いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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八  わが公はじめて参内拝謁     『京都守護職始末1』

 御衣を賜わる     文久三年正月二日、わが公ははじめて参内し、新年を賀し奉り、小御所で竜顔を拝し、天杯を賜わった。また、去る年、伝奏衆【注一】から幕府に白(もう)した勅使待遇の礼をあらため、君臣の名分を明らかにすることに尽力した功を叡感あって、特に緋の御衣を下し賜わり、戦袍か直垂に作り直すがよいとの恩詔を下し賜った。武士で御料の御衣を賜わったのは、古来稀有のことで、殊に徳川幕府になってからは、けだし空前の隆恩であった。
 この日、わが公は御太刀、馬代、蝋燭などを献上した。親王御方への献上物もこれに準じ、準后(準三后の略称)御方【注二】には紅白の縮緬(ちりめん)を献じ、つつしんで在任の慶(よろこび)をあらわした。同四日、御太刀、馬代、蝋燭を献じて、新年の賀儀をあらわしたが、それが後々の前例となった(その他月々の献品のことがあるが、今はこれを略す)。

 



 摂海防備の調査     これよりさき、京師では、外舶が摂津の海へ入航するという浮説【注三】紛々たるものがあったので、朝廷は、在京の諸大名にその防備の方策を奏上させた。わが公は、家老田中玄清らに、淀川を下って各所の地勢を按検させた。
 彼らが帰ってきての報告に、山城の地は四面山岳が蜿蜒(えんえん)として繞(めぐ)り、自然の城壁をなし、まことに山城という名にそむかない。八幡山崎の辺で山々が両方から迫り、一水の通じるところ、これまた自然の関門を作っている。他の通路にも、嶮岨な地勢をえらんで関門を設ければ十分であると、その議数ヵ条を書いて奉った。そこで、八幡、山崎以下の要地に関所をつくらせた。

 




 騒然たる都     そのころ、将軍家の上洛がさしせまり、長門、因幡らをはじめ、諸藩主が続々と入京した。したがって、その藩士のうちに、過激な論を唱えてたがいに往来するものがあり、かの勇士と称する浮浪の徒も競ってその門に出入し、事実を横議すること鼎(かなえ)の沸くごときありさまであった。
 元来、京都人の風俗は優柔、沈着であったのだが、近頃、浮浪の徒が横行し殺伐をほしいままにしたために、人々はたがいに危惧の念を抱き、夜間は早くから門戸をとざし、往来はと絶え、風声鶴唳にもおどろいて立ち退くというありさまであったので、わが公は入京のはじめに当って、まず浮浪の横議を根底から鎮定しようとした。

 



 公卿の貧しさ     幕府の制度は戦国以来の旧習によるもので、今日の事情に適応しない点はこれを改め、また天皇家の御料は定額であるにもかかわらず物価は何倍にもなっていて、そのうえ、あいだに立つ小吏たちがかすめとったりするので、充備を欠いていた。殊に堂上家はもともと薄祿なので、すこぶる窮乏をきわめ、なかには、内職をして生計の資にあてているものもあり、その人たちが、常に幕吏の富裕なのをねたんでいたところへ、攘夷論が起って 、幕府の所置が当を失うことたびたびであった。
 そこへ浮浪の徒が入説煽動したりするので、ことはますます紛糾するばかりであった。そこで、公は御料に額を定める制を廃し、あわせて堂上家のふところを賑わせることなどを、幕府に建議した。そうなれば浮浪の徒は口実を失うはずなのに、その横暴は依然として続いた。
 そこで、町奉行に旨を論して、大いに鎮撫に力をつくさしめた。部下の与力山田省三(戊午の大獄を構成するのに預かって力があった者)らをしりぞけ、平塚飄斉、草間列五郎、諫川建次郎、北尾平次(戊年のことに坐して幽閉されていた者)を挙用し、その他、儒者の中島永吉(今の錫胤)をはじめ、かつては志士と称せられて罪を獲た輩をことごとくゆるし、ひたすら、民心の綬撫にはげみ、命令が行われなかったり、兇暴の訴えがあったりするごとに、公は、それをみな自分の不肖の致すところとして、一言も責を下僚に及ぼさなかったので、やがて下僚の輩もこれにならい、職責を重んじて尽瘁するようになった。

 



 関白辞職す     この月(正月)十七日、長門藩主毛利大膳大夫慶親朝臣が、参議に任ぜられた。
 これまでは、近衛殿下の姻戚という理由から、常に多く薩州の議を採用してきた。三条実美卿ら、過激派の堂上の人々は、薩藩の主張がややもすれば公武一和にかたむくのを嫌忌して、長門藩を薩州の右に出させて、その威力を借りて素志をつらぬこうとし、慶親朝臣を中納言に陛(のぼ)せることを奏請した。しかし、その時、獅子王院宮(中川宮)と右大臣二条斉敬公、内大臣徳大寺公純公、左大将近衛忠房卿らは、その越階は希有の例【注四】として承知しなかったが、過激堂上が固く請うて止まないので、ついにやむをえず一階をすすめて参議に任じたのである。当時、過激堂上の跳梁が親王大臣を圧する情勢は、およそかくのごとくであった。
 このため近衛殿下の意中はおだやかでなく、卒然として辞職を奏請した。二十三日允裁(いんさい)があって、なお内覧【注五】今までのとおりとの宣下があり、前右大臣鷹司輔熙公が代って、関白、氏の長者【注六】の詔をこうむった。

 



 池内大学殺さる     二十二日(正月)夜、浮浪の徒が処士の池内大学【注七】を大阪で暗殺し、その首を難波橋にさらした。そのかたわらに、
「この者、正義の士に与して周旋していたが、寝返って姦吏に通じ、諸藩の誠忠の士を斃して、自分だけはうまくのがれていた。よって天誅を加える」
 と書いて掲示した。
 池内大学はもと京都の人で、儒学をもって堂上家に出入し、名声すこぶるきこえていた。戊午の嶽に罪をえて追放され、後ゆるされて大阪に居住し、名を退蔵と改め、前事に懲りてふたたび時事を談じなかった。しかし、彼の口から志士たちの秘密が漏泄することが多く、彼らから反覆の小人と罵られていた。この時、山内豊信朝臣(土佐藩主、隠居して容堂と号した)は上京の途次、大阪の旅館に大学を招き、酒食を与えて断じ、大学は夜ふけて帰途についた。四人の刺客が、彼を途に要して、駕のなかで殺した。

 



