いがぐり史料館

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熊倉の大捷(赤谷口の攻防)

熊倉の大捷(赤谷口の攻防)

 九月十一日、天明木曽方面の西軍は慶徳村(喜多方の西南半里強)より兵を分ちて小荒井に向い、中央および左翼の兵は合して小荒井より突撃し、一は鹽川の東軍を制し、一は熊倉を襲う、東軍銃を発せず静まりて戦機の熟するを待ちしが、頓がて町野主水は号令一下全体刀を揮って進み、柴太一郎、星恒之進もまた兵を率い刀を抜いて挺進す、恒之進西兵一人を斬り西兵辟易す、東軍勢に乗じ小田村街道、漆原街道、鹽川街道の三面より一斉に起こって合撃したれば西軍支えず大に敗れ、就中松代兵は多数の屍体兵器糧食をすてゝ走り、東軍は追撃して小田村に至る、日没するを以て軍を熊倉に収む。
 この役白虎一番寄合組隊もまた奮戦して功あり、また純義隊は敵軍熊倉に来襲の風聞に接して出兵したるが、敵兵忽然高柳(熊倉の南に在りて近し)に現れ熊倉の我が隊に向って発砲す、これにおいて我が兵大鹽川に沿い熊倉村北の墓地に撒兵して防戦す、すでにして我が諸隊進撃敵軍小田付に敗走するや、純義隊は追撃して小荒井に至り火を放ちて潜居せる越前兵四人を斬り、一人を擒にし日暮れ小沼村(熊倉の南に在りて近し)に退く〔西記、累及日録、星野胤国談、横山留総日記、戦死者名籍、安部井春蔭談、渋谷光信筆記〕。

同十二日東軍の諸隊を発し鹽川に至る。
同十四日諸隊夜半鹽川を発し若松城市の西方を廻り、十五日城南一堰村(若松の南一里弱)に至る。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/03/19(火) 16:53:54|
  2. 会津戊辰戦争史2
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西軍舟渡の背を衝く(赤谷口の攻防)

西軍舟渡の背を衝く(赤谷口の攻防)

 九月五日連日胸壁に據りて砲戦するのみにして戦勢発展せず、これにおいて軍事局は議を決し純義隊と山三郷方面に赴きたる諸軍と保成峠より退却せる大鳥圭介の兵とを以て進撃せしめんとし、樋口源介を館原の陣営(山三郷方面に赴きたる諸軍の陣営地にて日橋川と只見川と合流する所となり)に遣わし交渉して方略を定めしめたるが、樋口未だ帰らざるにたまたま西軍南より若松城下に入りし者兵を分つて坂下を略し進んで舟渡の背を衝く、諸隊、軍事局ことごとく出でゝしきりに発砲して防戦す、前岸の西兵は喊声を発し大砲を連発して来撃し勢甚だ猛烈なり、東軍支えず諸隊、軍事局と共に陣将上田学太輔に従い大原より山を越え宇内村(大原の東一里弱)に退く、片桐喜八は兵を督し止まりて防戦したるも、ついに衆寡敵せずして退く、上田陣将以下全軍山崎(宇内の東北半里)の渡頭を渡り戍の刻頃鹽川に退却し陣将萱野権兵衛の兵に合す〔続国史略後篇、望月辰太郎筆記〕。

 この日、白虎一番寄合組隊一小隊は窪村に在り、他の一小隊は舟渡の胸壁に在りしが、戦敗るゝに及び半隊頭佐藤清七郎隊士十四名を率いて勝方村(河沼郡若宮村の字にて坂下の西南一里に在り)を経て中田に至り、〔高木八郎談〕、遊撃隊組頭樋口仲三郎は柳津街道に退き、徹宵進軍して中田に至る〔遊撃隊日記、結草録〕。

 九月六日白虎一番寄合組隊一小隊、朱雀四番足軽隊、山崎を守る、時に古屋佐久衛門、大鳥圭介の兵は小荒井、小田付(この二村今合併して喜多方町と称す、田付川東を小田付とし西を小荒井とす)に在りたるが、脱走せんとして大に紛擾す〔望月辰太郎筆記〕。

 同十日陣将上田八郎右衛門、軍事奉行添役松澤水右衛門、幌役小池内蔵、簗瀬次郎等小荒井の本営に在り〔望月辰太郎〕。

 この日山崎陥り小荒井、鹽川(喜多方の東南一里半に在り)危急に迫る、上田陣将は小田付、小荒井に在る傷病兵を漆村、川前村(漆村は喜多方の東一里に在り、川前村は漆より大鹽川に沿うて一里許東北北に在り)に移しめ、また鹽川在陣の陣将と議し、我が兵を熊倉(喜多方の東南一里弱)に退かしめ、鹽川の兵と合して方略を定めんとし、急に弾薬糧食を熊倉に運搬せんとするも役夫を得ること能はず、その困難名状すべからず、衆皆力を尽くしてこれを助く〔望月辰太郎筆記〕。

 上田陣将は望月辰太郎に命じて山三郷に向いたる諸隊を熊倉に退却せしむ、望月直ちに馬に鞭つて西に向う、馳すること半里許にして朱雀四番士中隊中隊頭町野主水(佐川官兵衛若年寄に昇進し、町野その後任者たり)等退却し来るに逢うて令を伝ふ、西兵すなわち追撃す〔望月辰太郎〕。

 すでにして小荒井、鹽川の諸隊、山三郷方面より退却したる諸隊は皆熊倉に集合す、陣将萱野権兵衛、同上田学太輔、同一瀬要人、同上田八郎右衛門、軍事奉行頭取飯田兵左衛門、日向左傳、軍事奉行添役樋口源介、柴太一郎、一柳幾馬、田中八郎兵衛、柳田新助、香坂右内、松澤水右衛門、幌役一瀬賀壽馬、太田彦右衛門諸隊将校相議して兵を鹽川街道、小田付街道、漆村街道に部署し、夜に入り篝火を焚き防備を厳にす。
 この時に当り、先に欵を西軍に通じたる米澤藩は、我が藩と西軍と則の間に挟まり苦心言うべからざるものあり、西軍はしきりに迫りて我が藩を攻撃せしめんとするも、両藩の間には同盟の誼ありて戈を倒にして攻撃するに忍びざる事情あり、故にしばしば使節を遣わして降謝を勧む、この日我が軍の本営を熊倉に置くや米藩の使節来りいわく、官軍より攻撃を促すこと甚だ急なり、貴藩降謝の議決せずんば兵を進めて攻撃せざるべからずといえども実に忍びざるものあり、よって貴藩の重臣一人を幣藩に質と為し、これに口を籍りて攻撃を緩うするの外策の出づべきなしと、これにおいて陣将以下軍事方集りてこれを議したるが皆黙して言を発する者なし、独り陣将上田八郎右衛門奮っていわく、予徃かん徃いて攻撃を緩うすること得ば幸なり、もし降謝の議成らずんば彼らの予が頭を斬るに任せんのみと、軍事奉行添役一柳幾馬いわく、予もまた共に徃かんと、議ここに決し二人徃いて米澤藩に質たり、後降謝の議決し開城するに及びてすなわち帰る〔柴太一郎談〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/19(火) 11:43:55|
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東軍兵を班へして舟渡を扼す(赤谷口の攻防)

東軍兵を班へして舟渡を扼す(赤谷口の攻防)

 八月二十六日、津川より退却したるが我が軍は只見川を渡り舟渡を扼し、胸壁を築き船橋を扼し、胸壁を築き舟橋を切断し沿岸の舟筏を収む、遊撃隊、白虎一番寄合組隊は舟橋を守り、純義隊は東羽賀(舟渡の西北北半里強)を守る〔続国史略後篇、遊撃隊日記、白虎隊十高木八郎談〕。

 この時に当り、陣将上田学太輔は大原(舟渡の東北北半里許)の本営に在り、純義隊総督大竹主計、同隊長小池周吾は東羽賀に在り、軍事奉行飯田兵左衛門は窪村(舟渡の北にて近し)軍事局に在り、純義隊付属兼務望月辰太郎、白虎一番寄合組隊中隊頭原早太等窪村の胸壁を守る〔望月辰太郎筆記〕。

 八月二十八日、東西両軍川を隔てゝ相持す、東兵は大砲を装填し四もに撒兵してこれに備へ、西兵は前岸片門(舟渡の対岸に在り)の山上に大砲を袈置し舟渡を俯して連弾す、すなわち塞を海岸に連ね地を鑿ち穴居して弾を避く、舟渡は若松を距る五里にして砲声雷のごとく聞ゆ〔続国史略後篇、遊撃隊日記〕。

 朱雀四番士中隊、並付属隊、砲兵隊、結義隊は高久より軍を返し舟渡に来る、時に令ありて山三郷(南は日橋川、西は越後国東蒲原郡、北は羽前と岩代の界なる山脈、東は喜多方平野に限られたる山間の地域を俗に山山郷と称しき、この地域は藩政の比木曽、大谷、吉田の三組ありしを以て三郷と称せしなるべし)方面に赴く〔累及日録、横山留総日記〕。

同二十九日西兵早朝より砲銃を発して戦を挑む、東兵胸壁に據りて戦う、弾丸雨注す〔遊撃隊日録〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/18(月) 18:06:05|
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津川の戦(赤谷口の攻防)

津川の戦(赤谷口の攻防)

八月十六日早朝軍事局将校ことごとく出でゝ胸壁を嶮し諸隊の部署を定む、巳の刻頃諏訪峠に銃声を聞くもの三たびに及びたりしかば、兵を胸壁に出し砲を装填して厳に防備を修む、西兵数百人諏訪峠を下り津川の前岸柳新田(諏訪峠南半里)の辺りより角島村(柳新田の東南南半里)側面の渡頭に迫りたるも、東軍すでにことごとく舟筏を収めたれば西兵河(阿賀野川)を渡ること能はず、西兵館址一の胸壁の辺りに迫る、直ちに応戦し喊声を揚げて砲銃を連射し両軍の砲声雷のごとく西兵斃るゝ者多し、戦うこと二時間にして西軍ついに敗れ死傷を収めて柳新田の方面に走る、東軍これを観て喊声を揚げ全軍これに和し声天地に震ふ、この役東軍一人を失はず〔望月辰太郎筆記〕。

これより連日胸壁に守兵を置き守備を厳にす〔望月辰太郎筆記〕。


 八月十三日遊撃隊は鹿瀬村(津川の東半里)に陣し、片桐隊は向鹿瀬(鹿瀬の対岸に在り)の山上に陣す〔遊撃隊日記〕。

 この日陣将上田学太輔は将校を会し、勝軍山の敗報を告げ、且つ目下の方針を議す、諸将これを聞きて憂慮に堪えず、あるいはいわく、敵軍すでに城下に迫る、この地を守るも何の効あらん、全軍退きて城下の敵兵を撃攘するにしかずと、あるいはいわく、北越の西軍大挙追撃せば我が軍の窮迫計り難し、若松城は名城なり、縦令大敵迫るも、俄かに陥るがごときことあるべからず、よろしく兵をここに止めて追撃を防ぐべしと、あるいはいわく、今や事急なり両公の安否を詳にせず、昼夜程を兼て赴き若松の敵を撃攘せずんば臣子の大義に背かんと、衆議紛然として決せず、会々海道組(津川の東に在り東蒲原郡八ヶ村河沼郡二ヶ村を含む、行政区域なり)より報を伝えていわく、今日正午頃より若松の方位に当り雷雲の覆うがごときを見るは、すなわち敵兵城下に侵入し市衛兵火に罹りしならんと、これにおいて上田陣将は望月辰太郎、原嘉平治をして若松城に入り両公の安否を伺い、且つ命を受けしむ、二人即夜子の刻頃肩輿を飛ばして津川を発す〔望月辰太郎筆記〕。

 八月二十四日巳の刻頃望月は束松峠(河沼郡束村松越後街道に在り)に至り、若松城下を遠望すれば一抹の黒煙天に漲り砲声遠雷のごとし、二人ますます輿丁を励まし坂下(若松の西北二里強)に至り、陣将萱野権兵衛高久(坂下の東南一里強)に在りと聞き直ちに高久に至れば、萱野部下の軍隊および近村より集合せる農兵皆槍刀を提げ、まさに進撃せんとして勇気凛然たり、二人すなわち萱野陣将に面し、上田陣将の使令を伝ふ、萱野いわく、若松城は危急迫るがごとしといえども東方面の諸隊退きて漸次入城し防守成ると聞く、今日の急務は一方西方の敵を支えて、しかして一方城下の敵を掃攘するに在り、ゆえに津川の守りは決して徹すべからず、卿等急に津川に返り上田陣将にこの言を伝えよと、二人いわく、城中に入り両公に謁せずして帰るは上田陣将の命に背くなり、萱野いわく、目下城中に入ること難しと、二人止むことを得ず高久を発し、肩輿を飛ばし日暮坂下に至れば、我が兵ここを守り駅中皆火を焚き警備を厳にし人民皆負擔して遁る、子の刻頃舟渡(河沼郡高寺村の字にて越後街道なり、ここにて只見川を経過す)に至れば横山伝蔵朱雀四番足軽隊を率いてこの地を守る〔望月辰太郎筆記〕。

 同二十五日、原、望月は野澤(河沼郡にて越後街道の一駅なり)を経て八田村(鳥居峠の西麓に在り、この峠は東蒲原郡と河沼郡との界なり)に至り我が全軍津川を退却し来るに逢う、二人八木山村に至り上田陣将の来るに逢いて復命す、上田いわく、我が軍城下の敵進撃の議に決し退路に就きたりといえども、萱野陣将の言もまた理なきにあらず、よって只見川を挟みて防戦せんと、二人をして令を軍事局に伝えしむ、二人これを軍事奉行飯田兵左衛門に伝ふ〔望月辰太郎筆記〕。

