いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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梁田の戦

梁田の戦

 伏見、鳥羽の戦において最も善く戦い、しかもついに潔く戦死したるは幕兵の上長官中歩奉行並佐久間信久並びに歩兵頭窪田鎮章二人のみ、信久率いたるは歩兵第十一連隊の若干(二個大隊)、鎮章が率いたるは第十二連隊の一個大隊なりしが、隊長の勇武に励まされ、将校は勿論兵卒に至るまで奮闘勇戦せるが、敗後残兵は正月下旬に江戸三番町の営舎に入れり(今の靖国神社の所在地)、元来旧幕府新軍制の兵は(勿論奥詰銃隊撤兵隊を除く)招募兵にて、その内には博徒無頼漢なども少なからず、さればどうもすれば上官の命を拒み、あるいは市街において乱暴の振る舞いをなすもの往々ありて、将校も駕馭に苦しみたる場合ありきと云う、しかるにこの二連隊の兵は血生臭き修羅場の経験を経しにより、いとゞさへ気荒き者どもなれば猶一層規律を乱るに至れり、江戸開城の説世に伝わるや各所に集団し慷慨の声を漏らし事態すこぶる不穏なりき、将校(大抵幕臣なりき)等の多くは己が身の行く末を慮るのみにて兵卒の鎮撫に努むることに怠り勝ちなりしが、二月五日の夜当直の将校数名を銃殺し、両連隊の兵三百余名、徳川幕府の再興を計るとなし、庄内藩に投ずると称し野州方面に脱走せり、この時、幕府の歩兵指図役{『柴田戦蹟史』中、『衝鋒隊戦史』には指図役頭取とあり、同書中『古谷佐久左衛門伝』には指図役とあり、雑誌『維新史料』の中の『慶応年間柳営御沙汰書』中、慶応二年七月十六日のところ、神奈川奉行支配定役並出役古谷佐久左衛門に大砲指図役下役並を命ぜられしことあり、また同三年二月十日砲兵指図役下役並古谷佐久左衛門の席次を進め、富士見御宝蔵番格となすこと見えたり、しからば僅々一ヶ年足らずの間に下役並より二階級飛んで指図役となるさへ異数なれば『衝鋒隊戦史』を取らず『古谷佐久左衛門』に従う。}
 古谷佐久左衛門は、すと築後久留米在の者にて本性を高松という(高松凌雲の実兄なり)、名は智珍、初め勝次と称す、幕府の小臣古谷氏に入婿してその家を相続す。{佐久左衛門英後に堪能なりしかば、下徒谷町に英学塾を開き居れるが、我が藩の澤次郎全秀、南虎次郎保壽、小出鐡之助光照など在塾せしと云う。}
 京都見廻組に属せる今井信郎、神奈川奉行支配調役内田荘次等と脱兵を収めて、素志を達するはこの時に在りとし、勝安芳の許可を得て、行いて下野佐久山において脱兵に追いおよび、慰撫してその方向を変ぜしめ、これを率いて一と先づ忍藩に預け勝に復命し、脱兵および他の兵員を援けられなば、これを率いて信越の方面を鎮撫すべしと請う、、徳川政府の人々は召募兵の始末に苦慮中なりければ、勝安芳は悦んで第六連隊の帥歩兵約六百名、大砲三門を付輿せしのみならず、古屋を歩兵頭、今井、内田を歩兵指図役頭取改役とせり、しかして信州中之郷代官所に在勤すべき命あり、こゝにおいて戊辰三月朔日江戸を発し、武州桶川に宿陣せる時隊の幹部左のごとし。

