いがぐり史料館

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杉澤の戦(長岡及び其の付近の戦)

杉澤の戦(長岡及び其の付近の戦)

 この日早天西軍見付より来り杉澤村の東軍を攻む、朱雀四番士中隊、長岡兵、村松兵応戦し弾丸雨注す、朱雀四番士中隊小隊頭多賀谷勝之進兵を指揮して奮戦す、東軍は道の右側に転じ防堤に據りて猛撃す、幾ばくもなくして市岡隊大砲一門を曳き来りてこれを援けしめが、数日来雨止まず弾薬湿うて砲を発すること能はず、隊士皆銃を執るといえども地利我に便ならざれば戦大に苦しむ、辰の下刻陰雲俄かに起こり終に烈風暴雨となる、弾丸ほとんど尽くさんとする際、佐川官兵衛朱雀四番士中隊一番小隊を率い、長岡藩軍事奉行萩原要人と共に馳せて橡尾より来り吶喊してこれを援く、西兵辟易の色ありしが、たまたま大雨の為、彼らの砲声しばらく息む、たちまちにして雨収まり西兵大に加わり砲声再び烈しく東軍死傷あり、しかして親衛兵の交替する者なく進撃すること能はず、且つ戦い且つ退き兵を杉澤村に収め、砲兵隊は長岡兵と共に杉澤村に発し、村松の兵はすでに退けり、我が軍の傷兵は八十里越より若松に送還す、長岡兵一小隊杉澤の枝村に留まりて殿戦す、朱雀四番士中隊、砲兵隊は薄暮森町に至る、これより暗夜を冒して嶮岨の山徑を踏破すること二里許、深泥脛を没して行歩すこぶる艱む、役夫皆遁れて留まる者なく隊士皆自ら砲車弾薬を運搬す、夜半竹村に至り民家に入り眠りて天明に至る、沿道の村民皆糧食を供して東軍を迎ふ、この日の戦卯の上刻より午の下刻に至る〔西記〕。

 五月二十五日朱雀四番士中隊砲兵隊巳の下刻頃加茂に至る、この日早朝長岡の牧野大隊辛うじて下鹽村に至り山本大隊は上鹽村に至る、朱雀二番寄合組隊および長岡の三間市之進は二小隊を率い加茂を発し西大崎村に次す〔河井継之助伝、西記〕

 時に河東の西軍はその守線を進めて本営を今町に置く、右翼は六十里越より左翼河岸に至るまで、およそ十五里、河西に在りては右翼輿板より左翼海岸に至るまで、およそ五里、すなわち全軍の正面およそ二十里に至る〔河井継之助伝〕。

 米澤兵四小隊、長岡兵三小隊、村松兵二小隊、赤沢村に至りて衝鋒隊、青龍三番士中隊を援け、連戦敵陣を抜くこと能はず、森町方面の我が兵進撃して西兵を破る、西兵火を村落に放ちて走る〔七年史〕。

 五月二十六日暁天米澤兵二大隊小栗山の西山を攻む、西兵山上より応じて砲撃し午の刻を過ぎ東軍ついに利あらずして退く、西兵直ちに山を下りて進撃す、古屋佐久左衛門五小隊を率いて左側の森林中に潜匿す、西軍これを知らず薩摩兵已に過ぎ高田兵来るを見て大声吶喊し刀を揮って突撃す、西兵支ふること能はず小栗山を棄てゝ退く、東軍山上の壘を奪いて戦う、間もなく薩兵返戦し東兵は疲れて戦ふ能はず大面に退く、この日薩の遊撃隊教導役を始め斬獲する事すこぶる多し〔七年史〕。

 朱雀二番寄合組隊は西大崎村を発し、五十嵐川を下り三条に至り御坊に宿す、後米沢の兵と交替して五十嵐川の渡頭を守る〔西記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2




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  1. 2013/02/27(水) 16:33:24|
  2. 会津戊辰戦争史2
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西軍長岡城を陥る(長岡及び其の付近の戦)

西軍長岡城を陥る(長岡及び其の付近の戦)

 五月十九日早天西軍長州の将三好軍太郎、堀潜太郎、高田の将若狭十左衛門等潜に元大島より舟を艤し、長州、高田の兵ニ百余人大砲一門を率い暁霧に乗じ枚を啣み激流を犯して河を渉る〔河井継之助伝〕。

 長雨水流急にして舟ほとんど覆らんとし僅かに前岸寺島(寺島の所在地詳ならず、但し高田藩の届書長岡藩諸隊長の報告により長岡藩の堡累は上流より草生津、中島、蔵王にして寺島は中島に近くその下に在りしものゝごとし)に達し〔続国史略後編〕、直ちに長岡藩毛利家の壘を砲撃す、毛利隊奮戦しばらくこれを支持す、ついで西軍の第二軍三百人許鼠島より渡る、時に大霧のため西軍の在る所及び兵の多寡を知る能はず、交戦終に支ふる能はず、前夜宿営に帰れる半小隊は西兵の砲撃を聞き直ちに赴き援けんとしたるに、西兵すでに我が陣地に據り弾丸雨注進むを得ず、戦い且つ退く、すでにして薩兵槇下村より水を渡り西軍の兵勢ますます振ひ、火を寺島村に放ち砲銃を乱射し吶喊して進む、これより先蔵王の壘を守れる長岡(牧野、長谷川、武)は大島方面の砲声を聞き各陣地を戒め居たるに、会々兵を小舟に乗せて長谷川の壘前を過ぐるあり、怪しみてこれを砲撃したるにすなわち濃霧の裡に影を失せり(これらの小舟の兵は西岸槇下より上れる薩兵二中隊なり)しばらくして砲声烈しく南方に起こり小弾濃霧破りて側面より来る、これにおいて始めて西兵の襲撃を知り、小島隊と力を協はせて毛利隊を援けんと欲せしも西軍猛撃し加ふるに対岸より河を渡りて来り援くる者相踵き〔河井継之助伝〕、榎峠、妙見の西軍もまた会し齋しく進み来る〔近世史略、続国史略後篇、河井継之助伝〕、しかるに長岡の精兵は多く妙見、浦柄方面にあり、衆寡懸隔し〔西記〕、東軍支えず、長岡の諸隊兵は兵学所近傍に退きて兵を収め、あるいは我が兵、村松兵と共に内川橋を扼す、西軍いよいよ勢に乗じ火を中島に放ち驀進して兵学所を衝く、我が諸隊ついに敗れ火を兵学所に放ち、反戦すること数次各々長岡城に退く、西軍は神田口、内川口、渡里町口の三面より合撃す、河井継之助は西軍の河を渡ると聞き直ちに機関砲隊を率い馳せて兵学所に至りて防戦す、ここに長谷川五郎太夫に逢う、長谷川いわく、この地戦に利あらず上田町もしくは渡里町に退いて防戦する方向ならんと、継之助これを然りとし、兵を引き返して内川橋に至れば、寺島より退却したる長谷川、武、小島の諸隊東堤に據りて殊死防戦す、継之助衆に告げていわく、我敵兵を渡里町口に防がんと欲す諸君橋を焼いて防戦せよと、自ら大手口に至る、我が総督一瀬要人、衝鋒隊長古屋佐久左衛門等と共に諸隊を督して防戦す、会々流弾継之助の左肩に中る、継之助屈せず自ら大砲を連弾し衆を激勤して防戦するも崩勢支えず、終に兵を収めて城中に退き、用人花輪彦左衛門、柿本五左衛門をして老侯牧野雪堂主(元老中忠恭朝臣)藩主牧野忠訓朝臣を奉じて森林峠を越えて会津に至らしむ、西軍ついに長岡城に侵入し、市街稲煙に蔽はれ砲銃の響き吶喊の声と相和し光景轉た凄惨たり、藩士あるいは憤慨城を枕にして決戦せんとするものあり、継之助は大隊長牧野頼母等と理を尽くして将士を慰諭し城を退かしめ、自ら城内殿屋を焼き退きて森立峠に至る、この地は長岡城を東に距る二里、橡尾に通ずるの要地にして中越一帯の地を収めて一眸の中にり、時に村松藩西軍に降り橡尾を奪わんとするの説あり、継之助はすなわち残兵を率いて橡尾に退く〔河井継之助伝〕。

 これより先、長岡城の危急に頻するや、河井継之助は槇吉之丞を六日市の本営に遣わし、佐川官兵衛、桑名の山脇十左衛門および長岡の軍事掛川島億次郎等に西軍侵入の状を告げしめていわく、今日区々の戦は益する所なし、むしろ皆橡尾に退き以て再挙を計るにしかずと、三士これを聞きて憤然禁ぜざる折柄敗報しきりに至る、あるいは云う西軍大挙して妙見に向わんとすと、あるいは云う西軍の先鋒は已に摂田屋に進むと、ますます急を報ず、これにおいて佐川、山脇、川島等相謀り日暮を待ちて退却せんとし、諸隊に令して厳に陣備を動かすことなからしめて、陽はに支持の態を示し、陰に退却の準備をなせしが、これその追撃を避けんとするにあり、已に夜におよび朝日山その他の要地を據守せる諸隊に令し交替に西軍を砲撃し漸次に退却せしむ〔河井継之助伝、七年史〕。

 朱雀四番士中隊は妙見の陣地を退却してこの夜六日市村に次す〔西記〕、桑名の立見鑑三郎退却の途次暗に乗じて長岡城の西軍を襲撃せんと申出でたるも議協はずして止む〔河井継之助伝〕、全軍橡尾に退く。
 衝鋒隊桃沢、長田は三小隊を率いて森田に在りしが加茂に退き、衝鋒隊今井信郎は一中隊を率いて青龍三番士中隊と共に大崎に陣す〔七年史〕。

 鎮将隊撒兵はこの日乙木村に屯し、同大砲兵は衝鋒隊桃沢彦次郎を援けて喜津の西軍を撃攘せんと欲し兵を金刀比羅山に出して砲戦す、会々長岡城陥るの報あり、すなわち乙木村に退き諸隊と合しここに次す〔西記〕。

 五月二十日寅の上刻頃我が砲兵隊、朱雀四番士中隊長岡兵二小隊、桑名兵、村松浜兵各一小隊は六日市村を発し、村松村街道を過ぎ濁川村より漸々山路に入り萱峠に登り長岡城下を黒煙の間に望む、これより山路を下り申の下刻頃半蔵金村(長岡の領地)に達す〔結草録、西記〕。
 
 五月二十一日辰の下刻朱雀四番士中隊、砲兵隊、長岡兵、村松兵共に半蔵金村を発し橡尾に至り、これより捷径を取り赤谷村を経て未の下刻頃栃堀村に至り、夜間栃堀村より八十里越に至るの山路を嶮し、半里許前方の山地に守る、長岡兵は栃堀村(長岡の領地)前片に陣す〔西記〕。

 長岡城陥落後河西の西軍前後河を渡り、尾州の兵は榎峠に、薩、長の兵は妙見に、松代、高田の兵は木津に、上田の兵は十日町に據り、薩、長の別軍および加州、飯田の兵は長岡城に據る〔河井継之助伝〕。

 長岡城陥りし後我が藩および各藩の兵は長岡の領地に入りて宿営するもの多く、これに提供する糧食役夫の賃銀等は総て長岡藩にて負擔し、各藩の軍隊よりは少しも受くる所なかりしが、河井継之助は、戦争久しきに彌り軍資糧食の缺乏せんことを慮り、協議して各藩の負擔となせり〔河井継之助〕。

 五月二十二日これより先奥羽越の同盟がなり、我が藩は白河口を督し、仙台は磐城口を督し、荘内もっぱら秋田に当り、上杉駿河守出でゝ越後方面の総督たり、その重臣色部長門、中老若林作兵衛、参謀甘糟備後、芋川大膳、千谷太郎左衛門、田丸右京等一隊を率い、中条豊前これを督し高山輿太郎軍艦たり、十七日水原に至り我が藩の重臣西郷勇左衛門、軍事奉行添役秋月悌次郎、荘内藩石原多門、石原友太夫と会議して防御の策を決し、荘内の兵は柏崎に通ずる海道を守り、我が兵は輿板口を守り、米沢の兵は加茂方面を守る、ついで我が藩、米沢の諸将は更に兵を進めこの日を以て加茂に入る。
 この日我が加茂の本営に会して軍議をなす、会する者我が総督一瀬要人、軍事奉行西郷刑部、同添役秋月悌次郎、同柳田新助、米沢の大隊長中条豊前、参謀甘糟備後、軍監倉崎七左衛門、同高山輿太郎、軍目付大瀧甚兵衛、桑名の隊長松浦秀八、軍事奉行金子権左衛門、同小寺新左衛門、立見鑑三郎、長岡の総督河井継之助、軍事掛花輪求馬、村松忠次右衛門、上山の祝新兵衛、村上の水谷源平次、稲毛源五右衛門、前田又七、林弘助、村松の森重内、近藤貢、清水軍次等なり、爾後列藩の諸将日々相会して謀議するに決せり〔河井継之助伝、七年史〕。

 五月二十三日辰の下刻頃朱雀四番士中隊は栃堀を発し、午の刻頃杉澤村に至りここに次す、戍の下刻頃西兵来襲の報あり、直ちに戦闘の準備をなす、佐川隊の小隊頭野口九郎太夫、半隊頭仮役木村理左衛門、一番小隊を率い栃堀村半里許前方に至り、小隊頭多賀谷勝之進、半隊頭能見久衛二番小隊を率い栃堀より四五丁前方の見附街道に至り道の左側に撒兵し、村松の兵は道の右側に出て、長岡の兵は村中より左側に進み敵の来るを待つ、西兵ついに来らず〔西記〕。

 米沢兵二大隊見附に至る、衝鋒隊々長古屋佐久左衛門五小隊を率いて大面に出てこれを援く、古屋隊の今井信郎、青龍三番士中隊兵を合し、見附の背後に出でんとして西兵を赤澤峠に攻むること二昼夜に及ぶも援く能はず、山下の村落に次す〔七年史〕。

この日列藩の諸将相会し、議して進軍の部署を定むること左のごとし〔河井継之助〕。

 見附口
会津遊撃隊 五十人 大砲二門会津砲兵隊 六十人
会津木本隊 百人 長岡村松隊八十人
米沢齋藤隊 百五十人 大砲二門米沢大砲隊

後軍米沢兵 二百人 計 六百八十人

 輿板口
桑名町田隊 六十人 大砲二門桑名大砲隊
会津鎮将隊 二百人 大砲二門会津大砲隊
衝鋒隊 二百人 上山兵 八十人
後軍米澤兵 百人 計 六百四十人

 橡尾口
其藩兵(藩兵を脱す) 八十人 長岡兵 九百人 計 九百八十人

彌彦口

荘内兵 二百五十人 
会津兵 二百人
村上兵 百六十人
計 六百十人

 鹿峠
桑名雷神隊 六十人

 五月二十四日進軍の部署に従い長岡兵は橡尾の西兵を追撃せんとし、進軍の部署に従い長岡兵は橡尾の西兵を追撃せんとし、川島億次郎は五小隊を率い文納の西兵に当り、共に攻撃して橡尾の西兵全軍を撃攘して大面に至る、牧野図書、山本帯刀は大澤村に至り日すでに没す、牧野は八小隊を率いて暗中樵路を挙ぢ危険を冒して進む、山本隊は大澤村に次す〔河井継之助〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/02/26(火) 12:28:17|
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榎峠方面の戦(長岡及び其の付近の戦)

榎峠方面の戦(長岡及び其の付近の戦)

 五月十日午の刻を過る頃東軍摂田屋村を発し、兵を分ちて二と為し、一は朱雀四番士中隊、長岡の兵四小隊共に本道より進み妙見に向う、已に長岡の兵前岸の西兵と砲戦しきりなり、すなわち馳せて河岸に至り砲撃してこれを援く、西軍もまた応戦し弾丸雨注す、長岡の兵大砲を発して前岸高梨村の西兵を狙撃す、砲弾西兵の頭上に爆裂し死傷すこぶる多し、我が砲兵隊は妙見村と六日市村との間より砲撃す、鎮将隊、衝鋒隊、遊撃隊、桑名の兵(雷神、神風)二隊、長岡の兵四小隊共に村松村より進む、桑名の兵西軍の右翼を撃ち、夜に至り金倉山の壘を奪う、西兵皆遁る、その鎧杖を検して西軍はすなわち長州の騎兵隊なるを知る、すでにして西兵数隊山腹に匿れて林間より東軍を射撃す、長岡の兵これに応じて進撃す、西軍の銃撃ますます猛烈なり、会々本営より令を伝えていわく、孤軍遠く離るゝは戦の利あらずと、すなわち兵を収めて金倉山を下る、会々衝鋒隊中隊頭木村大作は隊将松田昌次郎(二士我が藩士)と兵を率いて来り、木村憤然としていわく、今この地を退き敵兵をして再びここに據らしめば我が軍何の処に維持するを得ん、請う共に進んで撃攘せんと辞気凛然たり、長岡の兵これに激勤せられ共に左右より進撃す、時に薄暮西軍の弾丸雨のごとく砲声山嶽に震う、東軍ますますついに陣地を支持することを得たり、西軍は山腹に據り東軍は山頂に在り、相距ること近く彼我共に悪戦す、亥の刻頃に至り砲声ようやく止む、これにおいて河東西軍の援路絶え西軍孤立し大に窮す、これより防戦十昼夜西軍進むことを得ず〔近世史略、河井継之助伝、西記、続国史略後編〕。

 五月十一日榎峠の東南に朝日山あり最も険要の地たり、この日昧爽萱野右兵衛、桑名藩の山脇十左衛門、立見鑑三郎、長岡藩の安田多膳、田中小文治各兵を率いて攀ぢ上りて胸壁を築き、山上より前岸高梨、三佛生の西軍の壘を砲撃す、しかして西軍ますます河を渡り砲撃してこれを援く、勢甚だ猛烈なり、市岡守衛兵隊を督し、衝鋒隊と共に金倉山より浦柄付近の西軍を砲撃す、佐川官兵衛は朱雀四番士中隊を率いて朝日山の東軍を援けんとし、卯の下刻頃六日市村を発し妙見村に近づくや、西兵砲銃を乱射す、佐川隊は驀進して山頂に登る、時に辰の刻を過ぐ、西兵は浦柄を本営として金倉山を距る二三丁許前方の山上に據る、衝鋒隊は金倉山より砲撃す、朱雀四番士中隊の新鋭は衝鋒、遊撃の二隊と交替して猛射を加ふ、桑名兵、長岡兵は金倉山を距る一丁許の上方に據る、三面合撃し勢甚だ烈し、西兵辟易し黄昏兵を収めんとするの状ありしが夜に至りて彼ら再び砲戦終夜息まず〔西記、河井継之助伝〕。

 五月十二日鎮将隊、朱雀四番士中隊、桑名の雷神、神風の二隊、長岡の兵一小隊、衝鋒隊一隊金倉山に據り朝来る砲戦す、西兵の陣地を距ること最も近し、ゆえに夜間ひそかに胸壁を築きて終宵砲撃す〔西記、戦死者名簿〕。

 時に西軍の参謀山縣狂介は三佛生に在りしが長州の奇兵隊長時山直八と議し、この夜密かに信濃川を渡り備さに地勢を視、明日早天に妙見の壘を砲撃し一挙して朝日山の要衝を奪わんとし、狂介は回りて後軍の挑発に任じ、時山は留まりて横渡に陣す〔河井継之助〕。五月十三日早朝長州の将時山直八兵二百余人を率い、暁霧に乗じ険を冒し潜に朝日山に前進す、我が鎮将隊、前方二三丁許山腹の壘を守る、衆寡敵せず、鎮将隊組頭河瀬重次郎兵を収めて寺澤村に退却し直ちに朝日山の本営に合して戦う、西軍更に東軍を欺かんと欲し、東軍を背にし空銃を自軍に発射して前進す、たまたま濃霧咫尺を弁せず、長岡の隊長安田多膳まさに隊士に令し銃を投じ刀を揮って突撃せしめんとす、桑名藩立見鑑三郎これを止めていわくこの濃霧にては我が兵相撃を成すを免れず、我に一策あり、しばらくこれを待てと、すなわち大呼していわく、敵兵十数人を斃し分捕品莫大なり、我が軍の大捷目前にあり、なお奮闘して敵兵をして一人も生還せしむることなかれと、西軍これを聞きてやや逡巡す、萱野右兵衛、片桐喜八、山田清助、桑名、長岡の諸将その機に乗じ兵を督して縦横突撃す、鎮将隊鈴木勝弥、長州の隊将高橋淳太郎を狙撃しその首級を獲たり、長藩の隊長玉井三平衆に先ち健闘す、鎮将隊柳下武蔵これを斃しまさにその首級を馘せんとす、敵兵たちまち来りて首級および佩刀を収む、我が隊士篠崎力江西兵数人を斬りしも戦急にしてその首級を馘する能はず銃を獲て退く、この日三士の戦功抜群なりき、西兵まさに崩潰せんとするや時山直八自ら隊旗を揮って挺進し大声衆を激す、雷神隊の砲手三木重左衛門一撃時山を斃す、西軍首領を失い意気沮喪しついに大に敗れ、相蹂踐して継崖より墜落し死する者多し、山縣狂介は後軍を率いて進みしもすでに戦機を失い、途上敗兵が時山の首級を携えて退くに逢い、ついに成すべからざるを知り退いて鐡板、白岩の戦線を守る〔河井継之助伝、時山梅南碑文〕。

