いがぐり史料館

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白河城の陥落

白河城の陥落

 閏四月二十一日仙台坂英力、但木土佐、米沢藩竹保美作岩沼に至り連署して左の書を九条総督に呈す。

今般白河城へ御転陣被為成旨被仰出候処会荘二藩之儀に付奥羽之間人心恟々既に所々一揆等相起り被為遊御転陣候ては弥衆民不知所向朦昧之余追々如何様暴動相発候哉難計深心痛仕候間早速仙台表へ被為遊御帰陣億兆安堵致奥羽瓦解不致様御鎮撫被成下度一同奉懇願候誠恐謹言

 諸大夫鹽小路刑部少輔これを受け、奥羽列藩の請いにより帰陣の布告をなし、御衛の隊を整えて岩沼の陣営を発す、この時九条総督は病と称して輿を閉ぢたるが、実は空輿にして、総督は二十日すでに輿を発して仙台に至れりと云う。
 先に閏四月十九日仙台、米沢両藩は会津討伐の解兵届を提出したるが、荘内征討並びに征討軍応援の命を受けたる奥羽各藩、すなわち南部美濃守家臣野々村直澄、佐竹右京大夫家臣戸村十太夫、津軽越中守家臣山中兵部、戸澤中務大輔家臣舟生源左衛門、水野真次郎家臣水野三郎右衛門、松平山城守家臣山村主税、六郷兵庫頭家臣六郷大学、岩城左京大夫家臣大平伊織、生駒大内蔵家臣推川嘉籐太等は閏四月二十二日連署して解兵届を総督府に呈せり。

先達而酒井左衛門尉朝敵に付征討並に応援被仰付候より各藩出兵仕候処左衛門尉儀は未た官位御取上之御沙汰も無之而已ならす従太政官上京被相促候儀も有之哉に相聞自然衆心疑惑を生し候上固より僻遠之境に隔り居る人民に御座候得は徳川慶喜東下之後主として恢復を謀候趣被仰出其之罪蹤跡も分明に承知仕兼候に付奥羽諸藩尽衆議申度と打寄候処最初佐竹右京大夫より問罪之上出兵仕度旨相伺候節以御演説其儀は難被及御沙汰旨被仰渡益難冤疑惑候へば猶此上幾度も奉汚尊聴候儀甚以恐縮之至と一同評決仕左衛門尉罪状之儀太政官へ相伺申し候内徒に昿日持久庶民農桑之節を妨ヶ候儀朝政御一新深く御仁恤を被為垂候御趣意にも相悖候儀は一同奉恐縮奥羽各藩衆議之上太政官より御沙汰有之候迄は一先解兵仕候間此段御届申上候以上

 閏四月二十三日奥羽列藩の重臣白石に会合し、列藩同盟の事を協議し、福島に軍事局を置き以て西軍を討するの策を定む、仙台藩相但木土佐は仙台の本城に在りて軍資糧食兵器弾薬等の事を掌り、同坂英力は軍事局に在りて専ら攻守の指揮を掌る、会津もまた陰にこれに協力す。閏四月二十四日間諜白河城を守れる我が軍に報じていわく、薩、長、佐土原の兵今朝太田原(栃木県那須郡太田原町)を発し今夜蘆野町(同郡蘆野町なり、太田原蘆野は旧陸羽街道にあり)宿すと、これにおいて青龍一番士中隊中隊長頭鈴木作右衛門、軍事奉行添役木村熊之進、遊撃隊頭遠山伊右衛門、純義隊小池周吾、会津隊頭野田進等相議して戦略を定め、白坂口(旧陸奥街道より白河へ入る本街道口なり)には新選組隊頭山口次郎を先鋒とし、遠山伊右衛門これに次ぎ、棚倉口(棚倉街道より入る白河の東南口なり)には小池周吾、原方街道(現陸羽街道より白河へ出る西口なり、那須または黒川街道口とも云う)には鈴木作右衛門各兵を率いて西軍に備ふ、この頃より我が東部諸口の守備兵を順次徹して白河方面へ向けしがごとし、けだしこれ等諸方面へ守備隊を置く必要なきを認めたるなるべし。
 同二十五日暁天西軍来り白坂の関門を攻む、山口次郎、遠山伊右衛門等隊兵を指揮して戦う、太平口の部将日向茂太郎は進んで米村(西白河郡西郷村大字米)に在りしが、砲声を聞き急に進んで白坂口の側面より、砲兵隊長樋口久吉は白河九番町(白坂へ至る西街道へ出る白河の出口なり)より進んで奮戦す、棚倉口より小池周吾、原方街道より鈴木作右衛門進撃し、義集隊今泉伝之助、井口源吾等歩兵を率いて横撃す、西軍皮籠原(白河に近く南に在り)にて撒兵となりて来り迫る、東軍もまた散布してこれに応ず、西軍の参謀伊地知正治その不利なるを察し急に兵を収む、我が軍勝に乗じて追撃し、境明神(岩代、下野の界線と旧陸羽街道の交差点に在り)に至り後、軍を白河に班へす、彼らの死傷すこぶる多し。
 同二十六日我が軍の総督西郷頼母、副総督横山主税、朱雀一番士中隊中隊頭小森一貫齋ら勢至堂に在り、白河城には義集隊大隊頭辰野源左衛門、新選組頭山口次郎、純義隊頭小池周吾、青龍一番士中隊中隊頭鈴木作右衛門、朱雀一番足軽隊中隊頭日向茂太郎等在り、各々兵を率ゆ、日向茂太郎は城を出でゝ原方街道に進み、長山に壘壁を築き大砲を装填してこれに據る、その他白坂口あるいは棚倉口に戍兵を置く、これにおいて小池周吾、純義隊軍艦宮川六郎、新選組山口次郎ら総督西郷頼母に建議していわく、敵軍蘆野に在り故に境明神に哨兵を設け、白坂に至るまでを偵察して速に兵を進めざるべからずと、幌役津田範三もまた建議していわく、兵を白河城に進めんと欲せば、大将辺城に入るの法則により、若松より連絡を保たんが為、長沼、上小屋(岩瀬郡大屋村字)等に兵を置き、白河城より境明神、白坂等に至るまで哨兵を設けざるべからずと、今これを試さずして軽々に兵を進むるは策の得たるものに非らずと、総督聴かずしていわく、大将辺城に入る時は、先に城に入りし将長各先鋒となり防備を厳にすべし、兵を後方に置き連絡を保つがごときは我が藩寡兵の能くする所にあらず、今仙台、二本松、棚倉等各藩の大兵白河城に在り、何の憂ふることか之あらんと、この日御霊櫃峠よりは青龍一番足軽隊中隊頭杉田兵庫一中隊を率い、中地村よりは遠山伊右衛門遊撃隊を率い、勢至堂よりは西郷総督、横山副総督、小森一貫齋一中隊を率い、鈴木作右衛門半小隊を率い共に白河城に入る、尋いで又翌二十八日仙台参謀坂本大炊、歩兵大隊長佐藤宮内、同瀬上主膳ら兵を率いて来り、横向よりは朱雀一番寄合中隊頭一柳四郎左衛門一小隊を率い、棚倉藩平田弾右衛門一小隊を率いて白河城に会し、兵勢大に振ふ。
 閏四月二十九日西軍襲来の報あり、これにおいて棚倉口櫻町方面には遠山伊右衛門、鈴木作右衛門、小池周吾、小森一貫齋、仙台藩瀬上主膳、棚倉藩平田弾右衛門らこれに当り、天神町白坂口には一柳四郎左衛門、今泉伝之助、井口源吾、杉田兵庫、山口次郎、原方街道には日向茂太郎大砲二門、井深右近ら各兵を率いてこれに備ふ、西軍、薩、長、大垣、忍の兵白坂に在り、兵を按じて未だ進まず。
 五月朔日寅の上刻西軍兵を分ちて三道より白河を襲ふ、薩州五番隊、長州三番中隊大砲二門、大垣一中隊大砲一門、忍藩一小隊、本道皮籠村より進み来る、薩州二番四番隊大砲一門、白河城東間道よりし、大垣一中隊皮籠村の東山林の間道より等しく兵を進む、蘆野、太田原には忍藩四小隊を止めてこれを守る、卯の上刻西軍棚倉口方面より大砲小銃を発する事すこぶる烈しく、純義隊以下の諸隊ほとんど危うし、すなわち鈴木作右衛門、平田弾右衛門を左右に分ち、西兵を包囲せんとし、兵を指揮して砲戦す、西軍原方口方面よりも急に進撃す、日向茂太郎、井深右近等よく戦い、西軍少しく退く、我が軍ますます進んで来たるを追い、長山の麓に至る、西軍の伏兵左右森林の間より起り、先に敗走したる西兵返戦して三面より猛撃す、仙台の将佐藤宮内、坂本大炊赴き戦う、大炊逢隈川を渡りて西に進む、弾丸その頭を貫きて斃る、仙将瀬上主膳衆を励まして戦う、日向茂太郎これに死す、東軍支ふること能はず、米村の堤防に據って戦いしも、すなわち砲兵十余人皆斃れすこぶる苦戦の状あり、部将鈴木義登は日向茂太郎の遺骸を収めて大平方面に退く、白坂口天神町の方面は西軍皮籠村より徐々に砲戦して進みくる、一柳四郎左衛門、山口次郎、今泉伝之助、井口源吾ら稲荷山(九番町の入口に在る丘上なり)に登りて西軍の来るを待つ、棚倉口原方口の砲戦ますます烈しきに及びて、西兵皮籠村二軒屋辺堤防の樹蔭を潜行し、稲荷山前面に顕れ、大砲小銃を連射して戦いを挑む、四郎左衛門、伝之助、次郎ら兵を督して奮戦す、副総督横山主税自ら釆配を振って衆を励し、稲荷山に登るやすなわち弾丸に当りて斃れる、戦い猛烈にして遺骸を収むるに暇あらず、従者板倉和泉わずかに首を馘して退く、棚倉口櫻方面は遠山伊右衛門、鈴木作右衛門、小森一貫齋、平田弾右衛門ら諸将殊死して戦うといえども遂に利あらず、仙兵は根田(西白河郡小田川村大字蘆野の小字なり)、小田川(西白河郡小田川村の大字なり)の方面に退き、その他は白河の市街に退きしが、混乱状態に陥りし収拾すべからず、西軍天神町口本町に在る我が兵の背後を衝く、原方九軒町の兵もまた防戦すること能はずして米村、大谷地(西白河郡小田川村大字豊地の小字なり)に向って退く、東軍敗績す、寄合組中隊頭一柳四郎左衛門、軍事奉行海老名衛門、軍事方小松十太夫、士中隊半隊頭鈴木覚弥、足軽組小隊頭上田源之丞等の諸将校皆相前後して死し、その他死傷甚だ多し、総督西郷頼母馬を馳せて叱咤衆を激励するも潰乱制すべからず、頼母決し進んで敵軍を衝かんとす、朱雀一番士中隊小隊頭飯沼時衛クツワをとって諌めていわく、総督は今此に死するの時に非ず、よろしく退いて後図を計るべしと、頼母聴かず、時衛すなわち馬首を北にしてこれを鞭つ、馬逸して向寺(阿武隈を隔てゝ白河の北郊外に在り)の方面に奔り、滑川(岩瀬郡大屋村の小字)に至るころ敗兵集まる者わずかに三小隊に過ぎず、ついに勢至堂に退く、この日二本松兵七百人、および我が藩坂十郎は一柳四郎左衛門の隊兵半小隊を率い、須賀川を発し白河に至るの途上、砲声を聞き馳せて開戦せんとせしも及ばず、すなわち中新城(西白河郡信夫村の大字)に退く、敗後仙台、二本松の兵は矢吹、須賀川に陣し、我が兵は長沼、勢至堂、三代に退き、西軍は白河城に入り、遠く仙台口、棚倉口、原方湯本口(我が大平口の兵に備ふ)に兵を配してこれを守れり。






卷五 東方の戦下  会津戊辰戦史1
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  1. 2013/01/30(水) 10:46:35|
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白河城の奪取

白河城の奪取

 これより先閏四月十六日初めて我が兵を大平方面に進め、純義隊長小池周吾、会津隊長野田進、真名子村(西白河郡西郷村大字真名子)に出陣す、野田進、内村砂次郎潜行して白河、棚倉地方の形勢を探る、時に仙台、二本松、棚倉、三春、泉、湯長谷、各藩の兵白河城を守り、世良修蔵牙城に在り、薩州、土州、大垣の兵来るの報に接し、修蔵令して各藩の兵を他に移し、独り二本松の兵を止めてこれを守らしめ、修蔵は福島に至る、しかして守城の各藩は皆戦意なきものゝごとし、十九日間諜報じていわく、仙台の兵すでに矢吹(西白河郡矢吹町)に退き、岩城、三春の兵もまた退かんとするものゝごとしと、これにおいて我が軍機失うべからずとなし、野田進、小池周吾各々その隊を率いて奮進し、別に使を馳せて勢至堂口の守将鈴木作右衛門に報ず、二十日暁天兵を三分し小池周吾は後門より、野田進は前門(追手門なるべし、城の正南門なり、後門、外城は詳ならず)、三坂喜代助、西山半三郎等は外城より猛撃す、城兵狼狽して支えず、我が兵火を会津町(城の正西方に在り)に縦ち敵兵十余人を摛にす、三坂喜代助、外城の女墻を攀ぢて城中に在り、直ちに城門を開く、全軍侵入す、城中大に驚き、二本松の兵は敗軍を装うて退き、岩城の兵は火を城中に放ちて退く、我が兵城に入るや、たまたま二本松の兵士一人馳せ来りていわく、喜藩とは密に約する所あり、しかるに今火を放つは何ぞ(火を放ちたるは我が兵にあらず、発砲の誤りにあらざるか)、吾らこれを質さずして退くは武門の道にあらずと頑然として動かず、我が兵答えていわく、嫌疑を避けんがため故らに攻撃の態度を示したるに過ぎず、請うこれを諒せよと、また中地村の郷士渡部留助城中に入り、長州人中村小次郎を斬らんとす、中村もまた刀を揮って暫く格闘せしが、渡部はついに中村を地に倒し首を馘せんとせし時、たまたま一敵兵(岩城藩の兵ならん)来りて渡部を斬り、中村は二本松兵に助けらる、かくて我が兵城に在るや太田原の西軍来り襲わんとするの報あり、よって急に戦備を修む、午の下刻勢至堂口に在りし鈴木作右衛門、田中左内、青龍一番士中半隊頭落合経三郎、一小隊を率い野村元六、矢島村右衛門、農兵を率いて来り会し兵勢すこぶる振ふ、仙藩和田右文この状況を見、馬を馳せて郡山至り、参謀醍醐少将に報ず、少将色を失い、従者二三人と潜行して福島に至りしに、関門堅く鎖して入るを得ず、従者守衛に告げていわく、醍醐少将帰陣す速に門を開けと、守兵いわく、印鑑を示さゞる者は通過を許さずと、仙将泉田志摩これを聞きて門を開かしめ、先導して福島城に至り、その夜舟を逢隈川に浮かべて密に仙台に帰る。
 閏四月二十一日一柳四郎左衛門、隊兵石塚源助、林部敬蔵をして左の書翰をもたらして福島に至り、瀬上主膳に贈らしむ。

一簡啓上仕候向厚の節御永陣御心労に候処益御勇勝珍重奉存候然るに昨夜中根辰野帰営御左右承知賊首世良修蔵御手へ生虜の由始終御神算の程感歎及楮上奉存候隋而残党周章狼狽可致哉御人数に御不足は有御座間敷候得共白石御本陣近口の儀にも御座候得は相応の御警衛無御遠慮可被仰聞候右為得貴意如斯に御座候恐惶謹言






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/01/28(月) 11:54:09|
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世良修蔵の殺戮