 この日辰の刻、遊撃隊は鹿瀬村の守を徹して津川に退き若松に向わんとす、会々桑名の兵矢澤村(津川の西一里半)退き、西兵直ちに矢澤に迫らんとしたるを以て、遊撃隊をして矢澤峠(不明)を守らしむ、午の刻津川を発し西村(津川の西半里許)に至り、兵を分ち一は河岸を守り、一は山上に登らんとしたるに、却って山上より西兵の俯撃する所と為り苦戦支えず、退いて津川に至れば我が軍皆すでに津川を退却す、時に日暮れ同隊は津川を発して天満橋(東蒲原郡小川村の字)に至り、片桐の退くに逢い互いに後殿して車峠(野澤町の西北一里半弱)に至れば天ようやく明けんとす、進んで野尻(東峠の東に在りて近し)に至りしに純義隊その他の諸将ここに次せり、遊撃隊は野尻に陣す、純義隊止まりて車峠を守り野尻、野澤の村民を発して山上に胸壁を築かしめ、分隊を派遣して間道を守らしむ〔遊撃隊日記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/18(月) 12:24:08|
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新谷の戦(赤谷口の攻防)

新谷の戦(赤谷口の攻防)

 八月十五日早朝斥候西兵来り迫るを報ず、すなわち急に兵を進む、白虎一番寄合組隊中隊頭原早太、朱雀四番足軽隊中隊頭横山伝蔵兵を率いて本道より進み、一の胸壁の前山を奪わんとす、山澤の前方は力士隊、遊撃隊、地方兵、猟師兵を合わして本道より進む、西軍の銃弾雨下し一の胸壁に進むこと能はず、樋口仲三郎兵を督して戦う、望月辰太郎は原嘉平治と謀り、新谷村より砲を曳き来りて本道の西兵を攻撃せんとし装填半ばにして一の胸壁敗るを報ず、すなわち砲を新谷村に送還す、時に砲声盛んに起こる、西兵山澤前方の山頂に登り黒旗を振りて号を為せば銃撃最も烈しく起こり東軍支えずして退く、陣将上田学太輔一の胸壁近傍に於いて負傷す、上田陣将は全軍新谷川を渡りて前岸に防ぐべしと望月をして令を軍事局と諸将校とに伝えしむ、望月馬を馳せて河岸に至れば皆先を争うて退却し、あたかも大水の決するがごとし、望月切歯すれども如何ともするなし、馬を返して新谷村に至れば白虎一番寄合組隊独り胸壁を守りて砲戦方に酣なり、望月いわく、急にこれを援けずんば皆敵手に委せんと、原嘉平治馳せて全軍の退却を告げてこれを収め共に殿戦して退く、西兵砲銃を乱射して追撃す、我が軍は火を新谷村に放ち、兵を行地村に収む、時に日すでに暮れる〔望月辰太郎〕。

 東軍諏訪峠に至り防守を議したるに、山上は左右山々多くして防御に便ならずと為す者多し、よって軍事局諸将校をことごとく集めて議したるに議論紛然として決せず、あるいはここを墳墓と為し雌雄を決するにしかずと云う者あり議決せず、ついに全軍退却して亥の刻頃津川に至る〔望月辰太郎〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/18(月) 11:04:12|
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赤谷の激戦(赤谷口の攻防)

赤谷の激戦(赤谷口の攻防)

六月十二日新発田藩騒擾の報あり、上田伝次兵を率いて赤谷の関門に守る〔西記〕。

七月二十五日新発田藩西軍を導き直ちに赤谷に迫る〔西記〕。

 同二十八日頃遊撃隊頭三宅小左衛門、組頭樋口仲三郎、組頭兼力士隊赤植平八等兵を率いて赤谷を守るの命あり〔西記〕。

 監察太田彦右衛門、原嘉平治は赤谷を守り、鎮将隊砲兵甲士原栄二郎、鈴木粂三郎、吉田常三郎を指揮官と為し、地方士猟師六十人許を率い境川を夾み昼夜砲撃して防戦す、太田彦右衛門、原嘉平治は百般の事務を擔任して少しも違算なし、人皆これを称す〔望月辰太郎筆記〕。

八月朔日東軍火を新発田の領内中山村に放つ〔望月辰太郎筆記〕。

 八月二日遊撃隊頭三宅小左衛門はその隊を、白虎一番寄合組隊中隊頭原早太は一中隊を率いて赤谷に至る、東西両軍の砲声夜に及びて尚息まず、我が将士皆腕を扼して令の下るを待つ、就中樋口仲三郎は最も進撃を主張し、軍事奉行並一柳幾馬を促したるに幾馬いわく、進撃可なりといえども後継の兵なくして猪進し、もし敗を取らば余等職責を如何せん、余が発するに臨み君前に命を拝す、時に藩相より軽率に戦うことなかれ、一国の兵を以て天下の大兵に当らんとす、事重大なり熟慮して継行せよと懇諭せらる、君ら此の意を体し敵を軽んずるなかれと、条理分明なりといえども皆軍事局を以て因循して軍機を失うものと為し議論大に起こる、幾馬大にこれを憂う〔望月辰太郎筆記〕。

この夜子の刻頃兵を常盤新田(所在不明)に出す〔遊撃隊日記〕。

 この時に当り北越の我が軍皆敗れ、石間口、三月澤口、中ノ澤の間道皆切迫す、これにおいて我が軍思えらく一方の西軍を破らば自ら形勢を緩うせしむるを得んと、すなわち西兵を新発田に退け胸壁を大槻(大月か)辺りに築かんとす〔望月辰太郎筆記〕。

 同四日赤植平八に属する力士五十人をして常盤新田の山上に守せしむ、赤谷は山地多し、よって一番より十二番に至るまで日を隔てゝ赤谷を守る〔望月辰太郎筆記〕。

同五日乙山その他の高嶺に陣営を構えし西軍は赤谷の我が胸壁を砲撃す〔望月辰太郎筆記〕。
 
 同七日各隊の甲士議して山内(上赤谷より約一里、新発田街道に在り)より進撃せんことを請う、陣将上田八郎右衛門援軍至らざるを以てこれを止む〔遊撃隊日記〕。

 八月十三日望月辰太郎は津川軍事局に至り、日向左傳、清水作右衛門を見て具さに赤谷口の危急を報じ援軍を促したるに、清水は危急なるは独り赤谷口のみならず各方面とも兵寡しとの故を以て聴かず、望月はこれを陣将上田学太輔に具陳す、陣将これを容れ朱雀四番足軽隊をして徃きて援けしめ明日進軍の令を下す〔望月辰太郎筆記〕。

 同十四日丑の下刻頃本営に集合し、寅の刻頃遊撃隊を分ちて二と為し、中隊頭三宅小左衛門、組頭赤植平八力士隊これに属し全体二百人本道よりし、組頭樋口仲三郎は別に百五十人を率いて榎平(所在不明)に向う、暗号を定めて「味方か」と問へば「敵」と答えしむ、西兵胸壁に在り火を焚きて暖を取る、小左衛門令して一斉に銃撃せしめたれば西兵大に驚き守を棄てゝ遁る、我が兵銃を棄て刀を抜いて踊り入り多く西兵を斬りたるが両軍入り乱れて彼我を弁ぜず、すなわち「味方か」と問いて「味方」と答える者はことごとく之を斬る、時に三士刀を揮って来り迫るあり、酒井伝次これに向い「味方か」と問えば彼ら「味方」なりと答ふ、何番なるかと問へばその一人は「側戦隊」と答ふ、すなわち一人を斬る、他の一人刀を抜いて戦う、高倉虎之助等傍よりこれを斬る、東軍勇気百倍し斃るゝ者あるも屍を越えて進み、西兵胸壁を棄てゝ走る、東軍火を敵営に放って追撃したる折柄、西兵大挙して来り援け我が隊将に崩れんとす、赤植平八大に呼んで衆を鼓舞したれば力士隊縦横突撃す、西軍もまた、ますます大兵を駆り砲撃猛烈を極めたる為、我が兵多く死傷し兵勢ようやく振るわず、中隊頭小左衛門大声衆を励まし健闘し西兵数人を斃す、西兵畏れて走りしが反戦する者数人あり、小左衛門槍を揮って一人の胸を突く、彼その槍尖を握りて引けども放たず、小左衛門刀を抜いてその肩を斬る、たまたま西兵一人傍より小左衛門の腹を刺してこれを斃す、小左衛門時に年四十六、我が部将小池瀧江は小左衛門の危急を視てこれを助けんとしたるも及ばず、敵数人を斬り、ついに敵丸に当りて死す、平八なお奮闘せしが我が兵あるいは死し、あるいは傷き支ふべからず、すなわち背に白絹の幣帛を纏うて徽章と為し、敵軍に衝き入り自ら名乗りて縦横突進し、ついに乱丸の中に斃る年三十四、平八は朝来衆敵を斬りその刀刃欠けて鋸歯のごとしと云う〔遊撃隊日記、続国史略後篇〕。

 げんに又、樋口仲三郎はこの日寅の刻頃赤谷を発し榎平に向いたるが隊士能見武一郎、北原三郎等路を失うて見えず、榎平は本道を南に距ること半里にして本道の砲声雷のごとく聞えたり、仲三郎は西軍の胸壁を奪わんと欲し撒兵に展開してこれに迫り、処々の樹蔭より射撃し、西兵は胸壁に據りて応戦す、仲三郎大声号令すれば衆皆弾丸雨注の間を進む、西兵潰乱して走り、我が兵胸壁を奪い火を営所に放って追撃し、本道に向いし我が兵と合し榎平の方面に向う、時に敵の大軍追跡し、山上に登りて攻撃し我が兵支えず、兵の死傷過半なり、すなわち傷兵を助けて林間を潜行し、八方山に上りて戦う、西兵すなわち山下に迫る、山上の我が砲手わずかに二十人その守り難きを以てこれを棄て砲を曳いて赤谷に退く、白虎隊は初め胸壁を守りしといえども榎平の敗報を聞き退いて本道に出ずれば、西兵八方山の傍より銃撃す、しばらく止り戦うといえども、ついに支えず赤谷に退く、すでにして我が兵火を赤谷に放ち、綱木(赤谷の南一里、新発田街道に在り)に退き、ついで火を綱木に放ち新谷(綱木の南半里街道に在り)に退き、山上処々に守兵を置き胸壁を築いてこれを守る、時に秋雨粛々として冷気人を襲い、我が兵露営して終夜睫を交へず。
 この日、陣隊将上田学太輔、朱雀四番足軽隊中隊頭横山伝蔵は兵を率いて津川より来り赤谷の兵を援く〔望月辰太郎筆記、遊撃隊日記〕。

{戊辰の乱すでに平らぎ、秋月悌次郎は長州の奥平謙輔を越後の客次に訪ふ、謙輔いわく、赤谷の戦甚だ烈しかりき、初め新発田、芸州二藩を以て先鋒と為し我が藩これに次ぐ、まさに赤谷を襲わんとす、時に貴藩の先鋒すでに至る、二藩の兵あえて進まず、我が兵すなわち超進して貴藩と戦う、槍刀相接し銃臀相打ち殺傷相当るといえども終に利なし、兵を収めて新発田に帰ると、座に高須梅三郎と云う者あり、また長州の人なり、いわく貴藩善く槍隊を用ふ、先に我が藩兵若松城を攻むるや、槍手突出鋒鋭甚だしく我が兵逡巡す、余隊士を励ましていわく、安藤市蔵等の技倆は我能くこれを知れり、何ぞ畏るゝに足らんと、しかれども終にあえて進まざりきと〔韋軒遺稿〕}






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/17(日) 09:43:54|
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乙茂の役(海岸戦争)

乙茂の役(海岸戦争)

 同二十四日、朱雀二番寄合組隊、青龍二番足軽隊、二中隊、庄内兵、米澤兵、庄内の兵三小隊、結義隊一小隊は村田山に進み、新遊撃隊本体一小隊、庄内兵三小隊は久田に向い乙茂の西兵を攻撃す、西兵これに応じ東軍の背後を衝く、これにおいて議して村田山(久田の東北北半里に在り)、落水山より直ちに久田に進まんとす、辰の刻頃東軍の先鋒田中末次郎は庄内兵と共に落水山より進んで猛撃し、結義隊は村田山に登り急に攻撃して西軍の胸壁を奪い久田山の西軍と砲戦す、井上哲作は隊兵六十人を率い乙茂の胸壁に迫り、渡部英次郎は隊中決死の兵二十人を以て背後に廻り、皆銃を捨て刀を揮って侵入し縦横衝突す、渡部英次郎は西兵二人を斬り、今井三郎は一人を斬り刀と銃とを獲たり、渡部胸壁に登りて号旗を振れば、新遊撃隊、庄内兵は山田山、坂谷山より進撃し、別軍庄内兵、結義隊は久田山の西兵を猛撃す、西兵退路を失いて草間に潜匿す、結義隊高松直太郎、塚原昆五郎、板垣岩次郎、佐藤寅之助、菊池秀吉は敵各一人を斬り、西軍ほとんど支えず、東軍勢に乗じて猛撃す、西兵は出雲崎近傍の胸壁に退いて砲撃し、また海上より軍艦二隻を以て連なりに砲撃し、弾丸東軍の屯営に破裂す、東軍戦うこと三時間衆寡敵せず、ついに村田山に退き、兵を坂谷山に収む〔西記〕。

