いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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七  わが公の入京     『京都守護職始末1 』

 盛大なる儀従     同九日、公はまた江戸を発して、二十四日巳の上刻(午前九時)、京都に入った。町奉行永井主水正、滝川播磨守が属僚をしたがえて、三条橋の東に迎えた。
 公はただちに宿館には入らず、本禅寺で旅装を礼服(麻上下)にあらため、関白近衛忠熙公の邸にいたり、天機をお伺いしてから、東山の麓の金戒光明寺の宿館に入った。
 この日は、路の両側に羅列して、その行列を見る市民が蹴上から黒谷まで、すきまもなくつづき、馬上の公をとりまく儀従は、一里あまりにわたり、家老横山常徳が殿(しんがり)であった。その儀従もまた数十人、あたかも大名のようであった。
 さきに京都所司代酒井忠義朝臣、および京都守衛の彦根藩士らは、浪士の鎮圧を誤ったために、京中ではひそかに腰抜武士と機笑するものが多かった。幕府譜代の大名たちも、大概そのようなものと誤想していたため、所司代、町奉行はあっても、これをあなどり、依頼の念がなかったのが、いま公の入京に当り、その儀従が盛大で、そのうえ、途中、関白殿下のもとに立ち寄り、天機をうかがうなどのしかたをみて、それぞれ手を額にあてて迎え、人心はやや安んじた。これよりさき、近畿諸藩の兵を微して九門を守らせていたのも、ここに至ってことごとくとりやめることとなった。
 二十五日、公ははじめて近衛殿下に参謁し、おもむろに満腔の赤誠を開陳し、「方今の急務は海内の人心一和がなにより先決で、その人心一和は主として公武の一和であり、それが欠けては、どんな良謀、上策があっても決して実行することができない。これに反して、人心一和すれば、どのようなこともできないことはない。容保不肖ながら、公武一和のためならば、死を誓ってもこれに当たる決意である」と述べられた。殿下も大いにこれを賞嘆され、款待に時を移し、そのうえ、随臣の小森一貫(始め久太郎、後一貫斉とあらためる)、小野権之丞らも拝謁を賜った。けだし殿下は資性温厚で、年齢も積み、何事にも練れた人柄のかたであった。

 



 長土の画策     はじめ薩長土の三藩が京都に勢力を得たのだが、おなじ三藩と言われていても、薩摩の所論がなにかと長土の考えと異なるところがあったので、長土はそれを喜んでいなかった。たまたま殿下が職を拝することになってからは、かつて近親の関係【注一】があったために、薩摩の建議に傾くことが多く、そのため殿下のことを薩州関白などと呼ぶようにさえなった。
 長土の二藩は、薩摩の勢力を殺ごうとして、三条実美卿、姉小路公知朝臣のもとに出入した。両卿は小壮気鋭であったため、二藩の者の説を信じ、なにかと殿下と相抗したために、朝議も相表裏することしばしばで、諸公卿の非難を招き、しだいに職を辞めたい気持ちになっていたところ、今わが公の意中をきくにおよんで、相符号するところが多いので、自分もまた、明らさまにその事情と意中とを開陳し、たがいに相倚るべき気持を抱くにいたった。

 



 公武一和諸につく     はじめ公が田中玄清、外島義直を上京させて、在任の準備をさせるに当って、堂上家に出入して朝廷の事情を伺い知ることも急務の一つであるけれども、わが公家が昔から堂上家と姻親を結んでいないので、どこにも頼るべき家がなかった。
 時に、幕府より歴世山陵の修築【注二】を命じられていた戸田越前守忠恕朝臣(下野宇都宮藩主)の一族忠至(時に間瀬和三郎、後に戸田大和守と称した)が京都に上り、そのことを奉行していたが、かつてその忠至が、わが藩の長沼流の兵学を学び、かつは、昔からわが藩と戸田家とは親密な間柄であった関係から、玄清らはまず忠至に会って事情をうちあけた。そこで、忠至は、その宗家正親町三条実愛卿(今の嵯峨侯爵家の先代)が議奏職にあったので、仲介して卿に謁見させ、ついで三条実美卿の招見があり、この両卿のおかげで、ほぼ伺い知ることができたところ、いままた近衛殿下と肺肝相照らすこととなり、公武一和の事は、はじめてその端諸をつかむことができた。