世良修蔵の殺戮

 この夜福島藩においては、福島町の第一の青樓に盛宴を張り、辞を卑うして修蔵を招きたれば、修蔵大に悦び意気揚々として来り臨む、美酒佳殽を陳ね、美妓席に侍し、欵待至らざる所なし、夜半に至り修蔵押妓と共に樓上の一室に寝に就く、武之進等好時機なるを告ぐ、主膳すなわち福島町の探偵浅野宇一郎を呼び命じていわく、まさに修蔵を捕えんとす、ゆえにこれを助けて遺算なきを期せよと、福島藩遠藤条之助、杉沢覚右衛門、鈴木六太郎、仙台藩姉歯武之進、田辺覧吉、赤坂孝太夫、松川豊之進、末永縫殿之允、岩崎秀三郎、小島勇記、大槻定之進等は浅野宇一郎および彼に属する部下を率いて、子の刻修蔵が宿せる青樓に至りその部署を定め、条之助、孝太夫は修蔵が寝室に侵入す、修蔵大に狼狽し短銃を執って発射せんとしたるも銃丸発せず、衆踊り進みてこれを捕ふ、衆蔵の属吏勝見善太郎は驚起刀を抜いて戦い、ついに覧吉に斬らる、修蔵を主膳が宿せる浅野宇一郎が家に引致し、勇記、武之進は押収せる密書を修蔵に示してこれを詰問す、修蔵辞窮して答ふること能はず自らその罪に服す、翌二十日黎明修蔵が罪状を数へこれを須川の磧に斬る、会津中根、辰野、主膳に言っていわく、奥羽の民久しく害を受くるもの多くは世良一人の為なり、今や幸に貴藩の決断によりてこれを倒すを得たりと、喜び極つて泣きこの首を携えて会津に帰らんと請ひしも主膳聴かず、中根いわく、しからば頭髪を請い得て帰り以て甘心せんと、主膳これを諾せしかば、監物踴踊してその髪を切り、携えて横向に帰り、四郎左衛門に示してその顛末を報ず。
 尋いで主膳は修蔵の首を白石の本営に送致す、たまたま玉蟲左太夫坐に在り叫んでいわく、その首を予に貸せよと、傍人その故を問いたるに左太夫いわく、厠中に携え去つてこれに溺せんと欲す、当時奥羽列藩憤激の一班を察すべし。
 修蔵の死するやその行李を点検して書翰数通を獲たり、左に録するものこれなり。

 大山格之助より世良へ送りし書翰
爾来御壮健被成御出陣引続き御配慮の程奉恐察候陳者総督様にも弥其御地へ御転陣被為在候筈と奉察上候扨は過日仙台米沢両人岩沼へ参陣別紙歎願書持参種々姦計を以て総督府へ奉迫或は宇都宮の賊徒又々守返し相蔓り或は各藩向背抔と申立候段は最速御承知被為在候半と奉存候実に不容易一大事の御場合にて万一一言御採用の御沙汰相発候はゝ二度取返しも難出来殊更手足に汗を握候次第に御座候夫に付澤殿へ別紙の御書面を以て御相談に相成一昨日仙台差遣右仙藩の者甚奸物と被伺桂氏等へも参り(仙台差遣云々より参り迄の文不可解)色々模様等相伺又は澤殿より御返答振の事迄相尋候に付御存慮の事は全く不存旨相答置候過日被仰越候通り弥り両藩此儘に被差置候ては若し策不成時は違勅は勿論会津庄内へ相結ひ反逆たる時は大変の次第に御座候就ては両中将は早々京都大阪の間へ御呼寄被成置両三年の内奥羽鎮撫土台相据候迄は被指留候様に無之候ては実に皇国一変現在相見得候間猶御熟考被下何分にも早々両卿へ御懸合被下候様奉存候尤諸藩重役も今に白石に差留相成候由是非迫り付候十分見留有之哉段々秘策を尽し候筋に御座候(是非迫り付云々より不可解)若京師迄御召の処急速運兼候はゞ指懸り関東迄大総督宮へ御召相成会歎願の儀御糺しと申事にても可然奉存候早く相除き候方専要と奉存候

一、薩藩当方へ差向き候由にて先触相達し大に力を得申候南部の兵は今日明日と待入候へ共今以着の左右無之此兵着次第一時に四方より大挙して討入踏破候賦りに御座候棚倉も先触相見得是は山形へ留置候て同時に六十里越(月山の南麓に在り)へ指向候賦りに御座候

一、佐竹は弥奮発既に昨日より討入候儀作朝由来候

一、京都より申来候芸と有馬の応援如何の都合に御座候哉作朝蒸気船二艘酒田沖平島へ着にて則左竹より物見指出候へ共帆印等不相分候由自然右応援の兵共に候へは別而の上都合に御座候へ共賊の応援かも不相測候

一、松山(山形県飽海郡松山は、荘内の支封二万五千石、酒井大学頭所領す)の儀も弥本藩へ付属出兵此節本導寺(本同寺同所か月山の正南麓に在り)辺にて彼藩の者召捕其後再三重役呼出の儀相達候処種々及強訴候所業此上は不得止事討入可申候左様御聞置可被下候

一、前件の次第何卒速に御評決被下関東へ御懸合奉希候也

右急々要事のみ如此御座候尚此便より其御地の御模様為御知可被下候以上

 別紙

仙台米沢等出頭にて会賊謝罪歎願書三通為見被下且演舌の儀共御細書の趣敬承仕候於下官猶篤と熟考仕愚存の程左に奉申上候

一、抑容保儀奉対天朝実に奉恐入候儀に候へ共最初官軍国境へ押付候節開城降伏暴臣の罪に於ては首級指出候はゞ弥恭順の筋も相立可申御聞届可被為有哉に奉存候国境に砲台を築き官軍を引受防戦剰へ越後路辺諸所へ蔓延兵を募り央(この字詳ならず)表面に降伏歎願申立候儀弥以暫時の難を避候為と被察候只今の形勢を以て歎願御採用鎮撫行届候姿にて御伺の儀於大総督府如何被為思召候哉に奉存候事

二、是迄征討の実効無之仙府御着陣即時より数ヶ度急速討入遂成功候様御達も有之候儀何も承知の通に御座候処種々遁辞申立時日押移り終に農耕の時に至り候儀畢竟仙米等の俗論を醸し候罪と存申候前後を不弁今更農事の苦情申立加之奥羽の諸藩重役衆議を企全く大義名分も不弁候重役等の連判を以て申立の廉々如何被思召候哉と奉存候事

三、御沙汰の通万民の苦実に可憐次第は幾重にも汲量仕追々奉申上候通於当方は引続戦争人馬の費日夜苦慮仕事に御座候乍法不得止の時機に至り若今憐情を以て兵事閣時は何れの時歟鎮撫の職掌を尽し平定の功遂可申哉実に乍二全くは参り兼依ては差向奥羽の農民当年半減収納被仰付候様第一急に被仰立度と奉存候事

四、前件容保歎願の儀は国中一統侮悟謹慎恭順を尽し実効相顕候はゝ国境砲台関門相毀ち開城の上総督府御入城武器御取揚迄行届候はゞ其上死一等を被宥寛大の御沙汰御伺御相当と奉存候事但慶喜の御処置に被準可然候

五、仙米等如何程因循姑息の設を申立候共名分条理不相立儀は決て御動き不被為有様に奉願候何分其御方参謀へ御示談被為在御評決被遊度奉存候事

右五ヶ条乍不束愚意の程奉申上候宜敷御推見奉仰希候也
 副総督

 総督府
尚々当方の儀引続き接戦に及別て人少の守衛不一方骨折に御座候乍不及尽力仕候事に御座候御安慮被遊可被下候扨毎度応援出兵の儀以急飛及御懸合候処即時御達の段拝承仕候得共今以一藩も到着無之候に付ては命令不被行姿にも乍恐奉存候少々津軽人数到着而已実に手薄き次第に御座候仙府へ応援の兵到着も候はゞ都て此方へ差向候様世良へ御相談被成下度尤愚考の程も同人へ御見せ奉希候也

 醍醐少将より世良に送りし書翰
以急使申入候日々御用多察御苦労存候扨去る十二日岩沼本陣へ仙台中将米沢中将等参入総督及御面会候処会津侮悟降伏謝罪の次第歎願に罷出候に付予白石在陣に付総督より御相談に相成候に付其方へも相談可致様御示有之此間無腹蔵至当の儀返答頼入候最総督よりの御示候に付御熟考有之度候小子愚案には会津容保侮悟降伏謝罪の為家来首級可差出の歎願且各藩より共々只管歎願又人民難渋農事共急務の場合に有之趣可憐存候乍去何分於会者実以不可入天下之罪人歎願の家来罷出候趣意にては迚も採用不宜開城引渡し白河表へ歎願の家来罷出候にも不可冤罪人に候得者今般王政御一新日新の御場合に候間採用候ても相済左無くは不済次第かと令愚存候又色々と存候得共急事之故不知右の存心に候其方趣意書付早々返答頼入候総督御見込も御書にて相顕候間両藩へ返答書其方にて認廻し呉候様致度且小子も今日は桑折迄主張実に因循の白石に在陣咄承り候も彼是難渋且荘内賊兵模様により速に出馬の手段も白石にては致兼候桑折ならは順路にも有之速に出馬の手段も出来候且又作十三日午刻過鮫島金兵衛罷来南部兵荘内へ繰替の手段心配致御紋御旗も征討中御貸渡被仰付候に付少しは兵勢盛且此上予より隊長へ沙汰仕候得は一杯励精に相成由鮫島申来頼に付幸いなるや白石出張桑折に在陣且又過日荘内の模様書藤田(藤田町は奥州街道にて桑折町の東北に在り)暁失且両藩家老より届書差向呈候尚南部兵荘内口へ出張に候へは不利は無之と存候間寸刻も総督始白河表へ出張致度存候間偏に手段頼入候何分会降伏次第熟考急速返答待居候也

 後四月十四日未刻
 世良より鹽小路に送る書翰
引続御尽力奉察候然は会津容保降伏謝罪歎願書仙米歎願書諸候太夫連判歎願書醍醐殿より差廻に相成篤と(一書に更にと書す)熟考致見候処一旦御総督御取上ヶ相成候上は何とか御処置不被仰出而は不相済訳に候得共御裁許の事は当地何共御処置不相付事と奉存候間早速歎願書京師へ差登し太政官代に於て御判断を受申之外致方無之に付早々両中将の願書会津よりの願書二通齋藤安右衛門へ以後の御達可被下候奥羽諸侯家来よりの歎願書は別紙付箋して一応御返し早々総督府へ差出候様可相達旨両中将へ被仰付度候扨又明二十日桑折迄も御進軍被為在候儀に候はゞ彼地へ罷出拝謁の上万端申上度候得共未た白石より先に御滞陣被為在候事ならは小子は是より引返し上京万端太政官代へ申上御処置を受け直に罷帰り度候左様御承知被下宜敷御取計頼入候尚巨細は醍醐様より御申越可相成候早々不具


{後四月十九日昼九ッ時
二陳両中将会との二通甚た急き候間宜敷御頼候諸家来よりの願書も早々差出候様御達可被成候何乎別に京師へ御用有之候はゞ被仰越次第相達可申候甚御苦労に存候得共先生御出懸被下候はゞ巨細相分可申と存候僕は福島にて御待申候明暁桑折へ御進ならは夫迄罷出度存候以上}


醍醐少将より総督府に送るの書翰
盆御安泰珍重存候然は過日仙米を以て会歎願の事件不容易に付京師へ伺可致存候間此一紙早々御渡置希入候且各藩共に歎願本紙は此一紙を添御返早々可申出御沙汰希入候何分一同歎願の文も失体の書方に候間各藩主人名を入重役を以て総督府へ歎願可申出様希入候総督公は早々御進軍願入候何れ京師へは世良罷出御処置伺早々可帰候尚世良拝謁の上万々可申上と存候安右衛門を其方為使差向候早々如此候也
 後四月十九日


 右諸書面誤写のためか文意ぜざる所少なからずも訂正の道なければ元の儘になし置けり。
 右世良より鹽小路に送る閏四月十九日付書状によれば、会津の歎願書は自ら携えて上京し、太政官の指揮を乞はんとすと云うに在り、これ十四日彼が本営において鹽小路の来訪を受け、九条総督の諮問に対し、会津の降謝を容るべからずと答えたると相矛盾するものにして、既刊戊辰諸史の評論亦区々なりといえども、冷静に考察すれば、この数日間において彼の本心は依然として変ぜざるも表面手続き上においては初念をひるがえして太政官の指揮を受くるの必要を感じたるがごとし、すなわち彼は十四日鹽小路に対してすでに記のごとき強硬意見を陳べたりといえども、その後醍醐少将の書状に接し、且つ十九日早朝同少将と八丁目に会見の結果、とにかく一応上京して歎願書を太政官に提出し、併せて十分に自己の懐抱を述べんとしたるなるべし、しかれども十四日鹽小路に披瀝せし意見は、すでに総督府の令書となりて現れ、これに加ふるに大山に送る密書を発表せられ、為に一層奥羽列藩の激怒を招きしは自業自得と言うべし。
 修蔵の捕戮せらるゝや、修蔵および大山格之助の爪牙となりて姦悪を助長せし長藩士野村十郎、薩藩士鮫島金兵衛等数人相ついで惨殺せらる。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/01/27(日) 11:30:42|
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世良修蔵を誅するの議

世良修蔵を誅するの議

 閏四月十四日宮内は白河より白石に来り、総督府付仙台藩参謀大越文五郎に面していわく、会津藩には世良修蔵を誅する意あり、世良を誅するは実に奥羽の平和を計るの策なり、藩命を受けて後行はざるべからずと、文五郎もまたこれを然りとし、共に家老但木土佐に面して受議す、土佐いわく、卿等これを計れと、これにおいて宮内大に決する所あり、翌日土佐を見ていわく、国家の為に奸賊を誅せんとす、事の成否は問はず責予にあり、決して累を藩に及ぼさずと、文五郎と福島に会することを約し馳せて福島に赴く。
 九条総督が会津の歎願を容れるゝ意向あることは、十二日仙米両藩主より歎願書を受理するや、翌十三日急使をもって羽州在営の澤副総督および出張中の醍醐参謀に各々書面を発して協議せるによりて知るべし、両書面略々同一意味にしてその醍醐少将に贈りし書面左のごとし。

態急使を以て申入候薄厚の節に御座候処愈御安全御在陣珍重奉存候扨作十二日申刻当本陣へ仙台中将米沢中将入来面会及候処会津謝罪降伏之儀に付別紙寫三通之通且演舌にて容保儀は恭順謹慎は不及申開城可致心底之処兎角激徒共内乱を生じ官軍へ対し如何成不法仕候も難計右様之事出来候ては愈以容保罪難遁心痛仕候間何卒寛大之御処置を以て城地は勿論暴臣之首級可差出次第にて謝罪被聞食蒙御憐愍候はゞ朝恩感戴候旨被申述候仙米両藩にも容保歎願之趣意共々奉願上候旨に付下官右之三通熟覧勘考候処迚も採用可致様にも不被存段々開城及談判候得共此儀於両藩是迄度々懸合及候も甚六つけ敷趣に付右別紙三通速返却候処再歎願之筋は右御取上不破下愈討会に相成候ては両国之人民及難渋蜂起之徒追々出来之様子も有之鎮静討罰多端に成行各藩及疲幣には社稷難保場合にも至り勤王の赤心も届兼却て恐入候次第に至候間何卒会津歎願に不拘各藩之願を以て奥羽人民安堵為致候思召を以速に御裁許伏而願候右事情を以下官窃致熟考候処当節之形勢各藩向背難計模様被察自然激徒騒乱出来候はゞ鎮撫職掌御互に難相立のみならず諸方之人気にも相拘はり却て奉安宸襟奏功も前途難見定徒に費歳月而已一応御相談の旨を以て昨夜の処四五日延引の段及返答候間前条御深考の上急々御返答承り可然取計心組に候也
 閏四月十三日
二白世良修蔵へも可然御申入希候