総督 古谷佐久左衛門
頭並隊長 内田荘次
同 今井信郎
参謀 楠山兼三郎
副隊長 天野新太郎
同 永井蠖伸齋(本名 鈴木蠖之進)
軍監 柳田勝太郎
余は略す。


{按ずるに勝太郎は理記と称し、この頃古屋隊幹部における我が藩士の一人なり、『梁田戦蹟史』には柳田の外に副隊長前田兵衛、本名桃澤彦次郎、軍監松田昌次郎、砲兵頭取礒野光太郎その他楯立郎、高橋一、蒲生誠一を載せ、註に残会津とあり、思うに衝鋒隊(古屋隊会津入りの後衝鋒隊と称す)が仙台へ落ちしとき会津へ残りしを云うならん、桃澤、松田の我が藩人なりしは勿論にて、会津にて加入したる礒野外三郎もまた会津人なるがごとし、思うにこれらの人々は古屋隊会津入りの後加入したる人々なるべし、また副隊長木村大作戦死とあり、大作も会津にて加入し越後口にて負傷し八月二十三日自宅にて自裁せり、梁田において戦史したる我が藩人は、柳田の外、指図役加藤惣左衛門、同野村駒三郎の二人のみ、我が藩士にして衝鋒隊に入り戦史せしは、指図役鈴木勇、同猪俣繁之助、同大岩元四郎、同渡部久吉、同金田吉十郎、同金井鐡之助、同田畑丹六、齋藤豊之進その外、米倉美軒、田中勇、手代木元助、天野由次郎、澤田権六、広田祐之助、五十嵐喜平太等なり、礒野等はあるいは変名なるかも知れざれば右戦死者の内なるかも知れず、とにかく衝鋒隊の将校下士には我が藩士余ほど加入したる様思はる、後にいたり大庭恭平、永岡久茂もこの隊に入れり。} 

 古屋隊の前軍三百二十名、今井信郎これに将たり、その後軍は三百八十名内田荘次これに将たり、中軍に砲兵士官二十六名その他将校下士卒八十余名にて総計八百数十名古屋佐久左衛門これを統ぶ、三月八日野州梁田に宿衛せるに薩長等の西軍来襲するの報あり、明けくれば三月九日未明西軍梁田宿の西方より攻め来る、古屋隊の前軍は宿の西端に出でゝこれを防ぎ、後軍は宿の後方より北方に出で西行して敵の左翼を衝く、我が兵大砲の威力や強かりけん、敵兵色めきたるにより追撃戦に移り十数町追いたるが、敵に新手の援兵加わりしため味方総崩れとなり、ついに余儀なく退却し渡良瀬川を渡りしが、敵の損害多大なりけん追撃をも為さゞりき、この日我が軍の戦死せるもの軍監柳田勝太郎を初めとし六十二名を算せり、負傷せる者もまた多かりき、ついで田沼を経て翌十日鹿沼に着、初めは日光へ行く予定なりしが議変じ会津へ行くことゝなり、十三日五十里に達す、十四日に主将古屋は参謀楠山兼三郎外一名と先発し、我が藩と交渉し二十二日総員若松に至る、後この隊を名付けて衝鋒隊と云う。

{柳田勝太郎名は重遠、我が藩士小右衛門が長子なり、質性剛邁容貌魁偉、一刀流の剣法に長じ儕輩のため畏敬せられ、佐川官兵衛、林又三郎等と親交せり、我が公の京都守護職たるやこれに従って京師に入り、伏見の敗後江戸に帰り藩を脱して古屋が隊に投ず、梁田の敗戦に重傷を負い、自刎して天晴なる再帰を遂げきと云う時に歳三十四、その京師に在るや歌一首を家族に遣わして懐を述ぶ。

そよと吹く風の便りを開くならは
花は都に散るとこそなれ

 この歌当時に膾炙(好評になって世間ニ知れ渡ること)せりと云う、また元治甲子年禁門守衛の折

九重の御垣となりて夜もすから
鎧の袖に月宿すなり

 右は『梁田戦蹟史』によれるが『戦蹟史』中、今井信郎の書たるものによれるところ甚だ多し、しかるに同氏の説くところ坂本龍馬殺害のことを初め不審しきもの甚だ多し、ゆえに取拾して引用せり。}


