いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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猪苗代城の陥落

猪苗代城の陥落

 八月二十二日西軍大挙して猪苗代城を襲う、城代高橋権太輔衆寡敵せざるを慮り、見禰山津神社の社司櫻井豊記をして神体を奉じて若松城に赴かしめ、火を社殿と城寨とに縦ちて東方軍事幌役和田八兵衛また専使をして轎を飛ばして急を報ぜしむ〔若松記、七年史〕。

 これより先、藩相白河口総督西郷頼母職を罷められて家に在り、ここにおいて命じて軍事に従はしむ、これにおいて西郷頼母、田中大海、神保内蔵助、萱野権兵衛、梶原平馬および佐川官兵衛等登城し防御の部署を定む〔若松記、栖隠記〕。

猪苗代上街道戸の口方面
 佐川官兵衛は白虎、奇勝、回天、敢死、誠忠の諸隊を督し十六橋を徹して防御すること。
 
猪苗代下街道大寺方面
 萱野権兵衛は敗兵を収めて猪苗代に據るべく、桑名兵二百余人これに属し日橋を焼いて防御する

冬坂方面
西郷頼母は水戸兵百五十人を率いて防御すること。


 西郷勇左衛門守衛総括と為り出でゝ蚕養口を巡視せり、時に市中すこぶる動揺す、すなわち町奉行日向左衛門をして市中を戒めて動揺することなからしめ、且つ市中の壮丁に命じて糧食を戸の口、瀧澤等の陣営に運搬せしむ。

玄武二番足軽隊中隊頭遠山舎人隊兵を率いて市中を巡邏す〔若松記〕。

別楯備組々頭安藤文助以下馳せ集る者二十七人、すなわち城の北追手を守らしむ〔若松記〕。

西郷頼母は水戸兵五百人を率いて冬坂(一に脊灸と云う)を守る〔若松記〕。


 
 



卷八 会津城下の戦 其一 自八月十九日 至八月二十四日
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/03/31(日) 14:51:42|
  2. 会津戊辰戦争史2
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西軍の侵入

西軍の侵入

 初め西軍の会津に侵入せんとするや、参謀大村益次郎の計画せる枝葉を刈りて根本を枯らすの策に據り、一方日光、今市、宇都宮を控制し、主として白河を衝きて漸次仙台、米澤に兵を進め、別に海路より兵を東海岸に送り平、棚倉、三春、二本松を攻略し、一方は海陸より兵を北越に出し西軍に抗する諸藩を破り、しかるに後、一挙して四境より会津に迫らんとするにあり、参謀土佐藩板垣退助は初めこの方略に従い土佐軍を率いて野州に出兵したるも、地勢嶮岨にして進軍に便ならざるのみならず、この地に向かいし会津軍また屈強にして容易に破り難きを察し、且つ別に見る所あり、これにおいて肥前兵と代わり退助はその軍を率いて白河を出で、諸軍と共に棚倉を陥れ、反覆表裏の三春を従い、その嚮導によりて諸軍と共に二本松城を屠るや、八月十九日退助は参謀薩藩伊地知正治と相議していわく、会津は根本なり、仙台、米澤のごときは枝葉なり、枝を刈りて根を残す、ゆえに従って滅ぼせば従って起る、早く根本を絶たば枝葉随って落ちん、今や会津は兵を四境に分ち、その中央は空虚なり、しかして若松の降雪は今より三十日を出でず、降雪の後は容易く進むを得ず、兵を進むるは今日に在り、機失うべからずと、これにおいて軍議を開き西軍石筵口に出で方成峠(勝軍山)を陥るも、東軍猪苗代を焼き、更に退いて十六橋を破壊し瀧澤峠において防禦せば西軍の勢頓挫の恐れあるを以て、中山口より進攻すと声言して東軍をして、その方面に力を傾けしめ、その虚に乗じて勝軍山を攻陥し一気に新軍するに決し、すなわち陽はに全軍中山口より進討すべしと声言し、実はその主力たる薩、長、土、大垣、大村三千余の大軍は八月二十日二本松を発して石筵に向かい、しかして薩、長、大垣等の別軍は本営より中山峠に向かって進み、その日両軍は会津街道玉ノ井村において相会合したるを以て、明日総軍勝軍山に進撃せんとす、この時勝軍山を守れる東軍は伝習隊(旧幕脱走兵)を前面とし、仙台兵、我が兵を右翼とし、二本松兵を左翼とし、山を下り奮戦して西兵を追撃すること十余町、西軍は左翼の兵を逐うて山に登り却って前面の隊後より撃つ、伝習隊すなわち山上に退き西兵を駆逐せんとす、前面の西兵また進み来りて来撃す、伝習隊苦戦利あらず、ついに山上の営を退く、この戦に伝習隊頭取浅田麟之助は重傷を破り、兵士の死傷およそ三十人なり、東軍思えらく、明日西兵必ず来り襲わんと、その部署を定め西兵来らば萩岡の砲台にて木砲二発を放ちて報ずるを約す、よくよく勝軍山の地勢たる山岳相連り、その間、平垣の処ありて二本松城に臨み、樹木稀疎にして野草茫々たり、防御線は南北に亘りて三里におよび、小径すこぶる多く大道の通ずるものなし、西北より東南に険谷あり、これを勝沼と云い、東に出て南に近きを萩岡と云う、中央高き岡陵はすなわち勝軍山なり、皆壘壁を築く、高く北にそびえるを硫黄山と云い、その麗に接するを勝岩と云う、会津の四境は二十の道路あり、何れも険にして守備するに便なり、ただ、この一道のみは拡々たる山野にして彼と我とその兵数略々同じからざれば断じて守る能はず、しかるに東軍は、わずかに六七百人にして新募の農兵は、その半に居り、その他もまた多くは客兵なり、素より勝算なしといえども、強いてこれを守るに過ぎず〔七年史、南柯紀行、大垣藩奥羽征討史、水島純談〕。

この日、太田原藩主太田原鉎丸の臣太田原一学左の書を若松城に贈りて忠告す〔七年史、遺老筆記〕。

治乱は人の所為にあらず天明然らしむると雖も今尊君朝敵と成て干戈を動かすこと是れ尊君の方寸より出るに似たり然らば干戈を治めんことも尊君の方寸によらざらんや尊君今官軍に抗するの事其情実は不識と雖も粗察する所を以て言はんに基元因は伏見戦争にあるべし徳川公奏聞の故を以て参内の折節薩長の徒路を要し是非の談判より終に発砲既に暴に及ぶの時尊君乃ち徳川公君臣の間不得止夫より頻りに官軍に抗し不憚錦旗朝敵の名顕るゝに至れり然りと雖も尊君徳川家への尽忠天下誰人か不識んや又対天朝精忠の奉職既に先帝の御仁恵有りしこと是れ亦人悪の知る所なり然れば尊君朝廷へ異心なきこと不待言語明なり玆に於いて窃に察するに尊君如此精忠の意あるを何の故を以てか薩長の徒深く拒み恐れ多くも主上御少年に在しますを以て各随意の処置を言上し関西の諸侯を誣て直に官軍の名を輝し尊君の国界へ発向し一の応接にも不至襲撃せんとの勢に一国憤然不止に至り益抗拒し防戦の用意則其故を以て奥羽の諸藩も即尊君の真意難黙止同盟し終に方今の大事件に至りしなるべし依て僕熟々顧ふに言理あり然らずんば奥羽の諸藩争うてか同盟せん然りと雖も此に又不得止の説あり天理の不動も勢の織なるには如何ともすることなし今尊君の言は理なり官軍は勢なり如何となれば官軍朝命を奉戴し来る勢必定不可止なり尊君の強国なるを以て奥羽の各藩同盟せは争でか容易に戦止べけんや官軍も亦不能止然る時は皇国一時悉く疲弊せんこと掌中に在り然て後万一も外国の患等あらば誰か国力を尽くす者あらん其期に至らは実に御国体に拘り可申必しも此儀無しとのみ可申や懼る可きの第一ならずや天朝深く被為悩宸襟候は此一大事にて又万方の罪は被為在玉体候と迄被為遊綸言候は誠に勿体なきことにて難有次第なり如何にもして早く天下を御平治万民塗炭の疾苦を救せられ度と旦暮被為廻叡慮候段亨に以て恐懼尊君真に天下へ御奉公の御志願に候はゞ抗官軍の理はありと雖も天下の大事に比さば私情ならん願くは天下の為めに其理を被為忍迄官軍へ抗するの罪を謝し其実効相立ば即ち過て不憚改の金言天朝元より干戈を止んこと御志願に候へば速に御許容あらんこと必定なるべし左あらば上は抗するときは以怨報怨以火消火が如く官軍の勢不可止終に前件のあるいは立至り尊君の国亡んのみならず皇国をして御安危に至らしめんこと豈君子の意ならんや仰き冀くは理勢の域を分弁し国家の為めに憤りを止め大義を明論し速に謝罪の道を立んこと伏せて奉懇願候是即ち治も亦尊君の方寸によるにあらずや誠恐誠惶頓首謹言
 太田原鉎丸家来
 太田原一学愛敬


 八月二十一日暁霧濃かなり、卯の刻、西軍来り攻む、萩岡の前営大砲二発を放ちてこれを報ず、勝軍山より望見すれば西軍二道より来る、一は南方の渓間よりし、一は北方の渓間より、一は北方の山上よりす、猪苗代隊田中源之進は勝軍山に赴き、旧幕軍の総督大鳥圭介は大隊および二本松の兵を率いて勝岩に登り北方の西軍に当る、先づ幕将本多幸七郎、大川正二郎兵を督して渓を隔てゝ連なりに砲戦す、別に第一大隊および新選組ありて勝岩の下に戦う、砲声雷の如し、巳の下刻、萩岡支ふる能はず火を放ちて退く、火延いて野草を焼き西兵勝岩に進むことを得ず、すなわち路を転じて南方に進む、勝岩の砲やや衰ふ、よって第二大隊の中一小隊を分ちて勝軍山を援けんとし上ること十町許、砲声ようやく近く東岸退却せんとす、辰の刻頃西兵間道を潜行して背後の丘上に来り迫る、圭介等残兵を指揮して戦わんとす、たまたま本営火を失う、東軍ついに潰走し止むべからず、西兵また背後を襲い飛弾雨のごとし、時に胸壁に止まる田中源之進、北原半介、大鳥圭介等数人のみ、相議していわく、今徒に此に死すべからず退きて後図を謀らんと、けだし猪苗代城に據らんと欲するなり、西兵迫り来りて連なりに狙撃す、東軍行々防戦して退くこと二里余、すなわち林間に笛声起こる、衆思えらく我が敗兵ならんと、進みてこれを見れば西兵の間道を走り来りて我が退路を要するなり、すなわちその乱射する所と為り、東兵咄歎身を躍らして草間に伏す、草深くして人を没し皆相失す、半介等懸岸を攀ぢ荊棘を分け備さに艱難を侵し、明日辛うじて秋元原に至り、大鳥圭介、二本松藩相丹羽丹波、田中源之進等に再開し、正午共に秋元原を発し若松城に入るを得たり〔七年史、南柯紀行〕。






卷八 会津城下の戦 其一 自八月十九日 至八月二十四日

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  1. 2013/03/31(日) 11:56:55|
  2. 会津戊辰戦争史2
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塩の供給