 朱雀二番寄合組隊は馬草山を奪い胸壁を築いて砲戦し、青龍二番足軽隊は兵を辺張村(久田の東半里強)に出す〔西記〕。

六月二十六日朱雀二番寄合組隊は青龍二番足軽隊と共に砲戦す〔西記〕。

 この夜朱雀二番寄合組隊士三原武次郎、山浦謙蔵、赤井新八、宮本五三郎、大橋恒之進は西兵の陣地に入り、火を営舎に放つ〔西記〕。

六月二十八日胸壁砲戦。

この夜朱雀二番寄合組隊士三原武次郎、木村左太郎、志田貞次郎、山浦謙蔵、猪狩久五郎、田崎繁三郎、君島精次郎、小出嘉蔵は敵地に入り、火を営舎に放つ〔西記〕。

 これより昼夜対壘砲戦して七月二十九日に至り退却の令下る〔西記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/16(土) 17:13:14|
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久田の後役(海岸戦争)

久田の後役(海岸戦争)

 同十九日辰の刻頃東軍久田の西兵を砲撃す、西兵砲二門を以て応戦す、会々西兵出雲崎の海上より軍艦に搭じて東軍の砲台を横撃し海陸並び進む、東軍砲手をして山上に登らしめ、大砲隊頭取原駒之進、伍長秋元幾弥我が砲手六人および村上の砲手五人を督して戦い、齋藤伊織、水戸の伊藤辰之助、寄合組野島鐡太郎奮闘よく防ぐ、未の下刻に至り砲弾すでに尽きたるを以て兵を山上に収む〔西記〕。

 同二十三日、新遊撃隊長佐藤織之進等庄内の将校と議し防備の部署を定む、寺泊は新遊撃隊付属隊松宮雄次郎の兵これを守り、大和田村(七石の東北北にて近し)は村松の砲手これを守り、四木、七ッ石の二村は三根山兵一小隊これを守り、坂谷村は結義隊、庄内兵三小隊これを守り、本営を志戸橋に置き、佐藤織之進は新遊撃隊、寄合組を率い、朱雀二番寄合組隊中隊頭西郷刑部(山田陽二郎辞して西郷これに代わりたるか)は一隊の兵を率い、庄内の総督石原多門、軍監石原友太夫、関茂太夫は三小隊を率いてこれを守る〔西記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/16(土) 13:50:50|
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久田の前役(海岸戦争)

久田の前役(海岸戦争)

 同十二日、子の刻頃新遊撃隊、庄内兵一小隊、結義隊一小隊進発し、夜間全軍を村田山に集合し天明を待って久田の西兵を砲撃したるに、西兵応戦数刻にして退く、佐藤織之進、渡部英次郎猛撃し、西兵は脇山より砲撃す、すでにして三根山の兵来り援け、西兵一たび退きしが、また返りて三根山の兵を砲撃し、三根山の兵すなわち敗走す、全軍なお進撃す、会々西兵出雲崎より来り援け勢に乗じて突撃す、これにおいて本道よりは寄合組野島鐡三郎、下山太郎、鈴木伊三郎、安味慎治郎、結義隊々長渡部英次郎、側面よりは田中末次郎、藤田豊記、新遊撃隊数人吶喊突進し、庄内兵は左右の澤間より、水戸の伊藤辰之助隊は海岸より西軍を攻撃す、西兵胸壁に退き砲戦の距離ようやく遠し、会々朱雀二番寄合組隊中隊頭山田陽二郎兵を率いて来り、直ちに進撃せんとしたるも弾薬すでに尽き勝算なきを以てこれを止め同隊後殿して退く、同隊の戦に会せざりしは地利を暗んぜず、山径に迷いしに由れり、全軍兵を寺泊に収む〔西記〕。

 同十三日、西兵ようやく来り迫るの報あり、すなわち井上、渡部、梅津平次郎を従え山田近傍を偵察して速に略取せざるべからざるを建議す、これにおいて佐藤織之進庄内の諸将と議を決し、山田駅、七ッ石、四木、坂谷、高月、高森(久田東北の諸部落にして久田に近し但し四木は不明)等に出師の部署を定む〔西記〕。

 六月十四日新遊撃隊、庄内兵一小隊、水戸の伊藤の兵は山田に、庄内兵三小隊、結義隊は落水山、坂谷山に、庄内兵三小隊は高月、高森に各兵を出し胸壁を五十余所に築き、対陣すること殆んど三十日昼夜砲戦す〔西記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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灰爪の役(海岸戦争)

灰爪の役(海岸戦争)

 閏四月二十八日、これより先、桑名の兵西軍と鉢崎、鯨波等の海岸に戦うこと数回、兵すこぶる振るう、東軍小千谷の戦に敗れ、柏崎は腹背敵を受けて保つこと能はず、よって宮川に退いて数日防戦したるが、宮川(柏崎の東北北二里余に在り)は地の利を得ざるを以て、この日軍事取締役添役佐藤織之進は桑名兵、衝鋒隊と共に妙法寺(宮川の東南一里強に在り)の要衝に據る〔西記〕。

 旧幕遊撃隊は小千谷の東軍を援けんとして酒屋を発したるが、東軍すでに退くを以て我が藩樋口源介等と共に妙法寺口赤田村(妙法寺の西南半里強)を守る、時に水戸の市川等の兵(全隊六百人)ニ百人佐渡に渡らんとして寺泊に在り、すなわちこの兵と共に石地(出雲崎の西南に在り)に戦うこと数日ついに利あらずして、ことごとく妙法寺口に退く〔西記〕。

五月五日東軍諸隊赤田村を発し、新遊撃隊後殿し三条に至る〔西記〕。

 これより先、五月三日片貝の戦後結偽義隊は脇の町に次し四日兵を長岡に出す、この夜田淵房之進、佐藤力之助、大庭源之助は出雲崎より来り援を長岡の我が本営に請ひたるも兵寡くして如何ともする能はず、これにおいて結義隊々長渡部英次郎、井上哲作を見て海岸方面の急を告げ、且つ水戸の兵のみを以て防戦することの難きを説き援を請うこと切なり、渡部等すなわち議を決し長尾熊太郎をして佐川官兵衛に見え事情を陳べて指揮を請はしめその許諾を得たり〔井上哲作戦争日記〕。

 同六日渡部、井上、まさに兵を出雲崎に出さんとしたるが、時に大雨信濃川暴漲して舟子否みたるも金を輿へ強いて舟を出さしめ、地蔵等を経て寺泊に至る、衝鋒隊の部長今井信郎ここに在り、渡部、井上と会談す、信郎酒饌をもたらし、且つ窄袖襯衣陣笠等を贈る〔井上哲作戦争日記〕。

 同七日渡部、井上は結義隊を率いて出雲崎に至る、我が兵および水戸の兵喜んでこれを迎え、井上等、石地村に至り、この地を守れる水戸の将筧助太夫、朝比奈弥太郎我が藩佐藤織之進、田淵房之進等と会議し後出雲崎に帰る〔井上哲作戦争日記〕。

 同八日結義隊一小隊を石地に出す、石地より水戸の筧隊四百六十人を出し共に灰爪村(石地の東南一里)に至り、水戸の朝比奈隊その他の諸隊は市野坪村(灰爪の西南半里強)に至る〔井上哲作戦争日記〕。

 同九日午の下刻頃結義隊、筧隊は灰爪村に至り直ちに関原方面を偵察す、結義隊二十人、筧隊四十人を合し井上哲作これを指揮し、日暮れ薬師堂峠(灰爪の東南里強)に登り、絶頂に露営したる折柄、大雪にて冷気肌に透り兵もまた大に疲労す、時に西兵来らざるを以て井上は兵をして山下の吉津村(嶺下五町許)に至りて休息せしめ、山上に止まる者九人に過ぎず、天明に至り西兵来り迫りたれば、使を山下に発し急に集合を促したるも直ちに帰らず、西兵は三面より進み、しきりに乱射し我が兵苦戦に陥る、井上刀を抜いていわく、斯くの要衝に據りて防戦すること能はざるは面目なき次第なり、死して君恩に報ゆるは今日に在り諸子奮勤せよと指揮たれば、九人皆死を決して戦いたり、西兵は街道に集まり一隊と為りて進み来り、我が兵銃弾虚発なく西兵数人を倒す、西兵は我が兵の寡きを侮りてますます迫り来りたるが、九人の中に半隊頭宗像虎四郎と云う者あり、井上に向っていわく、隊長の決心はさる事ながら九人にて奮戦するも衆寡敵するの理なし、今この地を退くも誰か卑怯と言うべきや、一先づ脇の山に退き、更に兵を集めて戦うこそよけれ、しかれども隊長ここに戦死せらるゝならば、予は決して人後に落ちざるべしと、虎四郎は僅かに十六の少年にして聞く者を驚かしめたり、たまたま銃丸井上が陣笠を貫き腋下に当る、すでにして短兵急に接したるが折柄渡部英次郎は脇の山山上より西兵を横撃して進むこと能はざらしめ、東兵は間を得て灰爪山に退きたり、すなわち西兵三百人許椎谷の方面より来り我が陣地の山下を過ぎんとしたるを以て、東兵潜伏して待ち居たるに西兵これを覚りたりけん、すなわち兵を椎谷の方面に返せり、これにおいて兵を集めて暫く休ふ、兵大に疲労し意気振るわず、すなわち議して朝比奈と合し関原の西兵を撃たんと欲し、直ちに全隊市野坪村に収む〔井上哲作戦史日記〕。

この日朝比奈隊、筧隊共に市野坪村に次す〔井上哲作戦争日記〕。

 五月十日西兵は朝比奈隊、筧隊、本営背後の山上より射撃し水戸兵多く死傷す、結義隊これを援く、水戸兵大に奮激し白刃を揮って山上に登らんとして斃るゝ者相次ぐも、なお屈せずして登り西兵を撃退す、間に乗じ結義隊出雲崎に退く、時に出雲の人梅津平次郎来り井上に面会し、互いに恙なきを賀し大に意を強うす、彼の周旋に由り舟に乗り寺泊に退き水戸兵は弥彦に退く〔井上哲作戦争日記〕。

 同十一日井上哲作は寺泊桑名侯の倉庫に糧食の儲ありと聞き、交渉して一千五百余俵を舟載して野積村(弥彦村の西南一里)に廻送し以て海岸守兵の糧食に充つ、時に佐藤織之進は兵を発し寺泊に至り、結義隊は野積村に次し滞陣すること七日に至る〔井上哲作戦争日記〕。

 同十三日海岸の形勢日に迫るを以て、新潟を守りし佐藤織之進は兵二十五人を率いて出雲崎の東軍を援く〔西記〕。

同十四日海岸の東兵石地、椎谷に戦い利あらず、弥彦に退き寺泊の東兵もまた退く〔西記〕。

 同十五日東軍の海岸を守る者なし、佐藤織之進わずかに二十三人を率いて寺泊に據る、水戸の伊藤辰之助兵を集めて新遊撃隊に属し、ついで松宮雄次郎の兵結義隊皆これに属す、時に坂本平弥は死し、その率いし旧幕遊撃隊は佐藤織之進に属したれば爾来折之進はこれを新遊撃隊と称し、その長と為り各地に転戦せり〔西記〕。

 五月十八日井上哲作は長岡の我が本営に至り、一瀬総督に面し詳に戦況を開陳す、総督その戦功を賞し、なお令して海岸防禦の任に当らしめ金二百両を輿ふ、井上帰り兵を寺泊に出し石川平助の家に次す、平助は徳川氏累代の重恩を忘れず大に東軍を優遇せり、寺泊の市民半は心を西軍に属したるに独り平助は志操堅固にして少しも渝らず、後村田山進撃の時結義隊に従軍して負傷せり、結義隊寺泊に留まること三十日、市民皆帰りて業を営むこと平生のごとく民心自ら東軍に帰せり〔西記〕。

 庄内より兵五百人を寺泊に出せしを以て東軍の勇気大に加わり西兵を掃蕩せんことを期す、庄内の陣将は石原多門、隊長は中村七郎右衛門、榊原十兵衛、安藤藤蔵、土屋秀三郎、伴弥太郎等なり。
 寺泊駅第一の資産家を菊屋と云う、彼は今春以来京摂の間に出でゝ西軍の為に周旋すとの噂あり、家族ことごとく去りて門戸を鎖し、その状すこぶる怪むべきを以て、結義隊三人新遊撃隊三人をして探索せしむに潜伏する者三人あり、二人は遁れ一人を捕えて訊問し、菊屋が西軍に通じたるの証を得たれば、駅の公使に命じ菊屋の財産を没収し駅中の人民に分たしむ〔西記〕

 六月三日井上哲作、山田の西兵を撃攘せんとし、兵を率いて島崎より山田に至る、隻兵を見ず空しく帰る〔西記〕

 六月十一日庄内の陣将石原多門等諸将校を佐藤織之進の陣営に会し、久田(石地の東北二里弱)の西兵を撃攘することに決し、島崎在陣の朱雀二番寄合組隊中隊頭山田陽二郎に交渉して部署を定む〔西記、井上哲作戦争日記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/15(金) 11:44:12|
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新潟の戦(長岡及び其の付近の戦)

新潟の戦(長岡及び其の付近の戦)

 これより先、七月二十六日新潟に進みし西軍は、壘を本所(阿賀野川河口の南一里半左岸に在り)の対岸に築き阿賀野川を隔てゝ東軍(会津、米澤)と砲戦す、すでにして西軍(薩、長、高鍋)阿賀野川の下流を渡り海老ヶ瀬(本所の西北半里強)より東軍を横撃す、東軍支ふる能はず退いて寺山新田(本所の西一里強)に防ぎ、ついに新潟に退く、西軍これを追撃し、正午沼垂に至り信濃川を隔てゝ戦う、二十七日西軍海陸並び進んで新潟を砲撃す、東軍は海岸砲台より大砲を発し摂津鑑の船舷を貫く、会々丁卯鑑来り援け摂津鑑は松ヶ崎に退く、二十八日東軍の新潟を守る者我が兵、仙台、米澤の兵を合わせて六小隊に過ぎず、西軍は胸壁を沼垂に築き新潟を砲撃す、米澤の総督色部長門軍を督してこれを防ぐ、この日丑の下刻頃西軍沼垂を発す、長州の将奥平謙輔等潜に信濃川を渡り平島(所在不明)より東軍を横撃す、会々加茂の東軍急を聞き疾く馳せて二本松(所在不明)より敵背を衝かんとしたるが、西軍これを知り兵を発して、これを二本松に防ぐ、ゆえに新潟の東軍孤立し、徒に撒兵を以て出没苦戦すのみ、西軍摂津、丁卯、千別、の三鑑の声援を得てますます迫り、火を市店に放つ〔七年史〕、米澤の総督色部長門戦死し、残兵は三条を経て八十里越に退く〔米澤藩戊辰軍記、七年史、河井継之助伝〕。
この日我が軍事勤田中茂手木戦死す。






