いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

近藤勇の死

近藤勇の死

 文久三年以来我が藩に付属したる新選組は、伏見、鳥羽大敗の後、組長近藤勇、副組長土方歳三これを率いる、幕府の軍艦順動丸に乗じ大阪を発し、正月某日江戸に着せしが(後慶喜公の蟄居せらるゝ上野山内の警備を命ぜらる)、勇等はまさに亡滅せんとする主家を救わんと画策せる時、甲府の志士等の内武力をもって西軍を防止せんとするもの多きを聞き、甲府に行きて彼らと協力することに決心せり、よくよく甲府は中仙道に近く江戸防備の第一線中に在るをもって、幕府はこれを江戸の外城として甚だ重要視せり、ゆえに享保年代に於いて柳澤吉里朝臣を大和の郡山に移せる以来、これを諸侯に輿へず直轄の地とし、幕末頃に在りては五百石以下ニ百石以上の士ニ百人を住居せしめ、これを交付勤番と云い、甲府勤番支配(三千石高役料千石)と云う諸大夫二人をしてこれを率いしむ、各支配の下に組頭二人、輿力十騎同心五十人あり、外に甲府町奉行(千石高布衣なるべし)ありてその部下も少なからず、また甲府の民政官たる代官もその部下と共に甲府に住居せり、かつ譜代の大名に命じて城代たらしめたり、戊辰の歳における右の役々を勤めしは左のごとし(慶応三年の武鑑に據る)。

 城代
大河内輝照 上州高崎城主八万ニ千石

 甲府勤番支配
佐藤駿河守

 組頭
鳥居敬之丞
齋田左衛門
坂部量兵衛
柴田監物

 甲府町奉行
若菜三男三郎

 代官
中山誠一郎


{右は主として慶応三年の武鑑によりたるが、鹿島淑男が『近藤勇』『太政官日誌』等に大河内城代の名見えざるは不審し、西軍東下前に職を辞したるか又は逃げて帰邑したるなるべし。}

 右によりて見れば甲府の武備は十四五万石の大名の夫と程度において同じきものゝごとし。
 近藤勇、土方歳三は甲府を鎮撫することを徳川政府に請う、時に徳川政府の執政者勝安芳等は、主戦論者の江戸に在るを恭順の妨害となし、これをして江戸を去らしむるを必要とせる折柄なれば、勇等をして甲府に投ぜしむるは鎮撫に効なきのみならず、かえって主戦論者を煽動するは必然なるを知るも、江戸を去らしむる必要に迫られこれを許可せしのみならず、金五千両大砲二門小銃五百挺を賜う、勇等大に悦び隊名を変じて鎮撫隊となし、勇は大久保大和と、歳三は内藤隼人と称し自ら徳川開国の功臣に擬せり、よって上野の警備を遊撃隊に譲り、部下八十九人を率い三月朔日をもって江戸を発し、多摩郡は近藤、土方の郷里なれば兵を募りて若干名を得たり、次いで猿橋に至り西軍下諏訪よりまさに甲府に入らんとするを聞き、急行して駒飼に至れば甲府すでに敵の手に落ちたるを聞けり、これより先き西軍の参謀土州人谷千城は、甲府を取らざれば後顧の憂あるをもって、本道の兵を分ちて甲府に向かう事を建議せしに議容れられ、土州、因州、高遠の兵をもってこれに充て、高島藩(諏訪氏)を降しその兵を嚮導とし、五日甲府に入り勤番支配佐藤信崇より府城兵器を収めて城内に陣す、次いで主戦派の首領柴田監物等を輔縛し投ず、これにより主戦論者屏息し、また戦を口にする者なきに至る、勇が駒飼に至りしは三月五日にして西兵が甲府城に入りしもまた同日なり、勇等にして一両日前に甲府に入り同志を糾合して西軍に当りしならんには、容易く陥落すべくもあらず、勇が終生の怨とせしも故あることにこそ、勇は自ら等等力、勝沼等を巡察し、勝沼町中に関門を設け里人をしてこれを守らしめ、勝沼の東端なる街道の橋を徹して胸壁を築いてこれを守らしめ、また一部隊を割いて南に出で日川に沿ひて下り敵の側面を衝かんとせり、しかして我が兵が兵数約ニ百人なり、西軍は土州、因州、高遠の三藩にてその数五百人中左右三手に別れ攻め来る、時に三月六日の午前なりき、関門は敵兵の為に容易く打ち破られ、本街道において戦い酷なるとき、敵の左翼は山を踰え我が背後に出でしが為、我が兵ついに敗れ、且つ戦い且つ退き辛うじて笹子峠を踰ゆることを得たり。

