき、伏見守衛の薩藩より我が兵に告げていわく、徳川および会桑の兵京都に入らんとするの説あり至らばこれを止めよ、もしあえて過ぎんとせば朝敵と号してこれを討ちぜよとの勅命なりと、容堂これを聞き驚きてただちに参内し、建言していわく、このごろの形勢非常を戒めんが為に各その分に応じて兵を率いるは虎り怪しむに足らず、臣容堂および諸藩皆然り何ぞ独り徳川氏にのみ兵を率いるを禁ずるの理あらんやと、時すでに兵を率いて関門を過ぐるを禁ずるの勅命下れり、しかれども朝廷よりその勅命未だ下らざるに先だち、伏見守衛の薩藩より勅命と称して我が藩の巡邏に伝えしはこれ一大怪事なり、かつ幕兵および会兵の通過を止め、その応接中薩長兵は我が兵の背後および両側に並列して、我をして退くこと能はざらしめ遂に砲戦におよぶ、仁和寺宮の容堂を召して軍旅のことは未だあえてこれを知らず、汝よろしく参画力をつくすべしとの命あるや謹みて固辞せるなり、今薩長の兵皆力を尽くして伏見鳥羽に在りといえども、在京諸藩の兵は皆観望してその意向一ならず、いわんや京都金穀弾薬に乏しく、兵もまた寡少にして僧侶をして禁闕を守らしむるに至る、速やかに大阪の大軍を挙げて京都を衝かば戦はずして事成るべし、もし内府公東下の事あらば天下の事止みぬ情状如何と、市郎右衛門、八之丞答えていわく、我が重臣および軍事官昨日城に登り未だ退かず、ゆえにその詳なることをしらず、貴諭の事は詳に重臣および寡君に告げて後答えんと明朝を約す、八之丞すなわち両士の説を藩相上田学大輔、内藤介右衛門、諏訪伊助に告げ且ついわく、幕兵、我が兵、桑名兵、板倉兵皆厳然として未だ退かず、速やかにこれを集合して京都を衝かば大事成らん、請う速やかに勇断せよと、三相いわく、幕兵は今未の刻より紀州に下り東帰すべく、我が兵もまた今夜半より発して紀州に下り東帰するの令すでに発せり、ゆえに士気沮裘し各帰心もっぱらにして一致奮進せしむること難しと、明朝田中八郎兵衛および八之丞土佐の両士に告ぐるに内府公以下東下の事をもってす、両士之を聞きていわく、事すでにここに至る如何ともすべからず、しかれど内府公の意、東下の後は恭順にあるかもしくは再挙にあるか、願はくはこれを詳にして容堂に奉ぜん、けだし容堂もまたこれによりて処するの策あらんと、八郎兵衛等答えていわく、内府公の心事は知ること能はずといえども、この後の処置如何に関わらず篤く公武の間を周旋せられんことを、余等の願う所なりと共に嘆息して別れる。{土佐藩のこの密使を我に遣したるも、また土佐藩が東軍に内通せしと云う風説の起こりし一原因なるべし。}

 この日山川隊に八日辰の刻城中の負傷者を中の島海軍所に送るべきの命あり、けだし雁木阪邸病院に在る負傷者およそ百人の看護にあたる者なく、諸隊皆本願寺の我が本営に至る、ゆえに城中に止まりたる山川隊、佐川隊および新選組にてこれが看護をなしたるによるなり、戍の刻頃また負傷者を堂島の我が藩蔵屋敷および八軒播磨屋に送るべきの命あり、これ汽船をもって江戸に送るの議決せるをもってなり、人夫は本願寺本営より送るべき約なりしにより、使いを遣わして呼びたれども一人も来らず、ゆえに山川隊、佐川隊の兵士にて中の島の埠頭まで護送すべく、途中もし敵兵に逢はゞ皆自殺するに決せり、山川大蔵隊士に傷者を護送し、ことごとく汽船に乗せ終わりて後、本願寺本営に帰るべしと命ず、これにおいて傷者を板扉あらいは竹駕等に載せ、兵士自ら舁きて堂島の我が邸および八軒におくる、夜半を過ぐる頃ようやく終わる。
 この夜広川元三郎傷者看護主任を命ぜられ、長谷川幸助これが属吏たり、また巨海源八郎、牧原源蔵、簗瀬武四郎、三浦重郎、両角千代治、杉浦太郎、萱野勢治、岸直次郎、神田小一郎、津川主水、西村延八、平田一郎、服部安次郎、今泉勇蔵、小櫃弥市等は傷兵を江戸に護送すべきの命あり、勢治、小一郎は城中より傷兵を板扉に載せ自ら舁きて堂島蔵屋敷に至り、大砲頭林権助の傷痍を慰問す、すでにして城辺り火起こる、、流言あり敵来ると、市中大に騒擾す、傷兵もまた大に憂慮す、ゆえに蔵屋敷に傷者を送りたる直次郎、勢治等議していわく、傷兵を舟に乗せて出すにしかずと、直次郎、勢治、小一郎並びに鈴木幸蔵川岸に至りて舟を索む、元来中の島には小舟を置くの約なりしに一隻をも見ず、たまたま市人家財を舟載して難を避くる者連接すれども、皆婦人のみにして舟在らず、特に夜間中のことにてすこぶる困難を極めしが、幸にして舟子の在る舟を発見し、直次郎等事情を語りて乗舟を懇請すれども、舟子は家財諸器を積載したるをもってこれに応ぜず、直次郎固く請う、舟子すなわち家財を他の舟に移し、直次郎等を乗せて堂島蔵屋敷前に至る、直次郎等厚くこれを謝しついに邸中の傷者を尽く舟に移すことを得たり、直次郎なお奔走して汽船に送るべき海舟を求めんとしたるも市人皆去りてあらず、よりて更に舟子を案内としてあまねくこれを求めたれども得る能はず、これにおいて直次郎止むを得ず先に乗る所の舟に帰りてつぶさに事情を語る、ために傷兵意気大に沮喪す、すなわち直次郎、勢治また出でゝ海軍所の宿舎に至り、吏に面晤し懇に汽船を借り入れんことを請う、吏いわく、職務の管掌は各定まれる所あり、汽船のことは余等の知るところにあらずと、直次郎怒りていわく、我が藩士の多く死傷したるは一に幕府のために奮戦したるに由れり、しかるに今この窮迫に臨みて何ぞその冷酷なるや、今この傷者を放棄して帰る所なくんば只死あるのみと辞色やや厲し、吏いわく、更に商議の後に答へんと内に入りたるのみにしてまた出でず、傍人いわく、この家は船戸なりと、すなわち主人を呼びて海船を雇わんことを謀る、主人いわく、川舟の運送を業とするのみ海船は我らのおよぶところに在らず、しかれども幸に幕府勘定奉行小野広胖在り海船の事を議するがごとし、しばらく待つべしと、入りてこれを告ぐ、良々久しうして広胖出でゝいわく、貴藩の士幕府のために奮戦して多く死傷す、感嘆に堪えず、我ら傷者船送の事は預かり知らざる所なりといえどもこの切迫の時に臨み傍観すべからず、今幕府歩兵の傷病者多くここに集まり発船を待てり、仮令この輩を残留するも貴藩の傷者は先つ汽船をもって江戸に送るべし、必ず憂ふることなかれと辞機気甚だ懇切なり、初め直次郎、勢治もし事ならずんば広胖を斬りて共に死せんと期したりしが、これを聞き感喜して厚情を謝し、なお懇に依頼して出づ、時に天すでに明く。
 八日朝直次郎、勢治馳せて傷者の船に帰り詳に広胖の厚情を語る、傷者皆大に喜ぶ、直次郎等いわく、山川隊長未だ本願寺の本営を発せずと聞く、早くこの事を告げざるべからずと、勢治、神田小一郎、簗瀬鐡馬、簗瀬武四郎、鋤柄主殿、鈴木幸蔵、本営に行きてこれを山川大蔵に告ぐ、大蔵すなわち直次郎、勢治、小一郎、鐡馬に傷者の看護を、武四郎、主殿には林権助を看護して江戸に赴くべきを命ず、組頭佐藤織之進いわく、広胖と分離せば事あるいは難きことあらん、直次郎、勢治行きて小野氏の寓に在るべしと、直次郎等すなわち酒肴をもたらしてこれに贈る、広胖その厚意を謝し待遇すこぶる懇切なり、直次郎等広胖に問いていわく、君は何故に留まるやと、広胖答えていわく、大阪の金蔵より古金四十万両をもたらし江戸に帰らんとす、傷者もし乏しきを訴ふればこれを貸興すべしと。
 八軒に送りたる傷者を汽船に移さんとするにまた船なくして大に困む、ゆえにこの日早天より諸人周旋してようやくに河舟十隻を雇いて傷者を移乗せしめ、余れる者は人夫をして舁かしむるを尚足らざれば、付属看護者皆自ら助け舁きて中の島に送る、看護者津川主水、今泉勇蔵、小櫃弥市等安治川橋下に下りて海船を求むれども得ること能はず、かつ舟子等は皆避け逃れて如何ともすべからず、よりて八軒より来れる津川主水、西村延八、岸五郎、平田一郎、服部安次郎、巨海源八郎、牧原源蔵その他外島機兵衛、大野英馬、南摩八之丞等も共に奔走し姫路邸、松山邸等に謀りてこれを雇い、ようやく我が藩の傷者百人許並びに新選組の傷者を河舟より海船に移し且つ傷者船中準備の金三百両を頒興す、この時榎本武揚来りていわく、昨日申の刻頃傷者を中の島に送るべきことを告げたりしに遷延このごとくなるは何ぞやと、直次郎詳に昨夜来の事を語る、武揚いわく、こと大に齟齬せり急に天保山に送るべし、我は城中を検査して帰艦すべしと、直次郎いわく、余は小野氏の許に至らざるを得ずと、武揚いわく、しからば子一人小野氏の寓所に到り、その他は急に天保山に到るべしと、武揚ただちに直次郎を己が舟に同乗せしめて広胖の寓に送り自ら城内に至る、黄昏直次郎は勢治、小一郎と共に広胖の船に同登して天保山に至る、会々大風起り船を進むること能はず、傷者の諸船も共に岸に沿ひて泊す、広胖および直次郎等諸人上陸し廠舎に入りて夜を徹す。
 九日武揚天保山に至り広胖と懇話し、かつ砲台に装置したる大砲の火門に釘を打ち弾薬のボイスを棄てしむ、この時我が傷者十余隻の小舟に乗り来り、あるいは汽船に移るもあり、なお天保山下に在るもあり、その中一隻齋藤興八郎および新選組合わせて十九人の乗りたるもの、泥沙に擱坐して動かず、時に敵兵の巡邏甚だ厳なりしかば舟中一同焦慮甚だしく、速やかに汽船に移らんと欲すれども如何ともする能はず、武揚、土方歳三と悠然として杯を挙げていわく、速やかに出船すべしと、すなわち四斗樽を並列して近傍にありたる幕府の歩兵一中隊を招きてこれを満飲せしめ、また袋中より金を出しこれを分興する事およそ五六百両、さらに歩兵に命じて膠船を出すこと能はずんばことごとく斬に処せんと躍りてその船に移る、歩兵等死力を出しついにこれを出すことを得たり、すなわち深海の岸に廻して上陸し歩兵も皆上陸せしめ、その船は馳せて傷者を正角艦に移乗せしむ、武揚すなわち司令に命じていわく、歩兵を率いて陸行し紀州に至るべしと、司令いわく、前途敵兵あらん願わくは船行せんと、武揚叱していわく、汝らすでに部兵を有し加ふるに兵器弾薬を有すること斯くのごとし、もし敵に逢はゞ撃破して過ぐべし、これ汝らの職なり、この船は傷者を江戸に送るものなり他は一人も乗すべからず、汝らもし陸行すること能はずんば速やかに逃れ去るべしと、司令唯々悚服して謝す、武揚ついに船を雇い歩兵を乗せて紀州に至らしめ、諸般の処分を終わりて小船に乗り富士山艦に移る、しばらくして傷者は正角、順動、富士山の三艦に分乗せしめて江戸に送る、富士山艦長は榎本武揚、正角艦長は柴誠一郎、順動艦には艦長を欠く、船中の人皆看護御歎接極めて懇切なりき。
 この日未の下刻ころ傷者ことごとく皆汽船に移る、小野広胖、広川元三郎等正角艦に乗る、岸直次郎は諸般の処理をなしたれば後れて正角艦に乗るを得ず別船に乗りて発す、風暴れ浪高く天保山沖に到り大に悩む、幸に汽船の来るありてこれに牽かれ兵庫に至り順動艦に乗る。
 申の刻頃に至るまでに三艦皆抜錨し共に兵庫に至り、繃帯用の白布および食品等を購はんとするも、土佐藩の兵守衛甚だ厳なりしかば、上陸を禁じ市人をしてこれらの諸品を船中に送致せしめてこれを購ふ、時に黄昏におよび富士山艦旗を挙げて信号をなす、よりて正角艦長柴誠一郎令して艦中の大砲を装填せしむ、けだし武揚時に兵庫にて戦備をなすを遠望し、もし夜間不慮の事あらば速やかに応戦せしめんが為なりしなり、これにおいて即夜戍の刻第一に順動艦抜錨し、正角艦これに次き富士山艦は後殿たり、船中小野広胖傷者を慰問し昼夜看護懇切に極む。
 正月八日尾州藩鬼頭健三郎大阪城に登り、昨日同藩士浅野辰蔵が目付妻木田宮より聴きたる所の趣旨を更に詳問し、急使を京都に馳せてこれを徳川慶勝卿に報ず、幾何もなくして辰蔵また登城し、健三郎と共に殿中天井の間にありて越前藩士岡本晋太郎が京都よりの帰阪を待つ。
 昨日総督大河内正質朝臣退城に際し、兵士の傷者は伴うこと能はずにより、看護の兵士を付してこれを城中に留む、城代牧野貞直朝臣の兵卒一隊これと合して八十八人許、粗暴過激の議論を主張しまさに暴発せんとす、目付田宮これを聞きて大に驚き理を尽くして説論す、時に城外青屋口火を失す、会々風烈しく火片城中に飛下し、まさに延焼せんとす、この紛擾に驚き、城中に放棄したる鞍馬裸馬あるいは逸走しあるいは踏齧す、傷者交って思えらく敵兵来り火を縦つとなし自刃する者あり、新選組の傷者村上清士もまた自刃す、田宮思えらくこの機に乗じてこれを城外に移すにしかずと、すなわち大声疾呼して看護者および牧野氏の兵卒に命じ、傷者を助けてことごとくこれを船場に退かしめ、わずかにこれを鎮定す、火もまた延焼せずして滅す。
 この時にあたり幕兵会津桑名その他諸藩の兵大阪を発し、紀州に下る者陸続相接す。
 正月九日朝廷は嘉飽彰親王に命じて大阪に次し諸軍を指揮せしめ、松平慶永朝臣の重臣を召して左の命を伝ふ。