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  1. 2013/03/14(木) 18:43:35|
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河井の死(長岡及び其の付近の戦)

河井の死(長岡及び其の付近の戦)

 河井は八月四日吉ヶ平を発し、藩士数十人医師二人これに従い、この夜山中に宿し五日会津只見村(南会津郡伊北村に在り)に至る、創ますます劇しく、しばらくここに滞在す、時に旧幕府の侍医松本良順(後、順と称す、陸軍々医総監となり勲功により男爵に叙せらる)、我が公の依頼に由り来り診す、八月十三日河井は良順の勧めに従い、会津に至らんとし鹽澤村(只見の東北北一里半)に至り医師矢澤某の家に宿す、十五日の夜、河井死期の迫るを知り、僕松蔵を呼びて身後の事を命じ、且つ火化の準備を為さしめ、十六日夜、ついに冥す享年四十二、飛報若松に達するや城中挙って悼惜し、二公特に禮を厚うし、若松の建福寺(当時長岡侯の館せし所にて若松の東南郊外に在り)に葬る、我が公以下文武の重臣会葬し、その式壮厳を極む、翌明治二年九月長岡栄凉寺の先塋に移葬す〔河井継之助伝〕。





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  1. 2013/03/13(水) 14:55:43|
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長岡城再び陥る(長岡及び其の付近の戦)

長岡城再び陥る(長岡及び其の付近の戦)

 この日大霧ほとんど咫尺を弁せず西軍これに乗じて長岡城を猛撃す、東軍兵を本道および村松、前島方面に分ちて防戦す、朱雀四番足軽隊、長岡の花輪彦左衛門兵は本道および浄土川の堤上に據って戦い、衆寡敵せず東兵多く死傷す、東兵ついに支えず、西軍勢に乗じて摂田屋に迫る、本道すでに敗れ前島もまた敗れ皆長岡に退く、摂田屋の東軍(会津、米澤、長岡)止って西軍を防がんとせる折柄、長岡の軍監三間市之進来り、村松口すでに敗れ西兵栖吉に在り、前島の西兵もまた宮原(長岡市の字南口なり)を襲わんとす、宜しく退いて喰違を守るべしと云うも皆聴かず、果たして西軍三面より摂田屋を襲う、これにおいて朱雀四番足軽隊、長岡の今泉隊は長倉(宮原の東半里許)方面を守る、退却せる諸隊喰違に集る、西兵火を村落に放ち鼓譟して迫る、砲声地に振い弾丸雨注す、長岡の大隊長山本帯刀、刀を揮って奮闘し西兵を退く、両軍堤防を隔てゝ戦う、東軍辛うじて喰違を保つ、西兵宮原より来り撃つ、東兵支えずして退く、草生津を守れる小島、奥山の二隊蔵王口を守れる渋木成三郎の諸隊奮戦すること多時なりしも皆敗れ、一は長岡は五月以来ますます兵燹に罹り、城閣市街延焼略々尽き、一望荒野に化す〔近世史略、七年史、続国史略後篇、河井継之助伝〕。

 河井継之助は七月二十七日長岡藩の野戦病院四郎丸村(長岡の東に在りて近し)昌福寺に移る、創甚だ重し、二十九日長岡城再び陥るに及び河井衆擁せられて敵を見附に避け、更に杉澤、文納、人面、葎谷(栃尾の東北東一里藩許)の諸村を経八月三日吉ヶ平に達す、吉ヶ平は会津八十里越に至るの路なり、河井会津に退くを欲せず、この地に留まること二日、三間等百方河井に説き、ついに八十里越を越えて会津に至るに決せり。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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亀崎の戦(長岡及び其の付近の戦)

亀崎の戦(長岡及び其の付近の戦)

 田井に在りし米澤兵は火の宮下に揚るを望み、狼煙を田井山上に挙げてこれに応じ、疾駆して浦瀬の西軍を襲う、西軍大に驚き宮下方面の急を援けんと欲すれども東軍の攻撃急にして能はす、これを亀崎の壘に防ぐ、東軍奮闘壘に迫る〔河井継之助伝〕、西軍ついに浦瀬より此禮方面に遁る、橡尾に在りし東軍(会津、米澤、村松、長岡)二十四日夜潜に兵を進めて土ヶ谷、荷頃等の敵壘に迫り、橡尾山上の狼煙を望み齋しく、刀を揮って吶喊敵営を斫る、西兵狼狽戦わずして走る、かくの如くにして東軍は三日の間に橡尾方面の二十三壘を陥れ、進んで森立峠を奪う、東軍の追撃甚だ急なり、西兵一は妙見に走り、一は半蔵金を経て浦柄に退く〔河井継之助伝、七年史〕


 長岡城の恢復せらるゝや、西軍中或は兵を米山以南に退け鋭気を避け、その怠るを待って撃つに如かずと議する者あり、参謀山縣狂介いわく、我今一歩を退けば勢を失い、一歩を進めば勢を得るの時に当り、わずかに一挫折を以て軍機を失うべけんや、今や東方の官軍白河に據り地方を略し、奥羽に侵入すと聞く、顧ふに奴輩後方を顧みて久しきを持する能はざらん、彼ら勝に押されてやや怠るの状あり、一挙して取るべしと〔続国史略後篇、近世史略〕。

 初め河井は長岡城の恢復の後、一軍は関原を奪い長駆して米山を越え、一軍は小千谷を破り三国、飯山の両道に進み、一挙に西軍を掃蕩せんとするにありしも、創重くして、また全軍を統率する能はず、加ふるに長岡の将校多く死傷し、敵軍追撃の余力を存せず、わずかに長岡城の近傍を守るに過ぎず、東軍これより振るわず〔河井継之助伝、続国史略後篇〕。

 この日同盟軍右翼我が兵、庄内兵、桑名兵は小島谷(三島郡島田村の大字)を発して乙茂の西軍を襲わんとし、我が兵は馬草山に據り、桑名、庄内の兵は木芽峠に據り、乙茂の西軍を瞰射す、西軍あるいは胸壁に據り、あるいは村家に據りて善く拒ぐ、東軍胸壁を白浦、木芽峠、馬草山等(馬草山は三島郡西越村に在り、小島谷より西南西に半里強、乙茂はその西に在り、木芽峠、白浦は所在不明)に築いて守る〔七年史〕。

 七月二十七日長岡城の東軍は長岡の花輪彦左衛門隊を十日町(摂田屋の南一里に在り)に、我が朱雀四番足軽隊を蛇山(十日町の南半里にあり)に、長岡の望月忠之丞隊を村松(十日町の東半里に在り、古志郡に属す)に、米澤兵一小隊を前島に出して草生津以北を守らしめ、明旦を期して妙見の西軍を襲撃せんとしたるに、西軍すでに退きたれば、すなわち鷺巣(前島の東一里半に在り)に陣し、また橡尾、荷頃の方面に陣せる東軍は進んで森立峠に據る〔河井継之助〕。

 七月二十八日三条において町野主水、樋口源介、有賀圓治等は士官を会して向う所を議す、時に島崎本営および水原鎮将府急を告げて援を促し、ついで水原陥るの報あり、佐川官兵衛は急に村松城(中蒲原郡に属し古志郡の村松と異なり、五泉の南一里に在り)を固守せんことを求む、新発田は西軍に降り、赤谷口杜絶し会津に通ずるの路は石間および村松口あるのみ(会津領より越後に出るには津川より赤谷に至るを本街道とす、津川より阿賀野川に沿うて下り領界の処に昔石間村ありこの道を脇街道と云う、この道を経て新潟、五泉、村松に至り得べし、また村松より沼越峠を過ぎ谷津より津川に至る間道あり、この口を名付けて三月澤口と云う)、ゆえにこれを固守せんとするに在り、しかるに水原すでに陥り新潟の形勢旦夕を測らず、我が兵赴いて機を臨み、変に応ずる所あるべしと議これに決し、すなわち三条一の木戸(一の木戸は三条の字なり、高島松平家の陣屋ありて二万四千石を治む)を発し小須戸に向う、大熊作武弥、有賀圓治を中隊頭に、木本幸次郎を世話役に、関場辰治、中川景次郎、東重次郎を半隊頭に仮定す、これより先、町野は、一の木戸民政庁の奉行深井小一郎に出兵を促したるが、此に至り、深井、その男寛八をして兵を率いて従はしむ、行田掃部これが伍長たり、発するに臨みて新発田の生虜三人を斬る、薄暮小須戸(五泉の西二里強)に至り梅木(小須戸の東北半里許)に次す〔累及日録〕。

 七月二十九日町野隊は新発田の兵小須戸に潜匿すと聞き、早暁往いて村長等を詰問したるも実を告げず、すなわち火をその家に放たしめ梅木を発す、途にして新潟の方位にも、また烟稲の起こるを見、西軍の入りしを知れり〔累及日録〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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新発田同盟に反き西軍に降る(長岡及び其の付近の戦)

新発田同盟に反き西軍に降る(長岡及び其の付近の戦)

 時に新発田同盟に反き、西軍一千余人を松ヶ崎に上陸せしめ、進んで新発田城に入り、中越下越の連絡を断つや、下越の東軍大に驚き相謀りてこれを来撃せんとするも兵寡くして如何ともする能はず、新潟、水原に據ってこれを防ぐ、西兵軍を分ち一は水原および保田(五泉の東北一里半に在り、今安田村の大字なり)方面に、一は新発田より赤谷方面に、一は三日市(加治村の大字新発田の東北一里許)より中条(新発田の東北北二里半許)、黒川(中条の東北半里許)方面に、一は新潟に進む〔河井継之助伝、続国史略後篇〕

 従来新発田は米澤と相善からず、これをもって常に会津に倚頼する所あり、幕府の末年無頼の浪士越後に潜入し、勤王の名を借りて暴発せんとするの風説あるや、新発田藩は大にこれを憂へ、慶応三年の初め密かに使を我が藩に遣わし左の書を贈り予め救援を乞へり。
 
今度罷出候者別儀に無御座御当節世上一般人心不穏何万も如何様之変事可出来も難計時節に而御同様心配之折柄乍取留事越越後筋に而不容猪易風聞有之正義党と唱ひ浪人京都関東越後に多人数潜伏致居候由之処越後地之儀米穀豊鐃之土地に付巣窟を高田村上両所之中に定め江城を火にし会津を攻落し横浜へ打て出て長州よりは京都へ切込可申手配偖右党においては朝廷の手を借り申さずては賊兵に落ち且つ諸人進行も薄く候に付有須川宮様之公達を招請長州を始その第一味之諸侯人数を分け一手は軍艦にて海上乗廻し越後瀬波(村上の西北に在り)へ着岸宮様は様を替へ陸地御下りにて同時に落合村上城を借受け不承知之節は干戈を動かし候手段村上城借用之上は右宮様は引移し夫より米澤へ使者を以て軍勢繰出申遣し越後並所々に潜居候正義党の者一時に起り立ち動揺之図を見て諸侯に正義を解諭候手段軍用金兵糧食等之繰出は京大阪江戸越後筋身元之者を自党に引入聊差支無御座候由正義諸侯御家来之内二百人百人と追々右党へ加り候総裁は有須川宮様御差配に而指揮有之由申提居候由右党之者専御当所をねらひ当三四月頃には必事を発し候企之趣追々相聞え右は不取留風聞には御座候得共不容易儀と申探索致見候得者右党之者諸国へ潜伏致居越後筋には余程入込候儀相違無御座哉に相聞え右風設之趣は御承知有之候哉万々一変事あるに於いては不相済次第不安堵至極御許様之儀は越後地に御新領並御預所も御座候に付御深探索は勿論何等之御手配も可有御座候哉此節御取締向等も御座候はゞ御内々御模様相伺申度右は当方最寄御料領御取扱等も可有之哉之処余之儀し違ひ軽率に御発し難相成儀に有之仮令浮説之事に致候而も小家之儀黙止居候而は不安堵之次第不得已御許様之儀は旧来より御懇示被成下毎度御手厚之御仕向を蒙居候儀に付聞込候趣聊斟酌不致打明御談申上候間何卒無腹蔵御示教被成下度此段幾重にも御縋り御頼み申上候

 我が藩は右の書面に接し、時勢の近状に鑑み等閑に付すべからずと為し、藩士飯田兵左衛門、萱野安之助、土屋鐡之助をして村上、村松、長岡および新発田を歴訪せしめ、また長岡藩をして柏崎、輿板、高田、糸魚川、七日市、三日市諸藩を勧設せしめ、同年九月十五日新潟において輿板を除きたる越後十三藩の使臣会合して左の協約を為せり。