この時鎮将隊宮下藤太兵を率い寺澤村に至り浦川街道を防守す〔西記〕。

 五月十四日早朝より砲戦息まず、鎮将隊、長岡兵東風に乗じ密かに浦柄村西軍の本営に放火す、すなわち烟稲揚り西兵驚擾す、朝日山上の東軍喊声を発し辰の下刻頃に至るまで烈しく砲撃す、西兵多く死傷しついに支えず小千谷に敗走す、東軍しきりに山上より狙撃す、東兵信濃川を渡りし者ありしが薩、長決死の兵河畔より反戦し前方の山上に登りて砲撃す、我が砲兵隊金倉山の胸壁より進むこと二丁許にして猛撃したるも西兵応ぜず、夜に入り両岸の砲声しばらく息みしが戍の下刻頃より再び砲戦を開始し終夜息まず〔西記〕。

朱雀二番寄合組隊中隊頭伴百悦これを率い長岡より来り鎮将隊と交替して朝日山を守る〔西記〕。

東軍しばしば捷ちまさに小出島を略し小千谷に據らんとするに当り、会々大雨連日信濃川暴漲して田圃海のごとし、ゆえに両軍互いに胸壁を築き遠く相対峙し昼夜砲戦するのみ〔七年史、河井継之助伝〕。

五月十五日朝日山方面哨兵砲戦あり。

 海道の西軍薩、長、加州、富山、高田等の兵二千余は東軍の桑名、水戸および衝鋒隊等五百の兵に支えられ空しく数日を費やしたりしが、十四日西軍衆をことごとくして宮川に進み、椎谷の東軍と会し激戦多時、東軍ついに敗れて市野坪方面に退く、西軍はこの日を以て出雲崎に達するを得たり〔河井継之助伝〕。

同十六日朝日山方面に哨兵砲戦あり。
同十七日長岡砲兵隊榎峠に進み砲戦す。
この夜我が砲兵隊、長岡砲兵隊と共に潜行して榎峠に至り胸壁を築きてこれを守る〔西記〕。

 この時に当り西軍は小千谷より槇下村に至り、東軍は我が兵、桑名兵、長岡兵連合して妙見以北下条村に至る、およそ四里の間信濃川を隔て対陣し、数日の間砲戦息まずといえども勝敗未だ決せず、西軍は主力を榎峠方面に集注して攻撃す、河井継之助もまた精兵を出して抗戦すといえども密かに期する所あり、ゆえに務めて西軍の精鋭をこの方面に牽制し、更に別軍をして河を渡りて迂回せしめ、一挙に西軍小千谷の本営を陥れんとす、前島村に陣せる長岡の兵一大隊半を河西浦村に赴かしめ、これを分ちて二と為し、一は南方小千谷を衝き一は北方大島村を襲うの策を画し、まさに十九日の夜を以て発せんとす〔河井継之助伝〕。

 西軍は迂回して長岡城を侵入せんとし、薩、長の精鋭をことごとくしてこれを当たらしめ、また出雲崎方面の精兵を招致し、輿板より多くの舟楫を徴発して長岡の対岸大島村および槇下村に進め、故らに草生津、中島、蔵王の陣地を砲撃し、東軍をして応戦に暇なからしめ、その機に乗じ潜に河を渡り長岡城に侵入せんとするの画策なり〔河井継之助伝〕。

五月十八日鎮将隊片桐喜八澤村を守り、相川方面に在る衝鋒隊を援く〔西記〕。

 対岸の西軍草生津村、中島村、蔵王村等の東軍を砲撃すること最も烈し、この方面を守備する長岡兵大隊およそ三百人、これに会津兵、村松兵百人を加ふるも四百人を出でず、この夜砲撃を止め篝火を滅し西軍をして疑懼を懐かしむ、河井継之助親しく諸隊を巡視し、激勤していわく、一日の間防戦せよ必ず敵を破るの策ありと、これ実に継之助の大遺算にして、西軍はこの日の暁天を以て信濃川を渡り長岡城を襲わんとす、会々霖雨の為め河水漲り渡るに便ならず、加ふるに月色冴えて昼のごとく、東軍の覚らんことを恐れて敢えて発せず〔河井継之助伝〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/02/25(月) 13:16:42|
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片貝の戦(長岡及び其の付近の戦)

片貝の戦(長岡及び其の付近の戦)

 五月三日辰の刻頃西軍加州、尾州、松代、高田、飯山、薩、長、大垣等の兵来りて我が片貝の軍を襲う、一は山に循い一は野径よりす、我が砲兵隊は距離を測りて砲撃す、西兵これに応じ互いに戦うこと良々久し、朱雀二番寄合隊組、結義隊は撒兵となりて銃撃す、戦酣にして六番の砲車を摧く、すなわち一門を以て戦うこと半時許、ついに皆銃を執って戦う、西兵一小隊許進撃し来る、相距ること二丁許我が兵連弾猛撃す、朱雀二番寄合組隊小隊頭齋藤清左衛門は刀を揮って前進し敵一人を斬り、横山勇、田崎繁三郎もまた首を斬ること各一級、小林操、小泉清一郎は各西兵一人を銃殺し、美藤登は敵の傷兵を斬る、結義隊頭渡部英次郎、井上哲作等刀を揮って突入し尾州兵六人を斬り刀と銃とを獲たり、朱雀四番士中隊朝日村より来り、小隊頭野口九郎大夫、半隊頭桃沢克之丞は一番小隊を率い右側の山上に登り猛進す、佐川官兵衛自ら二番小隊を率い小隊頭多賀谷勝之進、半隊頭能見久衛之に従い坪野平の左側より西兵の背後を衝く、我が兵勢に乗じ吶喊して進撃す、西兵大に敗れて走る、追撃すること十余丁、砲兵隊一門司令官原幾馬、同隊甲士星野恒之進首を斬ること三級、銃および弾薬を捕獲す、西兵火を坪野村に放ちて走る、止まり戦う者三人、一人は五十目銃を執って射撃す、幌役木村理左衛門、朱雀四番士中隊甲士上島権八郎は彼に何番なりやと問えば会津撒兵隊なりと答ふ、また問う、撒兵隊は何隊なりやと、その言未だ終わざるに二番小隊甲士山岸六郎は彼の脇下を撃ちこれを斃す、時に一人の西兵はその側に進み首を馘して退く、その提蘘に書して信州松代之住人前橋民部左衛門忠一と云う、すでにして敵の隻影を見ず、我が軍大に捷ち凱歌を奏して直ちに小千谷を略せんとするの意気あり、午の刻餐を伝え兵を片貝に引き揚げとして人員を点検したるに、たちまち見る一軍片貝右側の山上に在りて八の字の大旗を翻すを、よって尾州兵なるを知る、西兵たちまち赤白の旗幟を振りて相図をなせば、敗兵直ちに反戦し大兵これに加わり撒兵となり吶喊して進み来る、弾丸雨のごとし、朱雀四番士中隊、一番小隊と砲兵隊とは山上の西兵に対し、朱雀二番寄合組隊は右方の路傍に撒兵となり、朱雀四番士中隊二番小隊は左方の路傍に撒兵となり平地の西兵に当る、齋藤清左衛門は率先して衆を激勤す、西兵左側より横撃し山上よりもまた猛撃す、我が軍苦戦清左衛門戦死す、清左衛門は勇武の士なれば全軍痛惜せざるはなし、時に我が兵僅かに三百而して西兵二千余衆寡敵せず〔西記〕、且つ戦い且つ退き全隊を片貝に収む、少時にして朱雀四番士中隊一番隊小隊もまた退却して本営に集合し、砲兵隊もまた片貝に退却す、砲車に属する役夫皆遁れ兵士および兵糧方吏員等止むを得ず器械弾薬を運搬するに至る、鎮将隊はすでに五六丁前方に山上に退却し、朱雀二番寄合組隊は瓦解し、中隊頭土屋総蔵は傷を負い僅に免る、金田百太郎隊もまた塚の山に敗れ関原に退く、我が軍この夜子の刻頃脇の町に次す〔西記〕。

{戊辰の戦終りて後明治二年我が藩士の一半は越後高田藩に幽囚せられ、同藩は高田の各寺院を以て其の幽所に充つ、齋藤清左衛門の弟輿八郎は寺町善導寺に在り、同年五月三日高田藩の一士善導寺に来り、霊前に刀剣と双眼鏡とを供えて供養をなす、輿八郎密かにこれを見ればその二品は兄清左衛門が従軍の時に携えたるものなり、大に怪しみ供養の終わるを待ち士人に就いてこれを質す彼いわく、余は高田藩士津田文蔵の弟某なり、文蔵は一兵卒なりしが客年五月三日片貝の役に会津の隊長と接戦してついにこれを斃し、刀剣と双眼鏡とを捕獲したり、その功により士籍に抜擢せられ後戦没したり、我が家の士籍に陞せられしはこの隊長の戦没に因由せり、ゆえにその忌辰に当り遺物を供して供養を怠らず、いささか冥福を収むるなりと、これにおいて輿八郎は当時の隊長齋藤清左衛門の弟なりと名乗り、互いに奇遇を感じ、某は輿八郎に贈るにその双眼鏡を以てす、人伝えて以て美談となす}〔藤澤正啓談〕

 五月四日巳の下刻頃、朱雀四番士中隊、朱雀二番寄合組隊、砲兵隊、結義隊脇の町を発し申の下刻頃長岡渡町(長岡西口に在り)に至る、この日長岡藩の総督河井継之助は摂田屋村の本営において諸将と会議の際、佐川官兵衛徃きて継之助に面す、継之助いわく、足下小千谷の西軍を撃攘することを約してその言を食む、何の面目ありて我が地に来るやと罵詈至らざるなし、官兵衛大に怒っていわく、予今足下と談ずるを好まず同盟もまた欲せず、ただ今日ここに来りしは敵は已に貴領に迫りたればこれを告げんために外ならず、予すでに決する所あり貴藩兵の進退如何によっては我が兵その後へに発砲し、左右に衝突することあらんも、これを咎むることなかれと、憤然としてまさに起たんとす、諸将これを慰諭し、ついに同盟の役を結ぶに至れり〔結草録、七年史〕。

 五月五日辰の刻朱雀四番士中隊、砲兵隊、長岡を発し巳の刻頃、摂田屋村に至る、長岡藩総督河井継之助、軍事奉行萩原要人その他各隊長兵士を率いてこれを迎ふ、滞陣中(五日より九日に至る)長岡藩主牧野忠訓朝臣我が全隊に酒殽を贈る〔西記〕。

 同六日桑名の兵並び衝鋒隊妙法寺方面を守る、兵寡きを以て鎮将隊物頭片桐喜八隊、同山田清助隊応援として上除村に至る、時に西軍片貝の我が軍を破り勢に乗じて襲撃せんとするの報あり、これにおいて大砲一門を曳き深澤村の渡頭(渋海川の渡頭なり)を守る〔西記〕。

 この日西軍来り水戸藩伊藤辰之助隊の荒浜の陣営を襲う、桑名の兵進んでこれを援く、衝鋒隊、遊撃隊は共に山中を進み西軍の別隊と赤田に会し、血戦数刻終に交々相退く、東軍兵を椎谷に収む〔七年史〕。

同七日桑名兵、衝鋒隊妙法寺より退却す〔西記〕。

同八日鎮将隊、桑名兵、衝鋒隊に殿して大島村に次す〔西記〕。

 同九日鎮将隊、桑名兵、衝鋒隊に殿して退却し長岡に至る〔西記〕、朱雀二番寄合組隊は片貝の役に瓦解せしが、この日長岡に収む〔西記〕。

 我が軍一瀬要人、佐川官兵衛、萱野右兵衛、桑名の将山脇十左衛門、立見鑑三郎、町田老之丞、松浦秀八、衝鋒隊々長古屋佐久左衛門、第二遊撃隊頭井深宅右衛門等長岡に会し、河井継之助と共に義して進撃の部署を定め、長岡兵、朱雀四番士中隊、砲兵隊は本道より妙見村に進み、桑名兵、長岡兵、衝鋒隊、遊撃隊は村松村より進み榎峠方面の敵軍を撃攘せんとす、この時に当り西軍は小千谷に占據し、榎峠の対岸三佛生村に進み信濃川を隔て陣す、別軍尾州、上田の兵はすでに信濃川を渡りて白岩、鐡板、および浦柄、榎峠、妙見街道、金倉山等の要衝を扼す、榎峠は信濃川を左にし金倉山を右にす、長岡より小千谷に通ずる第一の嶮要にして、長岡城を南に距ること三里余なり、会々長雨連日信濃川大に漲り、西軍川を渡りて援くること能はず、東軍これに乗じてことごとく兵力をこの方面に集注して攻勢を取るを得たり〔河井継之助伝、西記、続国史略後編〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/02/24(日) 16:39:31|
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鯨波の戦(長岡及び其の付近の戦)

鯨波の戦(長岡及び其の付近の戦)

 この日海道の西軍、薩、長、大聖寺、高田等の兵米山峠を越えて早朝桑名の兵を鯨波に襲う、桑名の諸将兵を督して応戦す、西軍一は広野峠に上り一は婦人坂に向う、桑名の士相澤安兵衛、富永左兵衛兵を率いて柏崎より来り援く、旧幕遊撃隊(坂本平弥の隊なり)は山を巡りて西兵の側面より兵を潜めて進み急に広野峠の西兵を攻撃す、西兵狼狽して崩る、東兵刀を揮って突撃す、夫人坂の西兵これを見て色動く、立見鑑三郎等叱咤刀を抜き大呼して山を下り西兵を追撃して鯨波に入り、西兵数人を斬り急に兵を山上に収む、西兵反し来り砲戦すること終日〔七年史〕、西兵ついに抗すること能はず火を青海川(新潟県中頸城郡上米山村の大字なり)に放ちて鉢崎に走る、東軍兵寡くして追撃すること能はず、加うるに小田島の敗報を聞き女谷の衝鋒隊は柏崎に退き尋いで妙法寺に、桑名の兵は椎谷に陣す、これにおいて小千谷、柏崎共に西軍の有となり、山海両道これに連絡するに至れり〔河井伝〕。これより先水戸藩(結城党とも諸書組とも云う、反対派は罵って奸党と云う)、市川三左衛門、朝比奈弥太郎、伊藤辰之助等兵数百を率いて亡命し、会津を経て越後に入り、共に長岡、小千谷の地を扼す〔続国史略後編〕、会々出雲崎に在り鯨波の戦を開き伊藤辰之助は一隊を率いて荒浜に陣す〔七年史〕。

 この時桑名の兵更に部署を定め、雷神隊(七十五人)は立見鑑三郎、地神隊(六十五人)は松浦秀八、神風隊(五十七人は町田老之丞、大砲隊(四十七人)は梶原弥左衛門これを督す〔七年史〕。

 この日四番士中隊見附を発し長岡城下に入る、申の刻頃長岡の封地妙見村に至る、酉の下刻頃退却の命あり、夜半長岡に至り宿す〔西記〕。

 砲兵隊は薄暮長岡に至り、直ちに兵を妙見村に進めんと欲し、甲士簗瀬波江、佐々木八次郎を総督一瀬要人の六日市村(長岡を距る三里)の本営に遣わし命を請わしむ、総督令を発して長岡に帰り命を待たしむ、尋いで総督および諸隊もまた長岡に帰る〔西記〕。

 西軍来り小千谷に留まる、河井継之助すなわち封境の守兵を徹す、会桑の将これを疑い兵を率いて城下に迫り同盟を促すこと急なりといえども、継之助は固く前議を執りて拒絶す〔河井伝〕。

 これより先佐川官兵衛長岡に行きて説かんと欲し、沿道において精兵八百、砲兵二隊を率いて過ぐと揚言せるが、この日河井継之助を摂田屋村の本営に訪ふ、折柄継之助諸将と会議の最中なり、継之助、官兵衛に向い足下の虚喝もまた甚し、先に沿道において八百の兵および砲兵二隊を率いて過ぐと言い振らしながら、今率いる所幾何ぞ、我が藩小なりといえども他人をして一歩も踏ましむべからず、速にその軍を回へし我が封内を去れと、官兵衛余に答えていわく、兵に奇正あり請う咎むことなかれ、今足下は他人をして領地を踏ましめずと云うは果たして真なるや、継之助いわく、余は偽りを云はずと、官兵衛いわく、善し、しからば小千谷の敵兵は余これを撃攘すべしと〔西記、結草録、七年史〕。

 閏四月二十八日朱雀四番士中隊、砲兵隊、朱雀二番寄合組隊、その他の諸隊長岡に次す、我が藩長岡藩と軍議す〔西記〕。

 閏四月二十九日辰の刻、鎮将隊、朱雀四番士中隊、砲兵隊、朱雀二番寄合組隊、結義隊、義集隊の分遣兵金田百太郎隊、旧幕遊撃隊、長岡を発し輿板に入らんとす、すなわち朱雀四番士中隊甲士秋月新六郎、松本濤江、三原酉五郎、佐藤義登をして斥候せしむ、輿板城中少数の彦根兵ありといえども恐れて出でず、すでにして諸隊来る、佐川官兵衛輿板城を本営と為さんとしたるに、輿板藩は市民の騒擾せんことを恐れこれを止めんことを請う、すなわち寺院および民家に宿し終宵市中を警戒す、金田隊は脇の町に次す〔西記〕。

 五月朔日朱雀四番士中隊、朱雀二番寄合組隊、結義隊、旧幕遊撃隊輿板を発し脇の町に次す、この日水原府鎮将萱野右兵衛鎮将隊を率いて長岡方面に向かう〔西記〕。

 五月二日朱雀四番士中隊脇の町を発し関原村に至り、幌役木村理左衛門、甲士小川求馬、飯川岩之進、小原勇等をして片貝村に至り斥候せしめ、砲兵隊は深澤に宿し、薄暮甲士渋谷源蔵、矢島又助をして片貝の敵情を偵察せしむ、戍の刻頃帰り復命す、これにおいて進軍の令下る、朱雀四番士中隊、朱雀二番寄合組隊、砲兵隊、結義隊、鎮将隊は直ちに発して片貝村に入り大砲を填装して夜を徹す、金田隊は塚の山に向う〔西記〕。

 この日河井継之助は封境の兵を徹し、身に礼服(当時は麻上下なり)を穿ち単騎馳せて小千谷に至り、西軍の監軍岩村精一郎を見て左の歎願書を呈す〔河井伝〕。

乍恐謹て奉歎願候丁卯の十月徳川氏天下の政権を被致奉還候節今日の勢に可至と悲歎の余不顧疎賤不憚忌諱上京獻言仕退きて徳川氏へ忠諌仕度段以書取相伺御聞済の上十二月二十八日京地出立翌二十九日下阪仕候処城内物騒敷早速入城も不相叶当正月朔日昼頃に至り漸く重臣の者入城届仕候処彼是混雑其辺に至り兼二日三日相成候ては既に如何とも不可致模様柄万民の艱苦忽ち可生は眼前相分候得共何と可仕様も無之尤も上京前徳川氏政令の不治と当時の形勢と一二執事の者申出候得共其段も届兼猶又下阪の上篤と諌争仕度奉存候処前件の次第柄只々歎息罷在候仕合帰府以来屢々申立も仕候得共言れさる取始末不忍見聞事而已にて致方も無之此上は封土の人民を撫安仕候より外無之と無據帰邑仕候当春より徳川家御追討の御命令有之候得共臣として君を諌むるは可有之諌争も不仕忘恩義累代の君へ鋒を向け候は大悪無道忍て可為之哉方今諸侯伯之所業弁論を不待日本国の人理棄絶に至り何と可申様無之是等之人々何程御味方仕候共格別御為にも相成間敷歟徳川家は前後条理も不相立終今日に至り候次第日夜苦心罷在候得共諌争之誠意も不貫徹力之不可済処に御座候得は何様憂慮仕候も致方無之微小の弊邑に御座候得共人民十余萬も有之候得者右の者共をして職業を勤し財用を足し四民を安し候を以て天職と心掛居候外他事無之慎て天下の治平を相待乍不及応分の御奉公可仕心底に御座候尤も表に忠義を唱え内実に割據傍観仕候様なる儀は他に有之候も可悪処にて其辺は申譯迄も無之一毫之求なく誰人に有怨にも非す御威力之十一に不当は愚昧の者も相分候儀に御座候得共義理を守り天職を尽し滅亡仕候は天命と明らめ覚悟も可極候得共彼是の強弱を計り二心を懐き不義の名を以て隣国の兵禍を受け領民を苦み滅亡を取り汚名を後世へ残し候ては申訳も無之衷情御洞察被成下候様仕度奉存候方今海外の諸国互に富強を計り嘉永癸丑渡来よりの所義業御承知被為在候通申上る迄も無之歎息罷在候処自国之騒乱不止之勢と相成候ては行末の処深く御案事申上候儀に御座候微小の弊邑にても用を節し儉を勤め両三年中には海軍用意も可仕と一同勉勤仕候処斯る形勢と相成乱を済ふに補なく徒らに領民を苦め農事を妨げ疲労を極め候ては可悲事に御座候萬死を犯し朝廷へ奉献言無其詮徳川氏へ申立候も無其益進退失徒只領民を治むるを以て天職となし暫く清時を待の心事宜敷御憐愍も被成下候はゝ此儘被差置度不然は民心之動揺大害之所生幾重にも御赦免奉願候獨一領一国の為のみにて申上候には無之日本国中協和合力世界へ無耻之強国に被為成候はゝ天下之幸不過之事迫情切愚誠之程御採用にも相成候はゝ難有奉存候恐惶恐懼謹言
 慶応四辰年五月 牧野駿河守
〔河井継之助伝

