いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

宇都宮の攻略

宇都宮の攻略

 四月十八日、大鳥軍の先鋒は江上太郎、土方歳三、桑名藩の佐藤武助等これを率いて四月十九日黎明宇都宮を攻む桑名の兵先鋒たり、松本(信州)、黒羽(下野)、壬生(下野)、岩村田(信州)、須坂(信州)、彦根(江州)、大垣(濃州)、宇都宮(下野)、笠間(常陸)、等諸藩の西軍郊外に出でて東軍を迎い撃つ、東軍左右翼を張りこれを砲撃す、砲隊は神旗(白地に東照大権現と墨書したる大旗なり)を樹て中央よりし、江上、土方等殊死して挺進す、西軍ついに敗走す、東軍追跡し火を城下に放ち桑名兵槍刀を揮って進撃す、西軍退いて城に入る、東軍城門に迫る、西軍克く禦き相距ること十歩西軍槍を揮って来し犯し殺傷相当る、東軍俄かに拔くべからざるを知り左転じて敵の背後に出て火を城外の士邸に縦つ、城ついに陥り城主戸田越前守忠恕朝臣舘林に入る。
 四月二十日大鳥圭介等宇都宮に入りて市民を鎮撫し、城中の米倉を開いて市民を賑わす。
 これより先き日向内記の率いたる砲兵一番隊は、四月十八日頃大鳥軍より援兵を依頼し来るにより、領界なる五十里を発し一番分隊を今市に止め、組頭大沼城之助、遠山寅次郎をして二番三番分隊を率い、四月二十一日今市を発し鹿沼に宿陣せしむ。
 壬生藩の友平慎三郎、宇都宮進撃の事を大鳥軍に建策す、大鳥これを入れ四月二十二日午前二時出発することゝし、部署を定むること次のごとし。

{大鳥の『幕末寛戦史』には安塚の戦を四月二十三日夜二時とありて明瞭を缺き、宇都宮落城を四月二十四日とせり、しかれども藤澤氏の『会津藩大砲隊戊辰戦記』、またこれらの戦に参加したる諸藩の届書(太政官日誌にあり)を見れば、安塚の戦は四月二十二日の未明にて、宇都宮落城は二十三日なること明白なれば『寛戦史』を取らず。}

 本道(宇都宮より壬生へ約四里半)へ向かうべきは第七連隊並びに伝習隊の内四小隊その外砲兵、土工兵にして本多幸七郎これに将たり、雀宮(奥羽街道の駅にて宇都宮の南一里半に在り)より壬生に向うべき兵は伝習隊の内二小隊大川正次郎これを率い、我が砲兵隊は鹿沼より間道壬生に向う、総督大鳥は病のため攻撃軍に加わらず。{宇都宮より鹿沼へは僅に三里許なれば、壬生攻撃の打ち合わせは伝令をもって為したるなるべし。}