一 銘々領内之儀厳重取締致探索候次第は集会之節打合可申事

一 毎年五月十四日迄参着十五日出会之事

一 事之有無に不拘毎年九月朔日糸魚川村上両藩より廻状差出各藩順に差出可送事

一 変事有之節其次第柄飛脚を以て通達可致事

但不差急儀は不時廻状を以て通達可致仮令風説たりとも品に依り心得の為廻達可致候事

一 他領たりとも何儀によらず浮説等有之事実承置度儀は出会揃之役筋へ承合可申事


 この契約は将来永続せざりしといえども、このごとく十三藩会同して旧交を温め、将来の利害に関し申合を為したるは、要するに新発田が会津に救援を乞いしに端を発したるものにして、彼の藩の各友藩に対する信義は決して尋常路人に対するがごとくなるべからざるなり、その後大政奉還廟堂変革の事あるにおよび、彼の藩は肥後、仙台、米澤等の諸藩と共に重臣連署して書を朝廷に上り、その処置が維新の本旨に反するを論じ、あるいは兵を京師に出して西軍を助け、あるいは奥羽越の同盟に加わる等首鼠両端を抱くに至れり、同盟の列藩これを怒り討って後禍を除かんとするに及びては、百万陳謝兵を発して信を表し以て二心なきを誓い、巧に東両両車の間に立ち、節義を売り利勢を追い、啻に我が藩宿昔の情誼を顧みざるのみならず、また同盟列藩を欺き表浦反覆の醜態を極め、なおかつ靦然として自ら勤王と称するに至っては、その厚顔無耻もまた甚だしと云うべし。

 七月二十六日卯の下刻、長岡の大砲隊長岡城に入り、巳の刻頃佐川官兵衛、米澤の甘糟備後、我が朱雀四番足軽隊中隊頭横山傅蔵等城に入り戦捷を祝す、米澤、仙台、新発田の兵西軍を破り相先後して城に入る〔河井継之助伝〕。

 長岡城恢復の役東軍の鹵獲したる大砲百二十門、弾薬二千五百余凾、小銃器械糧食山のごとし、東軍死傷百余人、西軍はこれに十倍すと云う〔七年史〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/11(月) 12:56:42|
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新町口の戦(長岡及び其の付近の戦)

新町口の戦(長岡及び其の付近の戦)

 時に下条(長岡の北一里弱)の西兵衆を尽くして新町口(長岡の北口なり)に迫り東軍苦戦す、大隊長三間市之進急を本営に報ず、河井すなわち渡邊隊をして赴き援けしむ、下条方面は西軍主力を集注し、明旦まさに一斉に東軍を進撃せんとしたるに、東軍すでに長岡城に入る、これにおいて直ちに精兵を長岡に集めんとす、時に大黒、福井、十二潟の諸壘もまた東軍の猛撃する所と為りて腹背敵を受く、ゆえに一方の血路を開き天明殊死して城岡の土壘に進撃す、初め河井の長岡城を復せんとするや、福井、大黒方面の西兵必ず衆をことごとくして、この方面を猛撃すべきを慮り、三間市之進をしてこれを守らしむ、これにおいて篠原、稲垣の二隊は三軒茶屋の胸壁に據り、鬼頭、小野田の二隊は喰違に在りてこれを防ぐ、西軍頑として退かず、東軍前夜より奮闘息まず、兵皆疲労して拒く能はず、前隊は喰違に退く、西軍鼓騒して迫る、東軍ついに支えずして新町に退く、時に稲垣、小野田の二隊長等死傷すこぶる多く全軍振るわず、地蔵町を守れる大川隊はこれを見て守備を千本木隊に委し、栖吉江に沿うて来り援け、先づ新保を侵せる西軍を撃攘せんとす、望月、河井の両隊もまた来り援く、諸隊勢に乗じて反戦す、西軍の一隊さらに蔵王を迂回し、先に敗走して路を失い処々に潜匿せる残兵と合し、屋台小屋に突出して横撃す、内藤隊来り援け防戦すこぶる力むといえども、腹背敵を受けついに支ふる能はず長岡城に退く、河井急を聞き馳せてこれを援く、たまたま流弾左脚の膝下に中り重傷を負う、新町口すでに破れ西軍吶喊して長岡城に迫り神田口門を猛撃す、長岡の将士議していわく、弾薬すでに尽き米澤約に背くときは、この城今夕を保たず、諸隊齋しく城を枕にして国家に殉ずべしと、遽に胸壁を築き溝に據って防戦す、夜に入り砲声ようやく稀に夜半に及びて全く息む〔河井継之助伝、七年史〕。

{三軒茶屋、喰違、屋台小屋等の所在不明なれども、要するに今の長岡市内外北の地名なるべきにより、戦争の大体を知り得可し。}

夜五更報ありいわく、本道の東軍筒場口を破ると、衆雀躍勢大に振ふ〔河井継之助〕。

 本道における福井、大口、田井等の東軍米澤兵、我が藩兵は二十五日早朝宮下、富島(長岡の東北半里強に在り)方面の火を起こるを見て、直ちに西軍の壘壁を猛撃す、西軍善く防戦し勝敗決せず午時に至る、殊に福井攻撃を擔当せる米澤兵の攻勢はなはだ振るわず、長岡の大砲隊長村松忠次右衛門しきりに米澤の将に促していわく、福井敗れずんば進撃の我が兵皆敵手に帰せんと、佐川官兵衛もまた来り進撃を促す、米澤三十目和銃隊二小隊を発し共に福島、大黒、大口等の胸壁を砲撃し、大黒の壘に進撃するもの三たびにおよび西軍ついに敗る、直ちに火を放って進み終に福井、大口、猿橋、大黒の壘を敗り火を処々に放つ、西軍黒澤(所在不明)方面に敗走す、本道の東軍ようやく敵壘を破るや、長岡の砲兵隊長由良安兵衛約のごとく狼煙を挙げて進撃軍に報ずといえども、時すでに新町口に敗れ、諸隊兵を城中に収めたるの後にして、ついに来撃の謀は成らざりき〔河井継之助伝、七年史〕。

 この日(二十五日)早朝、我が砲兵隊、青龍三番士中隊、衝鋒隊、水戸の筧隊は大山一の胸壁より元輿板の敵壘に進撃す、西兵善く戦ひ、東軍苦戦且つ走る、砲兵隊軍目杉浦佐伯、同甲士渋谷源蔵、佐々木八次郎、日向栄三郎、神指大三郎は尚止まって追兵を防ぎて奮戦し、巳の下刻を過ぐる頃、兵を一の胸壁に収む〔西記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/10(日) 16:35:32|
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東軍長岡城を復す(長岡及び其の付近の戦)

東軍長岡城を復す(長岡及び其の付近の戦)

 七月二十四日午の刻を過ぐる頃、継之助は軍令方略を諸隊長に伝え部署すでに定む、河井死士六百十二人を率い人毎に一日の糧を用意し、日の暮るゝを待ち、十七小隊伍を整えて本営を発し、市谷(見附の南にて近し)の船橋を渡り熱田新町より四屋、漆山等を経て百束の東端に出で、これより声を呑んで亥の刻頃八町沖に至る、八町沖は浦瀬の北福島の東、福井、百束の東南に在りて長岡を距ること一里余なり(当年一大沼澤なりしが、桑滄の変今や全くとなり、旧態を存するなしと云う)、会々大雨連日の後、潦水溢れ細径缺け壊れ、その艱難予期に倍せりといえども、前哨の兵能く、その地理を諳んずるを以て、全軍迷わずして進み更に潜みて西軍列塞の間を過ぐ、時に大黒、田井(大黒の東一里強)の方面に戦闘起こり、両軍の飛弾流星のごとく、喇叭の声は耳をつんざき敵壘の燎火天を焦がし兵馬疾駆の状あり、河井は後隊の継ぐを待って進軍の令を発す、先鋒大川隊、千本木隊驀進宮下(浦瀬の西藩里許)の胸壁を襲ひ、火を放ち吶喊して進む、東軍初め火を挙げて合図を為すを約す、田井の陣営これを望み見て烽火を挙げ、橡尾の古城址よりもまた狼煙を挙げてこれに応ず、東軍は十二潟、押切、福井、大黒等の諸壘を砲撃し烟稲天に漲り喊声地に震ふ、諸隊行々西軍を破りて進む、沿道の民長岡の兵を見て大に喜び、家毎に燈を点じ簟食壺奨してこれを迎ふ、河井直ちに長岡城に迫り火を放って縦横突撃す、西軍長岡城に在る者進退度を失い、城中に在りし西園寺公望徒跣高遠の兵に擁せられ僅かに関原に遁れ、山縣狂介は戎衣を著くるに暇なく寝衣の儘兵を指揮す、他の諸隊は舟楫乏しくして渡る能はず、加ふるに新町口、宮原喰違もまた已に東軍の扼する所と為り、進退谷まりて草生津に集まり、天明を待ってまさに渡らんとしたるが、先に走りたる者すでに舟楫を争ひて遁れ河岸一隻を留めず、長岡の花輪、奥山の二隊は草生津に迫りて猛撃す、西兵互いに蹂躙して溺れて死する者算なし、長の将三好軍太郎、薩の中井弘三等主力を率い草生津の堤防に據り、衆を励し殊して戦い、花輪、奥山の二隊すこぶる苦戦す、会々渡邊、望月の二隊、内藤隊共に来り援くるも西兵要地を死守し射撃猛烈にして諸隊少しく逡巡す、河井継之助馳せ来り自ら軍旗を揮って挺進す、諸隊勇を鼓して奮進す、隊長渡邊進挺前して重傷を負う、この時河井は諸隊長の請いにより、潜に竹垣権六等二十余人を迂回せしめ、左近村(草生津の南に在りて近し)の堤上より横撃せしめたるに西軍ついに支えず堤に沿うて内川に走り、東軍進んで草生津を奪う、東軍なお追撃せんとす、河井これを止め諸隊をして、この地を守らしむ〔河井継之助〕。





卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/10(日) 10:42:14|
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輿板方面対陣(長岡及び其の付近の戦)

輿板方面対陣(長岡及び其の付近の戦)

 七月四日朱雀四番士中隊、砲兵隊、青龍三番士中隊、水戸兵は地蔵堂を発し輿板の北方高越村、岩方村、鹽之入村に至り、ようやく山上におよび、輿板城の山脈に連なる大川に胸壁を築き、一の胸壁は我が砲兵隊砲一門(三十人許)、同二、三、四の胸壁は青龍三番士中隊および付属隊砲一門(百六十人許)、同五、同六の胸壁は上の山兵(八十人許)これに據る、上の山の国境切迫し兵を収むるにおよび、朱雀四番士中隊(四十人許)元金田隊の兵これに代わる、信濃川堤三箇の胸壁は水戸の算隊(八十人許)、堤防以西は水戸の市川隊(百二十人許)、陣ヶ嶺(所在不明)前方は桑名の地神隊(六十人許)、陣ヶ嶺以西は水戸の朝比奈隊(百人許)、小島谷村方面日野浦(輿板の西一里許)、近傍は衝鋒隊、遊撃隊、小雲雀村(所在不明)には朱雀二番寄合組隊、寺泊、山田(所在不明)辺りには庄内兵松宮雄次郎の兵、新遊撃隊、結義隊これに據る〔西記〕。
 
 この日河井継之助は前日見附に至り、長岡城回復の策を決せんとし、百束、福井、押切、四屋等の守備を米澤に委ね、長岡の兵をして密かに橡尾に退かしむ、しかして西軍の偵知せんことを恐れ故らに途を漆山街道並び名木野(見附の南半里弱)、太田(名木野の南半里弱)街道に取らしむ、これより本営を橡尾に転ず〔河井継野助〕。

 これより先、新発田藩騒擾す、六月十二日我が藩上田傅治、赤谷警衛の命を受け、屬吏と共に赤谷口に至り、関門を警衛せしが、形勢切迫するにおよび何国の人民なるを問はず赤谷口の往来を禁ぜり、元来諏訪峠以外五村の人民は薪炭を鬻くを生業とし、新発田城下に出して日用の諸品と交換して生計を営み来りしが、往来を禁じてより新発田領内の商人は止むことを得ず、赤谷口の関門外において物品を販売するに至れり、上田傳治思えらく今や新発田同盟に加わり、すでに兵を出したるに、その人民の赤谷口の往来を禁ずるは隣邦和親の実なく、いわんや五村を始めその他の村々に至るまで生業の支障を輿ふること尠からず、故に速に往来の禁を解き有無相通ずるを得せしめざるべからずと、六月二十五日水原府に至り陣将上田学太輔に開陳し、同二十七日水原出陣の下平庸三郎と共に新発田城下に至り、同藩郡奉行三浦四一郎に面して物品交換の障害を除き、人民をして有無相通ずるを得せしむるは勿論なるが、戦争中なれば幣藩においても監督を厳にするの必要あり、ゆえに貴藩の人民にして幣藩の関門を往来する者は印信を携えて赤谷口を入り、津川その他何れの地にも商業を為し得ることゝ為さば如何と説きたるに、三浦は幣藩より請うべきに却って貴諭を辱うしたるを謝し、追って重役と協議返答すべしと云へり、これにおいて上田は赤谷に帰り関門往来の事を見習石井益三郎および関門の戍兵に諭告し、監督の事を代官および有司に協議し、七月上旬若松に帰りてこれを報告す〔西記〕。