 初め我が藩兵を南方面(野州日光方面を俗に南方面と云う)に出さんとするや、日光の情況を探偵せんがため幌役木村熊之進を遺したるに、同所は我が兵の出張を歓迎するの誠意を確知し帰藩の上これを報告せり、これにより我が藩出兵の議確定し、先つ砲兵隊頭山川大蔵をしてその部下たる砲兵一番隊を引率して、三月十五日若松を発し南方面に向う、砲兵一番隊の編成は次のごとし、小隊頭竹本登、遠山寅次郎、大沼城之助の三名、甲子六十九名、寄合組三十六名銃手若干名とす、本体は元の林権助、白井五郎太夫の両隊の残兵をもってし編成したる隊にして、伏見鳥羽の激戦に深く経験を有する士をもって組織せり、しかしてその将校もまた得易からざるの材なり、三月二十一日大蔵転じて若年寄となり日向内記これに代わりて隊頭となる、ついで田中蔵人をして朱雀二番隊を率いて出兵せしむ、この隊は小隊頭、半隊頭嚮導並びに隊士八十四余人外に医師兵、粮方従者等若干名なり、外に猟師五十人を召募してこれに付属せしむ、また原平太夫をして別に青龍二番寄合組を率いて出兵せしむ、この隊は小隊頭、嚮導、隊士約八十名、また朱雀二番足軽隊もまた参加す、隊長櫻井弥一右衛門、小隊頭二名、半隊頭二名、隊士約八十名、青龍四番足軽隊中隊頭有賀左司馬の隊もまたこの方面に在り、その兵数櫻井隊とほぼ同じ、この外この方面の我が軍中に別伝習隊、相馬孫一の諸生隊ありて今市付近の村落に分屯す、外に唐木助之進もまた一隊の兵を率いてこの方面に在りたれども、今市付近の戦に参加したることなし、思うに熨斗口方面に在りたるものごとし。

{唐木隊は如何なる隊なりしか今知るべからず、兵制改革の時足軽白虎二番隊長は唐木助之進なるが、足軽白虎隊の戦地に出張せしを聞きしことなし、鈴木一郎右衛門が青龍一番足軽隊頭より、朱雀三番寄合組中隊頭となりしにより、唐木助之進代わりて青龍一番足軽組の中隊頭となりしにあらざるか、籠城中助之進この隊頭を免ぜられ、赤羽友晴これに代わると云う。}

 旧幕府の歩兵奉行大鳥圭介は勝、大久保、山岡等が恭順を唱うるを慨し、江戸にいて戦うことの不利なるを察し脱走して事を挙ぐるの志あり、その計画準備略々成るをもって、幕臣歩兵頭並本多幸七郎、歩兵指図役頭取大川正次郎、山角麒三郎その他陸軍の将校下士等三四十人、伝衆歩兵第二大隊およそ四百五十人と四月十一日向島法恩寺に集合し、糧食を備へ明日早天鴻台へ発するの令を伝ふ。

{初め徳川幕府の希望により仏国政府より陸軍教官として将校下士十数名を派遣す、これをミション、ミリテールすなわち軍事使命団と云い、参謀大尉シャノアンこれが長たり、従来幕府の兵制は蘭式または英式なりしが、仏国の将校より教育を受けたる兵を伝習生兵と称し三大隊あり、その第一大隊の兵営は追手前元酒井雅楽頭の中屋敷跡にて、今の東京憲兵隊本部敷地の北部に在りしをもって追手前伝習大隊と云いき、伏見戦争のまさに起こらんとする時、この隊は伏見奉行屋敷に在りしが、隊長小笠原石見守は病と称して下坂せしにより、役を免ぜられ正式の後任の任命なかりき、第二大隊の兵営は常州土浦藩主土屋釆女正の屋敷跡、今の小川町の西部に在りしをもって小川町の伝習大隊と云いき、歩兵頭並沼間慎次郎これが長たり、しかるに沼間は三月三日将校七名下士十一名と共に脱走して会津に投ぜしにより、この時隊長なし、第三大隊の兵営は今の三番町靖国神社の敷地に在りしをもって三番町の伝習大隊と云いき、歩兵頭並平岡芋作(後陸軍少将)これが長たりしが、この大隊は戊辰変乱に関係なし、この第三大隊の兵は招募兵にして麾下の士にあらず。}

