いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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ふう〜

読者の皆さん、長くて難しい会津戊辰戦争史の読解作業御苦労さまでした!

なんとかようやく会津戊辰戦争史書き起こし終了。ずっと座りっぱなしだったので腰が痛いです・・・。とりあえず羽をのばしたいので当分手をつけませんので読者の皆さんも御安心しておくつろぎくだされ。

でわでわ、その内に又、強力なネタを書き起こす為に戻って来ますので、御自愛して御待ちくだされ(・・)/







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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/04/24(水) 18:13:57|
  2. お知らせ
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解題

解題

 丸山国雄



 明治維新史上会津藩の立場はまことに興味深々たるものがある。見方によれば、幕末史における左幕雄藩の中にて異質の存在とも言い得る。特に京都守護職在任中公武一和の精神に徹し、孝明天皇の篤き信任を賜い、一方頑迷な江戸在任の老中に抗してひたすら皇居の守衛と治安の確保に努力した。
 会津藩に関する幕末維新の通史は他藩にくらべて寥々たるものがあるが、纒ったものでは山川浩著京都守護職始末、北条雅長著七年史及び本書を挙げることができる。だがこれらの書も他藩の書に比して数段劣るものがある。それは征討軍の包囲下に城下が焼失したことと、明治以来久しく賊軍の汚名を受けたため同藩関係者の史料が散逸してしまったからである。最近維新史の研究が進み、勤王諸藩の言動についてもその真相が解明せられるに及んで、佐幕諸藩の研究も活発に行われるようになり、当時の世界情勢、欧米列国の帝国主義的植民主義的野望遂行の一環としての日本の立場、国内における政情の複雑性や雄藩の野望がひき起こした国内闘争の真因が鮮やかに描き出されるようになった。
 本書は七年史の次を補うべく書かれたもので、主として藩主容保の京都守護職就任以後について詳述されている。特に大政奉還後新政府の幕府に対する処置についての不平から起こった鳥羽・伏見の戦争以後に重点を置いている。
 既に藩主松平容保は終始一貫して朝廷に恭順の意を表していたが、旧幕府を徹底的に膺懲しようとの計画を立てていた薩州藩は討幕挙兵の口実をつくるべく、江戸を中心として暴動を起こし、遂に開戦するに至った。事の経過は「七年史」に記述されているが、なお詳かでない点があり、本書を発行してその次を補ったのである。原書は十一卷からなっているが、本書はこれを上・下二卷に収録し、上卷には大政奉還から奥羽鎮撫総督府の設置、荘内藩の降伏までを収め、下卷では主として長岡の戦闘から会津城の攻略までを記し、会津藩降伏後の善後処置について述べている。なお第十一卷は松平家譜及び会津へ入る口々、征討軍の暴掠の状を記し、東北・越後諸藩の抵抗の状を補っている。




 本書の記事はほぼ編年体を用いているが、これを項目別に分け、類従体も併用している。七年史と重復しているところがあるが、奥羽鎮撫総督下参謀世良修蔵(長州藩士)の行状について詳記し、暗殺された原因を明かにしている。また白虎隊の屍体埋葬についても問題があり、征討軍一部の者の中には釈然としない者があったが、滝沢村肝煎吉田伊惣次が飯盛山にその屍体が散乱し、風雨に晒されて山鴉野犬の餌となる惨状を目撃し、村民と謀って棺をつくり、屍体を収容納棺して妙国寺及び飯盛山に埋葬したところ、東軍征の兵に発見されて檻倉に繋がれて訊問されたという。また一般戦死者の埋葬についても町民の拠金によって行われ、阿弥陀寺及び長命寺に分葬し、墓標に殉難之墓と題して建てたところ、参謀よりその撤去破壊を命ぜられた。
 特筆すべきは二十余名からなる女隊が従軍を志願したことである。軍将はこれを許さなかったが、切に乞い藩軍の後に従って出陣した。何れも剃髪し、袴を穿ち、薙刀を提げて参戦した。二十才を過ぎたばかりの若き女性が中心であった。戦後一般藩士は旧南部領の一部であった斗南に移封されたが、同地は不毛地帯で全部を移住せしめることは不可能であったので、一部は会津に留まり、或は農商に帰するもの、或は北海道に移住する者、或は東京その他の地に移り、全国に散逸した。その苦難は辛酸を絶するものがあり、筆者も生存者から直接話を聴いたものである。
 会津城を攻略するには、盆地のこととて多数の人口がある。その口々が記録されていることは研究者にとって非常に便利である。また教育方針については「会津藩教育考」が本叢書に含まれているので省略する。
 本書には落穗集ともいうべき挿話が多数収められているので、会津藩の研究には是非一読の必要があるであろう。また最後まで執擁に抵抗した同藩の意向が如何なるものであったか、その目的、士気昂揚の原因を見る上に役立つものが多い。










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  1. 2013/04/24(水) 10:12:07|
  2. 会津戊辰戦争史2
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会津戊辰戦史 増補

会津戊辰戦史 増補

本書第一四ページ慶応三年十月二十一日記事の末に左の一節を入る。
 『この日聖上には大納言中山忠能卿、同三条実愛卿、中納言中御門経之卿を御前に召され勅していわく、徳川慶喜既に政権を奉還せるを以て姑く其の実行を見んと欲す、因て去る十四日薩長二藩に命ずる所の事件は宜しく之を中止すべしと、これにおいて中山卿は薩藩吉井幸輔を其の廷に召し左の御沙汰書を伝ふ。

去十四日申進候条々其後彼家祖已来行来候国政を返上し深以侮悟恐懼之趣申立候に付十四日之条々暫見合実行否可勘行諒闇中且生民之患に関係するに依り深遠の思召を以て再被仰出候事
 十月二十一日
忠能
実愛


 且つ之に命じていわく、藩主父子の中一人上京せば之を伝へ長藩には其の藩より之を伝諭すべしと、けだし之を二藩の本国に送致せしめざりしは其の人心に疑惑を抱かしむるの虜あるを以ての故なりと云う、これにおいて形勢一変し、十四日の討幕密詔による諸計画は之を決行するに及ばず、終に平穏に王政復古の盛挙を見るに至れり〔岩倉公實記、島津久光公實記〕(この記事の本書に洩れたるを発見したるは監修者山川男爵薨去の後に在り、よって玆に増補す。編纂委員招莊田三平)。









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  1. 2013/04/24(水) 10:05:54|
  2. 会津戊辰戦争史2
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敵軍の暴掠

敵軍の暴掠

 戊辰九月の始め米澤藩先づ西軍に降り尋いで使者を我が藩に遣わし降を勤めて云う、我らが賊軍として戦いし者は実は王師なり、現に越後口総督嘉彰親王、錦旗を進めて塔寺村にあり、王師に抗すべからずと、我が公曰く、予初め各藩に依り哀訴歎願数回に及ぶも省せられず、猥りに兵を進めて封内を劫掠す、これ眞に王師の為さゞる所にして姦邪の為す所なり、予豈に王師に抗せんやと、これにおいて降を乞うに至りしものなるが、西軍の残暴掠奪は実に意想の外に出で、その一端は本史に散記せしが、なお当時その所業を目声耳聞して筆記せし辰の幻、戊辰見聞漫筆〔柴五郎著〕、耳目集〔商人齋藤和節著〕より左に之を摘録すべし。

一、王師などゝ称へし敵は野蛮の甚だしき行のみ多かりしは言語の外なり、商工農家を問はず家財の分捕は公然大標札を建て薩州分捕、長州分捕いわく、何藩分捕と記し、しかして男女老幼を殺戮し強姦をば公然の事とし陣所下宿には市井人の妻娘を捕え来りて侍妾とし分捕りたる衣食酒肴に豪侈を極めたることは当時市人の目撃したる所なり。

一、若松愛宕町の呉服および質店森田七郎右衛門の土蔵は薩州隊と肥前隊とにて分捕を争い薩州隊は自隊の不利を憤り焼弾を投じて土蔵を破壊し彼我何等得る所なかりき、其の後森田は此の焼跡の灰を掻きて金魂を得たりとのことなり〔以上戊の幻〕。

一、若松大町より以東の町々は早くより西軍の営となりし故薩長を始め諸藩の隊は家財または焼残の土壌に分捕の標札を掲げたり、避難より立返りし市人は相当の代値を拂って西軍より家財を買い戻すことを得たれども遅く帰りし者共は既に無一物となりて何品をも買い戻すことを得ざりき〔戊辰見聞漫筆〕。

一、戊辰八月二十六日(前略)土蔵を持合わせて此の日までも落さゞる族は人馬にて諸品を持運びつれども吾らがごとく土蔵は持たずたまたま人の土蔵にたのみ置て其の土蔵焼けをちたりし人は誠に手持無沙汰にて歎くに堪えたり、斯くする中分捕と名づけて残りゐし土蔵を破り、又は程遠く持出置きたる品々を盗みとりぬ、誠に衣食住に離れて艱難至極して途方にくれける人を其の上に掠むるはうたてきとも歎かはしとも沙汰の限りというものになり。

一、九月十八日(前略)昨日の戦争には死人多くありて中々通行するも気味わるしと逃げ来る人の申すなり、この時よりは南町口の通行出来ず御城内の往来四方塞がりけるとなん此故か諸所の分捕誠にして山中まで捜し奪う由の噺聞ゆれば、この村(澤村)も途中まで来りしと猶々さはがしかりなり。

一、十月廿四日廿五日、この両日の記事の概略は『他人の土蔵に入れ置きし家業の大釜二組および小釜数箇は土蔵焼落の後その付近に仕舞置きたりしが廿四日往きて見れば其の大釜小釜に薩州二番隊分捕の張札あり、大に驚き古川御殿前の番兵所に出頭し下渡を請いたるに償い金六両差出すべしと云う、待ち合わせなければ明日まで猶予を請い廿五日金子を才覚して再び訪ひ官軍に掛合たるに此の釜一切は某村肝煎山口某が買受の約成れりと云うを聞き、たまたま来合せたる山口某の承諾を得てようやく買い戻せり、今一足遅くんば他人の所有となるべきに、今日亡父の命日なれば其の守護によりなるべしと喜びたり』とあり。

一、十月十五日頃(概記)各村に一揆起こり農兵は手に手に鋤鍬鎌類を携え予て非道の聞えある村長の家を打壊し、あるいは放火し、その家の諸帳薄手形証書類を取り出して之を焼却し、または金銭を取り出して貧民に投げ輿へたり平素村民を厚遇し人望ありし村長は其の災厄を免れたるも驕慢無慈悲にして彼の官軍の例に傚ひ分捕等をなしたる村長は最も手痛き目に逢い一家丸焼になりし者もあり、先に我が大釜の分捕に逢いしとき之を買い求めとして金子を所持せし山口某の如きも兵火の際焼け残りし一箇の土蔵を毀たれ中に積み置きし物品を取り出して焼棄せられたり。

一、この頃官軍の人としばし道連になりしに此の人の咄せしを聞かぢりしに、扨々会津の家中は内福なものぢや、分捕に分捕を重ねれども珍器財宝よもつきじぢや、大きな家に入て見れば大小の腰の物二十腰三十腰持たぬ家はなく、中には五十も百もあるのぢや、みなみな其こしらへの善事金銀を惜しまずに鏤めたりいと見事の細工物も御座った、また懸物書物類は山に積んでぢや、夫に準じて衣類諸道具も沢山にて中々大ていぢやなかつた町方とても少し大きな家に入て見れば同じ事ぢや、又吾々が仲間の咄にも去年外のさふらひ屋敷は家こそ小さけれど家中にも劣らぬ物持があつたとさ、分捕してのあとを焼拂ふには実にをしかつたといいました、中には大金を井の中や泉水へ投げこみ置し家もありました、誠に以てをしき事をしたやうぢやが君命なれば是非がないのぢや、云々と話を聞き何とも答えのしやうがなければ只左様左様と計りにて別れにけり〔以上耳目集〕。






卷十一 附録





会津戊辰戦史 

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  1. 2013/04/24(水) 09:54:52|
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幕府陸軍高等武官の一部

幕府陸軍高等武官の一部

陸軍奉行 諸大夫 五千石高

同並 同 三千石

歩騎砲兵奉行 同 三千石

同並 同 高不詳

歩騎砲撒兵頭 同 二千石高(慶応三年の武鑑に砲兵組之頭布衣千石高とあり)

同並 布衣 千石高

諸兵指図役頭取 目見以上(富士見寶蔵番組頭之上席) 四百俵高

同指図役 同 不詳

同指図役並 同 不詳


 右の諸役の或るものに勤方と云うものあり、これは部屋住の者の任命せられしものなるべし。

 幕府の官制と今の官制とを比較するは困難なれど大体次のごとくなるべし、陸軍奉行同並は今の陸軍中少将に該当するものゝ如し、諸兵奉行同並は大佐に相当し、諸兵頭同並、諸兵指図役頭取、指図役同並はそれぞれ中佐少佐大尉中尉少尉に相当するものゝ如し、右の外諸兵頭並と諸兵指図役頭取との間に、諸兵指図役頭取改役あり、頭取より少し格の上なる官なり其の待遇詳ならず。
 諸大夫は五位に叙せられ任官せられて何官何頭等と称す、但し其の職務なきは勿論なり、布衣とは幕府役人の一階級にて六位に相当すれども叙位なし、また六位に相当する官名を称することなし、目見以上の者は将軍に謁見し得る者を云う、高とは役相当の知行高を云う、仮令ば陸軍奉行に任ぜられたる人の家禄五千石以上ならば別に給輿なし、もし五千石未満ならば不足分を蔵米を以て補足するものとす、これを足高と云う、歩騎砲工兵は召募兵にて概ね農工商出身なり、無頼の徒も少なからざりきと云う、奥詰縦隊は番方の人、即ち大番、書院番、小性組、新番、小十人等の士を以て編制せるものなり、しかして武鑑には奥詰銃隊頭五千石高とあれば無論諸大夫なりしならん、また同並三千石高とあり、撒兵隊は幕府の家人を以て編制せり、奥詰銃隊、撒兵隊は慶喜公将軍に就職後の改革にて出来たるものにて之に関する法令は不備なるが如し〔山内長人男書面、編者記憶〕。






卷十一 附録

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  1. 2013/04/24(水) 09:34:06|
  2. 会津戊辰戦争史2
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天神口の進撃

天神口の進撃

 鶴ヶ城内城の諸口中、三の丸の南門最も手薄なり、しかして外郭の天神口は南門より僅かに一丁に過ぎず、如し天神口にして破れんか三の丸甚だ危うし、北出丸、西北丸諸口の容易く破るべからざるにより、三の丸南門の手薄なるを知れるか知らざりしか、大町通りを南進せし敵の部隊は、南町口を出で天神口外郭門に迫れり。

{この時敵の進路につき石黒則賢は本文のごとく主張し、藤澤正啓は城の東西を回りて進みしと主張す『若松記』また元北原釆女の臣荒川類右衛門勝茂の『明治日誌』によれば、進撃隊は敵兵を追いて西に向って進みしなり、これより察すれば敵は四方に退却せること明白なり、普通の場合進路より退却するものなれば石黒の説に従う。}

 この時城内には編制せる軍隊なしと云うもべきなり、ゆえに急遽居合せたる人を以て一隊を編成し、小室金五左衛門を隊長とし、入江庄兵衛、武井柯亭、和田伝蔵を組頭とす。

{石黒則賢の話によれば別に隊長を命ぜられしを聞かずと、併し諸人の説を総合するに本文の如くなるべし『戊辰殉難名簿』に和田伝蔵附、また入江組などあれば、入江、武井、和田の三人が組頭を命ぜられしものゝ如し、当時非常なる混雑の際にて隊長、組頭の任命が隊士に普く知れ渡らざりしなるべし。
『明治日誌』によれば山浦鐡四郎もまた将長の一人なりしが如し。
武井柯亭が書きたるものゝなかに、
『石筵戦不利、亀城亦随而陥矣、敵直進迫鶴城、而南門最急、公至此使勒城中精兵拒焉、其兵僅々不満百、小室某将之、余輿入江某佐之、隙黒川而戦、我衆奮闘乱流、中流斃者十数人、河水為之亦、実明治元年戊辰八月二十有三日也。 柯亭琹士泰。
厳令新下募貔貅、正是人臣致命秋、東照宮前連砲碽、管公遺恨誓将報、数世鴻恩奈叵酬、雷鳴天若墨、淄川忽作赤川流。
とあれば武井と入江とが組頭たりしは疑を入れず、今『名簿』に従い和田伝蔵をも組頭に加ふ。
外郭天神口の南に東照宮あり、湯川は元黒川と云う、淄川は即ち黒川にて湯川を云う。
『若松記』に『小室礒上入江等を頭括の任に命ぜられ』とあり、また進撃者名簿の内に礒上内蔵丞の名あり、また八月二十四日に新に編成せられたる小室進撃隊の組頭に礒上内蔵之丞が命ぜられ、武井柯亭は反て其の下にて甲長に命ぜられたり、これより見れば二十三日進撃の時組頭にはあらざるか、併し少数の隊に組頭の四人ありしは疑うべし、これも混雑の際なれば斯ることも有り得べきなり。

この進撃に『若松記』に左の記事あり。
 しかるに斯迫るにおいては進撃に不若と城中に有合輩二十歳より三十五歳に至るまで文武の官に限らず大広間前(御広間の誤なり)に着到すべきの令再三あり、令を聞て馳せ集まる者年齢に不限義心決心の輩八九十人その大概