 この日参謀世良修蔵は出張先の本営に於いて、九条総督より送付せる会津歎願書、仙台米沢両藩主救解書および奥羽列藩重臣歎願書を見て使者(九条家諸大夫鹽小路刑部少輔)に言っていわく、会荘討伐の延引するは要するに二藩の兵共に勇強にして仙米諸藩の兵共に怯弱なるによる、この際一旦総督府において歎願書を受理したる以上はこれに対し確乎たる指令なかるべからず、すなわち容保は朝敵天地容るべからざる罪人なればその降謝を許さず、各藩速やかに進軍奏功すべしと指令せらるべし、諸藩これを見て必ず不服沸騰すべきも、その時は陽はに甘言をもって、これ単に奥羽鎮撫総督の指令に過ぎず、総督府は不日白河に転陣し、東京大総督の着陣を待って奥羽諸藩の情勢を説き、相協議して静謐を図るべしと慰撫し、以て一時を糊塗し、しかしていよいよ転陣の後は官軍陸続群至すべきをもって、更に軍議を開きて進軍し、賊を皆殺しすべしと、使者帰りて総督に復命して、十七日(令書日付は十五日なりとも云う)総督府は仙台、米沢両藩に左のごとく発令せり(防長回天史引用の鹽小路手記)

今般会津謝罪降伏書并奥羽各藩歎願書被差出熟覧之処朝敵不可入天地之罪人に付難被及御沙汰早々討入可奏成功者也
 鎮撫総督


{防長回天史著書は、前記のごとく鹽小路手記を引用しながら反つて鹽小路手記の精確を疑い、且つ仙米二藩への令書に疑を挟みて評論を試み、「此起案者を世良とせず、総督の諸大夫鹽小路等が但木等に飜弄せられたる結果にあらずやとの想像は、けだし強からざるを得ず」と付記せり、著者の引用せる鹽小路手記に見るに『世良被申候には中略去る十二日仙二中将参陣会津降伏謝罪歎願書差出し一先御預りに相成候上は何とか返答不致ば不相成右返答も曖昧之事も不被申名義不失様之返答断然御達し被成下度就ては文言被取綴朝敵不可入天地之罪人に付不被為及御沙汰早々討入可奏成功旨之御返答御達しに相成候はゞ定て不服沸騰可致哉も難計其節品能御申述被成前顯御達申候は督府名義のみ之事にて全くは兎角白河口へ転陣致し早速東京大総督参着奥羽両国の国情逐一申陳事精謐之取斗可申旨品能被申聞此場を透し白川へ御転陣被成候はゞ官軍も追々彼地へ繰込にも相成左様候はゞ更に軍談を決し速に打込可奏成功事に候と内外懇々被申含候委細承り午前十時頃同所発し帰陣二本松本営之間にて醍醐家に御出逢申し世良演舌申上直に発し十六日岩沼へ帰陣仕早速道孝へ申入翌十七日夫々去る十二日仙米より歎願書返答但木土佐呼出被達候処云々』とあり、これによれば世良仮令令書に筆を執らずとするも、世良の意見は全て採用せられたるなり、しかるに著者はこれを疑うて止まず、しかしてこれを破るの反証を挙げず、これ俗にいわゆる強いて白色を指して黒色と做すの類にして、到底読者を承服せしむる能はざるなり。
また同著者は極力世良を弁護して『世良は絶対に会津の降謝を許さずと言いしことなし、謝罪降伏には自らその道あり宜しく白河の軍門に於いてすべし、二三藩陰密の交渉を以てすべからずと言うにあるのみ』と云うも、世良が会津の降謝を容るゝの意思なきことは、世良自ら権謀を鹽小路に漏らせし言によって明知すべし、いわんや奥羽鎮撫総督が降謝を拒むの権能あらば、従って降謝を許すの権能を有し、またはこれを取次ぎて白河に送致するの便法を執るべきものなるに於いておや、故にもし世良が降謝は白河に於いてすべしと云へたりとせば、人をして徒らに奔走に疲かれしめ、その間に進軍の準備をなさんとするものにして、以て世良が当時絶対に降謝を容れるゝの意思なかりしことを証すべし。}


 閏四月十七日仙台藩相但木土佐は左の書を総督府に呈す。

中将家来去る十五六日頃より段々脱走仕候者十七八人有之早速尋申付候得共末た行衛相知れ不申候処此節に乗し軽挙暴動仕候哉も難計且名元等の義も相分次第追て取調可申候へ共不取敢御届申上候以上

 時に仙台藩士坂本大炊、遠藤久三郎等、藩相坂、但木に建言していわく、会津の歎願を納れざるは世良の拒むに由ること列藩皆これを知る、故に我が同志にしてもし暴挙に出る者あらば、更に時局を困難ならしむるの恐れあり、よって世良に説くに国論沸騰の状を以てし、会津の哀訴を納れ、列藩をして暴威を収めて平和に局を結ばしむるを得ば、何の幸かこれに過ぎん、足下等成算あらばこれを計れと、二人直ちに白石を発し、馳せて白河に至り、世良を見て利害を説き、会津の哀訴を納るゝの至当且つ急務なるを論ず、世良冷然としていわく、哀訴も解兵もこれを了承せり、醍醐少将に謀りて令する所あるべしと、胸裏別に画策する所あるものゝごとくなりき。
 閏四月十八日仙台佐藤宮内、大越文五郎相会して世良修蔵斬るの策を議す、文五郎いわく、上紅下白の旗を樹てゝ修蔵の在る所を表示すべし、これを見て突撃すべきを会藩に報ぜよと、時に白河本営の仙将真田喜平太より宮内に報じていわく、今や大炊、久三郎白河に来りて周旋中なれば世良を誅戮することを中止せよと、二人議協はず、宮内は白石に帰る、文五郎は松崎宗七郎、戸田主水(主水、九条家を脱してより、いづこに在りしか詳ならず)をして我が守将に告げしめていわく、坂本、大炊等白河に出でゝ周旋す、請う暴挙をなすなかれと、二人帰りて会兵白河城を襲うの形勢あるを報じたれば、直ちに宗七郎をしてこれを福島に報ぜしむ、この日新井義右衛門、玉蟲左太夫、白石の本営に来り、但木土佐、坂英力と会談す、土佐、英力いわく、今や国論一変すべきの期に至れり、会津の為に哀訴すれども総督府はこれを容れず、また奥羽列藩は会津を討伐するを欲せず、皆西軍参謀等の暴慢侮辱を悪み、その士卒の跋扈を怒り、西軍は名を王師に仮るも実は姦賊なり、速やかに会津征伐の師を旋へし、西軍を撃攘すべしと論じ、その勢制しべからず、且つ世良修蔵等徒に奥羽諸侯を凌辱するのみならず、九条総督をも慢罵す、そのなす所を見るに、会津征伐は決して宸衷より出づるにあらざること明らかなり、これによって策を決し、東方より先づ勤王の旌旗を揚げて西軍を討ち、奥羽列藩より王政復古の業を成し遂げざるべからず、故に京師に建言するの書、および国内士民に布告するの書を起草せよと、新井義右衛門いわく、時勢止むを得ざるに似たりといえども、今日の形勢に際してこのごときの大業は成ること能はざらん、英力いわく、事機神速を尚ぶ、遅疑すべからずと、辞色共に厲し、義右衛門等止むる能はず、その書を草す。
 瀬上主膳は世良が福島に来るべきを知り、この日丑の刻、姉歯武之進、岩崎秀三郎を伴い土湯口、荒井、鳥渡(取渡は土湯口に至る街道にて、信夫郡鳥川村に在り)の陣を出で福島の仙台軍事局に入る。
閏四月十日伊達慶邦朝臣、上杉齊憲朝臣は左の書を九条総督に呈し、時局紛糾の状を告げ、一旦解兵して戍兵を置くに止め、更に衆議を尽くし善処せんことを請う。

今般会津容保降伏謝罪の儀家来共歎願申出候に付国情等の儀委細演説の上寛大の御沙汰被成下候様過日奉懇願候処朝敵不可入天地罪人に難被為及御沙汰早々討入可奏功旨御達之種承知仕候固より降伏謝罪顕然の事にて降者は容れ拒者は討候こそ王者の兵に有之殊に更始御一新之砌被為動干戈候儀は於天朝必不被為好征討総督府より御沙汰相成居候次第も有之此上押て御征討の命被相下候儀乍恐公明正大之御処置如何と奉存候加之当時農桑繁盛の折柄諸藩数万の出兵万民徴発転輸の苦に不堪既に処々一揆等相起候勢実以不忍聞見最早蒼生塗炭に陥候間是迄出兵の分番兵のみ差置解兵仕り猶又衆議相尽奉伺太政官候外他事無御座候間此段御届申上候以上

 この届出に対し総督は即日左の令書を発せり。

会津容保降伏謝罪之儀歎願之種京師へ可申越候間追而何分之沙汰有之迄は其藩諸攻口出張兵番兵差置自国之境内へ可引退候事

但白河口近辺諸口会境外に於て浮浪之者会藩と偽り農家へ押入金銀盗取或は所々屯集御領等へ種々回書抔致候由相聞候間探索之上守衛兵を以て早々帰攘可致候得共尚会藩よりも精々取押候様手堅可相達候事
 辰閏四月


 右令書は過日の朝敵天地に容るべからざる罪人なれば降者を許さずとする令書に対し、また矛盾するものなるが、総督府は先に世良の意見を容れて進討を令したるも、爾来数日間において諸藩の事情により、会津の歎願は一応京師に受申して指揮を仰ぐことに変更したるものゝごとし、なおこの事に関し後に記する所あるべし。
 世良修蔵は十八日白河を発し、十九日早朝八丁目(信夫郡松川町の旧名なり)本陣に在りて醍醐少将と会見して密議し、未の半刻を以て福島に入る、瀬上、姉歯等好機逸すべからずとし、奥羽生民の為にこれを誅すべしとの議を決し、武之進は福島藩に交渉しこれを大越文五郎に告ぐ、文五郎いわく、彼を誅する事はあえて異議なしといえども、彼れ会津の降を容れんとするの意あるがごとし、故に先づ白石の本営に報じ、指揮を待ちてこれを誅するも未だ遅しとなさず、主膳いわく、この議すでに決せり、命を請うを須ひず、文五郎いわく、余が帰らざる間は事を発するなかれと、投機隊長櫻田敬助、文五郎の議を賛し共に白石に赴く、主膳、武之進を招きてこれを告げ文五郎等の帰るを待たしむ、武之進黄昏主膳を訪ひていわく、世良修蔵機密の書翰を秋田における参謀大山格之助等に送らんとして、密かに福島藩鈴木六太郎を招き、人を選びて明日拂暁出発すべきを命じ、且つこれを仙台人に洩らすなかれと云うを聞けり、主膳いわく、仙台人に洩らすなかれの言甚だ疑うべし、偵察を怠るなかれと、福島藩もまたこれを怪しみ、六太郎に命じていわく、世良書翰を交付せばこれを瀬上主膳に送致すべしと、しかして武之進はなお人員の足らざるを恐るゝが故に、主膳は岩崎秀三郎をして更に投機隊士田辺覧吉、赤坂幸太夫を選びて武之進の命を受けしむ、この夜酉の刻を過ぐる頃、我が藩中根監物、辰野勇来り主膳を訪ひ、土湯口の守将一柳四郎左衛門の命を伝えていわく、列藩の兵を解くに至れるは一に貴藩公の力による、これを謝せんが為に貴藩軍事局に出頭せしも泉田氏不在の為め面晤すること能はず、故に諸君に謝すと、戌の刻ころ福島藩より世良より大山に輿ふる密書を送致す、これを披き見るに左のごとし。

引続御配慮奉察候其御地も追々賊退散に付日々御進軍想像致候扨右賊退去の事に付昨夜仙台坂本大炊と申者態々白川へ申来候には今般会津降伏謝罪に付荘内へも早々兵を引退謹慎可然段内使差立候故引揚候訳にて何れも官軍御勢相増候故逃去候儀には無之彼多勢の賊徒中々急に引取候訳には無之候間此段報知致置候との事に御座候実否は不相分候へ共申上置候就ては十五日御仕出の御書面今暁本営へ到来拝誦大に安心仕候先達以来噂相聞候会賊降伏謝罪歎願書三通過る十二日仙米両中将岩沼へ持参且演舌を以申陳候には容保儀恭順謹慎は勿論開城可致心底之所兎角激徒内乱を生し官軍へ対し如何様の不法仕候も難計左候ては弥容保罪難逃心痛仕候間何卒寛大之御処置を以て減地は勿論暴臣共之首級可差出之次第にて謝罪被聞届朝恩を奉感戴候様致度且両中将も歎願申述候右御取上無之弥討会に相成候ては両国の人民及難渋蜂起の徒追々出来鎮静謝罪多端に成行各藩疲幣終には社稷難保場合にも至り勤王の赤心届兼却て恐入候次第に付何卒会の願に不拘各藩の願を以て奥羽両国の民安堵為致候様思召を以て速に御裁許奉願度段申出一旦総督にも右三書差返し相成候へとも右段之訳を以て総督を要し夕七ッ時より夜九ッ時迄詰居先年慶喜主上を奉要の轍(これ何の事を指すや詳ならず、例の捏造の説なるべし)決而会の指図と相見得可悪之甚しきなり遂に不得止御取上に相成候由にて当十五日白川へ到来有之申候右の訳にて総督府兵力迚は一人も無之押て返せば今日より両藩会に合し候様相成可申少々にても兵隊有之候はゝ押付出来申候へとも迚も六ヶ敷宇津宮兵も追々賊蜂起にて今に不来大に因り申候乍併一日総督取上に相成候を返す訳にも参り不申候間此上一応京師へ相伺奥州之情実篤と申入奥羽皆敵と見て逆撃の大策に致度候に付乍不及小子急に江戸へ罷越大総督府西郷様へも御示談致候上登京仕尚大阪迄も罷越大挙奥羽へ皇威之赫然致候様仕度奉存候此歎願通にて被相冤候時は奥羽は一二年之内には朝廷之有に在らさる様可相成何共仙米賊朝廷を軽するの心底片時も難閣奴に御座候右大挙に相成候時は拂底之軍艦にても酒田沖へ一二艘廻し人数も相増前後挟撃の手段に致候外致方無之候越後口へも近況可申遣尤も庄内へは急に可打入様可被致候此件々篤と御相談之上取計可申訳に候得共一日長引時は一日丈ヶ俗論沸騰し不忍聞候間千万潜越之至に御座候得共書中にて申上置直に出足上方へ出懸申候間副総督様へも宜敷被仰上可被下候別紙歎願書会と仙米中将名前之分は早々札場へ書出し公然と人に見せ当分人気を静め且又桑折其外へ築立候砲台は今日にては却て賊之固と相成り候故人気鎮静之儀に関係と云う訳を以て悉く崩し候様可申付と奉存候仙も内輸に於て公然と歎願不相叶時は叛逆の話も致居候由勿論弱国二藩は不足恐候得共会を合候時は少々多勢にて始末六ヶ敷成丈ヶ二藩は穏便にして可謀尤二藩中にも両三人ッゝの外賊徒魁は無之主人は好人物ならん右御示談旁呈一書候小生出足後は何れも平坂新八郎へ托し少々之事は中村小次郎へ頼置候大体之処は醍醐参謀卿へ申上置申候大抵之事差置候様致度候早々頓首

 後の四月十九日八ッ半時
途中を恐れ福島藩足軽を頼み持参為致申候疎(この字不詳)に候得共御一覧之上御投火可被下候也
大山様 要詞


 一座これを覧て大に怒っていわく、彼れ何者ぞ、苟も鎮撫総督府の参謀ならずや、しかるにそのなす所一も公明正大ならず、欺きて会津の歎願書を納るゝを名とし、各所の胸壁を毀たしめ、殊に奥羽を皆敵と見なし、酒田沖に軍艦を回航し挟撃の策を運らさんとす、これ堂々たる王師のなすべきことにあらず、夫れ降る者は容れ、抗する者は討つは膺懲の本旨にあらずや、先に寒風澤において我が商船を脅して貨物を奪い、賄賂を貧り、酒色にふけりて横暴を極めたるも猶飽き足らず、今またかくの如し、要するにこれ名を王師に借りて暴威を逞うし、以て私怨を晴らさんとする姦賊のみ、彼れ丑の刻に出発して京師に赴かんとして人馬を促せり、奥羽の後患眼前にあり、機失うべからずと、これを福島藩に交渉す。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/01/26(土) 13:22:12|
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奥羽列藩の会合