 且つ精一郎に説いていわく、今日は如何なる時ぞ、外国は四辺を窺い国内は相戦い自ら疲るゝの時にあらず、仮すに時日を以てせば先づ会津、桑名を説き平和に其の局を結ばしめん、今直ちに兵を進むればたちまち大乱を醸し人民塗炭の苦に陥るべし、これ寡君の最も憂慮する所なればこれを総督府に致されよ、精一郎は長岡の奥羽に輿みするを疑うを以て、継之助懇請すること一昼夜に及ぶも終に聴かず、なお尾州、松代、加州等の諸藩士に托して哀願書を達せんとしたるも、皆薩、長を憚りてこれを取り次ぐものなし、翌三日継之助長岡に帰り心に決する所あり、同志を会していわく、吾今自ら刎ねん、これに三万金を付し西軍に献じ以て無二の志を表せば長岡あるいは難を免れんと、衆聴かず、時に西軍すでに長岡の封内を侵略す、継之助これにおいて憤然意を決して王師にあらず禦がざるべからず、瓦全は丈夫の耻づる所公論を百年の後に待って玉砕せんと、藩主牧野忠訓朝臣すなわち継之助を以て総督となす〔河井継之助〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2




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  1. 2013/02/23(土) 17:09:36|
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小出島の戦(長岡及び其の付近の戦)

小出島の戦(長岡及び其の付近の戦)

 閏四月二十七日卯の刻西軍薩州、尾州、松代の兵七百余人我が小田島の営を襲う、町野主水、井深宅右衛門、山内大学等の兵を合して僅かに二百人佐梨川を隔て大に戦う、西兵川を渡り市中に入りて火を放ち、東軍を環攻して砲声すこぶる烈し、井深宅右衛門兵士六人と共に重囲の中に在り刀を抜いて突撃す、池上武助来り援け傷を負い僅かに身を以て免る、午の刻頃四日町に退き六十里越を越えて叶津に入る〔懐徳碑、北陸道戦記、七年史〕。

これにおいて山道の西軍はこの日を以て小千谷に来り本営を置く〔河井継之助〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/02/23(土) 13:26:49|
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雪峠の戦(長岡及び其の付近の戦)

雪峠の戦(長岡及び其の付近の戦)

 東軍衝鋒隊進んで雪峠に至り松代の斥候に逢い、桃澤彦次郎刀を揮ってその一人を斬る、辰の下刻、長州、松代、高田、尾州、大垣、松本、須坂、飯山等の兵数千来り攻め、東兵険に據りて能く戦う、西軍兵を山上に登らしめ東兵を横撃す、東兵退いて芋坂に據り山砲を発して松代の兵を撃つ、西兵火を民家に放ちて退く、会々小千谷方面東軍利あらず、我が総督一瀬要人長岡を退くと聞き、兵を小千谷に遣わし砲銃等を舟載して妙見に至り、一瀬と会し戦略を議したるも、古屋佐久左衛門等の議容れられずして宮本に移る〔七年史〕。

 この日長岡藩相河井継之助総督となり、兵を出してその境界を守らしめ以て封内の人民を安撫せんとし、本営を摂田屋村に置き、大隊長山本帯刀の率いし一大隊を城南に出す、この時に当り我が藩、桑名藩はすでに兵を越後に出し、長岡藩に説いて戮力せんことを促し、且つこれを励ましていわく、依然として去就を決せずんば一挙にこれを屠るべしと、河井答えていわく、長岡城を獲んと欲せば貴意の儘なり、桑会二藩の力を以てせば一挙手一投足の労に過ぎざるべしと断然これを斥く、河井一日桑会の諸将を長岡城に招きていわく、今や前将軍恭順謹慎して一意天裁を待つに当り、譜代の誼ある我が藩の謹慎すべきは理の当然なり、然りといえども王師北下の日故なく我が微衷を容れずんばこれ王師にあらざるなり、我もまた決する所なかるべからず、我が藩は辺諏の小藩なりといえども厚く自ら信じいささか恃む所あり、形勢を観望して節を二三にするが如きは我が藩のなす所にあらず、卿等疑うことなかれと、会桑の諸将深くその言を諒とせりと云う〔河井継之助伝〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/02/22(金) 12:02:56|
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三国峠の戦(長岡及び其の付近の戦)

三国峠の戦(長岡及び其の付近の戦)

 閏四月二十四日これより先我が封内の小出島の郡奉行兼幌役町野主水は部兵二十人および郷兵六十人を率い徃いて国境三国峠を守ること二旬余、時に関村の郷農某町野を訪ひ、米二万俵を上州に出し置きたるが今これを三国峠に運搬してその半を兵糧として貴軍に獻ぜんと申出で後これを実行せり〔町野主水談〕、西兵未だ来らずよって郷兵を帰らしめ僅かに部兵を留む〔懐旧録〕、この日西軍兵を三国峠に進め小千谷を衝かんとす、早暁町野主水は部兵を率いて三国峠に至り、胸壁を般若塚に築きてこれを守る、主水の弟久吉十六槍を掲げて敵軍を突かんことを請うて止まず、主水その猪勇を戒めしが聴かずしてついに敵に赴きて死せり〔町野主水談〕、遊撃隊半隊山上より望むに西兵すこぶる多し、東軍防戦し午前より未の下刻頃に及ぶ、遊撃隊頭井深宅右衛門本体を率いて来り援く、西兵山を越え関村に入る、町野いわく、関村の敵を撃派して進むべしと、井深聴かずしていわく、山道より退却するの勝れるにしかずと、議協はず、黄昏に至り西兵は東軍の左右を進撃す、井深退却を開始す、町野もまた退却して小出島に帰る(三国峠を距ること四里)、会々奉行山内大学一小隊を率いて会津より来り援く〔懐徳碑、町野主水談〕。
 
 この夜桑名の将町田老之丞、立見鑑三郎、馬場三九郎等相謀り大河内の城山に登り西軍の陣営を監察せんとし、村民の地理に熟せるものを案内とし大雨を冒して山上に達す、西軍陣営の篝火星のごとく、谷根より青梅川に連る〔七年史〕。

 これより先四月十九日、朱雀四番士中隊中隊頭佐川官兵衛隊兵を率いて若松を発し水原に在りしが、この日小千谷の急を聞き軍を加茂に進む〔西記〕、朱雀二番寄合組隊この日五十公野を発し軍を小千谷に進む〔西記〕。

{越後国魚沼郡は我が藩の管轄に属してより玆にニ百余年、管庁を小出島(今単に小出と云う)に置き郡宰属吏期を定めて交替す、人民堵に安ぜず、これより先町野主水この郡の奉行となりしが、三国峠の戦に我が軍利あらず、西軍長駆して来り、閏四月二十七日これに戦い孤軍終に支えず、庁舎および市街兵燹に罹る、村長村吏僧侶婦女皆死力を尽くしてこれに従う、西軍侵入するや探索すこぶる厳なり、あるいは縛に就きあるいは敺殺せらる、あるいは毅然として屈せざる者あり、あるいは我が軍の不利を聞き食咽に下らざる者あり、皆能く義に向い節を重んじて身命を顧みず、ああ政教のおよぶ所誠に誣ゆべからざるものあり、すなわち左のその概略を録す。
中島村の村長和田太郎兵衛は性僕直方正にして人望あり、近里の人々は太爺と呼べり、戊辰の役七十三なりしが我が公の忠誠達せず汚命を負うを慨歎せり、三国峠の戦に老年にて従軍するを得ず人をして代わって徃かしむ、すでにして西軍来り太郎兵衛を執えてこれを語る、太郎兵衛は唯国主の命を奉ずるのみと云いて屈服する色なかりしが、間もなく解放せられたるも爾来怏々として楽まず、村長を辞せんと申出でたるも村民これを止むるによりて果たさず、後我が二公の幽囚を聞き深くその生前に冤を雪ぐの日に逢い難きを歎息せしと云う。
中島村の農又蔵の母は、我が軍利あらずと聞きて憂色あり、田戸村の農亀蔵の母は、妙見川の砲声日に遠ざかるを聞き、会津の軍利あらざるかと食喉に下らざるもの数日に述べり。
田戸村に三人の村長あり、平右衛門、甚左衛門、利八是なり、皆我が藩の為に力を尽くしたりしかば、村人の藩主を慕うこと他村に優れり、利八の妻は佐梨村作十郎、松川村利兵衛が変心して西軍に通じたるを悪みて、我男子ならば二人の人非人を屠り殺さんと云いしとなり。
釋顯宗は中島村萬行寺の僧にして東本願寺派に属せり、常に人に向って我が宗は特に徳川氏の眷顧を受け宗門繁栄二百余年を経たり、徳川氏と盛衰を共にすべきなりと云へり、これにおいて管庁に出入りし周旋大に力めたり、三国峠の敗軍に町野主水は藩吏の妻子をして国に帰らしむるに際し、顯宗にその護送および貨物運搬の事を托す、小出島の戦に我が軍中島を過ぐるに当り、顯宗は糧食を給し且つ捷径に導けり、すでにして松代藩竹鼻の兵至り顯宗を訊問せるに、顯宗応対弁明して免るゝを得たり、戦後小出島戦没士の生命を録し、枯香念誦怠らざりしと云う。
正円寺の主僧某深沈にして度領り、西軍来りて小出島を攻め銃丸堂宇に及べり、主僧端座して動かず、時に我が軍死する者七人屍骸を収めず、主僧これを見て騒然として埋骨は僧徒の職なればとて西軍の将校に請うてこれを埋め、歳時念誦怠らざりしと云う。
次郎兵衛は中家新田村の民なり、小出島の戦に我が遊撃隊の兵士田崎伝八は負傷して身を次郎兵衛の家に托す、次郎兵衛これを室中に匿す、村長利右衛門かたわら医を業とする者なれば密に治療を施したるに隣里これを知る者なし、西軍の邏兵数々来り探せしも終に得る能はず、九月創癒ゆ、利右衛門、次郎兵衛等は伝八をして農夫の装をなし馬を牽きて会津に帰らしむ。
清右衛門は一日市村の農なり、三国峠の戦に町野隊の兵小桧山鐡蔵、古川深次郎弾丸に中り歩する能はず、畚に乗りて退く、西兵の群至するや二人清右衛門の家に匿れ、後長崎村光明寺に移り、発覚して擒はれ、ついに小千谷に斬らる、清右衛門および医師某皆西軍の罰する所となれりと云う〔累及日録〕。}


 閏四月二十六日朱雀四番士中隊加茂を発し三条を経て大面に至る、たまたま斥候佐藤義登、上島権八郎小千谷の急を報ずるを聞き疾駆して見附に至る、この日大雨泥深く、行歩すこぶる悩み全隊疲労す、よってここに宿す〔西記〕。

砲兵隊は新津を発し加茂に宿す〔西記〕。

朱雀二番寄合組隊は小須戸を発し三条に至り、小千谷の形勢急なるを聞き徹夜軍を進む〔西記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/02/21(木) 16:40:09|
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西軍越後に入る(長岡及び其の付近の戦)

西軍越後に入る(長岡及び其の付近の戦)

 この時に当り西軍の参謀黒田了介、山縣狂介は薩長その他の兵を率いて越後に入り、監軍岩村精一郎は尾州、松代、上田、松本等の兵を率いて信州より進んで高田に会し、議を決して四月二十一日高田を発し、一軍は山道より並び進む〔河井継之助伝〕。

 同二十三日衝鋒隊は西軍の山海両道より進むを聞き、隊兵を三分し百五十人を小千谷に、五十余人を塚の山および女谷に、遊撃隊を鯨波に出す、柏崎に屯せる桑名の将立見鑑三郎は二隊を率いて婦人坂に據り、松浦秀八の一隊は広野峠に據り、町田老之丞の一隊は大河内に出づ、松平定敬朝臣は戦起こるに及び我が封内津川に移り尋いで若松に入る〔七年史〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/02/21(木) 10:41:39|
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飯山の戦(長岡及び其の付近の戦)

飯山の戦(長岡及び其の付近の戦)

 越後方面に従軍したる諸隊左のごとし。

越後方面総督 一瀬要人

軍事局 柴太一郎 柳田新助

土工兵隊指図役 安部井壽太郎

水原府鎮将 萱野右兵衛(この隊の編成は旧番頭隊に同じ)

組頭(撒兵) 伴百悦 (後)河瀬重次郎

組頭(砲兵) 中澤志津馬

朱雀四番士中隊 中隊頭 佐川官兵衛 (後)町野源之助

朱雀二番寄合組 中隊頭 土屋総蔵 (後)伴百悦 山田陽二郎 西郷刑部

朱雀四番足軽隊 中隊頭 横山伝蔵

青龍三番士中隊 中隊頭 木本愼吾

青龍二番足軽隊 中隊頭 諏訪武之助

第二砲兵隊高橋権太輔隊の分遺隊 組頭 市岡守衛

一門司令官 原幾馬

一門司令官 黒河内新六

備組後に木村の大砲隊と合併して第二遊撃隊 隊頭 井深宅右衛門

大砲隊後遊撃隊に合併 隊頭 木村忠右衛門

町野隊並び修験隊(のち朱雀四番士中隊の付属となる) 隊頭 町野源之助

新遊撃隊 隊頭 佐藤織之進

結義隊 隊頭 渡辺栄次郎 井上哲作 木澤鐡作

衝鋒隊 隊頭 古屋佐久左衛門

水戸藩亡命の士諸生党 隊頭 市川三左衛門 朝比奈弥太郎 筧助太夫

土著兵(河原田治部旧臣六十里越守備) 隊頭 河原田治部

土著兵(山内大学旧臣八十里越守備) 隊頭 山内遊翁

土著兵(沼沢出雲旧臣) 隊頭 沼沢出雲


 これらの隊後に至り加わりたるものあり。

 二月十日大砲隊々頭木村忠右衛門将校兵士七十一人勘定方吏員医師等七人を率いて津川(越後国蒲原郡)に至り、備組の酒屋(越後国蒲原郡)の官庁を守れるを援く〔累及日録〕。

 同十五日大砲隊一番格(甲士九人寄合組十二人)赤谷に至り国境を守る〔累及日録〕。

 三月六日萱野右兵衛、水原府鎮将と為る〔累及日録〕。

 三月十六日朱雀二番寄合隊中隊頭土屋総蔵は将校兵士百二十五人農兵二十二人を率いて酒屋の警備を援く〔西記〕。

 この夜酒屋を守れる遊撃隊組頭茂原半兵衛酒屋より津川に至る、その言によれば勅使小浜藩等の兵を以て越後高田に入り北越騒然たり、ゆえに兵を米沢嶺に出してこれを抑えせしめんとせしも期すでに後る、よって兵を観音寺村に出し猿ヶ馬場峠を守らんとして大砲隊の進軍を促すために来るなりと、これにおいて大砲隊組頭安部井彦之助は一番格寄合組鈴木四郎を遺して明十七日を以て全隊津川を発することを井深隊に告ぐ〔累及日録〕。

 同七日早天大砲隊まさに発せんとするに際し藩相西郷頼母は書を寄せていわく、溝口老侯まさに国に帰らんとし若松城下に宿するを止む、新発田の藩士等これを迎ふるに托し我が国境に入るやも知るべからず、よろしく関を厳守すべしと、これにおいて俄かに酒屋に発するを止め、二番格寄合組東重次郎、二番格寄合組佐藤勝弥を酒屋に遣わし、赤谷の守兵若松を発しすでに途に在り、この兵来らざれば発すること能はざるを報ず、すでにして有泉壽彦青龍二番士中隊を率いて赤谷に入る〔累及日録〕。

 同十九日朝、大砲隊津川を発し、舟数隻に分乗し阿賀川の激流を下り酒屋に上がる、井深隊に対し明日共に観音寺村に兵を出すことを約す〔累及日録〕。

 同二十日寅の下刻、井深隊先づ発し大砲隊これに次ぐ、井深隊すでに信濃川大野の渡口を渡り終わらんとし、大砲隊これに次いで渡らんとする時舟覆へり溺るゝ者十余人なりしが皆泳いで岸に達することを得たり、隊長すなわち隊士をして溺者を扶けて酒屋に帰らしむ、新領地の郡奉行名倉新兵衛これを憫み懇切に待遇せり、この夜大砲隊弥彦に宿す〔累及日録〕。

 同二十二日これより先十八日若年寄西郷勇左衛門および朱雀二番寄合組隊は、新発田老侯溝口静山を警衛して若松を発し、この日赤谷村端よりその警衛を止む、老侯は新発田に帰る、同隊五十公野に宿す〔西記〕。

 同二十七日大砲隊は帰りて酒屋を守り、井深隊は小千谷に赴く、これより先暴徒富家を掠奪するを以て加茂在陣の桑名藩より使を我が大砲隊に遣わして鎮撫を乞ふ、よって三番格(甲子十一人、寄合組十二人)加茂に赴く、後一番格これに代わる、初め酒屋付近は人情恟々たりしが我が兵至るに及びて衆心大に安んず、隣境新発田封内の人民もまた堵に安ぜりと云う〔累及日録〕。

 同二十九日これより先旧幕臣衝鋒隊長古屋佐久左衛門はこの月九日上州梁田に敗れたる後若松に入りしが、後その兵五百余人を率いて越後に来り、この日今井信郎、永井蠖伸齋、鈴木蠖之進等新発田に赴き、藩庁に至り徳川氏の冤枉を雪がんことを托し、趣旨を村松、長岡及び村上に通す〔七年史〕。

四月二日朱雀二番寄合組隊営舎を新発田城下〔西記〕。

同三日同隊分隊出て沼垂町に次す〔西記〕。

同十七日今井信郎等高田藩竹田初太郎、川戸藤太郎を柏崎に見てその素志を告ぐ〔七年史〕。

同二十日古屋佐久左衛門信州飯山に至り、飯山藩坂本雄兵衛、黒田直右衛門等に長澤駅に会し素志を告ぐ、飯山城下に次し、飯山藩と共に盟約す〔七年史〕。

同二十四日古屋等中野陣屋に入らんとし、この夜松代、須阪の兵高社山に登りて篝火を七所に焚く〔七年史〕。

 同二十五日古屋等秋山繁松をして書をもたらして高社山に至り来意を告げしめんと欲し、飯山藩士と共に小舟に乗りて千曲川の中流に至る、時に中野に陣せる西軍の尾張、松代の兵相謀りて共に千曲川の東岸安田の渡頭に進む、折柄その小舟を見て堤陰より銃を発し従兵二人を傷けたれば秋山大に驚きて舟を返す、これにおいて東兵川を挟んで戦う、西兵大砲二門を以て応射したるが東兵狙撃して砲手倒し砲を発するを得ざらしむ、すでにして東兵飯山城に至り大砲を借らんとしたるに、城中より散弾を発し東兵斃るゝ者数人、東兵怒って城を攻む、東兵の河辺に在る者背後の砲声を聞き、飯山藩の兵と共に退いて城門に至れば飯山藩の兵皆逃げる、東兵急に城に迫るも抜くことを能はず、西軍尾州、松代、須坂の兵千曲川を渡り東兵の背後を撃ちしかば、東兵火を市街に放って富倉山に退く〔七年史〕。