 本道の兵幕田(安塚の北十余町に在り)に至る、たまたま風雨暗黒咫尺を辨ぜずようやく安塚(壬生の北二里に在り)の後方に至る、天いまだ明けず、また安塚に向って進む、土因二藩等の西兵すでに安塚に来り、地利によりて胸壁を築き大砲を装置し、かつ兵を左右の林間に伏せ忽然三面より来撃す、我が先鋒敗走す、伝習隊の指図役某刀を抜き先頭に進み叱咤激励し縦横馳突す、我が全軍反戦し進みて胸壁を奪い大砲一門を鹵獲す、時に降雨寒冷諸兵大に疲労し死傷もまた多し、これにおいて全軍退却の令下る、我が藩士内田御守遊軍隊を率いて殿戦し兵を宇都宮に收む、右翼の兵すなわち鹿沼より進みたる我が砲兵隊の安塚に達したる時は、鹿沼より壬生に至るに安塚を経るは迂回なり、安塚において集合する申し合わせありしなるべし。
 大鳥軍の退却したる後なりき、今少し持ちこらえたらんには新手の我が援兵を得て大勝を得しならん、我が藩兵は手を空しくして宇都宮に入り城外に宿陣す。
 我が別軍大川隊は兵を潜めて直に壬生に至る、城外に在りし薩藩等の西兵狼狽し急に城に入りて防戦す、我が兵火を市中に放つといえども大雨のため火起こらず、しかして援軍来らず兵寡して城を攻むること能はず、しばらく戦って前の路を経て宇都宮に帰る、この役我が軍の死傷六十余人内士官八九人、尾花重太郎我が藩の米澤昌平これに死す、山瀬主馬の弟某年わずかに十六奮戦して敵兵を斃し重傷を負う(この年七月若松の病院にて死す)、四月二十三日西軍薩、大垣二藩の兵を主力とし、諸藩の兵と共に大挙して壬生街道より宇都宮を攻撃す、大鳥軍これを郊外に迎い撃ち、左右翼を張り三方よりこれを撃ち、西軍辟易して総崩れとならんとせしが、雀宮街道を守りたる加藤平内が御料兵は、結城の方より来りたる薩兵約百人、長兵約百人、大垣兵約百人を主力とする敵兵と戦い敗れ、且つ戦い且つ退き多く兵を失う、壬生街道においては因州勢の応援来着し我が軍利あらず、桑名兵、第七連隊をして明神山、八幡山を扼して戦はしむ、我が藩の砲兵隊はその名のごとくならず、大砲一門だも有せず、ただ臼砲一門を有せしのみ、しかも弾丸の提供甚だ乏し、始め追手を守りしが、これを幕兵に譲り日光口に守る、遠山寅次郎の二番分隊は城を出で迂回して壬生街道なる敵の輜重を襲い、臼砲一門並びに弾薬を鹵獲し帰る。

{味方も一同憤戦し八ッ半には大に模様よろしく一旦は敵を町外までも諸口より追い出したれども朝よりの戦にて上下死傷多く、かつ大小砲の弾薬も打ち尽くし、またこれを用意する道なきゆえ縦令今日一日防戦したりとも明朝に至れば全軍を引き挙げるより外に良策なし、よって今よりその事を各隊に伝え全軍を日光に収むるを良とす、すなわちその令を伝ふる中、敵また襲来大に苦戦の余り裏内(この二字詳ならず)に上り明神山の形勢を望むにこれまた激戦の体にて大砲の打ち合い盛んなり、かつ奥州街道を見るに歩兵も逃げる者続々として糸のごとくよっていよいよ引き揚げに決定し全隊を夫々引き纏め繰引せんと思えども格隊長死傷の者多く兵卒散乱意のごとくならず、ようやくに諸隊を引き揚げ一隊を残しこれをもって殿(しんがり)とし城外に出でゝ奥州街道に出でしに敵少しも追撃し来らざれど大砲を打ち懸けしにより少しは傷きたる者ありたれども容易に引き揚げて明神山にも引き揚げの事を通じ、残らず日光の方に赴きたり。}

 この日の戦に戦死したるは我が諸生隊の隊長相馬孫市を初めとし将校兵卒七八十人、総督大鳥も微傷を負い、土方歳三、遠山寅次郎、柿澤勇記(四月二十七日、日光において歿す)、本多幸七郎、伝習隊の指図役頭取大岡新吾等負傷す、

{『会津史』、また平石氏の『会津戊辰戦争史』等に四月二十三日宇都宮の戦に我が櫻井隊が参加したる旨記しあるも櫻井隊の参加せし証跡なし、櫻井家は死傷者非常に多きにも関わらず『殉難名簿』に宇都宮にて戦史したる者一人もなきは、参加せざる一証と云うべし。}