 耳を投げ込む     こえて二十四日、その左右の耳を切って、正親町三条実愛卿、中山大納言忠能卿の邸に、その一つずつを投げ込み、「戊午以来、千種、岩倉の二朝臣に同意し、両卿が酒井修理大夫をたすけ、賄賂をむさぼるなど罪あるをもって、三日のうちに議奏の職を辞めなければこの耳のようにする」
 との書き添えてあった。両卿は大いにおどろき、これを朝廷に言上した。満朝の人々も驚愕色を失い、三日後ついに両卿の職を罷免した。この時、高松三位保実卿が、急に尾張およびわが藩へ左のような書を寄せてきた。当時の朝廷の情況がそれでほぼ推察できよう。

急帖をもって貴意を得候。そは過日、浪華に於て討取り候池内大学の左右の耳を、中山家、正親町三条家へ、浪士共持込み候儀、宮中御評議軽からず相成りゆき、ついに昨夜、両亜相【注八】、議奏の御役御免、隠居相成り、このあとの万端の朝政の執器いかが相なるべきや、誠にもって案ぜられ候次第に落入り候。尤も、摂家万集会、御評議これあり候。この段、尾陽前亜相並びに会津候、越前候などへも急聴然るべしと存じ候。尤も一橋黄門公へは保実より急ぎ注進申し入れ候儀に候なり。
 正月二十八日
 尾陽候
 会 候
 その筋有志中急々


 



 賀川肇殺さる     二月の朔日の夜、かの徒七、八人が千種家に、四、五人が岩倉家に現われて、いずれも死人の手と封書を出し、これを入道殿(去年九条前関白【注九】、左大臣尚忠公、久我内大臣建通公、岩倉中将具視朝臣、千種小将有文朝臣、富小路中務大輔敬直朝臣、少将の掌侍(今城氏)、右衛門の内侍(堀川氏、具視朝臣の実妹)、勅勘をこうむり、落飾した。ゆえに入道殿と言った)に披露せられよと言った。両家の臣らは畏縮してその名を問うひまもなく、彼らもまたすぐさま立ち去った。
 その書をひらいてみて、死人の手が賀川肇の手とわかった。
「肇はかつて、公らの奸策を助けたことがある。それで献上する次第だ。きくところによれば、近日、少将、右衛門の両女官【注十】が複職するとのこと、もしそのようなことがあれば、これと同じ結果になると両女官に告げてほしい」
 と記してあった。
 肇は千種家の雑掌(雑事を扱う小役人)で、時事に奔走し、堂上や諸藩に名を知られていたものである。
 正月二十八日の夜、かの徒党十余人が白刃をふるって賀川の家に乱入し、さがしたが見あたらないので、代わりにその子を捕えて殺そうとした。肇は聞くに忍びず、壁のむこうから出てきてこれを制し、ついに殺された。彼らはその首と両手を断ち、壁に罪状を書き記したが、それには「献毒を謀り、また町奉行与力加納繁三郎、渡辺金三郎などとともに奸を謀り、あるいは少将、右衛門の両掌侍の復職を請願する」などの数件が書いてあった。ことの実否はわからないが、これは当時喧伝されたところの流説であった。

 



 殺掠相次ぐ     その夜また、後見職の旅館の前に、肇の首を白片木にのせ、奉書紙でこれを包み、かつ、小笠原図書頭、大目付岡部駿河守、目付沢勘七郎の三氏にあてた一書をそえてさし置いていった。
 その書の大意は「攘夷の勅を遵奉したからには、すみやかに夷狄を拒絶すべきであるのに、偸安にながれているのは、遵奉が名ばかりで、その実、開港通商を欲していることは疑いないことである。このように朝命をないがしろにするならば、天下の有志のものは決して許しておきはしない。よって、すみやかに攘夷の期限を定め、天下の疑惑を解くがよい。粗末な首級であるが、いささか攘夷の血祭として祝意をあらわす」というので、言辞無礼をきわめたものであった。
 朝廷、幕府の重職に対してすらこのとおりである。いわんや他においておや。あるいは町奉行部下同心の手先、または年行事(五人組や組合の事務にあたる者)らを某所で殺戮し、あるいは某町の商家に押し入って金銀をうばうなど、おおよそ日に二、三件、このような訴えのないことはない。彼らの兇暴はその極に達し、口を尊王攘夷にかりて、じつは酒色の費用に盗賊をなす者がおおかたである。
 しかし、町奉行の部下の与力、同心たちも、彼らの気勢に辟易して、誰一人進んで逮捕に力をつくそうとするものがなく、したがって犯人はあがらない。京中の人心は恟々として、その騒擾は、前に幾倍するものがあった。

 



 鎮撫の対策     この時、わが公は軽い病いで休んでおられたが、日一日と騒擾がはげしくなってゆくのを見すごしていられず、まず後見職に書をよせて、「近来浮浪の徒が輦轂(れんこく)の下もはばからず、兇暴日につのり、前夜は両議奏の邸に、一昨夜は、千種、岩倉両家に、また、貴館にもおしかけたとのこと。そもそも、彼らをして高貴を侮慢するに至らしめたのは、帰するところ容保の曠職の責であって、逃れることはできない。事のここに至ったゆえんを考えると、これまったく言路がふさがれ、下情が上に達しないためであると思うゆえに、すぐにも令を下して言路を洞開し、物情をしずめることが先決である。よって、その草案をつくって呈供する」と述べた。
 後見職はこれを見て、貴意はなはだけっこうではあるが、浮浪の徒がこれに乗じて、むらがり来って、囂々(ごうごう)と私見を主張するに至れば、その繁雑さには耐えられない、と言って、受けつけようとしない。わが公が再三これをうながすと、後見職は、この多忙の際にこれ以上煩雑を加えるのは迷惑至極、ただし、貴方一人でおやりになって他に累を及ぼさないのならば御勝手、という返事であった。
 公はもとより他を累するつもりはなく、自分でこれにあたるつもりでいたので、この旨を所司代牧野忠恭朝臣に示し、京中に発令させようとした。忠恭朝臣もまた逡巡して、このような未曽有のことは、老中の命がなければ行ない難いと言って従おうとしない。公は、いまこの機会を失ったら他日臍(ほぞ)を噛むことになろう、すぐさま町奉行に命じて、発令させるのが、捷径(はやみち)と考え、これを命令した。
 その大意は「今日、攘夷と事が決まり、旧弊を一新し、人心が協和すべきはずの時に、輦轂の下で勝手に人を殺害するものがあるのは、言路壅蔽の致すところである。以後あらためて、国事の得失に関することは、内外大小を問わず、はばかるところなく有志について進言すべし。もしはばかるところがある場合は、減封して呈供すべし。事柄によっては、直接守護職に会って陳述することも許す」というのであった。元来、当時の風習としては、一つの訴願にもかならず町内組合の連署をもって、まずその草案を町奉行部下の与力同心に示し、添削を受けてから上達することになっていたので、はなはだ煩わしいものであったのを、このときからその風を一掃して、人民のためにはたいへん便利なことになった。