頭 小室金五左衛門 
組頭 武井柯亭
礒上内蔵之丞
入江庄兵衛
山口栄吉
八島清三郎
外田数馬
野村権之進
村松八太郎
渡部多門
高田正作
渡部彦太
沼田吉彌
荒川類右衛門
小林薫之進
山田熊之助
栗原市次郎
榊原市次郎
赤井伴助
兼子善助
齋藤市太郎
牧野留五郎
齋藤長助
齋藤岩治
高橋勇三郎
小山萬五郎
和田伝蔵
鈴木延次郎
山田伴助
齋藤右近
津吉啓治
仁科勇八
赤塚喜三郎
柳下恒吉
太田喜市
川井留五郎
安藤監治
春日郡吾
梶原悌蔵
島田治兵衛
平向俊吾
津村粂之助
角田覚四郎
赤塚彦三郎
三瓶忠蔵
石黒恒松
軍目付 井深右近
高津安之助
板橋友蔵(『名簿』に別選組佐川隊、某所傷若松病院、また『若松記』に『手負後死す』とあり、また『名簿』に板橋丑鐡、進撃小室隊八月二十三日天神下とあり、思うに友蔵は丑鐡の誤りならんか)
大和田亀三郎(亀太郎なるべし後のに掲ぐる天神口戦死者氏名表を見るべ)
野村源次郎
山浦鐡四郎
軍目付 千葉盛之進
川上小膳


{編者云う右は第一回の進撃に加わりたる人のみにあらず、第二回の進撃に加わりたる人をも含む、また右の表より洩れたる人もあるべし。}

 進撃の君命を蒙り辱くも昵近(昵近の士が酒の酌をなしたるを云うなるべし)を以て酒を給り西郷頼母取合(君公の命を伝ふるを云う)にて紐制の輩は士中に、襟制の者は三の寄合(会津藩諸職班位表を見よ)に座席を進められ小室、礒上、入江等を頭括の任に命ぜられ上下義心決心凝定三の丸南に集まりたり此頃長州一中隊(これ土州の兵なるが如し、なお調ぶべし)計り南町大橋の辺より湯川に沿て登り来り天神口に迫りて頻に発砲(砲の誤りなり後にも同じ誤りあり)する故門の守兵其他有合丸山喜内、中野輿五郎、目黒源兵衛等進撃せんとする処に浅羽忠之助等も来り小室以下を始めとして一同閧を作り門を開けて必死の鋒を連て突衝しければ敵も頻に発砲せしかど我兵怖るゝ色なく死傷を蹈越し々々短兵急に接ければ其鋒先当りがたくや思いけん忽ち敗走して湯川を渉り淨松寺の石塔を楯とし打放せし故我兵忽河辺に進者二十有余人戦死一先づ郭内(外廓内即天神口門内を云う)に兵を揚げて石垣堤杉等を楯とし暫く炮発敵を退けたり其隙に敵の足溜りを除んと延壽寺(天神口内東照宮の別当なり)、御宮(東照宮なり)に火を放つ佐々木盛之助、渡部多門等、梶原平馬(藩の家老なり)の令を伝へて豊岡社(藩祖以下を祀る社にて東照宮の東に在り)へ火を放つ夫より天神郭(口とすべきか)を守りたり〔若松記〕。

{小室金五左衛門の孫小室英夫が、金五左衛門の従者穴澤友吉に聞きたる天神口進撃の記事会津会々報第十七号に在り、その内に、
『八月二十三日午後一時過ぎ祖父は之等の兵(前に四十五名を集め得たる記事あり)を率い六月十二日(白河方面に戦ありし日を云う)頬の傷口のために繃帯を為せるまゝ指揮刀の代わりに三尺許なる葉のつける松の枝を持ち先頭に立ちて城を出で周囲の敵を迫(追の誤なるべし)い拂ひ大町通り鈴木作右衛門の家敷迄焼き拂ひて城に引上げたり生存者十五名これ第一回進撃なり、帰来直ちに黒鐡御門にてその結果を容保公に言上せしに御嘉賞ありて祖父は若年寄上席に進められし由(祖父が友吉に向いて「金五左衛門に付き南御門天神橋に進撃致しました」と申し上げよと云いし故に友吉は西郷頼母に之を告げしに「一の寄合を申し付く」と申し渡されしと云う云々』会津会会報}


 また鉄砲の精兵をすぐり礒上倉(内蔵の誤)之丞指揮し渡部多門、山口栄吉等二十余人南郭門(天神口の西にあり)に出て打んとするに学校(日新館なり)の潜敵勵しく発砲ゆえに暫く米庫(内城西北出丸の南廓内にあり俗に十八蔵と云う)の北堀端の小堤を胸壁として打合といえども功も見えざれば先づ讃岐口(西北丸の南門)より入城君前に出て形情を伸す。

{前に掲げたる穴澤友吉の説によれば、進撃隊は敵の北ぐるを追い郭外において西下し、南町口即ち南郭門を入り鈴木作右衛門邸付近まで進み、夫より帰城したるものゝ如くなれば、磯上が指揮して戦いたるは此の時のことを云うべし。}

 春日郡吾浅羽忠之助等進で天神橋を渡りしが敵中に入りて城中に返し入る不能彼是六人南面川に至る〔若松記〕。

 扨此小室等進撃に及ばんとして競い進む時西郷勇左衛門(近潔、この時若年寄なり、三ノ丸南門付近に居りしならん)兵を分ちて豊岡の方にも赴くべき旨下令すといえども燃光の気充満各先進を争い耳に入るゝ者なく中に鹿目幸之助、小山萬五郎、齋藤幸助等六七人豊岡守衛に向はしむ輙命を受けて直に豊岡に至りしが止守詮なしと柵を躍り出川端(堀端の誤か)に赴き鹿目以下三人の者共四五発づゝ発砲、敵は川向より烈しく打放難敵三人取て返し西郷勇左衛門に兵二三十人の援を請う、勇左衛門云向はしむべき兵無樓(本丸と二ノ丸との間の堀に架したる橋の名)、陣将(家老梶原平馬なるべし)に赴いて乞うべしと、ゆえに鹿目、齋藤走りて廊下橋に至り乞といえども同く寡兵なり、鐡門に至て乞うべしと不得止又鐡門に趣西郷頼母に委細を達すれば至極然りといえども爰もまた差向べき兵隊もなし、汝ら馳廻て兵を集むべしと云此節君前にて両人進撃嚮導に被命奥番(君側の役、小性の故参者命ぜらるゝ例なり)中田常太郎も周旋して兵を集め稍集るといえども頭なき故漸々散す故に鹿目、齋藤等頭括する仁を乞即刻山浦鐡四郎(手負いにて傷病兵を収容したる大書院に有しか蒙命強て出つ)公に謁し、兵衆も共に公に拝謁し流杯(貴人より賜る杯酒をオナガレと云う)を賜り感戴し血戦を盟て廊下橋に兵を揃ひ直に豊岡に向ふ兵数十人余(若松記、山浦を長としたる一隊は元豊岡守衛の為、編成せられしものなれども其の一部のみが豊岡を守衛することゝなり残余は第二回の進撃に加わることゝなりしならん)此比小室隊を始天神口より突衝する者共すこぶる苦戦ついに敵を追退くといえども我兵の死傷甚だ多ければ一先づ兵を掲げ重て進撃すべしと梶原平馬馬を馳せて赴き令す、故に兵衆一同城中に掲げ君公直に兵衆召労り且つ再び同所進撃の命を受〔若松記〕。

{小室隊の一部は讃岐口より入城せるも、一部は天神口に止まりたるにより梶原の命にて入城せしが如し、隊長小室は何れのところにありしか詳ならず}

 延壽寺前に勢ぞろいし一同閧を作り突て出でければ敵散乱し小室隊は文明寺前(この時野村源次郎疾進して文明寺に火を放ち焔燃)山浦隊は竪町と両道に分つて追撃せんと欲する処、文明寺前火上て小室隊進む不能川を渡て湯川に沿て下り追遂(この字不明)するに敵退きて更に不見漆原にて両隊併合花畑口より入り云々〔若松記〕。

 進撃隊の一員たりし荒川茂の『明治日誌』に進撃の概状を記述すること次の如し。
『敵追々に城に迫り弾丸雨の如し城中よりも有合の銃砲を以て防戦の道を尽くさんと塀に臨めば敵の弾丸塀を貫き傷く者多分これあり櫓より楯を出して砲を防ぐ、然るに天神口大切迫に相成り敵討入らんとするを以て騒ぎ立ちたり早く進撃致すべき命令頻りなり、その時奥番田中常太郎を以て釆女臣も進撃に差出たせと御意之あり。

{この時より籠城中君公は鐡門即ち黒金門に居住せられ、釆女は君側にあり、勝茂もその付近に在りしなるべし。}

 よりて荒川類右衛門、富田三郎、櫻田勇(何れも釆女の家来なり)三人釆女君一同御前に出れば常太郎御披露にて御二方様(老公父子を云う)へ御目付被仰付三人御直臣に被召出類右衛門儀士中一の寄合三郎勇二の寄合席に西郷殿より仰渡され、

{荒川勝茂は北原の世臣にて陪臣なれども家禄百三十石を領し、獨禮目見し茶紐を許され居りし者なるが、激励の意にて異数の陞進を許し士分となし黒紐を許され、富田三郎、櫻田勇は浅黄紐の者なりしが、これまた士分となし花色紐を許されたるなり、石黒則賢の話に此の時士分は物頭席に、士分以下は士分に取立てられたりと云う。}

 恐れ多くも宰相公より御流の御戴頂戴被仰付御酌は御小性御坊主、

{武家の城中等にて今の給士の如き役を勤むる者の内若きは有髪なり、これを会津にては毛坊主と呼び、年長者は剃髪せり、総称して同朋または御坊主と云う。}

 を以て御肴鯡を賜り存分に進撃致すべき旨御直の御意を蒙り誠に以て身に余り感涙膽に銘じ御前を退き山浦鐡四郎を主とし総勢三十八人程その内鉄砲二十人程余は鎗組なり、樓下橋にて勢ぞろいなしたり其の時に一首を詠ず。

進撃にいつるとて白麻はちまき
にかいつくる

かはねをは野山によしやさらすとも
おくれはとらし武士の道

  荒川類右衛門勝茂(行年三十七歳)


 斯くて刻限は八ッ半頃一同閧を作て天神口より討て出で元より討死と一同固く誓約なせし事なれば跡へは一足も引かじと無二無三に突入討るゝ屍を乗り越乗り越喚き叫んで進みけるに敵も其の勢ひに怖れ敗走す、得たりと追撃す、惜しむべし憐れむべし湯川川原にて忽ち二十人余討死す、敵の足溜りなる延壽寺へ火を放ち、

{荒川勝茂は進撃を一回とすれども『若松記』並びに穴澤友吉の談によれば其の二回なること疑なし、記憶の間違いならんが不審なることなり、また二回目の進撃の三時此なりしは『日誌』と穴澤談符合す、その時の死者は野村源次郎一人なりしは『若松記』と『日誌』と符合す、穴澤は富田三郎を負傷者とし、他に死傷者なしとすれども野村の死は争うべきならず、穴澤談『若松記』は富田三郎のみを負傷者とすれども『日誌』は外に井深右近を負傷者とす。}

 小室組は文明(寺の字を脱す)前山浦組は堅町を下り林昌寺へ入り湯川を徒渉して小室組と合兵となり(徒渉のこと、合兵のこと、『若松記』と小相違あり)諏訪通りより(花畑口より入りしこと『若松記』にあり)郭内へ入り一ノ丁へ出て堀半兵衛(半右衛門の誤なり)邸の裏門打ち破り鎗組閧を作りて一同打入りたり鉄砲組は大町通りへ向う鎗組長屋に入れは焼火ありて敵は逃げ失せたりか、ますます進んで北原邸へ入れば、これも廚の圍爐裏へ火を焼き兵粮等を炊きし有様にて敵は皆逃失けり、一同閧三声を揚げ門を出て北方を臨めば敵は街道を理(埋の誤か)みて押寄せたり、東西二方より砲声聞へ亦一ノ丁より発砲し味方の後を断んとす、来る弾丸は雨の如し、山浦大音掲げ敵に後を断れば味方皆殺しとなる疾く引き揚げよと、ありけれは一同引て御用屋敷裏門を破て御庭へ飛入る其の暇に野村源次郎打貫かれ介錯々々と叫へと早や敵は雲霞の如く群がり来る介錯の暇もなく御殿へ入れば御座の御品々は取り乱れ実に哀れなる有様なり、一同免れぬ処なり御殿に火を放ち自刃せんと火を放ち(この四字重復せり)一同覚悟を極めたりしに、山浦声を懸け無益なり如何にしても此場を免れ城中へ入り再挙を謀るべしと頻りなり、皆これに応じ散り散りとなり裏門より遁れ出しは飛丸雨霰の如し米代一ノ丁の川を匍匐し割場の塀へ依り沿へて身を以て免れ西出丸御門より引き揚げたり時に手負いは井深右近、富田三郎股を打抜る白刃を杖とし御門に仆る穴澤最助肩を打抜る戸扉に載せ小書院病院へ送る野村源次郎は大町通り御用屋敷角にて咽を突て死す愍むに堪たり直ちに君の御目見被仰付進撃の景状具に上聞に達す、その人々には長坂源吾、荒川類衛門、三留又右衛門その他は不明なり、皆感涙に咽ふ扨進撃の者一同相纏ひ居り候様被仰付此夜は御広間において夜を明したり。

{但し右言上の諸士(荒川三留なるべし、長坂は士分なれば供番より上席の進級ありたるなるべし)西郷頼母御取合にて於御前に御供番に成し下され候事』}

 右『若松記』並びに荒川勝茂の『日誌』にて進撃の状況を知るべし、如し此の進撃により敵を撃退するにあらざりせば、三の丸は敵に占領せらるゝに至りしなるべし、これが為に落城するに至らずとするも三の丸に在りし老女婦女子の被るべき損害は多大なるべきに、決心せる諸士の奮闘により此の損害を末然に防ぎ得しは幸なりき、且つ此の手いたき防戦により単なる突撃の奏功なきを知りたるか、西軍はこれより後持久して砲撃戦を以て城を陥るゝの策を取り突撃することなかりき。
 斯くて翌二十四日天神口進撃の人々に他の人々を加え、新に進撃隊と称する一隊編制せられ、小室当節隊長を、礒上内蔵之丞副長を武井完平、安藤監治、三澤輿八、梶原悌蔵を甲長に命ぜられ、槍組三組、砲組三組、人員およそ八十七人とす。

 天神口進撃の戦死者

入江庄兵衛 組頭表用人席 百三十石 五十三歳

和田伝蔵 組頭 二百五十石 四十歳

小松忠之進(忠兵衛倅) 玄武 百石(忠兵衛禄か) 五十三歳

津吉啓治(啓太倅) 物頭席 百石(啓太禄か) 二十四歳

大戸新八郎  十石三人扶持 五十二歳

鈴木廷次郎 目付席 十石二人扶持 三十歳

矢島清三郎 目付席 七石二人扶持 二十三歳

山田伴助 目付席 十石二人扶持 二十八歳

仁科勇八 目付席 六石二人扶持 四十歳

平向俊吾 目付席 十一石二人扶持 三十九歳

齋藤右近(飯田左門弟) 十五石三人扶持 二十八歳

外田数馬 目付席 十石五斗二人扶持 二十三歳

赤塚彦三郎(丈右衛門倅) 目付席 七石二人扶持 三十九歳

柳下恒吉 目付席 十一石二人扶持 三十歳

太田喜一 目付席 四石二人扶持 四十一歳

川井留五郎 獨禮 五石五斗二人扶持 五十六歳

山口栄吉(『若松記』による『明治日誌』には栄助とあり)

三瓶忠蔵(『名簿』には忠助とあり『若松記』による) 目付席 七人石二人扶持 二十九歳

津村粂之助(源之丞倅) 目付席 八石二人扶持 三十四歳

角田覚四郎 物頭席 四石二人扶持 二十四歳

大和田亀太郎(亀吉父) 獨禮 六石二人扶持 二十六歳(『日誌』『名簿』共に亀太郎とし『若松記』は亀三郎とす『若松記』天神口戦の負傷中大和田亀太郎あり之に従う又『名簿』に天神口戦死とあり重傷し後死亡せるか)

板橋丑鐡(『名簿』にあれども格式禄年齢の記載なし)

野村源次郎(彦五郎倅) 物頭席

小池五郎三郎 (傳吉弟『名簿』に外に傳吉弟伝) 山川大蔵家来 

相澤勇吉 獨禮 七石二斗二人扶持 二十八歳

天野由之助(由次郎弟) 二十一歳

佐藤悌蔵(覚兵衛倅) 七石二人扶持(父の禄か) 三十八歳

佐藤治左衛門(宇南山良蔵父)高橋外記家来 七十二歳

池澤定治(新吉父) 和田伝蔵付 六石二人扶持(倅の禄か) 四十三歳

小沼富蔵(良助弟『名簿』に八月廿四日天神口とあれども廿三日の誤と認む) 入江組 二十一歳

丹羽富蔵 堤堰方勤務 二十一歳

山内兵馬(駒之助倅、山田とせるものあり誤なり) 徒格 十六歳

坂井藤吾(清八父) 七十歳

丹生谷奥(負傷十月三日御山にて没) 徒 十一石二人扶持 三十二歳

 計 三十四名


 右の外『名簿』に『進撃小室隊八年二十四日丈之助兄佐瀬良之助五十』とあり、二十四日に新に編制せられたる進撃小室隊の『日誌』に記載せられたる名簿に佐瀬良之助の氏名なければ『名簿』の進撃小室隊とあるは二十三日の進撃のことにて、二十四日は二十三日の誤なるが如し、また『名簿』に草風隊指図役八月廿九日天神傷城中熊谷八三二とあり、八月廿九日に天神橋に戦争なし、廿九日は二十三日の誤なるべし、会津史にも此の進撃戦死者名簿に熊谷又八の名あり。