塩の供給

 次に会津領において需用する塩は多く新潟より供給するものにして一箇年約三万五千俵を要す、ゆえに新潟にして一朝敵の據る所と為らんか、塩供給の道を断たるゝを以て開戦の初めにおいて先づ新潟を占領せざるべからず、これ町野主水の建議する所なり、藩これを容れ主水を蔵入郡奉行に任命し越後に赴きその実況を視察せしめたり、しかるに当時城中天守閣窖蔵、三之丸倉庫および高久、津川に貯蔵せる塩は約三万六千俵に達し、別に若松市中および各地に販売用として有するもの、その他領地外より購入の見込みあるもの通計三万余俵を算するに至りたれば、塩は戦争終りを告ぐるまで少しも欠乏することなりき〔藩記録、町野主水談〕。





卷七 会津の形勢会津辰戦史2

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  1. 2013/03/30(土) 09:02:40|
  2. 会津戊辰戦争史2
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城中の糧食

城中の糧食

 次に糧食に就いて言うに、米は平時城内貯蔵の外に城南外郭内に米庫俗に十八倉と称する倉庫あり、五ノ丁にも米庫あり、開戦の初め十八倉は特に米を充実して他日の用に備ふ、すでにして敵兵次第に国境に迫るにおよび、軍事奉行飯田兵左衛門は建議して城外諸倉の米を城中に搬入し以て非常の変に応ぜんことを請う、庸使等これを以て兵左衛門が徒らに不祥の言を放ちて軍気を阻喪するものと為し、交々これを君前に誣謗し、ついに兵衛左門は軍事奉行を免ぜられ、玄武足軽隊中隊頭に遷さるゝに至れり、幾ばくもなく八月下旬敵兵城下に侵入するや、兵士の入城に次ぐに藩士の家族争うて城中に入るものと相待って、ついに数千の人口を増し、城中の倉米次第に減少を告ぐるのみ、この時十八倉の陰に敵兵潜居して城兵を狙撃するの恐れあるを以て藩相梶原平馬は兵士に命じて倉庫を焼却せしめたり、これにおいて人皆始めて兵左衛門の先見に服するも、あぁ、また遅かりき、我が公は兵左衛門の材識大に用ふべきを知り、直ちに軍事奉行に復任せしめのみならず、余恩を延いて、その子大次郎に及べり、八月二十三日我が公瀧澤より帰城三之丸を通過せらるゝや、この日敵兵城下に侵入したるを以て、藩士の家族老侯幼婦女相率いて城内に避難し、旁午雑踏ほとんど収拾すべからず、しかしてこれを指揮配置する者なし、我が公馬上より従臣中に兵左衛門の子大次郎を看出し、自ら携ふる所の采配の一片を割取し大次郎に輿へていわく、この場整理の事、一に汝に命ず、すなわちこの摩片を以て証と為すと、けだし兵左衛門先見の功を嘉みしその子を不時擢用せられたるなり〔内田藤八談、海老名郡治談〕。

 越えて九月に至り城中蔵米ますます欠乏を告ぐるを以て、使を南方出陣の総督佐川官兵衛に発して糧道を開かしむ、これにおいて官兵衛は諸隊をして米穀蔬菜に徴発せしめ、社倉米と共にこれを城中に入れ、以て開城に至るまで辛うじて食用を弁ずるを得たり。

{会津藩の社倉は土津公の時承応元年朱子の法により備荒の為に設置せらる、当時金拾両に米七拾参俵の割にて七千俵購入貯蔵せしに、寛文三年に至り各郷貳拾参ヶ所に米倉を設置し、在米増加貳万参千俵となり、これを各代官に管理せしむ、その後寛文十一年常平倉に改め糴糶の法を以て米値の調整を施行せり、土津公家訓に『社倉為民置之為永利者也、歳飢則可発出済之不可他用之』、斯く、社倉米は飢餓の際民を済ふ、外これを使用すべからざるものなれども、国家危急の時なれば非常手段を取りしなるべし。}






卷七 会津の形勢会津辰戦史2

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  1. 2013/03/30(土) 08:58:13|
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金物の献納

金物の献納

 軍国財政の窮乏は一方において、藩士をして任意に金物を献納せしむるの路を開くの止むを得ざるに至れり、前記の通貨鋳造の原料として金銀を以て装飾せる物品を献納せしむるの外、現金は勿論の事、衣類その他諸物品をも受理したれば、藩士中あるいは物品を売却して現金と為して献じ、あるいは現物を献じ、中には一家にして数個の行李に諸品を充填して献じたる者もあり、これら諸物品は、あるいは各諸侯が家族家臣を率いて入城したる際日常に供し、あるいは傷病者収養の病院用として至大の便益を得たり〔内田藤八談、著書所聞〕。







卷七 会津の形勢会津辰戦史2

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  1. 2013/03/30(土) 08:50:48|
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通貨の鋳造

通貨の鋳造

 我が藩は六年間京都の守護に国力を消耗し財政の窮乏甚だしきを以て、いよいよ西軍来り迫りこれと対抗するに当りその軍費を支辨する為、新に財政を看出さゞるべからざるの必要に迫れり、これより先、我が藩京都守護職の際藩費の不足補充の用に供せんが為、金銀貨鋳造の特許を幕府に請願し閣老の允下証を下付せられたるも未だ実行に至らざりき、これにおいて若年寄山川大蔵は、この特許に基き通貨を鋳造せんことを藩に建議して容れられ、奉行海老名郡治と共にこれを擔任し、先づ公命を以て藩士をして任意に金銀装飾品を納めしめたるが、到底その原料に充つるに足らざれば更に庶民または領地外より金銀を買収してその原料に供せり、元来通貨の鋳造は金山奉行の職掌に属すれども、当時若松市中金工にして、この事を伝聞し、その鋳造を出願したる者あり、よってその中より選抜して特に許可し、城中西出丸に鋳造所を設け、該金工等をして二分金およびその他を鋳造せしめ、その鋳造高の二分の一を上納せしめたるが、上納六十万両に達し大に守城前後の金融を円滑ならしむることを得たり、開城後通貨偽造の罪を以て政府より処罰せられたる者ありといえども、これらは城中鋳造以外の犯徒にして、城中において鋳造に従事せし者は幕府の特許に基きたるものなれば固より法に問はるゝことなかりしなり〔海老名郡治談、櫻田集〕。





卷七 会津の形勢会津辰戦史2

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  1. 2013/03/30(土) 08:28:14|
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客兵の入国を禁ず

客兵の入国を禁ず

 我が公の皇室に対して至誠謹慎なるや、独り藩士の激昂を制止戒飭するのみに止まらず、また戦略上非常の不利を忍んで客兵の我が国境に入ることを禁じたり、我が藩君臣は正月伏見、鳥羽に於いて薩長軍に挑戦せられて敗を取りし以来江戸を経て帰藩し、爾後四方防備に汲々せるは只来襲の薩長軍に対抗するの外他意あらざるなり、しかるに王師東征の声を聞きては闔藩君臣心を安ずる能はず、幸にこの際仙台、米澤の周旋により奥羽諸藩連合して我が藩の為に救解の道を講じ、我が藩は自ら顧みて何ら罪責を認めざるも、ただ徹底的に誠意を表せんが為に奥羽諸藩に依頼して降伏謝罪表を呈せしといえども、奥羽鎮撫総督府参謀世良修藏の為に峻拒せられ、ついに奥羽越三十一藩の攻守同盟と為り、なお太政官に哀訴建白したることは別に記述せし所のごとし、これ決して薩長の暴力に屈せんとするにあらず、王師に抗するの意なきを表するに外ならざるなり、ゆえに我が公は当時自ら屛居謹慎の際、客兵の国境に入り来るは朝廷に対して誠意を欠くの恐れありと為し、五月上旬大鳥圭介が軍を率いて会津領に入らんとするや、我が公は使を発して、その入国を謝絶せしが、糧食窮乏の愁訴により唯その入国だけを許し、後講和の道全く絶えたるを以て始めて参戦を許せり、しかして野州軍が日光神廟の兵燹に罹るを恐れ、東照宮の神輿を護送して会津領に入らんとせしに、これを拒みたるが如きも要するにまた此の意に外ならず(その後日光は西軍の據る所と為りしを以て、ついに同神輿の入国を諾せり)。

 次に水戸結城党市川三左衛門、朝比奈彌太郎、佐藤図書等七八人の兵を率いて来り応援したるが、当時我が藩は朝廷の恩命を持てる最中なりしを以て、水戸兵の国内に留まることを欲せず、厚謝温言その退去を求めたるを以て、水戸兵はその意を領し相率いて越後に赴けり、幾ばくもなく水戸藤田党の鈴木縫殿等一隊の兵を率い、結城党を追跡して国境勢至堂に来り、兵を屯して、その将校六七輩我が陣営に至りいわく、我ら藩命を受けてここに至る、願わくば結城党を交付せられんことをと、よって木村熊之進をして応援せしむ、熊之進直ちに水戸兵の屯所を訪うていわく、市川、朝比奈一行の幣藩内に来れるは事実なり、しかれども我は朝廷をして国に退去せしめたり、諸君もしこれを疑はゝ随意に国内を探索せよ、余は諸君の為に嚮導の労を執らんと、水戸の士は熊之進の言貌により疑惑、すなわち氷解せりといえども、そのまま帰国するは軽率なりと思いしが、一隊の士は熊之進に従い若松に至りしも、結城党の隻影を見ず、辞して帰国せり、却越後に入りし水戸兵は諸所の戦闘に参加し、越後退軍の後は、また会津に来り参戦せしが開城の後帰国せり。
 旧幕士古屋佐久左衛門の率いし衝鋒隊は三月九日上州梁田において西軍と戦い敗退して若松に来り、登城して二公に謁し市内輿徳寺において梁田戦死者の追悼法会を行いたる後、信越方面に赴けり、その後再び会津に来り戦闘に参加したるは溝和絶望の後なりき〔以上、幕末実戦史、手代木勝任、水島純談〕。






卷七 会津の形勢  会津辰戦史2

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  1. 2013/03/30(土) 07:58:44|
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諸侯客兵の来去

諸侯客兵の来去

 松平定敬朝臣は従臣数百人を率いて難を越後柏崎の封地に避けたりしが、後我が封内津川に移り、越後敗るゝに及びて若松に入り郭内輿徳寺に宿営せられ、前閣老板倉勝静朝臣は伏見の戦後本国に帰ることを得ず、その子と共に経て野州に入り、一旦西軍に自首して降りたるも、東軍宇都宮に入るに及びこれに身を寄せ以て若松に来り、徳山四郎衛門また安井八郎と称し天寧寺町淨光寺に宿営せられ、前閣老小笠原長行朝臣も家臣を従い白河の間道より会津に来り托し、三好寛助、山中静王、津毛魯輔などゝ変名し徒ノ町薬圓に宿営せられ、長岡藩主牧野忠訓朝臣は国陥るに及び老侯及び家族従臣と共に間行八十里越を経て会津に入り、郊外青木村建副寺に宿営せられ、阿部葆眞侯(棚倉城主正耆退隠後の称)父子は徒ノ町願成就寺に宿営せらる、その他上総請西藩主林昌之助主等の諸侯並びに竹中丹後守も前後来り投ず、貫義隊長松平兵庫頭、草風隊長天野花蔭もまた兵を率いて若松に来る、しかして大鳥圭介軍、古屋佐久左衛門軍および水戸兵の来去に就ては別に記する所のごとし、その他諸藩客兵は、あるいは単身、あるいは団結して一時会津に来る者すこぶる多かりしが、六月中、輪王寺宮の若松に来り尋いで白石に移らるゝや板倉、阿部諸侯は前後白石に入り、松平定敬朝臣は敵若松城下に侵入するに至り、別を我が公に告げて米澤に入る、その後奥羽の形勢不利に陥り、仙台藩西軍に降るに及び松平、板倉、小笠原諸侯並びに竹中氏は大鳥圭介隊と共に函館に航し、長岡侯父子は米澤において西軍に降りる、客兵もまた散亡し多くは告げずして去る、独り天野花蔭の率いる草風隊、天野電四郎の率いたる伝習隊の一部は我が軍と共に孤城を死守し、開城におよび慇懃に告別流涕して去れり〔松平家譜、徳川慶喜公伝、大鳥圭介伝、河井継之助伝〕。