慶喜東帰に付言上の趣被聞召候将軍宮御進軍華城を以て可為本陣被仰出候間両藩共に迅速下阪城中点検可奉迎旨御沙汰候事

但若々遅々候ては甚以御不都合に付呉々速に下阪可致事


 この日辰の下刻ころ大阪城外より大砲を発して襲撃する者あり、旧幕府目付妻木田宮従者をして斥候せしむ、たまたま城外青屋口再び火を発し、炎煙空を覆い延いて城外におよぶ、時に城中にある者は田宮および徒目付大山兼太郎、飯塚廉作、大阪町奉行支配調役金枝鐡太郎、尾州藩鬼頭健三郎、浅野辰蔵および田宮の従者一人のみにして如何ともすること能はず、会々斥候馳せ帰り報じていわく、長州の兵来り、まさに本城に迫らんとす、彼ら空城なるを知らざるによるならんと、すなわち飯塚廉作、鬼頭健三郎と共に鉄鞭に白布を結び大手門外に出でゝこれを振る、彼の兵これを望み発砲を止む、これにおいて二人進みていわく、本城はすでに徳川内府より尾越両侯に交付せり、しかれどもなお目付妻木田宮在り平穏に応接せよと、彼ら兵を城門外に止め参謀佐々木次郎四郎、坂井勉従者二人を従へて城に入る、田宮これを天井の間に迎えて来意を問う、彼らいわく、勅命を奉じて本城を攻撃せんとす、田宮いわく、徳川内府の命により将士はすでにことごとく退き本城は尾越両藩に交付すと、慶喜公の上奏書の草稿並びに尾越両侯に贈るの親書を示す、佐々木等これを領し尾藩の両士と応接す、たまたま城中石の間の方位に一大爆発音あり、また南方二所に声あり、俄然三方より火を発し一瞬間に四面猛火の覆う所となる、皆衆驚き馳せて正門内の衛舎に避く、ある人いわく、城中簿冊兵器貨弊等の諸物縦横紛乱を極む、ゆえに田宮あらかじめ硝薬を填し時期を計りて火を縦ちしなりと。
 外島機兵衛、大野英馬、南摩八之丞、諏訪常吉等、津藩山田勘右衛門が家に潜匿せしが、敵の捜査厳にして毎家検査をなす、ゆえに潜匿に便ならず、しばらくこれを避け再び出阪せんと欲し、土佐堀姫路邸に至り星野乾八に謀る、乾八いわく、余等皆邸内の諸物を船載してまさに国に帰らんと、子等乗船して姫路に来れ、余は陸行せんと、機兵衛等すなわち乗船す。
 正月十日朝廷徳川慶喜公以下の官位を削る。

徳川慶喜

松平肥後守

松平越中守 定敬(元所司代、桑名)

松平讃岐守 賴聰(高松)

松平伊予守 久松定昭(伊予松山)

板倉伊賀守 勝静(老中、高梁)

松平豊前守 大河内正質(老中格、大多喜)

永井玄蕃守 尚志(若年寄)

平山図書頭 敬忠(若年寄並兼外国総奉行)

竹中丹後守 重固(若年寄並兼陸軍奉行)

塚原但馬守 昌義(若年寄並兼外国奉行)

戸川伊豆守 忠愛(大目付)

松平大隅守 信敏(大目付)

新見相模守 正典(目付)

設楽備中守 能棟(目付)

榎本対馬守 道章(目付)

牧野土佐守 成之(歩兵奉行並)

岡部備前守 寛次(目付)

大久保主膳正 忠恕(陸軍奉行並)

小栗下総守 政寧(勘定奉行)

星野豊後守 成美(勘定奉行並)

高力主計頭 忠長(陸軍奉行並)

小笠原可内守 長遠(京都見廻組)

大久保筑後守 忠常(目付)

大久保能登守 教寛(奥詰銃隊頭)

戸田肥後守 勝強(陸軍奉行並)

室賀甲斐守 正容(側用取次)


右今度慶喜奉欺天朝反状明白致し兵端を開侯に付追討被仰出依之右の輩隨賊徒反逆顯然に付被止官位候事

松平肥後守

松平越中守

松平伊予守

板倉伊賀守

松平豊前守


右慶喜同意返逆顯候間屋敷悉被召上残兵追放被仰出候事

但残兵敵地へ可相送事□


酒井若狭守(小浜)

戸田釆女正(大垣)

稲垣平右衛門(鳥羽)

松平伯耆守(宮津)

内藤備後守(延岡)


右不審の次第有之候間被止入京候事

 山内豊信朝臣、伊達宗城朝臣、浅野長勲朝臣等は朝議の朝敵を以て徳川家を待ち、また江戸における薩邸の砲撃を私闘と見なすを憤り、いやしくも議定の重任を汚しながら、かく重大の謀議に一言の相談もなきは、在職の詮なしと各辞職を請い、慶勝卿、慶永朝臣もまた周旋の功なく開戦に至れる罪を引いて辞表を提出せしが、朝廷慰撫してこれを許さず、また仁和寺宮に征討大将軍の命ありし時、豊信朝臣を以て副将となさんとしたれども固辞して応ぜず、宗城朝臣は仁和寺宮に説きて、両道(伏見鳥羽)の開戦は畢竟徳川家と薩長二藩との感情の衝突にて、徳川家は朝廷に対し奉りて反意あるものにあらず、速やかに止戦の勅使を発して曲勅を明らかにし、公論を以て決し給うべしと論じたるが、折りふし京軍の勝利の報伝わりて、列席の総裁、議定等耳を傾けざりければ、宗城朝臣は憤りてまた参謀の内命を辞したり、右の事柄により在京有為の諸藩が伏見の一挙に関し、如何なる感想を有せしかを知るに足るべし。






卷二 伏見鳥羽の戦  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/10(月) 11:43:58|
  2. 会津戊辰戦史1
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開戦

開戦

 さても阪軍は正月二日大河内正質朝臣を総督とし、若年寄並塚原昌義を副とし、我が藩兵は田中隊、上田隊、生駒隊、堀隊、大砲隊二組、別選組、諸生隊並に我が藩付属せる新選組にて、桑名、大垣、浜田、高松、鳥羽の諸藩兵にして水陸並び進み淀に至る、明くれば三日大目付滝川具挙は慶喜公の薩藩弾劾の上奏書を持し、佐々木只三郎が率いたる見廻組に護衛せられ、鳥羽街道より進んで上鳥羽に至る、しかるにその時先駆けは四塚の関門に至れるが、関門を守れる薩兵拒んで入れず、応接数回に及びたるも守兵固く執つて応ぜず、具挙止むを得ず淀に向かって退却す、この街道を進み來れる阪軍は大久保忠恕が兵を主力とし桑名兵を先鋒とし新選組、大垣兵等これに属す、具挙はこの大部隊と供に再度京都に向かう、この時薩兵は上鳥羽まで進軍せるに、見廻組の士をして徳川内府上奏のため上京する旨にて再三交渉せしも、薩兵応ずる色なく、ついに申の下刻頃に至り薩兵より発砲す、これぞ戊辰戦争の第一砲声なりき(戦の始まりしは下鳥羽の北方赤池と、上鳥羽の南方小枝の間なるおせき茶屋付近なり)、これにおいて佐々木只三郎令を下し部下をして齊しく進ましむ、隊士皆槍剣をふるって敵に迫る、敵兵大小銃を発し弾丸雨注し隊士を多く死傷す、俄然吶喊の声起こるや具挙の乗馬これに驚き、南方に狂奔し後隊を蹂躙す、撤兵隊の将校驚き馬と共に走る、後軍敵を見ずして前軍の崩るゝと共に兵杖を棄てゝ狂奔す、只三郎隊士に令して銃を拾い弾を帯び、桑名兵、窪田備前守が歩兵等と再度敵に迫る、戦うこと数刻亥の刻頃至り決定的の勝敗なく戦地を去る。
 陸軍奉行竹中重固はその率いる幕兵を主力とし我が藩兵を先鋒とし、浜田、高松、鳥羽の諸藩の兵を統卒して三日淀を発し伏見に向かう、重固先つ書を薩土二藩の営に贈り、今般徳川内府入京致さるゝに付きては、先供の人数並びに会津、桑名とも通行するによりこの段申し進ずとの意を通じたるに、薩土の諸藩は朝廷に伺い何分の御沙汰あるまでは差し控えらるべしとてその準備を拒めり、しかるに申の下刻におよびて鳥羽街道において砲声雷のごときを聞き、戦端のすでに開かれたるを知り、伏見の我が軍士気俄かに上がり、京軍先つ砲声を開始し我が先発の隊を撃つ、我が藩の大砲奉行林権助、{林権助の率いたる大砲隊の組織次のごとし、隊長大砲奉行林権助、組頭三名中澤常左衛門、佐藤織之進、小原宇右衛門、甲子と称する士分七十一名、寄合組と称する徒級の侍二十七名、足軽小頭一名、足軽二十六名、目付一名、徒目付一名、医師一名、計百三十二名とす。}年六十余にして長髪白麻の如し、大に怒って号令を下し大砲三門を発射してこれに応ず、その距離わずかに数間に過ぎず、権助令して槍を入れしむ。{槍を持して突撃するを云う、武道の術語なり。} 衆奮進弾雨を冐して戦う、彼は地物により我は然らず、組頭中澤常左衛門弾に中りて先つ倒れる、我が兵死傷少なからず、権助隊士に命じて援を陣将に請はしむその所在を得ず、番頭生駒五兵衛隊に至り急を告げて援を請う、五兵衛陣将の命にあらずんば兵を動かすべからずとて助けず、権助いわく、この地一歩も退くべからず一死君恩に報じ芳名を千載に留めよと大小砲を発射し再び令して槍を入れしむ、衆殊死して戦う、京軍の砲弾下ること雨のごとし、別選組頭佐川官兵衛、{別選組の編成次のごとし、隊長番頭格兼学校奉行佐川官兵衛、組頭二名、依田源治、小櫃守左衛門、甲子およそ四十名、外に変を聞いて登京せし江戸の書生三十名、計七十余名なり、この隊は鉄砲を有せる者甚だ少なく多くは槍を携えたるのみなりき。}
 番頭上田八郎右衛門および新選組これを援く、会々伏見の市街に火起こり火光我が軍の背後を照らし人影算すべくほとんど死地にあり、この時別選組々頭依田源治敵弾に当りて死す、権助泰然として指揮し死傷半に過ぐ、この時浜田の藩士伊藤梓、同藩士四十名を率い来りて権助に告げていわく、恨むらくは我に銃なくして援くること能はざるをと、権助すなわち死者のに銃を取りて贈る、梓ら奮闘して多くこれに死せり、たまたま一丸来り権助が面を掠めて去る、顔面焦黒となり全身重傷をこうむる前後三たび復た起つこと能わず、しかも踞してなお号令す、隊士これを負ひて退く、権助いわく、戦線を去りて余を助くることなかれ、進撃して敵を破るべしと、組頭佐藤織之進、同小原宇右衛門共に負傷したれども残兵を励して奮戦せるが砲車破砕して復た用をなさず、しかして将長多く死傷す、ついに火を伏見奉行邸に縦ち、子の刻退いて淀に陣す。
 この日我が大砲隊長白井五郎太夫、{白井五郎太夫が率いたる大砲隊の組織次のごとし、隊長大砲奉行白井五郎太夫、組頭三名、海老名郡治、松沢水右衛門、小池勝吉、甲子と称する士分七十三名、寄合組と称する徒級の侍二十七名、足軽小頭一名、足軽二十三名、目付一名、徒目付一名、医師一名、計百三十一名とす。}兵を率いて将に竹田街道より入京せんと京橋を渡り伏見町へ入る、行くこと数丁にして土佐藩の兵これをさえぎり止めていわく、別路ありこの処を距る遠からず、弊藩警備以外の地なればあえてこれを拒まずと、その路を進まんことを教えたるがごとくなりき。