 四月二十六日東兵の別軍早暁新井を発し途に砲声を聞きて進みしも、中軍後軍路を異にして相見ず、飯山城下に入りて松代の兵と戦ってこれを破る、城兵我を狙撃するを見て始めて飯山藩の反覆を知り、棚門を破り入って戦う、西軍すでに退くを知り市街を出でんとして、また松代の兵と戦い、その将を斃しその馬を奪い敵を城北の山上に走らしむ、古屋令して兵を退かしめ夜襲を議す、時に楠田兼三郎高田より来りていわく、高田藩反覆の状あり、我が軍は川浦を退き守るにしかずと、これにおいて富倉山を発し川浦に退き戦略を議す、たちまちにして西南四五町に砲声を聞く、古屋いわく、地理を知らずして夜襲するは不可なり、避けて塚山の険によるべしと、東北に向って退く、衛兵の駅端に在る者ほとんど死す、今井信郎殿戦し火を川浦駅に縦って退く、時に大雨咫尺を弁ぜず〔七年史〕。

 同二十七日古屋等兵を検するに三分の一を失い、弾薬軽重空しく如何ともなす能はず、よって小千谷に退き弾薬を水原に求めしむ。
 この時に当り川浦の敗兵来り集まる者多し、すなわち更に大隊を組織して衝鋒隊と云い、その兵器を失う者八十人を一小隊となして浮撃隊と云う、内田庄司これを指揮す〔七年史〕。
 
 この時大砲隊赤谷を守るべきの令あり、隊士関場辰治、中川景次郎、東重次郎等隊長安部井彦之助に説いていわく、酒屋の守備厳なるを要す、ゆえに兵を収むべからずと、安部井懇諭していわく、新発田の向背測るべからざるものあり、且つ国境の守備もまた厳ならざるべからず、これこの令ある所以なりと〔累及日録〕。

閏四月八日大砲隊酒屋を発す〔累及日録〕。

同九日大雨、大砲隊赤谷に入る〔累及日録〕。

同十五日朱雀二番寄合組隊営舎を五十公野に移す〔西記〕。

 この時大砲隊組頭安部井彦之助は、隊士関場辰治に命じ五十公野に至り朱雀二番寄合組隊中隊頭土屋総蔵に就いて新発田の情状を問はしむ、土屋いわく、能く彼が情状を知らざる者は辞を卑うし礼を厚うして我を欺くものとなすも、吾熟々彼の情状を探るに決して我を欺くの策にはあらず、何となれば家老堀平太夫三百人を以て京師に留められその上江戸にも兵を置けり、ゆえに兵を出す能はずといえども金穀は力の及ばん限り用に供すべしと云いてすでに米金若干を我に送れりと、且つ彼は我に向って道路の説を信じて和を破るなかれ、京師および江戸の事情は報道を怠らざるべしと云いて爾後京師江戸の事情を報ぜり、彼なおいわく、我を疑うことあらば城を致すべしと、この日我が水原陣営において近村より草鞋を買い集めたるに彼を襲わんとするなりと速了し闔藩洶々たり、時に一士人あり先んずれば人を制す、速に兵を発して水原を襲わんと云いたるも闔藩応ずる者なくして止みぬ、これらの事実によりて思うに新発田藩の我に背く意なきや明かなりと、関場帰りてこれを安部井組頭に復命す〔累及日録〕。

 閏四月十六日朱雀四番士中隊中隊頭佐川官兵衛を率い我が管轄する所の越後水原に至り不慮に備ふ〔西記〕。

同二十日砲兵二番隊分遣隊小隊頭市岡守衛分隊を率いて越後の我が管轄地を守る〔西記〕。

 松平定敬朝臣は今玆三月家臣百五十人を従え江戸を去りその封疆柏崎に至る〔七年史〕、江戸に在りし桑名の士町田老之丞、杉浦秀八、立見鑑三郎、馬場三九郎等馳せて柏崎に来り主戦論を主張す〔河井継之助伝〕、時に柏崎に在りし同藩老分(他藩にて云う家老なり)吉村権左衛門は恭順論を主張しまさに兵士を率いて桑名に帰らんとす、同藩士山脇隼人(後に正勝又巍と云う十九歳)、高木剛次郎(後に貞作)の二壮士は吉村に向って徳川氏の為に決してこの地を去るべからずと諌めたるも吉村聴かず、二士ついに吉村を殺す、これにおいて開戦論に決し兵士は皆柏崎に止まるを得たり、二壮士の兵を率いて会津に投ぜんと欲し水原に至りて我が軍事局に告ぐ、軍事局は国法を犯したるものとなし会津に入るを許さず〔町野主水談〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/02/20(水) 09:58:47|
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目次     会津戊辰戦史2

 会津戊辰戦争史2



卷六 越後方面の戦

飯山の戦(長岡及び其の付近の戦)

西軍越後に入る(長岡及び其の付近の戦)

三国峠の戦(長岡及び其の付近の戦)

雪峠の戦(長岡及び其の付近の戦)

小出島の戦(長岡及び其の付近の戦)

鯨波の戦(長岡及び其の付近の戦)

片貝の戦(長岡及び其の付近の戦)

榎峠方面の戦(長岡及び其の付近の戦)

西軍長岡城を陥る(長岡及び其の付近の戦)

杉澤の戦(長岡及び其の付近の戦)

雪塚の戦(長岡及び其の付近の戦)

輿板を襲ふ(長岡及び其の付近の戦)

島崎の前役(長岡及び其の付近の戦)

指出の戦(長岡及び其の付近の戦)

今町の戦(長岡及び其の付近の戦)

島崎の後役(長岡及び其の付近の戦)

大口の役(長岡及び其の付近の戦)

森立峠の戦(長岡及び其の付近の戦)

福井の戦(長岡及び其の付近の戦)

大黒其の他の諸壘進撃(長岡及び其の付近の戦)

大黒の戦(長岡及び其の付近の戦)

半蔵金の戦(長岡及び其の付近の戦)

荷頃の戦(長岡及び其の付近の戦)

輿板方面対陣(長岡及び其の付近の戦)

東軍長岡城を復す(長岡及び其の付近の戦)

新町口の戦(長岡及び其の付近の戦)

新発田同盟に反き西軍に降る(長岡及び其の付近の戦)

亀崎の戦(長岡及び其の付近の戦)

長岡城再び陥る(長岡及び其の付近の戦)

河井の死(長岡及び其の付近の戦)

新潟の戦(長岡及び其の付近の戦)

灰爪の役(海岸戦争)

久田の前役(海岸戦争)

久田の後役(海岸戦争)

乙茂の役(海岸戦争)

赤谷の激戦(赤谷口の防守)

新谷の檄戦(赤谷口の防守)

津川の戦(赤谷口の防守)

東軍兵を班へして舟渡を扼す(赤谷口の防守)

西軍舟渡の背を衝く(赤谷口の防守)

熊倉の大捷(赤谷口の防守)

川手幸八の殉職(赤谷口の防守)

一の木戸の戦(全軍退却)

村松城の戦(全軍退却)

保内村の戦(全軍退却)

寶珠山の戦(全軍退却)

左取の戦(全軍退却)

石間の戦(全軍退却)

角島渡頭の対岸戦(全軍退却)

五十島の戦(全軍退却)

対壘防戦(全軍退却)

進撃軍若松に向ふ(全軍退却)

進撃軍再び兵を班へす(全軍退却)

上田伝次の返戦(全軍退却)

諸隊山三郷に向ふ(全軍退却)

真ヶ澤の戦(全軍退却)

稲荷山の戦(全軍退却)

堂目付の戦(全軍退却)

小荒井の戦(全軍退却)


卷七 会津の形勢

軍制改革以前国境の防備

軍制改革

輪王寺宮若松御入城

農町兵の募集

諸侯客兵の来去

客兵の入国を禁ず

通貨の鑄造

金物の献納

城中の糧食

塩の供給


卷八 会津城下の戦 其一 自八月十九日 至八月二十四日

西軍の侵入

猪苗代城の陥落

我が公瀧澤村に向ふ

戸の口原の戦

白虎隊の奮戦

飯盛山の壮烈殉国

田中神保両藩相の自尽

南門の戦

婦人及び老幼の殉節

蠶養口の戦

神保原の戦


卷八 会津城下の戦 其二 自八月二十五日 至八月二十九日

内藤陣将等の入城

守城の部署を定む

穢多町進撃

女隊の奮戦

小田山を奪はる

護衛隊

西郷頼母の使命

山川大蔵の入城及び更に守城の部署を定む

長命寺の戦


卷八会津城下の戦 其三 自八月晦日 至九月二十四日

堀久米之助米沢に使す

材木町の戦

蟻無ノ宮の戦

長岡兵の殉難

敵軍の総攻撃

諏訪社の戦

鐘樓守の沈勇

城中の慘烈

一ノ堰の戦

雨屋村の戦

寄合組白虎隊の勇戦

米沢藩降を勤む

開城

君臣訣別


卷九 南方の戦

野際村の戦

沼山の戦

大内峠の戦

関山の戦

高田の小戦

高田破る

大蘆村の戦

水戸兵国境を去る


卷十 戦後の処置

秋月奥平の贈答

恩詔

高田に移囚

東京に移囚

萱野国老の殉国

取締の選定

白虎隊屍体の埋葬

一般戦死者の埋葬

脱走暴挙を戒む

家名再輿

斗南移住者の辛酸

容保公喜徳公の謹慎赦免


卷十一 附録

会津松平家略系譜

高須松平家略系譜

会津藩の領地並びに知行高

会津藩執政年表

会津へ入る口々

会津藩の教育

天神口の進撃

幕府陸軍高等武官の一部

敵軍の暴掠

増補



解題  丸山国雄

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  1. 2013/02/17(日) 11:49:58|
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荘内の降伏

荘内の降伏

 尋いで荘内藩開城し、我が藩士のこの地に在る者は、城南二里余の丸岡村(山形県東田川郡山添村の大字なり)天澤寺に寓す。
 十二月十三日荘内藩山本宗蔵天澤寺に来り、酒田参謀局より会津藩士に帰国謹慎の命を伝ふ、越えて十六日我が藩士は荘内城下を発す、荘内藩大野輿一右衛門金五十両をもたらし贈りていわく、重臣の命によりいささか路費に供すと、また南摩綱紀、佐久間平助に銀子各七枚を贈りていわく、老寡君の命により、足下等過般来しばしば来徃力を尽くしたりが、その効なく事これに至る、いささかもって行を送ると、それより新発田を経て二十八日若松に至り、同夜鹽川に護送せられ謹慎す〔南摩筆記〕。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1



会津戊辰戦史1 終

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  1. 2013/02/16(土) 12:48:12|
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輪王寺宮の歎願

輪王寺宮の歎願

 九月十八日伊達慶邦朝臣は執政熊谷文之丞を当時輪王寺法親王の寓せる仙台の仙岳院に遣わし、仙台藩謝罪降伏に決したる事情を開陳し、法親王にも歎願あらんことを上言せしむ、これにおいて法親王は仙岳院、松林院を相馬に遣わし、総督四条隆謌朝臣に歎願書を提出せしむ、尋いで執当龍王院、覚王院の職を免じ、龍王院を光禪寺に、覚王院を誓願寺に謹慎せしむ〔仙台戊辰史〕。





卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1





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  1. 2013/02/16(土) 10:14:56|
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仙台藩の降伏

仙台藩の降伏

 かくて列藩同盟解体し、米沢藩先づ西軍に降り、越えて九月十四日伊達慶邦朝臣は伊達将監、石母田但馬を遣わして降伏の歎願書を官軍に贈る、同藩星恂太郎これを聞きて大に憤り、藩相数人を殊戮せんとしたるが、榎本武揚、土方歳三、諏訪常吉等周旋してこれを止む、この夜恂太郎隊兵を集めて置酒し、衆に謀っていわく、予は明日朝兵を出さんとするの決心なり、これ君名にあらず、諸君の従うと否とは各々その意に任せん、従わざる者は銃と軍服とを留めて去れと、兵士皆いわく、唯命維れ従わんと、これにおいて十五日卯の刻頃三たび大砲を発し、恂太郎馬にまたがり刀を抜き、額兵隊およそ八百余人、隊伍を整え堂々として屯営養賢堂(元の藩校)を発す、けだし先づ相馬口に向いてその西軍を撃たんとするに在り、進んで岩沼に至る、この時に当り本道の西軍はことごとく会津に入りたれば、相馬口の西軍はしきりに援を江戸に乞う、恂太郎諜してこれを知り、その虚を衝き更に三春を襲い、進んで関東に向い、徳川氏の兵と共に海陸より西軍の背後を掩撃してこれを滅ぼさんとするにありき、伊達慶邦朝臣父子これを聞きて驚き、馬を馳せ追うて岩沼に至り、親しくこれを慰諭して進撃を止むるを得たり〔仙台戊辰史、仙台戊辰始末〕。

 九月十七日西軍仙台城下に来るの説あり、榎本武揚等軍艦に搭じて函館に航せんとす、松平定敬朝臣、板倉勝静朝臣小笠原長行朝臣はわずかに一両臣を従い、開陽、回天の二艦に乗り、函館を経て荘内に赴かんとし、この日鹽釜に至りて乗艦す、柏崎才一、諏訪常吉、南摩綱紀等、荘内山岸市右衛門、白井吉郎に面し、荘内の行くの可否を謀る、両人いわく、我が藩は必ず降らず、もし降りるとも仙台とは自ら類を意にすべし、ゆえに足下等皆弊国に来るべしと、諏訪、柏崎、中澤寅太郎、雑賀孫六郎等は開陽、回天の二艦に乗じ、その他は陸行して荘内に赴くことに決せり、時に我が藩士の仙台に在るもの左のごとし。

小野権之丞
柴 守三
大庭恭平
神尾鐡之丞
柏崎才一
中澤寅太郎
永岡敬次郎
三瓶梶助
諏訪常吉
中澤帯刀
南摩綱紀
香坂政太郎
安部井政治
土屋宗太郎
井深恒五郎
雑賀孫六郎
宗像起格
大竹 作右衛門

外十六名


 この時に方りて道路梗塞会津に至る能はず、ゆえに路を荘内に取ることに決せるなり。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/02/15(金) 11:29:15|
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相馬の背反

相馬の背反

 同六日相馬藩同盟に背き西軍に降る、これより先、仙台、米沢の兵および徳川氏の兵相馬藩を援けて西軍を防ぐや、藩主相馬李胤主依頼甚だ篤かりしが、平城陥るの後西軍次第に来り迫る、すでにして仙米兵を班へして国に帰り、各国境を防御せんとす、李胤主切に止りて援けんことを乞うも仙米の兵肯ぜず、これにおいて相馬藩孤立し加ふるに兵寡くして西軍に坑すること能はず、ゆえに降意なしといえども止むを得ず、ついに降を乞うと云う、後徳川氏の臣某相馬に至りて西軍に降るを詰りしに、彼ら陽はに涕泣してその情状を談じ、仙台、米沢の援けざるを怨望せりと云う〔南摩筆記〕。
 相馬の降伏は、攻守同盟の精神に背きて各藩兵を班へし、相馬をして孤立せしめたるに起因す、厳密に武士道の見地より論ずれば赦し難き感あるも、人情より論ずれば深く咎むべからざるに似たり、三春の例を以て論ずべきにあらず。
 輪王寺法親王令旨を仙台、米沢以下列藩に賜う、八月九日小笠原長行朝臣諸人と共に福島に至り、二本松城の西軍を進撃することを議す、我が三瓶梶助、南摩綱紀等飯坂に至り葆真主に謁し、また二本松兵の屯集せる庭坂村(信夫郡に在り)に至り、その藩相丹羽丹波等と議して出師を約し、諸藩の間に周旋して部署ほぼ定まり、十二日二本松城を進撃せんとしたるが故ありてこれを止む、これより日々福島軍議所において軍議をなす〔南摩筆記〕。
 八月十日林昌之助白石城下に至り、輪王寺法親王に謁す、同十二日岩沼に至り伊達慶邦朝臣父子に会す〔林一夢日記〕。
 八月十六日夜半列藩の兵を三分し、仙台は本道八丁目駅よりし、二本松、山県、上ノ山の兵これを援け、米沢および二本松の背後を襲い、福島の兵は逢隈川の南北岸諸々に進むの策を決し、各隊進軍す、会々霖雨泥濘歩行便ならず、仙台兵等八丁目に至れば天すでに明けたり、西軍山上に在りてわずかに発砲す、仙台兵、二本松兵先づ退き、山県、上ノ山の兵したがつて退く、小笠原長行朝臣これを途に要して止むれども及ばず、皆先を争うて福島に遁れる、間道の兵もまた傍観し進まずして帰る、これより後福島の近傍、川俣、保原辺にて仙台兵しばしば西軍と戦い互いに勝敗あり、梶助、綱紀等士しきりに列藩士の間に奔走周旋して先づ二本松城を進撃せんことを議す、一夜若宮駅屯集の仙台兵逃れ来りていわく、西軍の大兵三方より来り襲うと、しかして列藩の兵もまた徃々遁れ来りたれば福島城下騒擾す、石母田但馬、大越文五郎等列藩士会議一致せず、且つ若宮駅中危険の迫るを恐れ、皆諸物を運搬し遁逃して空家となる、仙台兵百五十人許この駅に屯集せしが、この日薄暮山下に銃声を聞き、言へらくこれ西軍の背後に廻れるなりと先を争うて遁れ、駅中また隨って遁る、長行朝臣この状を見て歎じていわく、列藩兵勢の振はざることこのごとし、到底進撃すること能はずと、すなわち仙台に至りてこれを議し、荘内藩隊頭中村七郎右衛門に謀る、これより先七郎右衛門仙台兵を援けんとし、三小隊を率いて駒ヶ嶺に赴きしが、これにおいて急に福島に至らんことを約し、即夜先づ二小隊を発し己もまた翌暁残兵を率いて福島に至り、荘内兵を主とし列藩の兵を合わせて二本松の西軍を攻撃せんことを議せしが、兵寡きを以てついに決せず〔南摩筆記〕。
 八月十九日輪王寺法親王手書を伊達慶邦朝臣に賜う。

秋冷之折柄愈御安泰珍重不斜候扨片倉氏事は旧来之名家にて別而当小十郎並家来供迄大奮発之由承候就ては福島辺へ其藩より出張之兵隊は同人へ総括指揮等之儀委任有之候ては如何可有之哉右等彼是心配之余り御相談旁自證院差遺候委曲之儀は自證院より可申述候也不備
 八月十九日
公現
中将殿
猶々時下折角御厭専要に存候在陣中嘸々多事察候何卒早々御成功祈入候也


 越えて十八日慶邦朝臣は左の答書を呈す。

謹而御直翰奉拝見候家来片倉小十郎祖先以来之名家且当小十郎並家来共迄奮勤罷在候次第被為聴召仍而福島表出張兵隊同人へ惣括指揮等之儀委任致候様被為思召以後使僧蒙御懇命於慶邦冥加至極難有仕合謹而奉畏候巨細自證院へ申含候間被為聴召度奉伏願候不顧忌諱御請奉申上候慶邦誠恐誠恐頓首百拝
 八月二十一日 仙台中将