 かくて大鳥軍は奥州街道より左折し山越えにて日光街道に出で、徳次郎、大澤等の諸駅を経て二十四日今市に達せしが、前日の戦に疲労甚だしかりしのみならず、八里余を行軍し加ふるに糧食の乏しきをもってし実に苦難を極めきと云う、我が藩兵は二十三日迂回して小林村(今市の東三里に在り)に宿陣し、翌二十四日今市に帰る、先に今市に止れる砲兵隊の組頭竹本登が分隊は、宇都宮を援はんと例幣使街道より文挟(今市の南三里に在り)まで進軍せしが、宇都宮の敗を聞いて今市に帰る。
 元来今市は北は会津に、南は鹿沼を経て栃木、壬生に、西は日光に、西南は宇都宮に通ずる四通八達の要地なれば、全軍をここに止め敵の挙動を見るべしとは総督大鳥の意なりしも、将士日光参拝を望む者多かりければ、大鳥は軍を日光に移すことゝし、我が藩兵のみ今市に残りこれを守ることを希望し、我が藩兵の先任将校砲兵頭日向内記に謀りたるに、国境を防御すと称しこれに応ぜず兵を率いて五十里に帰る。

{当時我が藩は歎願中なれば今市に兵を止むること不法なるは論を持たず、これあるいは日向内記の兵を引き挙げたるゆえんか、しかるに先に大鳥軍の請により宇都宮に援兵を送りしはこの論と矛盾するがごとし。}

 しかして大鳥もまた兵を日光に収む。
 大鳥は当時名ある兵学者なりしも、実戦は勿論機動演習の経験すらもなければ万事手落ち多かりき、就中弾薬の準備甚だ手薄かりしかば用兵自由ならざりしは彼に取り如何ばかりか心外なりしならん。

{江戸出発以来弾薬の準備甚だ少し、そのゆえは屯所を出る時は夫々用意し置きたれども倉卒の間その係の者持ち出す事を得ざりしに由るなり、後より或人の周旋にて送りたる由なれども途中にて滞り達せず、鹿沼駅宿泊の節横地相会(何人なるや知れ難し)江戸より後れ来れるにより、この両人予々日光に在勤して、全て彼地の形勢を能く知りたるにより、宇都宮に着するや否や右両人を日光に遣わし小銃弾薬の製造をなさしめたり、今すでに五先発位は出来たれども製作よろしからずして軍用に適し難く、いよいよ困窮せるにより無據会津に頼みたり、弾薬運送の大切なる事は会て書物上にても心得居りたれども、今回のごとく前後混乱の間にあって如何にもなし難し、あぁ、}
 
 大鳥軍には江上太郎、内田衛守、牧原文吾、小池周吾等を初めとし我が藩人少なからず、しかして総督の本営の要路に一人の我が藩人なし、ゆえに我が藩人と総督との間に時に意思の疎通を欠くことなきにあらず、ここにおいて大鳥は我が藩人水島辨治、浮洲七郎、小出鐡之助を挙げて軍の参謀とせり。
 四月二十七日柿澤勇記没す享年三十六、鉢石町某寺に葬る大鳥深く痛惜す。

{勇記は剛邁の士なり、業を藩の鴻儒宗川茂に受く、忠誠公の守護職に補せらるゝや、家老横山常徳一藩有為の士を集めて公用局を組織す、勇記もまた挙げられてその物書きとなる、征長の時戦況を視察し我が藩の出兵を建言せるも用いられず。}

 この頃桑名藩兵、松平定敬朝臣のその支領越後柏崎に在るを聞き、大鳥軍に辞し路を会津に取りこれに赴く。
 板倉勝静朝臣父子は先に彦根兵に降り宇都宮に幽閉せられしが、十九日宇都宮落城の時脱出して日光に在り、大鳥が来るにより日光において干戈を動かし廟前に血を濺ぐを不可なりとし大鳥に説ききと云う、大鳥は戦の駆け引きによりては縦令弾丸神廟に降るといえども、無據次第なりと決心せるが、日光は兵を用ふるの地にあらざるをもってまた兵を引いて今市に帰る。
 四月二十八日幕府の陸軍奉行たりし松平太郎今市に来る。

{松平の来りしは我輩容易に戦争をなしては不宜能く天下の形勢を見定め暴動なき様兵隊の取り締まりをなし、しかして後動くべしと参政(徳川家の執政者を言うなるべし)よりの書付を持参せり、もっともすでに兵端開けし上は我より戦を求めずとも彼より争端を開く事相違いなしと思へり松平金子を持参せしによりて各隊へ分配せり。}