卷七 会津の形勢  会津辰戦史2

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  1. 2013/03/29(金) 15:52:33|
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農町兵の募集

農町兵の募集

 戊辰の役会津藩において農兵の制を設けたるは工兵軽重兵を養成する為、これを農夫より徴集せしものなりしが、その適任且つ精勤者には帯刀を許し発銃を練習せしめたり、我が藩は伏見開戦以来四境防備の為、軍隊を派遣するに当り、それに要する農兵は各郡より男子二十歳より四十歳に至る身体壮健の者二千七百人を募集して四郡各組に分ち、しかして各組農兵の上に各村の郷頭、帳書、肝煎を置きて帯刀を許し、更にその上に藩士たる代官、支配役、張付および、その見習いを置きこれを指揮せしむ、しかしてその任に当る代官以下の役員の数は三百八十人にしてこれに上記の農兵二千七百人を合すれば三千八十人と為るなり、これ始めて農兵を設けたる時の大要なり〔農兵の事に関しては附録『農兵編成の計画』を見よ〕。

 農兵は初め農夫に限り募集する方針に基き、その練習用として村邑に砲銃、火薬等を貸輿せるが、農村の子弟は争うてこれに応ずる為に、兎角農業を怠るの傾向なきにあらざれば、各郡奉行より農兵に訓令を発して操銃の練習は成るべく農隙に行い、これが為に農業を放棄すべからず、またこの際乱を好むの徒農村に入り込み詭激の流言を為して民心を煽動するの恐れあるを以て、決してこれに感染せざらんことを注意せり、また猟夫のごときはその銃器を携帯する関係上便宜これを募集して猟師隊を編成し、この年四、五月の交すでに野州戦に従軍せしめたり、その他の募集者にして角觝を業とする者および力量ある者を以て組成せる力士隊あり、修験隊は越後に出戦し、しかし各寺院の僧侶は奇勝隊中に編入せられたり、しかれども農夫、町人その他人民の従軍応募者を選抜して士族に採用するの路を聞きたるは戊辰八月新練隊長土屋鐡之助の建策に基づくものなり、鐡之助は新練隊を率いて白河方面に出陣したるが、我が軍が衆敵に対し毎戦多く利あらず、兵気阻喪の憂あるを以てこれを振作するは兵士の階級を問はず、軽率は固より仮令農商輩といえども、その志願によって行伍に編し、戦に臨んで挺進し死を顧みざる者およそ千人を選抜して士分に登庸するに在りと為し、鐡之助はその率いる新練隊の指揮を次将に委ね八月の初め帰城して我が公に謁し、これを建議せり、我が公はこれを嘉納し同月四日左のごとく発令せり。

急御用に付敢死之士御募り町在の者たりとも士中に御取立御知行百石被下筈
鉄砲刀槍有余之者暫御借上


 すなわち敢死の気象ある者は如何なる軽輩または農夫、町人その他の人民といえども、募集に応じたる者はその功により身分は士中、禄は百石を給せらるゝの法を創めたるものにして、封建時代において義勇兵制度を実行したるものなり、これにおいて募集に応じたる農町兵より二百五十人を選抜して、先づ獨禮の資格を輿へ、これを敢死隊と称し、八月二十二日石筵口敗るゝにおよび同隊はこれに向かって出陣奮闘せるを初めとし、爾来農町兵は各方面において招募せられ、農町夫のこれに応ずる者甚だ多く、あるいは一村適齢者を挙げてこれに応ずる者あるに至れり、但し一国形勢危急に迫りてこれを実施したるを以てその期間短く、随って顕著の成績を挙げざりといえども、なお多少の殉難者を見るに至れり。
 この他会津藩には地方家人と称する一階級あり、士籍に属すといえども、実は半士半農なり、各郡の村落に住し、禄米の代わりに土地を給せられて世襲し、自ら耕して生活し、農業の外槍刀火術を練習し、一朝事ある時は義勇公に奉ずる者なりとす、戊辰の役、藩この種族を以て一隊を編成し正奇隊と称す、白河および若松城下の戦に参加してすこぶる功績ありたり。
 以上記する所により封建時代に在りて国難に際し君臣挙国一致の実を表明したる会津藩のごときは稀なり、西軍の参謀たりし板垣退助が戦後、人に向かって、会津城下に入るにおよびその籠城せる者は唯士族のみにして一般人民は風馬牛相関せずと言へしは、浅い観察と言うべし〔藩達、若松記〕。






卷七 会津の形勢  会津辰戦史2

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  1. 2013/03/29(金) 14:01:04|
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輪王寺宮若松御入成

輪王寺宮若松御入成


 輪王寺宮は長鯨丸(旧幕の軍鑑)にて五月二十八日茨城県多賀郡平潟に着し給い、福島県石城郡泉藩主本多能登守の奉迎を受けられ、二十九日には同県同郡湯長谷の内藤長壽丸も奉迎し、同県同郡平の藩主安藤対馬守の奉迎を受けられ宿し給う、三十日には同県同郡水戸兵中寺に泊せられ六月朔日同県田村郡小野新町御着、同二日同郡三春御着、三日本宮へ御着あり、四日本宮を発し中山峠を越え耶麻郡麻郡壺下へ御着、板倉勝静朝臣、小笠原長行朝臣、阿部正耆朝臣、上杉齊憲朝臣等迎い奉れり、五日猪苗代城に御一泊の上六日若松に着せらる、我が公以下の各諸侯竹中春山、大楽院、覚王院に謁を賜い、城内金の間を御座所とせり、尋いで奥羽列藩の請を入れ、六月十八日若松を発し、六月二十日米澤御着、二十七日米澤御発二十九日白石御着七月二日仙台へ御着、兼て御宿所と定め置きたる眺海山仙岳院へ御宿泊せられたり、宮は仙岳院へ入らせられて後も只管皇国の前途を憂慮せられ、七月五日より九日まで躬ら丹誠を抽んで世上静謐天下泰平の祈祷を行はせ給う、御式厳重なりき。

七月三日左の令あり。

子弟御扶持先ッ一人扶持ッゝ御渡其余御借上被置〔諸月番申渡書〕。

同二十八日左の令あり。

当春四境出張以来有功之者共頭々手元に於いて其事実綿密に吟味可有書出候
子弟御雇勤にて戦死之者共跡目之義功之次第に寄吟味可有書出候
以来之義は賞罰方面々々出張之陣将へ御委任被成候旨被仰出候
〔諸月番申渡書〕

八月七日左の令あり。

諸役所御知行高御備向御改定に付家柄金禄に不拘専ら其任御登庸被成候知行卑之者も御役料不被下其儘被召仕候筈
勲功を以て被下候は格別其余之御役料被相削候筈
御役儀に付被下之分功作を以て被下候分共に月割渡


御役高

一 八百万 家老

一 五百石 若年寄

一 二百五十石 奉行

一 四百石 士中隊中隊頭 砲兵隊

一 四百石 猪苗代城代

一 二百石 用人

一 三百五十石 寄合組隊中隊頭

一 百五十石 大目付

一 拾両三人 奥番

一 九両三人 膳番

一 八両三人 平番(小姓なり)

一 三百石 足軽隊中隊頭

一 百八十石 士中隊小隊頭 奏者番

一 百五十石 使番

一 百五十石 寄合組隊小隊頭

一 百三十石 町奉行 御蔵入郡奉行

一 百石 公事奉行 普請奉行

一 二十石 目付

一 二十二石四人 士中隊半隊頭

一 十二石三人 納戸

一 十五石四人 供番

一 十九石四人 足軽隊小隊頭

一 十五石四人 寄合組隊半隊頭

一 十石三人 士中隊 猪苗代士

一 十人扶持 側医師

一 十石二人 足軽隊半隊頭

一 十二石三人 徒組頭

一 十石三人 徒目付

一 十石二人 徒


右の外は、これまでの定給に被居置候事〔諸月番申渡書〕






卷七 会津の形勢  会津辰戦史2

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  1. 2013/03/29(金) 11:44:50|
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軍政改革

軍政改革

 三月十日軍制を改革し、その編成を定む、初め我が藩の軍政は河陽流に據りて編成せしが、天明年間軍事奉行黒河内十太夫の建議により、長沼澹齋著す所の兵要録、所云長沼流の兵法によりて軍政を改め、藩主国に就く毎に鳥狩を郊外に演じ、節制布置皆澹齋の法を用ふ、先に文久三年八月孝明天皇の我が練兵を建春門に叡覧せらるゝや、すなわちこの軍政を用ふ、その後時勢の変遷に伴い、幕府および列藩皆競うて軍政を洋式に変更せり、我が藩もまたこれに習うて訓練を為せり、しかれども未だ全然西洋制と為すに至らざりしが、会々伏見、鳥羽戦の経験によって従前戦法の不利を認め、これにおいて改革を断行するに至れり。

{伏見、鳥羽戦の時、我が兵中鉄砲を持せざるもの甚だ多し、別選組の如き善く戦いたれども鉄砲を持せるもの極めて少し、ゆえに接戦に至る迄は戦を観望するのみなりき、また番頭隊には六十の老翁も十五六の少年もあるが故に、全隊の歩調を統一するには、これらの老少者を標準とせざるべからざるにより活動を鈍くするの憂あり、改革の最大理由はこの二ヶ条なりき。}

 藩士十八歳より三十五歳に至るを朱雀隊とし、もっぱら実戦に当らしむ、三十六歳より四十九歳に至るを青龍隊とし、もっぱら国境を守らしむ、五十歳以上を玄武隊とし、十六歳十七歳を白虎隊と為し、兵の不足を補ふ。

{青龍、白虎、朱雀、玄武は夫々東西南北の神なり、青龍をセイリュウ、朱雀をシュジャクと発音せり。}

 朱雀士中隊一番より四番に至る四隊と為し、朱雀寄合組隊、朱雀足軽隊もまた各同数の番隊を置き、その隊中を分つて二小隊と為し、小隊を分つて分隊と為す、青龍は士中三隊、寄合組隊二隊、足軽四隊、玄武は士中、寄合組隊各一隊、足軽隊二隊、白虎は士中、寄合組、足軽各二隊とす、その組織は朱雀隊に同じ、中隊の士数おおよそ百名、ただし白虎隊はその約半数とす、砲兵隊、築城兵あり、中軍には陣将、軍事奉行、同添役、幌役を置き略々洋制に模倣す、この他有志および農工商等の強健なる者を募集して士卒と為し、以て各隊を編成し、各種の隊名を附したるものまた多し。