{土佐藩阪軍に内通の疑惑も、土佐兵のこの時の挙動が一因となりしがごとし、けだし土佐藩はこの戦を会桑と薩長との私闘となし、中立の態度を取れるなり。} 

 よりてその別路より進む、畔路挟隘にしては大砲を曳くことを得ず、三門の大砲を遺棄し四人にて一門を運搬して進み、迂回して土佐藩陣地の背後に出て、薩邸を襲撃して火を放ち竹田街道に進む、たまたま伏見街道の林隊戦い利あらず、命あり白井隊伏見の町端に退きついに兵を淀に収む、この日伏見方面において高松兵、岡崎兵善く戦いたりと云う。
 この夜子の刻鳥羽街道の京軍、阪軍を襲う、阪軍狼狽し兵杖を棄てゝ走るものあるに至る、幕府の歩兵頭窪田鎮章、歩兵頭並大澤顯一郎等これを見て憤然として咄嗟衆を励まして進撃す、京軍大に乱れほとんど支えざらんとす、会々京軍の別隊阪軍の左翼を撃つ、阪軍また乱れついに退き淀に陣す。 
 正月四日阪軍大挙して伏見鳥羽両道より進撃す、京軍あらかじめ兵を鳥羽街道の竹草中に伏す、鳥羽の阪軍銃を集めて乱射しその勢い甚だ鋭し、たちまち伏兵竹草中より起り阪軍を撃つ、本道の京軍かつ戦いかつ退きしが、反戦して烈しく阪軍の前隊を撃つ、阪軍倒るゝ者多し、終に全軍潰乱す、幕府の歩兵奉行並佐久間信久は敗兵を収めて再び戦わんとしたれども及ばず、これにおいて信久は従者澤田鍈太の携えたる銃をとり自ら伏兵の指揮官を狙撃せんとす、会々京兵竹草中より信久を連撃する数発、信久丸に当りて馬より落つ、この時歩兵頭窪田鎮章も一隊の兵を励まして乱車の中に入り、縦横豨突して死す。{佐久間信久出陣の時より馬側に在りし従者を澤田鍈太と云い長州藩の間諜なり、彼信久が傷を被りて死するにあたり良く看護し、頭髪を刈り厚く遺骸を葬りさりて行く所を知らず、維新の後その頭髪を信久の遺族を送れりと云う、間諜には実に稀有の所為なりとす、これによりて信久が仁義に厚くかつ勇ありしこと推して知るべきなり、信久が兵は歩兵第十一連隊、窪田が兵は歩兵第十二連隊の内の一大隊なるが、共に大阪地方にて募りたる者なり、兵の内には敵の廻はしものありて、両将は味方の丸にて戦死すると云う噂高かりき、鎮章は西国郡代窪田治部右衛門の長子なり、始め泉太郎と称す、父治部右衛門は久留米藩の人なるが、かつて人を害し肥後に遁れ、また熊本にても人を殺害し、江戸に走り徳川家黒鍬方の株を買い、才幹ありしをもってついに西国郡代(布代)に任ぜられる、泉太郎資性勇武、沼間慎次郎、古谷佐久左衛門等と交わり深かりきと云う。}
 辰の刻伏見の方位に砲声あり、我が藩田中八郎兵衛、{幌役(ホロヤク)なりしならん、幌約は軍事奉行すなわち参謀長の属僚にて参謀のごときものなり。}
 斥候せんと淀の市外に進むこと五六丁余り、たまたま幕府の歩兵伏見より陸続き相接す、八郎兵衛怪しみてこれを問う、答えていわく、隊長の命により退去すると、八郎兵衛驚きて本営に復命せんとす、たまたま竹中重固に遭いてこれを告ぐ、重固怪しみていわく、ひいて退去を令せずと、馳せてこれを止むれども従わず争いて淀に至る、重固もまた已むことを得ず淀に至る、八郎兵衛走りてこれを我が陣将田中土佐に告ぐ。
 この時総督大河内正質朝臣、竹中重固等議して宇治を廻り京軍の本営桃山の背後より進撃するの策を決し、これを我が藩白井隊に命ず、巳の刻頃白井隊進んで田中土佐が陣前を過ぎり淀の市外に向かう、八郎兵衛、五郎大夫等が後方より至るに遇う、八郎兵衛怪しみ問いて始めてその実を知る、すなわち我が藩の芝太一郎、広川元三郎等と共に白井隊を止む、諏訪常吉馬を馳せてすでに進みたる白井隊を止む、五郎大夫すなわち太一郎、元三郎、幌役林又三郎等と本営に至り、白井隊を援くるの兵あるか否かを問う、重固いわく、無しと、元三郎議していわく、孤軍を深く進むるも兵寡して少なくして敵を破るに足らずと、会々鳥羽の戦敗れ大兵退去し来る、重固いわく、鳥羽の戦急なり請う宇治を措きて鳥羽の軍を助けよと、白井隊すなわち鳥羽に向かう時未の刻なり、小橋に至れば幕兵伍を乱して退去す、白井隊勇気凛然その中央を爆進す、京軍勝ちに乗じて淀近辺に進み来りて砲を発する事すこぶる激し、白井隊これに応戦し進んで淀市外に至る、近辺平田蘆葦繁茂し防戦に便ならず、京兵忽然と密竹中より発砲す、我が兵退くこと一丁許、五郎太夫、組頭小池勝吉、遠山寅次郎等止まり戦う、この時京軍援兵加わり砲撃の猛烈始めに陪せり、我が兵もまたこの地を墳墓とせん事を期して奮戦す、佐川隊、堀隊、林隊来り、助けしかば京軍辟易して乱れる、五郎太夫すなわち大声衆を励ましていわく、死して君恩に報ずるはこの一挙にあり進撃せよと、伊東覚次郎その声に応じて第一に進み、刀をふるって突入す、吉川次郎もまた進みて敵兵を斬る、我が兵屍を越え槍刀をふるって進撃し、竟に本道および密竹中の京兵を銃撃す、京兵大に敗れて潰走す、我が兵追撃して下鳥羽に至る、たまたま本営より兵を収むるの令あり、この戦勝により士気の昂ぶりたる幕兵の援軍を発したらんには、戦敗の為意気沮喪したる京軍を長駆して京都に入るを得べかりしに、何の意味なき収兵の令を発したる我が本営の意こそ不審なれ、我が将士はこの令に憤慨したれども力及ばず淀に向かって退却す。
 すでにして伏見街道にある幕兵及び林隊は、とうに鳥羽に向かって大砲を発射す、けだし京軍の援を絶たんが為なり、その砲弾白井隊の頭上に破裂す、且つ糧食乏しきが故に田中八郎兵衛、諏訪常吉淀に至りて伏見街道の砲撃を止め、本営に至りて糧食を送らんことを謀り併せて援を請う、しかる後再び胸壁に至れば我が兵すでに勝ちを得て壁外に進撃す、淀にある幕兵この勝ちを聞きて先を争いて進み来る、白井隊は皆白足袋を履いて標識となす、幕兵の歩兵等嘆賞していわく、勇なるかな会津の白足袋隊と、竹中重固我が将士に言っていわく、今日貴藩奮戦大に労せり宜しく帰休べし、これに代ふる幕兵一大隊をもってし且つ前方の竹草中に兵を伏すべし請う憂うることなかれと、白井隊士いわく、この地の防守は必ず我が隊に委せられよと重固固く執っていわく、戦は今日のみにあらざるべし卿等疲労す淀に至りて休息せよと、白井隊士いわく、この胸壁に二中隊を置き前方十余丁に一中隊を置き、またその前方に一小隊を出し路傍の竹草中に伏を設けよと、重固いわく、哨兵を用うるは自らその法あり卿等憂うることなかれと、歩兵頭秋山下総守もまたいわく、幕兵一大隊および大垣藩の兵を出し路左の竹草に兵を伏せ路右の蘆葦は焼き尽くして厳守せしめんと、我が隊士すなわち議していわく、上田隊は今日淀に在りて戦に会せず、よろしくこれを第一に進め河畔の胸壁を固守し堤下の村家に屯在せしむべし、第二堀隊、第三白井隊と決し、これを竹中重固に告げ、白井隊、堀隊、佐川隊は淀に至りて休ふ、すでにして堤畔に在りし幕府の歩兵退いて淀に至る者陸続き相接す、我が兵これを止む、彼らいわく、隊長の命なり背くべからず、再び進むべきの命あらば進むべきも一たびは退かざるを得ずと、上田隊は申の下刻を過ぐる頃、鳥羽街道に至り、淀の街端に屯し、前方八丁許の地点に守兵を置きて厳守す。
 始め竹中重固の言によれば、鳥羽街道の竹草に大垣兵を伏せしめるの計策なりしなり、しかるに大垣兵在らずして却って薩兵の占めむる所となり、戦うに及んで伏起こり銃丸阪軍の中堅に注ぎ死傷多く、ついに幕兵敗れて退き我が兵もまた大に苦戦す、しかれども白井隊能く奮戦し佐川隊これを助けて竟に大に勝を得たり、佐川官兵衛、竹中重固を見ていわく、軍機このごとくならば戦勝期し難し、旗本兵多しといえども決死勇闘すること我が兵のごとくならず、予は伏見の敵に当らんも徒歩あるいはその機を失わんことを恐る願わくはその乗馬を貸せと重固うなづきその馬を贈る。
 午後京兵八幡の方面に廻らんとす、淀本営より田中土佐隊、生駒五兵衛隊に命じてこれに備へしむ、八幡は松平伯耆守の兵の守る所にしてその兵寺院市家に充つ、手代木直右衛門周旋してわずかに田中隊を寺院に生駒隊を市家に宿せしむ。
 この夜佐川官兵衛少数の兵を率いて、伏見街道淀を距ること半里許に篝火を焚き巡邏を厳にす、たまたま幕兵俄然驚擾し叫びていわく、京兵舟を棹して下るとよりてしきりに銃撃す、佐川隊士行きて之を観れば、燼余の大木河水に浮沈して流れ下るなりき、同夜幕府官兵衛に命ずるに、幕府の歩兵築造兵および大銃手一部を統率指揮すべきことをもってす、よりて幕府の歩兵をして淀川前岸の蘆葦中に伏せしむ、けだし明旦京軍もし襲撃せば側面より銃撃せんとせるなり、また明日日幕兵を部署して防戦すべき所の地理を視察し終夜巡邏を厳にす。
 夜半慶喜公目付遠山金四郎を淀に遣わし、白井隊、堀隊、佐川隊、林隊の将士を慰労す。
 我が公近侍浅羽忠之助、加藤内記を戦地に遣わし陣将田中土佐以下の将士を慰労す、忠之助、内記三日亥の刻馬に鞭ち発す、未だ守口に至らざるに大場小右衛門に逢い伏見苦戦の状を聞く、途中傷者を後送し来ること甚だ多し、八幡に至り田中土佐に逢う、すなわち公の命を伝へ且つ戦状を問う、一柳四郎左衛門、木村兵庫傍に在りていわく、幕兵振はず敗因を来せり、ゆえに幕兵に依頼せず、我が兵は八幡を守り、桑名藩兵は山崎を守りて防戦せざるべからずと。
 すでにして忠之助、内記馬を馳せて淀に向かう、淀より退く兵士雑遝す、淀小橋に至るに弾丸しきりに来る、番頭上田八郎右衛門兵を率いて橋畔を守る、すなわち公の命を伝え馬をこれに繋ぎ鳥羽に向かう、途に組頭海老名郡治に逢い共に行く、沿道幕兵一人を見ず独り我が兵処々人家によりて銃撃するのみ、また番頭堀半右衛門に逢いて公の命を伝ふ半右衛門いわく、余未だ一戦せずこれより戦わんと兵を率い弾丸雨注の間を突貫す、郡治、忠之助等もまた共に進む、砲丸しきりに至ゆえにしばらく民家に避けて間を持つ、郡治いわく、余は公の命を五郎太夫に伝えん子は他隊に向かうべしと、忠之助諾して原路に復る、佐川官兵衛を率いて進むに遇ふ、すなわち公の命を伝ふ、官兵衛いわく、我が隊はこれより進んで槍を入れもって敵を破らんと、忠之助淀に復る、見廻組頭佐々木只三郎に逢い言いていわく、鳥羽の戦場には我が兵の在るのみ、幕兵皆退くは何ぞや子それ力を尽くしこれを進めよと。
 帰途総督大河内正質朝臣、陸軍奉行竹中重固に逢う、二人いわく、内府公敗軍を聞かば東下の命あらんも知るべからず、願わくは貴藩公力を尽くして諌止せんことを、また永井尚志にも詳にこの事を告げよと、忠之助等諾して復た発す、行く々々幕府の騎兵に逢う、皆我が兵の勇敢なるを称していわく、昨夜伏見の戦いに京兵と火稲との囲む所となりほとんど死地に陥りしが、貴藩兵士の奮戦により生きて還ることを得たりと。
 忠之助、内記の大阪に還るや、京橋辺り市民家財を船戴して逃れ紛擾甚だし、亥の刻頃登城復命す藩相萱野権兵衛いわく、幕府の騎兵帰り報じていわく、伏見方面の我が軍は籐の森に至り大砲二門を装置し、鳥羽方面は東寺に至ると、殿中皆これを賀すその実況果たして如何と、忠之助いわく、しからず陣将田中土佐は八幡に退き、幕兵は伏見街道淀の前方橋畔に退き、鳥羽街道は我が兵淀の前方に進みて戦う、堀半右衛門隊、佐川官兵衛隊等は槍を入れて奮戦せり、しかりといえども幕兵淀より退きて八幡方面に至る者相接す、かつ死傷すこぶる多しこれ方略宜しきを失うの致す所ならん、このごとき大兵を一方より進めたるは策の得たるものにあらず、唯京兵の標的となれるのみ、兵を各所に部署しあるいは側面あるいは前後左右より進撃すべきなり、敵は薩長のみその他多くは観望を事とするに過ぎず、方略宜しきを得ば必勝を期すべしと、すなわちこれを審に我が公および松平定敬朝臣に陳す、我が公いわく、しかり善く熟考せんと、戸田肥後守もまた戦況を聞かんと欲す、これにおいて忠之助、内記、小野権之丞と共に陸軍局に至りてこれを陳ぶ。
 慶喜公四日の朝をもって大阪の薩邸を討伐すべきを命ず、けだし京都大阪の薩邸および兵庫碇泊の薩艦を討伐せんとするなり、前日我が藩丸山房之進大阪の薩邸を偵察す、家財を船戴して遁逃せんとするの状あり、即夜これを討伐すべきを論ず、しかれども我が兵は固より幕府に従いて四日の早天を期するが故に、今すみやかに変更すべからずと為し議ついに行われず、三日の夜半幕将天野加賀守および塙健次郎、吉田直次郎歩兵を率い大砲二門を曳かしめ薩邸に向かう、我が陣将、{正規兵以外に丸山隊、町野隊を編成しこれを一陣となし、家老上田学大輔をもってその陣将となせしり。}家老上田学大輔、丸山鎮之丞、江戸学校奉行町田伝八隊兵を率いて従う。
 初め我が陣将の出ずるを議す、学大輔ふるっていわく、我が年老い国家に尽くすの日なし請う自ら行かん出てこれに従う、全兵玉造口城外陸軍所に集合す、幕府酒を賜いてこれをねぎらう、四日寅の刻頃西方に火光を望み皆憂慮して言へらく、本願寺の我が本営ならんと、けだし薩人土佐堀邸を焼きて遁逃せしなり。
 されば丸山隊、町田隊の幕兵と共に土佐堀邸に向かうや、すでに邸を焼きて逃亡せる後なりき、しかして一方上田学大輔は諸兵を率いる、幕兵一小隊と共に立売堀の邸に至るに邸中また人を見ず、入りてこれを検するにこれまたすでに遁逃し唯灯光螢然枕衾依然たるを見るのみ、すなわち倉庫を封鎖し、百聞堀の邸に至るにまた一人なし、杯盤狼藉爐火未だ燼せず行李山積す、午前諸兵各陣営に帰る

