いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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今市の戦

今市の戦

 閏四月二十六日早暁東軍今市を攻む、第二大隊の一小隊松平兵庫の貫義隊と櫻井弥一右衛門の朱雀二番足軽隊とを合し、山川大蔵これを率い大澤口に向い、第二大隊その他の小隊を小百に出し、御料兵を小百、高百の後拒とし、伝習隊はことごとく瀬尾に出て大谷川を渡り七里村と今市との間に進ましむ、小佐越より今市に至るまで三里余りをへだてるをもって合撃の時間を齟齬し、第二大隊いまだ大谷川を渡らざるに大澤口すでに砲声起こる、大川正次郎一小隊を率い急進して七里村に陣し、日光口の来襲に備え、沼間慎次郎、滝川充太郎は二小隊を率いて今市に進んで戦う、南方砲声すでに止みて西兵更に加わる、東軍兵少なく苦戦利あらず河を渡りて退く、南方の砲声早く止みたりしは貫義隊の敗退に由りしなり、我が藩俘洲七郎その他旧幕の将校二人これに死す、兵を小佐越、柄倉に収め、御料兵を留めて小百を守らしむ。
 五月朔日東軍今市を奪わんとす、時に霧雨大谷川に溢れ橋梁流失し、水勢急激にして徒歩すべからず、然れども空しく日を過ごすべきにあらざれば、諸将相議していわく、本営を小百に移さば今市との距離を短縮し軍の策応に便なりと、この日早天第二大隊をことごとく小百に移し、第三大隊を大桑に出す、日蔭村に在りし我が原平太夫の青龍某番寄合組中隊の一小隊は小百に来り日光の形勢を告げていわく、戦えば必ず利あらんと、すなわち浅田鱗之助の一小隊を高百に出し、原隊と合し大砲一門を曳き、日光松原の河原に至り山上より砲撃す、西軍彦根兵戦わずして走る、時に日すでに昏れ日光に入ること能はずして止む、二日より四日に至るまで連日大雨橋梁流失して交通を断つ、五日夜大鳥総督以下諸将相議して今市を撃つの策を定め、各々兵を率いて大桑村に集合し、荊澤辺りに橋を架し大澤口より兵を進めんとす、六日丑の刻大桑村を発す、第二大隊ニ百十五人、第三大隊三百五十人(内百人を大桑に留む)、田中蔵人隊八十人、朱雀三番寄合組城取新九郎隊の八十人、その他大砲一門、総員およそ六百人、荊澤前にて大谷川を渡り、辰の刻ころ森友村の前方に至り、城取隊を右翼となし、田中隊を左翼となし、日光街道より進む、第三大隊は本道の先導となり、第二大隊は本道の二番となり、進みて今市関門より二三丁の地点に至る、先鋒すでに戦を交え、左右の翼も共に進みて近く今市に接し、砲声盛んに起こる、第二大隊もまた進み西兵の前面に撒布進撃す、西兵は胸壁より銃撃し、またしきりに左右の林間より狙撃す、我が兵多く傷つくといえども皆殊して戦う、西兵は要害の地に據り、我が兵は三方より射撃せられ容易く進む能はず、未の刻ころ西兵一小隊許宇都宮より来り援け、我が軍の背後を衝く、我が軍ようやく退く、大鳥手兵十人許を率いて本道に在り、西兵の後方より来れるを防がんとす、衆寡敵せず之を避け又原道に戻り、山川大蔵等と共に我が兵の帰るを待ち、隊伍を整えて退かんとしたるに、たまたま西兵の追撃する所となり林木に身を寄せて遁れ、辛うじて大桑に出で次いで小佐越に帰るを得たり、この日頭取高木銓之助、同吉澤鎌五郎の他数名、我が藩人十三名、兵卒二十人これに死し、隊長米田桂次郎、頭取中根量蔵、第三大隊長天野電四郎、森川喜之助その他五十人傷を負い、伝習隊加藤隣三郎は負傷して生虜せらる。






卷四 総野の戦  会津戊辰戦史1
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/01/14(月) 10:37:59|
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