農町兵の募集編成に就ては後に定むる所あり、別に記す。

隊頭の職掌左のごとし。

 隊頭職掌之事

一 中隊頭は小隊頭半隊頭差配致候様

一 小隊頭は中隊頭得差配隊差配致候様

 但寄合組隊足軽隊半隊頭は中隊頭支配に相心得候様

一 一門司令官は士中隊半隊頭同様相心得候様

一 隊頭左之通定席被仰付候其余隊中何れも持席持各に相心得候様

一 士中隊中隊頭 番頭対席

一 士中隊小隊頭 奏者番打込

一 士中隊半隊頭 目付打込

一 寄合組隊中隊頭 書簡打込

一 寄合組隊小隊頭 使番打込

一 寄合組隊半隊頭 供番席

一 足軽隊中隊頭 平士ノ上席

一 足軽隊小隊頭 供番ノ上席

一 足軽隊半隊頭 獨禮席

一 幼少士中隊隊頭 番頭対席

一 幼少士中隊小隊頭 奏者番打込

一 幼少寄合組隊隊頭 書簡打込

一 幼少寄合組隊小隊頭 使番打込

一 砲兵隊頭 番頭対席

一 砲兵隊小隊頭 奏者番打込

{按ずるに支配、差配は命令に等差を付したるにて、支配は差配より重かりしなり、承合とは、上官へ伺の上命令を発するを云う、対席は打込と差なし番頭に限りて云うものゝ如し、持席、持格とは同一にて、無役となりたるか又下級の官に就きたるとき前官席次を有する優遇法あり、この席次を持席、持格と云う。}

 初め我が藩に軍政改革の議定まりとき(時日不明)、旧幕府に教官派遣のことを稟請せしが之を許可せられ、この頃、歩兵指図役頭取畠山五郎七郎、砲兵指図役布施七郎、騎兵指図役梅津金彌、会津に着す。

{兵乱治まる後、脱走して会津に来り投ぜる幕人大抵罰を蒙りしも上の三氏は命令を受けて会津に来れるにより所罰なかりきと云う。}

 伝習歩兵第二大隊長歩兵頭並沼間慎次郎は歩兵指図役頭取武蔵櫻橘、同松浦巳三郎、歩兵指図役高林礒之進、同杉江誠一郎、歩兵指図役並高木詮之助、同山内英太郎、事務官須藤時一郎、並びに下士十一名を引き連れ来り投ず。畠山の一行、沼間の一行は三の丸において我が藩士を教練せり、沼間の一行はその後南口に出張して伝習隊に加入せるが、畠山の一行は後までも教練に従事せり。

 会津藩は、すでにして軍政を改革し、および四境の防備部署を定めたりといえども、初めは薩長等の兵を迎ひ、後には、ほとんど天下の大兵を敵と為して戦はざるべからざるの時に迫りて、軍政改革の実効を期するは実に至難の事に属す、あたかも好し我が四境に敵を迎ふるの初めに当り、すでに記せし如く徳川氏の将校我が藩の招聘に応じて来れる畠山五郎七郎等あり、尋いで旧幕麾下の優柔為す無きを憤り脱走して我に身を寄する沼間慎次郎等一行あり、すなわち之に囑するに隊兵の訓練を以てし、フランス式の練兵を演習せしむること日以て夜に継ぐといえども多年薫陶したる長沼流運用の精練に及ばざること遠く、随って洋式に依る用兵練熟の将校を得ること難し、加之我が藩東陬に在り、兵士の大半を以て皇城の守護に尽瘁し、国力を傾注すること七年に及ぶ、故に財力窮乏して洋制の兵器軍需等を充実するの余裕なく、且つ伏見、鳥羽の戦敗れ帰国するに臨み、ことごとく兵器を収むること能はず、江戸を去るに当り緩急に備へんが為め力を尽くして之を購ひ、あるいは徳川氏の陸軍所よりこれを移し、あるいは帰りて新製したりといえども、爾来戦線の拡大するに随ひ欠乏を告ぐること日一日より甚だしく、ついに和銃あるいは猟銃を用ひ、その後ますます欠乏して城下の戦には刀槍に頼るの止むなきに至れり、これらの欠陥就中兵器の不完全および提供不足は、西軍の兵器の精新にして、しかも提供の自由豊富なるに比し、全局の勝敗に至大の関係を及ぼせしものと言うべし〔手代木勝任柴太一郎談〕。

越えて三月十二日に至り、四境防備の一部を左のごとく改む。

津川方面 木村隊(忠右衛門か) 諏訪隊(武之助か)

浜崎方面 堀隊(半右衛門か) 蜷川隊(友次郎か)

三代方面 横山隊(伝蔵か) 鈴木隊(一郎右衛門か)

田島方面 原隊(平太夫か) 有賀隊(左司馬か)〔諸月番申渡書〕


 三月十九日古屋佐久左衛門の兵尽く若松に帰りて日新館に次し、古屋等登城して容保喜徳両公に謁す。
 同二十四日古屋佐久左衛門は簗田戦没の士柳田藤太郎以下六十四人の霊を若松輿徳寺に祭り尋いでその兵五百余人を率いて越後に赴く。
 同二十八日奥羽鎮撫総督九条道孝卿仙台に入る、参謀世良修藏会津征伐を促す、形勢このごとくなれば我が藩もまた兵を発して封境を守らざるを得ざるに至れり。
 四月の上旬仙台の使節玉蟲佐太夫、若生文十郎、米澤の使節木滑要人、片山仁一郎来りて両藩主の意見を伝え我が藩の為に謀るところあり、尋いで仙台の横田官平もまた来る、後数日梶原平馬、伊東左太夫、手代木直右衛門等を米澤に遣わす。
 四月二十九日仙台藩相坂英力、但木土佐、米澤藩相木滑要人、片山仁一郎等関宿において我が使節梶原平馬等に会見す、すなわち閏四月朔梶原平馬馳せて若松に帰り仙米両藩の情況を報ずるに及び家老西郷頼母、梶原平馬、一瀬要人等連署して上書し哀を乞う。
 六月二日輪王寺法親王の執当覚王院義観は陸路勢至堂を経て若松に入り、これより先若松へ来りたる日光の大楽院と共に登城し藩相萱野権兵衛、同諏訪伊助立ち合い我が公に謁す。






卷七 会津の形勢  会津辰戦史2

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  1. 2013/03/28(木) 09:41:12|
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軍政改革以前国境の防備

軍政改革以前国境の防備

 慶応四戊辰年二月五日喜徳公、まさに江戸に至らんとし若松城を発す、すでにして故あり二月十日良駅より帰城す。
 二月七日藩士の子弟並びに地方の兵(我が藩の制郷村に存在して家禄ある士を地方御家人、略して地方と云う)、農兵を部署し、若松城および四境の防備を定むること左の如し。

『会津へ入る口々』の章を参照すべし(本書附録に在り)。

津川赤谷より三月澤に至る〔津川赤谷東蒲原郡に在り、三月澤も同断、沼越峠を越えて中蒲原郡へ出る口を云うなるべし)
長坂隊 番頭長坂本太夫隊
大銃打手(後に遊撃隊とも云ひき) 木村忠右衛門隊
不時備組 町野伊左衛門隊
同獨禮以下一隊 柴定蔵隊
小川庄觸下地方士並農兵

 旧来の会津領を四区に分ち、これを觸下と云う郡と云うが如し、ただし古来よりの郡にあらず、附録『農兵編成の計画』を見よ。

赤津福良大平口(赤津、福良は安積郡に在り、大平は今岩瀬郡湯本村に属す、当時会津領ならざりしも之を阨すれば、湯の入り口、すなわち錦澤口、葦野原口、白岩口、水門口に入る能はざるにより、この処まで兵を出せしものゝ如し。
山崎隊 番頭山崎主計隊
不時備組一隊 小野田雄之助隊
同獨禮以下一隊 簗瀬源吾隊
安積郡觸下地方士並農兵

柳原口より村杉に至る(村杉澤は耶麻郡朝倉村に在り、加納鉱山の西に当る)。
一番組 隊長の名を佚す

長沼流の軍制によれば、番頭もしくは新番頭隊三個と、家老の直轄する一隊と、凢て四個隊を以て一陣とし、その家老もしくは若年寄陣将としてこれを率いる、本藩には番頭隊八個、新番頭隊一個、陣将直轄隊三個ありて三陣を構成す、しかして陣将隊を一二三番組と称す、陣将隊は番頭隊に比し、人員少しく多きのみにて編成に大差なし。
不時備組一隊 和田太兵衛隊
同獨禮以下一隊 能見武右衛門隊
耶麻郡觸下地方士並農兵

田島熨斗戸組以東(田島、熨斗戸南会津の南部に在り、
加須屋隊 番頭加須屋左近隊
不時備組一隊 山田内蔵隊
同獨禮以下一隊 常盤輿兵衛隊
御倉入農兵

今の南会津郡並に大沼郡の一部は久しく領地なりしが、数年前会津領となれり、併し旧称により猶御蔵入と称しき。

伊南、伊北、桧枝岐より八十里越に至る。
右の三村は南会津郡の西部にして越後に境せるところなり。
不時備組一隊 隊長の名を佚す
同獨禮以下一隊 丸山彌次衛門隊

猪苗代
猪苗代士
同足軽
同地方士並農兵

若松
大銃打手一隊 山内遊翁隊
不時備組一隊 伊東清左衛門隊
不時備組一隊 柳田小右衛門隊
不時備組一隊 木村四郎左衛門
別楯軍事奉行付属吏員
奉行所支配諸吏員
学校奉行支配
普請奉行支配
割方支配無役並浮人
無役方吏員
会津郡觸下町兵
会津郡觸下地方士
旗ノ者
長柄ノ者
供番

大組足軽
徒目付
甲賀ノ者
三役
使番
奏者番
持筒弓ノ者

右の諸隊は陣将隊、番頭隊を除き本藩の正規兵にあらず、臨時に編成せられたるものなり、諸隊長の官名は何々隊長何席、仮令ば番頭対席とか、御側席とかなりしなるべし。


二月十九日左の令を発す。

著服之儀当分平常何品によらず筒袖そき袖細袴之類勝手次第御名代御告(祖先朝所への報告を云う)之外上下之廉<(上下を着せし定め今後平服にすべしとの義なり)平服に心得候様(諸月番申渡書、是藩士への命令なり)