 
 天神口進撃の負傷者

石黒恒松(後則賢) 二十八歳

高津安之助

井深右近

富田三郎 元北原釆女家来近習二ノ寄合

穴澤最助
 
 計 五名



 天神口進撃に参加し後八月二十九日長命寺進撃に参加し戦死したる人々

小室金五左衛門 天神口の隊長進撃隊長番頭席小室進撃隊小隊長『名簿』に進撃小室隊世話役とあり組長のことか、物頭席 二百石 四十二歳

礒上内蔵之丞(忠吾事) 百石 四十三歳

杉本彌次郎(源五右衛門二男) 十石三人扶持 二十八歳

外島良蔵

櫻田勇(元北原釆女家来) 近習二ノ寄合 三十五歳

 計 五名



 右三種以外の人々

武井柯亭 後進撃隊長

山浦鐡四郎

日下部三郎

長坂源吾

荒川類右衛門(元北原釆女家来) 供番 三十七歳

三留又右衛門(元簗瀬三左衛門家来) 供番

穴澤友吉(元小室金五左衛門家来) 一ノ寄合 三十二歳

 計 七名
総計五十一名佐瀬良之助熊谷又八を加へ五十三名とす。


{右の人々の家禄として記載したるものゝ中自己の禄もあるべく、または父兄の禄もあるべし、今これを詳にする由なし。
この進撃に参加したる人々の内にて、その年齢の判明したる人四十名あり、その平均年齢三十五、六強歳なり、進撃に参加せし人にて上記の名簿に洩れしもあるべく、また五十三名中年齢不明なる人十三名あれども、四十名の平均年齢は全体の平均年齢と見て大差なかるべし、少数の老人参加せしため、この進撃を世老人組、または隠居組の進撃とする者あれど、平均年齢により其の誤なるを知るべし〔明治日誌、戊辰殉難名簿、会津会々報、石黒則賢談、若松記、著者聞〕}






卷十一 附録

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  1. 2013/04/24(水) 09:10:44|
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会津藩の教育

会津藩の教育

 藩祖保科正之公幼より学を好んで和漢諸種の書を読破す、承応元年公四十二歳にして初めて宋の朱熹の小学を読み大に発明する所あり、身を修め家を齊い国を治むるの正学此れに在ることを知り、爾来朱子学および宋の程子の説く所によってますます研鑚を積み、これにおいて朱子学を以て藩学を輿すの誌あり、当時諸藩を通じて学校を設くるもの多からず、会津においては寬文四年藩儒横田俊益、藩士浮洲重治同志と謀り若松桂林寺町に学舎を創建し、稽古堂と称す、俊益この堂の記を作り、且つ溝筵の式を定む、時に臨済宗の禅僧にして肥前の人岡田如黙なる者数年前会津に来り耶麻郡落合村に庵室を結びて之に居り扁して無為庵と曰う、その人博学多識特に経学に精しきを以て稽古堂に招聘して教せしめたるに、家老田中正玄、簗瀬正眞を初め藩士は云うに及ばず農商工の子弟に至るまで来り学ぶ者多し、正之公これを聞きて大に悦び黙に十五人扶持を賜い、その他の租税を免除し、且つ稽古堂に学科五十石を給す、この後年藩学設立の端諸なり。
 延寶二年郭内本一ノ丁甲賀町通に学問所を設けて講所と称し学科百石を給す、是即ち藩校にして藩士子弟の入学を許す、元禄二年講所内に孔廟を建築し孔子の像を安置す、この像は先年山崎闇齊が京都に於いて獲る所の銅像にして闇齊により正之公に献ぜしものなり。
 同年甲賀町口に学問所を設け町講所と称し士民の入学を許す、同時に稽古堂を廃しその学科五十石を町講所に給せらる、後この町講所を青藍舎と称し、またその北郭外に在るを以て北学館と呼ぶ。
 天明八年郭内大町通に更に学問所を建て西講所と称し、本一ノ丁の講所を東講所と称す。
 同年花畑において新に町講所を設け友善舎と称す、また城の南方に在るを以て南学館と呼ぶ。
 講所および町講所の授業は本邦当時の学問たる支那経書、歴史類の素読、講釈にして後書学、禮法および和学等を併せ教ふるに至れり。
 士人に最も必要なる武術は初め学校においてこれを教授せず、これその設備なきを以てなり、藩士の子弟は諸芸者の道場および馬場に就き弓、馬、刀の武技を学びたりしが、天明八年始めて西講所に武学寮を置き諸武技を教授せり。
 東西両講所は元来士族の邸宅を補修して充用せしものなれば、学堂として不完備なるを以てこれを一箇所に拡張改造することに決し、寬政十一年四月米代二ノ丁に工を起こし五年を経て享和三年十月落成せり、日新館即ちこれなり、学校周六丁余、中に聖堂、東西四塾に分ちたる素読所、習書寮、医学寮、講釈所即ち大学たる止善堂、禮式、算術、天文、神道、和学、茶儀の各教授所、天文台、開版方即ち出版所、文庫あり、また武学にありては槍、刀、弓、柔術、各流の道場、武講所、放銃場、水練場皆備はれり。
 会津の学校は以上記せる日新館および南北両学館の外に猪苗代に亀城学館、江戸和田倉会津藩邸内に成章館あり、この他若松市内には一町または二三町毎に素読、書学、算術を教授する者あり、軽輩の士女または商家の子女は之に就いて学ぶことを得、また各村に文武の私塾あり、地方御家人、同心および農夫等の就学に供せり。
 会津の学風は土津公(正之公)以来世々朱子学を以て教化の基礎とせり、天和の頃藩内に心学流行の兆あり、これと前後して王陽明の学を講ずる者あり、これらの故にや寶永五年藩士に孔孟程朱の学流を講習し他の教法は講ずべからざる旨を達せり、しかるに此の頃物徂徠の徒、古学を唱い一時天下を風靡せり、古学とは漢唐儒者の註解に基き経書および論語等を講ずるの学なり、会津藩においては寬政二年折衷派の古学者肥後藩士古屋重次郎を招聘して生徒に古学を講ぜしめ爾来文化七年まで藩学を古学に変更したるが、同年再び朱子学に復旧せり。

{寬政二年古屋重次郎を会津に聘し古学を講ぜしめしより、文化七年に至る二十一年間は従来朱子学たりし藩学を古学に変更せりとは諸書の記する所なり、しかるに会津藩の家政実記によれば、文化年中江戸昌平校の儒者尾藤良助が我が藩に対し会津藩の学風は藩祖土津公以来朱子学を採用せられたることは天下の周く知る所なるに、近来古学に変更せられたりと云うは果たして真実なるや、もし真実ならば何故にこれを変更せられたるかと質問書を贈りたるが、江戸会津藩邸在勤儒者松本和平は之に対し会津藩が朱子学を廃して古学を採用したりとの風説は訛伝なり、我が藩教の朱子学に遵據することは今も猶昔の如く依然変更せず、但一派の学説のみを専修するときは動もすれば固陋沈滞の弊に陥るの恐れあるを以て、修学上の参孝として生徒に折衷的古学を併せ講じたるに過ぎずと弁明したるを以て見れば、この二十一年間は必ずしも藩学を全然変更したりと断定すべからざるが如し。}

 会津教学の主義は前記のごとく一時古学を採用したる形跡なきにあらずといえども、たちまち旧に復し朱子学の教えに従い実学を重んじ、空理に流るゝことを避け、孝悌忠信の風を奨励し、長者を敬い、以て一藩剛健の士気を養成することを勉めたり、これに関する教令は歴代しばしば発せられるが玆に其の一例として特に文化十年五月在江戸の藩子弟に発したる教令の趣意を左に摘禄すべし。
 
一 文武の芸を研磨するは士人の常道なり、しかれども心魂鄙劣なるにおいては仮令諸芸に上達すといえども士とは云うべからざるなり、故に主として士風を励み、礼儀廉耻を先にし、義気を重んずること肝要なり。

一 尊喜長者を敬ひ不孫の風なきことを勤むべし。

一 朋友相会し書を読み文を講じ、および古今の武勇談を為すことは殊勝なれども、猥りに集会し無用の雑談に耽り、甚だしきは飲食を縦まゝにする如きは、士人の体面を損するものなれば深く戒むべし。

一 御家風を守り武士の本意を失はざる様常に心を用ふべし、江戸は地方の風移り易き土地なれば、服装言語は勿論身の帯ぶる諸具に至るまで虚飾を避け質素を尚び、以て軽浮の態に陥らず、律儀実態の風を守るべし。

一 御家中の士は其の身分に応じて交際し、信義を重んじ徳を磨き下等賤輩に交り汚風に染むべからず、これ後年徳器養成の妨と為るを以てなり、また幼少より淫風遊惰を深く戒むべし。


 これを以て其の一斑を察すべし、学校において倫理を教え文武の芸を授くるは、徳性を養い才能を長し以て実用に供せしめんとするにあり、其の品行方正にして学問武芸に達し、または少なくも一芸に通ずる者は、家格により技倆に応じて父の業を継がしめ又は新に採用し、しかして一芸だも善くせざる者は家督相続の際小普請料を納めて修業を断続せしめ、後日修業を了したる後始めて小普請料を免ず゛(小普請料とは文武未熟者より徴収して道路修理に充つる費目なりと云う)、この法を実効せんが為、天明八年講所(日新館の前身)の功令を定め、これを六科糾則と称して発令せり。

六科

一曰、古を稽ひ事に明かに沿道に通し人の長所を知る者、

二曰、人を愛して物に及ほし教化安民の道に志ある者、

三曰、神道和学に達し吉凶の禮吉凶実を弁へ時々損益することを知り、清廉にして能く欽慎なる者、

四曰、古聖人の善とする所を知り、時宜に従い事を処し、武備教練の意を会得し、沈勇にして決断ある者、

五曰、人の為に謀り人の労に代わる己か事の如く、心を尽くし忠信にして獄訟律学に長したる者、

六曰、和順にして物の性に悖らず、土木百工の材能ある者、


 六科中に就いて大に得たる者は大に用い、少しく得たる者は小に用い、これを審かにするに六行を以てす。



六行

一曰、善く父母に孝なる者。

二曰、善く父母に事ひ弟を愛し長を敬し幼を恵む者。

三曰、善く家内および新族に和睦なる者。

四曰、善く外親に至る迄を親み本を忘れざる者。

五曰、友に信ありて人に任ぜられ、その事を擔当して久しきに耐える者。

六曰、親戚朋友に災厄疾病貧窮等あれば、厚く之を賑恤する己の憂に遭ふが如くする者。




八則

一曰、言行を慎まずして父母を危し、事に順ならず、喪に居て哀戚の容なく、懶惰の行ある者。

二曰、薄情にして家内親戚和せざる者。

三曰、兄弟に友ならず師教に循はず、長を侮り幼を愛せざる者。

四曰、言行信ならず、面従後言或は男女穢褻の行ありて近隣朋友に疎まるゝ者。

五曰、怠慢残忍にして親戚朋友等の艱難苦痛を救恤せざる者。

六曰、漫りに浮言を造て衆を惑はし、また非理なるを強弁し道理に従わず、その行悖りて紛飾する者。

七曰、聖人の道を信ぜず、党を結び猥に政令法度および他人を誹譏し、世俗の浮説を信して私智に矜り、弁舌を以て事を壊る者。

八曰、文武は相資する者偏廃すべからず、己が学ぶ所に執滞く能を妬み技を謗り猥に偏執の心を懐く者。


 この日八過の内一も其の身にあれば、仮令才智芸能ありといえども其の咎逃るべからず、常にし心に存して慎むべし。
 玆に子弟入学修業の一斑を挙ぐれば、日新館および南北両学館は士人の階級によりて入学せしむ、日新館の素読所は四塾に分ち、毛詩、三禮、尚書、二経と称したるが、一時これを守約齊、存心齊、服膺齊、持志齊と改称したることあり、郭外に在る北学館、南学館もまた素読所なり。

 素読所は当時における普通教育を授くる所なり、その教育の令条は創定以来多少の変更ありしといえども、その大綱は異なる所なし、左に之を概記。

令条

一、学校は孝悌を本とし子弟をして徳を為し材を達せしめ以て実用の器を養成するにあり(本文只孝悌と云て忠信を云はざるは、孝悌は徳を成すの本なれば、幼時より孝悌を教ふれば従って忠信の道に至るを以てなり)。

一、学校における生徒の席順は尊卑によらず年齢によるものとす(学級によりて場所を異にするは勿論なれども同一学級に在りては身分の尊卑によらず、また優劣によらず長幼によりて席順を定むるなり)。

一、十歳より入学し素読を受け兼ねて筆蹟、諸禮を学び、また希望によりて雅楽を学ぶ。

一、十三より算術を学ぶ。

一、十五歳より弓術馬術槍術剣術を学び、その他の武芸は希望によりて学ぶ。

一、十八歳より兵学を修む。

一、二十二歳より二男以下諸芸の出席随意なり。

一、毎日学校において塾の出入りその他一切の事は什長の指揮に従う、什長は通学生住宅各方面における組合の長にして、多くは年長且つ学芸優秀の者を以てこれに充つ。


 当時学校の課業は各藩を通じて大同小異なるが、日新館においては初めて入学する者は四等に入り、孝経、大学、論語、孟子、中庸、小学、詩経、書経、禮記、易経、春秋、童子訓の素読を受け、これを卒業すれば三等に進み、四書、小学の本文および朱子の註、春秋左氏伝の素読を受け、これを卒業すれば二等に進み、四書、小学の本文、および朱子の註、禮記集註、十八史略、蒙求の素読および解釈を受け、これを卒業すれば一等に進み、四書、近思録、二程治教録、伊洛三子伝心録、玉山講義附録、詩経集註、書経集註、禮記集註、周易本義、春秋胡氏伝、春秋左氏伝、国語、史記、前漢書、後漢書を読講す、しかして一等生は先づ内試験を受けて及第し、更に本試験を受けて及第すれば大学即ち講釈所に入るなり。
 講釈所は止善堂と称し、素読所即ち小学の師表たり、入学生は儒者に就き、または輪講会に出席して経書、歴史および雑書を研究し、併せて詩文を学習す、しかして入学生は学問の外弓馬槍刀の武芸を怠るを得ざるなり。
 藩学日新館の教育は前記のごとく、もっぱら漢学によりしといえども、別に神道および和学科あり、子弟の希望によりて之を教授せり、藩祖土津公は吉川惟足を聘して神書を講ぜしめ、その奥秘を受け、以て中古以来衰微せし神道の復興に力を尽くせり、爾来歴世公の意思を継ぎ、藩学に神道および和学科を置き、神道は卜部、垂加の二派に分ち、その希望によりて教授せり、その書目は中臣秡、日本紀神代卷にして古事記、旧事記は参考として之を教授せり。
和学は一に皇学と称し、人王以降の令典を授く、その書目は令義解、律疏義、三代格、延喜式、六国史および文章、和歌等なり。
 武芸は各種また各流派に就いて稽古場あり、生徒の席順は学校、学館と異なり、入門の前後によりて定む。
 男子十歳にして入学すれば近傍の学友と交際するの義務あり、日々八ッ半時退出するも直ちに家に帰らず必ず朋友の宅に集合し、十三四歳の年長者より忠信孝悌の道を説き、且つ教師長者の教導に従うべきことを励む、もし之に従わず不行蹟の者なれば反覆これを訓戒し、しかも猶改悛の状なき者は其の制裁として、あるいは之を打擲し、あるいは絶交を宣告することあり、その絶交したる者にして改悛の状著しき者は再び交際を断続す、十五歳に至れば昼間武芸に出場するを以て年少者の集会に出席することを得ず、よって彼らは十七八歳未満の朋友と夜間相集会し、前人の嘉言善行を話し、一朝他方面の団体と学校の内外において衝突することあらば、激烈なる争闘を演じ甚だしきに至りては藩の責を蒙ることなきにあらず、これを要するに会津武士剛健の気風は、藩の教令、父師の教導に兼ねて朋友相互奨励より自然に培養せられたる結果なりと云うもべきなり〔会津藩教育考、家政実記、日新館志、及聞書〕。






卷十一 附録

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  1. 2013/04/23(火) 11:27:30|
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会津へ入る口々

会津へ入る口々

三代口。福島県安積郡三代村三代にあり、勢至堂峠を踰え同県西白河郡白河町に至る江戸への本街道口なり。

赤谷口。新潟県北原郡赤谷村赤谷に在り、同県東蒲原郡津川町より阿賀野川を渡り諏訪峠を踰え新潟県北蒲原郡新発田町に至る街道口なり。

横川口。南口また日光口とも云う、栃木県塩谷郡三依村横川に在り、高原峠を踰え同県上都賀郡今市町に至る街道口なり、また同村上三依より塩原に至る間道ありしが維新後大に修築せられたり。

桧原口。福島県麻耶郡桧原村桧原に在り、桧原峠を踰え山形県米澤市に至る街道口なり。

右四口は東西南北の本街道口なり。


酸川野口。福島県麻耶郡吾妻村酸川野に在り、土湯峠を踰え同県福島市に至る径路、また沼尻峠を踰え安達郡嶽下村嶽温泉を経て二本松に至る径路、また勝軍山一名保成峠を踰え同県安達郡本宮町または二本松に至る径路口なり、新編会津風土記に保成峠につき『山間の路殊に嶮し』とあり、戊辰の年西軍は保成峠を踰えて会津地方へ打入りき。

壺下口。楊枝口とも云う、福島県耶麻郡月輪村壺下にあり、楊枝峠を踰え安達郡高川村中山を経て、また壺下より同村山潟に至り沼上峠を踰え高川村中山を経て本宮町に至る径路口なり。