四月十二日拂暁歩砲兵隊伍を整い本所竪川通を経て葛西の渡頭を踰ゆ、会々伝習生徒四五十人舟に乗り来りまた共に脱せんことを乞う、圭介等慰諭すれども聴かずついに隊中に加う、市川の渡頭に至れば歩兵指図役頭取小笠原新太郎舟をもって圭介等を迎えていわく、伝習第一大隊七百人、第七連隊三百五十人(招募兵なり)、桑名藩士ニ百人、土工兵(安部井壽太郎談次のごとし、『余の率いたる築城兵すなわち土工兵は江戸の鳶、石工、左官、土方等をもって組織したるものにて新門辰五郎、小梅岩吉の子分の者なりき、彼らは皆徳川氏の恩澤に報いんとして喜びて起ちたるなり』案ずるに土工兵を率いたるは壽太郎一人にあらず、安部井政治、小池帯刀、山口亥佐美など同隊に在りしものゝごとし)ニ百人来りて市川にありと、すなわち前岸に達し一寺院に至れば、流山の敗将土方歳三並びに新選組の一部工兵頭並吉澤勇次郎、同小菅辰之助(のち智淵、陸軍工兵大佐)、山瀬主馬、天野電四郎、{電四郎の役名不詳、『柳営御沙汰書』慶応二年二月の条に歩兵指図役頭取勤方天野雹四郎とあり、雹は電の誤りなるべし、果たして誤りとすればこの頃有為の士の昇進は甚だ早かりしにより、慶応四年頃は歩兵頭並には陞りしなるべし、よりに記す、戸主にあらざる者の役名を何約勤方と称するは幕末の制度なり。}

 歩兵指図役頭取鈴木蕃之助、歩兵指図役並江上太郎、同米沢昌平、同内田衛守、牧原文吾、柿澤勇記(以上が我が藩人)、立見鑑三郎(のち尚文、陸軍大将)、松浦秀人、馬場三九郎(以上桑名藩人)等あり、相議し軍を進めてまさに宇都宮に向かわんとす、圭介いわく、余が兵を率いてこれに来るは直ちに戦わんとするにあらず、一旦鴻台に屯集し江戸の形勢を見て事を挙けんと欲するなり、しかりといえども君等宇都宮に向かわんとすと、余もまた日光に至り世上の動静を見るもべきなり、皆いわく、伝習第一大隊およそ七百人、第七連隊三百五十人、および桑名藩の兵およそ二百人、土工兵二百人、これに公の兵およそ六百人を合すれば二千余人を得べし、別に大砲二門あり、しかれども全軍を統率するの人なくんば統一なく議論百出して戦機を失うの患あり、公願わくは総督たれと、圭介固辞すれども衆聴かず、ついに推して総督となし、軍を

先鋒 伝習第一大隊並に桑名藩士、大砲二門
中軍 伝習第二大隊
後軍 第七連隊


 の三隊に分つ、兵数おおよそ二千人、先鋒は江上太郎これを率い、土方歳三これを助く、中軍は本多幸七郎これに将たり、後軍の将は詳ならず、山瀬主馬ともまた第七連隊長朝比奈一なりとも云う、日光へ行き形勢を観て事を挙ぐることゝし市川を発す、時に四月十二日なりき、しかして多数の人員陸続きとして進みては人馬宿泊等に差支を生ずる恐れあるをもって、先鋒は水海道下館を経て、中軍後軍は小山壬生を経て宇都宮に集合すべきを約し、大鳥等は小山に向い十五日小山の南方約三里なる諸川駅に宿す、この日加藤平内は御料兵を率い、{御料兵とは幕府料の良家の子弟を募集して編成したるものにして、幕府の募兵通俗歩兵と称するものに、博徒その他無頼の徒多きと、大に選を異にせり。}