奥羽列藩の会合

 げんに奥羽列藩同盟の起因を討ぬるに、先に朝廷より仙台藩に対してはその藩一手をもって会津を襲撃すべしと命じ、米沢藩に対しては仙台藩を応援して功を奏すべしと命じたり、よって仙台より米沢に使者を発し、討会の事は曲直未だ分明ならざるにより姑くこれを差置き、徳川氏追討の事は朝意甚だ不可なるをもって諌止の建白をなしたる事を告げたるが、これを行違いに米沢より仙台に使者を発し、奥羽連結して東征の不可なることを陳奏すべく、仙台はその盟主となり米沢は列藩に周旋すべしと説きたりといえども、仙台は独力をもってその目的を達せんとし、且つすでに藩士大条孫三郎をして建白書を携え上京せしめたる後なれば、米沢の励告に応ぜず、米沢はこれにおいて他藩と事を共にするの容易ならざるを知り、使者を京師に発し諌書を呈せり、その大要はほのかに聞くに徳川慶喜寛永寺に屛居恭順し、会津容保また国に退き侮悟謹慎せる由なれば、皇威すでに遠近に輝き朝憲凛然として行われたるなり、願わくばこの際山海の度量をもって不殺の聖徳を垂れ、共にこれを寛典に処し、その宗社を存し、速に大旆を返へさんことをと、しかして米沢はこの上書を呈すると共に、その趣意をもって南部、津軽、秋田、山県、上ノ山、二本松、福島、相馬諸藩に使者を遣わし、東征の兵を諌止し、干戈を動かさずして鎮静せんことを協議し、なお越後諸藩にも使者を発して同意を求めたり、その後仙台の建白書は却下せられ、加ふるに奥羽鎮撫参謀世良修蔵、大山格之助等が横暴を極むるに及び、仙台、米沢を始め各藩の同盟を促すに至りしなりる
 仙台、米沢両藩の通牒に接し、その期に臨み各藩重臣の白石に参会せるものは、仙台の但木、坂、横田寛平、玉虫左太夫、米沢の千坂、木滑、竹保、中里丹下、大瀧新蔵、片山仁一郎の外、盛岡藩の野々村真澄、江幡五郎、二本松藩の丹羽一学、丹羽新十郎、守山藩の三浦平八郎、柳沼正介、棚倉藩の平田弾右衛門、梅村角兵衛、中村藩の相馬靱負、佐藤勘兵衛、志賀治右衛門、三春藩の大浦帯刀、小堤広人、福島藩の池田権左衛門、高橋吉三郎、上ノ山藩の渡部五郎左衛門、増田武兵衛、亀田藩の大平伊織、吉田権蔵、一関藩の佐藤長太夫、森文之助、黒羽藩の三田称平(黒羽藩士の列席は疑わし、今仙台戊辰史によりその名を記す)、矢島藩の椎川喜藤太、山県藩の水野三郎右衛門、笹本藤馬等なりき。

 閏四月十日九条総督は伊達慶邦朝臣に左の令を伝ふ。

奥羽賊兵山県へ押寄の報知有之候に付出兵明後十二日迄に繰出早々追討可致候事
 但為応援家老一人可差向候事


 同十一日伊達慶邦朝臣は総督府の亡状を憤り、その臣石田正親をして左の質問を発せしむ。

奥羽賊兵山県へ押寄の報知有之候に付出兵明十二日迄出兵繰出早々追討可致為応援家老一人可差向旨昨日御達の趣承知仕候然るに荘内何等の罪状有之御征伐相成候譯に可有之哉最初御達無之相弁兼尤全体の御趣意不束にては出兵可仕様無之候間委細被仰渡候様仕度候以上
 仙台中将内
  石田正親


 総督府はこれに対して答ふる所を知らざりき。

 この日米沢藩主上杉齊憲朝臣は会津救解の宿志を達せんと欲し、自ら藩兵一千七百余人を率いて白石に至り(この時齋憲朝臣は謙信より伝へたる、紺地に日の丸の旗を立て、陣容実に勇壮なりきと云う)、伊達慶邦朝臣と会見して親しく協議し、後列藩の重臣会す、仙米両藩の藩相坂、千坂等両藩の意を受け陳べていわく、今般会津藩より歎願書を呈せしに就き、その国情を探るに謹慎恭順降伏の情状疑うべからず、よって仙米両藩主は会津救解の書を副へて総督府に呈さんとす、各藩同意ならば歎願書に署名せよと、これにおいて仙米両藩重臣を始め列藩の重臣等皆これを賛成署名せり、両侯のその救解の書は左のごとし。

討会先鋒被仰付両国共出兵罷在已に仙台先手勢及接戦候処今般降伏謝罪の義容保家来共申出候に付仙台国境問罪督責為致候処伏見暴動の一挙は畢竟兼て示方不行届より全く卒然に発して奉驚天朝候段至極恐縮の至り容保義は帰邑退隠の上当時於城外恭順謹慎相尽し頗る前非を侮悟罷在寛大之御処置成下候様別紙歎願書通家来共申出候間益天朝之御仁徳奉感戴候様御処置置奉仰望候会津国情等之義は委細演説を以て申上候通に御座候間御汲量寛典之御沙汰被成下候様一同奉懇願候以上
 閏四月十一日


 その奥羽列藩重臣の連書歎願書左のごとし。

此度会津征討被仰付各藩出兵已に仙台先手勢及接戦候処容保家来共降伏謝罪之義申出仙台国境陣門に於て糺明相遂候処伏見暴動の義は全く異心等有之義には無御座候へ共事皆倉卒に発し奉驚天聴候段深く恐入其節の先手隊長は別て謹慎申付置奉待御沙汰如何様共処置仕候由に御座候畢竟容保兼て示方不行届之所致候段至極恐縮仕当時城外に於て恭順謹慎相尽先非侮悟罷在家来共歎願書を以て申出降伏謝罪仕候上は幾重にも寛大之御処置被成下至仁之聖恩奉感戴候様奉仰望候尤当時王政御一新之御場合にも被為在候へは何分不被為動干戈人心の向背をも深く可被為有御汲量御時節と奉存候勿論春夏之間は農時の甚急務とする所に有之自然民命の大に所関係に御座候間是等の義共篤く御諒察被成下今日之事は只に会津孤国のみの御処置と不被為思召寛大之御沙汰被成下候はゝ実以奥羽御鎮撫之道赫然被為立候様偏に存込列藩衆議相尽し奉懇願候尚又連名外の輩は駈付次第可申上候恐惶謹言

 しかして会合の期に遅れて到り署名せし列藩重役左のごとし。

秋田藩の戸村十太郎、新床藩の舟生源右衛門、平藩の三田八郎、本床藩の六郷大学、泉藩の石井武右衛門、湯長谷藩の茂原肇、下手渡藩の屋山内記、上杉駿河守家来江口俊蔵、弘前藩の山中兵部、八戸藩の吉岡左膳、

 閏四月十二日伊達慶邦朝臣、上杉齊憲朝臣は岩沼に至り九条鎮撫総督に謁し、三通の歎願書を上り、親しく実情を開陳す、総督はその願意を至当としてこれを受け、且ついわく、この事は参謀に諮問して決すべければ数日を要すべし、仙台に至りて処置の決定を持てと、この日総督は仙米両藩主と坐を共にし、奥羽列藩の重臣を召していわく、皇国の大勢挽回の大策を立てんことを期すと、慶邦朝臣、齋憲朝臣以下辞して帰る。
 梶原平馬等湯ノ原(白石より米沢並びに上ノ山に至る街道に在り、仙米領の界に近し)に至りてその消息を待ちたりしに、十五日横田官兵来りてその状を告ぐ、会々上杉齊憲朝臣岩沼より帰り千坂太郎左衛門従う、平馬等の在るを聞きて密かに来り告げしめていわく、寡君の白石に至るや直ちに仙台侯をその旅館に訪ひ、両藩の家老を列坐せしめ、大に天下の形勢を痛歎し、共に奸賊を除き皇国の頽勢を挽回せんとして哀訴嘆願すべきを約し、ついで会合の奥羽列藩の重臣を引見して盟約の重ずべきを諭さる、仙米の家老は更に別席を開きて共に向背を議せしに、列藩皆大に世良の暴戻を悪み、あえて異議するものなかりきと云い、了りて太郎左衛門は杯を挙げ奸賊を除かんことを揚言したるに衆皆快哉を呼び奮激言動に現れたり。
 この日仙台藩相坂英力は密かに書を梶原平馬に致し、西軍進んで白川城に入らんとするの警報を告ぐ。

向暑の節に御座候得共弥御清穆の御事と奉駕候然者御依頼の周旋方一旦総督府にて御受取相成居候へも御聞濟の模様は更に見詰相立不申甚困却之至り此上は過日拝話致し置候通の御処置相成候外御座ある間敷何分御尽力可被成候将た江戸より千五百人の兵卒早速罷越候様白川口より世良修蔵差配りを以て早打相起候事に相聞へ申候間可相成は右口より不迫内御拂被成候はゝ可然と存候条尚御勘考夫々御手配の程専要に奉存候総督府御都合振は委細米沢藩より可申達歟に候間草略仕候謹言

 参謀醍醐少将は十日をもって進発し、九条総督は十一日をもって進発し、共に白河城に転陣するを告ぐ、白河城は文政六年以来世々阿部氏の守る所たりしが、正静に至り慶応三年正月棚倉に移るにおよび幕府の直轄となり、二本松丹羽氏の監守となりしなり、たまたま伊達、信夫両郡の人民数百名哀訴する所ありしと称し、まさに福島城に迫らんとす、元来この両郡は養蚕をもって生計となすの地なり、しかるに春来人馬の徴発糧食の輸送頻繁にして農桑に従うこと能はず、ほとんど飢餓に瀕したるによる、すなわち福島の仙台藩軍事局より泉田志摩、真田喜平太、姉歯武之進等出でゝこれを鎮撫して退かしめ、この日総督府に報告す。

当今福島近傍百姓共歎願之筋申立多人数相催蜂起仕候に付先以福島にて取押申諭相鎮置候処既に五百人程人数駈集り尤弥増蜂起難止形勢に相見得申候由同所出兵の軍事方真田喜平太等より只今申越候右一揆蜂起の品柄不相分候間猶糺問仕候上何分取鎮及手段委細の義は追て御届等も可仕候得共一応御届仕置候以上
 閏四月十二日 仙台軍事局


 これにおいて九条総督はその進発を止む。

{一説にいわく、時に我が兵白河城に入るの方略已に成る、しかして総督府これを知らず、仙台の参謀泉田志摩、石母田備後、真田喜平太等福島に在りしが、密かに瀬上主膳、軍監姉歯武之進を招き相議していわく、本月二十日会津の兵白河城に入るの策略あるに、今醍醐少将をして同城に入らしめ、万一衝突するあらば事態更に困難を来さん、しかれども事実を告ぐべからず、むしろ非常の手段をもってこれを止むるにしかず、今や方に農桑の盛時にして、伊達、信夫二郡の人民軍役に苦み、進軍の猶余を哀訴するに至る、この機に乗じ人民を煽動して紛擾せしむるにしかずと、これにおいて主膳は近村の壮士を集合せんがために馳せて岡村(伊達郡東湯野村大字岡を云うならん)に至り、武之進は荒井村(信夫郡荒井村字荒井を云うなるべし)近傍に奔走して五百余人を集め、これを福島須川(福島の西より流れ来り、福島にて阿武隈に合流する小河なり)の河原に留め、武之進は主膳と共に仙台藩軍事局に出で、志摩、喜平太にその状を告げたれば、志摩等出でゝ哀訴の趣旨を聴き、更に武之進をして諭してこれを退かしめ、これを総督府および醍醐少将に報告す、少将は驚愕して果たしてその行を止む、志摩等ひそかにその術策の成れるを喜びしと云う。(七年史、仙台戊辰史)}

 これより先仙台大隊長佐藤宮内白河城に在り、世良修蔵牙城に入り、急に勢至堂口より兵を進めて会津を討伐すべきを命じたるに、また伊達慶邦朝臣は白石城より令を発してその進軍を止めしかば、宮内は急に白石の本営に協議すべき事ありと称し、兵を伊達弾正の参謀高城左衛門に托して白石に帰る、宮内の白河城に在るや、会津国境の地理を検せんとして岡崎兵右衛門、赤井大治を従え勢至堂口長沼に至り、一茶店に憩う、会々士人両三輩の別室に在るを見、主人を呼びてその藩名を問いたるに、水戸藩なりと答ふ、しかれどもその会津人なるを知り隊長に会せんことを求めたれば、隊長木村熊之進来り会す、宮内いわく、朝命により兵端を開かざるを得ざるは実に痛心に堪えず、公等よろしく力を謝罪の事に尽くすべし、熊之進いわく、薩長二藩朝威を挟みて兵を我に加へんとす、しかして貴藩と弊藩と特に宿交あり、貴藩の深慮を希ふと、未だ得る所あらずと辞してまさに去らんとす、熊之進起ちて宮内を止めていわく、停戦の策は世良修蔵を斬るを得ばすなわち可なりと、両人相看て頷き再開を約して別る、後数日宮内、兵右衛門、大治を飯土用に遣わし熊之進に告ぐるに十九日出師を止むる事を以てす、熊之進盃を取り出し兵右衛門に贈りていわく、これをもって足下と会見せるの証左とせよと、兵右衛門等帰りてこれを宮内に報ず。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1



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  1. 2013/01/25(金) 10:22:12|
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世良修蔵等の専横

世良修蔵等の専横

 しかるに客月二十六日但木土佐、木滑要人より我が使節を陣門に入れたるの報告に就き、総督よりこれを本営在陣の醍醐少将に伝え醍醐少将は世良の意見を問い、更に出羽在陣の副総督および大山の意見を問はしめ、仙台、米沢両藩休戦の報告をなしたる後に至りて、世良、大山の名をもってしりぞけ、但木、木滑に左の令を伝ふ。
 
 但木土佐
 木滑要人
今度会津容保為謝罪歎願家来相越候由米沢より申出に付陣門へ相通候段届書の趣を以て総督へ申入候処至今日謝罪歎願の名は相立不申侮悟降伏謝罪の兼は当月中頃の事に可有之其儀に候はゝ近日白川口進撃出陣先陣門へ罷出歎願可申出又容保並に家来の者心底情実の所篤と相糺可申出候此段相達候事(文面明亮ならず強いて説をなさば『国元にありて謝罪するをは去る二月中頃の事ならば取り上げもすべきに、今となりては時期後れたり、併し真に侮悟降伏を請はゞ白川口に来るべし』との義か)但侮悟降伏はゝ其藩周旋の者一同白川口へ可能出候事
 閏四月 鎮撫総督参謀
世良修蔵
大山格之助


 実に世良、大山等がなす所天下の為に謀るにあらずして、要するに薩長両藩のために私怨を報いんとするに外ならず、彼の九条総督の臣側目付戸田主水が、四月二十七日書を九条総督に上つり岩沼の本営を出でゝ行く所を知らざるに至りしは、実に世良、大山等の専恣途に奥羽諸藩の人心を激昂せしめ大乱を醸成せしめんとするを慮り、その仙台に入るや速やかに鎮撫の実を挙げんことを期し、しばしば建策する所ありしも容れられず、却って世良等の恨を買いしによると称せらる、主水の上書は次のごとし。