 



 将軍上洛を促す     はじめわが公が守護職に任ずるや、過激な堂上たちが、幕府の親藩が守護職を選任することを嫌忌して、ひそかに島津久光と並任しようと謀った。幕府老中の人人はこれをきいて大いに憂慮し、わが藩の者もまた、久光が無位無官なのにわが公と並任せられるときいてあきたらず思う者が多かった。公は、それをさとして、いやしくも朝廷と幕府にとって稗益するのならば、三郎でも四郎でもよい、官位の有無など問題ではないと言われた。
 しかし老中の人々は心を安んぜず、久光の上京の前に将軍家が上洛あって、親しく禁闕を守護し、物情を鎮定すべきである。元来上洛のことは、大原勅使下向の時、確定したことであるから、いずれにしてもこの春早々上洛あるべきであると、すでにそのことは、公が江戸を発つ前に内諭されていたことであった。
 公は着京してから京師の情況をながめて、両守護職の処置はともかくとして、将軍家が早く上洛して万機にあたるようにならなければ、公武一和の実績はあがり難いことをさとり、この月(正月)二十八日、家臣丹羽宗源(勘解由)、外島善直にその旨を授けて東下させ、将軍家の上洛をうながさせた。

 



 英邁なる中川宮     二十九日(正月)、青蓮院門主尊融法親王に還俗(げんぞく)せよという内旨が下った。
 法親王は伏見貞敬親王の御子で、先帝の御猶子として青蓮院に入室して得度し、尊融法親王と称したまい、後、戊午の大獄に干連【注十一】して退隠され、獅子王院宮と称し、昨年七月青蓮院へ再住の命があった。天資英邁で、ふかく国事を憂え、ときどき天皇の諮詢をうけて意見を申し上げることがあったという(あるいは関東の俗吏らは、宮の真意を知らず、過激派の巨魁のように誤認し、江戸に迎えて清水家の家祿十万石を付けて、御心をやわらげたら、などと議するものもあったという)。
 そのようなわけで主上もふかく御依頼の念があったが、なにぶん法体であるので、しばしば玉座に咫尺(しせき)したもうこともできず、そのことを常に惜しまれていたところ、後見職上京のときの建議数条のなかに、宮の還俗のことにもふれていたので、主上はこれを嘉納あらせられて、この日のうちに、とくに内旨を下し賜うたのである。
 しかし、法親王は躊躇され、あえて命を拝されなかった。
 けだしその理由は、これよりさきに、諸藩士らが競って宮堂上のあいだに入説したが、薩摩藩の説は公武一和にあったので、親王は大いにこれを嘉したまい、その所説に耳を傾けられたので、その後出入りするものは、薩摩藩士ばかりとなった。そこで、他藩士は心平らかならず、なかでも長門藩士などはその主が中納言推任の議を否決されたという理由で、はなはだしく親王を怨むようになった。親王もまた、このことを慮りたまい、たやすく内旨を拝したまわず、この年の八月二十七日に至り、ようやく勅を奉じて還俗され、弾正尹【注十二】に任ぜられたもうた。尹宮と申し、また、賀陽殿におられたので、賀陽宮、または中川宮とも申し上げる。後の久邇宮朝彦親王の御事である。

 



 唐橋村惣助の首     この月(二月)七日、山内豊信朝臣の館の前に人の首級を風呂敷に包み、緘書をそえて投げ込んだものがある。
 その書の大意は「この首は唐橋村惣助【注十三】の首である。常に千種家に出入りして奸を助けていたものだ。いまはすでに攘夷と決し、大樹公(将軍)の上洛もま近である。この時にあたって、老公の処置は神州の安危にかかわるものだ。早く攘夷の期限を定め、宸襟を安んじ奉られるように。血祭りの証にこの首をたてまつる」というのであった。
 豊信朝臣は資性豪放であるが、事体を見る明があり、攘夷のなすべからざることをさとって、今日の急務はただ公武一和にありと考え、江戸にあったときも、後見総裁両職および伊達宗城朝臣とともに、攘夷の朝議をひるがえそうと議(はか)ったことがある。たまたまその藩臣武市半平太、小南五郎右衛門、土方楠左衛門(今の久元)一派の輩がそれをきいて、因循な俗論として憤慨し、ことさらこれを激せんがためにこの暴挙に出たということである。
 わが公はこれをきいて安心できず、即日病を押して鷹司殿下のもとに伺い、右等の兇暴の次第を述べ、「この輩は天威を恐れず尊貴をあなどる。罪万死に当るが、その根底をきわめてみれば、畢竟、上下の事情がへだたりすぎていることによる。ゆえに、あまねく令を発して、言路をひらく方法をとることにした。それでもなお令に従わないもの、また匿名の書を投じて人心を惑乱させるようなふるまいをする者があれば、容保、職責をもって厳にこれを逮捕する。ゆえに、堂上家においても、万一これらの事があっても、みだりに動揺されることのないように」と述べた。

 



 逮捕令を発す     殿下も大いに賛成して、ただちに奏聞されたところ、叡慮の浅からざる旨の通達があった。
 そこで、左のとおりの令を布達した。

当春以来、藩臣浮浪の徒、堂上家へ立ち入り、正義の士と唱え、種々の入説を致し候より、叡慮貫撤致さざること往々にこれあり。したがって不心得の者ども横行致し、無辜(むこ)のものを残害し、ほしいままに火を放ち、家屋を毀(こぼ)ち、あるいは張紙などをいたし町方を騒がせ、ついには容易ならざる巧みに及び候きこえもこれあり、言語同断の儀に候。しかるところ、今度は勿体なくも宸襟より発し、右等の弊風御改革あそばされ、取締り方きっと仰せつけられ候。御吟味もこれあり候間、一同安心致すべく候。なおまた、今度の叡慮の有難きを知らず、往々心得ちがいのものこれあり公けに申出でもこれなく、無根の説を立て、人心の迷惑を生じ候儀甚だいかがに候。もしまた存意これあらば忌憚なく申し出ずべき旨、かぬがね守護職の申付もこれあり候間、以来心得ちがいこれなきよう致すべき事。