二月二十一日容保公名を逸堂と改め後祐堂と称す〔諸月番申渡書〕。

 二月二十二日我が公会津に帰り城外に屛居謹慎す、これより先、公江戸を去るに臨み輪王寺宮に就いて慶喜公の為に救解を訴え、また我が藩相等は二十二藩に就いて我が公の為に救解を請う所あり、ゆえに公の帰国するや一意屛居謹慎して朝廷の恩命を待つこと一日千秋のごとし、藩士等思えらく我が公闔藩の力を尽くし、職を輦下に奉ずること六年、内外多艱の時に当り鞠躬尽瘁あえて一日も安居せず、幸に先帝の殊遇をこうむり故将軍(徳川家茂)の倚頼また驚きを以て感激止まず、君臣誓って京師を以て墳墓の地と為し生きて還るを期せず、その後前将軍至誠の心を以て時勢を洞察し、ついに幕府三百年の政権を奉還し勤めて天下の公議を尽くし皇基を更張せんとす、しかるに薩長等一味の公卿と徒党してその誠意を中阻し、先帝の信任を蒙れる摂政、親王および宿徳の公卿を退け、二三の藩士等を挙用し、幼冲の至尊を挟みて聖明を壅蔽し、擅に未曾有の大変革を決行す、加之朝権を借りて、すでに一諸侯と為りし徳川家の削封を企て、関東地方を暴掠して良民を苦め、自ら戦端を京郊に開き以て前将軍の奉勅入京を拒み、ついに精忠至誠の我が公に負はしむるに朝敵の汚名を以てす、仮令我が公朝廷を憚り屛居謹慎すといえども之が臣たる者豈に能く忍ぶべけんや、しかして彼ら戦捷の余威に乗じ猥りに兵を我に加えんとす、これ真の王師にあらずして姦賊なり、我が軍死力を尽くしてこれを撃退せざるべからずと憤激して起つ、しかれども過激の挙動に出でざりしは我が公の善くこれを制御せられたるを以てなり〔松平家譜〕。

二月二十四日喜徳公年少の故を以て政務を容保公に托す〔諸月番申渡書〕。

左の令あり。

総髪(頭の前部を剃りたるを止むる事)、刺髪(頭毛を全て剃り去ること)、摘髪(髪を全て領元にて斬ること、故に前髪は長く後髪は短し)、撫附(摘髪に比し前髪やや短く順次に短くすること、これらは全て願を要せしも今後願を出すを要せざる旨の令なり)等願に不及勝手次第ノ事〔諸月番申渡書〕。

同月二十七日容保公藩士に告ぐること左のごとし。

此度不容易形勢に相成候は畢竟自分不行届よりして此に至候義別て面皮を失候次第に候一統も嘸々残念に思候事と察入候就ても直様於江戸表回復致度偽に候得共公辺御都合も有之一先帰国致候処今般討会之命諸藩へ相下候由に候間今にも人数可相進も難計此上は兵備を第一と致候外無之候間一致一和に相成諸事疑立等不致何と歟して国辱を雪呉候様此段頼入候也

またよ喜徳公藩士に告ぐること左のごとし。

先般は銘々存分之苦戦致呉感慨至極に存候此度京地戦争之儀は彼より発砲応戦致候義にて元来朝廷へ被為対毫髪も御異心不被為存候義は天下所知にして申迄も無之義に候処上様御一同朝敵之名を被為負候段臣子之身分何共絶言語不堪切歯次第に候然処不図も上様上野へ御入寺之上御恭順之道被為盡候との御沙汰有之此度之義御一身に御引受被遊候上は御家に於いても夫のみに難被為在御都合有之別紙之通御歎願書被差出候義に候処勅使下向之聞も有之仙台米澤等へ討会之命も下候由にて如何様之難事到来可致哉も難計知至々極々御大切成場合に相至候処元来姦邪之所為にて真に叡慮に不出は判然と差(この字不明)見候義には候得共御家来之身分何辺迄も御免届相解候様難願致若彼より粗暴之仕向有之候はゞ武門之習断然然至当之所へ立居り御処置被遊候外無之偽に候依て御家来は不申及町在之者に至迄今より軍中之心得にて几て之義存分簡易無造作に致し衣食住飢寒を凌候迄にて死地に陥り御国威を充分に押張り闔藩一致一力に相成必死覚悟を究め粉骨碎身累代之御厚恩奉報候は此時と一統へ可申聞(諸月番申渡書)

これ先に朝廷より我が藩に追討の令下ると聞き歎願書を呈せりといえども、薩長二藩が私怨を報ぜんが為、あるいは之を中阻し漫りに王師の名を借りて兵を加えんとするの恐あるを以て、二公より藩士に戒告するに至りしなり、斯くのごとく、一方においては寃枉を訴ふると同時に、地方においては藩士に非常の変に処するの注意を促すに至りし当時闔藩君臣苦心の状一斑を察すべし。






卷七 会津の形勢  会津辰戦史2

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  1. 2013/03/27(水) 10:18:39|
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小荒井の戦(全軍退却)

小荒井の戦(全軍退却)

 同十日砲兵隊、朱雀四番士中隊は小布瀬原の急を聞きこれを援けんが為め赴きたるが、途に敗報を聞き兵を総座松峠に返へす、この山は山三郷深山幽谷の地と平野田畝との境界にして、この山を下れば茫々平太にして若松城下に至るまで険悪の地なし、町野主水に言っていわく、この山を退けば、また敵を防ぐの険所なし、ゆえに死力を尽くしてこれに防ぐべし、余もし敵弾に当らば汝らこれを馘せよと、時に軍事局令を伝えていわく、敵兵まさに迫らんとするを以て小荒井に退くべしと、諸隊山を下る頃西兵すでに迫り弾丸雨注す、諸隊小荒井村端の寺院に入り墓石に據り西兵の近づくを待って銃撃し、弾丸尽くるに及び刀槍を揮って戦う、砲兵組頭関清之進大声衆を激励し西兵ついに敗走す、我が軍黄昏兵を熊倉に収む〔累及日録、横山留総日記、関成章談〕。





卷六 越後方面の戦  会津辰戦史2

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  1. 2013/03/26(火) 16:57:17|
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堂目付の戦(全軍退却)

堂目付の戦(全軍退却)

 九月三日早暁砲兵隊山を守りて堂目付背後の山地に至り西兵を襲撃す、西兵応戦し大兵すなわち我が軍を囲み、まさに帰路を絶たんとし、且つ衆寡敵せず兵を高目村に返へさんとし大船澤に至れば、眞ヶ澤の方位に砲声の烈しきを聞きしを以てこれを援けんと欲して軍を返す、未だ至らざるに朱雀四番士中隊利なく退却し来るに逢い、共に中原村に次す、この夜一門司令官黒河内新六館ノ原の本営に至り援を乞う〔渋谷光信筆記〕。

朱雀四番士中隊付属隊、間ノ峠絶頂の胸壁を守る〔横山留総日記〕。

 同四日砲兵隊は堂山村に至り壘を山径に築いてこれを守る、館ノ原本営より長岡兵百人を遣わしこれを援けしむ〔渋谷光信筆記〕、朱雀四番士中隊付属隊、間ノ峠を守る〔横山留総日記〕、館ノ原、木曽方面守を失い未の刻頃退却し夜に入り藤澤村に次す〔累及日録〕。

 前日来館ノ原に在りし朱雀二番寄合組隊は姥石山に陣し、また大鳥圭介軍は鹽川より来りて陣ヶ峰の山下に在り、この日敵の大軍大鳥軍を襲うや、大鳥軍より援を西郷隊に乞いたるにより、笹沼金次郎をして一隊を率い徃いて援けしむ、大鳥軍は初め小捷を得しも、ついに潰散し小田付の遁る〔西記〕。

 九月五日辰の刻を過ぐる頃朱雀四番士中隊および付属隊藤澤を発し正午一合村に至り、本体は一合より半里許西方の嶺上を守り、付属隊は左翼と為り狢森を守る〔累及日録〕。

この日、朱雀四番士中隊医師武藤英淳、小田付病院に自尽す。

{英淳少うして気節あり、医術を兒島宗設に学び経史を杉原外之助に学ぶ、会と北海道に祗役し、しばしば時言を建言す、戊辰の戦起こるに及び本体に属して越後に在り、英淳容貌魁偉深目大口にして資生忠直なり、五十島の役谷澤軍事局は流言を信じ、思えらく西兵吉津に入り我が後を絶つと、急に諸将校に令して兵を収めしむ、英淳これを聞き憤怒していわく、怯懦輩ほとんど国事に誤ると、すなわち軍事局に至り大声に言っていわく、兵の進退は国家安危の係る所なり、よろしく慎重ならざるべからず、しかり今卿等軽しく流言を信じて兵を収めしむ、谷澤以西はまた我が有にあらず、境土日に迫り大事去れり、卿等のごときは何ぞ速に死せぞるかと、聞く者悚然たり、ある人耳に附けていわく、願わくば少しく声を低うせよと、英淳いわく、音吐の大なるは天性なりと、秋八月班を進められ侍医と為る、すでにして我が軍連戦利あらず、英淳また時事の為すべからざるを知り、邑に帰り親族故旧を集めて訣飲し、従容薬を仰いで死せり時に年五十一〔累及日録〕。}

九月六日砲兵隊堂山村を守る、木曽の我が軍敗るゝを以て藤澤村に退く〔渋谷光信記〕。

同七日砲兵隊陣を一合に移し、朱雀四番士中隊と共に山上の二道に備ふ〔渋谷光信記〕。

館ノ原を守れる新遊撃隊は小布直ちに追跡して船岡に迫る、隊士坂井源八郎西兵一人を斃す〔西記〕。

同八日木曽守を失い西兵小布瀬原に迫らんとす、よって朱雀四番士中隊並付属隊は一合を退き宮在家を経て総座松峠を守る〔累及日録、横山留総日記〕。

同九日砲兵隊三軒茶屋を守る〔渋谷光信筆記〕。






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稲荷山の戦(全軍退却)

稲荷山の戦(全軍退却)

 朱雀二番寄合組隊二番小隊は金窪を距る半里に胸壁を築きこれを守たるが、この日朝に至り敵兵来襲衆寡敵せず赤岩山上に退きて防戦し、なお退きて稲荷山に據らんとす、たまたま中隊頭西郷刑部所用ありてここに来り、これを耳にし、敵三四十人屯集することを偵知し、刑部は小隊頭原源次郎、隊士笹沼金次郎および随兵四五十人を率いて敵に襲撃し、刑部は敵将一人を斬り、余衆を走らしめ小銃弾薬を鹵獲せるが、しばらくして敵此処彼処に増加し、阿賀野川対岸の我が軍に砲撃せられて躊躇せる間に、刑部は土民の嚮導に依り一番隊二番隊を収集し薄暮館ノ原に帰陣せり〔西記、宮本五三郎談〕。






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眞ヶ澤の戦(全軍退却)

眞ヶ澤の戦(全軍退却)

 同二日早天朱雀四番士中隊および付属隊は小綱木を発し辰の刻頃兵を眞ヶ澤村に進む、西兵大挙来り侵し砲戦数時間衆寡敵せず、黄昏中反に退く、この夜小綱木と中反との中間眞ヶ峠の山上に胸壁を築いて防備を修む〔累及日録、横山留総日記〕。

 新遊撃隊陣ヶ峰中川に戦って利あらず、長岡の兵伝習隊来り援くるも戦に会せず、共に館ノ原に退く〔西記〕。






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諸隊山三郷に向ふ(全軍退却)

諸隊山三郷に向ふ(全軍退却)

 八月二十八日巳の下刻、朱雀四番士中隊、並付属隊、砲兵隊、結義隊は高久を発し舟渡に至るや、山三郷館ノ原に向かうべしとの命あり、よって未の刻、諸隊共に路を只見川の東岸に取り、阿賀野川を渡り日没の頃館ノ原に至りて舟筏を収め戍兵を置く〔累及日録、横山留総日記〕。