鎮撫の事たる鎮むるなり撫つるなり人民を鎮め撫つるは殿下の御職掌にしてみだりに兵威を以て人民を厭服し給うの言にあらざるや明かなり、臣主水殿下御東下以来大山世良両参謀の為す所を観察するに、殿下の為に痛嘆せずんばあるべからざるものあり、請うこれを陳せん寒風澤(松島湾の外部に在る宮戸島の港なり)御着港の即日東名浜(寒風澤に対する陸前国桃生郡野蒜村の一港なり)にて大山参謀は江戸の商某の商船および貨物をも敵地の物なりとして掠奪し号して分捕と云う、臣主水軍旅の事はこれを知らず、中略人民を撫するこのごとし況や人民鎮撫の御職掌の殿下に参謀たる者に於いておや、世人は視て鎮撫使のなす所となし、これを疾みて官賊と称するに至る、殿下奥羽の地踏む一歩、しかして此の如しこれ奥羽の人望を失うの基を開くの一なり、薩長の兵士本営門外に乱暴実に驚くべき者あり、あるいは路傍に臣士を侮辱し、あるいは市井に商売を威嚇し、あるいは山野に婦女を強姦し、あるいは仙台誹謗の歌謡聞くに忍びざることを白昼大道に高吟するの類両参謀知りて、しかして惜て問はず、士民の怨みいづこにか帰す、これ殿下人望を失うの二なり、従て討会出兵の遷延するも両参謀本営において人中に大藩の君公老臣を嘲弄するの類その臣子たるもの誰か心に快とせんや、これ殿下の人望を失うの三なり、荘内のごとき罪ありとすれば問罪使を発してこれを責め、その罪に服せずば朝廷に具陳し栽可を得てこれを処するを当然とす、殿下十四日に副総督澤卿をして荘内追討に出陣せしむ、しかれども世人その罪を知るものなし、官位を止めらるゝの命なく、また荘内藩士朝廷より出京督促の命を受けて十七日に荘内に帰国すと云う、これをもってこれを観れば朝廷の賊とし給はざるやまた明かなり、大山参謀は去年荘内・上ノ山藩邸焼討(文久以来幕府荘内・上ノ山二藩に江戸市街巡邏を管せしむ、薩藩浮浪の徒を邸内に召集し荘内の屯所を侵し市中を却盗す、慶応三年幕府政権を奉還するにおよび掠奪最も甚だし故に二藩薩邸を襲撃してこれに火す)をもって我が私怨なり、故にこれを討つと公然自ら口にす、この言を聞き誰か殿下討荘の命を報ずるものあらんや、これ殿下奥羽に人望を失うの最大且つ甚だしきものにして、これその四なり、世良参謀討会出陣と号し常に福島辺りの妓棲に在り、昼夜昏旦を分たず杯盤狼藉傍ら人無きごとく大藩の重臣隊長を駆使する奴僕のごとく、討会催促の急なる矢のごとし、ゆえに諸隊長より兵卒に至るまで世良参謀を疾み視る仇讎のごとし、これ殿下人望を失うの五なり、この数もの殿下ことごとく知るあらず、しかれども士民の怨みことごとく殿下の御一身に帰す故に本営に火せんとするものあるに至る、会津のごとき素より罪あり、しかりといえどもまさに罪を謝し降らんとす、縦令降るも世良修蔵の拒みて容れざるは殿下の知り給う所なり、これ他なしその意甲子の怨(蛤門の敗戦を云う)を会に報ぜんと欲す、ゆえに大山参謀をして私怨を荘内に報ぜしむるを煽動し、我またその志を遂げんとするに在り、これ会荘に一時に戦いを開く所以にして軽挙また甚だしとす、これ臣ただ一人の知るのみにならず、永田真一郎(筑の隊長)等もその情を知る、殿下如し臣が言を疑はゞこれを真一郎に問い給へば、すなわち臣が言の妄ならざるを知るに庶幾からん、ああ王者の兵は拒むものはこれを討ち降るものはこれを容ると、不日会津罪を謝して降るあらば殿下よろしく顧慮し給はずんば啻に人望を失うのみならず、薩長の私怨私闘に駆使せらるゝ嫌疑なしとせず、啻に嫌疑を受くるのみならずまさに為すべからざるに至らんとす、京を去る一千五百里何の日か復命するの期あらんや、これ臣主水実に殿下の為に日夜痛嘆する所以なり、速に鎮撫の御成功あらんことを請願の至りに堪ふるなし誠惶誠恐頓首泣血再拝(四月二十五日)
 戸田主水


 両参謀の専恣このごとくなるをもって、仙台、米沢両藩においては今会津藩歎願書を総督府に提出するも、世良参謀のこれを拒むは必然なるをもって、奥羽列藩の意見を確かめ、その共同の力によってこれを提出するの要ありとし、両藩の老臣但木土佐、坂英力、千坂太郎左衛門、竹保美作は檄を伝えて奥羽列藩の重臣を白石に会するに至れり。

以手紙致啓達候陸奥守并弾正大弼義会津容保御追討の先鋒被仰付陸奥守出陣被致候処今般(容保の二字落ちたるものならん)家来共陣門へ相越謝罪之義歎願申出候に付致御衆評度候間御重役の内白石陣所へ御出張相成候様致度候以上






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/01/23(水) 12:34:07|
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会津藩相の歎願

会津藩相の歎願

 先に仙台但木土佐、米沢木滑要人等と関宿に会見せる我が藩相梶原平馬等帰りて仙台、米沢両藩の意向を報ずるに、藩議を遂げ藩相西郷頼母、梶原平馬、一瀬要人連署し仙台、米沢の両二藩によりて左の歎願書を呈す。

蔽藩の義は山谷の間に僻居罷在風気陋劣人心頑愚にして古習に泥み世変に暗く制馭難渋の土俗に御座候処老寡君京都守護の職被申付候以来乍不及天朝尊崇奉安宸襟度一途の存意より他事無之紛骨碎身罷在万端不行届の義に候へども御垂憐を蒙り多年間何とか奉職罷在臣子の冥加無此上難有奉存鴻恩万分の一も奉報度闔国奮勤罷在奉対朝廷御後暗き体の心事神人に誓い毛頭無御座伏見一挙の義は事卒然に発り不得止次第柄にて是亦異心等有之義には毛頭無之候へ共一旦奉驚天朝候段奉恐入候次第に付帰邑の上退隠恭順罷在候今度鎮撫使御東下尊藩へ征討の命相下候由に承知愕然の至斯迄奉悩宸襟候義何共可申上様何御座此上城中に安居候ては奉恐入候に付城外へ屛居罷在奉待御沙汰候間一視同仁の御宥恕を以て寛大の御沙汰被成下度家臣挙て奉歎願候右の段々幾重にも厚く御汲量被下宜しく御執成の程奉懇願候以上

 仙台、米沢二侯は我が歎願書をこれとし、この日仙台藩相但木土佐、米沢の藩相竹保美作連書して両藩の将校に休戦を命ぜしことを総督府に報ず。

会津容保為謝罪歎願之家来共相越候に付陣門へ相通し承り候次第は別て御届申上置候通りに御座候処右容保恭順謹慎降伏謝罪之儀只管歎願申出候に付一先戦為相控置申候全体の儀は追て可申上候得共先以為御聞置此段御届申上候以上






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/01/22(火) 10:40:35|
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仙台米沢二藩の周旋

仙台米沢二藩の周旋

 南摩綱紀、荘内藩士管秀三郎、本多安之助と共に四月二十六日会津に帰る、容保公、喜徳公、管、本多等を召し見て懇ろに慰労す、藩相内藤介右衛門、諏訪伊助、一瀬要人等と謀り、一両人を選び彼我互に留寓し密議に参することを約す、荘内より物頭戸田文之助、軍事掛吉野遊平若松に来り寓し、我よりは佐久間平介鶴岡に赴く、後平介事故あり上島良蔵これに代わる、時に仙台の使節玉蟲左太夫、若生文十郎、米沢の使節木滑要人、片山仁一郎、および二本松の使節丹羽新十郎、瀬尾九衛門兵衛等会津に来り交々我が藩相に説いていわく、頃日九条総督より会津追討の勅命を伝へらる、よりて止むことを得ず兵を進むるに至れり、しかれども貴藩多年京師に在りて公武の一和を図り、主従努力して国家のために尽くせり、その誠忠は我が輩常に感歎する所なり、豈に料らんや今日この危難の知に立たんとは、真に傍観するに忍びず、よりてここに慰問す、ただし願わくば自今恭順謹慎してもって誠意を達せられんことを、その情状に従いあるいは貴藩のために一臂の力を尽くさんと、我が藩相その厚意を謝し、且つ答えていわく、弊藩討伐の災いを招く恐悚の至りに堪えず、寡君すでに退隠屏居して恭順の実を表し、且つ謝罪の表を輪王寺宮および二十二藩に托し天朝に達せんことを懇請せしも、いまだ何らの恩命に接せず、弊藩の示す所は終始恭順にあり、貴藩もし事変の顛末を諒察し、あえて援護せらるれば何の幸かこれに如かんと、玉蟲、木滑ら各その藩に帰りしが、幾何もなく以上仙米の使節四人また来り、且つ仙台の横田官平を伴い来る、その言にいわく、宜しく恭順謝罪の表を出すべし、両藩必ずこれを進達せん、万一採納せられざらんか両藩固より決する所あり、あえて貴藩の不利を計るものにあらずと、喜徳公召し見てその厚意を謝す、後数日梶原平馬、伊東左太夫、手代木直右衛門は米沢に使し、過日の厚意を謝し相共に胸襟を開いて協議せり。
 四月二十六日一関藩主田村右京太夫手兵若干を率いて白石に至る、米沢藩木滑要人、片山仁一郎は藩主齋憲朝臣の命を帯びて白石に来り、但木土佐、石田正親を見ていわく、会津侯家臣を遺し貴藩と弊藩とにより恭順謝罪せんことを請う、しばらくその使節を米沢に留め来りて協議すと、慶邦朝臣これを総督に告げ、明日両藩相仙米の国境関宿において我が使臣を訊問せんとす、その総督府に報するの書左のごとし。

会津容保為謝罪歎願家来共別紙名元書立之通罷越候由米沢より申入候に付陣門へ相通し承り申候間先以此段御届申上候以上
 四月二十六日
仙台中将内 但木土佐
米沢中将内 木滑要人
 
 別紙
会津容保使者
 梶原平馬
 伊東左太夫
 河原善左衛門
 土屋宗太郎
 山田貞助


 四月二十九日仙台藩相坂英力、但木土佐、真田喜平太、米沢藩相木滑要人、片山仁一郎関宿において我が藩の使節家老梶原平馬等に会見す、土佐いわく、貴藩の所言謝罪歎願は藩公の城外屛居と謀主の首級を出すとに在るか、平馬いわく、寡君の城外に謹慎するは当然の事なりといえども、謀主の首級を出すは甚だ難しいとする所なり、何となれば謀主たりし者はおおむね伏見に戦没し、存する者は僅に一両輩に過ぎず、しかしてこれらは皆精忠の輩なり、もしこれを斬らば国中動揺を生ぜんも知るべからず、且つ夫れ伏見の戦は前将軍すでに罪を一身に負い、謝罪歎願して朝廷これを納る、弊藩のごときはその罪すでに消滅せり、何ぞ征討せらるゝの理あらんや、故に謀主の首級を出すは甚だ難しと、土佐いわく、このごとくなれば総督府に進達すること能はず、仮令進達するも総督府はこれを納れざるべし、貴藩これに処するの決心如何、平馬いわく、闔藩死をもって守らんのみ、土佐いわく、闔藩死を決して守ると、僅に一両輩の首級を以て国命に換ふると利害果たして如何ぞや、真田喜平太いわく、もし藩主の首級を出すを欲せずんば速やかに帰り軍備を収めよ、吾ら諸君と旗鼓の間に相見えん、前将軍罪を一身に負えば貴藩公罪なしとは余が解せざる所なり、臣子の罪はすなわち君父の過なり、ゆえに貴藩にして君臣の義を正さば、伏見の一挙は前将軍の過にあらずして貴藩公の罪なりと訴ひ、また足下等にありては貴藩公の過にあらずして足下等の罪なりと訴ふるを至当とすと、平馬黙考しばらくにしていわく、誠に貴諭のごとし、しかれども謀主の首級を出すも私怨を晴らすに急なる薩長の参謀はこれを拒まざるか、喜平太いわく、誠意より発せずんばこれを拒むべし、真に恭順歎願せば何ぞ納れざるの理あらんや某等これを保証せんと、喜平太のこの語を発せし所以のものは、先に副総督澤三位、会津降らば征討を要せずと云い、世良もまた早く降らば事すなわち終わらんと云いしをもってなり、すなわち平馬馳せて若松に帰る。
 閏四月朔日これより先き醍醐少将、世良修蔵本宮の本営に在り、世良修蔵仙台藩に明日拂暁、石筵、中山、御霊櫃の各方面に進軍すべきを命ず。
 閏四月二日仙台藩の将伊達安芸、陣代亘理此面此の方面に在り、諸将と議して白石本営の令を待って後に軍を進めんことを請う、世良いわく、醍醐少将ここに出でゝ号令す、何の躊躇することあらんと怒罵して止まず、督促再三におよぶ、すなわち此面は断然軍を進む、我が朱雀一番士中組中隊頭小森一貫齋隊兵を率いて楊枝村に在り、仙台、二本松、薩州、土州の兵来襲の報あり、すなわち急使を馳せて壺下口の守将青龍一番寄合組中隊頭木村兵庫、義集大隊頭辰野源三左衛門に報ず、両将各一小隊を率いて中山峠に至りて遙かに東望すれば西兵(仙台)陸続として来り、巳の刻ころ戦を開く、我が兵渓間樹林の間に潜匿し、彼の近づくを待ち銃を連ねてこれを撃つ、西兵もまたしばらく応戦してついに退く。
 これより先仙台の将伊達筑前は六小隊を率いて瀬上(今の瀬上町、福島の北方一里半にあり)、諸将と議し只野嘉吉郎、太田兵弥を使節として中山口楊枝関門に至り、我が将木村兵庫に言はしめていわく、今回伊達中将会津征討の命を奉じ、すでに出で白石城に在り、先鋒伊達筑前進みて貴藩の国境に臨めり、速やかに若松城を開き貴藩公父子は白石城に謝罪歎願し、且つ伏見の首謀を誅して信を表するの意なきやと、兵庫答えていわく、寡君および老寡君に告ぐるに貴意をもってすべし、ただし今貴藩若生文十郎若松に在りて周旋中なればこれを領せよと、嘉吉郎ら文十郎の使命および周旋の事情を報ぜんことを要求してこれを待つ、我が藩武井柯亭、池上輿兵衛、黒河内友次郎等数人若松より来りて嘉吉郎等を見ていわく、弊藩貴藩によって家名を存せん事を願うのみ、豈に他あらんやと、嘉吉郎等帰りてこれを筑前に報ず、閏四月二日白石の本営より伊達筑前に命あり、会津容保謝罪歎願す、よって進軍を止むべしと、しかるに同日本営における世良参謀至急御霊櫃口より進軍すべきを命ず、仙台の軍そのいずれに従わんかに就きて議論沸騰せしも、ついに世良修蔵の命によりて進撃に決し、兵を分ちて三方より進む、御霊櫃峠は青龍一番足軽組中隊頭杉田兵庫(鈴木一郎右衛門の後任者なり)隊兵と地方郷士三十五人を率いてこれを守れる。
 閏四月三日我が兵西兵(仙台の兵)の襲撃せんとするを知り嶺上の砦壁に登る、朝霧冥濛として展望を妨げ只弾丸の砦壁を踰ゆるあるのみ、我が兵まさに発砲して戦を挑まんとす、青龍一番足軽組小隊頭荒川銓太郎令して戦機の熟するを待たしむ、しばらくして霧晴れ西兵の所在を知る、銓太郎すなわち軍扇を揚げて令を下し連りに大小砲を放ちて攻撃す、西兵支えず山間の細径より敗走せしが、忽然左側の山上袴腰の絶険より臼砲をもって我が兵を撃つ、弾丸我が兵の頭上を破裂す、我が兵またこれに応戦す、この時館、横澤に在りし遊撃隊頭遠山伊右衛門砲声を聞き浜路より山腰を廻り一小隊を馳せてこれを援く、西兵は山上よりこれを望見して退く、けだし西兵は我を誘いしかしてその背後を嶺上より砲撃せんとせしなり、銓太郎の号令よろしきを得てその陥る所とならざりき。
 閏四月四日石筵口また戦を交ゆ、勝軍山は地勢緩く広漠たる山野にして樹木甚だ疎なり、二十余丁の間往来の人影を認むべく、しかして定路なく、樵径は縦横に通じて敵兵を一路に約すべき要害の地にあらず、ゆえに砦を数所に築きて厳守し、砦下萩岡に柵を設け戍兵を置く、小隊頭三宅忠三郎、水野又四郎、河村源太郎等十余人これを守る、監察野村悌三郎往いて仙台藩の先鋒隊長を訪ひ議する所ありしも、進攻の止むべからざるを答ふ、ゆえに退きて守備す、この早暁西兵(仙台)四小隊は石筵へ、一小隊は左右の間道より来り迫る、我が兵十八人これを支ふ終に禦くこと能はず、勝軍山上の砦壁に入る、西軍は萩岡の営を焼き兵を収む。