中地口。福島県安積郡中野村中地に在り、三森峠を踰え同郡郡山市または諏訪峠一名追分峠を踰え又は鶏峠を踰え岩瀬郡須賀川町に至る径路口なり。

馬入口。福島県安積郡福良村馬入新田に在り、馬入峠を踰え白河町に通ずる径路口なり。

蘆野原口。福島県南会津郡二川村高隯(葦野原)に在り、白河湯本村を経て白河町に通ずる径路口なり。

白岩口。福島県南会津郡二川村白岩に在り、これまた白河湯本を経て白河へ通ずる径路口なり。

水門口。福島県南会津郡旭田村水門に在り、白河町へ通ずる径路口なり。

野際口。福島県南会津郡旭田村野際新田に在り、大峠を踰え栃木県那須郡黒礒町に至る径路口なり。

三月澤口。新潟県東蒲原郡下条村三月澤に在り、沼越峠を踰え同県中蒲原郡村松町に至る径路口なり。

釣浜口。石間口とも云う新潟県東蒲原郡下条村石間に在り、同県新潟市に至る径路口なり。

以上の諸口には木戸門を設け番戍を置くことを例とせり。


桧枝岐口。福島県南会津郡桧枝岐村桧枝岐に在り、群馬県利根郡沼田町に至る径路口なり。

六十里越口。田子倉口とも云う、福島県南会津郡伊北村只見より朝草峠を踰え新潟県魚沼郡小出町へ通ずる径路口なり、風土記に『道極めて嶮しく牛馬を通ぜず』とあり。

八十里越口。叶津口とも云う、伊北村叶津より境澤峠を踰え新潟県南蒲原郡三条町へ通ずる径路口なり、風土記に『難所ありて牛馬通ぜず』とあり。

右の三口には木戸門を設くれども別に番戍を置かず里人をして守らしむ、但し元治元年水戸の武田正生の事ありしときより桧枝岐に番戍を置くことゝなれり。


右の外、左の二口あり。

村杉澤口。福島県耶麻郡岩月村入田付を経てまた同郡熱塩村日中を経て大峠を踰え、山形県置賜郡澤村塩地平を過ぎ米澤市に至る道なり、風土記には『路狭くして難所なり牛馬を通ぜず』とあり、これ維新前に村杉澤口と称せしところなるべし、維新後道路改修せられ喜多方より米澤市へ通ずる街道となれり。

熨斗戸口。南会津郡舘岩村熨斗戸付近より湯花水引等の部落を経、枯木峠を踰え、栃木県塩谷郡栗山村へ通ずる径路口なり、風土記に『道殊に嶮しく牛馬を通ぜず』とあり。

右二口の径路は牛馬も通ぜざる難所なれば、木戸門も設けず従って番戍も置かざりしならん。
 右は主として新編会津風土記に據り記載せるも北会津郡東山村二幣地(俗に云う湯の入り道)を経て安藤峠を踰え、岩瀬郡湯本村羽島に通ずる錦澤口と称する道路を逸したるは怪しむべし、あるいは此の道路は風土記編纂(文化年代)後に聞きたる道なるも知るべからず。
 天保四年までは猪苗代湖東浜の安積郡舟津、館、横澤、浜路(今の月形村)の四部落、並びに中野村安佐野は二本松領なりしかば、安積郡浜坪に舟番所を設け、湖浜の二本松領と会津領との間を来徃する船舶を察せしめたり、天保後湖の東浜四部落並びに安佐野領地となりし後は、舟津に木戸門を設け番戍を置き、湖浜の浜路より御霊櫃峠を踰え郡山市に至る径路口とせり、しかして新に領地となりたる五部落を五ヶ郷と称しき〔新編会津風土記〕。






卷十一 附録

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  1. 2013/04/23(火) 10:51:42|
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会津藩執政年表

会津藩執政年表

 本年表は我が藩人林少左衛門良材が編輯せしところ、寬永八年より文化十三年まで百八十六年の間、会津藩執政の人々、即ち大老、家老、若年寄、奉行(勘定奉行)の任免を表出せるものなるが、文化十三年より明治元年に至る間は後人の書き加えたるものなり、今文久二年我が公京都守護職就任の年より明治元年に至る七年の分を抄出す、但し大老は当時欠員なりしにより別に欄を設けず、また若年寄、奉行の欄には書き落とし多きが如きも増補する道なければ元のまま抄出せり、また表中帰職元之立場とあるは退職せし者を元の職に復帰せしめ、退職前の席次を輿ふる優遇法を云う。

文久二壬戌年
家老 
 六月思召有之御免
簗瀬三左衛門眞粹
萱野権兵衛長裕

 月依願御免
高橋外記重弘
横山主税常徳

 閏八月依願隠居
諏訪大四郎頼徳

若年寄
 閏八月廿五日被仰付
一瀬監物直久

--------------------

文久三癸亥年

家老
 七月依願隠居
萱野権兵衛長裕
横山主税常徳

 月被仰付
田中土佐玄清

 月被仰付十月御免御叱
西郷頼母近悳
神保内蔵助利孝
山崎小助実久

 六月被仰付
一瀬要人隆鎮

若年寄
 四月九日帰職元之立場被仰付六月六日御家老
一瀬要人隆鎮

一瀬監直久

奉行
上田一学兼教

間瀬新兵衛

西郷文吾近潔

山田新八

 九月依願御免
樋口源治

--------------------

元治元甲子年

家老
 三月十五日帰職元之立場
高橋外記重弘

 八月死去
横山主税常徳
田中土佐玄清
神保内蔵助利孝

 六月依願御免
山崎小助実久
一瀬要人隆鎮

 十一月被仰付
北原采女光美

若年寄
一瀬勘兵衛直久

 四月四日被仰付
井深茂右衛門重常

 同上
内藤介右衛門信節

 十一月七日被仰付
西郷勇左衛門近潔

 十一十九日被仰付
萱野恒治長修

奉行
上田一学兼教
間瀬新兵衛
西郷勇左衛門近潔

 九月
山田力衛

 正月被仰付
神尾織部

 九月被仰付
北原采女光美

 十一月被仰付
田中蔵人

--------------------

慶応元乙丑年

家老
 十一月依願御免
高橋外記重弘
田中土佐玄清
神保内蔵助利孝

 二月帰職元之立場
山崎小助実久
一瀬要人隆鎮
北原采女光美

 五月被仰付
萱野権兵衛長修

若年寄
一瀬勘兵衛直久
井深茂右衛門重常

 八月晦御免
内藤介右衛門信節
西郷勇左衛門近潔

 五月御家老
萱野権兵衛長修

 二月十五日被仰付
上田学太夫兼教

 五月被仰付
梶原悌彦景武

奉行
 二月十五日若年寄
上田学太夫兼教
間瀬新兵衛

 二月廿六日帰職
樋口源治

梶原織部

田中蔵人

--------------------

慶応二丙寅年

家老
 依願御免九月帰職元之立場
田中土佐玄清
神保内蔵助利孝

 四月隠居
山崎小助実久

一瀬要人隆鎮

 十月晦思召有之御免
北原采女光美
萱野権兵衛長修

 三月被仰付
梶原平馬景武

 九月被仰付
上田学太夫兼教

 同上
内藤介右衛門信節

若年寄
一瀬勘兵衛直久
井深茂右衛門重常
西郷勇左衛門近潔

 九月御家老
上田学太夫兼教

 三月御家老
梶原平馬景武

 九月帰職元之立場同日御家老
内藤介右衛門信節

 八月廿三日被仰付
諏訪伊助頼信

 十月九日被仰付
一瀬傳五郎隆知

--------------------

慶応三丁卯年

家老
田中土佐玄清
神保内蔵助利孝
萱野権兵衛長修
梶原平馬景武
上田学太夫兼教
内藤介右衛門信節

若年寄
一瀬勘兵衛直久
井深茂右衛門重常
西郷勇左衛門近潔
諏訪伊助頼信
一瀬傳五郎隆知

--------------------

明治元戊辰年

家老
 八月廿三日甲賀町口に而戦死
田中土佐玄清

 帰職元之立場
西郷頼母近悳

 八月廿三日甲賀町口に而戦死
神保内蔵助利孝
萱野権兵衛長修
梶原平馬景武
上田学太夫兼教
内藤介右衛門信節

 正月二日被仰付
諏訪伊助頼信

 九月十五日一の堰に而手負後死去
一瀬要人隆知

 八月被仰付
原田対馬種龍

 同上
山川大蔵重栄
佐川官兵衛直清

 八月廿五日被仰付
海老名郡治李昌

若年寄
一瀬勘兵衛直久
井深茂衛門重常
西郷勇左衛門近潔

 正月二日御家老
諏訪伊助頼信

 御家来
一瀬要人隆知

 五月一日白河に而戦死
横山主税常守

 三月廿四日被仰付八月御家来
原田対馬種龍

 三月廿四日被仰付八月御家老
山川大蔵重栄

 七月廿七日被仰付
 八月廿五日御家来
海老名郡治李昌
田中源之進玄直上田八郎右衛門氏雅
萱野右兵衛長誠
倉澤右兵衛重為
手代木直右衛門勝任

奉行
萱野右兵衛長誠

 三月廿四日被仰付
 七月廿七日若年寄
海老名郡治李昌

山内大学


会津藩にて家老の上席たりしは、寬永八年城代保科民部正近、翌年家司任命の同人、慶安三年家司任命の北原釆女次、寬文六年家司任命の田中三郎兵衛正玄なり、正玄寬文十二年に歿し、十数年家司を置かず、元禄二年に至り西郷頼母近房家司に類する家老主に任ぜられ、近房元禄十四年に歿してより九十余年間上席者なし、寬政五年北原内膳光保大老(これ家司、家老主に類するものなり)に任ぜられ、同十年に歿し其の後四年間欠員にて、享和三年田中三郎兵衛玄宰大老に任ぜらる、文化五年に玄宰歿し六年に内藤源助信周任ぜられ、七年同人歿し同年北原釆女光裕その後任なり、文化十四年に歿し翌年政元年西郷頼母近光大老となり翌年歿す、これより戊辰の年に至るまで五十余年の間家老の上席者を置かず。
 家老には定員と云うものなかりしが如し、家司、家老主、大老の外三名以上六名以内なりしが、戊辰の年には軍国多事の為必要に迫られ、別表の如く多数の家老を任命せられたり。
 文化五年門閥家九条の制を定む、この九家の人々は等輩を踰えて上官に任じ、若死するにあらざれば大抵は家老になり得しなり、九家の戊辰の年の戸主の氏名また代々の内の名知行高左の如し。

北原釆女(勘解由、内膳、出雲等) 二千八百石

内藤介右衛門(元武川、文化の初に本姓に改む、五十郎、源助、近之助等) 二千二百石

簗瀬三左衛門(救馬等) 二千石

田中土佐(三郎兵衛、加兵衛等) 千八百石

西郷頼母(民部等) 千七百石

三宅半吾(孫兵衛、対馬等) 千四百石

小原美濃(五郎右衛門等) 千ニ百石

井深茂右衛門(平左衛門等) 千石

梶原平馬 千石


{北原の老役荒川類右衛門の『明治日誌』に、千三百石の高橋外記を九家に入れ、『後世に至り千石梶原平馬を九家の列に加えらる』とあり、何れが正なるを知らず。}

 会津の如き大藩にては万石以上の高禄を有する者あるを常とせしが、右の如く会津藩にては北原釆女の二千八百石を最高禄とせり、けだし成るべく多数の藩士を養う為、少数者に高禄を輿へざる方針なりしによる、ゆえに戊辰の年には千石以上の禄を有せしは右の九家を除き十二家に過ぎざりき。
 会津藩士は知行地を有するものなし、皆知行高に対する蔵米を支給せられしなり、けだし斯くすれば煩雑と入費とを省略する益あるを以てなり、ゆえに原則としては千石の知行に対し、四公六民の割合にて米斗入り千俵を給すべきなれども戊辰の年頃は千石に対し六百俵余外に金数十両ならでは支給せられざりき、昔いつの頃にやありけん、豊作続き米値非常に降り(金十両につき四斗俵七十俵かと記憶す)藩士大に窮苦せるにより家禄の四分の一を遙かに高値(金十両につき四十俵かと記憶す)に見積りて金給せられしなり、この制度を四ヶ一の制度と云いき、しかるに後に米価騰貴しても換金の率依然として昔時と同じかりしかば、恩恵的の制度も後には藩士の負擔を増せるに均しかりき、また借知と云うことあり、これは藩が藩士より知行の内を借り入るゝことなり、但し名は借なれども返償せざる例なりき、この如きにより実収は表面の高より遙かに少なかりき〔会津藩執政年表、明治日誌、会津外史、編者記憶等〕。






卷十一 附録

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会津藩の領地並に知行高

会津藩の領地並に知行高

 会津とは会津、(今の南北会津)耶麻、大沼、河沼四郡の総称なりしが、後世に至り四郡の名紛乱して会津郡を失い、大沼、耶麻、稲河、河沼を会津四郡とす、寛永二十年上使伊丹順齊等より受け取られし領地目録には、大沼郡之内川沼郡、山之郡、稲川郡、小川庄(これ今の東蒲原郡を云う)、猪苗代、安積郡之内(三代、福島、赤津、浜坪、中地の五村なり)とあり、寬文の頃土津公典籍を考え地理を按じ、古文書古器銘により、大沼郡の東南を割いて会津郡を復し、稲河郡を河沼郡に併せて四郡の古に復せらる。
伊丹順齊等の引き渡し目録によれば、引き渡せし領地高は、

二二二三四二、一九三石 本高
 一〇七五六、〇九三石 改出
 二一三八一、七六八石 新田
総計
二五四四八〇、〇五四石


なり、本高とは新検地前の高にして、改出とは新検地により増加せし高なるべし、今本高と改出とを加ふれば、

二三三〇九八、二八六石

を得、三千石余を算用に入れず、また新田をも除きて表高を単に二拾三万石としたるものゝ如し、この時の会津領は今の北会津郡、耶麻郡、河沼郡、越後国の今の東蒲原郡(北蒲原の赤谷部落を含み)の全部、今の大沼郡の東部(面積は今の大沼全郡の一小部分なれど平地多く良好の地なり)なり、しかして今の南会津郡の全部、今の大沼郡の残部、並に下野国塩谷郡の一部(三依村、上三依村、中三依村、獨鈷澤村、五十里村、芹沢村の六箇村、今の藤原村の一部)を領地とせられしなり。
安政七年即ち萬延元年幕府代変わりの時、藩より届け出で幕府の承認を得たる目録に、

 陸奥国

会津郡之内(今の北会津郡なり) 百二十一箇村(若松町を一箇村とす)
 高 四二三六九、〇九〇五石

耶麻郡之内 二百三十五箇村
 高 八二七五八、六七三六一石

大河郡之内 四十九箇村
 高 二二一七九、八一四七石

河沼郡全部 百九十四箇村
 高 五四七六〇、九五一三石

安積郡内 五箇村
 高 六〇八〇、〇五八石



 
 越後国

蒲原郡之内(今の東蒲原郡なり、北蒲原郡の赤谷部落を含む) 七十三箇村
 高 八九七三、三八八石




 安房国

安房郡之内 十箇村
 高 二七二三、七二八七二石

朝夷郡之内 四十一箇村 
 高 一三九二五、九九六一七石



総計
 二三三七七一、七〇一石


 弘化年代に房総沿岸の警備を命ぜられし時、便宜の為、安房国において一萬六千石余の地を賜い、次いで耶麻郡の内一萬五千石の地を収公せられ、直ちに之を預けらる、此の安房国の一部を戊辰の年まで領有せしや否不明なり、如し収公せられしとせば耶麻郡の公地(藩の領地)は直ちに賜はりしなるべきより総高に変化なし。

 右の如く萬延の届け出は二十三万石余りにして、寬永の引き渡し高二十五万石と差違あるは何故なるか知るべからずも、何か形式上斯くすべき必要ありしなるべし。
 藩撰の家政実記に年々の領地の草高を記載す。

{因に記す幕府の頃の知行地は其の領地の総草高なり、草高とは国郡村の台帳に載せたる田畑の数量、等級、収獲率により算出したる総収獲の予定額なり、この草高は新田の開墾古田の荒廃等の為、検地を改め行うにより変すれども、年の豊凶により変ずることなし。}

今、寬永二十年より毎十年の会津領の草高左の如し(斗以下を四捨五入す)

寬永二十年 二五四七〇〇石(藩の検地によるものにて、引き渡し目録の二十五万四千四百八十石と合はず)

承応二年 二四二三九一石

寬文三年 二四八〇七三石

延寶元年 二六六八六二石

天和三年 二六八三八一石

元禄六年 二七八一八四石

元禄十六年 二八一一七二石

正徳三年 二九二一五四石

享保八年 二九七一四三石

享保十八年 二九七六四二石

寬保三年 三〇四〇五二石

寶歴三年 三〇三七七二石

寶歴十三年 三〇一六二四石

安永二年 三〇一二〇〇石

天明三年 三〇〇八〇八石

寬政五年 三〇〇二四一石

享和三年 三〇一〇五二石

 享和三年の後二年

文化二年 三〇一〇九五石


 家政実記は文化三年正月を以て擱筆せしにより、文化二年の草高は実記最終の調なり、その後の調に関しては記録の存するものなし、思うに寬保三年より文化二年まで六十二年の間三十万石余にて増減甚だ少し、これによって見れば文化二年より慶応三年に至る六十二年間の増減もまた甚だ少なかるべし、故に慶応三年においては会津松平家の旧領地高を三十万石と断定して大差なからべし。
 元治元年二月十日京都守護職就任以来の功労を賞し封五万石を加賜し、次いで賜うところの地を近江国の内一万五千石、和泉国の内一万石、越後国の内二万五千石とせり。
 文久二年守護職就任の時、近江の内並びにその他にて役知(職俸)五万石を賜う。
 文久三年累代の領地(寬永後両回収公せられし事あり)、陸奥国会津郡の内並びに大沼郡の内(俗に之を南の山と云う)五万五千石を役知として増賜あり。
 元治元年守護職中費用多端を察し月々金一万両米二千俵を賜う。