 また回陽艦長榎本武揚、回天艦長柴静一郎、順動艦長某に命じて兵庫碇泊の薩艦を撃たしむ、各艦馳せて進撃す、薩長皆遁逃す、唯一艦を阿波の海岸に追跡してついに撃沈したり、あるいはいわく、この薩艦は去年十二月江戸品海より遁逃したるものなりと。
 正月五日黎明京軍伏見鳥羽両道より進んで淀の阪軍を撃つ、我が上田隊淀橋を隔てゝ防戦すといえども、京軍の砲撃甚だ急にして我が隊士死傷する者多し、隊長上田八郎右衛門衆を鼓舞すれども、路は唯一条左右皆深溝にして進退に便ならず、幕軍大川正次郎、滝川充太郎、伝習隊を率いて善く戦い淀の城外にある者これに応ず、この時佐川官兵衛槍隊を蘆葦に伏し更に銃手を出し挑戦す、京軍伏しあるを知りて進まず、長州振武隊将石川厚狭介いわく、危を視ていやしくも避く笑を取るを如何と、すなわち銃手数人を率い挺前して之にあたる、衆ふるっていわく、大将を敵に遺するなかれと先を争いて進む、阪軍の一隊退くこと三丁許、我が藩の槍隊左右に起こり、縦横に京軍の中堅に突撃し隊将石川厚挟介等を倒す。
 白井隊淀に在り、朝餐を伝えんとするに当りたまたま鳥羽の方位に砲声起こる、よりて上田隊を助けんと、左手に銃をとり右手に握り飯をつかみ且つ食い且つ馳す、京軍砲銃および散弾を発すること雨のごとく本道を進むことを得ず、あるいは堤下を進みあるいは人家に潜み且つ戦い且つ進む、堀隊もまた淀に在り、砲声を聞きただちに馳せて上田隊を助け、淀街道の人家に潜みて射撃す、京兵昨日敗衂辱をそそがんと、一斉に来り迫り猛烈前日に倍す、我が兵もまた奮激豨突あるいは進みあるいは退きあるいは死して戦う、散弾は屋根瓦を破り竹木を折り勢い甚だ盛んなり、幕兵大砲曳きて退く、我が藩大砲隊の組頭松沢水右衛門等追いてこれを止め、水右衛門大声に叱咤して砲門を奪う、白井五郎太夫大に怒っていわく、この地敵の破る所とならば何の面目あって世に立たんや止りて奮戦せよと、組頭小池勝吉声に応じ衆に挺んて健闘して死す、上田隊の組頭中根幸之助もまた衆に先ちて奮進し、縦横に馳駆し衆に令して槍を入れしむ、隊長上田八郎右衛門、隊長堀半右衛門もまた共に采配を振り、大声進撃を令し槍を入れしむこと三たび、しかも京軍の連弾甚だ烈しく、一丸幸之助ほ貫く、幸之助辱を貽すべからずと叫び刀を抜き咽喉を刺して死す、飯田初次郎首を馘す、堀隊の組頭三宅八次郎衆に先だちて進み、令する時また弾にあたる後刀を抜いて自刎す、かく隊長死傷し隊士もまた死傷する者多し、五郎太夫すでに傷をこうむるも顧みず、自ら砲を発して衆を励ましついに重傷を負う、隊士これを後して淀の病院に移す、途幕府の目付田中林太郎来りて慶喜公の命を五郎太夫に告げていわく、昨日の激戦捷を得た万悦の至りに堪えず、褒賞は汝の欲する所ごとくせんと、五郎太夫痛苦を忍び謝辞を述べ終りて瞑す、白井隊組頭海老名郡治、同松沢水右衛門もまた重傷を被り、その他我が兵多く死傷す、白井隊目付遠山寅次郎および白井隊士なお止りて砲戦す、京浜の勢最も鋭し、我が兵散兵に展開して横撃せんと、堤を下りて蘆葦の間に入りて銃を発す、背後二三丁にある我が兵しきりに大砲を発す、その弾あたかも頭上に破裂す、伏見街道の阪軍もまた敗れ、京軍所々より潜に淀に入り、大砲銃を乱射す、市中火起こる、我が兵腹背敵を受け進退維れ谷に皆殊死して戦うといえどもほとんど支えず、会々大垣藩の兵一中隊許吶喊して馳せ来り援く、我が兵激戦数日且つ疲れ且つ飢ゆ、大垣藩の兵一時奮戦すといえどもたちまち退ぞく、我が兵ようやく退却し、なお路傍の人家に伏せて戦う、後高松藩、松山藩の兵来り援くれども支えず、諸兵皆敗れて淀橋を過ぎて退ぞく、時に未の刻頃なり、死者は多く淀の寺院に葬り傷者は一柳幾馬等周旋して運糧の船に載せて大阪に下す、白井隊士等再戦してこの耻辱をそそがんと、淀の城濠に下りて銃を洗う弾丸連りに注く。
 この日早暁淀大橋の前方より外島泰助淀の我が軍局に来りいわく、京浜伏見街道より来り迫り速やかに幕府の援を請うと、田中八郎兵衛馳せて本営に告ぐ、帰途堤に砲声の起こるを聞く、伏見堤は別選組、新選組、幕府の砲兵隊を先鋒とし林隊これを援く、松田昌次郎等小林繁之助をして林隊の組頭小原宇右衛門に出兵を促さしむ、会々宇右衛門悠然として鏡に対して自ら梳る、かえりみていわく、急迫にすることなかれ、しばらくして諸兵と共に発す、けだし宇右衛門死を期し髪を梳りて容儀を整えしなり。
 佐川隊および林隊京軍の陣地をへだてる事三丁許に吶喊して路の中央に進む、京兵大砲を発して拒ぐ、我が兵これを避けて左右の堤影に分かれて応戦す、この地点は淀の市外二丁余りなり、京兵発砲殊に烈しく殺気天を衝く、佐川官兵衛大にふるって槍を入れしむ衆皆争い進む、我が兵多く死傷す、隊士金田軍助、望月新平淀をへだてる事四丁許に進み松樹の影により京兵の来るを待つ、京兵我が兵の奮進して槍を入れるゝを恐れ皆辟易して退く、長州藩の教導官某小旗をふって衆を励まし逃るゝ兵を斬りて来り進む、軍助、新平踴躍して進む、軍助傷を被る、新平ただちに進み槍をふるひて教導官を刺し、その首級と小旗とを得たり、これをこの日の一番槍とす。
 伏見方面長州の隊長某年十八善く兵を指揮す、隊兵皆髪を伐る、けだしもし敗衂せば衆皆生還を期せざるを誓いしなり。
 官兵衛ますます勇をふるい刀を抜きて指揮す、たまたま銃弾側面より目を掠めて傷く又胸に当る、時に官兵衛胸甲を貫くゆえに傷かず、また弾丸佩刀に当たりて刀折る、組頭小櫃守左衛門代わりて指揮す、士卒皆奮戦傷者をかえりみず屍を越えて争い進むゆえに多く死傷す、すでにして守左衛門もまた左肩を傷く、在竹五郎太、林治助等大砲を曳きて弾丸雨注の間を直進し京軍に接し発射す、その勇敢人をして驚かしむ。
 組頭小原宇右衛門林隊の残兵を指揮し衆に先ちて戦う、勇気凛然重傷を被ること二たび、もって今朝自ら梳るの決心を明らかにせり。
 京兵あるいは淀川を渡りあるいは松樹に寄じ竹草中に潜匿して烈しく銃を発す、我が兵ほとんど支えず、幕府の大兵淀より来るも進んで戦わんとするもの僅かに三十人許、土方歳三新選組三十人許を率い路の中央を猛進せしが、京軍の銃勢烈しければ左右の堤影に分かれ我が兵に合して戦う、時に幌役林又三郎路の中央に踞し、銃をとりてしきりに戦いしがまた銃丸に傷く、すなわち自ら咽喉を刺して死す。{関ヶ原の役に、鳥居家の臣林権之助子息同又三郎伏見城において死す、その子孫会津家に仕え権助安定に至る、安定はこの役に傷き東帰の船中にて死し、又三郎は戦死す奇遇と云うべし。}
 彼ら共に進むことを得ず各陣地によりて戦う、辰の刻を過ぐる頃田中八郎兵衛援を淀の本営に請わんとして淀大橋に至るや、竹中重固、高力忠長に逢う、八郎兵衛二人に言っていわく、戦況まさにこのごとし、我が兵連日の苦戦疲憊甚だし、加えこの今朝より未だ餐を得ず、請う幕兵を進めて敵を襲攘せよと、二人その策を問う、八郎兵衛答えていわく、一隊は本道を進み一隊は迂回して蘆葦の間を過ぎて敵を横撃すべしと、重固いわく、諾、しかりといえども歩兵等の命を用いざるを憂ふと、すなわち一大隊を進む、八郎兵衛先ちて進む、幕兵途にして止まりて進む者甚だ少なし、我が兵死傷半に過ぐ、新選組、幕府大砲隊皆奮戦健闘す、午の刻頃におよびて鳥羽伏見両道の戦皆利あらず、我が兵往々退く、京兵あえて追撃せず、我が兵火淀の市家に縦ち、大橋を過ぎ淀川の南側に退き、畳を積みて胸壁となししきりに大砲小銃を乱射す、京浜二小隊許路の中央進むこと一丁許、我が砲弾敵中に爆裂す、敵驚き避け堤陰に隠れて進み来る、ついに市家に入りて銃撃す、我が兵もまた胸壁により奮闘す、我が兵淀大橋を焼かんとしたれども能はず、阪軍淀の城によりて京兵を防がんとし、淀藩に交渉したるに淀藩納れず、藩主稲葉正邦朝臣は現在江戸にて老中たり、かつ稲葉家は春日局以来徳川家とは特殊の関係ありたるものなれば、徳川家危急の際にこのごとくならんとは以外のことなりき、ただ我が藩においては稲葉家は親戚なれども初よりこれに重きを置かざりき、すでにして幕兵大砲一門および弾薬を路上に遺棄して去る、我が兵もまた往々退く、佐川官兵衛右手に折れたる刀を杖つき、左手に両手傘を開きてこれを持ち、弾丸雨注の間を除歩して大橋を過ぐ、傍人いわく、危険なり疾走すべしと、官兵衛肯ぜずしていわく、弾丸は当たるものにあらずと、けだし傘を用ひしは眼を傷くがゆえに日光を防がんとせるなり。
 我が藩今泉伝之助、巨海源八郎いわく、この橋を捨てゝ防がずんば何の地に防がんやと、路上に遺棄したる大砲を発して戦う、時に或人呼びていわく、我が兵すでに退く卿等もまた早く退くべしと、時に田中八郎兵衛我が藩をかえりみれば隻影を見ず、八郎兵衛すなわち伝之助、源八郎と共に退く、途往々止まるものあり、すなわち相共に淀の寺院に療せし傷者を移す、歩兵教導官某これを見ていわく、会津の兵なるか速やかに移すべしと、歩兵を指揮して担かしむ、歩兵もまた甘んじてこれを担ぎ送りて船に移せり。
 幕府の大砲司令官某淀橋外を守り、弾丸雨注の間に立ちてしきりに砲撃せしむ、我が兵言っていわく、この地甚だ危し退くべしと、某答えていわく、余不肖なりといえども司令官なり、余もしこの地を去らば誰か止まり戦う者あらんやと竟に丸に当りて倒れる、残兵その屍と大砲とを搬して退く、その勇敢にして職務に忠なる見る者皆感称せざるはなかりき、(惜しいかなその氏名を佚す、)この日佐川官兵衛統率する所の幕府歩兵築造兵等来らず、かつ淀川前岸の蘆葦中伏兵の命令も実施せず一々命令に背く、ゆえに苦戦ついに敗るゝに至れり。
 白井隊の残兵および目付遠山寅次郎等淀に止まる、田中八郎兵衛を見ていわく、全退退くは何ぞ余等もまた退くべくならんやと、八郎兵衛いわく、全体の退くは余そのゆえを知らず、しかれども今君ら寡兵をもって止まるも効なし退くべし、他日の責は余これに任ぜんと共に退き八幡の近傍に至る、幕人某いわく、この地は余善く兵を配して戦はん、貴藩の兵は八幡を防戦せよと、八郎兵衛馬を馳せて八幡に至りこれを陣将田中土佐に告げ、軍議中幕兵皆退きて一人の止まる者なし、ゆえに我が田中隊、{いわゆる二番組にて、陣将田中土佐が自ら率いるものなるが、この地まで戦に参加せざりしものゝごとし甚だ怪しむべし。}生駒隊もまた退く、八郎兵衛淀街道に帰り進んで斥候す、堀半右衛門兵を率いて止まり守る、半右衛門興奮していわく、幕人某余に命じてこの地を守らしむ、しかして幕兵皆退く、我が兵昨日以来大に苦戦し死傷もまた多く甚だ疲憊す、我が一隊のみ止まるといえども孤軍を如何せんと、八郎兵衛いわく、初め幕軍の約束は兵をこの地に配置して防戦するにありしに、今皆約に違いて退く、君らまたよろしく退くべし我その他なきを保せんと、半右衛門兵を率い八郎兵衛と共に退き葛葉村に至る、幕兵我が兵共にあり、佐々木只三郎見廻組を率い橋本前方に胸壁を築きて厳守す、関門は小浜藩の兵大砲数問を装置して敵に備ふ、桑名藩の兵は八幡山に在り。
幕人および我が隊将議していわく、幕兵および我が兵は橋本の関門を守り、藤堂藩は山崎関門を守る、よろしく幕兵を分遣してこれを助くべしと、黄昏幕兵山崎に至り津藩の守兵を助け共に京軍を防がんと欲す、守兵拒んで納れずいわく、勅使四条隆平朝臣来り幕軍および会津桑名兵等を撃つべきの命ありゆえにこれを辞すと、久松定昭朝臣もまた人を関門に遣わし出兵を促す、津藩人答えていわく、勅使来りて命ぜらる、公然これを拒む能はず、心は幕府にあれども表面は勅命に従わざるを得ず、かつ隊頭藤堂帰雲大阪に至り未だ帰らず專対し難しと、けだし帰雲正月元日頃大阪にて内府に建言し、本国より二大隊を呼び寄せ、指揮に従い尽力せんと言いて大阪を発せし由なれば、この時帰雲関内に在りしを僞れるがごとし。
 時に大阪に在りたる町田伝八隊六十余人淀の軍を助くべきの命あり、すなわち大阪を発しこの日橋本関門に来る、皆新手にして意気大に奮ふ、すなわち橋本の守兵少なきをもってこれを助けしむ、未の刻我が陣将田中土佐、林隊、白井隊の残兵に命じ少数の兵士を残し退きて大阪に休養せしむ、数日の激戦に疲労したるをもってなり。
 この夜堀半右衛門隊に守口澤を守るべきの命令あり。
 この夜本営より我が藩手代木直右衛門を招き、命じていわく、京兵山崎に至るの報あり我が背後に出でゝ挟撃せんことを恐る、ゆえに田中土佐隊は幕兵と共に牧方に至りこれを防守せよと、けだし各隊は皆部署あり独り田中隊は遊軍たりゆえにこの命あり、田中隊丑の下刻頃出てゝ牧方に赴く。
 この日大阪において慶喜公、我が公、定敬朝臣以下幕府の諸将および我が藩相等を召していわく、事すでにこれに至る縦令千騎戦没して一騎となるといえども退くべからず、汝らよろしく奮発して力を尽くすべし、もしこの地敗るゝとも関東あり、関東敗るゝとも水戸あり、決して中途に已まざるべしと、人々これを聞きて感激せざるはなかりき、すなわち幕府の目付某に命じて戦地に行きてこれを告げしむ。

{東帰の船中にて我が公、慶喜公に問いていわく、さる五日の台命により士気とみにふるい、一戦せば数日の敗衂を回復し得られまじきにあらざりしを、如何でかくも遽然東下することに決せられしやと、内府答えて『如此命ぜざれば衆兵奮発せずゆえに権宜をもって命ぜしなり』と、内府のこの答えは我が公の問いに対して何の意なるを知らず、思うに五日には内府の心理硬説に傾きてこの台命を発せられしが、例の変説病次いで発し東帰に決したるものごとし、しかしてこの経緯あからさまに我が公に告ぐるはおもぶせなれば、かく曖昧なる答えをなし賜いしならん。}