{土湯、嶽湯、中山、御霊櫃の四口にて好成績を得たるに、単にこの口において小敗を取りしは怪しむべし、思うにこの口においては我が兵敵を侮り偵察を怠りしにより、我が兵に比し遙かに優勢なる四小隊の兵、ついに攻め来りしにより止むを得ず退却せるが、敵も只営所を焼き若干の戦利品を得て直に引き上げたるにより、山上の遊軍応援の隙なかりしがごとし、何れにせよこの方面の主将怠慢の罪は冤るべからず、またこの小敗は何等の影響なかりしは幸なりき。}






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/01/21(月) 11:34:25|
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上杉齊憲朝臣会津を救はんとす

上杉齊憲朝臣会津を救はんとす

 佐久間平介は荘内の戸田文之助と共に米沢藩に赴き同盟を謀る、藩主上杉齊憲朝臣思えらく国家多難の秋に当り外侮を忘れ内相鬩ぐは策の得たるものにあらず、今や容保は謹慎恭順し、家臣来りて寛典の処置を周旋せんことを請う、会津は隣国にして会津家は我が家の姻戚なり(上杉景勝の孫侍従兼播磨守綱勝の室は、土津公の長女媛姫なるをもって姻戚なりと云う)、いわんや容保の祖先保科正之は昔我が社稷のために力を尽くしその恩を受くるや大なり(徳川幕府の初期において、諸侯その封邑を収公せらるゝもの多く、ために夥多の浪人すなわち今の所言う失業者を生じ、幕府の為政者に対しその処分に苦戦せしが、土津公深くこれを憂へ、諸侯を廃絶するは幕府の初期においてこそ必要あれ、今においては成るべく廃絶を少なくするの方針を取ることを適当と考えられき、寛文四年上杉綱勝二十七歳にて卒去し、嗣子なきをもって封邑を収公せらるべき慣例なれど、同姓吉良上野介義英が嫡子を世継として、所領を半減して十五万石を輿へられき、是偏に土津公の斡旋によれりと云う、けだし公の尽力は単に上杉が家に対するためにあらず、天下後世の為に深く謀られたるものにして、幕府の諸侯に対する方針これより一変せりと云う、この土津公の斡旋に対し、米沢人士深く感銘して戊辰の時に至れり)、今その窮状を坐視するに忍びず、王者の師は降るを赦し拒むを伐つ、恭順して罪を謝するに豈に赦さゞるの理あらんやと、これにおいて伊達慶邦朝臣と謀り、同臣尽力して会津の宗社を存し生民の塗炭を救はんと決心せり。





卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/01/20(日) 13:58:57|
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仙台兵を国境に進む

仙台兵を国境に進む

 十八日仙台藩瀬上主膳をして兵を会津の国境に進めしむ、我が藩士湯峠の将朱雀一番寄合組中隊頭一柳四郎左衛門これを聞き、半隊頭二木理助、軍事方野村三郎をして土湯に行きて彼の動静を探らしむ、土湯の人民密かに来り告げていわく、今夕仙台藩穴澤輿三郎農兵を率いてこの地に来り、参謀世良修蔵等もまた二本松より来るべけなれば貴軍直ちにこの地を撤去せられては如何と、二木はこれを聞き横向きに帰りてこれを報じ、監三郎は土湯を距る二十余町の路傍に潜匿してその動静を伺うに、翌十九日昧爽仙台兵果たして弓矢銃槍長刀を執り列を成して陸続来る、監三郎潜地に出つ、兵士数人来りて姓名を問う、監三郎答えていわく、余は会津藩の軍事方野村監三郎なり、足下は何番なりや、彼らいわく、仙台の軍監大規定之進、姉歯武之進、内田喜三郎なりと、監三郎は印鑑を出して示す、大規等は監三郎を伴いて土湯村に至り深室に誘う、隊長瀬上主膳左右を退けていわく、薩長参謀等我が藩の進撃を促すこと急なり、よりてここに来り陣す、貴藩国境の守備全きや否や、監三郎いわく全し、足下等兵をもって我が国境に進まば我もまた兵をもって応へざるべからず、ために両藩の情好を害するも武門の大義を如何せんと、主膳いわく実に高説のごとし、しかも止むことを得ざるなりと相別る、少時くありて四郎左衛門の遣い来りて監三郎の帰るを促す、途上再び主膳に逢う、主膳は監三郎を樹蔭に招き、声を低うして告げていわく、大規の兵この峠を攻撃せん、薩長筑の兵もまたこれに加わらんも知るべからず、弊藩来り貴藩に対して旧怨あるにあらず、徒に兵士をして死傷せしむるに忍びず、接戦の際は弊藩の振旗は白地に小の字を書せん、足下請う予めこれを記せよと、監三郎帰りてこれを四郎左衛門に告ぐ、仙台藩内田喜三郎もまた密かに我が陣営に来りていわく、今日先鋒をして開戦せしめ少時にして退くべしと、然れども彼ついに開戦せずして兵を収む。
 四月二十日辰の上刻仙台藩の軍監姉歯武之進来りて一柳四郎左衛門を見ていわく、寡君素より貴藩の恭順なるを知る、故に救解に力を尽くさんとするの意切なりといえども、ついに貴藩の国境に迫らぞるを得ざるに至れり、貴藩なお恭順の意を表し、我が兵を横向に入るを許せと、四郎左衛門答えていわく、我が藩固より恭順、唯国境の防備は万一に応ずるに過ぎず、しかして出入を禁ずる所以の者は、不平の途誤って恭順を破らんことを恐るゝに由るなり、軍装の兵士を入るゝことは貴諭に従う能はず、寡君の命に背けばなり、幸にこれを諒せよと、武之進いわく、しからば兵をもって見ざるを得ず、よって小峠より空砲を発すべければ、貴藩にてもその意を了して応戦せよ、機会を計りて休戦を令すべしと、応接すこぶる懇篤なり、内約成りて帰る、少時にして小峠に仙台の兵来るの報あり、四郎左衛門令していわく、螺一声を聞かば散兵発砲すべし、螺声頻繁ならば猛撃すべし、螺声緩ならば発砲を止めよと、仙台兵小峠に登りて大小砲を発射す、これにおいて四郎左衛門自ら螺貝を執って吹くこと約のごとし、戦を交ふるに及んで彼の大砲実包を発射す、ゆえに我もまた実包をもってこれに応ず、数刻にして彼の砲声ようやく緩なるをもって兵を収む、一人の死傷なし、午の上刻陣営に帰る。
 仙台藩横田官平は我が藩救護のため来りて若松に在りしが、戦報を聞きその周旋の空しからんことを恐れ、横向の我が本営に馳せ至り、四郎左衛門に会談すること数刻にして土湯に赴き、主膳に面してまた若松に帰れり、仙台の将大松沢帰部之輔は兵を桑折に出し遅滞して進まざれば、主膳は自ら兵を進めてこの処置に出でしなりと云う、沼尻口すなわち嶽湯口へ仙台兵二小隊、二本松兵二小隊、筑前兵二小隊、並びに長州兵若干攻め来りしが、我が防備の厳なるを見て一弾を発せず退却せり。
 これより先四月九日我が藩南摩綱紀、佐久間平介は喜徳公の密命を帯びて荘内に赴き、援を請はんとして行地駅(新潟県蒲原郡新発田町へ通ずる街道の一地名にて、新発田領に接するや会津領の界に近し)に至る、駅亭主人いわく、過刻荘内の使節大野輿一左衛門若松に赴かんとしてこの地を過ぎたりと、綱紀すなわち諏訪峠を越えて津川に戻り、大野に面して荘内の事情を問い、直ちに荘内に赴かんとするを告ぐ、大野いわく、寡君深意ありて不日に専使を発せん、余は今日貴藩に対し弊藩の敬意を表するの命を受けて来れりと、綱紀別れて荘内に赴く、至れば平介すでに荘内の藩相石原平右衛門、松平権十郎等と会議し、会荘同盟し存亡を共にするの予約成る、十日綱紀、平介、平右衛門の宅に至る、権十郎および側用人山口三郎兵衛、菅秀三郎、国事掛和田助弥、本田安之助等先づ在り、これにおいていよいよ同盟の約を結ぶ、権十郎いわく、会荘一致し然る後米沢を説き、米沢同盟せば仙台は直ちに同盟せん、会津、荘内、仙台、米沢同盟せば奥羽列藩の同盟成らん、しかる後兵を進めて江戸城をもって本営となし、檄を天下に伝へば、兇徒を攘ひ君側を清め、手に唾して事なるべし、これ寡君江戸に在る時よりの持論なり、ゆえに密使を遣わして貴藩に謀らしめんとすでに管秀三郎、本多安之助等に命ず、本多たまたま病に臥して発すること能はず遷延今日に及べり、今卿等来りてこの約成る何の幸かこれに若かんやと、藩主酒井忠篤朝臣、綱紀、平介を城内に召し見て物を賜う。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/01/19(土) 10:41:17|
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我が藩四境を固む

我が藩四境を固む

 三月二日奥羽鎮撫総督左大臣九条道孝公、副総督三位澤為量卿、参謀少将醍醐忠敬卿、下参謀薩州藩大山格之助、同長州藩世良修蔵以下兵若干を率いて京師を発す、これより先奥羽鎮撫使として三位澤宣嘉卿、少将醍醐忠敬卿命ぜられその参謀には薩州藩黒田了介、長州藩品川弥二郎命を拝したるが、奥羽鎮撫の方針を定むるに当り鎮撫を主とするか、また討伐を主とするかに関して議協はず、鎮撫を主とする黒田、品川は参謀を辞し更に組織を一変し上記のごとく任命せられたり、けだし薩長の巨頭中会津を絶滅せざれば飽き足らざるもの多数を占めたるをもってなり、後日奥羽列藩が連合して会津庄内のために寃を解かんとするも、世良、大山が峻拒してこれを朝廷に執奏せず、ついに東山の山野をして戦闘の巷と化せしめたるは、要するに薩長の会津庄内報復討伐策に起因することを知るべきなり(仙台戊辰史、米沢藩戊辰戦記)、仙台藩大越文五郎は兵をもって九条総督一行を護衛し、大阪より海路仙台に向い、十九日松島に上陸し観瀾亭に宿す、二十三日仙台藩主伊達慶邦朝臣は松島に至り九条総督に謁す、総督は慶邦朝臣に会津征討の命を伝えその先鋒を命ず、これにおいて慶邦朝臣は藩相に命じ出師の令を発せしむ。
 この日総督九条道孝公、副総督澤為量卿以下仙台に入る、会々米澤藩大瀧新蔵、山田八郎仙台に在り、参謀世良修蔵を訪ひ説いていわく、会津松平容保悔悟謹慎して天裁を待てり、干戈を動かさずして降を容れられては如何と、言未だ終わらざるに修蔵大に怒っていわく、米沢藩会津征討に異議あらば会津と同罪なり、総督まさに米沢に移りて軍事を指揮せんとす、宜しく兵仗弾薬を備えて命を待つべしと、新蔵、八郎等修蔵が頑冥暴戻にして共に謀るべからざるを知り、米沢に帰りてその亡状を告ぐ。
 当時奥羽総督府参謀の執りし態度このごとくなれば、我が藩は兵を四境に出しもって敵軍不時の侵入に備ふるの止むを得ざるに至れり、これにおいて部署を定む、大平口(岩瀬郡に在り、若松より白河へ通づる街道の地名なり)には原田対馬を総督とし、軍事奉行櫻井新五左衛門、朱雀三番士中組中隊頭上田八郎右衛門、青龍三番足軽組中隊頭蜷川友次郎、土着士隊すなわち正奇隊頭相馬直登、新練隊頭土屋鉄之助、土工兵頭小池帯刀、朱雀一番足軽隊日向茂太郎、朱雀三番足軽組中隊頭原田主馬、義集隊の一部等これに属す、また山口次郎(始め齋藤一と称し、山口次郎に改め、後に藤田五郎と云う)の率いたる新撰組の一部および旧幕府の歩兵百数十人この方面に在り、東方面勢至堂口(若松より安積郡三代村、岩瀬郡長沼町を経て、白河へ至る街道の大字にて、三代と長沼との間に在り)より以北桧原口に至る諸口の総督家老西郷頼母猪苗代に在り、用局中山甚之助、大堀東八、渡部定之助、使番三宅貢之に属す、また副総督として若年寄横山主税三代駅に在り、軍事奉行添役用局日向造酒、矢島儀右衛門、永田又助、幌役津田範三、青龍一番士中組中隊頭鈴木作右衛門これに属し、勢至堂峠に関門を設け壘壁を築き山谷の細流を堪えて敵軍の来襲に備ふ、この防備はかつて藩士古川幸之進が画策する所なり、中地村口(安積郡中野村にあり、猪苗代湖南岸に近き同郡月形村舟津の南半里に在り)は遊撃隊頭遠山伊右衛門ありて鷄峠(鷄峠は中地の西南二里許に在り、追分峠一に諏訪峠とあり、異名同所ならんか、鷄峠の北に在り甚だ近し、両所より岩瀬郡須賀川、長沼に至る)の二口を守る、三森峠(中地の東二里余に在り)は坂部三十郎地方士七十五人を率いてこれを守る、御霊櫃峠の守備は鈴木一郎右衛門青龍一番足軽隊を率いてこれに当る、壘柵の修築は高津助之進、鹽見仙吾右衛門、香取和平、津田範三これを督す、中山峠、山潟、都澤、壺下(何れも越後街道の地名にてこの街道は郡山または本営に至る)の経路は義集大隊頭辰野源左衛門、朱雀一番士中組中隊頭小森一貫齋、青龍一番寄合組中隊頭木村兵庫、石筵口には猪苗代城代田中源之進、砲兵二番隊頭高橋権太輔半隊を率い、朱雀四番足軽組中隊頭横山伝蔵、力士隊赤植平八を置いてこれを守らしむ、勝軍山(石筵峠、又保成峠、猪苗代よりこの峠を越え、本営または二本松に至るを得可し)は砦を数所に築き田中源之進これを督す、酸川野の狭路には酸川(土湯峠付近より発する高森川と沼尻よりする硫黄川とが、吾妻村大原付近にて合流するを酸川と云う、この川猪苗代付近にて桧原川と合流して長瀬川となり猪苗代湖に注ぐ、酸川の沿岸に酸川野あり古よりここに関門ありき)の水を湛えてこれに備ふ、これは辰野源左衛門が策する所なり、沼尻峠(猪苗代より二本松に至る小路に在りて、会津領と二本松領との境に在り)は絶険にして敵軍容易に越ゆること能はざる地なれども尚猪苗代士坂綱をして農兵数十人を率いてこれを守らしむ、高森、横向は地険なれども福島の通路なれば朱雀一番寄合組中隊頭一柳四郎左衛門これを守り、桧原口大峠、桧原峠(この両峠共に会津領と米沢領との境に在り、大峠は若松の正北にして桧原峠は大峠の東二里許に在り、一説に柳原峠を萱峠とも云う)は青龍二番士中組中隊頭有泉壽彦之を守る、大峠に関門を設け砦壁を築く、関門砦壁の修築は皆津田範三之を督す。
 後に至り隊長の交代、また諸隊の守備場の変更ありしは勿論なり。
 