 撤兵頭天野加賀守は草風隊を率い、{幕兵中最終まで我が藩と進退を共にしたるは、ひとえに天野加賀守並びにその率いたる草風隊のみなりき。}

 元歩兵頭並三宅大学、歩兵指図役頭取牧野主計、歩兵頭米田桂次郎等と共に大鳥軍に加わりき。
 在阪橋の西軍総督府は参謀祖式金八郎に須阪、舘林二藩の兵を率いて四月五日結城を撃たしめしが、彰義隊はすでに江戸に返り水野忠勝知も西兵に抗する心もなければ、支領上総成東に在る養祖父勝進が許に脱せり、しかして総督府はその軍監香川敬三、同平川和太郎に彦根の兵三小隊、大砲一門および岩村田藩並びに元幕府の寄合岡田将監の兵若干を率いしめ宇都宮を経て日光に至らしむ、兼ねて日光に在りたる板倉勝静朝臣父子を捕えこれを宇都宮藩に預け、その従者は壬生藩をして預からしめ、一旦宇都宮に帰せるが、江戸の脱走兵等利根川をさかのぼり宝珠花、関宿を経て進み来るの報に接し、平川和太郎は彦根兵二小隊と笠間、壬生の兵若干を率いて四月十六日小山に至る。
 大鳥軍に加わらざる江戸の脱走兵小池周吾の純義隊、松平兵庫頭の貫義隊、および山中孝司の誠忠隊、小山に攻め寄せたるに彦根等結城に向って潰走す、脱走兵も長追せず且つ寡兵孤立して小山の守り難きをもって大行寺の渡を越えて退却す、ついで彦根等の西軍また小山に来る。
 結城に在陣せる祖式金八郎は大鳥軍の北上を探知し、一方使を宇都宮に遣わし助を乞い、また四月十六日結城と諸川との間なる武井村に胸壁を築き大鳥軍を阻止せんとせしが、大鳥の遺したる伝習隊二小隊の為め撃破せられ、結城に引き上げしが江戸に上がらんとし、ついに潰乱して僅かに身をもって免れ古河に達することを得たりしかば幾ばくもなく参謀を免ぜられき。
 宇都宮の西軍は祖式金八郎が急報に接し、軍監香川敬三は彦根の一小隊並びに足利、岩村田等の兵を率いて小山に来る、大鳥は兵を部署して三面より小山を攻む、敵兵敗走す、我が兵死傷者二十名に満たず敵の死傷七八十名なるべし、就中彦根の物頭青木貞兵衛の一小隊は隊長とも全滅せしと云う。
 四月十七日大鳥軍は昨日武井村の勝ち戦と云い、今日の戦勝と云い幸先よしと祝宴を開く、村民もまたあるいは酒を贈り、あるいは赤飯を焚き歌舞の声四方に鳴り渡れり、総督大鳥は諸将長と議し小山を引き払い本夜は壬生街道なる飯塚に泊せんとまさに出発せんとせし時、結城街道より須阪藩兵一小隊大砲一門、舘林藩兵半小隊、笠間藩兵二百五六十人、祖武金八郎、上田楠次これを率い来襲せり、兵士等多く祝酒に酩酊せるをもって大に混乱せしが、将校の激励によりついに敵を撃退せり、この戦に我が軍の死傷者三十を算せり、敵の死者二十四五名、傷者詳ならず、しかして黄昏に近く大鳥軍は二里の道を行軍して飯塚に宿営す、兼ねての約のごとく先鋒と宇都宮に会するには飯塚の北方二里の壬生を経るを順路とすれども、西軍の一部すでに壬生に在るをもって、壬生藩の請を入れ無益の衝突を避け、左に迂回し栃木を経て四月十八日合戦場に宿営す、四月十九日合戦場を出で鹿沼に向いしに東方に大火災起こるを見る、鹿沼に至り今朝我が軍の先鋒宇都宮を攻めてこれを略取せるの報に接す、この夜鹿沼に泊し四月二十日宇都宮に至る。






卷四 総野の戦  会津戊辰戦史1
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  1. 2012/12/23(日) 12:05:49|
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