 我が藩相神保内蔵之介の長子修理初め戦地に在りて戦況を観察し、この日大阪に帰り深夜慶喜公に謁し東下を勧誘せりと云う。
 この日慶喜公激励の命を聞きて、我が藩上田伝治いわく、内府公の決心すでにこのごとし、臣子の分坐視すべからず、余は加州侯に請わん如何と、横山伝蔵いわく、余は紀州侯に請わんと、小野権之丞等諸人伝蔵が説を賛成す、伝蔵すなわち我が倉澤右兵衛に告ぐ、右兵衛もまた大にこれを賛成すいわく、廣澤富次郎に告げよ、富次郎賛成せば共に城に登り藩相に告げよと、伝蔵すなわち富次郎に告げ共に登城し藩相萱野権兵舊、上田学大輔に告ぐ、権兵衛いわく、事の成否を憂慮すしかれども能く尽力せよと、伝蔵すなわち富次郎および秋月悌次郎と共にこれを幕府の目付安藤次郎左衛門に告げ、かついわく、臣子の分を尽くさんと欲す両三人数日の間戦地を離るゝといえども不可なからんと、次郎左衛門大に賛成していわく、我が局中熟議して答えんと、しばらくして次郎左衛門出てゝいわく、我が局中皆賛成す、ただちに内府公に上言せんと、黄昏次郎左衛門出てゝいわく、これ今内府公余に命ぜるにその事をもってす、ただちに発せんと欲す貴藩にて行く人は誰ぞと、我が藩議未だ決せず諸説紛々たり、次郎左衛門しきりにこれを促す、権兵衛いわく、こと横山伝蔵の発議に係る宜しく行うべしと、伝蔵いわく、神保修理これ今戦地より帰る余これに代わるべきの予定なりゆえに他人に命ぜよと、衆傍より行かんことを勧む議ようやく決す、次郎左衛門いわく、泉州堺の前方に至りて遭はん、速やかに来れと馬に鞭って馳す、伝蔵すなわち和歌山藩関門通行の印鑑を求め、公厩に至りて鞍馬にまたがり、次郎左衛門追いて馳す、戍の刻頃次郎左衛門に追及して共に馳す、行くこと数里伝蔵が乗馬疲れて倒れるすなわち徒歩す、六日次郎左衛門、伝蔵、和歌山城下に近づく、紀州侯人を出して迎えしむ、午後を過ぐる頃城下押入の邸に入る、用人以下諸有司出て迎ふ、黄昏城に登る、藩相以下諸有司出て迎ふ、安藤飛騨守以下列座す、紀州侯次郎左衛門を近く召して問う、次郎左衛門いわく、会津宰相の臣と同行す共に言を陳せんと、侯すなわち伝蔵を召して近く進ましむ相距ること僅かに六尺許、詳に伏見以来の事情形勢を問う、伝蔵これを詳陳しかついわく、我が軍の勝敗この一挙にあり願わくば援賜はらんことをと、次郎左衛門もまた内府公の決心を陳して援を請う、侯いわく、宰相君の苦心誠に察するに余りありと、飛騨守いわく、援軍のことは実に離りよろしく議して答えんしばらく待つべしと、次郎左衛門、伝蔵別室に退きて待つ、少時ありて飛騨守出てゝいわく、十津川の残党紀の川上流地方に入りて暴行するをもって今まさに兵を発せんとす雑遝君らの見る所のごとし、兵を大阪に発し城下の空虚なるを知らば、賊徒ただちに迫らんも知るべからず、ゆえに出兵を辞すと、伝蔵いわく、貴答えには服すること能はず、徳川家存亡の秋にあらずや、貴藩の徳川家における列藩と同じからず、仮令貴藩滅ぶるも宗家の急を救援せずして可ならんやと、次郎左衛門もまた懇請す、飛騨守いわく、大に然り再び寡君に啓して後答えんと、すでにして軍艦野口将監出てゝいわく、明日必ず兵を発すべし君らしばらく押入の邸に至りて待つべしと、伝蔵いわく、君の言このごとし疑うべからず、しかりといえども君の言のみを聞きて退くべからず、願わくは飛騨守君の答えを聞かんと、しばらくして飛騨守出ていわく、必ず明日をもって兵を発せん人員と時刻とを明日答うべしと、伝蔵いわく、そのゆえ如何と、飛騨守いわく、糧餉弾薬等の計画あり整頓せばただちに発すべしと、次郎左衛門、伝蔵すなわち押入の邸に退きて休ふ、七日早天次郎左衛門、伝蔵まさに城に登らんとす、傍に在る使令いわく、君ら大阪の事情を聞くや、伝蔵いわく、未だし何事ぞや、使令告げしていわく、未だ詳ならずとすでにして両人城に登る、飛騨守いわく、君ら大阪の実情を聞くや否や、兵を発する事はこれを辞すと、両人怪しみて問いていわく、昨夜の言をひるがえすは何ぞや、かつ大阪の事情は如何と、飛騨守言はず固く問う、すなわち懐より一簡を出してこれを示す、大阪より紀州藩相水野出羽守の送れるものなり、その大意にいわく、昨夜内府公、会津、桑名両侯何処にか去れりゆえに大阪城は空虚とはなれり倉卒急報すと、次郎左衛門、伝蔵茫然として言う所を知らず、飛騨守いいわく。事すでにこれに至る故に兵を発することを辞すと、両人已むことを得ず復た押入の邸に退く、次郎左衛門いわく、この変を聞くしばらくも安んずること能はず馬を馳せて大阪に帰らんと、伝蔵いわく、余もまた共に帰らん、願わくは余が為に馬を和歌山藩に請へと、次郎左衛門すなわち該の用人に請いてこれをえたり、使令いわく、しばらく待つべし半時を過ぎなば大阪の詳報に接せんとしきりにこれを留む、次郎左衛門可かず馬に鞭って発す、すでにして諏訪常吉、伝蔵に簡していわく、余今来りて逆旅に在り請う速やかに来れと、伝蔵すなわち馳せて行く、常吉いわく、内府公、我が公東帰し諸兵紀州に下りて江戸に至らんとす、ゆえに余命を受け来りて糧餉を和歌山藩に借らんとす、しかりといえども誰に議すべきやを知らず足下為めに周旋せよと、伝蔵固辞していわく、余なんの面目ありてこれを請はんやと、常吉いわく、大平のこの地に来る今明日を出でず、この切迫の時に臨みて辞する事なかれと、すなわち伝蔵、常吉共に紀州藩軍監野口将監に就いて我が兵の糧餉を紀州興より給せられんことを請う、将監これを諾す、しかれども将監等幕兵および我が兵の城下に入るの辞し、加太浦に至り乗舩して由良小松原に行かんことを勧む。

{按ずるに慶喜公東帰の外間に洩れしは七日の未明なれば、大阪を隔つる十五六里の和歌山にその報の達せしは七日の午後三四時なるべし、その指令までも知るに至れるは早くとも七日の夕ならざるべからず、ゆえに貴藩の出兵を辞したるは八日にて、伝蔵等が大阪を発せしは六日の午後なるべし、また慶喜公東帰の判然したる後、善後の処分につき相当の時を費やしたるものなる可ければ、いよいよ紀州路を経て我が藩兵東帰のことに決したるは、速くとも七日の午後なるべしゆえに糧食の事に関し、諏訪常吉の命を受けて大阪を発し和歌山に向かいたるは、七日の午後なる可ければ、七日に和歌山にて伝蔵に会うべき理なし、ゆえに汽紀藩の出兵を辞したるも、常吉が野口将監に面会したるも八日なること疑いなし、本文はしばらく原史料大阪記に従って記せしなり。}
 
 正月六日幕府の目付某、松平豊前守の陣営に至り慶喜公昨日の命を伝ふ、衆皆感激し士気為めに大に振ふ、早天佐々木只三郎見廻組を率い橋本駅東の路上を穿ちて胸壁を築き、桑名藩の兵小浜藩の兵と共に守る、町田隊、上田隊もまた近傍に在り、生駒隊の兵関門を守る、戍の刻頃京兵三万より橋本を襲わんとす、すなわち幕府四中隊と町田隊とを合し、また分ちて二隊となし路の左右に備ふ、幕府大砲二門を装置し整然として敵兵を来るの待つ、すでにして橋本の東八幡と本道との岐点に兵士十余人あり、淀および八幡に向かって発銃す、一発毎に橋本に接近し来る、今泉伝之助等を望見していわく、疑兵なりと、すなわち小浜藩の兵をしてこれを砲撃せしむ、京兵また淀川を渡り来りて銃撃す、すでにして京浜往々松林に隠れ、あるいは堤陰により連りに砲銃を発射す、佐々木只三郎兵を督し町田隊、桑名兵、小浜兵ふるって大小砲を発して戦う、只三郎銃弾寛骨に当りて重傷を負う。
 この時にあたりて山崎の方面よりも百人許、白旗を掲げ小鼓を鳴らし山崎関門に入る、我が士見て走りてこれを外島機兵衛に告ぐ、機兵衛これを軍事局に報ず、また関門より一中隊余り天王山の方面に行くを見る、しばらくして号笛の声起こるや山崎関門より連りに橋本および関門を銃撃しついで大砲を発射す、我が兵またこれに応じ大小砲を発して戦う、幕兵我が兵多く負傷す、八幡山連続の山上に在りし桑名藩の兵能く大砲を発射し、弾丸山崎関門に至りて爆裂す、橋本関門を守れる生駒隊全部、桑名兵小浜兵一小隊許山崎に向かって砲撃す。

{後江戸にて藤堂侯使いを我が藩邸に遣わし、謝していわく、前日山崎関門にて弊藩の兵貴軍に向かって発砲せしは、官軍より迫られ已むことを得ず砲口を高く仰がせ責を塞ぐのみに発せしなり、しかるに貴藩兵の屯所に弾丸至ると聞く実に分疏に言葉なし、右につき在江戸の弊邸を貴藩兵焼討ちするとの流言あり幸に寛恕せられよと、藤堂侯また上野法親王に請いて内府に分疏し、また我が公にも分疏を請う、ゆえに法親王使いを我が兵邸に遣わして説解し給う、この頃の津藩の挙動こそ浅ましくもきたなけれ。}

 上田八郎右衛門隊は橋本を出て関門に入る、しかれども砲戦に便ならず、ゆえにまた関門より二三丁下方の堤により斜めに山崎関門を砲撃す、堀半右衛門隊、組頭門奈治部等進みて淀川を渡り山崎関門の側面より進撃せんとす、舟なくして渡るべからず、すなわち堤畔に伏して発射す、会々津藩の兵三十人許り川を下るを見てこれを銃殺す、橋本諸軍利あらず、町田隊もまた弾丸すでに尽き上田隊、生駒隊と共に退却の止むなきに至る、すでにして山崎関門の京兵、阪軍の退くに乗じ淀川を渡りて至り、橋本方面の京兵もまた群がり進めて関門の我が空砦に入り大声凱歌を揚ぐ、この時橋本の兵火盛んにして炎煙天にみなぎる。
 この日の戦に京兵偽りて新選組の中に伍すむものありしが後露はれて斬らる、幕兵我が兵および桑名、小浜の兵皆牧方に退く、辰の刻頃田中土佐隊兵を率いて牧方に至る、幕兵および大垣藩の兵在り、共に鳥羽の戦に将長多く戦没す、ゆえに残兵をこれに休養せしむ、我が林、白井両隊の残兵もまたこれに休養せり。
 午の刻頃我が藩相内藤介右衛門、表用人山川大蔵大阪より牧方に来る、林、白井両隊の残兵を合し大蔵その頭を命ぜられる、すなわち赤扇をもって隊の標識となす。
 申の刻頃総督正質朝臣および諸将皆退却し牧方に来りて軍議す、我が陣将田中土佐および田中八郎兵衛、柴太一郎等共に会す、八郎兵衛いわく、退くことこのごとくならば底止する所なからん、よろしくこの地を尽くし断じて一歩も退却すべからず犯す者は皆斬に処すべしと、竟にその議を決す、竹中重固、滝川具挙並びに我が藩内藤介右衛門等共に行きて防戦の地理を観る、会々幕兵の守口に退くもの陸続き相接す、八郎兵衛、太一郎および大野英馬葛葉方面に至りて斥候す、田中土佐隊は牧傍の山上に待つことを約す、八郎兵衛等斥候の途町田隊の餐を伝うるに遭う、更に進みて偵察するに京兵来るの形勢なし、すなわち帰りて山上に至るに田中隊すでに退きて在らず、三人失望して山を下れは゛日すでに暗くただ幕兵のわずかに留まるあるのみ、三人すなわち牧方を出て行くこと二三丁にして回望すれば牧方すでに火起こる、けだし幕兵の火を縦ちて退きしなり、三人行くこと一里許町田隊佐太村の民家に入りて息ふに会す、衆いわく、疲労甚だしいここに一夜を徹せんと、三人いわく、諸兵皆すでに退く子等独りここに留まるは最も危うしと、町田隊已むことを得ず大砲を曳きて退く、けだし最後殿なり。
 竹中重固、滝川具挙、内藤介右衛門等守口に至る、若年寄永井尚志来りて慶喜公の命を伝えていわく、深意あり諸軍みな大阪に退くべしと、これにおいて諸軍漸次退きて大阪に至る、介右衛門すなわち田中八郎兵衛、柴太一郎、大野英馬等をしてこれを我が諸隊に伝えしむ、時に我が諸隊の兵皆疲れて眠る、これを聞きていわく、飢え且つ疲れて一歩も進むこと能はずと、英馬すなわち近房に在る小浜藩の陣に至り糧食を乞う、未だ至らざるに諸兵目覚めて速やかに退かんと欲す、英馬等いわく、仮令敵これに来り戦いて皆死すとも食はずして退くべからず、小浜藩に対して何とか言はんと固くこれを留む、しばらくありて糧食至る、すなわちあるいは食いあるいはもたらして発す、諸兵同夜より七日の朝に至るまで皆大阪に至る。
 この日我が藩相大阪城中雁木阪邸に至りて傷者を慰し、かついわく、汽船をもって江戸に送るべしと。 
 この日橋本の戦い利あらず、全軍守口に退くや大阪城中大に騒擾す、かつ幕兵萎靡して振るわず、これにおいて幕府佐川官兵衛を歩兵頭並雇に、望月新平、井口源吾等四五人を歩兵差図役頭取並雇に、その他別選組士歩兵指図役並雇に命ず、官兵衛すなわち築城兵を率いて守口に至り胸壁を修築して防戦せんとす、金田百太郎いわく、我が公に謁して発せんと、共に御用部屋の口に至りてこれを我が公に告す、我が公寛兵衛以下の諸士を召し見て懇篤に慰諭す、藩相萱野権兵衛、学校奉行添役赤羽主計もまた出陣するに当り我が公に謁す。 
 この夜元白井隊士等白井五郎太夫、小池勝吉の遺骸を大阪寺町一心寺に葬る。
 伏見の戦に阪軍の敗績したるその原因はおおむね左のごとし。