 三月二十五日仙台藩は陽はに会津討伐の部署を定め御霊櫃口を伊達筑前の受持とし、土湯口を瀬上主膳の受持とし、中山口を伊達安芸の受持とし、石筳口を大松沢帰部之輔の受持とし、四月十一日慶邦朝臣自ら兵を率いて仙台を発し、十三日白石に至りもって本営となす。
 十二日奥羽鎮撫総督本営を岩沼に移し、副総督澤為量、下参謀大山格之助等薩長の兵を率いて荘内に向う。
 十三日九条総督は伊達慶邦朝臣に令を伝ふ。

 仙台中将
今般会津追討出張之兵為見廻明十四日より参謀一人差廻候間敵の模様に依ては進退駆引可致に付何れも其指図を請候様端々の兵隊に至る迄厳重の沙汰可有之候事
但兵隊一小隊附添候事


 これにおいて慶邦朝臣は十五日岩沼に至り九条総督に謁し即日白石城に帰る、慶邦朝臣は十五日岩沼に至り九条総督に謁し即日白石城に帰る、参謀醍醐忠敬朝臣は岩沼を発し白石に至る、下参謀世良修蔵筑前藩の兵一小隊を率いて白石に至り、更に進みて福島に入る。
 慶邦朝臣白石に入りし以来その軍を監励せしが、奥羽鎮撫総督以下入仙以来下参謀が仙台藩主従に対し往々慢侮凌辱の挙動あり、これに憤激する仙台人士は、罪跡明ならずして逆賊の汚名を蒙り、しかも隣交の藩に頼りて冤を解かんとする会津を討つは武門の忍ぶ能はざる所なりと唱える者あり、また仙台が東国の大藩にてありながら薩長の使嗾する所となりて、上下決死の会津と戦うは無謀も甚だしきものなれば、薩長の為に会津を驅るの犬となるなかれと論ずる者ありとの報に接し、

{『仙台戊辰史』に上略『これを要するに薩長の眼中また奥羽なし、その試さんとする所をなして、もし反抗の態度に出でんには一併して賊徒の名を付し反逆をもって論ずるにおいて天下何人も異論を唱ふるものなきを知るが故に殆んど傍若無人の挙動をあえてしたりされば縦し彼等に奥羽諸藩を挑発するの密謀なかりしとするも、その挙動は確に他の反抗を招くべきものありき、いわんや薩長兵の入国以来公然として仙台藩士を侮辱する意味の俗歌を歌ひつゝ街巷を横行し酒を被ふりて士人を凌辱し隊を組みて市井に乱暴するも天朝の軍人たりといふの故をもって有司もこれを咎むるを得ず、甚だしきに至りては良家の婦女子を捉えて終身拭ふべからざる辱めを輿へ之を誇りとすることさえありしをや、しかもこれらのこと啻に無頼走徒卒のみならず大山、世良および隊長と称する者またこれをあえてして顧みざるに至りては大藩の威厳を傷つけざらんとする仙台藩少壮の士の忍び得る所にあらず朝命を畏み奉ずるにおいて人後に落ちざらんとする赤誠の士も天朝を代表すと称する総督府参謀輩の兇威に対し武士の面目においてこれに反抗せざるを得ざるに至りしは勢いの已むべからざるに属す、思うに奥羽武士の面目上総督府参謀輩の凌辱に黙従すべからずと唱えしは主として少壮の志士なりしがごとし、玉蟲左太夫若生文十郎のごときはかつて会津に使いせしものなるにより会津国情演達のため養賢堂へ召出されし際両名より会津肥後守の心事およびその国情について委細演述する所ありしが大山、世良の両参謀は交々これに罵詈嘲弄を加えその方共は奥羽の諸藩中にて少しは訳の分かるもの故使者にも使われしならんに扨々見下げ果てたる呆気にこそ左様のもの共の主人も略々知れたるものなり所詮奥羽には目鼻の明たものは見当たらず、など悪口せられしため青年等の激昂甚だしきのみならず薩長兵の巷衢に徘徊して唄うところは悉く仙台藩を誹譏する意味のものゝみなりし為め士民一般の憤激一方ならざりき、その一例を示せば醉ひしれたる薩長兵打つれての唄に

竹に雀を袋に入れて後においらのものとする

斯る多哩もなき俗謡も当時に在りては武門の権威において一笑に付し去らるべきにあらず、故に血気の志士中には養賢堂を襲い薩長の奴輩を皆殺して甘心せんとするものあるに至れり』また同書に『戊辰三月世良修蔵大阪の旅館にあり米沢の使臣来り謁す、修蔵時に芸妓の膝を枕にし寝ながら公用書を足にて使臣に蹴遣りしと云う(使臣非常に憤慨せし由米沢藩人の直話なり)』とあり。}


 事態容易ならずとし、十七日慶邦朝臣自ら軽騎を従い白石を発して桑折に至り、先発軍の部将を桑折に召還引見して説諭し、これを全軍に伝へしめ、即日白石に帰りしに、たまたま京都留守居松島仲太夫急行帰国の途次白石において慶邦朝臣に謁して太政官の命令書を伝ふ。

 伊達陸奥守

其方儀先般被仰付候御沙汰之趣奉畏此節会賊追討剿絶可有之処末た旋報不相奏宸襟不被為安候仰会賊大義を辞せす天恩を奉忘却徳川慶喜叛逆を助け候罪不容天地候処遠邑辺諏之向々京師之情実不通に付賊徒等窃に救応之使節等差向候哉にも相聞不容易儀に候処其藩に於ては奥羽之大鎮殊更先祖正宗朝臣勤王の偉功を以て天下に流芳致候名家に有之候て領国近地右等の賊徒跳梁致し使節等諸所へ差向候様之儀も有之自然治平遅緩に相成候ては実に其藩先祖以還之武名に拘候儀にも当時可申に付其方父子戮力協心且接近の諸藩を鼓舞致し一挙にして会賊殊鍬鋤奏攻可有依て今般嫡子左京太夫帰国御暇被仰付候間只管叡慮を奉戴し不日可奉安宸襟之旨御沙汰候事


 これにおいていよいよ兵を会津国境に進むることゝせり。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/01/18(金) 11:29:51|
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山川大蔵兵を彊内に収む

山川大蔵兵を彊内に収む

 七月二十七日我が藩士石澤源四郎若松より藤原に来り、山川大蔵に面し我が公の命を伝えていわく、今や新発田藩反盟して敵をその城下に導き、米澤藩は兵を国境に退け、二本松また旦夕に迫り、我が兵勢日に迫る、宜しく速やかに兵を境内に収めて関門を扼し、以て緩急に応ずるの策を講ずべしと、これにおいて山川は藤原の営を徹し五十里駅に駐屯す(以上大鳥圭介伝、水島純筆記、小川伝吾筆記、工藤衛守筆記、原田主馬記、七年史)。
 初め山川大蔵の野州に入り東軍の副総督となるや、大に旧幕軍将校の人望を得たり、すでにして奥羽同盟の成るや、客寓の板倉、小笠原二侯および沼間、土方等は大蔵の材略大に倚頼すべきを知り、相議して輪王寺宮を盟主に推し、大蔵をもってその参謀となし、列藩の兵を指揮し、西軍の未だ集まらざるに乗じ薩長と雄藩を白河の野に決するの策を我が公に獻じたるも、議杆格して行われず識者深くこれを惜しみたりと云う(三島毅撰山川男伝、水島純筆記)。

{子爵谷干城は戊辰の役土州軍の武将として野州に出陣し、山川大蔵と戦場に角遂してその将材を識る、維新の後干城は大蔵を軍職に推薦する所あり、しかして大蔵の死後その和歌を集めたる櫻山集を出版するに当り、干城は同書編纂者の求めに応じその序文を書せり、これを読めば当時敵将たりし干城の公評は独り大蔵の人となりを写すのみならず、また忠誠公(容保公の諡)の王事に尽くされし一斑および闔藩が薩長に対抗せし真情を明かせしものと言うべし、よりて左にこれを掲ぐ。

 桜山集序
会津侯、徳川氏之懿親、而関東之巨鎮也、夙奉京師守護之命、啓蒙先帝之渥恩、当激徒紛擾之際、毅然不動
、能鎮御京師、其功偉矣、一朝際変故、其忠変為不忠、猶如元治之於毛利氏、此豈其真情哉、武夫之道実不得止也、山川浩君、会津之俊傑、為本朝夫之龜鏡、弱冠遊歐洲、帰則遭遇騒乱、尽智悉力、歴戦数十回、葢謂薩長籍口尊王、以行其私也、故眼中唯見薩長之兵、未甞見王師也、既而得米澤藩主之報、始知為真王師、投戈開城而帰順、其心事誠可哀、君周旋其間、助其主致誠於朝廷、至忠大節、人皆知之矣、明治維新、余承乏於軍務、聞君名久、五年始相見於江戸、一見如旧、共歴官陸軍裁判所及熊本鎮台、交情益厚矣、丁丑之役、君並孤軍衝〇背、尤救孤城、其功又偉、而其賞不足酬其功、官亦不称其徳、然君坦懐怡然、忘毀誉栄辱、後為貴族院議院、侃侃諤諤、僅伸其万一、古人有言曰、失勢則龍蛇為蚯蚓所笑、得時則輿〇封侯、誠然、今也学術技能之人如雲、而武夫節操如君者果幾人、噫君逝矣、未幾士風益頽、只利是謀、武臣而若盗賊者有焉、文臣而如博徒者有焉、夜半端坐、追懐君之操行、不覚慨然涙下也、君性嗜和歌、乗輿觸感言其志、頗有源奥州、平薩州之遺韻云、頃日高木盛之輔、寄其歌集、屬序余、余固非知和歌者、雖然知君之為人、則不譲他人、故不辞序之、于時明治三十五年四月、隅山居士谷干城撰。}






卷四 総野の戦  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/01/17(木) 17:09:28|
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大鳥圭介若松に入る

大鳥圭介若松に入る

 七月二十一日大鳥圭介は軍務を副総督山川大蔵に屬し、我が藩士竹本登等と第二大隊を率いて藤原を発し、五十里、田島、大内を経て二十六日本郷に至る、時に我が藩士小森駿馬、若松より来り、大鳥に面し公命を伝えていわく、只今白河の形勢危急を告げ、平城陥落し、三春藩渝盟し、西軍二本松に迫る、請う将軍率いる所の兵を石筳口に備えよと、大鳥答えていわく、我が兵久しく僻地に在りて軍事に労す、故に休養の為貴領に来る、今直ちに尊命を奉ずる能はずともいえども、登城拝謁しておもむろに答ふる所あるべしと、すなわち兵をこの地に留め大鳥は登と共に若松に入り、登城して両公に謁し、野州の戦況を開陳せり。





卷四 総野の戦  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/01/17(木) 11:47:59|
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藤原の戦

藤原の戦

 六月二十五日斥候帰り報じていわく、敵兵鬼怒川の両岸に沿うて両道進み来り先鋒すでに二十丁許の処に在りと、我が軍部署を定めてこれを待つ、西軍次第に進み来り我が陣に迫り血戦方さに酷なり、敵は衆を頼み交る々々進み戦い正午に至るも勝敗いまだに決せず、草風隊および第二大隊の一部は奮闘最も努め、草風隊長村上求馬これに死す、時に副総督山川大蔵馬を馳せて至り叱咤衆を励ます、此岸本道の西軍ついに大に敗れ先を争うて走る、我が軍追撃す。
 一方彼岸の西兵に対しては我が兵河を渡りて猛撃したれば、敵狼狽し且つ本道の我が兵に退路を絶たるゝの恐あるをもってこれまた遁逃し水に溺れ死するもの多し、我が軍これを追い午後三時頃凱旋す、後に聞けば敵は肥前兵にして戦場に十四五の屍体を残し、大砲三門その他多数の兵器弾薬雑品を委棄し、大に困惑して今市方面に退去せりと云う、我が軍の死者村上求馬の外その隊士一人、負傷者は我が藩士原勝美、旧幕兵十四人なり、戦捷を若松に報じたるにより、我が公より急使をもって軍に金五百両を賜い、また特攻ある滝川充太郎、浅田鱗之助、大村卓司、鈴木弥七郎等に物を賜い、村上求馬の死を悼み追賞す。

{右の戦に関し藤原御用所(御用所とは家老に随従して普通軍務以外の事を執る屬使の役所なり、山倉大蔵いまだ家老たらざれども南口の副総督たるにより殊にその部下に御用所役人を置きたるものなるべしと)より若松御用所へ報告したる戦報あり『以手紙申述候一作二十五日大原対接戦之次第は不取敢早々申遣置候処一旦追沸一軒家迄追討致候処援兵鍋島兵六七百人後詰致小佐越川向より大砲四門にて打懸宇都宮勢土州勢左之山より厳敷発砲致候に付不止得引取候処追々に付入終に大原宿中へ放火致候処藤原より草風隊別伝習隊為応援被越味方大に気を得大原宿先迄追拂藤原迄引揚に相成候処作二十六日第十二時下瀧村賊徒百人程川端胸壁へ大小砲打懸追々多人数に相成頻りに防戦に及候処第二時半大原道より賊三百人程襲来草風隊第二大隊にて奮発厳敷攻戦に及味方は胸壁中にて打合賊は手を〇追々胸壁下に詰寄候処第二大隊頭滝川充太郎並頭取浅田鱗之助等始め十五六人胸壁中より躍出短兵にて及接戦味方追々進撃終に賊兵大敗軍短兵にて七人其余鉄砲にて十七八人打取十丁程追討又々元之胸壁中へ引取居候川向は賊も追々逃去総敗軍に相成候処昨日高原迄引上け居候別伝習隊為応援駈着直様追討致軽く引上け小原に在陣罷在候敵方死傷小佐越方にて三十人計高得にて十三人内一人宇都宮家老之由緒川急流へ転落溺死致候者無算短兵にて首級六ッ藤原本陣前へ梟首致分捕之品々別紙之通り有之誠に以て大勝利愉快無限儀に候味方之死傷は是又別紙之通に候猶又吉左右早々遣にて可有之此段可及御通達旨被仰付如此に御座候
 六月二十七日 藤原御用所
 若松御用所

生捕は肥州香川杢兵衛組兄子組(儘)古賀儀士と申者に候由
獄門之首生捕之小者に為見候処肥前士官一人は足軽其余不存由申候事
 別紙
分捕之品々
一 大砲 一門
  内一門四斤 一門山砲
一 木砲 一門
一 元込筒 二挺
一 弾薬 六棹
  但銅ハトロン
鍋島藤兵衛組玉薬と一棹は三上庄九郎組と有候
一 ミニー筒 五挺
一 筒大長持 舶来一棹
肥前香島伝之亟古川十郎左衛門と札有候
一 弾薬 二棹 大長持
一 旗 二本
一 中長持 三棹
  中二棹銅ハトロン元込玉
一 鎗 壹筋
一 〇〇〇 二ツ
外に
一 生捕
但壹人は引前と袖印付仕度は士分之儀に相見へ候へ共一向無言にて不相分申候尤少々手負罷在候
壹人は五ッ時比来候処小荷駄方小者と小机有之候

右之外川向にて分捕之品数多有之候へ共いまだ運送に不相成り候
 味方死傷人別
討死 草風隊頭村上求馬
手負 軍目原勝美
討死 草風隊須藤久三郎
手負 深田寅之助
同  田口内匠
 補修者云村上求馬は旧幕府にて相当の職(使番か)に在りしもの、原は会津人なり。}