 太郎、大鳥に説いていわく、予大澤(今井の西南二里に在り)の土州藩の兵(この時大澤に土州藩兵十小隊あり)と休戦を議すべし、願わくは兵を日光に退け我が再び来るを待てと、大鳥これを諾し二十九日また日光に至る。

{松平休戦の談判は如何終りけん、休戦の行うべからざるは当然のことなれば、土州兵が直に拒絶したるなるべし。}

 閏四月朔日大鳥軍日光に在る者軍議二派に分る、甲はいわく、今ここに弾薬糧餉なし持久して窮困を待つは策の得たるものにあらず、一たび会津に入り規律を整え弾薬糧食を備え再挙するにしかずと、乙はいわく、今眼前に西兵の来るを見て戦わずして退くは武人の恥じる所なり、弾薬乏しといえども血戦して廟前に死せん、これ我が好墳墓地なりと、大鳥いわく、両説皆理り、乙説は壮快なりといえども士気の振るはざるを如何せん、甲説の穏なるにしかずと、よりて再び日光退却に決したるも、市川を発してより以来各地に転戦し多く傷者を生じこれを護送せざれば会津に入ること能はず、全軍の進退谷れり、すなわち内田衛守の言を容れ日光の寺僧をして西軍の陣に使し戦を中止するの交渉をなさしめんとしこれを物色したるに、一老僧あり死を犯して土州の陣に至り言ってわく、今この地戦端を開かば東照宮の兵燹に罹る必せり、願わくは休戦して東兵を退かしめよと、土州の隊長某答えていわく、もとより東照宮に怨あるにあらず賊徒を追討するのみとこれを諾す。

 この時の事に関し太政官日誌所載土州藩届書左のごとし。

上略 守部(のち子爵谷千城、当時土州藩の大監察)儀四五人相率い致斥候候処僧二人日光より参り暫時進軍留呉度段申出候得共私の退軍決而不相調(成の誤りか)乍併神廟放火の儀は不忍処に付賊徒督責し進て我軍に当る歟又は軍門に降伏する歟<決策し神廟灰燼を免れ候様説諭可致旨申聞候処賊徒等言語に窮し即夜退散 下略

 時に林正十郎(幕人)若松より来りて、大鳥に我が公の手書および葵紋章の羽織を贈り、兵士に酒殽料を贈りて戦労をねぎらう、正十郎いわく、会津よりもまた兵を出して援けんとし、すでに発する者あり、請う努力せよと、全軍感泣す、大鳥すなわち正十郎に托するに近状を報ずることをもってし、申の刻先鋒日光を発す、傷者は小佐越の本道より会津に入らしめ、全軍は間道六方越の険を踰えて会津に入らんとす、山道険悪にして牛馬通ぜず、八里の間人煙を絶つ、日すでに昏黒咫尺を辨ぜず、大軍雨後の深泥を踏み深山窮谷を跋渉し、行程およそ三里すでに夜半、樹蔭により枯葉を焚いて暖を執る、衆皆石を枕とし枝を折りて蓐となし露臥一睡をなす。
 閏四月二日険難を蹈みほとんど糧食を絶ちようやく日蔭村を経て日向村に至る、我が藩の和田忠蔵、磯上蔵之丞来り我が公の命を伝えていわく、兵が我が国境に入るゝを謝絶すと、

{当時我が藩は仙台、米沢に依頼し歎願書差出中なるをもって、客兵を国境内に入るゝを憚りたるなり、幕の古屋佐久左衛門、水戸の市川三左衛門等の客兵を同様の理由にて断りたるも、内情止を得ず国内を通過せしめ、越後に赴かしめしも同理由。}

 参謀水島辨治全軍を会津に退くるの止むべからざる理由を弁明し、両使これを諒とす。






卷四 総野の戦  会津戊辰戦史1
スポンサーサイト

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/12/26(水) 13:57:54|
  2. 会津戊辰戦史1
  3. | トラックバック:0

トラックバック

トラックバック URL
http://igagurisiryoukan.blog.fc2.com/tb.php/104-98b929a2
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。