 



 攘夷期限論起こる     これより後、轟式兵衛、中島永吉、藤本津乃助ら来謁して、陳述するところがあった。公も、家臣をつかわして往来、交遊せしめ、大いにその思うところを語らせた。
 しかし、浮浪の徒は、ただ一人として公然とやってきて所思を述べるものなく、ただ遠吠えに過激な横議を逞しゅうするにすぎない。
 さきにわが公は家臣丹羽宗源、外島義直の二人を東下させたが、まだその報告もこないうちに、はやくも関西の雄藩が続々入京し、かつ総裁職(松平慶永朝臣)と尾張前大納言慶勝卿らの入京があってから、かの浮浪の徒がしきりに堂上家に入説したので、にわかに攘夷の期限を定める論が、朝野の間に紛然としてきた。しかし、総裁職と土佐、宇和島二候らは、攘夷のなすべからざることを信じて、そのことに意を傾けようとしなかったが、ひとり長門藩は、君臣とも断然これを主張し、堂上家にあっては、三条実美卿がこれを主唱し、ともに名声一時隆々たるありさまであった。
 このゆえに実美卿の声望はほとんど満朝を圧して、関白殿下ですら時には屈従するに至った。わが公は家臣の野村直臣を卿のもとにつかわして、
「さきに容保が、横浜、長崎、箱館の三港をのこし、その他の開港を拒絶しておいて、後規画の熟すのを待って攘夷を断行するという議を建てたところ、公には賛同されたのに、今急にまた断然攘夷の期限を定めようと主張されると聞いたが、貴意ははたして如何」と聞かせた。卿の答えは、「予が前日中将の建議に賛同したのは、天下の人心がまだ攘夷に切迫していなかったからで、今は事情がちがう。天下の人心が滔々としてこれに傾き、形勢また前日の比ではない。ゆえに断然攘夷を決行しなければ、たちまち天下が四分五裂になる端緒をひらくことになる。これが、予が前日の所思をひるがえした理由だ」という。その方略は明らかではないが、真意がどこにあるかはおよそわかってきた。

 



 激派堂上の結束     二月七日、後見職は急騎をはせて、わが公と山内豊信朝臣とを総裁職の館に招き、その節は狩衣(かりぎぬ)の用意をするようにとの命令であった。そこで、公は急いでその館に至り、会議の後、後見、総裁両職と山内豊信朝臣らと相たずさえて、ただちに鷹司殿下の邸をたずねた。
 これはその日、正親町実徳卿、三条西李知卿、橋本実麗卿、豊岡随資卿、東園基敬朝臣、滋井実在朝臣、姉小路公知朝臣、壬生基修朝臣、正親町公董朝臣、石山基文朝臣、錦小路頼徳、沢宣嘉の十二人が合議の上、突然参朝して殿下に迫り、「朝廷がすでに攘夷と一決して勅を下したにもかかわらず、幕府が因循で、まだなんの処断も下そうとしない。勅命を軽んじることはなはだしい。今もし処置をしなかったら、有志の徒輩が憤慨のあまり暴発して、なにをしでかすかしれない。そのときは旦夕に迫っている。すみやかに攘夷の期限を定め、人心を安んじなかったなら、その危害の及ぶところは料(はか)り知ることができない」と詰めよった。
 殿下は、すでに浮浪の徒の兇暴に戦慄していたところへ、いままたこの言葉をきくに及んで、驚愕、周章一方でなく、急に人をはせて後見職にそのことを告げ、攘夷の期限を定めて早く奏聞するように、命じられていた。わが公らの殿下邸訪問はこのことによるものである。
 わが公は、事があまりに重大で、一、二京都にいる役人だけで決断すべきことではないので、そのとおり答えたが、殿下はひたすら浪士暴発の一事を怖れ、事の大小は顧みず、切に期限のことを命ずるばかりで、ほかのことには耳をかそうともしない。そこで、後見、総裁の両職とわが公と、豊信朝臣とで相談の結果、将軍家がすぐにも上洛されるのであるから、その時緒般の処置を評議し、将軍東帰の後で、はじめて攘夷を決行することにする、つまり、期限を定めることは将軍家の江戸帰城の日にしては、と申し上げたところ、殿下もどうやらそれを承諾された。
 しかし、それでもなお安心せず、次の日にはさらに裏辻侍従公愛朝臣と謀り、中島永吉を使者としてわが公に勧め、因幡侯(池田慶徳朝臣、すなわち慶喜卿の兄)とともに後見職に説き、某月某日と期限を確定すべしとせまるのであった。慶徳朝臣もまた、来り告げるところあろうとした。
 その時、熊本の藩士轟式兵衛が、中島永吉とともにわが藩士の館舎を訪れ「将軍家の上洛がま近だと言うのに、後見、総裁の人々が先達して上洛していながら、まだ何の処するところもなく、いたずらに数日をすごしている。あまつさえ攘夷決行が近づき、人心を鼓舞作興すべき時であるのに、有志の輩の敵愾の英気勃々たるのをかえって抑制するもののごとくである。そのゆえに人心は疑惑をいだき、ついに過般のごとく、人の首を後見職の邸に投げ入れるような事態にまで立ち至った。その威厳が滅殺したのは、公がみずからそうさせたようなものである。およそ海内の人心の赴くところは攘夷の一事にあって、朝廷もこれを勅し、幕府もこれを奉じている。有志はその日を一日千秋のおもいで待っているのだ。しかるに、荏苒(じんぜん)と日を送って、まだその準備一つしようとしないのは、じつに後見職が攘夷に対して意志がないからであろう。はたしてそれならば、これは違勅の罪をまぬかれない、諸君はよろしくすみやかに後見職に攘夷の決行を勧めなければならぬ。さもなくば、大事はこれより去るであろう」と言った。
 およそ有志と称する輩が一意攘夷を熱望していることは、おおむねかくのごとくである。

 