 藤原の戦捷以来敵来攻せず一軍無聊に苦む。
 





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  1. 2013/01/16(水) 09:49:20|
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太田原城の陥落及び委棄

太田原城の陥落及び委棄

 三斗小屋に滞陣せる第一大隊、会津砲兵隊の一部および回天隊(この隊の組織詳ならず)は間道を経て白河に入るべきの命あり、これにおいて隊将江上太郎、内田衛守、牧原文吾等は前後若松に至り稟議する所ありしが、軍議一変して更に太田原城に入るべき命あり、すなわち兵を板室に出し、閏四月二十一日西軍と小戦を交え日暮交々退く、明日敵大軍油井村に来襲す、我が兵寡くして支ふる能はず、敵火を板室村家に放ちて掩撃す、我が軍ついに敗れ旧幕軍頭取小笠原新太郎これに死す、敗報若松に達するや原田主馬、朱雀三番足軽隊を率いて来り援く、これにおいて使を白河城の我が軍に遣わし、相応じて一挙太田原城を援かんとす。
 五月二日我が軍原田主馬隊(この隊始め大平口にありしがこの方面へ転ぜるか)、有賀左司馬隊(青龍足軽四番隊)、江上太郎隊(伝習歩兵第一大隊)、野際口より太田原城を進撃してこれを陷る、時に白河城は前日敵の為に奪取せられ、為に援軍太田原に来らず、孤軍籠城の得策ならざるをもって即夜関谷村に退軍し、ついで各隊田島に転陣す、太田原の捷報若松に達するや、我が公使を遣わしてこれを賞す。
 五月八日野州の我が総軍大原、藤原に移転す、その後敵は大桑、小佐越、小百等の諸村落を燒尽くす、けだし我が軍の滞陣を困難ならしめんとするにあり、すでにして総督大鳥圭介軍用の為め会津城下に赴かんと欲し、大川正次郎、沼間慎次郎、天野電四郎等を留守となし、副総督山川大蔵と共に若松に至り、直ちに登城して我が公および喜徳公に謁し献策する所あり、滞留数日、五月二十日藤原の本営に還る、時に西軍土州兵は白河方面に向い、肥前兵約千人これに代わりて今市に在り、けだし土州兵の俄然方向に転じたるは、野州より会津に至るの間道険悪に加ふるに東軍屈強にして、容易に会津城下に侵入するを得ざるを慮りたるに由ると云う、会津藩藤澤茂助五十里駅より藤原に来り胸壁築造に従事す。
 六月、去月初旬以来久しく敵と鋒火を交えず兵士倦怠の色あり、沼間慎次郎は軍議に関して大鳥と意見合はず、この月初め辞して若松に帰る、時に山川大蔵は若松より帰陣して五十里駅に在り、この月二十四日大鳥は五十里に至り山川に会して軍事を議す、翌二十五日午後藤原より急使あり、今暁今市、般生に滞陣せる敵軍大原に来襲し昿野において交戦中なりと報ず、大鳥大に驚き早輿を命じて高原に至り、あたかも敗退し来れる兵士に遇いその戦況を問う、一将校いわく、敵は小佐越の河岸より発砲し我はこれに応戦す、良々久しうして敵兵左側の山上に據り、我が側面背後を要撃したれば我が軍支えず一旦大原に退きたるも、一村敵の為に焼かれたるをもってここに留まること能はず、藤原を経てこの処に来れりと、大鳥これを聞き切歯これを久しうしていわく、留守防戦の事は諸将に注意したるに事を誤るこの如し、然れども今これを言うも詮なし、察するに敵は明日必ず藤原に来襲せん、我これを撃攘して今日の怨を晴らさゞるべからずと、すなわち軍を藤原に分けへし、即夜胸壁を小原村に築く。






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  1. 2013/01/15(火) 16:56:59|
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今市の戦

今市の戦

 閏四月二十六日早暁東軍今市を攻む、第二大隊の一小隊松平兵庫の貫義隊と櫻井弥一右衛門の朱雀二番足軽隊とを合し、山川大蔵これを率い大澤口に向い、第二大隊その他の小隊を小百に出し、御料兵を小百、高百の後拒とし、伝習隊はことごとく瀬尾に出て大谷川を渡り七里村と今市との間に進ましむ、小佐越より今市に至るまで三里余りをへだてるをもって合撃の時間を齟齬し、第二大隊いまだ大谷川を渡らざるに大澤口すでに砲声起こる、大川正次郎一小隊を率い急進して七里村に陣し、日光口の来襲に備え、沼間慎次郎、滝川充太郎は二小隊を率いて今市に進んで戦う、南方砲声すでに止みて西兵更に加わる、東軍兵少なく苦戦利あらず河を渡りて退く、南方の砲声早く止みたりしは貫義隊の敗退に由りしなり、我が藩俘洲七郎その他旧幕の将校二人これに死す、兵を小佐越、柄倉に収め、御料兵を留めて小百を守らしむ。
 五月朔日東軍今市を奪わんとす、時に霧雨大谷川に溢れ橋梁流失し、水勢急激にして徒歩すべからず、然れども空しく日を過ごすべきにあらざれば、諸将相議していわく、本営を小百に移さば今市との距離を短縮し軍の策応に便なりと、この日早天第二大隊をことごとく小百に移し、第三大隊を大桑に出す、日蔭村に在りし我が原平太夫の青龍某番寄合組中隊の一小隊は小百に来り日光の形勢を告げていわく、戦えば必ず利あらんと、すなわち浅田鱗之助の一小隊を高百に出し、原隊と合し大砲一門を曳き、日光松原の河原に至り山上より砲撃す、西軍彦根兵戦わずして走る、時に日すでに昏れ日光に入ること能はずして止む、二日より四日に至るまで連日大雨橋梁流失して交通を断つ、五日夜大鳥総督以下諸将相議して今市を撃つの策を定め、各々兵を率いて大桑村に集合し、荊澤辺りに橋を架し大澤口より兵を進めんとす、六日丑の刻大桑村を発す、第二大隊ニ百十五人、第三大隊三百五十人(内百人を大桑に留む)、田中蔵人隊八十人、朱雀三番寄合組城取新九郎隊の八十人、その他大砲一門、総員およそ六百人、荊澤前にて大谷川を渡り、辰の刻ころ森友村の前方に至り、城取隊を右翼となし、田中隊を左翼となし、日光街道より進む、第三大隊は本道の先導となり、第二大隊は本道の二番となり、進みて今市関門より二三丁の地点に至る、先鋒すでに戦を交え、左右の翼も共に進みて近く今市に接し、砲声盛んに起こる、第二大隊もまた進み西兵の前面に撒布進撃す、西兵は胸壁より銃撃し、またしきりに左右の林間より狙撃す、我が兵多く傷つくといえども皆殊して戦う、西兵は要害の地に據り、我が兵は三方より射撃せられ容易く進む能はず、未の刻ころ西兵一小隊許宇都宮より来り援け、我が軍の背後を衝く、我が軍ようやく退く、大鳥手兵十人許を率いて本道に在り、西兵の後方より来れるを防がんとす、衆寡敵せず之を避け又原道に戻り、山川大蔵等と共に我が兵の帰るを待ち、隊伍を整えて退かんとしたるに、たまたま西兵の追撃する所となり林木に身を寄せて遁れ、辛うじて大桑に出で次いで小佐越に帰るを得たり、この日頭取高木銓之助、同吉澤鎌五郎の他数名、我が藩人十三名、兵卒二十人これに死し、隊長米田桂次郎、頭取中根量蔵、第三大隊長天野電四郎、森川喜之助その他五十人傷を負い、伝習隊加藤隣三郎は負傷して生虜せらる。






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  1. 2013/01/14(月) 10:37:59|
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東照宮神輿を移す

東照宮神輿を移す

 これより先日光山の管長大楽院、東照宮に不虞の事あらんことを恐れ神輿を護送せんとし、脱走兵等を率いてその御衛とし、東照宮付属の旧幕臣数十名これを舁し、大鳥に先だって日光を発し、六方越より大鳥と共に五十里に至り、警衛を関門戍衛の兵が兵士に移す。
 閏四月五日大鳥山王峠を越え、我が南口の陣将若年寄山川大蔵に会見し田島に同行す。

{山川氏は当時会津藩の若年寄なる者にて両三年前小出大和に従い『オロシャ』に至り、西洋文化の国勢を一見し来りし人にて、一通り文字もあり性質怜悧なれば君侯の鑒裁にてこの人を遣わし、余と全軍の事を謀らしめんが為に送られたり、余一見その共に語るべきを知りたれば百時打ち合わせ大に力を得たり。『幕末実戦史』}

 
 この頃南口に在りたる我が軍の軍隊は田中蔵人の士中朱雀二番隊、日向内記の砲兵一番隊(この月十七日砲兵隊は城取新九郎の寄合組朱雀隊と交代す、城取は何番隊なるか詳ならず)、諸生隊(相馬孫市戦死後よりこの隊隊長なし)、原平太夫の寄合組青龍某番隊(一番隊なりとも云う、詳ならず)、櫻井弥一右衛門の足軽朱雀隊二番隊等なりしが先任将校といえども他隊に命令する権なく、かつ大鳥は脱走軍の総督なれども我が藩兵に対して命令権あらざれば南口の東軍は不統一の感ありき、山川が陣将として南口に出陣するや閫外の任を受け我が藩兵を統率し、また我が藩士の脱走軍にある者江上太郎、内田衛守、牧原文吾の輩動もすれば大鳥を凌ぐの言動あり、よりて改めて大鳥を推して総督とし山川は副総督として大鳥を佐く、ここにおいて我が南口の軍容整然たり。
 大鳥田島に在ること十余日、更に軍備を整え我が藩兵以外を分ちて四大隊となし、元大手前大隊、すなわち伝習第一大隊四百五十人を第一大隊とし、江上太郎これに将たり、牧原文吾、内田衛守参謀としてこれを佐く(これより先土方歳三は、傷痍を療せんが為め会津に至る)、元小川町大隊すなわち伝習第二大隊三百五十人を第二大隊とし、大川正次郎、沼間慎次郎これに将たり、元御料兵および第七連隊三百人を大三大隊とし、加藤平内、山瀬主馬、天野電四郎等これに将たり、草風隊、純義隊二百人を第四大隊とし天野花蔭、村上救馬、小池周吾これに将たり、しかして士官補として山川が若松より率い来れる春日左近(のち別選組頭、八月二十九日長命寺進撃の時戦死)、竹村幸之進(のち俊秀、狙撃隊長、明治九年思安橋事件に坐し死罪)、笹沼金吾(八月晦日大内にて戦死)、篠田蔀(伝習隊軍目、八月二十四日城中にて死)、岸武之助(歩兵指図役五月五日今市にて戦死)、小野田速見、三澤毅、高野源之助、樋口万吾、稻垣等、田村敬止(のち遠藤、七十七銀行頭取)等を分配して各隊に付属せしむ。

{これより先き伝習歩兵第二大隊長歩兵頭並沼間慎次郎は歩兵指図役頭取武蔵櫻橘、同松浦己三郎、歩兵指図役高林礒之進、同杉江誠一郎、歩兵指図役並高木銓之助、同山内英太郎、事務官須藤時一郎並びに下士十一名を引き連れ会津に来り投じ、もっぱら藩士の練兵に従事せるが、大鳥の会津に入りたるを聞き田島に来れり、第二隊長の長となさらんことを大川正次郎、滝川充太郎の請いにより大川と共に第二大隊長の職を取るに至れりと云う。}

 よりに言う沼間は故ありて(大鳥との折り合い悪しきによると云う説あり)六月初旬に若松へ帰りついに荘内に去れり。
 しかるに幾ばくもなくして白河の味方手薄なるにより、我が軍の一部をさき白河に送るべきの命若松より来る、よりて小池周吾が純義隊を白河に向わしめ、草風隊をして藍原口の守衛に当たらしむ、また原平太夫が寄合組青龍某番隊、並びに江上太郎が第一大隊を野際口の国境外なる三斗小屋に向かわしむ(のち草風隊は藍原より他隊と交代して、本道に帰りたるは六月二十六肥前兵逆襲の戦に参加し、その隊長の一人村上救馬が戦死したるにして知るべし)、しかして第二大隊、第三大隊のみ南口の敵に当ることゝせり、この時敵軍は今市に在る土州兵十小隊、一小隊約五十人にして総数約五百人、外に彦根兵約七百人日光に屯せり。
 閏四月十七日第三大隊、十八日第二大隊田島を発し日光に向かう、山川大蔵は副総督として第三大隊と共に発し、二十日俱に進んで藤原に至る、五十里より高原に至る間に高山あり高原峠と言う、山路甚だ峻険にしてその間鬼怒川の上流巨岩の間を流れる、この処に板橋を架す、橋より五十里に接してまた山あり、ここに関門を設く、左右に胸壁を築き大砲を装置し橋の前後を要撃するの用に供す、実に天下の険要なり、高原より藤原に至る間にもまた嶮山あり、これまた要害の地なり、二十一日高徳を守れる貫義隊松平兵庫の斥候は大桑に至る所の土州の斥候隊に会ひしばらく銃撃す、第三大隊藤原を経て直ちに小佐越に至る、二十二日大鳥小佐越に至る、時に藤原に在りし我が将田中蔵人の朱雀二番士中一中隊は柄倉に出陣す(柄倉は小佐越の枝村にて、その南半里に在り)、この処において将校等相議していわく、明朝日光今市の西兵来り襲わんこと必せり、これに備えざるべからずと、よりて命を大鳥総督に禀け、高徳に在る貫義隊に作戦方略を授け、しかして小佐越に在る第三大隊をして明日黎明に小隊の斥候を大桑村に出さしむ、二十三日丑の刻第三大隊一小隊は小佐越を発し、栗原村の板橋を過ぐれば果たして西軍の斥候あり、互いに銃撃せしが天暗うして勝敗決せずして帰る、すでにして西兵いよいよ進み来り天すでに明けたり、田中隊および第三大隊を出し部署を定めてこれを待ち、その地において募集せる猟夫五十人を田中隊に属して傍の山上に分配す、戦地は右に山あり左に鬼怒川ありて、平野半里幅員十町に過ぐ、辰の刻西軍の先鋒四小隊進み来りてようやく接近す、これにおいて第三大隊の予備隊を出し一斉に猛撃し、田中隊これを横撃し、山上の猟夫隊は和銃を執って乱射す、西軍支えず且つ戦い且つ退く、我が兵これを追撃し板橋を渡りて伏兵に会ひ撃ってこれを退け直ちに兵を収む、東軍の傷者将校三四名兵士八九名に過ぎず。




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  1. 2013/01/13(日) 11:49:47|
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会津に入る

会津に入る

 閏四月三日河治村に至り将卒始めて米飯を喫す、ついで五十里駅に至る、時にこの地方巡検のため出張したる我が家老萱野権兵衛長修五十里に在り、大鳥これに面し既往の状況を告げ且つ全軍を田島に収め軍備を整ふることを得んと請う、萱野その事情の止むを得ざるを察して終にこれを諾す。





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  1. 2013/01/13(日) 10:03:05|
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あけましておめでとうございます!!

 長らくおまたせしました!ぼちぼち始めますので本年も宜しくおねがいします!!
 それと2012年12月19日(水)更新の記事である「田口治八の死(この章、不明部分(和歌作者)ある為引用注、判明しだい補足訂正)」の章を改めときました。なので「田口治八の死」とした正式な章名に戻します。色々とあたりましたがなかなか難しいもので絶対とは云えませんが、たぶんこれで善いと思います。この章は歌人井上文雄・草野御牧らが徳川政権を懐かしみ会津藩を憂える和歌を歌っただけで西南軍に捕まり牢獄に入れられた事の判明が出来る貴重な章です。この事は世間にはほとんど知られてはいませんが明治政府の悪い癖である言論弾圧政策の発端の事件だと思われ、この章もかなり価値ある章ですのでご参考にどうぞ。

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  1. 2013/01/12(土) 18:06:06|
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