 八月十八日林昌之助仙台を発し、十九日白石城下に至り法親王に謁す、再び若松に赴かんとし、二十三日米沢城下を経て綱木駅に至る、会々米沢藩小森澤琢蔵若松より帰り来るに逢う、琢蔵いわく、西軍若松城下に侵入し、火を諸々に放ち戦い今や酣なり、寡兵を率いておもむくも城中に入ること難し、空しく兵を失わんよりは策を改めて必勝を期しては如何と、説くこと最も懇篤なるに似たり、しかれども昌之助は始め会津と存亡を共にせんことを期したるを以て、今その危急を見て救はざるは本意にあらずとなし、あえて若松城に赴かんとす、琢蔵再三利害を説いて諌止す、昌之助ついにこれを容れて二十四日米沢に至りて商議す、昌之助いわく、今会津の危急を救わずして力を他家に尽くすは我が志にあらず、今より輪王寺法親王を守護し生死ただ法親王の運命に従うべしと、二十五日その臣大野友弥、伊能矢柄を白石に遣わし、二十六日法親王の執当覚王院に面接してその志を述べ、法親王の守護たらんことを請う、覚王院思えらく、これ彼ら戦闘の勇なく名を守護に借りてしばらく安逸を貧らんなと欲するなりと、よって励声大野、伊能等に言っていわく、足下等本国を脱し徳川氏の冤枉をそそがんと欲するは甚だ善し、しかるに今奥羽危急の秋に際し、法親王の守護を求め、空しく時日を経過せんとするは何ぞや、我が釋氏の徒にして戦略を知らずといえども、幕府亡命の臣および奥羽列藩は多くは因循論に心配せらる、特に会津藩のごときは本国の安危に関せず、大挙して白河城に向い、少敗に屈せず直ちに野州に出でなば、西軍支ふるに暇なく、両家の諸侯風を望んでこれに応ぜしならんに、事これに出でず区々として国境を守り、時に時日を費やし、西軍の破る所となりて大事を誤るに至れり、足下等主公を勤めて徳川氏の臣等と相議し、速に兵を福島城に出し、大挙して中街道の西軍を撃攘し、二本松を回復して会津を援くるにしかずと、大野、伊能は覚王院の論ずる所また一理あるに服し、再び寡君に告げて旨を請うべしと云いて辞し去り、たまたま白石に来れる昌之助、覚王院の議論もっとも理ありとし、再び仙台に至り援を遊撃隊に請い、速に福島城におもむき遙かに会津の声援をなすべし、遊撃隊もし従はずんばしばらく彼に合し、仙台藩を助け時機を待つべしと決心し、全軍を白石に留め、家臣四人を率い二十九日仙台におもむく〔林一夢日記〕。
 八月晦南摩綱紀寒風澤に至り、小笠原長行朝臣および我が藩士諏訪伊助、柏崎才一と共に回陽丸に至り、榎本武揚に面していわく、列藩と謀りて二本松城を進撃し若松城を囲める西軍を攻撃せんとするも、寡兵当る能はず、請うこれを援けよと、武揚いわく、余江戸海を発し鹿島洋において大風波に逢い、回陽、回天の二艦破損し、わずかにこれを牽き来る、咸臨および某艦は索綱を絶ちてこれを放ちその存亡を知らず、彼の二艦には陸軍隊および砲銃弾薬諸器械を載せ、この二艦には海兵と器械とを載するに過ぎず、寡少の陸兵ありといえども未熟事を成すに足らずと、綱紀強いてこれを乞う、武揚いわく、五十人を選び、軍艦用ふる所の砲と金とを輿へて援けしむべしと〔南摩筆記〕。
 九月朔日小笠原長行朝臣および仙台藩相松本要人、我が諏訪伊助、柏崎才一、南摩綱紀等仙台の軍議所に至る、榎本武揚はフランスの教師「ブリユーネ」および某を伴いて来り、列藩同盟の士を集めて会議す、この時「ブリユーネ」戦法を説きていわく、土人に多く金を輿へて探索せしめ、各地に在る敵兵の多少、および毎日夜の実状を審知し、また地理を熟知し、我が兵の配置の多少、胸壁の修築、戍兵斥候の用法等を精密にせざるべからずと、自ら図を画きて指示し、且ついわく、奥羽越列藩同盟の兵およそ幾何ぞ、列藩士各その兵数を概算しこれを合すれば概略五万人なりと答う、「ブリユーネ」いわく、その半数を用ふるも可なり、皆能く吾が言を用ひ、海陸並び進まばたちまち西軍を撃攘して江戸を回復し、京師に至るに何の難きことかこれあらん、請う諸君と評議せん、しかして会津を援くるは焦眉の急なり、速に師を出して孤城の囲を解き、大軍を発して大事をなすべしと、武揚等これを賛成す、軍議終りて宴を開く〔南摩筆記、仙台戊辰史〕。
 
 この頃仙台、白石、福島の間に在りて周旋尽力する者左のごとし、但し白石公議府会議のものも徃来尽力すること少なからず。

仙台
坂 英力
松本要人
石母田但馬
大松澤帰部之助
蘆名靱負
増田歴次
真田喜平太
大越文五郎
玉蟲左太夫

荘内
山岸 市右衛門
白井吉郎
戸田総十郎

会津
神尾鐡之丞
柴 守三
柏崎才一
土屋総太郎
三瓶梶助
坂 綱
永岡敬次郎
安部井政治
結城繁治
雑賀孫六郎
井深恒五郎
松川信平

二本松
植木二郎右衛門
浅見 競

福島
藤川退蔵
小林孫三郎
山岸市之助
窪田市兵衛
富田善平
水野豊八


 時に永岡敬次郎、一日白石城に在り、奥羽越の同盟解体し事の成すべからずを慨し、一詩を賦していわく、

獨木誰支大廈傾 三州兵馬乱縦横
覊臣空灑包肯涙 落日秋風白石城


 九月三日永岡敬次郎、榎本武揚の発したる兵士五十人と共に福島に至れば、米沢兵三百余人来りて列藩士に降伏謝罪を勧説する所あり、翌四日仙台頭大松澤帰部之助以下皆米沢人の説に従って兵士解体す、独り荘内藩中村七郎右衛門憤慨していわく、仮令中途に死するも進撃せんと、南摩綱紀また仙台城下に馳せて兵を増さんことを議す、しかるに仙台城中すでに降伏の議起こり未だ決せず議論沸騰す、すでにして大鳥圭介、古屋佐久左衛門兵を率いて福島に至り、我が大庭恭平、金子忠之進、籾山精助等また従って至る、これより先き圭介は恭平等と小荒井(耶麻郡喜多方町の大字)より磐梯山後を廻り、猪苗代城に至り、若松城外の西軍を進撃して囲を解かんことを申合いて出発せしが、大鳥、古屋等これを履行せず、直ちに土湯を経て福島に至らんとせしを以て、大庭等これを力争すれども聴かずしていわく、糧食弾薬に乏しくして戦うべからず、ゆえに福島に至り小笠原侯、板倉侯および仙台兵と議し、先づ物資を備へて後進撃せんと、大庭等止むを得ず共に福島に至りしに、この地降伏の論盛にして、西軍福島に来るの形勢ありたれば止まることを得ず、諸兵また徃々離散して桑折、白石および仙台城下に至る〔南摩筆記、仙台戊辰史〕。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/02/13(水) 12:12:24|
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軍議局の移転

軍事局の移転

 これより先軍議局を福島に設け、仙台藩相石母田但馬、参政大越文五郎等兵を率いて此に在りしが、二本松城の陥るを聞きこの地を徹して瀬上、桑折(伊達郡桑折町)方面に退かんとするの議あり、南摩綱紀固くこれを止む、但馬いわく、見兵寡し敵軍もし来り攻めばこれを拒くこと能はざるを如何せんと、綱紀すなわち馬に鞭ちて飯坂に至り、阿部葆真主に謁し、福島の状況を告げ、速に兵を発して応援せんことを請い、その承諾を得てこれを但馬に報じ、且ついわく、必ず固くその地を守りて一歩も退くべからずと、馬を馳せ白石の公議府に至りてこれを議す、これにおいて仙台兵漸次桑折、瀬上、福島に進む、仙兵中に暴行をなす者あり、福島および保原、梁川(この二町共に伊達郡に在り)等の諸所に乱入劫掠す、福島等の市民および農夫等仙兵を拒んで入れず、且つ両三人を撃殺す、市店は皆鎖し、諸物を運搬して遠村に避け空屋蕭然たり、仙台の大越文五郎公議府に至りてこれを告げ、且つ米沢藩士と共に福島に至りて説諭し人心を収めんことを議す、我が藩相諏訪伊助、米沢藩相神保左馬之助等議して綱紀および米沢の片山仁一郎に命じ福島に至り説諭せしむ、綱紀、仁一郎馳せ至り、福島藩町奉行山岸一之助等と共に町吏を召喚して懇に説諭したるを以て人心やや案じ、市民ようやく帰り来りて業を営むこと平生のごとくなるに至れり、しかして軍議局はこの日桑折に移せり〔南摩筆記、仙台戊辰史〕。
 八月五日林昌之助若松を発す〔林一夢日記〕。






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  1. 2013/02/12(火) 11:44:31|
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仙台兵の退去

仙台兵の退去

 この時に当り須賀川に陣したる仙台兵は、前後に敵を受け、久しく止まること能はず、総督坂英力は大軍を率いて国に帰らんとせるに、たまたま飛語ありいわく、西軍すでに八丁目(今の信夫郡松川村)に進むと、よって本道より進むの勇なく、薄暮兵を収めて石莚(勝軍山又保成峠とも云う)口に来る、我が将和田八兵衛、北原半介山上の営に在り、半介出でゝ来意を問う、仙将等いわく、前途すでに塞がり本道より弊領地に入るべからず、ゆえに貴封内を過ぎ米沢を経て帰らんとす、半介いわく、この大兵あり路を敵地に開くに何のごときあらんや、今や我が藩兵力を四方に割き寡兵を以て二本松城を回復すること能はざるを憾む、願わくば貴藩これに任ぜよと、仙将等いわく、兵士は疲労し弾薬は欠乏し如何ともするなしと、半介その戦意なきを察し、あえて強いずしてその求めに応ず、仙台兵山上に充満し、わずかに将校を仮営に入るゝに過ぎず、兵士は皆露宿し火を焚きて暖を取る、半介等奔走指揮し辛うじて糧食を供す、かくして仙台兵は猪苗代を過ぎて米沢に入る、仙将日野徳次郎、細谷十太夫等隊兵を率いて尚山上の営に止まりしが、後ついに福島を経て仙台に帰る〔七年史、仙台戊辰史〕。
 八月朔日輪王寺法親王左の手書を伊達慶邦朝臣に賜う。

暄凉適身之候愈御清営令大悦候扨今暁片倉小十郎之急報側向之者内々披露之処其書に云く二本松も落城福島も立退同所軍事局も引拂追々米沢若松始出張之人数繰返し賊兵勝に乗じ川筋も段々下がり瀬上辺へも追々押入桑折宿陣も無心元依て直々引返候云々と右之様子にては早速御国境へも立入候哉に相聞至急之場合と存候間大奮発被有之不囘時日賊徒討滅候半では不相成事にて此方にも甚心細く存候乍御苦労速に御出陣諸隊勉励目出度成功候様致し度此旨極内々御頼申入候余情理乗院より可申述候也
 八月朔日夜認
公現
中将殿
再白時下折角御厭専要に存候本分之趣内々之事に付必す御他言御無用致度候也早々〔七年史、仙台戊辰史、仙台藩戊辰始末〕。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/02/11(月) 12:39:13|
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二本松城の陥落

二本松城の陥落

 福島城主板倉勝尚主は二本松落城を聞き、主従共に米沢に遁れたるが、米沢にては勝尚主およびその臣二三の国に入るを許したるも、その他は入れざるを以て諸臣止むことを得ず、また福島に帰る、福島城空虚なること数日なりき。





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  1. 2013/02/11(月) 12:27:02|
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守山の降伏

守山の降伏

 七月二十五日蓬田(石川郡蓬田村の大字)の東軍は浜街道の西軍小野新町に向うと聞き、この地を空うしてこれに赴き、且つ三春反盟の色明らかなるを以て、守山藩は孤立の状に陥りついに西軍に降れり〔会津戊辰戦史〕。
 七月二十七日三春藩いよいよ同盟に背きて西軍に降り、薩州、土州、忍、舘林、黒羽、彦根等の兵を導きまさに二本松城を攻めんとす、これにおいて列藩急に兵を発して二本松軍を援く、西軍本宮を攻む、我が兵本宮を守り逢隈川を隔てゝ防戦す、西兵川を渡りて東軍に当り、土州断金隊々長美正貫一郎中流に兵を叱咤して進む、我が兵狙撃してこれを倒す、仙台の将鹽森主税、細谷十太夫、大立目武蔵赴き戦うも支ふる能はず高倉(陸奥街道の一部落にて本宮の南一里弱に在り)に退き、大松澤帰部之輔の兵を合わせて高倉山により銃戦これを久うす、すでにして西軍大挙して来り攻む、仙台兵ついに敗れ西軍本宮による〔仙台戊辰史〕、これにおいて二本松危急に迫る、この夜軍議を城中に開く、あるいは降らんと云い、あるいは戦わんと云い決する所あらず、藩相丹羽一学慨然としていわく、同盟に背き信を失い敵に降りる人これを何とか言わん、むしろ死を致して信を守るにしかずと、議すなわち決す〔二本松藩史〕。
 七月二十九日二本松城東小浜(安達郡小浜町)に屯せる西軍の薩、長、備前、佐土原の兵は拂暁三春藩兵を嚮導として逢隈川の前岸に達し、二本松兵と河を隔て砲戦良々久うしてついに河を渉りて進み、供中口を破りて直進す、会津、仙台の兵来り援けしも衆寡敵せず、敵郭内に乱入す、この時に当り一方本宮を発せる薩、土、大垣、忍、舘林、黒羽の兵はまた三春兵の嚮導により正法寺に向って進み、兵を交え次いで大壇(正法寺、大壇供に陸奥街道に在り)に迫り、激戦互いに勝敗あり〔二本松藩史〕、時に仙台の将氏家兵庫兵を率いて松坂(松坂門は二本松城り南隅の門なり)口に出て戦い、我が井深守之進隊、櫻井弥一右衛門隊は本宮口に在りて奮戦す、使者甚だ多し、櫻井隊(朱雀二番足軽隊なり)のごときは中隊頭弥一右衛門重傷を負い、小隊頭小笠原主膳は戦死し隊員の半数を失う、すでにして敵の一隊は城後を襲い三面合撃す、時に二本松の兵大半出でゝ白河方面に在り、守城の兵甚だ少なく新たに老少を募りてこれに充つ、なお能く殊死防戦すといえども城外の援軍皆敗退して如何ともする能はず、城まさに陥らんとす、重臣等は城主丹羽左京大夫主をして囲を衝いて米沢に、夫人をして会津に遁れしめ、藩相丹羽一学、城代服部久左衛門、同丹羽和左衛門、郡伏見習丹羽新十郎火を牙城に放ち、従容として自刃し、以て国難に殉し、城ついに陥る、その壮烈なる反盟諸藩士を愧死せしむるに足れり。






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  1. 2013/02/10(日) 17:14:11|
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棚倉回復戦の不成功

棚倉回復戦の不成功

 七月十六日我が兵、仙台、二本松、三春、棚倉の兵を合し棚倉城を回復せんとし、石川郡浅川村より兵を進め、浅川の渡頭を隔てゝ銃撃す、西軍釜子より来りて我が兵を破り浅川の背後を衝く、三春兵途上より離反し西軍に投じて反撃す、ゆえに東軍すこぶる苦戦し死傷多くついに退く、これにおいて列藩兵を須賀川および郡山に収む、この前後三春、守山二藩の挙動すこぶる疑うべきものあるを以て、仙台の細谷十太夫部下に命じて偵察せしめたるに反盟の形跡明らかなり、よりて列藩の諸将相議して三春、守山を討たんとす、仙台の将氏家兵庫いわく、二藩反盟の疑ありといえども未だ明白ならざるに、同盟の藩を討たば、これより人心離反せん、予三春に至り親しくその動静を探らんと、すなわち三春に至り重臣に面してこれを詰る、重臣等欺きていわく、弊藩決して同盟に背かず、十六日の事は真に一時の錯誤に出づと、兵庫悟らず帰りて諸将に告ぐ、諸将またこれを疑わずついに大敗を招くに至れり〔仙台戊辰史〕、小藩が両強軍の衝に在りて存亡の危急に際し、進退の節を変ずるは多少憫察すべきの事情なきにあらずといえども、初は深く秘してその進退を明かにせず、両軍に均しく孤媚を呈し、一朝決意するや、たちまち反噬の毒を逞うせる者、東に三春あり、西に新発田あり。
 この日東海岸方面においては、仙台兵は常盤街道を進み、米沢の兵に西方松林の間に伏し、純義隊、彰義隊、中村の兵は東海岸の防波堤により西軍の来るを待つ、しばらくして西軍大に来り仙台兵に迫り砲銃隊乱射す、仙台兵進んで戦うといえども衆寡敵せずして退く、西軍の追撃すこぶる急なり、この時西方の林間に伏したる米沢兵と東海岸の諸兵と共に起こりて西軍の背後を衝く、西軍狼狽し屍を越えて走る、東軍勝ちに乗じて追撃して四ッ倉に走らす、西軍殺傷過当、東軍の傷兵はわずかに十余人に過ぎず、この日兵を熊野に収む、列藩の将校相議していわく、東軍大旋を得るも援なし、しかして西軍ますます加はり勢支ふべからず、各兵を率いて国に帰るにしかずと、十七日全軍酒を酌んで告別し、互いに戦闘辛酸の労を慰し、十八日兵を各封内に収む、林昌之助はこの地を去り二十二日若松に入り、入城して両公に対面す、人見勝太郎は仙台に至る〔林一夢日記、七年史、仙台戊辰史〕。

{按ずるに東軍が兵を各封内に収めて友藩相馬を孤立せしむるに至りしは武士道上赦すべからざる罪悪なり、この東軍の内に会津兵は純義隊一隊のみ、ただし兵卒は旧幕府の招募兵にて隊長小池周吾および幹部に数人の会津兵ありき、これらの人々は責任を免れ難きは勿論なり。}




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  1. 2013/02/10(日) 13:11:15|
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法親王軍務を総攬す

法親王軍務を総攬す

 七月十三日法親王白石城に移る、仙台の額兵隊(皆西洋兵式を学ぶ者、星恂太郎これに長たり、仙台第一の精兵にして、服色は英式に習いて赤色を用い、戦に臨み裏を転じて黒色となすの方法なり)従って警衛す〔仙台戊辰始末〕、板倉、小笠原両侯、片倉小十郎城外に迎ふ、これより法親王奥羽列藩の推戴を容れ軍務を総攬す、仙台藩相但木土佐等もっぱら従待す。
 七月十四日子の刻仙台兵根田に至る、その将泉田志摩は途中大和久(矢吹の近くその南に在り)より遁れてついに戦地に至らず、会々大雨泥濘脛を没し進退意の如くならざりき。
 同十五日東軍白河城を攻撃せんとし、昧爽上小屋を発し、一番砲兵隊木本隊は長坂方面に向い、鈴木式武隊、井深守之進隊、杉田兵庫隊、野田進隊、仙台兵は大谷地方面に向かう、坂平三郎は山神山を扼す、砲兵隊の陣地は地の利を得ず、西兵接近し来り山上より砲撃す、砲兵隊応戦せしも、本道大谷地方面の諸隊利あらずして退却し、西兵我が背後を衝かんとしたれば兵を上小屋に収む〔小原書出〕。
 この日阿部葆真主白石城に至り法親王に謁し、板倉勝静朝臣、小笠原長行朝臣と共に軍議を裁断す、また米沢藩下条外記白石に来りていわく、寡君白石に来り法親王に謁せんとしたるに、十一日秋田封境に苦戦し我が兵利を失い、親兵を出してこれを援くるを以て来ること能はずと〔南摩筆記〕。






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  1. 2013/02/09(土) 15:54:11|
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平城陥る

平城陥る

 たまたま十二日酉の下刻雲霧大に東方に起り、たちまちにして濃霧となり晦冥咫尺を弁ぜず、寅の刻、因州、備前、柳川、佐土原の兵は南方湯長谷、湯本よりし、薩州、大村の兵は分かれて二となり、一は薄礒よりし、一は中作、七本松よりす、城兵城を出る一里許土俵をもって砲台を築きてこれを待つ、城兵は久保関門およびその他の壘壁に據る、佐土原、備前の兵、城西尼子橋より東軍を横撃し、更に才槌門に迫り、一隊は六間門を砲撃す、城兵郭内玉の門、六間門より城壘に據り皆死屍を越え傷兵を顧みずして戦う、砲声天に震ひ濃霧彼らを弁ぜず、一方薩州、大垣兵は東方不明門より薄る、たまたま疾風暴雨俄かに起こり迅雷耳を劈く、城兵能く防ぐといえども衆寡敵せず、諸門皆破れ砲弾已に竭き、わずかに二十発を剰すのみ、加ふるに四ッ倉なる米沢藩の応援頼むに足らざりしかば、平藩上坂総長独り止まりて孤城を死守し、諸将士をして去りて再挙を謀らしめんとす、相馬藩の隊長相馬将監その大計にあらざるを以て、一度開城し相馬領界の要所に據り、各藩と連合大挙して他日の回復を期せんと論ず、城中の将士もまたこれを賛成す、上坂も決する所あり、諸士と共に涙揮って火を牙城に放ち城北戸張門より出づ、これより先、城主安藤鶴翁は近臣と共に出て近郊に在りしが、純義隊これを御衛し四ッ倉に去る、西軍市街村落の財宝鶏犬を掠奪し遺す所なし、婦女の掌を穿ち繩を貫きてこれを牽き以て使役に供するに至る、その残虐暴戻おおむね此のごとし、この役東西両軍死傷多し、平城陥るの後東軍四ッ倉向って走り中壁村に至る、笠間の兵潜伏する者百余人出でゝ路に要撃したるも、純義隊、彰義隊これを撃破して過ぎ、兵を四ッ倉に収むるを得たり、尋いで四ッ倉は要害の地にあらざるを以て熊町(雙葉郡熊町村)まで退軍す〔東記、七年史、戊辰私記〕。





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  1. 2013/02/09(土) 10:17:09|
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輪王寺宮を盟主に推す