 



 朝制の大改革     この月九日、朝廷は国事掛、参政、寄人の三職【注三】を置き、関白前左大臣忠熙公、議奏中納言実美卿(三条)、大納言忠能卿(中山)、大納言実愛卿(正親町三条)、中納言雅典卿(飛鳥井)、宰相中将公誠(阿野)、伝奏大納言俊克卿(坊城)、宰相中将定功卿(野宮)らにこれを兼補させ、ほかに青蓮院宮尊融法親王、左大臣忠香公(一条)、右大臣斉敬公(二条)、前右大臣輔熙公(鷹司)、内大臣公純公(徳大寺)、左大将忠房卿(近衛)、大納言実良卿(一条)、大納言忠礼卿(広幡)、大納言家言卿(大炊御門)、中納言重胤卿(庭田)、中納言李知卿(三条西)、中納言実則卿(徳大寺)、宰相中将有容卿(六条)、左衛門督重徳卿(大原)、三位信篤卿(長谷)、少将公述朝臣(河鰭)、侍従公愛朝臣(裏辻)、侍従実梁朝臣(橋本)、右中弁博房朝臣(万里小路)、中務少輔資生朝臣(勘解由小路)らをもってこれに補し、後に少将公知朝臣(姉小路)をこれに加えた。
 そもそも朝廷の実務にあたるのは関白と、伝奏、議奏の両職であって、関東への命令その他、武家に関することは伝奏がこれに当り、朝廷の典礼や公卿の任命などは議奏が司り、関白は、その両職の上にあって統轄しているので、この三職以外の公卿は、大臣と言い、納言と言っても、要するに栄誉の名称にすぎない。ところが、関白はもちろん、両職に補せられるには門地の定めがあって、有為な公卿があっても朝議に列することはゆるされなかった。癸丑(嘉永六年)、甲寅(安政元年)以来【注四】、国事多端の折から、広く人材を登庸する途をひらかねばならないので、国事御用掛を置いてはという議が起り、壮年の堂上家や諸藩士浮浪の途の説をよろこぶ人たちは、さかんにこのことを主張し、ついに朝議はこれを決定した。
 関白両職の他に、行政の機関を改定するのは、徳川氏執政以来の一大変革としなければならない。





 【注】

【一 近親の関係】 関白近衛忠熙の妻は薩州藩前藩主島津斉彬の養女であった。

【二 歴世山陵の修築】 荒廃した山陵(歴代天皇の陵)を修補する意見は、幕末尊王論の抬頭とともに各方面で主張され、幕府も嘉永年間から調査に着手した。しかしその実行は文久になってからである。宇都宮藩主戸田忠恕(越前守)は、山陵修補に熱意をもち、文久二年、折から江戸にきていた勅使大原重徳と松平慶永に陳情した。そして慶永のすすめに従い、潤八月建白書を老中板倉勝静に提出した。公武合体の実現を企画していた幕府は、この意見をとりあげ、忠恕を山陵御取締向御普請御用に任じ、家老戸田忠至(大和守)がその名大として実務を担当した。忠至は山陵の調査をおこない、神武天皇陵の修補から実行したが、これが機会となり、各地の大名が領内山陵の修補を願い出、その実行にあたる気運が生じた。

【三 国事掛、参政、寄人の三職】 文久二年十二月九日、国事御用掛をおき、青蓮 院宮尊融法親王(中川宮)、関白近衛忠熙ら二十九人の公卿をこれに補した。その職務は、国政の討議にあったが、彼らは上級公卿で、従って穏健な意見の持主が大部分であるため、尊攘派は不満であった。翌年二月十三日、御用掛とは別に国事参政と国事寄人の職が設置されたが、これに任じられたのは、小壮で急進的な尊攘派公卿で、志士との関係の深い人々であり、このため御用掛の実権は参政、寄人の両職に移ることとなった。

【四 癸丑甲寅以来】 癸丑は嘉永六年(一八五三)で、アメリカ使節ペリーが来航して開国を求め、甲寅は安政元年(一八五四)であり、ペリーが再渡来し、ついに日米和親条約がむすばれた年である。

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  1. 2012/10/26(金) 16:59:46|
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