{右の手当を内願したる時公用人外島機兵衛が、幕府の勘定奉行松平石見守と交渉の顛末を江戸より京都へ報告せし書面の内に、『機兵衛石見守殿へ相縋り非常御逼迫之様子申述相頼候次第右に付而は精々相心得可申聞候得共御役知拾万外に二万俵(月々二千俵なれば二万四千俵の誤なるべし)つゝ御蔵庭相場に而俵代銀御渡並五万石御加増(増封なり)も有之彼是凡拾七万石余にも相当り可申此上月々一万両つつ御渡と申に而はて一ヶ年拾二万両にも相成一昨年御役知五万石に当り代銀三万両御渡之御都合を以積候へは二拾万石に相当り可申候左すれは都合凡三拾七万石余相成候は御勘定局御規則を以は迚も相整い可申御手順共不被考候間伝々}

 右の如く幕府の方にては余程六ヶ敷模様なりしも遂に聞届けられしなり。
 松平石見守の算用によれば慶応三年末(守護職廃止の時)に於ける松平家家禄は次のごとし。

一 三十万石 旧領
一、五万石 増封
一、五万石 第一回の職俸
一、五万五千石 第二回の職俸、但し累代の領地たる南の山
一、二万四千石 月々二千俵に相当する石高
一、二十万石 月々一万両に相当する石高
 計六十七万千石


 附図(図は割愛する)の黒線内は会津の旧領なり、但し耶麻郡中の預地並びに安積郡中湖水東浜の領地(月形村並びに中野村の一部、尤も此の五部落は領地にあらずして領地なりとの説あり)を含む〔新編会津風土記、家政実記、領地目録、京都守護職始末、会津藩庁記録、古老談話、編者記憶等)。






卷十一 附録

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  1. 2013/04/22(月) 10:34:11|
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高須松平家略系譜

高須松平家略系譜

八世 義居朝臣(従四位少将摂津守)

九世 義和朝臣(従四位少将中務大輔)
実は水戸中納言治保卿の二男

十世 義建朝臣(従四位少将摂津守)

十一世 茂栄卿(初め義此後茂徳)
高須相続の後慶勝卿の後を承け尾張家相続、後一橋家相続、大納言号玄同。

十二世 義端

十三世 義勇






卷十一 附録

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  1. 2013/04/22(月) 10:32:02|
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会津松平家略系譜

会津松平家略系譜

始祖 保科正之卿(贈従三位左中将肥後守)
慶長十六年五月七日生。
寬文十二年十二月十八日薨。
台徳院殿秀忠公の第四子、初め保科肥後守正光主の養子たり、薨後土津霊神と諡す。
寛永系図には正光主の父君保科弾正忠正直主を以て会津家の始祖とし、従って正之卿を会津家の三代とすれども、正之卿より三代目正容朝臣の時『可為松平』との台命あり、よって寬政の重修諸家譜には、十八松平の次に会津松平を加え、正之卿を始祖とせり、今之に従う。

二世 正経朝臣(従四位侍従筑前守)
天保元年十二月二十七日生
天和元年十二月三日卒
法号鳳翔院殿冝山休公

三世 正容朝臣(正四位左中将肥後守)
寬文九年正月二十九日生
享保十六年九月十日卒
徳翁霊神

四世 容貞朝臣(従四位少将肥後守)
享保九年八月十六日生
寬延三年九月廿七日卒
土常霊神と諡す。

五世 容頌朝臣(贈三位左中将肥後守)
延享元年正月九日生
文化二年七月廿九日薨
恭定霊神と諡す。

六世 容住朝臣(従四位侍従肥後守)
安永七年十一月二十日生
文化二年十二月廿七日卒
貞昭霊神と諡す。

七世 容衆朝臣(従四位少将肥後守)
享和三年九月十五日生
文政五年二月廿九日卒
欽文霊神と諡す。

八世 容敬朝臣(贈従三位左中将肥後守)
享和三年十二月廿三日生
嘉永五年二月十日薨
忠恭霊神と諡す。
初め容住朝臣の卒するや、家老田中三郎兵衛玄幸が謀らひにて侍妾の内妊娠せる者ある由幕府に届、間もなく男子出産の届を為せり、これ容敬朝臣なり、実は水戸中納言治保卿の二男義和主の庶子なり、義和主次いで濃州高須の松平摂津守義居朝臣の養子となれり。

九世 容保公(正三位元参議元肥後守)
天保六年十二月廿九日生
明治廿六年十二月三日薨
忠誠霊神と諡す、実は濃州高須の松平義建朝臣の六男なるが容敬朝臣の養子たり、容敬朝臣は高須の義和朝臣の長子にて義建朝臣の兄君なれば容保公の実伯父なり。

十世 喜徳君(従四位下侍従若狭守)
実は水戸中納言齊昭卿の第十九子なるが、慶応二年二月朔容保公の養子となり、同四年二月四日襲家、明治六年に復帰す。

十一世 容大君(正四位子爵騎兵大尉貴族院議院)
明治二年六月三日生
明治四十三年六月十一日卒
存誠霊神と諡す。

十二世 保男君(正四位子爵海軍少将貴族院議院)
明治十一年十二月六日生
明治四十三年六月十三日容大君の遺命により家督を相続す。






卷十一 附録

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  1. 2013/04/21(日) 12:41:43|
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容保公喜徳公の謹慎赦免

容保公喜徳公の謹慎赦免

 明治五年申年正月六日太政官より左の命あり。

 斗南藩旧事務取扱従五位 松平容大
同苗容保喜徳儀以特命御預被免候事
 壬申正月六日 太政官


手代木直右衛門、秋月悌次郎もまた同時に幽囚を免ぜらる〔松平家譜〕。






卷十 戦後の処置

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  1. 2013/04/21(日) 11:44:41|
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斗南移住者の辛酸

斗南移住者の辛酸

 新封斗南の地たる旧南部領の一部にして、冬春の候積雪ほとんど半歳に亘り、土地は荒藩士全部を移住せしむる能はず、あるいは一時会津に留まる者あり(ニ百十戸)、あるいは農商に帰する者あり(五百戸)、あるいは東京または各地に赴き生活を求むる者あり(三百余戸)、この外すでに北海道に移住せる者あり(約二百)、これを以て斗南に移住せる者は二千八百余戸に過ぎずして、新封地延長数十里の間に点々散在す、しかしてその受くる所の米は一家平均四人扶持(一箇年玄米七石二斗)にして口を湖にするに足らず、徃々飢餓に瀕する者あるに至れり。
 斗南に藩政を布くに及び、山川浩(大蔵)は選抜せられて権大参事と為りて藩公を補佐し、広澤安任、永岡久茂を推薦して権少参事と為し、その地諸藩吏を任じて庶政に当らしめ、藩士を督励して懇田牧畜または商工業を営ましめ、百事やや諸に就き以て廃藩置県に至れり〔諸記録山川浩伝〕。

明治四辛未年三月二十五日太政官より左の命あり。

 斗南藩知事 松平容大
松平容保は和歌山藩同喜徳は久留米藩へ永預之処今般更に其方へ御預被仰付候間両藩より受取可申候事
 三月十五日 太政官


十月手代木直右衛門、秋月悌次郎、青森県に徒さる。

 




卷十 戦後の処置

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  1. 2013/04/21(日) 11:13:29|
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家名再輿

家名再輿

 尋いで松平家家名再輿の命を保科侯に伝ふ。

松平容保儀先般城地被召上父子永預被仰付置候処深き叡慮を以て今度家名被立下候間血脈之者相選可出候事
 己巳九月 太政官〔松平家譜〕


 九月二十九日、土方中辨より口頭を以て保科家へ松平家相続人には容保実子ある由なれば之を以て願い出づべき旨達せらる〔松平家譜〕。

十月八日、慶三郎君の実名を命じて容大と曰ふ〔松平家譜〕。

 同十七日旧藩相梶原平馬、山川大蔵旧家臣一同に代わり家名相続の願書を保科家に致す、左のごとし。

 容保実子
  松平慶三郎
   当歳
松平容保儀先般城地被召上父子永預被仰付置候処深き叡慮を以て今度家名御立被下置候に付血脈之者相選○奉願候様被仰出難有奉畏候依之容保実子慶三郎当歳にて幼弱には御座候得共此者へ家名被仰付被下置候様私共一同奉懇願候此段宜敷御達被下度奉願候以上
 明治二己巳年十月
元松平容保家来
 総代
  山川大蔵
  梶原平馬
 飯野藩御重役御中〔松平家譜〕
 

 十一月四日容大公に家名相続を命ぜられ、華族に列し、陸奥国において三万石の封を賜う〔松平家譜〕。

 十二月三日照姫松平家に引き渡しの命あり、尋いで飯野藩に徒さる〔松平家譜〕。

同七日、我が公和歌山藩に遷さる〔松平家譜〕。

十二月十四日、我が藩邸として外櫻田挟山藩知事上け邸を賜う〔松平家譜〕。

明治三庚午年正月五日家臣を辨官役所に召され命を受くること左のごとし。

 松平慶三郎
元容保家来重立候者除き外四千六百七十余人並に箱館に於いて降伏之分二十九人共御預謹慎慎被免其方へ御渡に相成候間兵部省より請取可申事
 庚午正月 太政官
  松平慶三郎


北海道後志国之内
 太櫓郡 瀬棚郡 歌棄村
膽振国之内
 山輿郡
右其方支配に被仰付候事
 庚午正月 太政官
 松平慶三郎
今般元容保家来其方へ被引渡北海道にて四郡支配被仰付候に付ては格別之御詮議を以て当三月後現米二万石明未年壹万石被下候事〔松平家譜〕


四月斗南藩と称す〔松平家譜〕。

 五月十五日容大公従五位に敍斗南藩知事に任ぜらる〔松平家譜〕。






卷十 戦後の処置

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  1. 2013/04/21(日) 10:52:50|
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脱走暴挙を戒む

脱走暴挙を戒む

 塩川、猪苗代および瀧澤に謹慎せる旧藩士の高田および東京に移囚せらるゝや、若松その他に残留する者は六十歳以上の老人および婦人小児に過ぎず、随って守備の官兵も次第に減じたり、彼ら官兵の中には規律なき無頼の徒も少なからず、甚だしきは財物を掠奪し又は婦女を辱かしむる者もあり、この事旧藩士の耳に入り大に憤慨して高田の謹慎所を脱して密かに故郷に帰り、または謹慎者が上京に際し代人を出して自ら潜伏し無頼の有司または官兵を襲撃する者あるに至れり、この他旧藩の滅亡を慨し、その復興を図らんが為に脱走して捕獲斬首せられたる者無きにあらず、これにおいて巡察使四条隆平より松平慶三郎君に左の命あり。

 松平慶三郎
其方父肥後元家来中脱走或は潜伏之徒度々不容易暴挙有之不埒之至に候此上右様之挙動於有之而は肥後若狭は勿論其方身分にも相拘候間深く憫然之事に候依之従今日二十日之間取締申付候条速に巨魁之者を捕縛し屹度実効相表候様可致此段相達候也
 巳九月 巡察使


 この命令に接し直ちに旧藩より書面を以て旧藩士を戒飭する所あり、爾来三日を出でずして旧領内始めて静隠に帰せり、幾ばくもなく慶三郎君が家名再輿の恩典に浴せられたるは此の功また輿って力ありと云う〔町野主水談、舘林藩国事鞅掌録〕。

 九月二十八日慶喜公、容保公以下の罪を宥さる、詔書にいわく、

朕聞く明君徳を以て下を率ヰ庸主法を以て人を待つ顧ふに乱賊常に有らす君徳如何にあるのみ今や北疆始て平き天下粗定る慶喜容保以下の如き各宜しく寬宥する所あって自新にせしめ以て天下と更張せん

よって太政官より左の命あり。

法律は国家の重事に候処昨年犯逆之罪においては名義紊乱之後を受け政教未洽之裁に付聖上深く御反躬被為在専ら非常寬典に被処次第就ては今度深き思食を以て詔書之通更に被仰出候間名義を明にし順逆を審にし反省自新盛意に対応可致事






卷十 戦後の処置

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  1. 2013/04/20(土) 10:11:55|
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一般戦死者の埋葬

一般戦死者の埋葬

 このごとくにして飯盛山殉難白虎隊十九屍体の埋葬を了りたりといえども、無数一般戦死者の屍体は依然到る処の戦場に委棄せられあり、これまた一日も放置すべきにあらざれば、取締より参謀に向って之が埋葬の交渉を為したるに、参謀は之を許可したるも屍体の収容埋葬は下町付近の地においてすべしと厳命せり、これに就き取締は異議を唱いたるも終に聴く所と為らず、阿弥陀寺および長命寺に分葬することに決し、その費用を計上したるに役千両を要すべき、その資金を得る能はず、これにおいて筒井茂助をして若松大町の商人星定右衛門を説かしめ、同人より金千両を借りてその費用に充てたり、しかして伴百悦、武田源蔵は自ら進んで労作に従事せり、このごとくにして諸所より収容せる屍体は之を両寺内に埋葬し了り、塚域を築き墓標を建てたり、大庭恭平は阿弥陀寺の墓標に殉難之墓と題して揮毫せり、また同寺内に拝殿を建議し二百両を要せりと云う、然るに一日阿弥陀寺の僧瀧澤に来り取締に告げていわく、参謀より命あり一夜の中に墓標を撤去し、且つ拝殿を破棄すべしと、取締は止むを得ず之に従いたり〔町野主水談〕。

 六月三日容保公の男子慶三郎君若松薬園に生る、母は田代氏なり〔松平家譜〕。

 六月九日手代木直右衛門因州藩より高須藩に預け替と為る、十日まさに東京を発せんとす、我が公国雅を賦し自ら書して之を賜う〔浅羽忠之助筆記〕。

八重雲のけふはその身にかゝるとも
 とく吹はらへきその山かせ


 七月十四日軍務局より古河藩外三藩に対し箱館において降伏せる会津人を幽錮するの命あり。

 古河藩へ
小野権之丞
山田陽次郎

 彦根藩へ
芝守三
柏崎才一
大竹作右衛門
坂綱
並河亨
金子忠之進
松田精助
井深常五郎
荒川登

 阿波藩へ
雑賀孫六
片岡八三郎

 郡山藩へ
長谷川権助
森謙助
長谷川昇助〔浅羽忠之助筆記〕


 これより先、榎本武揚等函館に降るにおよび、西郷頼母もまた同じく降り東京に押送せられ舘林藩に幽せらる〔西郷頼母自筆〕。






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白虎隊屍体の埋葬

白虎隊屍体の埋葬

 これより先、瀧澤村肝煎吉田伊惣次なる者、飯盛山に白虎隊隊士の屍体散在して風雨にさらされ空しく山鴉野犬の飢腹を飽かしむるの惨状を目撃し、傷心の余三四の村人と謀りて棺を作り、先づ数箇の屍体を収容能棺して妙国寺および飯盛山に埋葬したるに、たまたま官軍黒羽藩兵に発見せられ檻倉に繋がれたるが、訊問の結果会津旧藩士の命を受けて為したるものにあらざるの事実判明したるを以て将来を厳戒して放免せられたり、取締を命ぜられたる町野主水は伊惣次よりこの事を聞き原田対馬に禀議し、樋口、高津、大庭、宮原、中川等と若松参謀府に至り、参謀三宮幸庵に面し白虎隊死屍埋葬の許可を請い、爾来数日反覆交渉の後飯盛山自刃白虎隊士に限りようやく埋葬の許可を得たり、よって町野等は埋葬費を調達し、飯盛山の要地をトし墓地を定め、伊惣次等をして散在せる白虎隊死屍を収容せしめ、またすでに埋葬したる屍体はこれを発掘し、総べて殉難白虎隊十九士の屍体をその墓所に埋葬せり。





卷十 戦後の処置

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取締の選定

取締の選定

 旧藩士の塩川および猪苗代に謹慎を命ぜられたる後、この年二月若松在陣参謀より我が旧藩士に対し取締と称する役員およそ二十人を選定して届け出づべきの命あり、これ当時我が旧藩士の各地に潜伏する者少なからざりしを以てこれを発見する毎に瀧澤に送りて謹慎せしむるの手続きを為し、その他旧藩に関する事を便宜取り扱はしめんとするに在り、よって原田対馬、樋口源助、田中左内、中川又左衛門、宮原捨六、中山甚之助、吉川尚喜、出羽佐太郎、大庭恭平、山内精之助、中川精助、町野主水、高津仲三郎、林房之助、筒井茂助、諏訪佐内、青山宇之助、小出勝右衛門等を選定して届け出でたれば、参謀より各人に対し、謹慎のまま居残取締を命ず、但し瀧澤謹慎所より外出を禁ずる旨の辞令を交付せり。





卷十 戦後の処置

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萱野国老の殉国

萱野国老の殉国

 五月十八日朝廷保科正益主に命じて、我が藩の首謀藩相萱野権兵衛を斬に処せしむ、実は保科家において自刃の方式により武士の対面を全うせしめたるなり、その顛末左のごとし。

 これより先、この月十四日軍務官より保科家に左の命あり。

 保科弾正忠へ
作臘依御沙汰取調差出候松平容保家来叛逆首謀萱野権兵衛今般刎首被付候条於其方致処置可言上候事
 但叛逆首謀之内田中土佐神保内蔵助既に落命に付不能其儀候へ共存命候はゝ刎首可被仰付事
 五月 軍務官