一 将師その人にあらず、従って統一を欠き命令行われず、各部隊思い思いの動作をなし、難局に遭遇すれば命を受けずして逃避する者甚だ多し。

二 京阪の間ただ一条の狭路より大兵を進め非常の混雑を来し、いとゞ命令の行われざるに、これが為め阪軍の大兵はほとんど烏合の衆と化したるなり、如し一部の兵を割き亀山を経て丹波口より京都に入らしめ、なおまた一部隊をして高規街道より西国街道に出でしめ東寺に向い、藤堂をして反復の余地なからしめ、また一部隊を迂回せしめて蹴上より京都に入らしめば、寡少なる敵軍を分ち得ると共に、我が軍の混雑を防ぎ得たりしなり。
京軍の兵数は数千と称したれども、戦意あるは薩長二藩の兵のみにて、他は両端を持ちする者なれば、京軍寡少なるものとして支障なきものとす。
丹波口よりすれば路程五六里を增し且つ山道なれば、糧食弾薬等の運搬には不自由なるべきも、徳川氏の威望未だ地に落ちざる時なれば、人馬の徴発は、左迄困難あらざるべきより、これを実行する難からざるべきかりき。

三 阪軍は京都の大勢に暗く、戦わずして入京して得べしと為したるは、前に掲げたる部署を見ても明白なり、ゆえに思いかけず中途において開戦に至りしなれば、計画なき戦にて狼狽して一戦地に塗れたるは当然と言うべし。


 京軍方の諸録には、我が藩の兵数を三千とすれども、これは我が藩にて斯く号じたるものなるべし、しかし在京の兵数は千二百人を出でざるべし、このうち本体すなわち君公の御衛兵と丸山隊とを除きことごとく戦に参加せり、すなわち田中土佐が一陣五百二十人大砲二隊二百六十人、町田隊七十人、佐川隊七十人、計九百二十人、これに従者を加うるも千人に過ぎざるべし、桑名藩兵は約四百人なりと言う。
 慶喜公伝を見るに、伏見鳥羽の戦始り錦旗の出でたるを聞き、公『あれは朝廷に対して刃向かうべき意思は露ばかりも持たざりしに、誤りて賊命を負うに至りしこそ悲しけり、最初例ひ家臣の刃に倒るゝとも、命の限り会桑を諭して帰国せしめば、事これに至るまじきを、吾が命令を用いざるが腹立たしさに如何やうとも勝手にせよといひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と、云わしれとあるこそ奇怪なれ、匹夫にても心あらん者は家の消長に関する事柄につき、その隨従者に『勝手にせよ』とは云うまじきに、国家の浮き沈みに係わる大事に当り『勝手にせよ』といひ放たれしこと事実ならば、如何にその責任観念の薄きかを證するなり、かつ命令を用ひざるは何人なるか明言なきも会桑二藩を差すに似たるが、いつ如何なる場合に命令を用ひざりしか、前に述べたるごとく我が公は藩祖の遺訓を服膺して、宗家の命令とだにあらば如何なることにても之に服従するを例とせり、初め守護職の内命ありしとき、分を量り力を料りてその任に堪えざるを恐れ、公も藩論も之を辞することを可とし、再三その旨を申し述べたるも、幕府の総裁職なる松平慶永朝臣の勧誘はほとんど幕命に均しきにより、藩の運命を賭して就任せるはその一例なり、また伏見の敗後我が公はその親愛せる臣下を捨て、慶喜公と共に海路東帰せられたるは、我が公の忍び難きことなりしも、慶喜公の厳命黙止し難く、これに服従せられたるもまた一例なり、我が公の幕命に対し従順なるは慶喜公の明豈に知らざるものならんや、また我が藩祖土津公は、寛永八年保科肥後守正光主の後を承け信州高遠三万石を領し、同十三年羽州山県二十万石を領せり、表高は二十三万石なれども実は二十五万石ありきと云う、かく俄かに身代の広大せしにより、高相応の家臣を集むる必要ありしが、徳川時代初期のことなれば世に浪人も多かりしにより、名ある浪人の招きに応じたるもの少なからざりき、しかるにこれらの人々は戦場において死生を共にしたるにあらざれば、互いに相猜疑しやゝもすれば軋轢することも少なからず、ついに君公をもって統一する政策をとり、君公を神聖視する風を養成することに努めたり、されば藩祖の遺訓第五条に『可重主畏法』と云う一条を置き、第一条の宗家に対する訓戒と共に家訓中の骨子として教育したる結果、如何なることにても君公の『語意』とだにあらば、これに服従する美風を生ずるに至れり、当時慶喜公が初めより恭順論なりしならんには、断然として我が公に厳命、我が公が臣下に命ぜば、興奮せる我が藩士といえどもこれを鎮撫する必ずしも不可能にあらざるは、大政奉還も京都よりの下阪も、慶喜公の命に服従せしにて知りとくべし、しかるに策これに出でず、二条城において『必討』と自書して衆に示し、また田中玄清には『君側を清掃せざるを得ず』と云われ、また正月五日には『千騎戦没して一騎となるとも退くべからず』と云われ、主戦論者の違背すべき道理なきもののみにて、恭順論の命令の出でしを聞かず、思うに当時公はあるいは主戦に傾きあるいは恭順に傾き確固たる決心なかりしがごとし、後年に至り戊辰戦乱の責任を会桑に転嫁せんが為の繰言にあらざるか。






卷二 伏見鳥羽の戦  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/06(木) 21:27:12|
  2. 会津戊辰戦史1
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討薩の表

討薩の表

 慶喜公はこの日より前衛を繰り出し三日入京と定む、しかしてその入朝の趣意は主として君側の姦を除かんと欲するに至り、三日滝川具挙をして上奏の書を携えて上京せしむ、その書にいわく、

臣慶喜謹而去月九日以来の御事体を奉恐察候得者一々朝廷之御真意に無之全く松平修理大夫奸臣共之隠謀より出で候は天下之所共知殊に江戸野州総州其外所々乱防却盗に及候者も同家々来之唱導に依り東西響応し皇国を乱候所業別紙之通りに而天人共に所懀に御座候間全文之奸臣共御引渡御座候様御沙汰被成下度万一御採用不相成候はゞ不得止誅戮を加へ可申此段謹而奉奏聞候

  薩藩奸党之者罪状之事

一 大事件盡衆議と被仰出候処去月九日突然非常之変革を口実と致し奉侮幼帝諸藩之御処置私論を主張之事

一 主上御幼冲之折柄先帝御依托被為在候摂政殿下を廃止止参内候事

一 私意を以て宮堂上を黜陟せしめ候事

一 九門其外御警衛と唱へ他藩之者を先導し兵杖ほ以て宮闕に迫候条不憚朝廷大不敬之事

一 家来共浮浪之徒を語合屋敷へ屯集江戸市中押込強盗致し酒井左衛門尉人数屯所へ発砲乱暴其他野州総州所々焼討却盗に及候證跡分明に有之候事


 この時に当り薩藩は主として鳥羽街道を守り本営を東寺に置き、長藩は主として伏見街道を守り本営を大佛東福寺に置く、時に薩藩士大久保一蔵京都にあり、言へらく慶喜公入朝せば大事去らんと、同藩士西郷吉之助に謀りて朝廷より討伐すべきを勤む、吉之助は具視朝臣を見て、断然策を決せんことを建議し、ついに防御の策を定め、もし危急に迫らば乗輿を山陰道に奉ずるの準備をなせり、吉之助が画するところ左のごとし。

一 御決策相立候はゞ一揆前夜御微行之方可宜哉之事(この条意味不明なり)

一 砲声相発し候節に臨み堂々と鳳輦を被移候方可宜哉之事

一 山陰道に御掛り被為在候て可宜哉之事

一 朝廷に於ては総裁御止相成候方可宜哉之事(意味不明)

一 浪花之戦と相成候へは京地にては依然として御動座無之方可宜哉之事

一 中江(誰か不明)是非御供不相成候ては不相済其外幾人にて可宜哉御供之人数輿丁人夫等之手当も調置候様との事

一 御警衛之人数可相究置との事

一 岩倉公は如何にも跡に御踏止り弾丸矢石を犯し十分戦闘の賦長州藩片野十郎もまた左の策を献ず

一 当所居合の三中隊之御所警衛は御微行相決候上直様供奉之事

一 西ノ宮辺三藩の兵直に有馬より三田通り丹波篠山へ引揚之事

一 東福寺光明寺の兵は平公(人数不明)を将として伏見辺衛殿之事

一 伏見衛殿の我兵引揚候節は一先天龍寺へ集合之事

一 尾之道の兵は備前兵と合し姫路を突く事

一 芸備へ急速出立之事

一 雲州へ急速手下しの事

一 高野の兵速に大和より宇治通り伏見に出張衛殿兵に相応ずべし

一 兵庫停泊の我軍艦速に備海辺へ廻すべし

 
 これ乗輿を擁すれば縦令戦敗るゝも賊名を免れんとする薩藩の策略にして、長藩はこれに和同せしに過ぎず、しかも具視朝臣はなお開戦を不可なりとし、中根雪江をして伏見の形勢を偵察せしめんとして果たさず、参朝して朝命を議定以下に伝ふ。

自昨日至今晩阪兵追々伏見表へ出張其実如何難計候へ共何分不容易形勢に付早々参朝可有之総裁宮御沙汰候事
追て参輿召連早々参朝可有之事


 また慶喜公へ朝命を伝えて上洛を止む。

先達下阪に付尾越両藩へ鎮定之儀被仰付御請申上候処今日大兵伏見表へ押出候趣如何に被思召候都下人心動揺にも可及候間御沙汰有之候迄上京之儀可見合候事

 慶永朝臣はなお鎮撫せんとし、土州、宇和島、尾州等の諸藩および幕府の目付梅沢孫太郎と会してその策を講ぜしも未だ成らず、具視朝臣は吉之助、一蔵の強請を抑止する能はず遂に討伐に決し、命を薩長土芸の四藩に伝ふ。

 尾張前大納言
 松平大蔵大輔
昨日より今日に至り阪兵戎服大砲携伏見表へ出張有之候儀に有之候処兼て両藩言上の趣には都て齟齬不容易進退其儘難被差置は勿論に候へ共当前の周旋筋の儀に候へば不徳止早々引沸候様取計可致不奉命候はゞ朝敵の御処置被為在候御沙汰候事


 尾張前大納言
 松平大蔵大輔 
大政復古に付ては御沙汰の趣も有之去月来出各盡力之次第神妙之至に候然る処今暁來伏見表之事件不容易模様に押移早晩不得止形勢に付此上は多年勤王之旨趣弥勉励禁闕守衛可有之旨被仰出候事
 
追而思召之儀も有之候間若人数不足候はゞ早々国元より繰取候様御沙汰事


 彦根、大洲、平戸、大村、佐土原の五藩に大津駅の警備を命じ、また毛利大膳大夫に宰相父子の内、急に大兵を率いて発し大阪城を討伐すべきを命ず。
 また事機により遷幸あらんことを朝臣非蔵人等に告ぐ。

一 火の用心大切に可致候事

一 大政復古に付ては被廻御遠慮各藩衆庶一点の遺憾なからしめ戮力偏に御国威維持可被遊御趣意にて去月九日來尾州越前等へ懇々御沙汰の段も有之両藩にても出格尽力追々鎮定の道相立追々思召の通に運候段言上も有之候処従昨日今暁に至り阪兵追々伏見表へ出張其実如何難計候へ共不容易進退其儘難被差置次第に候乍去尚又尾州越前両藩へ被仰付候廉も有之此上尽力鎮定可致旨言上候間旁平穏には可哉に候へ共何分前条件々以外の情態不被為止一時叡岳御遷座の思召に候間心得迄に被仰渡候但緩急其期に臨み狼狽無之様兼て覚悟可有之候事

但即今猥不可有動揺候事尚又諸官人の立番所非蔵人取次以下向一同至り□各半は供奉半は此御所可為御留守候に付其番にて可申合置候事


 


卷二 伏見鳥羽の戦  会津戊辰戦史1

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/12/05(水) 07:40:43|
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部署(この章無題の為、「部署」とした見出しを勝手につけた)

部署

 慶応四戊辰年正月朔日、前将軍徳川慶喜公詔を奉じてまさに入朝せんとし、警備の部署を定む、黒谷には歩兵奉行並佐久間信久を将として、歩兵頭河野佐渡守の歩兵二大隊、歩兵頭並安藤鏐太郎隊砲四門、遊撃頭今堀越前守の遊撃隊百三十人、騎兵三騎、築造兵四十人、会津藩番頭生駒五兵衛隊百三十人、同番頭上田八郎右衛門隊百三十人、同大砲奉行林権助大砲隊百三十二人、砲四門、攻撃の前日出張すべし。
 大佛には陸軍奉行並高力忠長を将として、歩兵奉行並横田伊豆守の歩兵二大隊、および砲二門、騎兵三騎、築造兵四十人、会津藩家老田中土佐隊百三十余人、同番頭堀半右衛門隊百三十人、同大砲奉行白井五郎太夫大砲隊百三十一人、砲三門、攻撃の前日主張すべし。
 二条城には陸軍奉行並大久保忠恕を将として、歩兵奉行並徳山出羽守の歩兵二大隊、砲兵砲四門、騎兵三騎、京都見迴組頭佐々木只三郎の見迴組若干、攻撃の前々日出張すべし。
 伏見には歩兵奉行並城知涯を将として、歩兵頭窪田鎮章の歩兵一大隊、同並大澤顕一郎の歩兵一大隊、歩兵頭並間宮鐵太郎の砲隊砲四門、および新選組副長土方歳三の新選組百五十人、騎兵三騎、築造兵四十人。鳥羽街道には陸軍奉行竹中重固を将として、歩兵頭秋山下総守の歩兵一大隊、歩兵頭並小笠原石見守の傅習歩兵第一大隊、歩兵頭谷土佐守の砲隊砲二門、桑名藩の兵四中隊、砲二門、騎兵三騎、築造兵四十人、浜田藩の兵三十人、攻撃の当日より鳥羽へ出張して東寺に向かうべし。
 淀本営には総督老中格大河内正質朝臣の手兵一小隊、御用取次室賀甲斐守の手兵二小隊大垣藩の兵若干、令を待ちて京都へ繰り込むべし。
 橋本関門には小浜藩の兵、忍藩の兵若干、西ノ宮には撤兵頭並須田雙一の撤兵半大隊、および砲隊砲一門、会津藩兵若干。
 兵庫には会津藩の兵若干、徳島藩の兵若干。
 大阪倉屋敷には撤兵頭天野加賀守の撤兵九小隊、撤兵頭並塙健次郎の撤兵若干、砲兵頭並吉田直次郎の砲隊砲一門、会津藩町田傅八隊若干。
 大阪城の警備城門勤番は、陸軍奉行並大久保教寛の奥詰銃隊八小隊、同戸田勝強の奥詰銃隊八小隊、銃隊頭並杉浦八郎五郎の銃隊四小隊、撤兵頭並三浦新十郎の撤兵四小隊、城外迴り関門十四箇所は歩兵頭並小林端一の歩兵一大隊。
 天王寺真田山には和歌山藩兵。
 諸門には吉田藩の兵は大垣藩の兵と交代してこれを守る。
 城外の巡邏には姫路藩の兵、高梁藩の兵これに当る。
 天保山には松山藩の兵。
 大佛兵粮護衛、鳥羽藩の兵。
 黒谷兵粮護衛、彦根藩の兵。
 大津より三条大橋に至るまで、歩兵頭福王駿河守、歩兵頭並庄勘之介付属一大隊これを警備す。
 右の部署を見るに騎兵の少なきは怪しむべきに似たれども、当時騎兵を騎兵として使用せず、単に斥候または伝令として使用せしがゆえなり、しかしてこの部署の実行せられざりしは勿論なり。
 この日越前藩士中根雪江は岩倉具視朝臣の邸に至りて大阪の形勢を述ぶ、具視朝臣いわく、薩長は兵力をもって幕府に迫らんとす、しかりといえども尾越の周旋を中止するは遺憾なれば三条、東久世と謀り賛成を得たり、幕府もし異議なくんば山内容堂、伊達宗城をして和解を謀らしめ、慶喜その官を辞し機内の地を献じ、あるいは兵隊軍艦の幾分を献ぜばその誠意貫徹し、その他の諸侯もまたこれに準ぜば禁闕の警衛も全かるべし、またいわく、慶喜が政権奉還のごとき実に意表に出づ、その賢明も推してしるべし、余は皇国の為にこの人を周旋すと、雪江は慶永朝臣に報じて共にその順序を議し、具視朝臣の批箋を得これを証として慶喜公に説かんと、その案を草す左のごとし、