 事態切迫す     二月十一日、夜まさに半更になろうという時刻に、後見職が急騎をはせてわが公を迎えにきた。公が行ってみると、門前に人が群躁して、尋常の状態ではない。
 公が入謁すると、後見、総裁の両職と、山内豊信朝臣が額をあつめて、はなはだ憂色の態であった。
 後見職が眉をひそめて、まず口をひらいた。それによると「今夕まえぶれもなく、三条実美卿が退朝してただちに勅使として来駕された。野宮定功卿、橋本実麗卿、豊岡随資卿、阿野公誠卿、滋野井実在朝臣、正親町公董朝臣、姉小路公知朝臣の八人がこれにつきそい、いそぎ総裁、守護の両職が会して攘夷の期限を確定して奏聞すべしという勅命を伝えた。その切迫することかくのごとくである。如何なものか」と言うことであった。
 そこで、前日、関白殿下に答えたとおり奉答することに決し、後見、総裁、守護の三職および豊信朝臣とともに勅使に謁し、そのとおり奉答すると、実美卿は肯(がえん)ぜず、将軍家の買城の日をもって期限とすると言うが、それがいつのことになるや測り難い、はっきり某月某日と確定せよと言うのであった。
 後見職がその月日を確定するのは、後見、総裁、守護職だけの意見で決定すべきではないという事由を陳弁し、また、将軍家の帰城の日取りも、朝旨を請うて、緒般のことを処置してからであるから、これまたいつと月日をきめるわけにはゆかないと奉答した。実美卿も、それ以上強いることもできないので、それならば、将軍家が在京して諸事を終わるまでを十日と見て、海路東帰する期間を十日と見ることができよう、よって、将軍上洛から二十日を期して攘夷を断行するようにと言いわたした。後見職はこれを非難して、将軍在京を十日と限っても、万一延期しなければならない事情が出来(しゆつたい)した場合、かえって欺罔の罪をおかすことになると、論難数刻に及んだが、実美卿は聴こうとせず、ついに将軍上洛後二十日をもって期限とすることに決めて、勅使たちは退出した。そのあいだに、夜はまったく明けてしまった。
 この日の堂上家はことごとく天威を笠にきて、意気昂然、言葉づかいもきびしく、議論もしたがって過激で、すこしも寛仮の態はなく、もしその意のごとくならなければ、すぐ因循ときめつけるのであった。当時、因循という一語は、百害を意味するとおなじであった。ゆえに、こちらがおもむろに条理を立てて論じても、毫もこれを容れず、述べるにしたがって、いよいよ激するばかりであった。
かしこくも叡聖な主上が、このように怱卒に勅使を下され、急激に奉答をうながすのは、不可思議のきわみであるが、これにはふかい事情のあることである。

 




 三個条の建議     これよりさき、熊本藩士轟式兵衛、長門藩士久坂玄瑞、寺島忠三郎の三人が鷹司殿下に祗候して、三個条の建議をたてまつった。
 その建議の第一は、攘夷に一決したと言っても、幕府がこれを決行するとは信じられないから、確然とその期日を定めること。第二は、大いに言路を洞開して、草莽、微賤の者でも自由に権貴の門に出入して、進言せしむべきこと、第三は、朝廷に国事係が置かれてあるとはいえ人選が適当でないので、朝議が往々葛藤して進まない、よろしくこれを改選すべきこと、もしこの議を御採用がなければ、この場において三人とも自刃して相果てるつもりと、決死の覚悟で強迫した。
 殿下は、高齢のうえに性もまた温厚であったので、あまり過激の論は好むところではなかったが、自信が薄く、おのれの所見をあくまで押し通して他人を排斥するようなことができないので、表面上は衆議を容れるようなふうをとったので、諸藩士が多く出入し、なかでも長州藩士がもっとも多いことから、長州関白の称があった。
 けれども、関白の所論には往々にして反覆することが多い。これもまた、いろいろな入説を傾聴することがその原因であろう。ひそかにきくところによれば、かしこくも主上の御信任もうすく(このことは後に出てくる勅書につまびらかである)、ともすると、前関白近衛忠煕公や中川宮を通しての薩摩藩の意見の行われることが多いというので、有志の輩はこれを拒むために、ことさら言路洞開の要請をしたわけである。
 殿下はこの三人の決死の意気込みを見て大いに恐れ、三人の藩の留守居役をよびつけて、つれ帰らせた。その後、日ならずして、十二人の堂上がにわかに参内して殿下に迫り、それからすぐ八人の堂上が急劇の勅使となって、後見、総裁、守護職に迫ったというわけである。その趣旨は、浪士の強請とかわりのないものであった。それらを考えあわせてみると、その勅旨も、はたして、主上の御心であるか否かは多言を要しないところである。

 




 有志者暴発の勢い     朝議がすでに右のごとくであるから、浮浪の徒はこれに雷同して、幕府を因循、苟安とののしり、公然と暴発を唱えてはばかるところがなかった。
 二月十五日、後見職、総裁、守護職、それから伊達宗城朝臣(前宇和島藩主)、山内豊信朝臣らが二条城に会して、この処置を相談した。これより前に、後見職から、有志たちのその暴行はにくむべきではあるが、その志は、一片国を憂うるあまり、君親を捨てて国家につくそうというのである、ゆえに、罪をゆるし、その志を賞すれば、彼らもまた恩に感じて、乱暴を止めるだろうと言う意見が出た。
 わが公は、これを不可として、浪士の患いはなかなか根がふかい。その根本にさかのぼって弊害をのぞく方法を講ぜず、かえってこれを賞めて歓心を買うようなことをすれば、いたずらに彼らの笑侮を招くだけである。ただ、もとのとおり、大目に見て放置しておくのがよいという説をとった。
 事がすでにここにいたり、轟式兵衛らが鷹司殿下に迫ると聞いて、後見職、総裁は、これを除き去らなければいけないと、その徒数十人の名を記し、逮捕させることを主張した。わが公は、かたく前議を執り、後見職らが指して浮浪の徒とする姓名のなかには現に藩士であり、過激の徒とはみられないものも入っている。たとえ過激の徒であるとしても、その罪状が明確でないものが多い、玉石混淆でことごとく追捕すれば、戊午の大獄の再演になってしまう。いましばらくこれを包容し、根本を治めてから、その枝葉に及ぶべきだと論じた。豊信朝臣らもこれに賛同し、総裁職らはかたくとって聞かなかったが、ついにたがいに譲歩し、浮浪の徒を説諭してその主家に帰参させ、主人のない者は、幕府がこれを養うということに議決した。
 堂上家もまたその輩を厭悪して、翌十六日、伝奏衆坊城俊克、野宮定功の両卿から、書面をもって命を伝えて言うには、さきに輦轂(れんこく)のもとでみだりに人を殺し、また奇怪な所業をなすことは厳重に禁じておいたにもかかわらず、いまなお暴行を止めない輩は、よろしく糺索(きゅうさく)して、厳重に処分すべし、一藩の力で不可能ならば、いずれの藩と協力すべきか、その所見を具申すべしということであった。
 わが公はすぐさま駕籠を命じて殿下のもとにまいり、前議を報告した。殿下も首肯し、予の気持は、浮浪の徒をとりしずめたいだけのことで、あまり厳重な処罰をして、平地に風波を立てるようなことは望ましくない。時に、一橋や春岳(慶永)にも謀ってきたか否かと言うので、わが公がまだであると答えると、それならば、その文をあらため、ひたすら鎮静というところに重点を置くようにとのことばであった。わが公はまた、文中の一藩の力伝々は、わが固陋の臣がこれにひっかかり、朝廷の信頼がないものと考えて憂憤するようなことになることを恐れる、と申し出で、殿下もその文をあらためることを約された。浪士逮捕のことを中心することができたのは、みなわが公の尽力であった。
 また、わが公は数隊の兵に、終夜、市街を巡邏せしめたが、それも浮浪の徒に暴行を謹み、反省せしめようと欲したからである。