 これにおいて翌十五日梶原平馬は、故神保内蔵助二男北原半介と共に、喜徳公および権兵衛の幽錮せらるゝ芝赤羽橋畔の有馬家に赴き、喜徳公に謁し、その令書寫覧したるに、公は大にこれを憫惜し直ちに権兵衛をその座に召して之を告げ、且ついわく、汝は我ら父子に代わって国に殉ずる者なりと、予め準備せる白衣および襯衣を取り出し、公一旦着用し更に脱して之を権兵衛に賜い、また遺族に手当として金五十両を賜う、権兵衛は既に死を決したることなれば、今公より斬首に処するの朝命を伝へらるゝも少しも驚惶の態なく泰然自若たり、唯公に向ってその厚遇を謝するのみ、公はまた半介を召して懇諭し且ついわく、汝権兵衛の男初之助に代わりて能く事を処すべしと、土佐、内蔵助の遺族に手当として金五十両を賜う、半介厚謝して辞し去る(松平家よりの待遇は田中、神保、萱野三家は同等なりき、只田中、神保は既に死せるにより親書を賜はらざるのみなりき。)

 五月十六日山川大蔵は故田中土佐の長子小三郎、二子機八郎と共に有馬家に赴き喜徳公に謁す、その待遇および二子の厚謝総て前日のごとし。
 同十八日六ッ半時刻に有馬家より保科家に権兵衛を交付あるべきを以て、保科家の隊長中村精十郎は一小隊の兵を率いて有馬家に赴きたるの報あり、これにおいて梶原平馬、山川大蔵は朝五ッ時刻にその寓居を出て広尾の保科家別挺の茶亭に赴きたるが、権兵衛の輿未だ到らず、上田八郎右衛門、権兵衛親戚北原半介等五六人来り会す、尋いで飯野藩中老大出十郎右衛門、大目付玉置予兵衛来りたれば、平馬、大蔵は両士に面し前年国難以来飯野藩の我に対する厚意および今回権兵衛の事に関し特別の厚意に対し慇懃に謝辞を述ぶ、既にして大出、玉置座を退くや会々権兵衛の乗れる輿は茶亭の檐端に着し、権兵衛は輿を下りて直ちに隣室に入る、保科の家臣は平馬、大蔵に謂っていわく、公等面談終わるを待ち大出等萱野氏に対面せん、その時大出は藩主弾正忠名代として朝旨を伝達すべきを以て予め公等よりこの事を萱野氏に伝へられよと、両士これを頷し隣室に入り権兵衛に面してこの事を告げ、しかして我が公より権兵衛に賜はりし親書および照姫君の手書を交付す。

今般御沙汰之趣窃に致承知恐入候次第に候右は全く我ら不行届より斯に相致候儀に候処立場柄父子始一藩に代わり呉候段に立至り不堪痛哭候扨々不便之至候面会も相成候身分に候はゝ是非逢度候へ共其儀も及兼遺憾此事に候其方忠実之段厚心得候事に候間後々の儀等は毛頭不心置此上為国家潔く遂最期呉候様頼入候也
 五月十六日 祐堂(忠誠公致仕後の雅号なり)
 萱野権兵衛へ


扨此度之儀誠に恐入候次第全く御二方様御身代りと存自分に於いても何共申候様無之気の毒舌言語惜候事に存候右見舞の為進候
 五月十六日 照
 権兵衛殿へ


夢うつゝ思いも分す惜むそよ
 まことある名は世に残るとも


 権兵衛謹みて涙潜然として下り両氏に言っていわく、今回君国の為に死するは、すでに覚悟の事なれば少しも非む所にあらざるのみならず寧ろ光栄とする所なり、しかるに我が公並びに照姫君より懇書を賜り、且つ厚遇に浴すること誠に恐懼の至に堪えずと、両氏これを聴きて倶に涙を拭う、尋いで八郎右衛門も入り来り対顔す、すでにして保科家侯より酒肴を賜う、これにおいて権兵衛は三士と離杯を酌む中に半介および遺族の者も入り来り、各々獻酬し了りて一同まさに室を出でんとして別を惜しむ、就中平馬、大蔵はこれまで同僚の職に在り、ただ権兵衛は家老上席なるが為に職に殉ずるものなるを以て、両士哀別の情尤も切にして手を分つに忍びざるの状あり、しかれども既定の時刻進行し、この上躊躇するを許さず、ようやく別離を告げ両士は室外に出で帰路に就けり。
 代わりて保科家の中老大出十郎右衛門、大目付玉置予兵衛その室に入り来り権兵衛に面し、保科侯に代わりて朝命を伝へ、尋いで携ふる所の白無紋体服一着を保科侯より賜う旨を述べこれを交付して退座す、次いで同家臣にして介錯の命を受けたる澤田武司入り来りて対面し、かつて侯家より賜はりし刀を権兵衛に示していわく、これを以て介錯の用に供せんと、すでにして武司の去るや半介等室内を整理し、自刃に処する準備を為してこれを武司に告げ、且つ囑していわく、自刃の式了らば直ちにこれを吾らに告げよと、これにおいて半介等は構内の長屋に入りてその報を待つ。
 半介等一同長屋に入りてその報を待つこと少時にして自刃の式を了りし報あり、半介等導かれてその室に入る、ただ見る屍体は蒲團を以てこれを掩ひその前方に白木三宝あり、白紙を以て包みたる扇子は三宝の辺に墜落しあり、後に聞けば自刃の当時座に列せる者は大目付玉置予兵衛、隊長中村精十郎、御目付今井喜十郎、介錯澤田武司、助員中川熊太郎その他小頭三人なりしが、この時は予兵衛、武司のみ座に在り、すなわち屍体を精拭して棺に入れ、保科家より軍務官に急使を馳せて、会津藩首謀萱野権兵衛を刎首の刑に処したることを届け出で、屍体の処置に就き命を請いたるに、軍務官よりその藩において処置すべき旨指令あり、これにおいて棺は浅黄木綿を以て蔽い、外面は貨物のごとく装い、これを芝白金輿禅寺に送る、けだし権兵衛の遺志に従うなり、保科家よりは澤田武司、中川雄之介葬を送り、北原半介等会津人は途上より送葬す、輿禅寺においては藩大夫以上の葬儀に準じ、僧侶十余人出座供養しこれを寺内墓地に埋葬す。
 保科家より権兵衛自刃の介錯を命ぜられたる同藩士澤田武司は人と為り沈毅にして度量あり、撃剣および柔術を能くす、この日武司、権兵衛自刃の状を語りていわく、その人死に臨み従容自若顔色少しも変ぜず平生のごとし。
 この日保科家より権兵衛に香奠千疋を供し、家臣大目付玉置予兵衛、同樋口彌三郎、勘定方中川雄之助、澤田武司よりも各香資を供せり。
 我が公より権兵衛および我が藩首謀にして戦死せる田中土佐、神保内蔵助に香奠各銀子二十枚を、喜徳より香奠各同十枚を、照姫君、厚姫君よりも各同二枚宛を賜う、厚姫君は容大公の姉君後の峰姫君なり、また両公より三家の遺族に菓子料各銀子三枚を賜う〔御隠居様御幽閉中覚書〕。

 




卷十 戦後の処置

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  1. 2013/04/20(土) 09:53:05|
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東京に移囚

東京に移囚
 
 猪苗代に謹慎の旧藩士三千ニ百五十四人〔猪苗代御人数取調帳〕は、松代藩に幽囚せらるゝの命を受けたるが、この日より隔日に出発することゝなり、この日は加州、小倉の藩兵これを護衛す、十四日一行宇都宮に至りしに、同地軍務局参謀より我が応接掛けを召喚して命を伝えていわく、松代藩より大人数を預かるは難渋の趣歎申出でたるを以て一ト先東京に登るべしと、これにおいて七日出発の分は加州兵これを護衛して東京小川町購武所に至り、九日出発の分は小倉兵護衛して東京護国寺に至り、十一日出発の分は小倉兵護衛して東京購武所に至る、而して十三日出発の分は小倉兵護衛して瀧澤村に至りしが、一旦猪苗代に帰還せしめられたり。
 若松在陣参謀より、旧会津降伏人の老幼並婦女子にして、寒気を凌ぎ兼ねて極めて困窮の者もあるやの聞えあり、よって別段の御仁恤を以て手当として金五千両を給せらるゝの命あり、また城中より降伏したる婦女子五百七十五人は参謀に於いてこれを取締る旨を達せらる〔浅羽忠之助筆記〕。

 正月二十四日飯野藩主保科正益主より我が旧藩の首謀者を朝廷に開申す。

今般松平容保家来乃内反逆首謀者取調言上可仕旨被仰渡則夫々検勘仕処
 家老 田中土佐
 同 神保内蔵助
 同 萱野権兵衛
右之者伏見事件より其後に至るまで国務重立取扱罷在遂に天兵御発向御征伐を蒙候始末に立至候は必竟辺諏頑愚固陋之性情大義順逆を弁し兼方向に相迷主人輔佐匡救藩内之勸戒教導を誤候儀奉対天朝深く恐入王師御討入之日土佐内蔵助両人共切腹仕相果申候権兵衛儀は依召先達罷登り有馬中将殿へ御預被置謹慎仕居候間謹て蒙天裁候心得に御座候依て此段申上候以上〔御隠居様御幽閉中覚書〕


正月二十八日若松在陣参謀より左の命あり。

今般若狭伯母容保妾二人並奥女中之者更に紀州藩へ御預被仰付候〔浅羽忠之助筆記〕。

 二月四日若松在陣参謀より、旧会津城内より降伏の婦女子中には寒気も凌き兼ぬる極めて困窮の者もあるやの聞えあり、よって別段の御仁恤を以て手当として金千三百両を給せらるゝの命あり〔浅羽忠之助筆記〕。

 同十一日高田藩に幽囚せられし旧藩士へ各二人扶持を給輿し自刃すべきの命ありしが、この扶持にて生活し難きに依り上申したるに、この月十六日より自炊と為し、各自二人扶持の外に同藩より一人扶持を増し三人扶持を給輿し、その内一人分は各現白米四合六勺を給輿し、残り二人分は市場の相場を以て現金に換え給輿せらる〔浅羽忠之助筆記〕。

 二月十五日若松在陣参謀より、用人永井民彌を召喚し左の命を伝ふ。

容保妾二人今般紀州藩へ御預更に被仰付候処懐妊中にて当所へ滞在相願候通被仰付候に付ては万端手当筋厚可取計候右妾二人へ当坐為手当金二万疋被下置候此段可申渡候
 但出産に付種々入用之品も可有之候間於其方差支無之様出来書付を以相達候得は都て御拂被成下候妾二人は日々賄料百疋つゝ外に諸雑費百疋つゝ被下奥候間是迄の二人扶持は以後不被下趣書付被相渡候〔浅羽忠之助筆記〕


若松在陣参謀より左の命あり。

老幼婦女之者共へ十五日より七歳以下玄米三合錢二百文八歳以上玄米五合錢ニ百文つ、被下候
 若松伯母
右は東京より申来候趣も有之候に付以来日々為雑用金ニ百疋つ、被下候


 清水屋(照姫の寓居)護衛の米澤藩隊長来り、用人大薮俊蔵に面し、我が公の側室二人楽園に移るべきことを伝ふ〔浅羽忠之助筆記〕。

 同二十四日若松在陣参謀より、用人永井民彌を召喚し左の命を伝ふ。

 若松伯母
先達申達置候通来二十九被紀州藩へ御差送に相成候事


 奥女中へ
近々紀州藩へ御差送に付ては荷物貫目一人に付五貫目つ、被下候事〔浅羽忠之助筆記〕


 二月二十九日照姫若松を出発す、従者左のごとし。

用人 永井民彌
用人 笹原源之助
御付 馬場輿次右衛門
その外
奥女 貞順院(忠恭公の則室)以下二十一人


三月十日東京に至り紀州藩青山邸において謹慎す〔浅羽忠之助筆記〕。

 同三日、圓隆院(忠恭公の側室)および我が公の側室二人薬園に移る、桑原新八、原田清吾従う〔浅羽忠之助筆記〕。

 五月軍務局より左の命あり。

今般御沙汰之次第も有之格別御仁恤を以入院之者共不残東京へ御差送に相成同地にて療治被成下候
 但重傷にて護送難致者は診察差残に相成候事


 患者の歩行し難き者は診察之上御差残に相成候事

 患者の歩行し難き者には馬、駕を給し、重患にて発する能はざる者は官医これを再診して本年秋李に至るまで残留し、老幼は任意に移住して治療するを許し、病院を発せらる、。患者総て九百人、その中重患者七十人を除き、六月十六日より東京に護送し、芝増上寺々中徳水院外一二の寺院に分置せらる〔浅羽忠之助筆記〕。






卷十 戦後の処置

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  1. 2013/04/19(金) 09:42:55|
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高田に移囚

高田に移囚

 明治二年正月三日塩川謹慎の旧藩士、高田藩に幽囚せらるゝ者一千七百四十四人は、この日より五日に至るまで日を隔てゝ出発す、越後、加州、米澤、高田の藩兵これを護衛し、待遇懇切を極む〔浅羽忠之助筆記〕。

同七日若松在陣参謀より左の命あり。

別紙之通非常出格之御仁恤を以降人一同へ下賜候
 正月七日 若松在陣参謀
今般高田松代両藩へ御預に相成候御沙汰之趣謹承依之非常出格之御仁恤を以て一人に付金札壹両宛下賜候間難有感戴可致候
 但金子之儀は出起当日御渡に相成候事


 第一回に高田へ出発したる者へは急使を馳せて正月八日の夜山ノ内駅に於いて交付せらる〔浅羽忠之助筆記〕。

 




卷十 戦後の処置

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  1. 2013/04/19(金) 09:41:00|
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恩詔

恩詔

 十二月七日詔書ありいわく、

賞罰は天下之大典朕一人の私すべきに非ず宜しく天下の衆議を集め至正公平毫釐も誤り無きに決すべし今松平容保を始め伊達慶邦等の如き百官将士をして議せしむるに各小異同ありと雖も其の均しく逆料にあり宜しく厳刑に処すべし就中容保の罪天人共に怒る処死尚余罪有すと奏す朕熟ら之を按するに政教世に洽く名義人心に明かなれは固より乱心賊子無るべし今や朕不徳にして教化の道末た立たす加之七百年来紀綱不振名義乖乱弊習の由て来る所久し抑容保の如きは門閥に長し人爵を假有する者今日逆謀彼一人の為す所に非す必ず首謀の臣あり朕因って断じて曰く其の実を推して其の名を恕し其の情を憐んで其の法を假し容保の死一等を宥して首謀の者を誅し以て非常の寬典に処せん朕亦将に自今親ら励精図治教化を国内に布き徳威を海外に輝かさんことを欲す汝百官将士其れ之を體せよ
 明治戊辰年十二月七日


 聖詔このごとく、我が公に寬典を下されたれば、行政官よりもまた左の発令あり。

今般松平容保等御処置之儀天下之衆議被聞食候処刑典に於いて可被処厳科奏聞有之候得共宸斷別紙之通被仰出候就ては詔書之趣各篤く奉体可有之被仰出候事
 十月七日 行政官


行政官さらに両公その他に左の命を傳ふ。

作冬徳川慶喜政権返上之後暴論を張り姦謀る運らし兵を挙て闕下に迫る事敗れ遁走す慶喜恭順するに及び更に悔悟せず居城に撚り兇賊の称首と為り飽まで王師に抗衡し天下を擾乱す其の罪神人共に怒る所屹度可被処厳刑之処至仁非常之宸斷を以て死一等を減し池田中将へ永預け被仰付候事
 十二月 行政官
  松平喜徳

父容保之不○資け共に兇賊之称首と為り飽まで王師に抗衡候条屹度可被処厳刑之処至仁非常の宸斷を以て死一等を減し有馬中将へ永預け被仰付候事
 十二月 行政官〔東京城日誌、松平家譜〕


 同日行政官より保科弾正忠へ左の命を伝え会津藩首謀者を申告せしむ。

 保科弾正忠
松平容保家来之内反逆首謀之者早々取調可申出事〔松平家譜〕


 十二月十二日若松在陣参謀より命を伝え、猪苗代謹慎の海老名郡治、井深茂右衛門、田中源之進、小森一貫齋、井深守之進、辰野源之丞、秋月悌次郎、春日郡吾、桃澤彦次郎(桃澤は病に罹り後東京に在る)、塩川謹慎の諏訪伊助、佐川官兵衛、相馬直登、柳田新介を瀧澤村官軍陣営に召喚し、十三日会津を発し東京に至るべきを命ず、途中小倉藩の兵護衛しこの月十六日東京に至り伝馬町の獄に投ぜられ、十七日司法省に召喚し海老名、井深、田中、井深(守之進)、辰野、春日は細川邸に、諏訪、佐川、小森、柳田は堀田邸に幽せらる、独り相馬直登は脱走して函館の榎本軍に身を投ぜりと云う〔浅羽忠之助筆記〕。

 同十八日若松在陣参謀より猪苗代、塩川謹慎の旧藩家老原田対馬、上田学太輔を召喚し、旧藩士に鎮将府の命を伝ふ。

 士分以下之者共へ
別紙之通可申渡事
其方共事実弁無之者と雖王師に抗候段皇国之大典不可許依之百日謹慎被仰付候猶御扶助米二人扶持被下候事


 士分以上兵隊役人
 軍事治官共
其方共追而何分之御沙汰有之迄御扶助米二人扶持被下候事


 奥女中
今般容保事大典を侵候得共其方共に於ては御構無之依ては御扶持米二人扶持被下候事


 婦女子
同文


 兵卒之外下々 六百四十六人
 従僕 四十二人
 鳶の者 二十人
其方共御構無之以来心得違無之様各産業可勤者也
追て御詮議之上埤僕之者は農商に被帰候事


 同日若松在陣参謀の命令を米澤藩より口頭にて伝ふること左のごとし。

一 病院に罷在候者は快気出院の卑り二人扶持被下候事

一 老幼之者共は是迄迚も御構無之儀に候へ共猶此後迚も御構無之候間何れへ住居致候共勝手次第の事
但飢渇に及候様なれば可願出左候へば焚出可被下候

一 東京登之者は東京表に於いて御扶持米二人分被下候事
同四日若松在陣参謀より左の命あり。


 軽卒 四百九十七人
右足軽之内当町農商より養子或は自身を以て軽卒奉公罷在候者共早々取調来る二十一日迄可被書出候事
 十二月 若松在陣参謀


 十二月二十七日若松在陣参謀より塩川謹慎の上田学太輔、猪苗代謹慎の原田対馬を召喚す、米澤藩の兵これを護衛す、双刀は袋に納め兵士これを持って輿側に従う、二十八日夜に至り軍務局に(大町融通町)に至るや参謀左の書を交付し、猪苗代謹慎の旧藩士は松代藩に、塩川謹慎の旧藩士は高田藩に幽囚せらるゝの命を伝ふ、終りて軍務官列席して特に上田、原田等の重臣に茶菓酒饌を饗す〔浅羽忠之助筆記〕。