一 午刻前上京相成候はゞ直に参内午刻後上着相成候時は翌朝参内致候様可相成哉

一 参内之上表向辞官之手続相濟候上は政府御用途全国割之儀も即日列藩へ御布告に可相成哉

一 参内之即日職掌可被仰付哉

  但

一 上京之節相応之人数引察卒之事

一 参内之節九門外迄是迄之通兵隊引卒之事

一 九門内へ是迄よりは人数多く召連可申事

  尤上下(かみしも)之向にて兵仗は無之


 雪江はこの書を携えて仮議院に至り、具視朝臣に附箋を請う、朝臣いわく、なお衆議に付すべしと、正月二日松平慶永朝臣参内す、幕兵大阪より上がると聞き大に驚き急に帰りて雪江をして戸田忠至を招かしめ、また熊本藩溝口孤雲、津藩藤堂帰雲を招く、伊達宗城朝臣、戸田忠至、溝口孤雲、藤堂帰雲、後藤象二郎等来る、徳川慶勝卿は成瀬正肥を遣わす、忠至いわく、幕吏皆余をもって朝臣に党すとなす、縦令大阪に赴くもその効なからんと、象二郎等相議して孤雲、帰雲はすなわち発し、土州藩相深尾鼎を遣わし、尾州より田中国之輔、中村治之進を遣わすことに決せしも、正肥は辞していわく、二人の力の能する所にあらずと、慶永朝臣は明日容堂、宗城二侯と共に奏請せんことを約して別る。






卷二 伏見鳥羽の戦  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/04(火) 10:34:53|
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薩摩邸の焼討

薩摩邸の焼討

 二十五日早天幕府の使番某、庄内藩士十人許薩邸に入る、甘利源治が先導をなす、薩藩士五人出て応接す、庄内藩士安倍藤蔵諭すに二十三日夜同朋町の戍衛の屯営を銃撃したる暴徒を交付すべきを以てす、薩藩士弁疏していわく、その事なしと、応接再三決せず、藤蔵いわく、しからば兵力をもって受くべしと、号令一下表門通用門より旗本兵、庄内兵、闖入し大砲を発してこれを撃つ、これと同時に上山兵もまた徳島邸より大砲を発し墻壁を破りて突入す、鯖江兵もまた共に大小砲を発射す、松平信庸朝臣率先陣頭にありて指揮す、暴徒らもまた叫び声を揚げ大砲小銃を乱射して応戦す、上山、庄内の兵連なりに大砲を発して邸内の家屋を焼く、稲煙天を焦がし咫尺弁せず、暴徒槍刀をとる者百余人、上山の戦隊に向かって突貫し来り迫る、上山の兵迎へ戦うこと最も務む、また暴徒六七十人鯖江戦隊に向かう、同兵もまた良く戦う、上山藩相金子興三郎自ら進みて隊兵を督励す、会々弾丸興三郎の胸を貫く、暴徒らすと南方に向かって逃竄するの意あり、ゆえに上山、鯖江の陣地を侵襲せり、しかして両藩の挟撃に堪えず終に算を乱して潰走す、諸兵らその逃ぐるを尾してこれを追撃す、暴徒進退これ谷まり、田町に至り消防隊の大鼓を取りてこれを打ち、二縦列を作りて進行し、火を市家の処々に放つ、たちまち猛火となり田町、高輪、品川辺りに延焼す、けだし追撃防ぎしなり、旗本兵田町および高輪を抑して一撃を加へず、暴徒をして遁逃せしむ、あるいは品川海に停泊せし薩の汽船に乗りて遁れ、あるいは八王子、小田原辺りに潜伏したりと云う、佐土原邸また同時に旗本兵および諸藩兵これを囲み、応接の後大小砲を発してこれを撃ち、最後に高輪の薩邸を撃つ、諸隊の賊の首級を獲ること二十余級、虜にしたる者二十余人、申の刻を過ぐる頃諸藩兵を収めて吹上の園に至りて帰銃をなし、天璋院に謁す、天璋院菓子を給い且つ慰労褒賞す。
 
{甘利源治は豆州韮山の人、西洋兵式に精しく練兵太鼓を善くするをもって、我が藩士に準じ月俸五口と独禮の班とを興へらる、この役庄内兵に加わり先導して大に功あり、鞍馬陣羽織采配等を鹵獲す、また賊徒の金銀財宝を剽掠して本国に退到したる要書を拾い得たり、さの功を賞し禄十人口を興へ、班を進めて士分に列す、のち幕府の命により上州高崎に至り形勢を偵察す、ついに高崎藩士の為に殺される。}

 二十八日の関東の使節大目付滝川具挙、勘定奉行小野広胖大阪に至り、江戸掠奪薩邸討伐の顛末を報ず、慶喜公これを聞いて薩人の計謀せし所を知り、上は君側を清め下は万民を救わんには、到底尋常の手段をもってすべからざるを察し、この夜将長有司を会し、これに告ぐるに聞知する所ことごとく先帝の叡慮に乖戻し、尊王の志止み難きを以てす、皆奮って上洛して薩賊を掃攘するを可とす、これにおいて大挙上洛せんとしその部署を定めしむ。






卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/03(月) 13:32:49|
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薩藩士の暴掠

薩藩士の暴掠

 これより先西郷吉之助、大久保一蔵等密に議して討幕の師を挙げんとす、会々慶喜公の政権返上に遭遇し、討幕の名分機会のなきに苦しみ、百万計画して幕府の憤怒を挑発して事端を生ぜしめ、よりてもって機運の促進を図らんとす、これにおいて薩藩士満休之助介、伊牟田尚平等をして同藩士七八十人を率いて十月中旬本国より江戸に来り、三田の薩邸に投し、無頼の徒五百人を糾合し、夜に乗じ二十人あるいは三十人銃をとり隊伍を結び、隊長を馬にまたがり市中を巡行し、その徒を市中の柵門に配置して厳に柵門を鎖し、その二三丁の間は公衆の往来を禁じていわく、この市中に争乱あり行くべからず、あえて行かんと欲せばよろしく決心する所あるべしと、ゆえに人皆これを避く、その間に乗じ銃を擬し白刃を揮ひて富豪の家に闖入し、財宝を略奪し人民を殺傷す、市中の富豪にしてその害を被る者甚だ多く、その掠奪せられたる金額五十万両に上がれりという、都下騒然たり、暴徒はなお相房総甲武両野の各地に出没して横暴を極む、時に酒井忠篤朝臣、新徴組を率いて都下を戌衛す、薩人の暴行ますます甚だしきに至り、旗本の兵を加えて市中を巡邏警戒せしめ、なお前橋、佐倉、上山、壬生の兵をしてこれを助けしむ、我が留守居柏崎才一周旋して甘利源治を薩邸暴徒の中に入れ偵察せしむ、源治暴徒と共に市中を狼藉す、ゆえに少しもこれを疑う者なかりき、これによって暴徒の多寡およびその情実を知ることを得たり、この時前橋藩士また暴徒に加わる者ありしをもって、松平直克朝臣暴徒に党するの疑惑を受く、ゆえに直克朝臣奮発して幕府に請い、その藩兵をもって暴徒を討伐せんとす、すなわち更にその藩士数人を暴徒の党に入れてその事情を偵察せしむ、この数人暴徒の隊長に言うていわく、前橋侯まさに君らを討伐せんとす、これに反して我が藩士の君らに興味せんと欲する者多し、しかれど直ちに脱走して君らに加わるは勢不可なるものあり、請う我らと共に前橋に赴き、詳に検査して同盟に加へよ、且つざなから討伐せられんよりは、むしろ進んで前橋を討伐するに若かずと、隊長喜びてこれを諾す、甘利源治もまた同伴して八王子に至り、源治謀りて隊長を青樓に誘い、ひそかに娼妓をしてその短銃を盗ましめ、隊長を斬り同盟簿を奪い、源治ただちに帰りてこれを我が藩邸に報告す、これによって暴徒の人員姓名等ますます明暸なるに至れり、よりて庄内藩の警邏一層峻厳を加えたれば、彼らも暴行を逞うするを得ざるを恨みこの月二十三日の夜半暴徒数十人、各々銃をとり三田四丁目同朋町の庄内藩の屯営を襲い、腹背より迫りて一斉に銃撃す、庄内藩兵撃ってこれを刧く、暴徒の退くに当りて同藩兵これを追跡す、皆走りて三田の薩藩邸および佐土原廷に入る、これにおいて酒井忠篤朝臣幕府に請いてこれを勦討せんとす、老中稲葉正邦朝臣これを断ずること能はず、天璋院に禀す、天璋院これを許す、同二十四日夜半を過ぐる頃、庄内兵先鋒となり旗本の騎兵隊、歩兵隊一番より十番に至る、上山、前橋、鯖江、松山の兵力を助け、各隊槍は鞘を徹し銃は弾丸を塡し、隊伍整々進みて薩邸に向かい、部署を定めてこれを囲む。

薩邸表門及び通用門、(二箇所)  庄内兵、(酒井左衛門尉)

新馬場方面、  松山兵、(酒井大学守)

西応寺七曲り方面、   旗本兵、

久留米邸前より赤羽橋辺  庄内兵、

将監橋辺  前橋兵、(松平大和守)、 鯖江兵、(間部下総守)

徳島邸より同朋町  上山兵、(松平山城守)

肥後殿橋より広尾辺  旗本兵、

田町辺  旗本兵、






卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/03(月) 08:06:07|
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会津藩主従の誓書

会津藩主従の誓書

 二十五日我が藩内田武八若松に至り、我が公の親書を出して京都の状況を具申す、よりて喜徳世子(我が公の養子、後実家水戸徳川家に復帰す)急に将士を城中に会し、藩相をして告げしめていわく、今日の形勢に至りては、闔国の人民一致尽力して大義を明らかにし、神明に誓い力を尽くさん事を期し、藩祖以来の厚恩を奉ずべしと、左の誓書を興ふ。

恭惟ふに癸丑甲虎以来夷虜航海して猖獗を恣にして物価の騰湧日に益し月に甚しく人心乖戻に至る其原を尋れば幕府の失体より起る天皇深く之を憂悶し給ひ何となく公武の間一和せざるの勢あり幕府其罪を悟りて旧弊を除き遵奉の典を衆に選て我公を以て京都守護の職に任じ給う然るに京師の事情如何叡慮如何と云う事を知らず分を計り力を料て其任に勝へざらんことを畏れて敢て当り給わず衆論紛々として一定ならず時に幕府の内命に依りて人を遣わして京師の状を探らしめ髣髴として叡慮の有る所を知り給い今此職を奉じて輦殻の下を護り言若し信用せらるゝ時は公武の間を和し徳川家の危急を救う此時にあり假令任に勝へずして身を失うとも西上して京師を以て墳墓の地と定め上は叡慮を安じ奉り下万民を救わんと断然決心して上京して給う其以来精忠を抽で給うに依り天皇深く依頼し給い大樹の寵愛又厚し是以危難の事或は之ありと雖も必利運に轉し今に至る迄六年の間誠忠不渝始終一天皇叡慮の余り幾度となく宸翰を下し賜り公甞て病める時辱くも自ら内侍所に於いて祈願し給うに至る其寵遇実に比類なしと云うべし今春も先帝叡慮遵奉長々守護の職掌相励み其功不少叡慮不斜褒賞として参議御推任も有之元長州は先年より外尊王攘夷に托して実は不軌の志を懐き王室を誘い幕府を欺き其罪枚挙す可らず甲子七月に至り終に大兵を挙て禁闕の下を襲い銃丸御所の屋墻に及ぶに至る其逆乱の罪誅しても猶余りあり天皇大に逆鱗大樹も亦深く之を悪み給うと雖も終に寛典に従い僅に官位を褫奪し領地を削る其命を用ひざるに至りて其罪を声して之を伐つ然るに天皇崩御大樹薨去大喪打続き国家多難の時に遇ひ姑く兵を解くの処奸邪其隙に乗じ無勿体も幼主の明を暗し奉り事に托して長州の罪を赦して官位を復し先帝の勅勘を蒙る公卿を用ひ陪臣をして参興せしめ摂政殿下を始め奉り大樹我公桑名侯皆其職を免じ正邪地を換へ忠奸所を易るに至る是先帝の意にあらざるのみならず亦今上の意に非ざる事明白なり嗚呼一坏の土未だ乾かざるに今上をして父之道を改めしむる事大悪無道の至と云うべし其他和州の一揆を醸し英夷に降て其力を頼むの類其罪亦軽からず此上は幕府並に我公に汚命を負わせ兵を加えざらん事も亦知る可らず我公多年の精忠空しく水泡となりて残念と云うも愚なる事ならずや実に膽を嘗め薪に臥すの時にして君辱めらるゝ時は臣死するの期に至れり苟も人心ある者臣子の情に於て豈片時も安ず可んや禁廷に対し奉り弓を引く事は決して為す可からずと雖も奸邪の徒若し倫旨を矯め兵を加うるあらば関東と力を戮せ儀兵を挙て君側の奸悪を除かざるを得ず夫れ公の忠誠貫徹せずして今の勢に至るは抑盡さゞる所あるか是畢竟臣民公の意を戴任するの全からざるに由る恐多きの至りに非ずや然ば闔藩の士民貴賤上下となく祖宗以来の徳澤に浴する面々此意を領掌し力を合せ心を一にして兵起らば国家の賊を誅滅し武威益天下に輝さん事を期し日夜肝に銘じ暫時も忘るゝ事なく国論一途に帰し万人の心一人の如くならば我公の精忠天地を貫き神明の擁護有て再び晴天白日を仰く事豈疑あらんや仮令身死すとも厲鬼となりて祟を為し奸賊を絶滅するの心なき者は天地の神祇其之を殛せよ
 
