いがぐり史料館

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東照宮神輿を移す

東照宮神輿を移す

 これより先日光山の管長大楽院、東照宮に不虞の事あらんことを恐れ神輿を護送せんとし、脱走兵等を率いてその御衛とし、東照宮付属の旧幕臣数十名これを舁し、大鳥に先だって日光を発し、六方越より大鳥と共に五十里に至り、警衛を関門戍衛の兵が兵士に移す。
 閏四月五日大鳥山王峠を越え、我が南口の陣将若年寄山川大蔵に会見し田島に同行す。

{山川氏は当時会津藩の若年寄なる者にて両三年前小出大和に従い『オロシャ』に至り、西洋文化の国勢を一見し来りし人にて、一通り文字もあり性質怜悧なれば君侯の鑒裁にてこの人を遣わし、余と全軍の事を謀らしめんが為に送られたり、余一見その共に語るべきを知りたれば百時打ち合わせ大に力を得たり。『幕末実戦史』}

 
 この頃南口に在りたる我が軍の軍隊は田中蔵人の士中朱雀二番隊、日向内記の砲兵一番隊(この月十七日砲兵隊は城取新九郎の寄合組朱雀隊と交代す、城取は何番隊なるか詳ならず)、諸生隊(相馬孫市戦死後よりこの隊隊長なし)、原平太夫の寄合組青龍某番隊(一番隊なりとも云う、詳ならず)、櫻井弥一右衛門の足軽朱雀隊二番隊等なりしが先任将校といえども他隊に命令する権なく、かつ大鳥は脱走軍の総督なれども我が藩兵に対して命令権あらざれば南口の東軍は不統一の感ありき、山川が陣将として南口に出陣するや閫外の任を受け我が藩兵を統率し、また我が藩士の脱走軍にある者江上太郎、内田衛守、牧原文吾の輩動もすれば大鳥を凌ぐの言動あり、よりて改めて大鳥を推して総督とし山川は副総督として大鳥を佐く、ここにおいて我が南口の軍容整然たり。
 大鳥田島に在ること十余日、更に軍備を整え我が藩兵以外を分ちて四大隊となし、元大手前大隊、すなわち伝習第一大隊四百五十人を第一大隊とし、江上太郎これに将たり、牧原文吾、内田衛守参謀としてこれを佐く(これより先土方歳三は、傷痍を療せんが為め会津に至る)、元小川町大隊すなわち伝習第二大隊三百五十人を第二大隊とし、大川正次郎、沼間慎次郎これに将たり、元御料兵および第七連隊三百人を大三大隊とし、加藤平内、山瀬主馬、天野電四郎等これに将たり、草風隊、純義隊二百人を第四大隊とし天野花蔭、村上救馬、小池周吾これに将たり、しかして士官補として山川が若松より率い来れる春日左近(のち別選組頭、八月二十九日長命寺進撃の時戦死)、竹村幸之進(のち俊秀、狙撃隊長、明治九年思安橋事件に坐し死罪)、笹沼金吾(八月晦日大内にて戦死)、篠田蔀(伝習隊軍目、八月二十四日城中にて死)、岸武之助(歩兵指図役五月五日今市にて戦死)、小野田速見、三澤毅、高野源之助、樋口万吾、稻垣等、田村敬止(のち遠藤、七十七銀行頭取)等を分配して各隊に付属せしむ。

{これより先き伝習歩兵第二大隊長歩兵頭並沼間慎次郎は歩兵指図役頭取武蔵櫻橘、同松浦己三郎、歩兵指図役高林礒之進、同杉江誠一郎、歩兵指図役並高木銓之助、同山内英太郎、事務官須藤時一郎並びに下士十一名を引き連れ会津に来り投じ、もっぱら藩士の練兵に従事せるが、大鳥の会津に入りたるを聞き田島に来れり、第二隊長の長となさらんことを大川正次郎、滝川充太郎の請いにより大川と共に第二大隊長の職を取るに至れりと云う。}

 よりに言う沼間は故ありて(大鳥との折り合い悪しきによると云う説あり)六月初旬に若松へ帰りついに荘内に去れり。
 しかるに幾ばくもなくして白河の味方手薄なるにより、我が軍の一部をさき白河に送るべきの命若松より来る、よりて小池周吾が純義隊を白河に向わしめ、草風隊をして藍原口の守衛に当たらしむ、また原平太夫が寄合組青龍某番隊、並びに江上太郎が第一大隊を野際口の国境外なる三斗小屋に向かわしむ(のち草風隊は藍原より他隊と交代して、本道に帰りたるは六月二十六肥前兵逆襲の戦に参加し、その隊長の一人村上救馬が戦死したるにして知るべし)、しかして第二大隊、第三大隊のみ南口の敵に当ることゝせり、この時敵軍は今市に在る土州兵十小隊、一小隊約五十人にして総数約五百人、外に彦根兵約七百人日光に屯せり。
 閏四月十七日第三大隊、十八日第二大隊田島を発し日光に向かう、山川大蔵は副総督として第三大隊と共に発し、二十日俱に進んで藤原に至る、五十里より高原に至る間に高山あり高原峠と言う、山路甚だ峻険にしてその間鬼怒川の上流巨岩の間を流れる、この処に板橋を架す、橋より五十里に接してまた山あり、ここに関門を設く、左右に胸壁を築き大砲を装置し橋の前後を要撃するの用に供す、実に天下の険要なり、高原より藤原に至る間にもまた嶮山あり、これまた要害の地なり、二十一日高徳を守れる貫義隊松平兵庫の斥候は大桑に至る所の土州の斥候隊に会ひしばらく銃撃す、第三大隊藤原を経て直ちに小佐越に至る、二十二日大鳥小佐越に至る、時に藤原に在りし我が将田中蔵人の朱雀二番士中一中隊は柄倉に出陣す(柄倉は小佐越の枝村にて、その南半里に在り)、この処において将校等相議していわく、明朝日光今市の西兵来り襲わんこと必せり、これに備えざるべからずと、よりて命を大鳥総督に禀け、高徳に在る貫義隊に作戦方略を授け、しかして小佐越に在る第三大隊をして明日黎明に小隊の斥候を大桑村に出さしむ、二十三日丑の刻第三大隊一小隊は小佐越を発し、栗原村の板橋を過ぐれば果たして西軍の斥候あり、互いに銃撃せしが天暗うして勝敗決せずして帰る、すでにして西兵いよいよ進み来り天すでに明けたり、田中隊および第三大隊を出し部署を定めてこれを待ち、その地において募集せる猟夫五十人を田中隊に属して傍の山上に分配す、戦地は右に山あり左に鬼怒川ありて、平野半里幅員十町に過ぐ、辰の刻西軍の先鋒四小隊進み来りてようやく接近す、これにおいて第三大隊の予備隊を出し一斉に猛撃し、田中隊これを横撃し、山上の猟夫隊は和銃を執って乱射す、西軍支えず且つ戦い且つ退く、我が兵これを追撃し板橋を渡りて伏兵に会ひ撃ってこれを退け直ちに兵を収む、東軍の傷者将校三四名兵士八九名に過ぎず。




卷四 総野の戦  会津戊辰戦史1
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  1. 2013/01/13(日) 11:49:47|
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