 松平容保家来
別紙御沙汰之通被仰抑付候に付ては近々御差送に相成候間此段可相心得候事
 但老幼婦女子一同罷越度者は出格之御仁恤を以御送被下候条御趣意之旨厚可相心得候事
譜代従僕之者農商になり又は主人に従へ両藩へ罷越候共可為勝手候事

 眞田信濃守
松平容保家来之者共其藩並榊原式武太輔へ御預け被仰付候間両藩申合取締可致旨御沙汰候事
 但受取方之儀は万事軍務官へ可伺出御預中両藩之内へ地所を以三万石御渡可相成候間扶助方行届候様可致候事
 十二月 行政官
  榊原式部太輔
右同分〔東京城日誌、浅羽忠之助筆記〕

 




卷十 戦後の処置

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秋月奥平の贈答

秋月奥平の贈答

 九月二十四日官軍猪苗代に謹慎せる旧幕府歩兵頭加籐平内以下並高田藩、郡上藩脱走の兵士四百六十人を長州、大垣兵をして東京に護送せしむ〔大垣藩奥羽征討史資料〕。

 この前後より旧封内の人民妙国寺に至り魚鳥果実等を二公に献ずる者相絶えず〔浅羽忠之助筆記〕。

 十月十七日佐賀藩徳久幸次郎妙国寺に来り梶原平馬に面し、我が公、喜徳公および家臣五人を東京に召すの書を伝え、且つ十九日出発すべき旨を陳ぶ。
松平肥後
松平若狭


右御用候条東京へ罷登候様
 但供人父子にて七人を限る
萱野権兵衛
梶原平馬
内藤介右衛門
手代木直右衛門
秋月悌次郎

右五人之者御用候条一同東京へ罷登候様
 但肥後始護送之儀は肥前藩へ被仰付候事〔浅羽忠之助筆記〕


 十月十九日両公妙国寺を出発す、萱野権兵、梶原平馬、内藤介右衛門、山川大蔵、手代木直右衛門、倉澤右兵衛、井深宅右衛門、丸川主水、浦川藤吾、山田貞介、馬島瑞園等随行す、佐賀藩徳久幸次郎兵を率いてこれを護衛す。
 秋月悌次郎は長州の参謀奥平謙を越後に訪ふ、発するに臨み予め事あるを慮り一書を留む、すなわち其の書を官軍に出す、これより先、九月二十四日越後方面長州の参謀奥平謙輔書を若松眞龍寺の住職河井善順(痴塊また慈雲院と号す)に托して我が藩秋月悌次郎に贈る、その書にいわく、

不相見八九年 何日月之不我待也 拊髀之嘆 人皆有之 想子亦当然也 千里各天 彼此参商 天命無常 朝不謀夕 遂使我二三兄弟 不好是溝 戎則随之 命也 将亦何言」不侒以歳之六月 承乏帷幄 従事長岡 其七月自柏崎海路襲柴城 遂取新潟 持其余○以臨米澤 米澤君臣如崩其角 本将使介相通 以試普国之暇 整酒薬相贈 以傚羊陸之風流 不料王師自東者 先祖生以著其鞭 悵恨悵恨」夫貴国為旧幕府亦至矣 無貴国則徳川氏之鬼其不餒 臣各為其主職也 李布之節雖不及韓張之先見 此之丁公之貳 則有余矣 貴国以之 旦也大東之気不振末有如今日之甚也所謂朝歌夜絃為奏宮人 国皆有之 方今求所謂不義之義者亦不可得 況眞節義乎 是乃聖天子所以当宇長嘆 而外夷所以鼓舌失笑也 詩曰 他山之石 可以攻玉 天下無石久矣 今貴国頑然為石 使天下各政其玉 則貴国不獨為旧幕府罄其節 有大造于海内亦大矣 則弊邑輿被其賜矣 猶恨執心不一 守城不了 使古英雄鳥井元忠輩獨擅其美 不侒竊為我州惜之」雖然既徃不咎 遂事不諌 所願者聖天子若以楚荘之心 封内故国使撫其臣民 他日辺海有警 被堅執鋭 為士卒先 以所以其報徳川氏者 致之朝廷以表其自新之心 亦一事也 足下其思之」吾国有落合生者 文章之士也 乃足下之来持其文以請是正者 今猶好在 学以益進 不侒之帰有日矣 貴城咫尺 匹如萬里 前途猶遠 保重保重 不一
 戊辰九月二十四日 源居正頓首


秋月悌次郎これに答ふる書にいわく、

被賜客月念四日之書 薫誦数次 且懼且愧 僕亡国之遺蘖 謭劣無似 将何辞以答 雖然 辱足下之厚諭 如不尽言之 則老寡君之寸丹無所白 而僕之情事無所伸也 故忘擢髪之罪 敢陳其一二 願足下諒之」夫老寡君之素志固在天朝 不獨為故幕府也 僕昔年西遊抵貴藩 左兵衛佐久間氏曰 以尊王室恭順幕府為目的 又戍年之夏 小幡邸監持藩公上幕府書来曰 示諸藩公輿重臣 以為是賛成之 以為是賛成之 以為非斥言之 其書大意曰 開鎖末也 弊邑之所以従事者 專為是也 吁貴藩之所議先獲我心 僕故曰 尊王室乃所以恭順幕府 恭順幕府亦所以尊王室也 弊邑雖至親 豈獨阿私徳川氏哉 夫一徳川氏也 貴藩幕府視之 故情義之所係 不無厚藩小意同 此亦自然之勢也 来書曰 以其所以報徳川氏者致之朝廷 言之懇篤非足下豈能如此讀至于此 泫然流涕 微足下僕亦豈尽言之 夫視孺子之将人井 奔競救之者 人之情也 況宗家之危急 豈忍坐視 然所謂舎爾霊亀者凶矣 弊邑終不得得左右宗家 宗家亦終不得統率諸侯 猶已溺之兒不可救矣 則弊邑専遵奉王室固也 且他今春伏水之一挙 人之所皆知 今不復贅焉 老寡君東帰思過 遣使於列藩 謝罪於朝廷 屛息待罪月余日 何料道梗塞 至情不達 及大兵壓彊四面受敵 之有一二残人 略我貨財 害我士女 会無王師弔恤之意 故尽我甲兵以応之 亦武門之常事已 方狐城受圍之日 背城借一 兵食雖少 猶足以支時月 及聞米藩人之言 始知王師問罪 君臣恐懼 乃投戈乞降 奉還土地 納兵器 待罪僻境 兵邑無他之意於是可見已 苟其不然聞道猶迷 冥頑決死 則為王室之罪人 而終天之憾不可解焉 是以不為死守 引罪呼天 亦君子所宜道心也 嗚呼包胥哭庭之使末帰 而鄭伯牽羊之辱已見 事勢至此復何言 復何言 弊邑之罪載在朝典 斧鉞之誅所甘受也 聖天子若乃思先帝之処遇 不忘祖先之勤労 而使弊邑比小諸侯 不絶其先祀 則辺海有事之日 尽不晪之弊賦 為王之先駆 果如足下之所称 則不獨弊邑之被其澤 実天下之至幸也 雖然方今賊視我者 将食其肉瀦其家 不然袖手傍観如不知者 故生死肉骨者非貴藩而誰 弊邑残兵雖○ 鼓舞而訓練之 猶可用也 国人冥頑不移 今已決然入地 待斧鉞 是乃翻然傳意 自新之機也 於此時 聖栽寛宏 封内故国 輿之位官 則其臣民出於聖外 忠勇剛武 実倍蓰於前日必矣 而知其機者 非足下而誰 傳曰 君子知冤 小人不知 今若一切 罪而殺之 則人或将曰 君引罪如此 臣引罪如此 然聖裁一何厳也 世之懐二心者 将環城自守以弊邑為戒 僕所恐者実在于此 私欲告於大方君子 末得其人 会蒙孝明之恵顧 故唐突左右 敢布腹心 宗社淪胥 方寸已乱 言無次敍 願足下裁之 候属嫩寒 為国珍囁 不了
 戊辰十月六日 秋月胤永


 眞龍寺の僧河井善順は方外の身を幸に旧藩の再興を図らんと欲す、これにおいて小出鐡之助は善順即ち紫雲院の徒弟と為り大盛と称し、秋月は眞龍寺の従僕と為り、別に山川健次郎、小川亮の二少年を寺小性として伴い、五人潜行して越後に至り奥平を訪ひ、国家再興の周旋を依頼し、且つ二少年遊学の事を囑す、秋月はその帰途興亡の事に感じ左の詩を賦し世の膾灸する所と為る。

行無輿兮帰無家 国破孤城乱雀鴉 治不奏功戦無略 微臣有罪復何嗟 聞設天皇元聖明 我公貫日発至誠 恩賜赦書応非遠 幾度額手望京城 思之思之夕達晨 愁満胸臆涙沾巾 風淅瀝兮雲惨澹 何地置君又置親〔山川健次郎の河井善順傳〕

 十一月三日二公東京に至る、我が公および梶原平馬、手代木直右衛門、丸山主水、山田貞介、馬島瑞園は因州藩主池田慶徳朝臣の邸に、喜徳公および萱野権兵衛、内藤介右衛門、倉澤右兵衛、井深宅右衛門、浦川藤吾は久留米藩主有馬慶頼朝臣の邸に幽せらる〔松平家譜、浅羽忠之助筆記〕。






卷十 戦後の処置

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水戸兵国境を去る

水戸兵国境を去る

 時に水戸の隊長市川三左衛門、朝比奈弥太郎、筧助太夫等兵を率いて田島に在り、佐川は浅羽忠之助を遣わして告げしめていわく、事ここに至る諸君の進退は意のごとくせよと、市川等佐川を訪れて別を告げ、会て交付したる所の兵仗を請い、その兵を率い我が国境横川の関を踰え野州を経て南行す〔若松記、津田範三筆記、浅羽忠之助筆記〕。

九月二十七日別軍の諸隊大内村を発し福永村に至り兵仗を納む〔若松記〕。

 同二十八日西軍野尻より来り襲うの報あり、砲兵隊々頭鈴木多門は隊士高橋圓治を使節と為し、書を敵将に贈りていわく、寡君開城し我が隊まさに此の地を去らんとす、請う兵を進むることなかれ、もし諾せずんば武門の常時快戦を辞せざるべしと、後隊士中川守五郎、永田蘇武之助を西の陣に遣わして交渉せしむ〔若松記〕。
 
この日砲兵隊士隊不澤村を発し小林村に次す〔若松記、砲兵隊戊辰戦記〕。

別軍諸隊福永村を発す、米澤の兵力を護衛して塩川に至る〔若松記〕。

朱雀三番士中隊、進撃隊高野村を発し田島に至る〔若松記〕。

 同二十九日砲兵隊小林村を発し針生嶺を踰ゆ、白雪路を埋め寒威凛冽全隊行歩すこぶる艱む、この夜針生村に次す〔若松記、砲兵隊戊辰戦記〕。

十月朔日砲兵隊針生村を発し田島に至る、隊頭鈴木多門職を解かる〔若松記、砲兵隊戊辰戦記〕。

同二日朱雀三番士中隊、進撃隊、田島を発し大内に次す〔若松記〕。

 同三日朱雀三番士中隊、進撃隊、砲兵隊、大内を発し大内峠を踰え、福永村に至り兵仗を官軍に納む〔若松記〕。

 同四日福永村に次したる諸隊は米澤の兵これを護衛し本郷村を経て塩川に至る、途上長州奇兵隊の国に帰るに逢う、我が兵これを田圃の間に避けて通過せしむ、衆皆憤慨切歯せざるはなかりき〔若松記、砲兵隊戊辰戦記〕。

 同八日佐川官兵衛塩川において謹慎すべきの命あり、佐川、田島を発し此の夜福永村に宿す、浅羽忠之助に命じ瀧澤村妙国寺に至り二公に謁し上言せしめていわく、大任を危難の間に拝して軍に従いしも、その任を全うする能はずして事此に至れり、実に恐懼の至りに堪えず謹んで謝すと〔浅羽忠之助筆記〕。

 同九日米澤兵三人浅羽忠之助を護衛し、薩の参謀伊地知正治の陣に至り印鑑を請うて妙国寺に至り忠之助は我が藩相に佐川の使命を告げ、直ちに二公に謁し、佐川の使命を上言し終りて再び米澤兵に護衛せられ塩川に至る〔若松記、浅羽忠之助筆記〕。






卷九 南方の戦

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  1. 2013/04/17(水) 10:48:29|
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大蘆村の戦

大蘆村の戦

 九月二十四日、朝霧冥濛として人家を見ざるも山上は晴天にして日ようやく昇る、両原、喰丸の方面砲声未だ起こざれども兵機失うべからず、小野田雄之助隊士二十五人を率いて左側の山腰を巡りて大蘆村の敵営襲う、武井柯亭もまた三澤輿八を先頭とし隊兵五十余人を率いて右側よりす、兵皆銃を発するに暇なく刀を揮って敵営に突入し立ちどころに二十余人を斬る、朱雀三番士中隊は熊野の社地に據りて射撃し下りて敵営を衝く、西兵眠り未だ覚めず、狼狽して潰乱し、中津川方面に遁逃す、首を獲ること七級生擒一人弾薬糧餉小銃器械等を鹵獲す、会々朱雀三番寄合組隊半隊頭丸山友吉先鋒と為り、黒澤方面より来り援け東軍大捷を得たり、しかれども両原、喰丸に備へたる第二陣の将士機を失いて発せず、ついに退却せしば西兵(高橋、加州)、中津川より来り敗兵を援けて返戦し、衆盛にして弾丸雨注す、柯亭、雄之助衆を督して戦う、たまたま柯亭敵弾に左脚を射られて指揮すること能はず、板扉の上に横臥し之を舁かしめて退却し、途上一詩を賦していわく、

豈耐西軍毒我民、半宵衝枚度憐峋、羸将摂計君休笑、元是吟嘯月人、

 朱雀三番士中隊士角田五三郎も重傷を負いたるも戦急にして扶くること能はず、岩田秀三郎これを介錯して首級を携えて退き浅布村に埋む〔若松記、朱雀三番士中隊書出〕。

 東軍追分(大蘆を距る一里余)、を扼する為、役夫を募り山上に登り声援せしめんとし、幌役原直鐡これを監す、募に応ずる者四十人に満たず、農兵は遁走して留まる者わずかに数人、追分に至れば一人も留まらず、これにおいて付属兵を左右の山上に登らしめ、大砲を装置して西兵の援路を絶ち、火を木地小屋に放ち篝火を船ヶ鼻峠に焚きて疑兵と為し、除々に退却し亥の刻頃浅布に至り、村酒を全軍に給し戦闘の労を慰む〔朱雀三番士中隊書出〕。

 属事掛鋤柄伴之進、服部藤九郎この日追分に至り西兵の遺棄したる小銃弾薬器械若干を鹵獲し浅布に搬送せしむ、納富六郎、近藤務右衛門役夫を督して糧食を提供す〔朱雀三番士中隊書出〕。

 この日我が公は桃澤彦次郎、北原半介をして親書を大内、田島在陣の陣将上田学太輔、諏訪伊助、佐川官兵衛に致さしめ、開城の事を告ぐ、聞く者皆涙を灑ぐ〔若松記、七年史〕。

 砲兵隊宮床を発し簗鳥村に至る、西兵前方小林村に在りと聞き、二番分隊は山を越えて西兵の背後に出て、一番三番分隊は本道より進む、西兵壘を棄てゝ遁る、追撃して瀧澤村に至る、西兵伏兵を設けて我を待つ、東軍これを知らず走るを追うて村内に入りしが、伏兵四方に起こり東兵苦戦ついに退却して簗取村に次す、隊士小眞喜西兵を銃撃して首級を獲たり〔若松記、砲兵隊戊辰戦記〕。

 九月二十五日朱雀三番士中隊、進撃隊午の下刻頃浅布を発し高野に退陣す、この日開城の命に接し衆皆愕然たり〔若松記〕。

 砲兵隊は早朝簗取村を発し瀧澤村に至る、西兵すでに退く、この夜壘を不瀧村に築きて守る〔砲兵隊戊辰戦記〕。

 開城に依り肥前の参謀夏秋三兵衛、大内に来り、まさに田島に入らんとす、佐川官兵衛は浅羽忠之助をして大内に赴き夏秋参謀に面し針生、大蘆の西兵をして休戦せしめんことを請い、且つ田島に来るに際しては兵を率うる事なからんことを請はしむ、けだし兵士の衝突を生ぜんことを慮りてなり、忠之助馬を馳せて行き未だ大内に至らざるに夏秋参謀、我が軍事官香坂右内を嚮導として来るに逢い、使命を致し直ちに馬を返して復命す、夏秋参謀田島に来り佐川を召す、佐川病あり、軍事奉行相馬直登、同添役浅羽忠之助をして代わり言はしめていわく、寡君方向を誤り今日の形勢に至りしは、職として微臣等頑愚固陋にして補佐の道を失いたるに由る、実に恐懼に堪えず、よって微臣等を厳刑に処し老寡君と寡君とを寬典に処せられんことを請うと〔若松記、浅羽忠之助筆記〕。