 八月二十九日巳の刻、朱雀四番士中隊、並付属隊は朱雀二番寄合組隊と交替して中反村を経て新町に至りしが故ありて中反に返り陣す、夜に入り大雨、時に町野主水、関場辰治をして半隊を率いて徃いて一竿を守らしむ、二更中反を発し木曽、館ノ原を過ぐるや、西兵前岸より火光を認めて銃を放つ、すなわち炬火を滅して進み西海枝村に至りて天明け、すなわち一竿に至る、この地館ノ原の西方に在り、すこぶる要害の地なり、すなわち兵を分つて両処の渡口を守らしむ、西兵炊煙の揚るを見れば銃を発し、夜燈光を望めば又銃を放てり〔累及日録、横山留総日記、渋谷光信筆記〕。

 同晦日朱雀四番士中隊、並付属隊は中反に胸壁を築き戍兵を置き、砲兵隊は兵を高目村に進む〔横山留総日記、渋谷光信筆記〕。

 朱雀四番士中隊付属隊は一竿の渡頭を守る、隊兵塚越富吉は前岸の西兵が弾薬を運搬するを見て銃撃したれば西兵狼狽して走る、須□にして数途人の敵兵来りて射撃し我が兵応戦す、たまたま飛弾富吉の胸を貫きて死す、富吉は徳川家の世子小栗上野介の臣なり、上野介の死後富吉は佐藤福吉、佐藤銀次郎と共に去って会津に投ぜんとす、時に町野主水、越後魚沼郡浅貝駅に在り、富吉等徃いてこれに属し、嚮に三国峠、小出島に戦い、一ノ木戸に来り付属隊に加わる、富吉が妻は上野介の妻に従い会津に至り横山主税の家に寓せりと云う〔累及日録〕。

 九月朔日巳の刻頃朱雀四番士中隊および付属隊は共に中反を発し、未の刻頃小綱木に至り戍兵を置く〔横山留日記〕、砲兵隊高目付滞陣〔渋谷光信筆記〕。

 朱雀四番士中隊付属隊は一竿の渡頭を渡る、午後に至り砲声北方の山背に起こる、しばらくして軍目篠田勝之助馳せ来り退却の令を伝えければ、兵を収めて木曽村に至る〔累及日録〕。






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上田伝次の返戦(全軍退却)

上田伝次の返戦(全軍退却)

 前日我が諸隊野澤村に退却するや、上田伝次は諸隊に言っていわく、数日来追跡の敵軍と一決戦してその鋭気を折く能はざるは遺憾なりと、これにおいて上田陣将に請ひ自衛の外町野隊の付属隊、野澤組農兵および猟師兵等五十余人を借り、別に純機動隊を二分して大下野尻および峠に出戍せしめ、自ら諸隊を率いて白坂村端に進み、この日早朝敵の来襲に激ひ、互いに砲戦を交えたるが敵勢次第に加わり衆寡敵せず、諸隊離散し上田隊ついに支えず舟渡村に退却せり〔西記〕。





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進撃軍再び兵を班へす(全軍退却)

進撃軍再び兵を班へす(全軍退却)

 八月二十七日暁天朱雀四番士中隊並付属隊、砲兵隊、結義隊は坂下を発し高久に至る、高久は若松城下を距ること一里なり、時に西軍大挙して若松城を囲み、大砲を列ねて連発する石榴弾は爆発して万雷のごとく、猛火は市街を焚きて烟稲天を焦せり、会々西郷頼母来り命を陣将萱野権兵衛、上田学太輔に伝えていわく、四境の守備を徹して城に入り城兵日に加わる、ゆえに北越より帰るの兵は城に入らずして敵を途に防ぐべしと、今や若松城付近の地に来り、踴躍敵壘を蹂躙して城中に入らんとするに当り、すなわちこの命を拝し豼貅の将士もまた勇気沮喪せざるを得ず、しかれども君命如何ともするなく快々として再び軍を返して西方に向ふ〔累及日録、渋谷光信筆記、横山留総日記〕。

この日令あり、青龍三番士中隊は柳津に向かう〔結草録〕。






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進撃軍若松に向う(全軍退却)

進撃軍若松に向う(全軍退却)

 朱雀四番士中隊、砲兵隊、結義隊は若松進撃の先鋒と為り、その他の諸隊は漸次退却し、朱雀足軽隊後殿し、この夜各隊下野に次す〔累及日録、結草録、横山留総日記〕

 同二十日先鋒諸隊暁天下野尻を発し束松峠に登り、若松城下を遠望すれば城市は烟稲の間に存り、諸隊久しく北越の軍に従い苦戦奮闘して今日に至り、この惨澹たる光景を目撃して痛恨に堪えず、未の刻、坂下に次し明日城下の進撃を期す、諸隊相約していわく、穢多町の敵壘を撃破し若松城に入るを以て主眼と為す、ゆえに死傷を顧みるなかれ、傷を負うて起つこと能はざる者は自ら刺して死すべしと、よって身に帯ぶる所の物はことごとくこれを棄て髪を梳り装を整ひ以て令の下るを待つ、この夜将卒を会して共に訣飲す〔累及日録、横山留総日記〕。

青龍三番士中隊は気多宮に次す、半隊頭田中直江は、渡に止まりて部署を定む〔結義録〕。






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  1. 2013/03/24(日) 16:37:35|
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対壘防戦(全軍退却)

対壘防戦(全軍退却)

 阿賀野川の前岸白崎の対壘は砲兵隊、朱雀四番士中隊付属隊、谷澤河岸は玄武隊、小花地は青龍三番士中隊、並付属隊、三月澤関門は新遊撃隊、結義隊、奇勝隊、西村方面は長岡の兵と為す〔結草録〕。

八月二十日、この日より二十三日に至るまで各方面昼夜砲戦あり。

 朱雀四番士中隊付属医師小池良意は二十三日谷澤病院を擔当す、時に石間、三月澤方面の病者を収容し、その人員すこぶる多かりしが単身これに当り、最も懇篤を極めたれば衆これを称揚せり〔横山留総日記〕。

 同二十四日、戍の刻頃令あり、勝軍山守を失い西兵城下に入りたれば戍を徹して兵を返えすべしと、よって陣地を退き兵を谷澤に収む、時に阿賀野川沿岸皆西軍の據る所と為り、路塞がりたればわずかに路を山中に取る、葡萄峠は深泥滑らかにして行軍すこぶる困難を極む、山上に至れば天まさに明けんとす〔累及日録、横山留総日記〕。

 同二十五日天明全軍津川に至る、時に東軍の諸隊この地を守り、諏訪峠の西兵と隊壘日夜砲戦息まず。






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  1. 2013/03/24(日) 11:25:43|
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五十島の戦(全軍退却)

五十島の戦(全軍退却)

 同十八日早天西兵阿賀野川の前岸岩屋村に至る、朱雀四番士中隊および付属隊は五十島の南端小丘の樹林に潜み、西兵前岸崖下を過ぐるを待ち、一斉に狙撃したれば西兵狼狽道狭くして走る能はず、前後に乱奔し斃るゝ者数人、兵器弾薬を棄てゝ逃げる、東兵は山に登り堡壘を築きて成る頃西兵前岸の山上より射撃す、時に谷澤軍事局田中八郎兵衛急令を町野主水に伝えていわく、西兵すでに吉津に入りて火を放つ直ちに兵を収むべしと、町野は黒煙山後に起こるを見て将校を会し議して山間を退かんとしたるに、関場辰治いわく、敵勢ようやく衰ひ、すでに退かんとするに臨み兵を徹せば反って尾撃する所とならん、加之山谷路なき所を退くの困難言うべからず、よろしく本道に隊伍を整え徐ろに退くべし、もし敵に逢はゞ撃破して過ぎんのみ余等固より死を期す、路なき山谷は軍を行るの地にあらざるなりと、町野これに従い兵を収めて本道より退きしに果たして西兵の尾撃甚だ猛烈なり、小隊頭有賀圓治、半隊頭関場辰治、殿戦し黄昏谷澤に退く、西兵直ちに五十島に入り火を放つ、実は西兵吉津に入りしにあらず民家火を失したるを謬り信じたるに由れりと云う、ゆえを以て田中は軍事局の職を褫はる〔結草録、累及日録、横山留総日記〕。

 これより先、軍事奉行添役田中八郎兵衛は奇兵隊を率いて龍ヶ峰に在りたるが、糧食欠乏して戦うこと能はず、しばしば谷澤の本営に請うも給せられず、兵士皆飢えて戦うこと能はず、たまたま築城隊指図役阿部井壽太郎この状を目撃し、谷澤の本営に帰り一瀬総督に見えて詳に実況を陳べ急に糧食を給せんことを請う、総督は田中が戦はざるを悦ばず、阿部井いわく、田中は戦はざるにあらず兵士皆飢えて戦はんと欲するも能はざるなり、願わくば直ちに給するに糧食と酒とを以てせよと、総督これを容れ用所員高橋安太郎をして龍ヶ峰の軍に供給せしむ、因に田中軍事奉行添役を免ぜらるゝや柴太一郎その後任と為る〔安部井春蔭談〕。

八月十九日東軍諸隊方面の部署を定め、胸壁を築き日々砲戦昼夜を分たず。






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  1. 2013/03/24(日) 09:46:44|
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角島渡頭の対岸戦(全軍退却)

角島渡頭の対岸戦(全軍退却)

 この日正午前諏訪峠方面に当り銃声聞ゆるは恐らくは敵が我が軍の動静を探らんとするものなるべしと、我が軍砲銃に填装して待つ、果たせるかな敵勢四五百人許山を下り柳新田村辺りより一直線に角島村渡頭に来る、我が軍すでに舟筏を収めたるを以て敵は大河を渡る能はず対岸より発砲す、我が軍これに応戦し敵を斃すこと多し、敵兵負傷者を負うて遁走す、我が軍一兵を損せず〔西記〕。

 八月十七日寅の刻頃谷澤の我が本営より令あり、兵の進退は吉津村出陣の田中八郎兵衛より令を伝ふべしと、午後再び令あり、朱雀四番士中隊、付属隊、修験隊をして三月澤関門を守らしめ、砲兵隊、結義隊をして五十島を守らしむ、この夜共に五十島に次す〔結草録、累及日録、横山留総日記〕。






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  1. 2013/03/23(土) 16:47:42|
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石間の戦(全軍退却)

石間の戦(全軍退却)

 八月十一日辰の刻頃西兵大挙攻撃す、朱雀四番士中隊付属隊これに応じて猛撃す、未の刻頃西兵寶珠山に連なる山地を過ぎ小松関門近傍に迫り小松村前方と山上とより我が関門を横撃す、我が兵殊死して戦い諸隊多く死傷す、朱雀二番寄合組隊もまた西軍の為、山上より俯撃せられ、ついに支えず退いて石間関門に至る、町野主水衆に向い大声呼んでいわく、佐川氏、なればかくの如き戦に退却せざるべし、余独り進んで死せんと、たまたま流弾に当りて微傷を負う、衆これに励まされ皆止まって防戦す、総督一瀬要人は陣頭に立ち自ら銃を執って射撃す、我が軍ついに利あらず〔西記、累及日録〕、一瀬総督いわく、余はここに止まって死すべし全軍退却せよと、軍事奉行日向左傳諌めていわく、総督の死生は三軍の士気に関すれば退いて後図を為せよ、左傳春秋高く前途国家に奉ずるの日幾ばくもなし、ここに止まりて難に殉ぜんと交々論争す、西兵ますます迫る、諸将校いわく、縦令一二の重臣止まりて死するも頽勢を回すべからず、むしろ退いて後図を為さんにはしかずと、ついに退軍す〔阿部井春蔭談〕