輪王寺宮を盟主に推す

 仙台の使節栃木五左衛門、横田官平は六月二十二日米沢に至り、我が藩の安部井政治、小野権之丞、米沢の片山仁一郎、木滑要人と共に輪王寺宮執当覚王院用人鈴木安芸守により懇願する所ありいわく、奥羽越列藩白石に会盟し公議府を置く、願わくば法親王これに臨み、列藩の事を統裁せられんことをと、法親王、覚王院をして答えしめていわく、仙台に赴くことはこれを諾せんも、白石城の会盟に臨みて軍事を議するは桑門の身固より共の職にあらず、しかりといえども諸侯の請いにより便宜その名を仮するも可なり、余の素志は二三陪臣の国命を逆乱するを坐視するに忍びず、ついに今日の潜行におよぶ、故に奸を除き国を糺すの盟主となるは義において必ずしも辞せざるなりと〔覚王院戊辰日記〕、越えて輪王寺法親王は六月二十七日米沢を発し、七月二日仙台に至り、城北仙岳院に入り、伊達慶邦朝臣父子および列藩重臣に謁を賜い、左の令旨を下す。

嗟呼薩賊、久懐兇悪、漸恣残暴以至客冬、斯罔幼主、威脅廷臣、違先帝遺訓、而黜摂関幕府、背列聖垂範、而毀神祠拂閣、陽唱王政復古、陰逞私慾、百万溝架、以負冤故幕府及忠良十余藩、遂至脅挟鸞輿、駐蹕於浪華、矯令諸侯、而輿六師、虐使百姓、而奪恒参、四海鼎沸、五倫将墜、大逆無道、千古莫之此焉、今以匡正之任、囑之其藩、宜明大義、諭諸遠近、克尽熊虎之力、速殄兇逆之魁、以上解幼主憂悩、下済百姓塗炭矣、都勉哉、天下所望、雲霓已久、四民所迎、食漿維新、勝算固不容疑者、輪王寺一品大玉一品大王釣命如件、
 慶応四年戊辰七月
大圓覚院義観 花押(覚王院なり)
清淨林院堯忍 花押(海竜院なり)


 副書
此度奥羽越列藩天下匡奸賊掃攘之義挙有之段、於宮御方厚御依頼之御事に候、就ては諸事列藩会議之上、取計候儀は可有之候得共、自然管轄之任無之候ては、行届兼候儀も可有哉と思召候間、当分之内仙台中将殿米沢中将殿両所にて利鈍斟酌施行被有之可然由御事に候
 辰七月 執事


 これにおいて奥羽越公議府は、宮の令旨に従い相議して左の布告をなす。

薩賊の兇暴古今其此を聞かす恐多くも日光の宮も禍に陥れ奉り徳川慶喜に冤枉の厳遣を負はしめ其不直を雪白するに路なく涙を呑み手を束ねて殆んど屠戮に就んとせり宮は累年の厚誼を思召し深く御憂憫ましまし慶喜の冤枉を明白にせんと二月下旬法輿を馳せて駿府城に至り給ひ大総督宮に御対顔伏見の事の起原より具に仰せられけれは薩賊勅命を矯めて云慶喜恭順の実効相立候へは必す寛典に処せられ家系禄地皆憂ふることなしと宮は其誣罔詭詐を洞察し給ふと雖勅命の称至厳なれは江戸に帰り慶喜に告給ふ已にして慶喜祖宗創業の城を開き水戸に退隠し兵器軍艦等を朝廷に奉り実効残る処なく立てられけれとも朝敵の厳譴終に御赦免なく徒に他郷荒陬に孤囚の身と為し給う宮は益御哀愍ましまし屢御書を大総督宮に遣りて寛典に処せられ候様仰進られけれとも薩賊擁蔽して之を通せす剰へ宮の御英明を忌みて除き奉らんことを謀り屢御上京を促しける江戸の市民之を知て市中及ひ近郷数万の人々各歎訴状を捧ヶ御発輿を留め奉りしかは其至情深く御不憫に思召され御延引遊されけるに薩賊又総督府の命と称し御登城を促し城中に留め奉らんとせしに宮は御所労にて御断り遊はされ其外種々の奸計を運らし除き奉らんと謀れとも皆々相違しけれは終に三条実美と相謀り五月十五日未明東叡山を暴襲し勅額の掛りし中堂諸社宮の御殿に至るまで砲弾を以て焼討し儈徒を殺戮し財物を掠奪し残刻貧婪を極め宮を詮索すること甚厳密なり日光山も已に賊徒の據となり途方を失い給ひしか奥羽列藩大義会盟の由遙に聞召され勿体なくも皇胤の御身を以て下賤の微装を着し給ひ鯨波を凌き険路を攀ぢ遙遠僻隈の奥羽に下らせ兇賊を平定し朝廷を清明にせんことを諸侯に托し給ふ素より宮には先帝の勅命にて出家入道し給ひ確乎たる御道心にて慈悲忍辱仏法の本旨を以て万民の塗炭に苦しむを救わせられんとの思召なり万民塗炭に苦しむは畢竟薩賊を討滅し国家太平万民安楽に帰するは即ち仏法の本旨宮の御深意なり嗚呼誰か皇国の民ならさらん誰か皇胤の尊を知らさらん薩賊の兇暴奸詐既に此の如くなれは仮令天日地に落海水涸るゝことありとも誓て此賊と世を同しくして庶幾は遠近の庶民宮の尊意を感戴し力を尽くして雲霧を開晴し東叡山に帰し奉らんことを天下の士民其事実を審にせす宮の御深意を弁せす南北両朝の故事を付会して誣罔の説をなさらんこと恐るゝ故に其大略を記して遠近に布告する者也
 慶応四年戊辰七月 奥羽越公議府


 輪王寺法親王は左の令書を賜う。

 一品法親王令書
化を敷きて万国を理むる者は明君の徳なり乱を発して四海を鎮むる者は武臣の節なり是れ昔大塔宮護良親王の令旨なり方今君側の奸臣等廟堂に謀議し朝典を濫造し殺伐を以て海内を擾乱するの所業は朝命に托すと雖も其の実は新天子の至誠に出さるは列聖神霊の鑒るところ天下億兆の見るところ万々疑う可き無し特に偽命に惑はされ脅従威服の諸侯少からず孤は今上の叔父なり孤にあらずして誰か此の奸を明白にすべき故に今万民を冒して之を一言す

一 徳川慶喜政権を天朝に奉復せしは去年十二月十日なり伏見砲撃の一挙は今年正月三日なり錦旗を出す其第三日なり奸臣等此の事変に僥倖は慶喜に言れなく叛逆の罪を負はせ其の恭順謝罪するに及びて俄に死罪一等を減じ剰へ一己の私算を以て七十万石名跡を許す実に濫章濫罰幼帝を蔑如し朝権を独断するの縦跡顕然掩ふ可からず先帝をして在せしめば其れ之を何とかの給はん其の罪一

一 其の諸侯を駆使するや猥りに王命を以て之に迫り已に王朝の臣たり旧主の存亡は越人の肥瘠なりと申し惑わし弟をして兄を伐ち臣をして君を伐たしむ人情固有の論理乱る天地に容る可からざる聖教の罪人なり其の罪二

一 五月十五日賊徒等勅額も之ある寛永寺へ砲発の一条惨毒の至り孤之を言ふに忍びず其の殺戮の甚たしきに至ては暴戻恣睢肝心の肉盗跖にも此し難し実に人皇百二十二代の今天子に当り聖徳を穢し奉るのみならず後世史筆の大書直書恐るゝにも尚余りあり其の無知強暴天威を畏れざるの致し方神人共に怒り言語同断なり其の罪三

其の他の罪悪髪を抜くも数へ難し孤は今上の叔父なり九重の宸憂痛心悲歎一日も忘る可からず此の旨奥羽連藩へ急々布告し東海東山北陸鎮西大小諸侯迄同じく大義を助ヶ征伐の策を運らし掃蕩の功を奉せん事を依頼至望するのみ
 慶応四年七月 仙台仙岳院に於て

一品法親王
此旨欧文に翻し孤ヵ忠誠明白なることを海外各国公使に告け万国の公論を問んことを欲す


 この日米沢の兵一中隊を須賀川に出し、岩城を援けんとし守山を経て平に進む〔仙台戊辰史〕。

 この日西郷頼母総督を免ぜられ、内藤介右衛門これに代わる、東方面戦闘の成績よろしからざるにより此の命ありきと云う。
 七月三日伊達慶邦朝臣は白河の形勢東軍に不利なるをもって自ら出でゝ諸軍を督せんとす、たまたま病あり、藩相坂英力をしてこれに代わらしめ、親ら賜うに名刀を以てし、且つ命じていわく、苟号令に違う者あらば斬って以て三軍へ従えよと、英力感激し兵を率いて発す〔七年史、仙台戊辰史〕。
 この日平城より兵一中隊を出して、常陸笠間の城主牧野備前守が中壁村(石城郡神谷村大字中神谷)の政庁を襲うて守兵を走らし、進んで薬王寺(平町の東南二里許の所に在り石城郡大野村に属す)の西兵を攻撃す、爾来西軍は平潟、泉、野田、湯長谷、小名浜に屯営してもっぱら休養に勉む、五日黄昏斥候奉じていわく、西兵湯本村(石城郡湯本町の西南一里余)に屯集すと、仙台兵夜襲してこれを破る、七日東軍土工を督し三尾村、七本村の要衝に壘城を築き、戍兵二小隊を置く〔東記、七年史、仙台戊辰史〕。
 既に述ぶるごとく人見勝太郎の長崎丸に投じ小名浜に上陸して湯本に在るや、たまたま西軍平潟湾を襲撃す、勝太郎砲声を聞き馳せ至れば、仙台兵戦わずして遁逃し、咽喉の地早く已ん西軍のよる所となり、東軍利あらず、勝太郎退いて仁井田山、湯長谷、平城等に苦戦するもの数日、頽勢ついに支ふべからず、まさに北陲に走らんとす、時に雲井龍雄もまたこの地に在り、勝太郎一日龍雄等を招きて会飲訣別す、龍雄、勝太郎に言っていわく、勝敗は兵家の常なり、一敗を以て悲しむを休めよ、予これより潜行して両毛の諸藩を説き、義旗を挙げ、西軍の背後を衝かば彼必ず敗走せんと、勝太郎大に悦びていわく、奇策用ふべしと、これにおいて快飲談笑暁に徹せりと云う〔雲井龍雄伝〕。
 この日仙台の将鹽森主税は棚倉城を恢復せんとし、兵を率い郡山を経て三春に進む〔七年史、仙台戊辰史〕。

 これより先会津、荘内解の行はれざるを憤り、奥羽諸藩三十一藩は攻守同盟を結びしといえども、加盟諸藩中には皆必ずしも一定不変の所信に基づきて向背を決せしにあらず、中には自ら四囲の形勢に制せられて事情止むを得ず加盟したるものなきにあらず、故に一朝天下の形勢会荘軍および同盟軍に不利なる兆候を現すに至れば、渝盟の挙に出づるものあるはまた自ら免れざる所なり、果たせるかな七月に至り秋田藩、津軽藩の欵を敵軍に送るあり、昨の同盟軍と鋒を交ふるの止むを得ざるに至れり、津軽の仙台に輿へし断交状は書辞鄭重なりしも、秋田に至りては仙台の使節を斬りて西軍の歓を買い、甚だ武士道に背くの挙を演じたるをもって、同盟軍の憎む所となり連戦皆敗れ、領土はその大半を失い、一時危急に瀕するに至れり、その他渝盟の藩々に就いては各方面の戦記に記述す。
 七月十一日我が藩田中源之進、二本松藩相丹羽丹後、その他列藩の諸将須賀川に会し、一挙して白河城を抜かんことを議し、諸将の向う所を部署す。
 この日伊達慶邦朝臣の世子伊達宗敦は仙台城を発し、即夜岩沼に宿し、十二日白石城に至り、それより国境越河(宮城県刈田郡越河村の大字)経て福島、二本松までも進まんとする予定なりしが、時に平城危急を告げ、もし陥落せば相馬もまた安全を期すべからず、よって急に議を変じ相馬国境駒ヶ峠に進む、この日仙台藩横田官平福島に来り板倉勝静朝臣、小笠原長行朝臣に勧めて共に白石城に至る〔南摩筆記〕。
 平城において七月十日早朝薩州兵小名浜よりの来襲を受け、東軍これに応じて戦う、西軍兵を分ち左側の山道を迂回し、下三尾村の後方より七本松の背後に出でんとするを察し、七本松の守兵を分ち撒兵となして背後に備へしむ、西兵果たして背後より挟撃す、東兵は前方の胸壁により、後方は撒兵して久しく防戦すといえども援なきをもって兵を収めて平城に帰る、西兵その壘壁を踰えて進み来る、平城は険要の地にして守りやすく攻め難し、故に容易に抜くこと能はず、更に薩州、佐土原、柳川、大村の兵を合わせて来り攻む、勢甚だ鋭し、城兵(仙台、米沢、中村、純義、彰義、平)能く防ぐ、この時に当り米沢藩の将江口縫右衛門、三中隊を率いて四ッ倉より来りて城兵を援く、江口が兵に三十目銃隊三十二人あり、各三十目弾の銃を執り、しきりに西兵を猛撃す、西兵辟易して七本松、三尾に退く〔東記、七年史、米沢藩戊辰軍記、戊辰私記〕。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/02/08(金) 09:32:17|
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平の戦

平の戦

 この日薩州、大村の兵は泉田を発し野田村に進み、まさに平城に迫らんとす、城中これを見て仙台、米沢、相馬の兵城を出て豊岡川を隔て銃を連ねてその至るを待つ、彰義隊は豊岡山の半腹に潜匿す、大村兵湖畔に来り仙台兵と戦い、薩州兵は海岸を回り川を渡りて米沢兵を横撃す、米沢兵応戦し相馬兵これを援け激戦数刻砲煙天を覆う、東軍少しく退き、西軍これを追撃す、会々豊岡山に潜匿したる彰義隊砲を発して号を為すと共に撒兵いっせいに乱射し、西軍また反戦して山腹の東兵を撃つ、林昌之助藩兵を率いて長崎丸に搭じ小名浜に入り、薩州、大村の隊旗を望みて連なりに砲撃す、しかれども両軍交錯して彼我を弁ずること能はざりしかば、長崎丸は東軍を傷けんことを恐れ砲撃を止む、やがて東軍除々に退くや西兵なお追撃しければ、中の作の東兵銃を発してこれを撃ち、西兵ついに退く、この時湯長谷方面の砲戦すこぶる猛烈を極む〔東記、七年史〕。
 棚倉城すでに陥り西軍ますます加わる、東軍我が総督西郷頼母白河城を抜かんと欲し、六月二十九日列藩諸将を上小屋の本営に会して戦略を議したるも決する所あらず、時に我が藩西郷鐡次郎矢吹の陣所より来り議していわく、仙台、二本松の隊将は三春藩密かに西軍に降れるを聞き、背後を絶たれんことを恐れ須賀川を退却せんことを主張す、しかる形勢なるにもこだわらず進んで白河城を攻撃せんとするは果たして勝算ありやと、我が諸将奮っていわく、仙台、二本松軍の退去は敢えて止むべきにあらず、唯我が兵をもって独力進撃鏖戦せんのみと、果たせるかなこの夜仙台増田歴治の軍は火を矢吹に放ち列藩軍に告げずして蒼皇として須賀川に退去す〔東記、七年史、仙台戊辰史〕。
 この日野村監三郎は大平口に馳せ至り、明日白河城進撃の方略と、根田口の形勢とを総督原田対馬に報じたるにより、対馬は諸将と会して軍議を開く、皆いわく、棚倉城陥り平城もまた危急に迫れり、むしろこの際急に兵を進めて白河城を抜くべしとこれに決す、監三郎は即夜上小屋の本営に帰りてこれを報ず〔東記、七年史〕。
 七月朔日これより先奥羽列藩が、奥羽鎮撫総督府の公認を得て、討会および討荘解兵の後、幾ばくもなく列藩同盟成り、その前後より列藩がすでに西軍と兵鋒を交ふるに至りしより、奥羽鎮撫総督府を依然として仙台に置くは、徒らに東軍の為に利用せられその気勢を添ふるの観なきにあらず、時に荘内追討の援兵参謀の任を受け一隊の兵を率いて仙台に来りし佐賀藩士前山清一郎はこれに見る所あり、総督府を秋田に移さんと欲し、仙台藩を欺き、九条総督は秋田駐在の福澤総督と共に一旦帰京禀命の要ありと託言し、五月十八日清一郎は九条総督、醍醐参謀一行を擁護して仙台を発し、六月三日盛岡に至り、越えてこの日秋田に入りしが、福澤総督および大山格之助は五月以来すでに秋田に在りたり。
 この日昧爽西軍鼓を鳴らして平城に来り迫る、東軍仙台兵田畔溝渠に據り兵を撒布してこれに備ふ、薩州兵五小隊、大村兵五小隊、一は小名浜の本道よりし、大砲数門を列ね、りに爆裂弾を連射す、砲弾水田中に爆裂し泥土飛散して東兵の面に被る、西兵追跡す、城兵(仙台、米沢、平等)樹蔭と市街とに潜匿したる者いっせいに起りてこれを撃つ、城中よりもまた大砲を発射す、大村兵砲煙弾雨の間を驀進して入川の堤防に據る、薩州兵は川を隔てゝ戦う、城兵樹間を進み西軍を横撃す、西軍直ちに兵を回して戦う、西軍の弾薬大雨に逢うて濕潤し、小銃威力減少したれば、大砲を発射すること最も烈しく、城兵防戦大に努む、すでにして大村兵弾薬尽きて退かんとするや城兵これを追撃す、薩州兵殿戦して小名浜に退き、東軍は兵を平城に収む〔東記、七年史〕。
 この日我が兵、仙台、二本松、棚倉の兵は大平口を発し、下羽太より下柏葉野村に至り、左右の壘壁に兵を置き友平新三郎(友平は壬生の人、砲術を江川英龍に学ぶ)東海林貞之進をして金勝寺山上より野戦四斤砲(長四斤砲とも云う)を発射して白河城を攻撃せしむ、砲弾命中し西兵大に散乱す、上田八郎右衛門、蜷川友次郎、赤植平八、仙台の大立目武蔵、細谷十太夫等各々兵を率いて中山および雷神山より進み、急に古天神の西兵を撃つ、西兵敗走して立石山に退く、二本松の兵立石山下に進みてこれを追撃す、原田主馬、土屋鐡之助等連りに進んで激戦すること良々久し、西兵別軍をもって東軍の背後に出で、火を上羽太、下羽太、関屋等の民家に放つ、総督原田対馬は山口次郎の兵および上総飯野藩の兵三十六人の兵を率いて柏葉野逢隈川の壘を発し、雷神山の西兵を撃つ、苦戦利あらず飯野藩の兵もまた奮戦す、その隊長森要蔵生年五十九、身を挺して進み、刀を揮って縦横奮撃、流血淋漓ついに敵兵三人を屠りて戦死す、要蔵の次子虎尾わずかに十六歳、紅顔の美少年なりしが父と共に奮戦して死す、東西両軍これを視る者歎惜せざるはなし、この時二本松の兵は西軍二本松に迫ると聞きて帰藩し、仙台の兵もまた三春、相馬変心の風評を聞きて気勢甚だ振るわず、刎石より進みたる小原宇右衛門、木本内蔵之丞等は大平方面の我が軍すでに敗績したるの後にして援くるに及ばず、山神山にて坂平三郎が兵しばらく砲戦して止む、下新城より進みたる秋月登之助の率いる伝習隊一大隊は後れて機を失し、空しく上小屋に退く、小森一貫齋は中地峠より、鈴木式部および義勇隊と共に鳥の子山(中地峠並びに鳥の子山は何れにあるか詳ならず、小森隊は棚倉口より白河攻撃に敗績し須賀川へ退去せしが中地峠は須賀川より白河へ向う道なるべきにより陸奥街道に在るべし、鳥の子山は小田川村の内なるがごときも確かならず)に在りて共に戦を挑まんとせしも、西軍本沼(西白河郡大沼村大字本沼)よりその背後を衝かんとするを恐れ、義勇隊並びに仙台の兵は泉田の方面に退き、左右の山林に散布して西軍に備へしが、ついに戦はずして小田川に退守す、仙台藩細谷十太夫は増田歴治が前夜告げずして矢吹を焼きて退軍せしを怒りてこれを斬らんとしたるも遂に果たさゞりき〔東記、七年史〕。