 今町の戦後東軍はますます攻勢を取り、長岡城を距る二三里に進み環攻の勢を示すに至れるが、西軍は仁和寺宮純仁親王、総北越征討総督と為り、中納言西園寺公望、左衛門権佐壬生基修之に従い、長州、岩国、筑前、越前、肥前、芸州等の兵を発し、七月七日海陸並びに進みて越後に向う、九日総督宮は直江津に上陸して高田に至り、十五日進んで本営を柏崎に置く、二十一日西軍の軍艦五隻柏崎に入り、長州の山田市之丞、薩州の本多弥右衛門を海軍参謀と為し、海陸相応じ一挙して東軍を撃破せんと欲し、その嚮ふ所を部署す、親兵は出雲崎に至り左翼を援け、小松(一柳、一万石)、小野(一柳、一万石)、足守(木下、二万五千石)、三ヶ月(森、一万五千石)の四藩は関原に至り中央軍と合して東軍の中堅を衝き、薩、長、芸州、高鍋、明石の諸兵は海軍に属し海路より下越に上陸し、東軍背後の連絡を絶たんとす、しかして海軍は二十三日柏崎を発し、二十四日陸軍もまた進発し、明旦を待って戦わんとす、河井継之助は謀してこれを知り、その機先を制して長岡城を回復せんとす、これより先、七月十一日米澤の甘糟備後、齋藤主計は河井継之助、三間市之進、花輪求馬等を橡尾の営に招き進撃の策を図る、時に継之助いわく、尋常に攻撃せば彼もまた能く防ぐを以て勝算なし、あまねく敵営を偵察するに彼ら長岡城を抜いてこれに據り、はなはだ驕りすこぶる警備を怠る、長岡城の東北に大澤あり八町沖と曰ふ、水田萬頃防備厳ならず、余自ら兵を率いて潜に進まん、西軍の戍兵これを覚らば必ず弾丸雨注せん、余先づ斃るれば屍を棄てゝ市之進これに継げ、この間髪を容れず一に死傷を顧みず、速に郭外の川を渉り火を敵営に放つを以て主眼とす、但し我が兵寡く、且つこの挙や死傷また測るべからず、幸に貴藩精鋭を尽くしてこれに継ぐ、我が兵をして敵に委せしむるなかれ、幸に長岡城を恢復するを得ば、いささか昔日の恥辱を雪ぐに足れりと、備後、主計等大にこれを賛成し、備後馳せて見附に帰りこれを総督千阪太郎左衛門に報じ、ついに継之助の画策に従ふことゝなれり、時に七月十五日なり〔河井継之助〕。

 七月十七日夜継之助は我が藩、桑名その他の諸藩将を橡尾の本営に会し、備さにその画策を告げ、二十日の夜を以てまさにこれを継行せんとす〔河井継之助〕。

 七月十九日継之助は橡尾近傍の守備を我が藩、仙台、米澤、村松等の諸藩に譲り、長岡の兵十小隊に令して急に見附に退かしむ、会々風雨連日にわたり、間道の八町沖は、道路ことごとく水に没して、あたかも一大湖のごとく、兵を進むること能はず、ゆえに進撃の期を更めて二十四日の夜となす〔河井継之助伝、続国史略後編〕。

 七月二十三日河井継之助は密かに令を諸隊に伝えていわく、今日は先日の役に異なり、進んで死すべし退いて生くるなかれと地図を按して進路を示し、藩侯より賜う所の酒殽を頒つ、衆始めて河井の意を解し皆勇踊していわく、先日の恥辱を雪ぐはこの一挙にあり、長岡城を復する能はずんば一死あるのみと、歎飲夜を徹す、米澤の士皆来り観て屋外堵のごとし〔河井継之助〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/09(土) 18:26:22|
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荷頃の戦(長岡及び其の付近の戦)

荷頃の戦(長岡及び其の付近の戦)

 時に東軍我が第二遊撃隊、長岡兵、荷頃村の胸壁を守る、西兵暗夜に乗じ我が退路を絶ちて砲銃を乱射し、東軍寡兵を以て応戦の最中、西兵本街道より部落に侵入したれば兵を分つて迎え戦う、東兵二十人許山上に登り砲を発して俯撃し、分隊の兵は街道より突撃す、西兵は撒兵に展開して猛撃し弾丸雨注す、午の刻頃西兵動揺の色あり、東兵これに乗じて奮戦す、既にして西兵山麓より吶喊して来り迫り、東兵衆寡敵せずしてついに退く、西兵銃を乱射して進撃すること急なり、東軍思えらく西兵に橡尾を衝かるれば大事去らんと、退くこと十余町にして大野村(橡尾の西南にて近し)に止まり、衆皆殊死して返り戦う、会々長岡兵、仙台兵、橡尾より来り援け、山の半腹に據り砲を発して西兵を横撃したれば西兵進むこと能はず、砲戦夕陽に至り西兵ついに荷頃に走り胸壁を築いてこれに據る、ゆえに東兵退却すこぶる苦しむ、僅かに山径を廻りて兵を橡尾に収む〔西記、河井継之助伝〕。

 七月二日早朝長岡兵一小隊橡尾より山を登り荷頃村薬師山に至り土壘を築く、すなわち西兵猛撃して来り迫り東方防戦すこぶる苦しむ、よって援を橡尾に請ひければ長岡兵一小隊来り援け、ついに西兵を撃退す、これより日夜砲戦息まず、我が第二遊撃隊、米澤兵は荷頃口街道の山上に據って戦う、東軍は毎夜深更に土壘を築き、ますます西兵に接近して砲戦す〔西記〕。

 橡尾方面の形勢切迫せるを以て、朱雀四番足軽隊、米澤兵、仙台兵、村松兵は見附より来り援け、全軍一千七百余人各藩協議して防備の部署を定むること左のごとし。

荷頃村口数所 第二遊撃隊 仙米両藩 長岡藩

土ヶ谷口 米澤藩 長岡藩士

小貫村(栃尾の西北一里弱) 朱雀四番足軽隊

来傅口泉村(泉は栃尾の東南微南半里許) 衝鋒隊 村松藩


爾来相対し砲戦息まず、土ヶ谷口、荷頃口はしばしば守兵の小衝突ありき〔西記〕。

この日米澤兵、長岡兵は大黒の西軍を攻撃して敗績す〔河井継之助伝〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/08(金) 17:10:53|
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半蔵金の戦(長岡及び其の付近の戦)

半蔵金の戦(長岡及び其の付近の戦)

 この日早天、森上村に陣せる東軍は半蔵金の西軍を撃たんと欲して兵を三分し、仙台の兵、衝鋒隊は右側の山地よりし、米澤兵は左側の山地よりし、我が第二遊撃隊は街道の正面より半蔵金村に進撃す、米澤の三十目和銃隊奮って敵の一の胸壁に接して進攻し、我が遊撃隊は街道の正面に大砲一門を曳いて猛撃す、我が銃手は山に沿いて進み、しきりに奮戦したるが、隊将桃沢彦次郎傷を負い、全隊退くに乗じ西兵尾撃すること急なり、仙台兵支えずして退きを以て我が第二遊撃隊横撃せられ苦戦し、なお兵を分つて密かに樹間より銃撃す、午の下刻頃に至るまで勝敗決せずして交々退き、衝鋒隊は田野口(一の貝の東半里許)に遊撃隊は荷頃にその他諸隊は橡尾に退く〔西記〕。

六月二十三日朱雀四番士中隊福井村の胸壁に據り昼夜砲戦す〔西記〕。

六月二十五日我が砲兵隊を百束に出し哨兵砲す〔西記〕

 六月二十七日輿板方面へ転陣の令あり、申の下刻頃朱雀四番士中隊、砲兵隊、青龍三番士中隊は見附を発し夜間遊軍し亥の刻頃三条に次す〔西記〕。

六月二十八日朱雀四番士中隊は三条を発し地蔵堂に次す、砲兵隊は三条を発し見附に次す〔西記〕。

六月二十九日朱雀四番士中隊地蔵堂滞陣。

六月三十日砲兵隊見附を発しこの夜地蔵堂に至る。

七月朔日朱雀四番士中隊地蔵堂滞陣。

 朱雀四番士中隊中隊頭佐川官兵衛、軍事奉行頭取と為り若年寄格に進み、軍隊を指揮すること故のごとし〔西記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/08(金) 11:17:49|
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大黒の戦(長岡及び其の付近の戦)

大黒の戦(長岡及び其の付近の戦)

 六月二十二日東軍八町沖(半蔵金の東北北半里許の所に在り)より潜行して夜福島の西軍を襲わんとし、本営を四ッ屋に置き、前夜亥諸隊を本営に集め部署を定む〔河井継之助〕、令していわく、敵営に火光の揚るを望まば直ちに各陣地より一斉に進撃すべしと、潜行して深く西軍の陣地に入り、火を彼の本営に放つの任に当れる者は長岡兵半小隊、朱雀四番士中隊小隊頭木村理左衛門、教導圓城寺岩五郎、甲士上島権八郎、榎本栄之助、三原西五郎、篠田幸三郎にして同夜戍の刻頃木村等田畔を潜行して、その任務に就く、二十二日早天より大雨、丑の刻頃西軍の陣地福島、大黒の方位に一条の火光高く天を衝き、あたかも白昼のごとし、我が事成れり進めよ進めと、長岡兵、我が砲兵隊、朱雀四番士中隊は福井口より軍を進め、枚を銜みて西軍の壘壁に迫る、長岡兵太鼓を打って号を為せば諸隊一斉に砲撃す、砲声は叫声と相和し天地を震動す、西兵発砲すること甚だ猛烈なり、前後左右皆泥水にして地の據るべきなく、且つ東軍進撃の時機早きに過ぎ諸隊未だ至らず、朱雀四番士中隊の二番小隊もまた未だ連絡せざれば、しばらく兵を我が陣地に収む、時に天すでに明けたり、これにおいて諸方面の東軍先を争うて進撃し、西兵狼狽して走る、すなわち富山藩の胸壁を奪い弾薬を鹵獲す、福島の西軍は敗れて長岡に走り、西軍福井、大黒の方面すこぶる危し、しかれども薩、長の兵能く戦う、長岡兵は敗兵を追撃して長岡城下に迫る、長岡に在りし西軍大に驚き衆を尽くして来り援け、その鋒はなはだ鋭し、東軍兵寡く、且つ疲れ全軍ついに退く、前後左右皆沼澤にして深泥腰脚を没す、しかして兵は多く路は狭く、加うるに西兵の追撃はなはだ急にして全軍大に困しみ、辛うじて兵を福井、四ッ屋に収む、この役終日大雨を冒して苦戦し諸兵皆泥土に汚れ疲労甚だし〔西記、河井継之助伝〕。





卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2





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大黒其の他の諸壘進撃(長岡及び其の付近の戦)

大黒其の他の諸壘進撃(長岡及び其の付近の戦)

 六月十四日東軍まさに大黒、新屋、福島、猿橋、筒場、宮島、浦瀬(これら諸部隊落中、大黒、福島、浦瀬は所在地前に記載せり、筒場は七軒の西に在りて近し、新屋、猿橋、宮島は所在地詳ならず)の西兵を撃たんとし、沸暁猛雨を冒し朱雀四番士中隊、砲兵隊、長岡兵は福井村右側の堤防より猿橋口に、長岡兵は大黒口に、青龍三番士中隊砲一門鹿熊より、我が砲手および長岡の砲手一門に百束より猿橋口に、別に長岡兵砲一門は百束より大黒に進む、卯の上刻頃号砲一発と共に一斉に各陣地より砲撃す、東西両軍の砲声万雷のごとし、諸隊奮戦我が砲兵隊、長岡兵、朱雀四番士中隊は共に、橋口西軍一二胸壁の左側に廻り田畔に沿うて進撃す、西軍大に敗れ一二の胸壁を棄て猿橋に退く、青龍三番士中隊は長岡兵と共に大黒口一二の胸壁を奪いたるに、西兵四人在り刀を揮って返り戦う、青龍三番士中隊小隊頭西郷寧太郎、同隊付属衝鋒隊半隊頭田中勇之と接戦し各一人を倒す、敵四人の勇猛称するに堪えたり、夜におよびて交々退く、この戦いすこぶる激烈にして西軍の死傷は二百を算するに至れりと云う、この日大曲戸に在りし長岡兵は大黒の火起こると共に猿橋口に進み、西軍を牽制するの方略なりしが、機を失うて果たさゞりき、衝鋒隊は大口より進んで十二潟、高見(共に大口の西南に在りて近し)の西軍を襲撃し砲一門を獲たり、我が砲兵隊は漆山に、朱雀四番士中隊は百束に次す〔西記、河井継之助伝〕。

 この日土ヶ谷に陣せる長岡の二隊および米澤の一隊は本道より、また長岡の一隊は扇ヶ谷(所在不明)より倶に栃窪峠(土ヶ谷の西半里許に在り)の西兵を襲撃す、時に濃霧の為、西兵(大垣)我が兵の迫るを知らず、咫尺の間に至り我が砲声に驚き狼狽して走る、夜におよび長州、松代の兵来り援け、東軍奮戦天明に至りしも衆寡敵せず、ついに土ヶ谷に退く〔河井継之助〕。

六月十五日朱雀四番士中隊福井村胸壁に據り昼夜砲戦息まず〔西記〕。

 六月十九日、米澤、新発田の兵八小隊大口に進みて激戦数刻ついに西軍を川辺(大口の西半里弱に在り)方面に撃退し西軍死傷多し〔河井継之助伝〕。

 六月二十日これより先、仙、米の兵、橡尾に来り相議して攻守の部署を定め、我が遊撃隊は長岡兵と共に土ヶ谷方面の敵を攻撃せんとし、米澤兵と交替し、この日荷頃村は山間の僻地にて不便なるを以て陣を橡尾に移す〔西記〕。

 六月二十一日軍を進めんとして偵察すれば、西兵は要衝に據り砲台を数所に築きたり、故に兵を失うこと多からんことを慮り、再議して長岡兵は土ヶ谷を守り、米澤兵は森立峠に占拠して攻勢を取り、遊撃隊、衝鋒隊、仙、米、長岡の兵は進んで半蔵金村の西兵を撃攘せんとし、亥の刻頃諸隊橡尾を発し森上村(半蔵金の東北北半里許の所に在り)に至る、橡尾を距る二里半許なり〔西記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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福井の戦(長岡及び其の付近の戦)

福井の戦(長岡及び其の付近の戦)