 八月十二日砲兵隊、結義隊は陣を阿賀野川前岸釣浜に移して険要に據る、時に小松関門すでに敗れ、朱雀四番士中隊、朱雀二番寄合組隊、鎮将隊、砲兵隊は退いて前日の退陣の白虎二番寄合組隊と共に石間関門の胸壁に據りて砲戦す〔結草録、横山留総日記〕。

 同十三日石間関門において砲戦す、鎮将隊砲兵多く死傷し砲手缺乏す、杉浦佐伯、砲兵指揮役兼軍目と為り石間関門に赴く〔結草録〕。

一瀬総督石間関門に至る〔結草録〕。

同十四日石間関門砲戦。
同十五日諸隊津川町に至り諸胸壁に據りて守る〔西記〕。

 この日已の刻頃赤谷口の東軍敗れ西兵中ノ澤に入るの報あり、すなわち朱雀四番士中隊付属隊修験隊をしてこれを援けしむ、諸兵石間を発し午の刻頃石戸に至る、会々代官本多四郎酒を贈りて兵士をねぎらう、すなわち村長の庭前に環鐓を以て樽葢を突き破りこれを酌む、時に西兵火を新谷に放ち、ここに留めるべからず、兵を返し徹宵行軍し途岡澤に至りて東方白し、本体付属隊川口に至る〔西記、累及日録〕。

 同十六日朱雀四番士中隊、付属隊修験隊は川口に至り要害を検し胸壁を築きてこれを守る、時に西兵すでに津川の前岸に迫り砲撃す、子の刻頃川口を退き天明谷澤に至り、諸隊集合して山河の形勢を検し胸壁を築きてこれを守る〔西記、累及日録、横山留総日記〕。






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  1. 2013/03/23(土) 09:49:59|
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左取の戦(全軍退却)

左取の戦(全軍退却)

 白虎二番寄合組、別楯寄合組隊、砲兵隊は前岸左取を守りしが早暁西兵来り攻む、太田小兵衛、関清之進、下平庸三郎、杉浦佐伯等各兵を督して村の山上に登りて応戦し、これを撃退す、砲兵隊甲子清水八郎、赤井新八は長州振武隊の一人を生擒してこれを斬る、西軍大挙して進み来り、左側の山上より銃撃し、東兵は山に上りて戦ふこと半時許衆寡敵せず、これにおいて白虎二番寄合組隊をして先づ河を渡らしめ諸隊石間に退却す〔結草録、西記〕。

 この夜杉浦佐伯肩輿を飛ばして津川に至り戦況を一瀬総督に報じ援を請う、すなわち松宮雄次郎の兵、齋藤信之助の兵四十人をして援けしむ〔結草録、西記〕。






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寶珠山の戦(全軍退却)

寶珠山の戦(全軍退却)

 同十日卯の刻軍事局茂原半兵衛来り告げていわく、寶珠山の我が兵苦戦中なり、寶珠山敗れば、小松、石間の二関を守ること能はず、直ちにこれを援けよと、朱雀四番士中隊二番小隊をして関門の兵を援けしめ、一番小隊をして寶珠山の兵を援けしむ、すでにして寶玉山敗れ西兵大学石間の前方二三町に迫る、二関の兵は来撃せられんことを恐れ嶮山を登り樹間を潜行し西兵を横撃す、西兵多く死傷し支ふること能はず弾薬糧食を遺棄して寶珠山に走る〔結草録、西記〕。





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保内村の戦(全軍退却)

保内村の戦(全軍退却)

 この日卯の刻頃佐藤織之進は新遊撃隊を率いて保内村(加茂の西南半里)に出で胸壁を築き、原駒之進は一隊を率いて街道の左方に埋伏し、齋藤伊織もまた一隊を率いて胸壁の右方に埋伏し、敵を村裡に誘導せんと計画し原駒之進隊より敵兵を望んで砲撃し七八人を斃したるが、敵に波涛のごとく押寄せ来り、我が軍苦戦に陥り胸壁によって防戦す、新遊撃隊組頭田中末次郎これに死し、我が軍ようやく崩る、これにおいて同隊は誠心隊と合して返戦したるも敵軍次第に加わる、我が軍且つ戦い、且つ走り、桑名兵の守れる下条村(加茂の西南の郊外)の胸壁に至り翌暁まで防戦す、たまたま加茂を守れる我が本隊の退却し来るを聴き、黒水村においてこれと合して退却せり、けだし加茂より国境へ帰るには村松を経過するは順路なるも村松すでに敵の有となりしにより黒水、高石を経る間道を取るには村松を経過するは順路なるも村松すでに敵の有となりしにより黒水、高石を経る間道を取ること必要となりしならん〔西記〕。

 八月五日早天諸将校地理を検し、高石村の前方二十余町小面谷中川原(高石の西に在り村松より高石の道なり)の両岸に胸壁を築く〔結草録〕、川の南岸は町野隊これを守る、この一隊を川内谷と云う、桑名藩の領地なり、深山の間一水その中に西流す、土橋を架して来徃す、沼越の路は川の北岸に沿う、町野隊の守りし胸壁は橋より上ること一二町にして実に死地に在り、雨水漲る時は上流といえども徒渉すべからず〔累及日録〕。

 午後鎮将隊組頭河瀬重次郎馳せ来りていわく、兵を分つて釜の鐔村(不明)の間道に備えよと、これにおいて青龍三番士中隊と水戸兵とを高石に止め、沼越峠は玄武隊これを守り、石間街道は新遊撃隊これを守るべきの令ありしが終に止む〔結草録〕、西兵来り迫り石間口兵寡きを以て朱雀四番士中隊、砲兵隊、朱雀二番寄合組隊をしてこれを守らしむ、杉浦佐伯はこの三隊の軍目たり、庄内兵はすでに本国に退き、桑名兵は若松城下に至り藩侯に従う〔結草録〕。

 八月六日青龍三番士中隊、新遊撃隊は高石村を守り、巳の刻朱雀四番士中隊、朱雀二番寄合組隊、砲兵隊は高石村を発し三月澤山の絶頂に登る(これより我が封内に入る)、釣浜村の渡口より石間村に至れば日暮れる、朱雀四番士中隊、朱雀二番寄合組隊一小隊は先づ渡る、会々大雨河水漲りて夜渡る能はず、朱雀二番寄合組隊一小隊、砲兵隊は河岸釣浜村に次す〔結草録〕、西兵は保田村を本営とし、胸壁を石間街道赤坂山に築きてこれに據る〔横山留総日記〕、町野隊は長谷川に次す〔累及日録〕。

 同七日早天諸隊阿賀野川を渡りて石間に至る、陣将萱野右兵衛、軍事奉行日向左傅、朱雀四番士中隊中隊頭佐川官兵衛、朱雀二番寄合組隊中隊頭西郷刑部、砲兵隊組頭市岡守衛、朱雀足軽隊片桐喜八、築城隊指図役安部井壽太郎、結義隊々頭渡部英次郎、井上哲作等石間に在り、砲兵隊をして川を渡り左取山(阿賀野川の前岸)に出で、白虎二番寄合組隊、別楯寄合組隊を援けしむ〔結草録〕。

 八月八日早天軍事奉行日向左傅は朱雀四番士中隊、朱雀二番寄合組隊、砲兵隊、築城隊を督し胸壁を国境に築いて防備を修む、会々西兵国境に迫り砲撃す、諸隊退いて小松村に至る、陣将萱野右兵衛は杉浦佐伯に命じていわく、昨日砲兵隊を左取村に出して援けしめたるが汝徃いて要害に據り防戦せよと、杉浦すなわち左取村に赴く〔結草録〕。

同九日小松関門の防備この日の暁天に至りて始めて成る〔横山留日記〕。

 佐川官兵衛藩相と為り、町野主水その後を承け朱雀四番士中隊中隊頭と為り八月十一日着任す、よって町野隊を以てその付属と為す、大熊作武弥、有賀圓治を小隊長と為し、関場辰治、中川景次郎、眞柄十郎次郎を半隊頭と為す〔累及日録〕。






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村松城の戦(全軍退却)

村松城の戦(全軍退却)

 八月四日柴太一郎、杉浦佐伯、渡部英次郎、桑名の岩崎五太夫、谷三十郎等共に村松城の要害を検し、午時諸将校を会して議せんとしたるに、その使未だ帰らざるに西兵五泉より来り襲い、結義隊、青龍三番士中隊応戦す、砲兵隊は砲一門を曳き馳せて赴き援く、弾丸左右より飛び来り、すこぶる苦戦す、しばらくして砲声稀なり、しかして我が兵十数町を距る沼越街道に退くを見る、杉浦砲兵隊をここに留め馳せて呼んでいわく、我が兵を止めよと、また渡部英次郎を見ていわく、村松城に據らざるべからず、急に兵を止めよと、杉浦また馳せて一瀬総督に見えていわく、我が軍退却せば加茂の我が軍帰路を絶たれ空しく敵の手に委せん、速に決戦して路を開かざるべからずと、総督これを然りとし、青龍三番士中隊を止めて進撃せしむべしと云う、杉浦は令を中隊頭木本慎吾に伝えまた水戸その他の諸兵を止めんとす、大庭恭平いわく、予も又しきりに止むれども、すでにして瓦解して如何ともするなしと、たまたま桑名の士某杉浦を呼んでいわく、今ここに兵を止めんと欲するも得べからず後方の村落に至り議を決せんと、杉浦これを然りとし、先に留めたりし砲兵隊を返えさんと欲し、至ればすでに敗れ来るに逢い共に来光寺に至るも、策の施すべきなく遂に久禮壺村(不明)に至る、兵皆散じて止る者三分の一に過ぎず、杉浦は岩崎、谷の二士に言っていわく、加茂の東軍をして敵に委するは耻辱なり、これより進撃して血路を開かざるべからず、しかれども国境を重しと為す者は宜しく国境に退くべし、義を重しと為す者はこれより進撃すべしと、二人大にこれを然りとし、我が兵を諭すべしと、すなわち去る。
 町野主水は越後退却の我が軍を援けんと欲し、兵を率いて沼峠を下り久禮壺村に至る、この時、村松藩士数十人津川より兵を返すに逢う、彼らいわく、予等は能く地理を諳んず、ゆえに進退意の如くなり、且つ幣城未だ兵火に罹らずと聞けば徃いて一たび決戦せんと欲すと、時に我が軍中国境を重しと為すの議論沸騰し進撃の策ついに決せず、これにおいて一瀬総督の指揮を仰ぎたるに、総督いわく、加茂の兵と約し明夜を以て進撃すべしと議、ここに結す、戍の下刻頃村松藩稲毛源之右衛門来り告げていわく、我が藩相森重内二心を抱き西軍に降り藩士多くこれに属する者あり、すでに津川方面より遁れ帰りてこの近傍に潜匿する者ありて不測の変あるも知るべからず請うこれに備えよ、独り忠実の士藩相堀右衛門三郎、三小隊を率い寡君に従って若松に至ると、この地防戦に便ならざるを以て亥の刻頃久禮壺村を発し子の刻を過ぐる頃高石村に至る〔結草録〕。