 大勢そのごとく迫りしかば、会津にありし藩相は令して年賀の禮を停め、なお国境守備の戒厳を令し、その部署を定む。

一 津川口。赤谷口より三津喜澤迄木村忠右衛門隊、ただこの節出張候様、

一 伊南伊北桧枝股より八十里越迄。三番隊、

一 浜崎。桧原より村杉澤迄、長阪平太夫隊、

一 田島。熨斗戸より東不残、加須屋左近隊、

一 赤津福良の内大平より五箇江迄、山崎隊、

一 一番組の義は爰元に罷在、不時応援相心得候様、

一 猪苗代酸河野より小平潟間、口々御城代委任候様、


時勢切迫今日の世態と相成候に付ては今日にも如何様事変出来可致も難計四堺御備配り至極大切なる義は勿論に候処事に臨み聊もつれ有之候様にては必至と難相成義に付右之通り方面々々受取兼て御配置被成置の旨被仰出候依ては御差支に不相成様繰合地利見分探索をも可心懸候

右之通御定被置候得共時の形勢模様を以て持前外の御用被仰付候も可有之尤時宜に寄り御人差にて被仰付候義も可有之条兼て相心得罷在候様此旨被得其仲ヶ間並に組支配へも被申聞相備の面々へも可被申傅候事

 会津藩長沼流の軍政に於いては部隊の単位を隊という、その隊長は家老の内三名、番頭八名、新番頭一名、総て十二隊とす、家老の頭たる三隊を一番組二番組三番組と称す、この一組と番頭または新番頭の頭たる三隊を合わせこれを一陣という、組を率いる家老これが長としこれを陣将という、ゆえに全藩に三陣あり、一陣を先手とし、一陣を左右とし、一陣を殿(しんがり)とす、今年殿たる一陣は翌年左右となり、左右たる一陣は先手となり、先手たりしは殿となる、江戸京都の勤蕃は先手の陣これを務める、一隊にはその頭たる者の外組頭二名物頭三名あり、しかして甲子と称する士分、興力と称する徒級の侍合わせて六七十名、また物頭は足軽小頭二名足軽二十名に長たり、右の外家老組には旗奉行等あり、一隊の人員は従者を除き百三十名前後なり、当時の先手は家老田中土佐の一陣にて二番組番頭上田八郎右衛門隊、番頭生駒五兵衛隊、番頭堀半右衛門隊をもってこれを編成す、京都には右一陣の外に大砲隊、別選組等ありき。
 二十六日阿州藩長江播磨、筑前藩久野四郎兵衛、仙台藩伹木土佐、肥後藩三宅籐左衛門、津藩藤堂帰雲、久留米藩山村源太夫、柳川藩籐谷小六兵衛、二本松藩增子源蔵、肥後藩酒井平兵衛、対州藩平田為之丞、新発田藩窪田平兵衛等連書して左の建白書を朝廷に上る。

朝廷に於いて萬機御裁決被遊候に付ては天下の公論を被為採候間心附候儀は忌諱を憚らず極言仕り候様との趣委細御沙汰の趣難有奉畏候就いては不束の存意には候へ共黙止罷在候ては御趣意に違却仕候間乍恐左に言上仕候去九日以来稜々大非常の大変革柱礎は相立てられ候形に付此上は精々衆議を盡させられ名実相反し申さゞる様御施工在らせられ度挙て奉懇願候内徳川内府公軽隊にて速に上京有之候様御内沙汰在らせられ候趣に傅承仕り同心は疾く御了解の御様子に付素より勅意の通り御心得可被成候得共即今の形勢臣下に取り候ては御上京の一条何分心遣いに堪兼候は必然にて又々紛擾計り難く夫も夫々の忠心に出候譯に付其儀は朝廷より深く御洞察御猶予被為在度趣に徳川家は癸丑以来失体の稜も少なからず趣に候へ共右は専ら先代に関係致し候儀にして当公に相成候ては二百五十年来の政権職掌辞せられ候も一意に朝廷の御為筋より発し候果断に候へば今般更始御一新の折柄総て人心の動揺に係り候儀は成丈け御斟酌在らせられ漸を以て復古の御政体取固相成候様在らせられたく奉存候一向に公平正大と申候ても時処位に因りて緩急の差別も無之候ては相成間敷追々難被仰出も有之候へ共何分今日の形勢にては約り列藩割據の姿とも成行可申哉加之外国の覬覦も計り難く皇国治安の譯を以て却て皇国を傷害する筋に相成候ては全体の御趣意に相違致し苟も祖先より王化に浴し候身分実に流涕憂苦に堪え申さず戦兢罷在候依之鹵奔を省みず差当り危急の条々廟堂御衆議の端にも可相成哉と申上試み候間三人居時は二人の言に従うと申す古語も有之何卒其員に御加へ下され一刻も早く御鎮撫の御処置も相成り猶此上の偽も衆議の帰する処を以て御裁決在らせられ万民安堵の場合に至候様重畳奉願候誠恐誠惶頓首敬白

 この日松平慶永朝臣大阪城に至りて、先つ板倉勝静朝臣、永井尚志を見て事情を談じ、慶喜公に謁して朝廷の書を示して延議困難の情を陳す、慶喜公感激していわく、時機至らば命を奉じて上洛するも可なり、しかれども事軽挙に出づべからず、明日を待ちて決すべしと、徳川慶勝卿は道より病みたれば、成瀬正肥代わりて登城し朝廷の書を慶喜公に示す。
 二十七日松平慶永朝臣は徳川慶勝卿の旅館西本願寺を訪ねて昨日の事を奉じ、大阪城に登りて板倉勝静朝臣に面す、勝静朝臣いわく、今内府公の前に於いて尚志、敬忠筆をとり文案を作れども未だならず、明日登上を煩わすと、この時に当りて慶永朝臣はしきりに慶喜公の参朝を促し、かつ辞官納地を請うことを慫慂す、内府いわく、辞官はこれを請はん、もし土地を納むれば累世の旗本を養うこと能はず、われ当に参朝してこの意を奉すべし、慶永朝臣いわく、公よろしく小隊を率いて上洛すべし、もし戒心あらば尾越の兵をもって護衛すべしと、慶喜公賛成してうなずく、しかして心にこれを危ぶむ、時に新選組土方歳三(近藤勇負傷により代われり)伏見を守る、尾州人その守りを徹せしめんとす、歳三これを肯ぜざりき。
 二十八日松平慶永朝臣、慶喜公の召しによりて大阪城に登るや、板倉勝静朝臣、慶喜公奉命の書を交付すいわく、

辞官之儀者前内大臣興可称御政務御用途之儀者天下之公論を以御確定可被遊興之御沙汰之趣謹承仕候段可被申上候事

御政務御用途之儀は天下の公論を以御決定皇国高割を以相供候様不相成候而者臣子之鎮撫行届不申容易に御請も難申上候間其断厚御心得御尽力有之候様致度候事

 徳川慶勝卿に答ふる書はこれを成瀬正肥に付興せり。
 この日慶喜公は慶永朝臣を引見していわく、京都参内の事よろしくは尾越保証して奉ずればただちに上洛すべし、また上洛の後参内に至るまで延引せば世人の疑惧を招かん、よりておおむね参内の時日を定め、雪江をもってこれを奉ぜよ、慶永朝臣拝承し且いわく、今両人に下付せられたる奉命書は、慶永は慶勝と相議し、更にその趣意をもって文辞を改書し、両人より朝廷に奏聞せんと、慶喜公これを諾す。
 二十九日雪江は京都に抵り、岩倉具視朝臣に謁していわく、内府異議を唱えず奉命の書を慶永等に下付せられたりと、具視朝臣大に悦びていわく、内府果たして上洛するや如何、雪江いわく、内府すでに命を奉ず何時にても上洛せん、しかれども事朝廷に関かるをもって、明日慶永より上申せんと。
 晦日慶永朝臣、慶勝卿代理成瀬正肥と共に参内して復命書をしめす。


今般御沙汰御座候両事件之趣慶喜へ申聞候処謹承仕候旨申出候此段申上候
 十二月
  尾張前大納言
  越前宰相






卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/02(日) 15:16:21|
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領地返上につき中根雪江の明弁

領地返上につき中根雪江の明弁

 しかるにこの日慶勝卿、豊信朝臣および島津忠義朝臣は並びに病と称して朝せざりしかば、武門議定は慶永朝臣、浅野長勲朝臣および慶勝卿の名代成瀬正肥のみなりしが、慶永朝臣と正肥とは大久保一蔵の起草せる諭書案の領地返上の句を除かんと主張し、また二十五日より一週間を限り、必ず慶喜公をして奉命する所あらしむべければとて、それまでの猶予を請い、もし右の句を除きたる上にても、慶喜公これを遵奉せずんば、追討の朝命をも違背せざるべしと、尾越の下参興はその席に陪するを得ざれば、裏面の周旋を開始し、中根雪江、田中国之輔等は公卿中議論家の名ある右中将中御門宗有、大納言正親町公薫、三位長谷信篤、右大辨萬里小路博房等の処公卿を見て、国之輔先ついわく、返上の二字人心に影響して甚だ不可なりと、諸卿いわく、一理なきにあらざれども政権奉還の上は、領地を返上せざれば名分名義立たずして、内府の誠意も顕れざるにあらずやと、雪江声に応じていわく諸侯の語を案ずるに、明分却って明らかならず、よくよく徳川氏の関東八州を領有するは、豊太閤の時に当りてその旧領駿遠参甲信と替ふるところにして、武巧をもって得たる者と異なることなし、その他の領地も皆由緒ある者にして、一も朝廷に賜わりたる者にあらざるは、当時の世態の然らしむる所にして、決して政権にも将軍職にも属する者にあらず、また祖先東照宮の世にあるや、天下の人心ことごとく徳川氏に帰せしをもって、政権もまた自らその掌握に帰せり、他の有を奪へるにあらず、他より譲られたるにもあらず、また将軍職のごときも再三辞したるも強いて命ぜられたるなり、爾来二百余年継承せるものなれば、今日におよびその政権を奉還したりとて、その領地も併せてこれを返上せざるべからざるの理由果たして安くにあるや、いわんや政権に関わらざる一般諸侯は依然として旧封土を領するにおいておや、これをもって見れば徳川氏のごとき世々政権を執り心を労し力を尽くし、功を重ね得を積みたる者は却って不幸に陥る者と言うべし、天下豈にこのごとく条理に反するの事あらんや、元来政権と領地と将軍職と官位と皆性質を意にし、名義に関するものにあらず、しかるにその領地を返上せざれば名分名義立たずと言うは解すべからず、諸侯いわく、このゆえに昨日諸侯皆領地を返上せしむべしとの議ありしともいえども、当を得ずとしてこれを止めたり、雪江等いわく、実にしかり、いまもし諸侯皆領地返上の命下らば、天下たちまち擾乱すべし、徳川氏一家におけるも人情何の異なる所あらんや、すでに諸侯に不可ならば何ぞ一人徳川氏に強制するの理あらんや、諸侯辞ようやく窮し僅かに遁辞を設けていわく、普天の下率土の浜皆王土王臣ならざるなし、ゆえに朝命により土地を返上するは当然なり、雪江等いわく、天下ことごとく王土にあらざるなしといえども、随意に朝命をもってこれを返上せしめんとするは正理にあらず、おおよそ土地人民縦令叡慮に出づるも、条理に反するものは行はるべからず、請う近時の長州再征を見よ、名義正しからず、ゆえについに匡救すべからざるの情勢に致したるにあらずや、いわんや徳川氏と長州氏と同一視すること能はざるをや、謀等徳川氏の支族臣子たり、宗家存亡の秋に際して坐視するを得ず、偏に憐察を乞う、不肖等また参興の任を辱うす、皇国朝廷の為に諌争せざるを得ずと、議論剴切言々肺腑より出ず、すなわち諸侯復た争うことを得ず、この日下参興の席室においては、大久保一蔵等藩論を維持せんと欲し、論難底止する所なしといえども、諸侯すでに尾越の下参興に論破せられしをもって、朝議ついにその意見を容れて訂正する所あり、『御政務御用途も可有之に付領地返上の儀は公論をもって可被仰出』とあるを『御用途之分は領地之内取調の上公論を以て御確定可被遊』改削して、長谷信篤卿より尾越両侯に示す、両侯いわく、『確定』の字可なり、『領地の内』の下に『より』の二字を挿入すべしと、固く執りて動かず、具視朝臣ついにこれに従う、すなわち更に小御所に会して、熾仁親王は左の書を慶永朝臣に交付す。

一 今般辞職被聞召候に付ては朝廷辞官之令に倣ひ前内大臣と被仰出候事

一 政権返上被聞召候上は御政務御用途の内より取調の上天下之公論を以て御確定可被遊候事

右両件心得迄御沙汰候事


 親王又徳川慶勝卿代理成瀬正肥を召して令書を興ふ、これにおいて先に将軍政権返上後ひとり徳川氏にのみ土地を返上せしめんと主張したる、具視朝臣、一蔵らの意見は次第に折衝を重ね、ついに尾越土諸藩の正論により、具視朝臣の同意を得て根底より崩壊したり、あくまで干戈に訴えてその素志を貫かんとす。
 しかるに山内豊信朝臣は政府の経費徳川氏のみに出さしむるは条理に反せり、よろしく諸侯にもこれを及ぼさゞるべからず、かつこのごとくんば大阪城の人心を穏和するに足るを信じて、たまたま病によりて後藤象二郎にして代わりて左の建議を出す。

政務御用途の儀は御新政の御急務に付徳川内府より差上る段御請申上候はゞ速に列藩諸侯へは天下の公論を以て貢献の次第相手候様被仰出可然と奉存候右は容堂職分を以て申上候如何御決定可被付哉奉伺候以上

 象二郎もまた慶喜公奉命の後は、ただちに総高割発令の内定書を得て、容堂に示さん事を請いしが、朝廷はこれに附箋して内定したる事を告げたるのみ、これより先上参興は政府の経費は慶喜返上の地より充てるべしと論じ、下参興は全国の総高割にべしと論じていまだ決せざりしが、これにおいて豊信朝臣の議に決せりという。
 この日慶喜公は親書を江戸老中に授けて警戒せしむ、その書にいわく、

目今奸賊機に応じ関左(関東)を騒がし候由水府始示相暴行の草賊を打滅し当地御顧の憂無之様無懸念可取計候様可致候也






卷一 大政奉還  会津戊辰戦史1

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  1. 2012/12/01(土) 20:36:56|
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