卷九 南方の戦

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  1. 2013/04/17(水) 10:46:27|
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高田破る

高田破る

 九月十八日辰の刻、西軍尾岐村、赤留村、坂下村の三方より大兵を進めて高田を襲う、大川近傍よりもまた砲撃してこれを援く、前藩相北原釆女、陣将佐川官兵衛、上田学太輔、諏訪伊助等、伊佐須美神社の境内に入り東兵多く退却す、すでにして西兵迫り来り弾丸社前に落下す、境内に在りし兵こくごとく大川を渡り東に向って退却す、西兵大砲発して追撃す、この日朱雀二番士中隊中隊頭長谷川勝太郎負傷し後死し、その他死傷多し〔浅羽忠之助筆記、会津史〕。

 北原釆女は福永に退き〔小川直余之戦争史〕、佐川、上田、諏訪諸陣将は諸隊と共に間道より市野村に至りしが、退却せる東軍群集雑踏甚だし、砲兵隊、寄合組滞を陞せて皆二ノ寄合と為す、同隊市野峠を発し大内村に陣し、二番分隊は市野峠を守る、夜半三番分隊と交替す、この夜寒威凛烈北風肌を劈き終宵眠を成さず〔砲兵隊戊辰戦記〕、兵士皆夏李の戎装を著けて寒冷の候に遭いたる事なれば、その艱難筆舌の尽くす所にあらず、加ふるに鞋襪皆破れ全隊徒跣して戦うに至れり〔浅羽忠之助筆記、会津史〕。

 同十九日、大内村に在りし東兵を二分し、一は留まりて大内村を守り、一は進んで田島に向かう、砲兵隊は酉の刻頃出発して半夜田島に至る〔砲兵隊戊辰戦記〕。

 九月二十二日夜砲兵隊伊南、伊北に進軍の令あり、鈴木多門、田中左内の後を襲ぎ砲兵隊々頭と為り暁天出発す〔砲兵隊戊辰戦記〕、間謀報じていわく、敵大蘆村、両原村、喰丸村に集合し大蘆村を本営と為すと、これにおいて進撃の令朱雀三番士中隊進撃隊に下る〔若松記〕。

 同二十三日砲兵隊針生峠を越えたる頃先鋒戦起こり砲声山岳に震ふ、河原田治部先鋒たり、山を下る頃河原原田隊弾薬尽きて退却す、これにおいて砲兵隊の弾薬を提供して軍を反さしめ共に進撃して入小屋に至れば、西兵自ら屯営を焚きて遁逃す、我が軍追跡して山口に至る、西兵すでに退却す、たまたま別選組隊、立岩の西兵前岸を敗走するを見てこれを追撃す、砲兵隊は本道の西兵を追撃して宮床に至れば日すでに暮る、すなわち此に次す〔若松記、砲兵隊戊辰戦記〕。

 朱雀三番士中隊、進撃隊、田島を発し浅布に次す、明日早天を以て進撃の期と為す〔若松記〕、津田範三を軍監と為し、朱雀三番士中隊に属せしむ〔津田範三筆記〕。

 小野田雄之助、鈴木一郎右衛門、津田範三浅布村に至り武井枸亭と会し大蘆襲撃の部署を定む〔津田範三筆記〕。

 これにより先、田島にて捕えたる大蘆村の農夫に地形敵状を問うに西軍の大蘆に在るは加州、高崎の兵六百余人胸壁を両原、喰丸の二村に築き守を置き防備を厳にすと云う、しからば則ち大蘆の方面は船ヶ鼻の險を越え山地を跋渉し早天に襲撃せば如何と問へば、農夫いわく、その地険阻にして樹木密生して行くべからずと、津田範三云う、山地連亘せば縦令険なりとも何ぞ行くべからざらんと、すなわち農夫二人を嚮導と為し、子の刻、朱雀三番士中隊、進撃隊、朱雀三番寄合組隊、浅布村を発し兵を分つて両道より進む、朱雀三番寄合組隊は黒澤通よりし、朱雀三番士中隊、進撃の両隊は浅布よりす、朱雀三番士中隊士名越治左衛門、安恵又三郎をして偵察せしめ、隊伍を整い浅布峠の険を越えて行くこと二里余にして両原、喰丸と大蘆との岐路あり、この要地に大砲を装置し、第二陣幌役原直鐡、農兵指図役頭取一瀬一馬をして農兵を率いて西兵を抑制せしめ、且つ、その砲声に応じて舟ヶ鼻の険路を越えて、まさに大蘆村の背後を衝かんとす〔朱雀三番士中隊書出、津田範三筆記〕。

 朱雀三番士中隊、進撃の両隊は兵を按して日の暮るゝを待ち、夜に入り月黒く満点墨のごときに乗じ、船ヶ鼻峠に至り広原の村落を経て両原、喰丸と大蘆との岐路より左方の険阻を攀ぢ、密林の間を行くこと四十余町にして翌朝大蘆村を瞮望す〔津田範三筆記〕。






卷九 南方の戦

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  1. 2013/04/16(火) 10:33:13|
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高田の小戦

高田の小戦

 同九日我が軍大川を渡り小野村に至る、食うに米なく栗を炊きて飢餓を医す、大内に西軍の糧食兵器ありと聞き間道より炬火を消し、嶮阻の山路を登る、夜黒うして咫尺を弁ぜず、行軍すこぶる困しみ拂暁大内に至るや、西兵(宇都宮兵)は前夜これを探知し狼狽して遁走し、許多の糧食弾薬砲弾器械等を遺棄す、村民雀躍して東軍を迎え、あるいは喜び極って泣く者あり、西軍糧食弾薬を倉谷村(大内を距る二里余)に遺棄すと聞き、東軍申の刻、大内を発し倉谷村に向かう、途中村民出でゝ迎い炬火を照らし東軍を導く、果たして糧食弾薬後装銃器械等枚挙に暇あらず、皆土州、芸州、宇都宮等の標札を附す、これを面川軍事局に運搬して城中に入れしむ〔若松記、砲兵隊戊辰戦記、小野田隊記事〕、この日赤留村の西兵ニ百人許吶喊して高田を襲う、会々東兵の高田に在る者沼澤出雲隊その他合わせて約六七十人に過ぎず、しかして銃を執る者半に過ぎず、各刀槍を揮って迎え戦う、西兵の近づくにおよび東兵撒兵に展開し銃を発して吶喊す、西兵敗走して赤留村を経て中の山に退き処々に篝火を焚いて守る、東兵追撃して赤留村に至り守を置いて防備を厳にす、この時に当り西兵銀山街道よりする者は軽井沢村を本営とし、長尾新田よりする者は逆瀬川村を本営とし、根岸、中田村、上ノ山、一本松の近傍に守を置き大砲を装置す、勝方村より軽井沢に至るまで皆西軍の占拠する所と為る〔一柳盛之允書出〕。

 九月十日砲兵隊倉谷村を発して田島に至る、これより先、白井傳左衛門なる者南方糧食搬送の任務を以てここに在りしが、西兵の襲撃を避けて黒澤村付近に潜匿し、村民をして西兵に対し会津兵二千余人前方まで押寄せ来る、貴軍の小勢にては恐らくは敵すべからず、急に之を避けられては如何と欺き告げしめたり、西兵これを聞いて驚き恐れ村民を先導として遁逃したるが、村民殊更に路窮る処、あるいは路なき処に誘致したれば、西兵これを信じて深く山中に入り行くには路なく大に困しむ、村民これに乗じて竹槍あるいは鈍刀を揮ってこれを刺殺し、あるいはこれを生擒して我が軍に致し以て大功を奏せり〔若松記〕。

 東軍は小野村、大内村を下り、小川窪より高田、永井野に至るまで兵を部署し、高田の東軍は逆瀬川より寺崎、雀林方面の敵へ備へ、永井野には水戸の朝比奈、筧、我が朱雀二番士中隊等、松岸、仁王方面に備へ皆壘を築きてこれに據れり〔津田範三筆記〕。

 九月十一日、時に城中糧食多からず、使を遣わして佐川陣将に報じ糧道を開かしむ、時に高田を守する者もまた急を告ぐ、ここにおいて佐川兵を分ちて朱雀三番士中隊、進撃の二隊を留めて南方を扼し、朱雀三番寄合組隊をして本道を守らしめ、自ら砲兵隊、別選組隊、朱雀二番士中隊および水戸の兵三百余人を率いて大内を発し日暮れ高田に至る、これより人を西方に出して糧食を集め、敵の囲を破って糧食を納れしむ、時に高田の四面は皆西軍にて固めたり〔続国史略後編、若松記〕。

 同十二日神戸内蔵を兵粮奉行兼郡奉行と為し、篠田数馬を軍事方目付仮役と為し、柳澤良衛を郡奉行と為し、樋口彌兵衛これに属し、城外各村より米豆薪炭等購求徴発の事を掌らしむ、属吏中野輿五郎、栗村又市、福田辰次郎、寶田勇八、秋山房之丞、草刈粂太、好川喜代美、鈴木源次郎、山村藤助、山田林之助等奔走周旋す〔若松記〕。

 また西郷内蔵之進、一柳盛之允をして各村より糧米を徴発または購入せしむ、高田方面東軍日に加わりたれば、之に糧食提供必要あるを以て宮袋、本多十二所、本多新田、館内、宮ノ下、上海津その他大川近傍の肝煎をして米豆を徴発せしめたるが、四面皆敵にして城中に入るゝこと能はず、夜間密かにこれを袋村に集む、属吏渡部栄八、大山岩吉、戸田忠吉等奔走斡旋す、高田村肝煎須藤和右衛門、佐藤清左衛門、浅野圓之助等多数の村民を発して南方の糧食運搬に力を尽くし、また社倉米を城中に納る、各代官所の所在地は皆西兵の據る所と為りしが、独り高田は敵手に落ちざりしに由り必要の諸品を集めて城中に納るゝこと終始一日のごとくなりき、高田代官所帳付津田新三郎は糧食の運搬に努力して功あり、後開城の日和右衛門、圓之助は各金拾両、清左衛門は金参両を城中に献ぜり〔若松記〕。
 
 九月十三日、吉村津右衛門、栗村又市が兵二十人、林信太郎が兵十人巡邏して宮下村に至る、西兵小祖山、宮下、安田の三所に屯す、東兵これを攻撃して破り、北ぐるを追うて四人を斃し一人を傷く、栗村兵、騎兵の西兵(新発田兵)、を斃し双刀陣笠戎衣等を鹵獲す〔一柳盛之允書出〕。

 西兵八木澤方面を襲いたる時、境野村を守れる武井柯亭撃ってこれを退く、この時沖津庄之助中田村に在り、西兵の生擒する所と為りしが、西兵これを棄てゝ敗走したるを以て庄之助は免るゝことを得たり〔一柳盛之允書出〕。

 同十四日、佐川官兵衛北方面に在りし陣将萱野権兵衛、上田学太輔、諏訪伊助、一瀬要人、若年寄飯田兵左衛門等兵を収めて上荒井村に至るを聞き、浅羽忠之助をして諸隊に面し相会して謀議の要あれば一人来談あらんことを乞はしむ、忠之助馬を馳せて上荒井村に至れば、幌役横山錈三郎これに面していわく、米澤同盟に反き西軍に属し来りて我を攻撃すと、忠之助大に驚き使命を萱野権兵衛に致し高田に帰りて復命し、且つ米澤の事情を報ず、陣将はついに一人も来らざりき〔浅羽忠之助筆記〕。

 九月十六日、早天西兵天狗宮の地形によりて兵を部署し永井野村の東兵を攻撃せんとす、時に水戸の将朝比奈弥太郎は兵を南方の山腰に配置し、同藩筧助太夫および我が長谷川勝太郎は東方高橋川に沿うて西向して陣し、砲兵隊は高橋川を隔て尾俣窪の山上に陣す、すでにして開戦し東兵は西兵の前面を突撃し、すなわち左右翼を張りて攻撃し、西兵敗走の色あり、東兵西軍先登の勇士二人を斬りてその首級を獲、また壮士一人を生擒す、鳴美祐太郎と称し年二十四なり、彼いわく、京都より有栖川宮に随い来り後高崎の兵と共にこの地に来ると、所謂御新兵と称するものなり、越えて九月十八日東軍高田を退く時これを斬る〔津田範三筆記〕、天狗岩の西兵松岸、仁王を経て上甲村に敗走す、東兵守を仁王村に置き永井野に屯営す、上甲村の西兵は水戸の彪党および高橋の兵なり、山頭に篝火を焚きて守る〔津田範三郎〕。

 同十七日、永井野村を守れる朱雀二番士中隊中隊頭長谷川勝太郎未だ兵の交替せざるに隊兵を率いて陣地を退きたるが、水戸の兵(寅党)大に怒り痛論して止まず、幌役津田範三弁解して事纔に息む〔津田範三筆記〕、陣将上田学太輔、諏訪伊助一ノ堰村を退き高田に至る〔小川直余之戦争日記〕。

 西兵大挙して高田を攻撃せんとするや、佐川接戦の利あらざるを知り浅羽忠之助をして退却の令を伝へしむ、忠之助馬を馳せて永井野村に至り令を水戸の兵に伝う、途上東北を望めば火光天に張る、面川村兵燹に罹るなり、この夜忠之助再び馬を班へして境野村に至り令を武井柯亭に伝ふ〔浅羽忠之助筆記〕。






卷九 南方の戦

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関山の戦

関山の戦

 同三日中津、人吉、今治の兵来り西軍に合し、全軍また来りて関山を襲う、我が兵各所に埋伏して西軍を乱射し勝敗未だ決せず、時に薩兵我が背後に廻り来撃せるを以て我が軍ついに支えずして本郷に退き、転じて高田に陣せる我が軍に合せり、この日敵の死傷宇都宮数十名にして佐賀兵、薩州兵これに次ぐと云う、我が軍の戦死者は朱雀四番足軽隊小隊頭渥美保太郎の外士卒十数名ありき〔会津史、大沼郡誌〕。

 九月四日西軍関山を発し本郷に至りて退陣す〔会津史〕。

 同七日城中諸将相議し密かに兵を率いて城を出て西軍を襲い、その糧食兵器を奪い以て我が軍資に供せんと欲す、陣将佐川官兵衛は朱雀三番士中隊、朱雀三番寄合組隊、進撃隊、朱雀二番士中隊、別選組隊、砲兵隊の諸将に水戸の兵を合せ全軍一千余人を率い、末明に鳴りを鎮めて南町門を出て馬橋より一ノ堰村に至る頃天已に明けたり、面川村を経て彌五島に次す〔続国史略後偏、自警偏、若松記、津田範三筆記〕。

 同八日、青龍三番士中隊、遊撃隊、結義隊等越後より退軍し来り会したれば、佐川官兵衛これらの諸隊をして飯寺の西軍を襲はしめたるが利あらずして還る、すなわち諸隊を部署し朱雀三番士中、朱雀三番寄合組の二隊は本道より大内に向い、進撃、朱雀二番士中、別選組、砲兵の諸隊は間道より出でゝ西軍を挟撃することを約す、この日大雨行軍すこぶる困難を極め夜小塩村に宿す〔続国史略後篇、砲兵隊戊辰戦記〕。






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大内峠越の戦

大内峠越の戦

 九月朔日早朝佐賀兵を先鋒とし、宇都宮兵これに次ぎ、太田原兵後軍となり、芸州兵は倉谷の土人を嚮導として大内峠左右の山麓より進攻す、我が軍胸壁を山上に築きてこれを拒ぎ、しばしば正面より登攀せる敵兵を殺傷す、すでにして芸州兵突然我が軍の左側に現れ、短兵接戦我が陣中に迫るや、青龍三番足軽隊中隊頭野村悌之助大に怒り兵を叱咤して挺身勇戦これに死す、一軍これに励まされて力戦ついに芸州兵を退く、この時西軍正面および右側より進み再び我が陣中を襲う、我が将小山田傳四郎、横山傳蔵等兵を指揮してこれに当る、しかも敵衆ようやく加わり我が軍支えずして退かんとす、時に砲兵隊の部将笹沼金吾踏みとどまり路傍の草中に潜み、敵兵過ぐるを待ち刀を揮って躍り出て、数人を斬り伏せ、その身また数創を負うて死す、我が軍は山下に退き栃澤および関山の要所に壘を築きて守る、この日我が将長の戦死者左のごとし。

青龍三番足軽隊中隊頭 野村悌之助
幌役 橋爪辰之助
工兵隊隊頭 渡部貞之助
朱雀四番足軽隊半隊頭 松田圓次
青龍三番足軽隊小隊頭 三橋文内
砲兵隊 笹沼金吾〔維新録、大沼郡誌〕


 この日我が軍の一部西方村を退くに当り、遊撃隊士小櫃輿三郎単身村の薪棚を負うて奮闘し敵数人を斬る、敵の一人槍を以て棚の隙より輿三郎を刺してこれを斃す、土民今に伝えてその勇を称すと云う〔大沼郡誌〕。

 九月二日芸州兵先鋒と為り、太田原兵中軍と為り、宇都宮後軍と為りて進み来る、我が軍栃澤の檢により、壘壁を築きて防ぎたるも支えず、退きて関山に據守す、この日三斗小屋より進みたる黒羽、舘林、薩州等の兵氷玉峠に来り、西軍に合し威勢大に振い大挙して来り攻む、我が軍力戦して夜に至る、西軍苦戦暗夜に乗じ氷玉峠に退陣す〔維新録、大沼郡誌〕。

 




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