 朱雀四番士中隊加茂新田(加茂の北にありて近し)を守しが、村松城の切迫を聞きこれを援けんと欲し、朱雀二番寄合組隊と交替し、辰の刻頃加茂に発し行くこと数町にして村松城の方位に烟稲の揚るを見る、馳せて羽生田村(村松の西三里余)に至れば庄内の兵一小隊これに守れり、未だ村松城の確報を得ず、進んで山路を登り申の刻を過ぐる頃山上より村松城下を望めば全市兵燹の中に在り、尚進んで戦況熟察せんと欲し山を下りて刈羽村(村松の西半里)に至れば日没し砲声息む、小隊頭田母神金吾戦況を偵察し帰り報じていわく、戦すでに終り西兵はすでに前方の村落に據る、今我が兵を以て敵の大軍に当るも勝算あるべからず、よって加茂に退き、しかして方針を決しては如何と、議ここに決し御上峠越(不明)に登り加茂を望めば無数の篝火点々星のごとく、彼らの砲声轟き四面皆西軍の有と為り、東軍はあたかも囊中の鼠のごとし、衆皆憤激して事のここに至るは新発田が同盟に背き敵に降りたるに由ると口々に罵り、その夜隊伍を整えて加茂に入る、佐川官兵衛隊士を見ていわく、子等を敵手に委せんことを恐れ苦心焦慮したるに今帰り来りしは大慶なり、子等の疲労察するに余りあるも、桑名の兵昼間より苦戦なれば、しばらくこれを援けよと、全隊関門に至り西軍を横撃して大に戦い、寅の刻頃に至り退却の令下り、全軍退却して黒水村に至る頃東方すでに白し〔横山留総日記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/21(木) 09:28:55|
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一ノ木戸の戦(全軍退却)

一ノ木戸の戦(全軍退却)

 八月朔日水原、新潟陥るに及び輿板方面および海岸の全軍に退却の令下る、これにおいて朱雀四番士中隊は、この日巳の刻頃退却して三条に向いたるが、西兵もまた舟数隻に乗り信濃川を下り三条に向い、容易に我を追撃せず、我が軍、器械輜重すこぶる多きも沿道の村民皆遁れ運搬の困難言うべからず、黄昏より雨降り行路甚だ艱む、戍の下刻頃三条に次す、砲兵隊は胸壁を洒掃し酒饌什器を整頓し敵将に一書を遺し巳の刻地蔵堂に至る、庄内兵先鋒と為り朱雀二番寄合組隊後殿と為り三条に至りて宿す〔西記、結草録〕。

 この日天未だ明けざるに町野隊新津に至りしに、米澤藩士馳せ来りいわく、米澤萩島(新津の北一里弱)の胸壁を守りしに昨夜西兵の襲撃する所となり、守兵ほとんど殲く、願わくば速に兵を発して敵を撃てと、我が兵これを諾し、能代川(新津より北流して小阿賀野川へ入る)防堤上下の二道より馳せてこれに赴き萩島村に入りし此、村長の家、急に螺を吹き、鐘を打ち、農兵を集めて我が兵を拒がんとす、すなわち農兵二人槍を提げて出でたれば我が兵、銃を放ちて一人を斃し、一人を遁る、関場辰治、木本幸次郎は兵数人を率い進んで村中二本木の渡口(小阿賀野川の渡口なり)に至り、村民等小舟二三隻に西兵を載せ前岸に航せんとするを見て、我が兵これを射撃して船夫を斃し西兵皆水に没せり、少時にして二本木の胸壁より烈しく銃を発す、我が兵応戦未の刻頃に至る、我が兵遠藤伊三郎弾丸に口を貫かれて死し、農兵皆遁れ去る、すなわち火を村長の家に放つ、時に米澤の陣より告げていわく、見附に在りし新発田の兵西軍に応じ西大崎(三条の東南半里許)に至ると、これにおいて兵を収めて新津に至れば町野および米澤の諸隊すでに村松に退く〔累及日録〕。

 この日朱雀四番士中隊中隊頭佐川官兵衛は軍事奉行頭取を命ぜられ席若年寄格を下賜せらる、但し当分の内、朱雀四番士中隊中隊頭心得の命あり。
 八月二日早朝我が三条の軍兵を部署し青龍三番士中隊、砲兵隊、結義隊および桑名兵は加茂、村松方面に当り、青龍二番足軽隊は森町方面に当る、諸隊続いて三条を発し西兵追撃す、新遊撃隊長佐藤織之進の一ノ木戸を発するや、西兵五十嵐川前岸より砲撃し、新遊撃隊これに応戦す、砲兵隊、水戸市川、筧、朝比奈の諸隊、桑名の砲手等皆馳せてこれを援撃す、また庄内藩中村七郎右衛門三小隊を率い川を渡り奮戦す、砲兵隊組頭中澤志津馬戦死す、砲兵隊士杉浦佐伯は軍事奉行頭取佐川官兵衛のこの地を守るの得失如何を問う、佐川いわく、凹地にして據守するに便ならざれども退くには自ら機会あり、しばらく防戦して令を待つべしと、佐川は先づ一瀬総督に加茂に退くことを勧む、総督いわく、予豈に衆に先だちて退くべけんや諸隊と共にすべしと、佐川いわく、桑名の総督服部半蔵は已に退きたれば願くば止まることなかれと、総督これに従へ青龍三番士中隊、砲兵隊、結義隊これを警衛す、夜に及びて一ノ木戸防備の将庄内藩中村七郎右衛門兵を率いて退く、佐川怒っていわく、卿等令を待たずして退くは何ぞや、中村いわく、全軍退くとも聞きてこれに傚ふ、もし誤ならんには速に兵を返へすべしと、佐川これをして一ノ木戸に向はしめ杉浦佐伯をして斥候せしむ、杉浦馬を馳せて一ノ木戸を過ぎ田島(三条の東に在りて近し)の舟橋より前方村端の堤上に至り我が諸隊すでに退くを見る、西兵銃を発するのみにして未だ河を渡らず、杉浦は帰路庄内の将校に逢い防戦の策を議し、三条に帰り佐川に報ず、時に子の刻、軍事局柴太一郎、柳田新助、杉浦に言う、すでにして退却の機熟せり君の意如何、余等しばしば佐川氏に告ぐるも、あえて聴かず願くば足下これを告げよ、杉浦諾してこれを佐川に告げたるに佐川大に叱していわく、衆しばしば余に退却を勧む、子独り言うはず能く、余が意を解せりと思えるに豈に科らんや、子もまた衆と共にこれを勧めんとは、余独り止まりて戦うべし、衆皆去れと〔結草録西記〕。

 朱雀四番士中隊は内川の岸を守り形勢を視て砲兵隊を援けんとす、朱雀二番寄合組隊は内川を渡る、西兵銃を発して戦を挑み我が兵応戦す、夜に入り間道より兵を進む、朱雀四番士中隊小隊頭木村理左衛門止まりて全軍の退却を待つ、朱雀二番寄合組隊、庄内の中村隊後殿す、諸藩大軍の輜重堆集するも三条の市民皆負擔して遁れ役夫を得る能はず、隊兵辛うじてこれを運搬し寅の上刻頃全軍加茂に至る〔横山留総日記〕。

 町野主水の村松を発せんとするや、隊士関場治、東重次郎、町野に問いていわく、今や村松城中空虚なり、我が隊は米澤、桑名の兵士市中に遺棄する器械糧食を収めてこの城に據り、一瀬総督、佐川隊長等の帰るを待つべし、決して我が諸隊をして敵に委することなかれと、町野は村松の兵一人もあらざるに何ぞ我が寡兵を以て拒守するを得んやと云うて聴かず、時に村松駅亭の近傍に米澤の兵器械を遺棄するもの多し、また沼越の経路より来光寺(不明)に至る途上多く小銃弾薬を遺棄す、我が隊これを運搬し、後数十日間の戦に乏しからざるを得たり、高石を過ぎ沼越峠に至り(この山は会津の封域小川庄の境界なり)山上に土壘を築き玄武隊これを守る、日すでに没し長谷川村(不明)に次す、この村は我が封域小川庄にして若松城下を距ること十八里十八町なり〔累及日録〕。

 八月三日朱雀四番士中隊加茂を守り厳に防備を収む、この地の近傍は新発田の領域に属す、人民騒擾し鐘を打ち鼓を鳴らし竹槍を携えて群集し我が軍の退路を絶たんとす、新発田藩士これを教唆すと云う〔横山留総日記〕。

 我が軍諸藩の遺棄たる弾丸を収拾したるもの一万八千余発なり、桑名の希望により六千発を分配贈し、六千発を軍事局に致し、残余六千余発を朱雀四番士中隊に分つ〔横山留総日記〕。

 加茂の市民負擔して難を避くる者多く大軍駐屯し糧食缺乏す、これにおいて加茂の庄屋市川某に交渉したるに、某は百万力を尽くして斡旋し缺乏を免るゝを得たり〔横山留総日記〕。

 この時に当り、西軍来り迫り諸道皆塞がり大軍を退却せしむること至難なり、加之病者を搬送せんと欲するも役夫を得る能はず、軍事局の苦心慘澹たり〔横山留総日記〕。

 申の刻頃総督一瀬要人は青龍三番士中隊、砲兵隊、結義隊を率いて村松城に赴く、時に桑名の山脇十左衛門が発したる間諜帰り報じていわく、村松城中一兵を見ずと、佐川は杉浦佐伯に命じていわく、疾く徃きて砲兵隊を以て占拠すべし、明日朱雀四番士中隊をして援けしむべし宜しく桑名の岩崎、谷と相謀りて防守の策を講ずべしと、杉浦いわく、砲兵隊精鋭なりといえども二十人に過ぎざれば何ぞ敵の大軍に当るを得んや、しかれども奮闘斃れて止まんと、夜兵を発して黒水駅(不明)に至り桑名の雷神隊および水戸兵に逢う、水戸の萩勇太郎は杉浦に向って桑名は確乎不抜なりといえども、我が兵は瓦解し残兵二十人に過ぎざれば、加茂に徃きて援を請はんと欲す、願くばこれを周旋せよと云えば、杉浦は軍務の止むべからざるを告げて村松城に至る、一瀬総督、砲兵隊、青龍三番士中隊、結義隊、衝鋒隊、水戸兵在り、須□にして岩崎五太夫、谷三十郎来る〔結草録〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2

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  1. 2013/03/20(水) 11:34:08|
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川手幸八の殉職(赤谷口の攻防)

川手幸八の殉職(赤谷口の攻防)

 熊倉代官川手幸八は我が軍隊進発の後も熊倉に止まりて代官所貯蔵の米を若松城に輸送することに努力したるが、未だことごとく輸送を了らざる中十四日敵軍若松城総攻撃の風説あり、幸八は到底その任務を果たすことを得ざるを慨し、これにおいて残米を敵手に委せざらんが為、ことごとくこれを焼棄したる後、従容屠腹して死せり〔遠藤蕃筆記〕。





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  1. 2013/03/20(水) 11:23:27|
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