{森要蔵は上総飯野藩主保科弾正忠正益主の家臣なり、かつて撃剱を千葉周作に学び、江戸に教授し、門弟一千余人におよぶ、要蔵は厚実温厚の士にして能く人を容る、ゆえに人皆これを敬す、土佐藩士川久保皆南皚かつて江戸に在り、しばしば要蔵の道場に至りて撃剱を試む、戊辰の役起こるや南皚は東山道先鋒土佐藩齋武隊司令官となり、野奥の間に転陣す、七月朔日白河において会津の兵と戦いし際、土州藩八番隊において斬獲せし敵首級三あり、始め接戦の際その言語奥州人にあらずして江戸人のごとくなりしかば、参謀監察等南皚が久しく江戸にありて各藩士と交れるをもって、南皚をしてこれを見せしめたるに、森要蔵、その次子虎尾および門弟花澤金八樓
郎なり、監察当時の戦況を述べていわく、この老人は日の丸の軍扇を開きて兵を指揮し隊兵十余人と共に山間に集合す、我が八番隊これと戦いしに、彼ら衆寡敵せず多く斃る、中に一少年あり、老人に言いていわく、阿爺突撃せんと、小刀を揮って奮闘し、ついに我が八番隊に狙撃せられて地に斃る、老人もまた一壮士と共に勇戦して斃る、余その少年の勇壮を愛惜し、令してこれを助けしめんとしたるも傷重くしてついに死せりと、南皚これを聞きていわく、思うに保科侯と会津侯とは同系の家なるをもって、要蔵はその情誼を思い、同志を率いて亡命し、宗家の危急を援けてこれに至れるならん、武士の殉義誠に哀しむべきなりと、これにおいてその隊中に在りし要蔵の門弟に今日の顛末を告げ、厚く三士の首級を白河寺町の某寺に埋葬せしめたりと云う〔雑誌旧幕府〕。}


{飯野藩士の我が軍に来援したる者は、森要蔵以下二十八人なりしが、戦死および傷病死の為に二十二人を失い、戦後猪苗代に幽囚せられし者左の六人に過ぎざりき〔猪苗代人数取調帳〕。
大山銀之助
西 覚之助
勝保乙吉郎
小野健次郎
小野悦之助
佐々木 昇}


 この日南摩綱紀は板倉勝静朝臣、小笠原長行朝臣に従い白石城に至る、これより先、同盟列藩議決して、仙台の横田官平、米沢の片山仁一郎を会津に遣わし、板倉、小笠原両侯に謁し、白石城に至り列藩の会議を聴き裁断せられんことを請う、両侯容易に諾せず、横田、片山および我が藩の諏訪常吉等反覆懇請するにおよび、両侯ついに諾して白石城に至る、しかれども仙台藩および列藩の士未だ一人も会する者あらず、両侯大に失望す、横田、片山等馳せて仙台に至りこれを議す、両侯福島に至りて阿部葆真主(正耆朝廷退隠後の称)に会す、この時棚倉城陥り主従共に封地飯坂(岩代国信夫郡)に移る、綱紀は勝静朝臣の命により飯坂に至り、葆真侯に謁し福島に会することを謀る、ゆえに来り会す、会々竹中春山および友成郷右衛門(徳川氏の士)もまた来り会し、法親王の親兵を組織するの議あり、わが藩相西郷頼母もまた来り会す、けだし棚倉の兵を先鋒とし棚倉城を回復し白河城の西軍を攻撃せんとするにあり〔南摩綱記筆記〕。






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湯長谷陥る

湯長谷陥る

 六月二十九日西軍湯長谷に迫る、東軍矢板坂の嶮に據る、西兵間道より回りて背後を衝く、東兵支ふること能はず退いて湯長谷に入る、城主内藤長壽丸家臣を率いてこれを守る、守山兵、棚倉兵、純義隊、彰義隊(この方面に彰義隊の居りしは訝しい、今原文のままに記載す)赴き援ふ、西軍備前、佐土原、柳川の兵仁井田より植田を過ぎ来りて湯長谷に迫る、湯長谷壘壁に據り寡兵をもって大敵に当る、この時海岸もまた砲声しきりに起こり、西兵舟尾、野田(共に湯長谷の東に在る部落なり)の方面より来る、平、守山、棚倉の兵、彰義隊等これを防ぐ、西兵その一小藩なるを侮り、一挙これを抜かんと欲し、勢甚だ鋭し、東軍能く戦い数時間に渉るも勝敗未だ決せず、しかれども湯長谷は要害の地にあらざれば長く大軍を支ふるを得ず、ついに西兵の怠憊に乗じ兵を挙げて平城に退く(東記、七年史)。





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泉城陥る

泉城陥る

 六月二十八日西軍泉城を襲わんとして兵を二分し、一隊は植田より海岸を経て小浜(石城郡鮫川村大字)に迂回して泉に向い、一隊は平本道より進む、これにおいて平兵、仙台兵、林兵と共に仁井田峠を守る、これより先泉城主本多能登守は、西軍平潟に上陸し関田に進むと聞き、仙台に走り唯一小隊の兵を止むるのみなりしかば城ついに堕ちる、西軍勝ちに乗じて仁井田峠に襲来す、仙台、平、相馬等の兵山上を守る、しかるに諸隊守を棄てゝ遁れ、林兵独り固守す、西兵進みて丘上に出没し、連りに射撃し、隊士大野禧十郎これに死す、全軍仁井田峠の西方に下る頃西兵すでに仁井田に入り、しきりに銃を発す、前軍潰崩して再び峠上に登り来る、澤録三郎大声激励していわく、何ぞ怯儒かくのごとくなる、敵兵仁井田を占拠せば撃破して過ぐべし、しからずんば再び活路を得べからずと、しきりに激戦せしめんとすれども能はず、いよいよ潰乱して路傍の草中に潜匿す、会々林隊士小幡直次郎負傷す、全隊日没を待ち平城に帰らんとすれども、本道はことごとく西兵の占領する所となる、故にわずかに山巓を攀ぢ、あるいは渓間に下り、辛うじて平城に達するを得たり。





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棚倉の陥落

棚倉の陥落

 六月二十四日暁天西軍七百人白河城を発しまさに棚倉城を襲わんとし、兵を分ちて二となし、一は関山(西白河郡金山村の大字、我が左翼なり)より進み、一郷戸村(西白河郡金山村棚倉街道に在り、我が右翼)へ向い、進みて東軍の壘壁を襲う、棚倉口の我が将小森一貫齋、木村兵庫、土屋鐡之助、仙台の将佐藤宮内、棚倉兵、相馬兵等予め郷戸村の切通に胸壁を築きてこれに據り、木村の一小隊をして外壘にこれを看守せしむ、卯の上刻西兵三面よりこれを攻むるや、木村の隊兵防戦頗る努む、土屋鐡之助隊は棚倉の兵と共にこれを援け、戦い利あらずして番駅に退く、独り木村の兵返戦し小山田大学これに死す、尋いで小森の兵仙台、棚倉、相馬の兵と来り共に邀へ闘うといえども、西軍新たに兵を更ふることは数次、我が兵支えず退いて金山の壘壁に據る、すでにして西兵森林の経路を廻りて金山の背を衝き、我が兵守る能はずして棚倉に退く、木村の兵、棚倉、相馬の兵多く死傷せり、西兵郷戸、金山を破りて追撃棚倉城に迫る、城中兵士多くは出て戦い留まる者わずかに三十余人と老女婦女とあるのみ、これにおいて有志の士逆川(東白河郡社川村の大字)に進み出て長州、土州、忍の兵と戦うの際、薩州、大垣、黒羽等の兵横に襲い来りたれば、河岸の壘壁に據り暫く奮闘す、西軍突撃する者潮のごとく、東軍衆寡敵せざるを知り火を城に放ちて釜子(西白河郡釜子村)に奔る、木村、小森の兵は須賀川に退き、仙台、相馬の兵は共に笹川(安積郡水盛村の大字)に退き相馬兵はついに中村(相馬郡中村町)に帰る。
 この日仙台の将伊達将監手兵を率いてその釆邑水澤(岩手県膽澤軍水澤町)に帰る、けだし九条総督転陣の後盛岡藩反盟の風説あり、その釆邑境を盛岡に接するを以てなり。
 六月二十五日大谷地より白河城を攻撃せんとし、昧爽坂平三郎、木本内蔵之丞、軍事方および小原宇右衛門を本営に会し部署を定む、卯の刻頃大谷地に至り兵を分ち両道より進撃す、一番砲兵隊三番格は六反山の敵に向い、二番格一番格木本隊は金勝寺山の敵に当る、坂隊、並軍事付属兵は大谷地を守り西兵とわずかに谿間を隔てゝ戦う、西兵すこぶる要地に據り砲弾を乱射す、我が兵地の利を得ず対抗する能はず、ついに退きて兵を大谷地に収む、会々野田進隊兵を率いて来り援くるも後れて及ばず、共に兵を班へして刎石を戍る、この日総督西郷頼母刎石に来る、一番砲兵隊小隊頭遠山寅次郎重傷を負い尋いで歿す。

 




卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/02/05(火) 11:02:49|
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西軍植田に至る

西軍植田に至る

 六月十八日仙台兵一小隊、平兵一小隊、林兵二十余人を合し仁井田に至り、山に據り胸壁を設けて防備をなすや、西兵鮫川(植田町と錦村との間を流る)を渡りて植田に来り、銃を発して戦を挑む、東軍これに応戦したるが、しばらくして西軍兵を収む、越えて二十三日に至り仙台の中島十郎の手兵一小隊、純義隊々長小池周吾、隊兵四小隊を率い棚倉より属す、この夜大風雨なりければ植田の西軍戦備を怠るの報あり、これにおいて翌日拂暁兵を二分し林兵、遊撃隊、平兵と一隊をなし、純義隊、遊撃隊の一隊と共にこれを攻撃せんとす、また西兵を八幡山に誘わんとして純義隊半小隊をしてこれを守らしめ植田に入る、しかるに西兵已に退き隻影を見ず、時に駅中に欵を西兵に通ずる者ありとて純義隊の兵士火を民家に縦ち、駅中に延焼す、時に西軍すでに八幡山を砲撃しければ、林隊伊能矢柄、澤録三郎(澤は何人なるを詳にせず)に言いていわく、西兵すでに八幡山に向う、早くこれを援けざるべからずと、録三郎聴かず、矢柄その能く成すなきを見、ことごとく林兵を率いて退却す、録三郎馳せてこれを止め、頻りに八幡山を援けんことを請う、これにおいて林兵、遊撃隊と共に八幡山に向う、行くこと僅かに四五丁にして弾丸飛び来り、東軍大に乱れ幾ばくもなくして敗兵ことごとく集まる、林兵いまだ戦はざるに早くも全軍の潰崩に逢へるを憤り、丘上に登り敵の至るを待って戦わんとす、録三郎いわく、地の利を得ずいわんや寡兵をや、退却するの勝れるにしかずと、説くこと再三、すなわち仁井田峠下に退く、この時純義隊の敗兵八幡山より退却し来るに逢う、皆いわく、弾丸尽き、加ふるに援なく、ついに敗走せりと、これにおいて林兵もまた仁井田に退き、尋いで全軍を平城に収む。





卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/02/04(月) 15:35:09|
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奥羽越公議府の設置

奥羽越公議府の設置

 奥羽列藩同盟成り、太政官建白書は仙台藩坂英力、米沢藩宮島誠一郎等これを携帯して上京することに決したるが、この同盟の結果として奥羽公議所を白石に設くることゝなり、尋いで越後各藩加盟するにおよびこれを奥羽越公議府と称す。
 五月八日仙台藩主は藩内に左の親書を発して公議府設置の意を明かにせり。

会津追討之勅を奉じ候処容保降伏謝罪之廉相立ち諸藩一同歎願に及び候得共御許容無之次に荘内藩無名之追討を加へられ候始末九条殿下之思召には無之候得者叡慮には尚更無之姦徒朝廷を欺罔し政権を盗み詐謀と残忍とを以て私を成し候に無疑候依て列藩と盟約し太義を伸べ禍乱を除き皇国を維持し奉る事予が志に候大小諸臣は申に不及庶民に至る迄志を體し勉励し予を助け怠ること勿れ委曲は奉行共可申也

 五月二十一日西軍須賀川に迫らんとす、仙台衝撃隊長細谷十太夫小田川に進む、西兵すでに七曲の山上に在り、十太夫部下六十七名に命じ盡く刀を抜きいっせいに突進して西兵を衝かしむ、西兵辟易して退く、十太夫追撃せんと欲するもすでに日没に近く、且つ援軍なきをもって兵を収めて太田川(西白河郡川崎村の字なり)に至れば西兵前方の山上に在り銃を発して戦を挑む、会々片倉小十郎の兵一小隊来り援く、すなわち応戦し暫くして止む、これより先十太夫は五月一日の敗報を聞き憤慨に堪えず、信夫、伊達二郡および近傍の壮丁を募り、名づけて衝撃隊と云う、兵皆銃を執らず、一刀を佩び皆黒装なり、十太夫常に部下に言っていわく、敵は銃隊なれば遠きに利あり、我が隊はこれに反して近きに利あり、故に一二人斃るゝ者ありとも顧ることなく進んで敵を衝けと、毎戦このごとくなれば、銃丸多くは空しく頭上を過ぎ命中すること少なく、向うところ前なく、人その勇武を称して烏組と云う。
 この日仙台藩大松澤帰部之輔兵を率いて須賀川に至る

 五月二十五日列藩諸将議して白河城の回復を謀り、全軍須賀川を発して矢吹に進み、翌二十六日約により列藩の兵各その壘壁に據りて砲戦す、会津口飯土用(西白河郡信夫村の大字なり)に陣したる我が砲兵二番隊頭高橋権太輔、朱雀四番寄合隊中隊頭木本内蔵之丞、誠志隊頭坂平三郎、義集大隊望月新平、同国府辰次郎等仙台藩の各隊と共に進んで潜かに刎石より経路を過ぎ白河城の近傍金勝寺山(白河城の西北約千メートルの所に在り)に登り城中を砲撃す、西軍大垣兵城に據りて応戦す、薩州の六番隊更に突出して金勝寺山の麓に迫りて接戦せんとす、木本隊の小隊頭吉田誠一郎、同半隊頭諏訪数馬一小隊を率いて紆回して西軍を横撃す、西軍固守して東軍ほとんど敗れんとす、吉田、諏訪等奮激衆を励まして返戦す、この時観音山の方面より木本隊小隊頭一柳盛之允、同半隊頭一柳伊右衛門、兵を率い来りて金勝寺山の我が兵利あらずして退く、柏野村(西白河郡西郷村の字なり)より我が青龍三番足軽隊中隊頭蜷川友次郎、土工兵頭小池帯刀兵を率い、赤植平八は力士隊を率い、雷神山の西兵を攻む、戦酣にして蜷川隊半隊頭小澤八弥戦没す、折口(西白河郡西郷村の字なり)よりは我が朱雀三番士中隊中隊頭上田八郎右衛門、正奇隊頭相馬直登、新練隊頭土屋鐡之助、朱雀三番足軽隊中隊頭原田主馬各兵を率いて進み、忽にして上田、土屋、赤植の兵は原方口の西軍大垣、薩州の兵と戦う、折口の正面には蜷川隊、二本松兵ありて共に戦う、米村口、雷神山、長坂(西白河郡西郷村の字なり)、金勝寺山等の砲戦山上山下いっせいに起りて砲煙山谷を覆う、砲声天地を震撼せり、仙台の将中島兵衛之助の兵を愛宕山方面より山を越えて戦を挑み、二本松の大谷鳴海我が藩辰野源左衛門は根田和田山(あるいは渡る山)より、我が義集隊の諏訪豊四郎、諏訪左内、仙台の細谷十太夫、大立目武蔵は泉田より、各兵を督して砲撃し、小森一貫齋、木村兵庫、棚倉の兵および純義隊宮川六蔵等は棚倉街道より吶喊して進み、山谷森林に據りて砲銃を連射す、西軍忍藩深田甚吾左衛門、長藩楢崎頼三、薩の二番隊および長の二番隊は棚倉口突出して戦う、我が兵廻りて綱基山、大沼(西白河郡大沼村の大字より)に出づ、忍、薩の二藩兵を合わせて進み烈しく横撃す、東軍少しく退く、薩の五番隊、二番隊は根田、和田山に向って砲撃し、勝敗未だ決せざるに、大垣兵一小隊左方の森林を潜行し来りて横撃す、仙台の細谷、大立目および二本松の大谷が半隊、我が辰野、諏訪、望月、黒皮内、国府、小櫃が兵また退く、終に志を得ること能はず両軍交々退く。
 五月二十七日東軍更に勇を鼓し、一挙白河城を援かんとし、会津口大谷地方面より会義隊頭野田進、新撰組頭山口次郎、砲兵二番隊頭高橋権太輔、および遊撃隊頭遠山伊右衛門各兵を率い進んで六反山(金勝寺連山の一なるべし、我が兵は大谷地より里道により飯澤部落を経て金勝寺山なる敵の背後に出でしなるべし、反一に壇に作る)を砲撃す、西軍薩州、大垣、土州、忍の兵沈黙して応ぜず、我が兵ますます進んで砲撃したるに、敵もまた応戦す、しばらくして西兵大谷地の渓谷を経て我が兵の背後を衝く、我が兵腹背敵を受けほとんど死地に陥る、一柳盛之允が隊兵朱雀四番寄合隊二番小隊来り援け背後の西兵を却く、我が諸隊退いて刎石の壘に入る事を得たり、我が部将木本内蔵之丞、坂平三郎、酒井伝治、安藤新蔵等各兵を率いて金勝寺山の西兵を撃たんとし、山嶺を越えて長坂の背山に據り砲撃す、大垣、忍の兵この地を守る、薩兵長坂の背後八幡平より襲撃す、故に背山に止まる能はずして後方の山頂に登る、遠山伊右衛門半小隊を以て脇山より砲撃してこれを援く、西兵は八幡谷より進撃す、内蔵之丞すなわち兵を分ちて、八幡谷北方の山頂より進撃し来る西兵を砲撃す、平三郎、新蔵、伝治等もまた薩州、忍の兵と且つ戦い且つ退く、高橋権太輔、一柳盛之允大谷地より来るに会し、共に刎石の壘に退く、土州、忍の兵追跡し来り火を大谷地の空営に縦つ、棚倉口は仙台の増田歴治、大立目武蔵、二本松の大谷鳴海各中隊を率いて金山(西白河郡金山村の大字なり)の方面より進み、我が辰野源左衛門、諏訪豊四郎、諏訪左内、望月新平、黒河内友次郎、小櫃弥市等各隊兵を率い、山に登り谷に沿うて進み、東軍更に兵を三分し、辰野、諏訪、望月、大谷は天の森、赤羽の方面に向い長州二番隊三番隊と戦い、増田、大立目、諏訪、小櫃等は棚倉街道の右より進み、兵を撤布して西兵を横撃せんとす、土州兵一小隊これに応戦せしが忽ち色動く、木村兵庫、小森一貫齋、宮川六郎等の兵と相馬、棚倉の兵と合わせて二大隊は鹿島(大沼村に在り、白河の正東にてその東口に至って近し)口より進みて砲銃を発射す、忍、長州の兵各二小隊これに応じて戦う、時に棚倉街道の右手より進みたる増田、大立目、諏訪、小櫃等の兵は土州兵の返撃する所となりて退く、ゆえに鹿島口もまた止まること能はずして少しく退く、西軍は火を郷戸村(西白河郡小関村の字)に放ちて去る、諏訪、小櫃の兵仙台、二本松の兵和田山方面より返戦して根田の西軍を撃つ、鹿島口よりは棚倉、相馬の兵返戦して西軍を撃ち、互いに追躡し砲戦すること三たび、日暮に至りて彼らの砲声ようやく止む。

{二十七日戦争の記事解すべからず、七年史の記事は大隊本分に同じ仙台戊辰史は大立目、大谷の棚倉街道より進みたる記事あれども増田のこと記載なし、増田等が『棚倉街道の右手より進みたる』とあるも如何ほど右手なりしか分明ならず、増田等始めは金山に至り街道の右手より進み敗軍し後返戦して仙台街道の根田の西軍を撃つとは考えられず、思うに増田、大立目、諏訪(両人あり何れか詳ならず)小櫃等は金山に集合せず仙台街道に在りしにあらざるか。補修者}

 この日若松城においては喜徳公出でゝ三軍の士気を鼓舞せんと欲す、藩相内藤介右衛門および南方より帰休せる一番砲兵隊頭小原右衛門隊兵を率いて従う、午後喜徳公はフランス人エドワルドスネル献ずる所の戎衣を着け馬に騎り、金釆配を執り、鶴城を出て、酉の刻原駅(北会津軍湊村の字なり若松より東南二里半、白河街道に在り)に宿陣、二十八日砲兵隊の撒兵演習を観る、二十九日原駅を発し福原(原の東南二里に在り、白河街道の一駅なり)に次す、六月五日隊士の撒兵演習を観る、七日隊士猪狩恒五郎、渡部直治、小林繁之助を棚倉方面に、中村鎮之助、石山綱衛を大平方面に、奥田鉱太郎、手代木清吾を上小屋方面に派遣して戦況を視察せしむ、十日副良駅を発し三代駅に次し、十二日国境勢至堂峠の胸壁および渓流を湛ふべき堤防等を巡視し三代駅に帰陣す、猪狩恒五郎等前後皆帰り公に謁して戦況を開陳す。