 




 攘夷勅旨を演達     さきに、後見、総裁、守護職と山内豊信朝臣の連署で、攘夷の期限を奉答したので、朝廷では、二月十七日に堂上家、翌十八日に在京の諸侯を参内せしめた。その人々は、徳川慶喜卿、同慶勝卿(尾州老侯、わが公の実兄)、同茂徳卿(尾州藩主、慶勝卿の養子で、その実弟、またわが公の兄)、黒田斉溥朝臣(筑前侯)、細川慶順朝臣(肥後侯)、蜂須賀茂韶朝臣(雲州侯)、上杉斉憲朝臣(米沢侯)、伊達宗城朝臣(宇和島老侯)、中川久昭(岡侯)およびわが公ら、二十一藩の諸侯である。主上は小御所に出御あって、関白勅旨を演達した。いわく。

近来、醜夷猖獗を逞しうし、興国を覬覦(がいゆ)し、皇国実に容易ならざる形勢につき、万一国体を汚し、神器を欠くのことあるにおいては、列祖の神霊にむかわせられて、これまったく当今寡徳の故とふかく宸衷(しんちゅう)を痛ませられ候について、蛮夷拒絶の叡慮を奉戴し、固有の忠勇を奮起し、すみやかに攘夷の功を遂げ、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民を救い、黠慮(かつりょ)をして永く覬覦の念を絶たしめ、神州を汚さず国体を損ぜざるようとの叡慮にあらせられ候事。

 右一紙、

攘夷拒絶の期限一定に於いては、闔国(こうこく)の人民心を戮(あわ)して忠誠を励むべきはもちろんの儀に候。先年来有志の輩、忠誠報国の純忠をもって周旋候儀、叡慮斜ならず候。よって尚又、言路を洞開せられ、草莽微賤の言といえども叡聞に達し、忠告至当の論は淪没、雍塞(ようそく)せざるようとの深重の思召しに候間、各々忠言を韜(くらま)さず、学習院へ参上致し、御用掛の人人へ揚言すべしと仰せ出でられ候間、乱雑の儀これなきよう相心得申し出でらるべく候事(二月十八日)。

 天皇入御あり、一同勅旨を謹承して廊下に退いた。なおまた、議奏三条実美卿、広幡忠礼卿が書をもって諸侯に告げて言う。

攘夷の期限は大樹公御上洛のうえ言上のおもむきにて、作冬、勅使の勅答これあり候ところ、方今段々容易ならざる時勢差し迫り候につき、過日お使をもって一橋中納言へ御尋ね相成り候ところ、別紙の通り申し上げ候間、心得のため見置かれ候事。今日仰せ渡され候については、所存これあり候わば申し出でらるべく、尚又、忠誠を励むべく候事。

 本文に別紙とあるのは、慶喜卿以下連署して国事係に出した攘夷の期限に関する答書のことである。


 



 人事の争い     この日、朝廷はまた、さきに設けた国事係について、その人を精選し、さらに国事参政には橋本実麗卿、豊岡随資卿、東久世通禧朝臣、姉小路公知朝臣をこれに補し、三条西李知卿、庭田重胤卿、徳大寺実則卿、六条有容卿、柳原光愛卿、河鰭公述朝臣、橋本実梁朝臣、万里小路博房朝臣、勘解由小路資生朝臣を国事御用掛に任じた。正親町実徳卿、滋野井実在朝臣、東園基敬朝臣、正親町公董朝臣、壬生基修朝臣、中山忠光朝臣、四条隆謌朝臣、錦小路頼徳朝臣、沢宣嘉朝臣を同寄人(よりうど)とした。はじめ、壮年過激の堂上家がさきに立って、国事係の必要を痛論し、関白両職に迫って、ついに去冬、これを置く旨の勅令が発せられたものである。
 ところで、その職についたのは関白大臣両職の公卿らであって、いわゆる有志の壮年堂上は、実則卿(徳大寺)等数人にすぎず、それがため諸藩士の有志らや浮浪の徒らは、その計画が大いに齟齬(そご)し、国事掛の精選を激論し、ついにその交迭を見るに至った。以来、国事掛はまったく過激派をもって組織され、諸藩士、浮浪の徒の機関となり、関白以下を圧迫し、朝権をもっぱらにし、専横至らざるところなしというありさまとなった。

 




 親征の議を献ず     こえて二十日、長門守定広朝臣は書面をたてまつって、加茂【注十四】八幡【注十五】へ行幸を請い、かつは御親征の議を献じた。その書にいわく。

今度、非常の宸断(しんだん)を以て測海(そくかい)の大寇を帰攘し、皇国の武威を八蛮に御輝かしあそばされたき思召しにつき、必意御親征をあそばされず候では相叶うまじき御時勢と奉察いたし候。癸丑(嘉永六年)以来度々伊勢、石清水に攘夷安民の御祈誓あそばされ候事に御座候。此度も攘夷奉幣使を御発しこれあり、非常の御破格をもって御参詣あそばされ、御代代様の叡霊に御報告これなくては相叶うまじき儀と存じ奉り候。此度は、大堰(おおい)、嵐山等の行幸の類にはこれなく、未曽有の大耻辱を雪(そそ)がせられ、皇国を堅猛に固めさせられたく、御孝敬の御至誠、四海に顕嚇(けんかく)あらせられたく、所謂天行健(すこやか)と申す儀に存じ奉り候。加茂、泉涌寺【注十六】の御参詣も、すなわち御親征、御巡狩の思召しにて出でさせられ、速やかに御施行あらせられたく、献芹(きん)の微衷【注十七】伏して願い上げ奉り候。恐惶謹言。