 六月十日我が砲兵隊、朱雀四番士中隊は長岡兵と共に見附を発し漆山にて長岡兵と合し福井に進みて戦う、衝鋒隊、遊撃隊は米澤兵と兵を分ち中之島方面大口村より進み、長岡兵、青龍三番士中隊、村松兵は七軒町右側より一斉に攻撃す、西兵は要地に據り壘壁を重複に築いて守る、行路は狭く近傍は皆泥濘にして兵を撒布する能はず、諸隊少しく逡巡す、一人朱雀四番士中隊および長岡兵は猛撃して大に戦い西兵一二の壘を棄てゝ敗走す、しかれども左右泥濘にして追撃すること能はず、日暮れ兵を収む、朱雀四番士中隊は見附に、長岡兵は漆山、四谷(漆山の南に在り)、百束に、我が砲兵隊は漆山に各々兵を収む〔西記〕。

六月十一日新発田の兵見附に入る〔河井継之助〕、諸方面戦い烈し〔西記〕。

 これより先、米澤藩の三瀦清蔵、長井藤十郎、石井孝一郎は同藩総督千阪太郎左衛門の令を持し来りていわく、新発田は首鼠両端なり、今におよんでこれを討たずんば、恐らくは禍を胎さんと、六月三日、会、仙、米三藩の兵を新発田に進め城下に迫る、この日三瀦、長井、石井等は新発田を要し藩主は出でゝ米澤に質と為り、且つその兵を出して信を表せしめが、しからずんば旗鼓相見んと掛合ひたれば、五日藩主溝口誠之進は城を出でゝ清水谷に館し〔清水谷は城外十里許に在り、新発田侯の別業なり〕、まさに出でゝ質たらんとす、これにおいて我が兵は退いて五十公野に次し、仙米の兵は松崎(阿賀野川河口の東岸に在り)、沼垂(新潟の東対岸に在り)に次す、時に新発田の農民四方に集まり橋を徹し路を梗ぎ以て藩主の米澤に行くを阻止す、六日夕に至り農民ますます加わり旗を掲げ竹槍を持し城下に充満す、すなわち老公静山主(藩主の父、直溥朝臣)、清蔵等三人を城中に招き餐していわく、農民の嘯集は藩士の使嗾に由る、しかも勢制すべからずこれを如何せんと、三人退いて議していわく、新発田藩反覆遷延して今に至る、口舌を以て争うも無益なり、これを討つにしかずと、この夜農民三百人許、会、米澤士の旅館を囲みほとんど危かりしも解き去る、七日我が藩の平尾豊之助、長井、三瀦等相議して平尾は仙台の鴫原長太郎、米澤の某と新潟に赴き、三瀦、長井は関に赴き(この時米澤出でゝ関に陣す)、各兵を率い来りて彼を討たんと約し各別れて発す、八日平尾は新潟に至り我が藩相梶原平馬、軍事奉行手代木直右衛門、米澤の総督色部長門、佐藤某と議したるに皆新発田を討つの議を拒み、仙、米の士もまた約を変ず、平尾一人前議を執るも行はれずして止む、九日我が将有泉壽彦、仙将鴫原、米将三瀦、石井等五十公野の本営に会し、新発田藩相溝口内匠、邸監山崎重三郎を呼び約に背く数事を責め農民嘯聚の首謀者を出さしむ、十日内匠等首謀二人を携え来るもその人にあらず、諸将その姦計を怒りて送り帰す、その夜内匠等来りていわく、老寡君親から藩士を会し諭すに奥羽越同盟の大義を以てし、もし命を拒む者あらば厳に罰せんと達し闔藩命を奉ぜり、明日必ず兵を出して信を表し以て同盟列藩に謝せんと、会々米澤の重臣大瀧新蔵来りていわく、新発田兵を出さば必ずしも藩主を質とせざるも可ならんと、同盟の列藩異議ありといえども初め奥羽越同盟するや越後の事を以て米澤に委す、ゆえに仙台以下の列藩強ひてこれを争う能はず、しかして大瀧新蔵は米澤の重臣にして頗る権あり故に三瀦等もまた抗する能はず、これにおいて新発田質を出さずして止む、この日新発田援兵数百人を出し、会、仙、米の兵と道を分って発す、我が兵移りて水原に次す、これより先、我が藩相上田学太輔は水原に在り、総督一瀬要人は地蔵堂の本営に在りて策応をなす〔自警編、続国史略後編、壘及日録〕。

 六月十二日東軍方面占拠の策を協議し、橡尾方面は衝鋒隊、桃沢彦次郎は田野口に、長岡兵は土ヶ谷(此禮の東北一里弱に在り)並びに此禮村に、村松の兵は赤谷泉村に、我が第二遊撃隊は森立峠口荷頃(此禮の東北に在り)に各陣を転ず、遊撃隊は荷頃村曹源寺を本営とす、十数町前方一の貝村境界に三箇の砲台を築きて守る、西軍は森立峠の要衝に據り、その他山地処々の要地に壘壁を築き、山中に道路を開きて浦瀬村の本営より交通を便にせり、しかして相待して未だ決戦せず、時々一の貝村辺に哨兵を出し小衝突あるに過ぎず〔西記〕。

 この日村松藩の交渉に由り軍隊の糧食は彼藩の提供を止め自今我が藩にて購ひ提供することゝ為す〔西記〕。

東軍福井、百束、鹿熊辺に胸壁を築き哨兵を置く〔西記〕。

 六月十三日我が諸将および米澤、長岡の諸将は見附に会し進撃の策を建て、令を諸隊に伝えていわく、明日拂暁軍を進めん、号砲を開かば各陣地より再齋しく攻撃すべしと〔西記、河井継之助〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2




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  1. 2013/03/06(水) 11:21:15|
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森立峠の戦(長岡及び其の付近の戦)

森立峠の戦(長岡及び其の付近の戦)

 六月八日暁橡尾に陣せる東軍相謀り、まさに森立峠の西兵を攻撃せんとす、長岡兵四小隊は田の口新道より横撃し、衝鋒隊、村松兵二小隊は一の貝(軽井沢の東半里強に在り)より森立峠の東南に出て軽井沢の西兵を衝き、長岡兵は此禮村(森立峠の東北北半里強の所に在り)山上の西兵を攻撃し、我が第二遊撃隊は山麓の経路より潜行し、右側の山上に撒兵して烈しく銃撃す、西兵山上の砲台より相応じて激戦す、会々軽井沢火光揚る、これにおいて森立峠の西兵を攻撃す、西軍高田、松代の兵、大に驚き砲銃を乱射す、東軍奮戦ほとんど壘を奪わんとす、西軍苦戦砲隊は砲を曳いて山を下る、時に浦瀬(此禮の西北西一里強の所に在り)に在りし、西兵来り奮闘す、東軍弾薬尽き申の下刻頃ついに兵を橡尾に収む、両軍死傷相当ると云う。

{この役遊撃隊士高木千代負傷するや西郷常次郎、有泉勇気これを助け山を下らんとし、途上二人千代に向い村民を呼び来らん、しばらくこれに待てと云いて去り、久しうして帰らず、千代すなわち辛うじて山路を下り浦瀬に至り、西軍の巣窟なるを知り、大に驚き、また山中に入り、夜に乗じ潜に出でゝ民家を訪ひ偽りて長岡藩士と称す、主婦一人在りしかば偽りて農夫の装を為しその家に宿す、しかれども地理を知らざれば身を脱するを得ず、止むことを得ず、翌九日役夫に雑はり終日西軍の運搬を為し、十日天未だ明けざるに浦瀬を遁れたるが、すなわち亀崎村(浦瀬の東北一里強に在り)西軍哨兵の誰何する所と為りて追跡せらる、千代運を天に任せ疾走して椿澤村(亀崎の東北に在りて近し)米澤の哨兵線に至りその顛末を告ぐ、これにおいてその本営に誘われ懇遇を受け即日見附に昇送せられ十二日橡尾に帰るを得たり、千代の浦瀬に在るや、密かに西郷、有泉の消息を探る、村民云う、東軍の兵士二人浦瀬の山中において路を失う、西兵四人赴いてこれを捕えんとし互いに刀を揮って戦い、西兵ついに東兵一人を殺し、一人を捕え、これを浦瀬に斬る、これ会津藩士なりと、けだしこの二人は西郷、有泉なるべし、浦瀬に在りし西軍は薩、長、芸州、尾州、加州、高田、松代等の兵なり、西郷、有泉が千代を助けんとして、ついに敵手に斃れたると、千代が危難の間に在りて二人の厚誼を感じ、その消息を探りしとは人皆これを称揚したりと云う〔西記〕。}

 この日、米澤兵、衝鋒隊、遊撃隊は中之島に守り、長岡兵、朱雀四番士中隊、砲兵隊は午の刻頃中之島を発し申の下刻を過ぐる頃見附(村松の封地)に至る、糧食は村松藩より提供せり〔西記〕。

朱雀二番寄合組隊長は北野村を発し島崎村に至り胸壁を築いて守る〔西記〕






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/05(火) 17:38:59|
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大口の役(長岡及び其の付近の戦)

大口の役(長岡及び其の付近の戦)

 六月七日東軍長岡兵、米澤兵は暁天大口(大曲戸の西に在りて近し)に進撃したるが、正午頃米澤兵敗ると聞き、朱雀四番士中隊、砲兵隊赴き援く、米澤藩三十目和銃隊と称する一隊は奮戦諸隊に冠たり、我が兵は撒兵と為り田畝大口村の焼址とに進んで戦う、敵弾雨注我が砲兵隊これに応戦す、西兵は猿橋川を隔て十二潟村(大口村の西南に在りて近し)よりもまた砲撃す、朱雀四番士中隊一小隊を止め、その他は大口村の左側に廻り米澤兵を励して戦う、たまたま弾丸杉浦佐伯が手にせる軍扇を貫く、砲兵隊一門司令官原幾馬、戦う毎に頭を手巾に包みたり、人その故を問へば幾馬いわく、進撃する時、銃声を聞けば畏怖の念を生ずるを以て頭を覆うなりと〔七年史〕、河井継之助諸隊を励していわく、日没を期して功を奏せよと、東軍勇を鼓して奮戦す〔河井継之助伝〕、酉の上刻を過ぐる頃両軍交々退き、我は守を置き、兵を中之島に収む〔結草録〕、この役長岡の士某、猿橋川の前岸に西軍の虚舟あるを目撃し、我が軍を渡さんと欲し、弾丸雨注の間単身水に投じ泳ぎて前岸に至り舟に手を着けたる時、弾丸に中りて死せり、衆皆その勇敢を証す〔結草録〕。

朱雀二番寄合組隊、地蔵堂を発し北野村に陣す〔西記〕。






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  1. 2013/03/05(火) 11:23:54|
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島崎の後役(長岡及び其の付近の戦)

島崎の後役(長岡及び其の付近の戦)

 この日島崎村の方位に当り砲声を聞く、時に大和田村の守兵報じていわく、西兵出雲崎より来ると、暁来鎮将隊、桑名兵は輿板方面に戦いしが、午後使いを佐藤織之進に遣わし、弾薬すでに尽きて戦うこと能はざれば急に兵を出して敵背を衝かんことを請う、これにおいて寄合組隊、水戸兵、荘内兵一小隊、合わせて二小隊を率い馳せて夏戸村(三島郡内にて島崎の東北一里弱の所に在り)より山地に回りしに戦正に酣なり、水戸兵急に島崎村後方の山上に登り臼砲を連弾し、その他の兵は撒兵に展開して烈しく乱射す、西軍兵を分ち夏崎村の林間に潜伏してしきりに防戦す、桑名兵勢に乗じて戦う、会々結義隊々長渡部英次郎来りてこれを援けたれば西兵動揺して走る、東軍これを追撃し、日すでに暮れるゝを以て兵を島崎村に収む、この日多く弾薬を鹵獲したるが、これを桑名兵に贈りたり、この戦に東軍は一兵を損せず〔西記〕。

 六月三日佐川官兵衛は河井継之助と共に三条に至りしが、継之助の先見違はず、見附の西軍は、すでに押切(信越本線の押切駅これなり)方面に退き、東軍一兵を動かさずして見附に據り、これより東西両軍全く攻守勢を異にするに至れり〔河井継之助〕。

 今町大捷の後東軍兵気すこぶる振るう、すなわち本営を見附に置く、しかして西軍は塞を列すること出雲崎より山麓に至り、東軍は志戸橋(三島郡の海岸にて寺泊と出雲崎との間に在り)より橡尾に至り、連亘十数里北越を横断し相持して日夜砲戦を交え勝敗決せざるもの五十余日に及べり〔河井総督碑文、続国史略後篇〕。

 六月四日東軍米澤兵、長岡兵は片桐(信越線見附駅より東北半里許に在り)より傍所(信越線押切駅の東北半里許に在り)に進む、西軍鹿熊(押切の東に在りて近し)を発し刈谷田川を隔てゝ砲撃しその勢猛烈なり、西軍はここに対戦する間に福井、大黒(両所共に古志軍新組村に在りて互いに近し)の方面に堅壘を築かんとす、夜半米澤の二小隊、長岡兵潜に河を渡りて敵営を衝く、また長澤(古志郡長澤村の小字)に屯せる長岡兵二隊、我が兵、米澤兵共に杉澤に進みついに橡尾に入る、これ今町の役後赤坂(長澤の両南一里弱に在り)杉澤の両軍ことごとく退きしに由るなり〔河井継之助〕。

 この日朱雀二番寄合組隊半隊頭坂井源八郎、教導志田貞二郎山を下りる東山寺に至る、西兵すでに走る、これにおいて兵を整い見附に至り弾薬銃刀等を鹵獲し加茂の本営に送致す、この夜兵を漆山村(鹿熊の東南に在りて近し)に出し夜半過る此ひ見附に退く〔西記〕。

六月五日傍所口の戦ますます烈しく長岡の諸隊これを援く〔河井継之助〕。

 六月六日西軍福井、大黒の壘壁成るを以て鹿熊近傍の西軍猿橋川七軒(共に長岡の北に在り)方面に退く、よって米澤の六小隊、村松兵二小隊、長岡の数隊は押切、大曲戸、五百刈、品の木、百束(これらの村落は長岡の正北より東北に連なり二里以内に在り)等の方面に布陣を進む〔河井継之助〕。