 六月朔日西軍二百人許泉田に来らんとす、我が兵仙台藩の兵と合し七曲坂に邀撃す、西軍敗れて根田に退き、東軍これに乗じて追撃す、西軍退却に当り火を根田に放たんとす、東軍これを見ていっせい射撃してこれを防ぐ、西軍狼狽し死屍を棄てゝ白河に走る、東軍傷く者わずかに二人のみ。
 同八日仙台細谷十太夫和田山に陣す、西軍砲を富士見山に装置して東軍を撃つ、十太夫これに応戦す、西兵数十人山を下りて根田に進む、東軍七曲坂に在る者細谷隊を援けいっせいに射撃す、西兵支えず東軍兵を収む、九日未の下刻西兵数十人銃を発し富士見山より進撃す、細谷の兵これに応戦す、時に仙台大松澤帰部之助小田川に在り、銃声を聞きて来り援け黄昏互いに兵を収む。
 同十二日東軍大挙して白河城を攻む、棚倉口番澤(西白河郡古関村の大字にて白河街道に在り)より純義隊頭小池周吾、朱雀一番士中隊中隊頭小森一貫齋、青龍一番寄合組中隊頭木村兵庫等先鋒となりて棚倉兵、相馬兵と並び進んでこれを撃つ、西軍忍の兵山谷を跋渉してこれに応ず、すでにして忍の兵敗走す、東軍追撃して白河城下に迫らんとす、薩兵東軍を横撃してこれを援く、棚倉、相馬の兵利あらず、木村、小池の兵もまた止まり戦うこと能はず共に番澤に退く、根田、和田山よりは仙台の武将細谷十太夫、大松澤帰部之助、白河口なる愛宕山に上り、愛宕山方面よりは遊撃隊頭遠山伊右衛門、同小隊頭野村左馬之丞、朱雀一番寄合組隊中隊頭井深守之進(一柳四郎左衛門の後任者)義集大隊八番小隊頭井口源吾、大谷地口刎石よりは仙台の将中島兵衛之助、我が砲兵二番隊頭高橋権太輔、福島の兵等進撃す、大垣、薩、土、忍の兵来り彼ら砲戦中薩、土の兵迂回して大谷地左側の渓谷より突撃したれば我が兵支えずして退却し、返戦せんとせしも根田口の東軍大に敗れ遠山伊右衛門、野村左馬之丞、井口源吾戦死し、隊兵もまた多く死傷しついに果たす能はず、伊右衛門の敵丸に斃るゝや、その子主殿父の屍を負いて退きまた飛丸の為に斃れる、ついで朱雀一番寄合隊半隊頭志賀英馬(宝蔵院流槍術にて海内無双と称せられし志賀小太郎の嫡男なり行年二十三、その弟の勇馬もまた本年正月淀にて戦死す行年二十一)も同所に戦死す、また一方においては米村口長坂より朱雀三番士中隊中隊頭上田八郎右衛門、正奇隊頭相馬直登、新練隊頭土屋鐡之助、砲兵一門司令官中根監物等折口より青龍三番足軽隊中隊頭蜷川友次郎、二本松兵等並進して土州兵と戦う、上田隊二番小隊は長坂山に伏し、土州兵の過るを要撃し勝に乗じて追撃す、敵将に崩れんとす、たまたま薩兵来り援けたるを以て我が兵敵を三面に受くるに至り、急に退きて逢隈川の壘壁に據る、この戦多く西兵を斃すといえども、小松族、鯨岡主水、永井伝吾等戦死し、木村常盤、青木左取、鈴木四郎等重傷を負う、西兵火を長坂村に放ちて退く、刎石より木本内蔵之丞、坂平三郎、一柳盛之允、一柳伊右衛門、神田兵庫および福島の諸隊長、金勝寺山の方面に兵を進めたるも時遅く戦わずして還る。 
 これより先我が大平口の総督原田対馬、力士隊赤植兵八、仙台の将大立目武蔵および飯野藩士三十六人農兵一小隊、横山主税家臣一小隊、横山主税家臣一小隊、合せて一中隊、六月十一日夜半羽太村(西白河郡西郷村大字羽太)を発し白坂に迫る、十二日急に進みて西軍黒羽藩の兵を撃つ、敵退きて壘壁に據るもなお支ふる能はず、会々大垣の兵新たに代わりて攻撃す、我が軍支えず急に兵を収めて関屋村(西郷村大字羽太字関屋)に退く。
 六月十五日泉(石城郡に在り)藩主本多能登守使節半谷仭之丞を矢吹の仙台陣営に遣わし、云はしめていわく、正親町中将まさに奥羽追討として軍艦七隻を率いて東下せんとす、よって幣藩江戸在邸の家臣に教導を命ぜらる、願くば兵を派して幣藩の海岸を防御せんことをと、諸将議して相馬以南の諸藩これが防禦に当るべきことを約す。 六月十七日喜徳公に従ひて三代駅に滞陣したる一番砲兵隊士の京師以来の功労を賞し、抜擢して甲士は十石三人扶持、甲士加(始めは甲士加なし後に出来たるものならん、詳ならず準と云う位の意味か)は七石二人扶持、寄合組は三人扶持を賜はり、衆皆踴踊す、同十八日一番砲兵隊二番格三番格、白河方面に陣したる二番砲兵隊と交替すべきの命あり、喜徳公召し見て酒殽を賜ふ、同十九日一番砲兵二番格(格とは小隊と云うがごとし、小隊頭を指図役とも云う、各中隊に三名ありて各一格率ゆ)三番格、三代駅を発し白河方面滑川に陣し刎石に戍す、二十日公三代駅において一番砲兵隊一番格並銃手を召し見て酒殽を賜い、自ら杯を隊頭小原宇右衛門(日向内記の後任者なり)に賜いていわく、汝ら将士の勇武に依頼すと、将士感泣して戎衣の袖を濕さざるはなし、同二十一日砲兵隊一番格並銃手も三代駅を発して白河方面に進行するに当り、公はその将士を送別す。
 これよりさき西軍の平潟に上陸せんとするの報あるや、東軍仙台兵一千余人、米沢兵三中隊および順義隊、相馬兵、棚倉兵二千余人、泉、湯長谷、平等の兵これを援け兵を海岸に配す、茲にまた徳川氏の遊撃隊長伊庭八郎、人見勝太郎、上総請西藩主林昌之助等、徳川慶喜公の冤枉を慨き、共に東海道を進みて京師に入り、以て哀訴せんことを期し、函根において西軍に遭い戦いて利あらず、ついに榎本武揚に依り、六月朔日全隊百十六人館山港より長崎丸に搭じ、翌日小名浜に上陸するや、仙台藩隊長山本丹後来り迎えて来意を問いたるに一行いわく、海上貴藩の大江艦に邂逅せしとき坂英力氏に面し奥羽同盟の義挙を聞きて来り投ずるなりと、すなわちこれを福島の軍事局に報告し、その兵を合わせて棚倉方面の軍を援けんことを請いたるが、十六日西軍薩州兵十二小隊、佐土原兵一小隊、岡山兵二小隊、柳川兵二小隊、大村兵若干、熊本兵一小隊は汽船三隻に分乗していよいよ平潟に着す、仙台兵、平兵戦わずして走る、遊撃隊、林兵これを聞き、全軍亥の刻仁井田(石城郡錦村に在り、平潟より平に至る国道より半里許西に寄るも古はこの街道が仁井田を過ぎしならんか、仁井田峠は平町を距ること四里余、本街道第一の要衝なり)峠に至り、仙台兵、平兵の退却し来るに逢う、これにおいて全軍を仁井田に集め相議して明朝平潟進撃の策を決し、しばらく兵を休め十七日拂暁に至り仙台兵一小隊、泉兵小隊、遊撃隊人見の兵、林兵等を合し約のごとく関田(勿来の東に在り)に進み、西軍の勿来に在る者を撃つ、仙台兵振るわず、人見勝太郎号令して疾駆して進撃せしむ、また別に遊撃隊の一隊仙台兵を率いて平潟の後山に進む、西軍すでに兵を配置して我を待ち互いに銃戦す、西軍海上の軍艦より発砲して応援し、東軍大に苦しむ、仙台兵先づ敗走し、西軍進んで関田に至る、正午頃我が諸隊崩れんとし西兵追撃す、林兵関田の松原に散布す、仙台兵、平兵等の潰走せんとするや、遊撃隊士これを制止すれども聞かず、人見勝太郎大に憤り林隊に説いていわく、君等かくのごとき怯兵の為に力を尽くすといえども何の益あらん、しかず会津に至り共に力を合わせんにはと、ついに諸軍と共に兵を収む、西兵勝ちに乗じて進み来る、遊撃隊第三隊長和多田貢戦歿す、全軍夜半平城に退く、西軍久留米、松山の兵加わり勢ますます振るう、人見、林は会津に入らんとしたるに、平老侯安藤鶴翁、仙台の重臣古田山三郎しきりにこれを止む。
 この日棚倉藩の急使井口助次郎等矢吹に来り報じていわく、薩、長、大村の軍艦三隻常州平潟に来り、その兵八百余人上陸し、奥州関田に向って進行の報あり、棚倉危うし請う来り援けよと、これにおいて小森一貫齋、木村兵庫、土屋鐡之助、仙台の将佐藤宮内および相馬の兵赴き援け、以て白河口の進撃に備ふ、この時に当り西軍白河城に據り防戦すること十数日、進んで会津に向わんとするも兵寡くして能はず、今や西軍の軍艦平潟に来り兵士を上陸し湯長谷、泉、平を攻略せんとするを聞き、白河城の兵気大に振ひ、先づ興みし易き敵を敗り然る後大敵に当るべしと、すなわち棚倉城進撃の策を決せりと云う。






卷五 東方の戦下  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/02/02(土) 09:59:19|
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奥羽越の同盟

奥羽越の同盟

 五月三日先に会津の歎願及び奥羽列藩歎願の鎮撫総督より拒絶せらるゝや、仙台、米沢両藩これが首唱となり、閏四月二十三日列藩の重臣を白石に会合し、相議していわく、九条総督は会津の謝罪降伏を容れんとしたるに、参謀世良修蔵ら故なくこれを退け、会津侯をもって天地容れるべからずの罪人となす、これ名を王師に借りてその私曲を欲しいままにせんとするものなり、加ふるの荘内のごときは何ら罪状なきに兵を進めて襲撃するは、客年同藩が幕命を奉じて薩邸を討伐したるの怨を報ぜんとするなり、我が輩豈に手を空うして奸賊の残暴を坐視すべけんや、よろしく正義公動により君側を清掃し忠を皇室に尽さゞるべからずと、これにおいて仙台、米沢、盛岡、久保田、津軽、二本松、守山、新庄、八戸、棚倉、相馬、三春、山県、平、松前、福島、本荘、泉、亀田、湯長谷、下手渡、矢島、一ノ関、上ノ山、天童の奥羽二十五藩同盟し、仙台を推して盟主をなし、越えてこの日再び仙台に会合し、太政官へ建白書および盟約を議定調印せり。

 太政官へ建白書
方今王政復古更始一新之御盛業遠土僻郷の奥羽諸藩為臣子者は申上候に不及海隅山中の曖昧の賤民に至迄上下一同御布告之趣奉感服実に上古列聖之御聖徳にも被為踰海外万国と並峙対立之御大業も不日に御成就可被為在海内富卿強万民鼓腹之太平を奉謳歌御儀と遙に奉拝九重感泣仰望不仕者は無御座候尚又京師より鎮撫の皇使参謀等御東下之上は叡慮之御深意親く如奉接玉音真実可奉伺と奉歡欣喜望候処何ぞ図らん九条殿下等仙台御着陣之即日会津追討之先鋒厳急に被仰出御仁恤之御趣意聊も不奉伺列藩伝承愕然万民不知所措手足騒擾動乱可申上様も無御座候来り勅命至厳一刻も猶予可仕様無之仙台始応援之兵共陸続繰出大衆数万に及び既に先鋒は会津口にて及び接戦候処容保儀斯迄奉触天怒候段深く恐入侮悟降伏城外に謹慎罷在封土を被為削伏見誤事重臣之首級を差出候との三ヶ条を以て奉謝罪度旨仙台米沢之両藩へ申出候に付国情委細に探索糺問仕候処聊相違無御座候間歎願書受取両中将添紙を以九条殿下へ奉歎願奥羽列藩陪臣連名之歎願をも差出候処容保儀不可容天地罪人難被為及御沙汰早々討入可奏成功旨奉伺一同驚歎失望仕候先年長州暴臣於闕下発砲仕候一条実に不憚朝廷一時奉驚天聴候大罪速に朝敵之名を被相下幕府へ追討之命被仰出候処暴挙三臣之首級を差出及謝罪其後王政復古之聖運に遭遇仕俄に望外之寛典を奉蒙官位如故即時入京を被差許候次第も有之容保とても伏見之一挙軽率之至とは乍申敢て奉対闕<発砲仕儀にも無御座候長州之罪状と大小軽重如何可有之哉其段は臣子之所可議に無御座候得共右三ヶ条を以て奉謝罪儀強ち不当之妄願とも不奉存然る処尚又不可容天地罪人と御座候ては乍恐公平至当之罪名とも難奉伺奥羽列藩人心の向背如何可有之哉と窃に為朝廷奉痛惜其段九条殿下へ言上之上太政官へ奉伺候外之間敷と衆議一決し一先解兵仕候儀に御座候扨又荘内追討之命卒然と被仰出候は全く鎮撫総督之御真意にも無之参謀大山格之助世良修蔵等宿怨を快く仕度狂暴之之私意に出候歟と万人之所疑にて反覆思慮仕候ても朝敵之跡は聊も不相見追討之命は却て奉累聖徳候も奉恐入候間是又前同様評決之上解兵仕候抑王政復古更始一新之折柄如此奉矯王命一己之私慾を恣に仕候者を其儘被指置掠財貧色残忍強暴無所不至万民塗炭之苦に陥り候ては鎮撫御三卿御仁恤之御誠意少も貫徹不仕実に王政復古大業之防害と相成候は目前に御座候得者被為於太政官候ては疾に右之事実を被為得候御儀と奉存候間天下億兆皆朝廷彼大山之深く被為悪候御処置を拝承仕胸中之疑惑氷解雲霧を開き天日を望候如く奉仰聖徳御親政に悦服仕候様更に一層之御盛挙被為在度奥羽諸藩一統之至願此事に御座候猶前文に奉申上候奥羽列藩早已に奉服王政上下挙て奉輔翼御盛挙之万一維持皇国被為於天朝永く東顧之御憂不被為在様仕度大義至忠天に誓て他念無御座候間会荘二藩寛典之御処置速に被仰出且鎮撫使御下向御仁恤之御盛意も水泡に不罷成候様御挽回専一之御儀と奉存候尚又陪臣僻陋之愚見を以て方今之御急務を奉擬議候は千万恐縮之至奉存候得共徳川氏家名被立下候御儀広大之御活眼被為開官位之高下封土之大小心に叶い無偏無頗旧幕臣等一同感服仕候正大之御処置被為在候はゞ随而奥羽諸藩も安堵如故不動十戈復古之御誠意は蝦夷唐太之辺迄も貫徹流通可仕候哉と奉存候陪臣等不堪感泣之至誠惶々々頓首百拝謹而奉言上候以上


 この建白書は仙台、米沢両藩の士これを携え上京して太政官に提出することに決せり、また同盟条約の本分は左のごとし。

 条約書
今度奥羽列藩会議於仙台、告鎮撫総督府、欲以修盟約、執公平正大之道、同心協力、上尊王室、下撫人民、維持皇国、而安宸襟、仍条例如左。

一 以伸大義于天下為目的、不可小節細行事。

一 如同舟渉海、可以信居、以義動事。

一 若有不慮危急之事、此隣各藩速援救、可報告総督府事。

一 勿負強凌弱、勿計私営利、勿漏泄機事、勿離間同盟。

一 築造城堡、運搬糧食、雖不得止、勿漫令百姓労役不勝愁苦。

一 大事件列藩集議、可帰公平之旨、細微則可随其宜事。

一 通諜他国、或出兵兵隣境、皆可報同盟事。

一 勿殺戮無辜、勿掠奪金穀、凢事渉不義者可加厳刑事。

右之条々於有違背者、則列藩集議、可加厳譴者成。
 慶応四年五月

伊達陸奥守 家来(仙台)但木土佐
上杉弾正大弼 家来(米沢)竹股美作
南部美濃守 家来(盛岡)野々村真澄
佐竹右京大夫 家来(秋田)戸村十太夫
津軽越中守 家来(弘前)山中兵部
丹羽左京大夫 家来(二本松)丹羽一学
松平大学頭 家来(守山)岡田彦左衛門
戸澤中務大夫 家来(新庄)舟生源右衛門
南部遠江守 家来(八戸)吉岡左膳
阿部美濃守 家来(棚倉)梅村角兵衛
相馬因幡守 家来(中村)相馬靱負
秋田万之助 家来(三春)秋田帯刀
水野真次郎 家来(山県)水野三郎右衛門
安藤理三郎 家来(平)三田八弥
松前志摩守 家来(松前)下国弾正
板倉甲斐守 家来(福島)池田権左衛門
六郷兵庫頭 家来(本庄)六郷大学
本多能登守 家来(泉)石井武右衛門
岩城左京大夫 家来(亀田)大平伊織
内藤長壽丸 家来(湯長谷)池田彦助
立花出雲守 家来(下手渡)屋山外記
生駒大内蔵 家来(八島)椎川嘉籐太
田村右京大夫 家来(一ノ関)佐藤長太夫
松平山城守 家来(上ノ山)渡部五郎左衛門
織田兵部大輔 家来(天童)長井広記
 右連名中上ノ山藩主を藤井とせるものあり、徳川一門の松平家の内には後大給、櫻井などの旧姓に復したるものあれど、この頃上ノ山松平が藤井と称せざるがごとし、また官も伊豆守とせるものあるも、伊豆守はその本家上田松平が任ぜらるゝ例なるにより、武鑑により改む。


 奥羽列藩同盟の成るや、米沢藩より更に越後諸藩に遊説通知したるに、新発田藩主溝口誠之進、村上藩主内藤紀伊守、村松藩主堀右京亮、三根山藩主牧野伊勢守、長岡藩主牧野備中守、黒川藩主柳澤伊勢守は大にその趣意を賛成して加盟したるを以て、奥羽同盟にその範囲を拡張して奥羽越の攻守同盟となりたり、これにおいて仙米両藩は我が藩に告げていわく、今回同盟の約を訂する所以は、列藩合従して義兵を挙げ、以て君側の奸を掃ひ海内の乱を鎮めんとするに在り、決して幕府を回復し貴藩を援助するがごとき私情に出づるにあらず、宜しくこの旨を領せらるべしと、梶原平馬これに答えていわく、老寡君夙に勤王の志厚く決して王師に坑するものにあらざるは固より言うを要せず、また少しも幕府を回復するの意なし、唯君側の姦を払わんことを欲し、不幸にして事ここに至れり、あえて貴藩を領すと。
 五月四日東軍更に戦略を議し、朱雀三番士中隊中隊頭上田八郎右衛門一中隊、小池帯刀土工兵百余人を率いて太平方面に陣し、総督西郷頼母は二番歩兵隊頭高橋権太輔、朱雀四番寄合組中隊頭木本内蔵之丞、会義隊頭野田進、青龍一番足軽隊中隊頭杉田兵庫、誠志隊頭坂平三郎等の兵を率いて上小屋(岩瀬郡大屋村の字なり)に陣し、大平口には羽太村(西白河郡西郷村の大字なり)を本営とし米村逢隈川に沿うて守備を厳にし、仙台方面には仙台藩増田歴治、二本松藩丹羽丹後、義集大隊頭辰野源左衛門、同隊一番小隊頭望月新平、二番小隊頭国府辰次郎、三番小隊頭諏訪豊四郎、四番小隊頭諏訪左内、五番小隊頭小櫃弥市、六番小隊頭黒河内友次郎、七番小隊頭今泉伝之助、八番小隊頭井口源吾等各兵を率いて矢吹に陣す、朱雀一番士中隊中隊頭小森一貫齋、青龍一番寄合隊中隊頭木村兵庫、純義隊宮川六郎、および相馬、棚倉の兵は金山(西白河郡金山村にて棚倉街道に在り)方面に陣して進撃の令下るを待つ、仙台街道には和田山泉田(泉田は小田川村の字なり)に壘柵を設け、仙台の将中島兵衛之助、上新城(西白河郡信夫村の大字なり)に本営を置き、愛宕山八幡台に守兵を出し、刎石、二枚橋(この二ヶ所は上小屋付近に在り)の要衝には上小屋の我が本営より衛兵二小隊を出して交代せしむ。
 五月五日仙台藩相坂英力は須賀川に来り令を諸隊に伝ふ。






卷五 東方の戦下  会津戊辰戦史1

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  1. 2013/02/01(金) 10:54:10|
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