 この月二十八日、定広朝臣は再度上書して、親征の策を献じた。
 近ごろ御親征の議論は、政海の下層にいる浮浪の徒のあいだでさかんに問題になっていたが、堂上の人はまだその論に賛同するものが少ないので、定広朝臣に献策せしめたのである。これが、御親征のことが表面にあらわれたはじめである。
 徳川氏がそもそも将軍の職に置かれたのは、何のためか。天皇に代り奉り、軍国の万機を統轄するためではなかったか。幕府を廃して、朝廷が天下の政を統べられる時がきたのならば、御親征もまたゆえなしとしないが、征夷大将軍の職をのこしておきながら御親征のあるべきはずがないのは、識者を持つまでもなくわかりきったことである。そのために、世人は、親征の議は廃幕、つまり討幕の献策であるとひそかに言いあっていた。

 




 野宮邸への強談    二月二十一日、伝奏衆が書をもって、わが公に、「学習院【注十八】を開き、草莽微賤の者にも進言、献策を許すのはいいが、万一狂気胡乱(うろん)の徒がやってこないとも図りがたい。よって、警衛の士を出してほしい」と命ぜられた。
 思うに、これは、前日、浮浪の徒二十人ほどが夜に乗じて伝奏野宮定功卿の邸にきて、みずから浪士と名のって謁を請うた。卿は大いに怖れて、家臣を出し、言いたいことを問わしめたが、彼らは、事重大で、人づてには話し難いと言う。やむをえず召し入れると、入謁するものはわずか三人で、ほかは外にいて待っていた。
 その三人が三ヵ条の建議を述べた。
 その一は、将軍が近々上洛するとのことであるが、この際朝廷はよろしく名分を正さなければならないこと、その二は、将軍の上洛はじつに千載一遇の大機会であるから、この際政権を復すべきこと、その三には、裏辻侍従(公愛朝臣)が正義の人であるのに廃黜されているが、よろしくその職を復すべしと言うのであった(これよりさき、公愛朝臣は、攘夷に関する私見を朝議のように諸藩に言いふらしてたかどで、勅勘をこうむっていたのである)。
 卿はこれにさとして、予の一存では採否が決し難いゆえ、他日朝議にかけようと言うと、彼らはそれならば、日をきめて採否の返事を聞こうと言う。事が決定すれば招くから、居所を告げよとの卿の言葉に、彼らもとより浮浪の輩で、宿所もきめていないらしく、では、後日参上するとのみ答えるのであった。この対応のあいだにも、外に待っているものが、刀を引き抜いて松の枝を折ったりして、暗に勇威を示していた。
 その夜、四条家を訪ねたものも同断であった。
 そのようなわけから、朝議のうえ、特に叙上のような命令が下ったものである。
 しかし、以上は表面の朝議で、内情は、学習院の警衛をわが公に命じ、もし浪士の駕馭を誤った場合、そのことを名目として、守護職を免じさせようとの策である。このことは、前殿下に中山忠光朝臣が語ったことで、ひそかに前殿下がわが公を警戒せられたのである。それをみても、いかにわが公が過激堂上や浮浪の輩に忌憚されていたかがわかるであろう。

 



 将軍の上洛決定     これよりさき、わが公は書をもって、しばしば将軍の上洛をうながしていたが、関東では、その路程について議定せず、前には海路で大阪へ到るとの報があったが、また変じて陸路となり、二月二十一日に出発との報があったので、後見、総裁、守護職がともに、鷹司殿下と近衛前殿下、中川宮を通じて、この由を奏上し、また将軍家上洛参内の日に、戊午以来の失政の咎(とが)を引いて、官位一等引下げを奏請し、朝廷もまた、もとのとおり万機を委任あらんことをと稟請した。
 このことが天聴に達すると、御嘉納あって、特に官位鷁退(げきたい)のことはその議に及ばず、という恩詔を下し給うた。過激の堂上はこれをきいてあき足らず、議論が粉々として、ついに伝奏衆から後見職へ、今度の大樹上洛参内の日に、旧来の待遇の式をあらためて、現官位の品等の待遇で接待あるべしとの内旨が下った。
 そもそも征夷大将軍が主職であることは、いまさら喋々するまでもない、それで徳川氏が政権を執って以来、朝廷の優遇がことに厚く、台徳(徳川秀忠の法号)、大猷(徳川家光の法号)の二公の上洛の時も、現官位の品等にかかわりなく、これを関白の上席に置いて、閫職(将軍の権)の重大なことを表示せられたものであった。
しかるに、現将軍は、就職されてまだ日が浅く、官は右大臣であるから、単に官位の品等による場合は、関白殿下はもちろん二条、一条の二大臣の下席に列せざるを得ない。思うに、それによって、幕府の威厳を引きおろそうという排幕の党の計画であった。
 総裁職はこれを聞いて大いに色をなし、そもそも征夷大将軍の職は、閫外の重任であって、関白の上に班次するのは古来の制度である。しかるに今、理由もなくその職掌をさしおき、現官位の品等をもってしようとするのは、じつに将軍家をはずかしめるものである。これを見るにしのびない、半途から〔将軍の〕駕をかえすほかはないと憤るのであった。
 山内豊伸朝臣はこれをきいて、総裁職の御言葉も一理はあるが、それではあまり早計である。もう一度奏請して旧典に復させよう。さもなければ、予はこのまま国へ帰る、とたがいに自説をまげない。わが公はこれを調停して、総裁職に、しばらくこれを忍んで旧典にもどすことに尽力させることにして、まず相たずさえて中川宮のもとを訪れ、このことを申請した。
 宮はこのことに同意見ではあったが、朝廷の事は一人の力ではなんともなしがたいと諭した。
 そこでさらに、近衛前殿下、鷹司殿下の両公に謁し、すでに将軍家は前年来の失政の咎を感じて、官位一等引下げ申し出で、叡旨遵奉の実を奉ろうとして、天恩優渥、特殊の恩詔を賜わっている。ねがわくばこの叡慮をひろめ、昔どおり万機御委任の実を明らかにし、待遇の典など、すべて旧制によっていただきたい。さもなければ、幕府の威は地に落ち、諸藩を統馭することができず、四分五裂の状態にもなりかねない由を述べた。両公も、もっとものこととしてそれを聞いた。

 