{鹿島の近藤勇には、土方歳三は援兵を得んために早追にて引退したる旨記載し、後使命の事に関し何らの記事なし、この間の土方の行動全く不明なり。
この戦に我が藩士と自白せる山崎壮助と云う者、土州藩の手に捕えられて斬らる、この山崎は如何なる人か不明なり、『戊辰殉難名簿』にこの氏名あれど只単に三月六日勝沼において戦死とあるのみなり、鹿島の『近藤勇』にはこれに関し劇的挿話あれども取らず。
勝沼の戦に我が藩の田中左内、井深恒五郎、原源四郎外三四名参加し、新選組とは武州八王寺にて別れきと云う説あり。}


 この時近藤の声望全く地に墜ち収拾すべからざるに至り、ついに勇をして隊士に先だち江戸に帰らしむるに至れり、後近藤、土方は隊士若干を収め、また地に兵を募り下総国流山に陣す、時に東山道の西軍本営板橋に在りたるが、彦根、須阪等の兵に命じてこれを討たしむ、西兵越ヶ谷より兵を潜めて俄かに流山を襲う、新選組ついに勇捕えられ、

{勇が捕らえられたるにつき区々の説あれども、大兵に覆う掩撃せられて捕虜となりしと云う説正しきに似たり、太政官日誌第十三に因州の届あり、その内に『大監察香川敬三、小監察平川和太郎に鎮撫方被仰付薩藩有馬藤太、長藩祖式金八郎、土藩上田楠次へ軍略御委任右三名彦根藩、須阪藩及び岡田将監(旧幕府の寄合封禄五千石の旗本にていち早く西軍に降りし物)の兵三百余を率いて四月二日板橋御本営を発し、同五日有馬、上田両人越ヶ谷駅より兵を潜めて急に流山の賊を襲う賊徒狼狽なす所を不知悉く兵器を献じ降伏す賊魁大久保大和(近藤勇)を捕えて御本営に送る云々』とあり、また太政官日誌第十四条に長州第一大隊二番中隊々長楢崎頼三の記事あり『彦根藩、須阪藩、堀藩(須阪藩は堀藩なれば、この二字誤りならん)並元徳川旗本岡田某(将監なり}一手兵隊等御繰出しに相成都合百五十人許長州祖武式金八郎、岩倉殿御内香川敬三両人(平川和太郎の名脱せしならん)参謀として之を引率して四月朔日千住往還より押出す、同月二日流山に賊徒屯集の由にて乃押寄せ小銃を打懸け攻戦候処賊徒程なく分散し賊長近藤勇を檎にし板橋に檻送云々』とあり、両者の間に日付の差あれども大体同じ、因州の届は公文なればこれに従うべものごとし。

 四月十五日北豊島郡板橋において斬らる、勇死に臨み神色変ぜず従容として刃を受く時に年三十五、ついで首を京都に送り三条河原に梟す、その捨札は左のごとし。

 元新選組近藤勇事
     大和
此もの兇悪之罪迹あまた有之上州勝沼武州流山両所において官軍に敵対せし段大逆たるによって如此令梟首もの也


 しかして土方歳三は残兵を率いて市川に走る、

{甚だしいかな西軍の暴戻なるや、捕虜を殺すは当時の習慣なれば咎むべからざるも、勝沼、流山を犯罪地とし、これを勝沼、流山もしくは板橋に梟せずして、京都に梟したるは京都をもって犯罪地としたるを証するなり、勇が京都における行動は適法の命令によるものにして、罪迹と言うべからざるは今更論ずるまでもなきことなり、彼らは名を懲罰に借り実はその私怨を報ぜしに過ぎず。
近藤勇が墓は東京府北豊島郡板橋町に在り、ただし京都にて梟されし頭は如何なりけん、福島県北会津郡東山村天寧寺に近藤勇の石碑あり、正面には貫天院殿純忠誠義居士、側面には慶応四年戊辰四月二十五日俗称近藤勇藤原昌宣とあり、これ土方歳三が建てしものなり、勇が頭また髪を埋めしと云う説あれども、短日月の間に、頭もしくは髪が土方の手に入ると云うは信ぜられず、確証なき限りは、招魂碑と見るを可なりとす、また法名は我が公(会津藩主松平容保)の賜うところなるを加藤寛六郎氏が城中において親しく土方の語るを聞けりとの話あり。}






卷四 総野の戦  会津戊辰戦史1
スポンサーサイト

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/12/20(木) 11:21:04|
  2. 会津戊辰戦史1
  3. | トラックバック:0

トラックバック

トラックバック URL
http://igagurisiryoukan.blog.fc2.com/tb.php/100-10f076a7
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。