朱雀二番寄合組隊は見附を発し夜半過ぐる頃地蔵堂(三条の西二里半に在り)に至る〔西記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/04(月) 11:46:51|
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今町の戦(長岡及び其の付近の戦)

今町の戦(長岡及び其の付近の戦)

 六月二日東軍は今町、中之島および安田、横道、猫口等の西軍を撃攘せんとす、我が砲兵隊は拂暁鬼木新田に至る、市岡砲兵隊砲手七人、長岡の陶山左右平隊および槍手一小隊、衝鋒隊一小隊は古屋佐久左衛門これを率いて中之島口に進む、時に大水の後にて道堪え堤防崩れて田畝海のごとし、すなわち舟筏を連結し刈谷田川を渡り、我が砲兵隊は真弓村に備え、衝鋒隊、長岡の槍手半隊は前方の堤防に據り、半隊は右側の林中に在り、衝鋒隊、長岡の槍隊は先鋒となり進んで戦う、長岡の砲兵隊(齋田、田中)および我が朱雀四番士中隊、砲兵隊は河井継之助自らこれを率い安田口より今町の背後に出て、大川、小島、九里、篠原の諸隊は山本帯刀これを指揮し、坂井口より今町の本道に向って倶に進軍す、また本道に向いたる牽制軍は力めて戦線を拡張し、山王村端より大面の山麓におよび盛んに陣容を張りて猛進せしに、西軍はこれを主力と認め急に諸隊に令して諸壘を援けしむ、我が砲兵隊杉浦佐伯、長岡の陶山左右平と共に敵状を偵察し、進撃の機方さに熟するを知り、陶山は長岡の兵を誘い、杉浦は衝鋒隊を励まし、全体抜刀吶喊して進撃し、猫口に至り火を放ち、東軍は猫口を略して砲撃し、西軍は中之島に退いて応戦す、真弓村に備えし我が砲兵隊もまた進んで猫口の前方に至り、また安田口の我が諸隊は砲兵隊一門司令官原幾馬、朱雀四番士中隊甲士松本濤江、笹沼金次郎、下平栄吉、飯田秀三郎等先登し直ちに中之島に入らんとしたるに、西兵乱射すこぶる烈し、衝鋒隊の将今井信郎先登して西兵二人を斬り躍って敵中に入る、我が兵次いで進む、砲兵隊甲子渋谷源蔵、馬場文蔵、本郷二郎等西兵二人を斬り、その他諸隊斬獲多し〔結草録、河井継之助伝、七年史〕。

 西軍は今町背後の堤防に無数の壘壁を築き地形の高きを恃み、薩、長、尾州、高田、松代、富山等大軍の精鋭をここに集めたるが、東軍の諸隊これを攻撃す、長州の将三好軍太郎兵を指揮して能く戦い、砲煙天を蔽い弾丸雨注して又進むこと能はず、この時継之助は官兵衛を顧みていわく、この壘を抜く尋常手段の能くする所にあらずと、よって令して発銃を止め、朱雀四番士中隊、我が砲兵隊、長岡兵二百余人をして各五十歩乃至百歩堤上を疾駆し、しかして堤腹に息ひ、かくの如くにして漸く敵壘に近づかしむ、会々長岡の銃士隊々長齋田徹敵弾に中りて斃る、木村文吾これを介錯す、継之助これを見て大呼諸隊を激励していわく、齋田死せり諸子何ぞ死せざると、衆皆感奮殊死して壘壁に迫り、、相距ること僅かに三四間、諸隊一斉に銃を執って猛射し壘中に闖入す、西軍潰走し死傷算なし、東軍火を今町に放つ、時に本道に向いし諸隊は各西軍を破り共に相会するを得たり〔河井継之助伝、七年史〕。

 三面の軍ことごとく今町中之島に入るや、長岡の兵は勝に乗じて長駆直ちに長岡城を回復せんと欲し、将士の意気ほとんど当るべからず、継之助は断乎としてその議を退け、将士を慰諭していわく、すでにここに占據する上は数日を出でずして、見附方面の敵もまた自ら崩れん、徒に兵を進めて腹背に敵を受くるは策の得たるものにあらずと、よって朱雀四番士中隊、砲兵隊、長岡兵半小隊をしてこの地を守らしめ、全軍をことごとく坂井安田の方面に収む〔結草録、西記、河井継之助伝〕。


この戦に大砲一門、大砲弾薬一棹、小銃弾三棹、雙刀等を鹵獲す〔西記〕。

 前夜長岡兵は葎谷よりし、村松兵、衝鋒隊、我が第二遊撃隊は森町よりし、この日熊ノ袋の西兵を攻む、西兵胸壁に據りて戦いたるもついに支えず、営を焼きて二日町の西兵に合す、これより西兵はことごとく橡尾に據り、赤坂、見附、小栗山、帯織、山王の西兵は長岡を退く、八町沼、福島村より大久保村に至るまで信濃川に臨み、東西十余丁堤防に壘を築いてこれに據る〔七年史、西記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/03(日) 12:39:00|
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指出の戦(長岡及び其の付近の戦)

指出の戦(長岡及び其の付近の戦)

 この日東軍米澤、山形および我が砲兵隊大面に出て帯織村に陣し指出村に戦う、午後西軍大に加わり米沢、山形の兵乱れて大面に退くや西軍の追撃甚だ急なり、会々衝鋒隊赤装の新鋭来りて突撃し西軍たちまち敗退す、米沢、山形の兵反戦し砲兵隊甲子佐々木八次郎は薩兵一人を斬る、西軍火をその陣せる三村に放ちて遁る、衝鋒隊その地に據る〔七年史、西記〕。

 河井継之助は昨日(二十七日)密かに橡尾方面に在る八小隊長に令し、守兵を止め、急に加茂の本営に会せしめ、諸隊長に告げていわく、長岡城を回復せんと欲せば先づ今町を攻略せざるべからず、しかるに西軍主力をこの地に集注し、その勢侮り難し、ゆえに一隊を本道に進め、盛んに軍容を張りて西軍の精鋭をこの方面に誘い、別軍を鬼木方面に進め、一は河西より齋しく進んで西軍の虚を衝かば捷利疑なし、今や西軍は嬰守の策を執り偏に援軍の至るを待つ、我より機先を制するにあらずんば攻守終に勢を異にするに至らん、兵機失うべからず、諸君熟慮して答えよと辞色甚だ決す、諸隊長熟議してこれを賛成す〔河井継之助伝〕。

 五月二十九日継之助部署を定め、山本大隊長一隊を率いて本道を牽制し、継之助自ら一隊を率いて間道を突撃せんと欲す、発するに臨み衆に告げていわく、今町の西軍の主力を集注する所なり、今町破るれば見附の西兵はこれを守ること能はざるべく、見附我が手に帰せば橡尾の西兵もまた自ら支えざるべし、かくの如くにして橡尾我が軍に帰せば彼地は我が封内なり、我が軍仮令速に長岡城を回復すること能はざるも、彼地に冬営し厳冬積雪の候敵軍の困厄に乗じ機を見て城下に突進し一挙に彼らを撃退せん、これ余が最後の策なりと、諸隊人ごとに金五両を輿へていわく、各自国家の為に命を致す旦夕を計らず、諸子三条に至らば半宵の快を買うもまた防げず、ただ明朝卯の刻を期して宿営に帰り令を待てと〔河井継之助伝〕。

 この日米沢兵再び小栗山の西軍を攻む、衝鋒隊二中隊昨日薩兵の退却としたる路より小栗山の背後に出でんと欲し帯織村に進む、西軍壘に據って砲撃す、東軍田畝の間に伏して戦いついに西兵を村内に撃退す、薩兵刀を揮って返戦し東兵少しく乱る、館辰三郎奮勤突進西兵三人を斬るも鈴木蠖之進、高橋一、三浦某等共に進んで大に戦い、西兵支えず火を村落に放ち大面に退陣す〔七年史〕。

五月三十日河井継之助は大隊長山本帯刀七小隊大砲二門を率い加茂の本営を発して三条に宿す〔河井継之助〕。

 六月朔日佐川官兵衛、古屋佐久左衛門、朱雀四番士中隊、砲兵隊、衝鋒隊二隊は辰の刻頃加茂を発し三条に至る〔西記〕。河井継之助、萩原要人、長岡の諸隊(池田、齋田、本宮、田中)を率いてこれに合し、三条を発し尾崎街道より撤宵進撃す、会々信濃川大に漲り人家を流し防堤を壊り、加ふるに暗中行路の艱難危険言ふべからず、寅の刻頃、鬼木新田に次す〔西記、河井継之助伝〕。

 長岡の山本帯刀、花輪求馬、山本、大川、小島の諸隊を率い、米沢の柿崎隊並一小隊は帯織、山王に次す〔河井継之助伝〕。

我が砲兵隊はこの夜、三条を発し夜舟にて五十嵐川を溯る〔西記〕。

青龍三番士中隊中隊頭木本慎吾は兵を率いて赤坂山の西兵を攻めたるも抜くこと能はずして退く、この日、根小屋の東軍は小島谷に出て阿弥陀に至りしも、西軍すでにこの地に據りたれば、路を転じて雷塚に至り、備後山の西軍と戦い利あらず、兵を根小屋北野に収む〔七年史〕。

朱雀二番寄合組隊は兵を大面村切通に進め、小隊を指出村に出して砲戦す〔西記〕。
 





卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2




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島崎の前役(長岡及び其の付近の戦)

島崎の前役(長岡及び其の付近の戦)

 この時新遊撃隊長佐藤鐡之進、結義隊長渡部英次郎、井上哲作、荘内の石原多門、安部藤蔵等、寺泊に陣して出雲崎の西兵に備えしが、井上哲作、松宮雄次郎(越後観音寺村の俠客なるが、我が藩に同情して、その子分四十余人を一団とし号して聚義隊と云い、我が軍に加わる、観音寺は西蒲原郡弥彦村の大字なり)等今朝より輿板方面の砲声殷々たるを聞き、その攻戦の急なるを知り、相議して、今我が兵を島崎に出してこれを援け、且つ出雲崎より輿板の援路を絶たば東軍捿を得ること必せり、速に兵を出すにしかずと決し、これを佐藤織之進、石原多門等に謀りたるに、織之進は軍事奉行の令あらざれば容易に兵を動かすべからずと云いて応ぜず、多門もまた従わず、安部藤蔵一人これを賛成す、これにおいて関場辰治(関場は町野隊の半隊頭なりしが、町野隊は小出敗戦の後六十里越を経て会津に入り、八十里越より再度越後へ出でし由なれば、隊の一部を関場に附して寺泊へ分遣せしにや、あるいはこの頃関場は他隊へ転任せしにや詳ならず)、井上哲作、渡部英次郎三人斥候と称し、松宮が聚義隊四十七人を率い、水戸亡命の士齋藤新之助、村上亡命の剣客遠藤海蔵を伍長とし、結義隊一小隊と共に午前寺泊を発し間道馳せて島崎に向う、時に西兵また輿板の急なるを覚り、出雲崎より富山、高田の兵を発し、輿阪を攻むる東軍を横撃せんことを謀り、高田兵は島崎駅端に止まり、富山兵は駅中の寺院に入りて餐を傅ふるに逢う、関場、井上、渡部等密に島崎駅北の山上に登り、松樹の間よりこれを目撃し、役夫を戒めて銃声起らば喊声を揚げよと命ず、会々小銃一発を合図に我が軍喊声山谷に震う、我が軍たちまち白煙糢糊の間より刀を抜いて高田兵に突撃したれば、高田兵狼狽して走り返戦する者わずかに七八人、水戸亡命の士齋藤新之助は高田の銃隊指図役伊藤光次郎を斬り、関場辰治は高田の黒澤六郎の首級を獲たり、また進んで井上、安藤等の諸隊と富山兵を撃つ、関場の隊兵屯宮勘之丞寺門より入り、富山の隊長関澤六左衛門を斬り余兵皆走る、西兵なお駅中に潜匿すと聞き、火を放ち薄暮軍を収めて帰る、これを島崎の前役とす、この日この挙なくんば輿板に向いたる鎮将隊は西軍の横撃を免るゝこと能はざりしなるべし、この戦敵の首級七人を獲、捕虜十一人、大砲一門その他鹵獲品多し〔累及日録〕。





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  1. 2013/03/01(金) 17:48:26|
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輿板を襲う(長岡及び其の付近の戦)

輿板を襲う(長岡及び其の付近の戦)

 五月二十八日東軍桑名の雷神隊は、鹽入峠の西兵を攻めて抜くこと能はず、転じて本道に出づ、我が鎮将隊および村上兵進んで再び鹽入峠を攻む、桑名の兵は転じて北野に出て直ちに西軍の背後を衝かんとせしも、西軍は已に島崎に入るを聞きて、その半隊を止めてこれを扼し、火を根小屋、荒巻に放ち進んで鹽入の右に出てたれば西軍顧みて動く、我が兵これに乗じて疾撃これを走らす、桑名兵吶喊して又大山を衝く、時に本道の東兵方さに長州の奇兵隊と當之浦に戦い、北野にもまた戦起こり、三面の砲声天地を動かす、桑名兵大山を抜き追撃して陣峰の西兵と戦い退いて大山に據る、会々島崎の西兵至る、桑名兵撃ってこれを走らす、西軍また陣峯に據り北は大山に臨み東は本輿板に臨む、時に東軍すでに當之浦を抜いて輿板に迫るも、陣峯の西兵に俯撃せられ桑名兵敗れて當之浦に退く、夜に至りて北野の東軍、西軍を破りて来り会す〔七年史〕。





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