 守護職罷免の陰謀     この時、過激な堂上のあいだで、諸藩の勇壮の士を微して朝廷の親兵としようとし、また、彦根藩に対する処分がまだ手ぬるいとして、罰を加えるべきだという議論が出ていた。
 おそらくこの二件は、去年三条実美卿が勅使として東下し、江戸滞在のあいだに京師から追命があり、卿がこれを幕府に宣せられたが、幕府ではこれに意義があり、山内豊信朝臣が三条家と姻戚関係があるので、不可とする理由を説かせた。卿もまた、それ専任の勅使ではないので、強いてこれと争わず、将軍上洛の時を待ってこれを審議すべしとしたが、いままたこの議が再燃した。過激の堂上は、このことをとりたてて、将軍待遇復興に代えようとしたのである。
 そこでまた、豊信朝臣をして、実美卿にその不可を陳述せしめたが、卿は聴かず、浮浪の徒らもまたそれをききつけて、その必要を喋々するにいたった。その理由とするところは、往年、内裏炎上の際【注十九】、かしこくも倉皇として宮闕(きゅうけつ)を出御されたとき、わずか数人の堂上が供奉するに過ぎず、しかも公卿、女官のけじめもなく、ことごとく徒歩のままであり、しばらくして、官人等がかけつけて供奉した。今や非常の時に、万一またこのようならば、じつに忍びざるところである。ゆえに、これに備えんがためであるという。だが、それは口実であって、過激堂上がおのおの自家の爪牙を蓄えようという下心からのことであることは目に見えている。
 わが公はこれを聞いて「親兵を置くことは往年ならばやむを得ないところがあったかもしれないが、いまは臣が守護職として、数千の兵を引きつれて京師にある、これこそ、親兵ではないか。これをさしおいて、さらに別の親兵を置くことは、すなわち臣らをもって烏合(うごう)の衆に劣ったものとされるにひとしい。おそらく、そのことは、天皇の御意からではあるまい」と強く言ったので、以来、堂上の議論もすこしおとなしくなった。





 【注】

【一 伝奏衆】 武家伝奏のこと。武家伝奏は、朝廷の役人であるが、幕府との交渉にあたるを役目とし、就任の際には、幕府にたいし隔意をもたず、朝廷の事情は、幕府の尋問にたいし率直に答える旨の誓紙を幕府に出すのを例とした。

     
【二 准后】 三后(太皇太后、皇太后、皇后)に准ずる待遇を与えられた者という意味である。この場合、孝明天皇の女御夙子(九条尚忠の娘)で、後の英照皇太后である。

【三 外舶が摂津の海へ入港するという浮説】 生麦事件にたいする幕府の態度を不満とし、イギリス艦隊が、文久三年(一八六三)二月上洛する将軍および幕閣と交渉するため、摂津海上にくるであろうという風聞があった。

【四 越階は希有の例】 大名の叙任は、家格によって先例ができ、それが厳格に守られていた。国主大名のうち、加賀の前田氏、薩摩の島津氏が参議になりうるほかは、毛利氏も他の国主大名と同じく従四位下侍従または従四位上少将に任ぜられた。したがって、参議になるは破格のことであり、島と肩を並べる意味をもっていた。


【五 内覧】 太政官からの公文書を天皇に奏聞する前に、内見する職務である。摂政、関白、前関白等が、とくに宣旨をうけて、この職をおこなった。

【六 氏の長者】 氏の上とも言い、氏族の長のことで、宗家として一族を統率して朝廷に仕える者を言う。室町時代以後は、藤原氏の摂関となった者および源氏の征夷大将軍となった者だけがこれを称した。

【七 池内大学】 大学(陶所、奉時)は京都商家の出で、儒者として知恩院宮尊超法親王、青蓮院宮尊融法親王の侍読となり、公卿子弟を弟子にもっていた関係から、水戸藩が朝廷にはたらきかける斡旋の役目をもち、反幕派として活躍した。安政の大獄が起ると、身を隠していたが、突然京都町奉行所に自首した。このころ、幕府から賄賂をうけ変節したという噂が流れていた。幕府の尋問をうけ、中追放の処分をうけたが、文久二年和宮婚儀の祝としての大赦によって宥された。

【八 両亜相】 亜相は大納言。この場合は正親町三条実愛と中山忠能。

【九 去年九条前関白…】 九条尚忠は、佐幕派公卿の中心人物と目され、尊攘派志士の非難をうけていた。久我建通、岩倉具視、 千種有文、富小路敬直は、和宮降嫁の実現に尽力した責任者として目されていた。少将掌侍今城重子は、和宮東下に供奉した左近衛権中将今城定国の妹であり、右衛門掌侍堀河紀子は、岩倉具視の実妹である。そこで尊攘派は、右の四人の公卿と二人の女官は、和宮降嫁に奔走した佐幕派であるというので「四奸二嬪」と悪口し、排斥運動を起した。彼らは、暗殺を口にして脅迫したので、朝廷側は、有文、具視、敬直に諭して、近習の役をやめさせ、重子、紀子を宮中から退出させた。しかし尊攘派の攻撃はやまず、志士の意をうけた広幡忠礼、正親町実徳ら十三人の公卿が建通、具視、有文を弾劾する文を近衛関白に提出した。その結果、建通、具視、有文、敬直は辞官、蟄居し、剃髪することとなり、重子、紀子は辞職、隠居、尚忠は剃髪、重慎の処分をうけた。しかしその後も激徒の威嚇は続いたので、彼らの洛中居住を禁ずることとし、いずれも郊外に人目を忍び閉居謹慎する身となった。文久二年九月のことである。この排斥運動の結果、朝廷での尊攘派の勢力が確立した。本書五六頁に記されている三条実美ら攘夷督責の勅使を幕府に派する計画は、この成果の上に実現したのである。

【十 両女官】 注九を見よ。

【十一 戊午の大獄に干連して】 第二章注五を見よ。


【十二 弾正尹】 弾正台の長官。弾正台は令に規定されている役所で、不法を糺弾し風俗を粛正する任務をもっている。

【十三 唐橋村惣助】 千種家の領地葛野郡唐橋村の庄屋。千種家に出入し、有文の行動を助けたと目されていた。

【十四 加茂】 賀茂別雷神社(上社)と加茂御祖神社(下社)。古来、朝廷の尊崇をうけ、延喜式では明神大社に列せられ、国家的神社とされた。

【十五 八幡】 石清水八幡宮。宇佐八幡宮を勧請したもので、朝廷の信仰あつく、また源氏が八幡大神を自家の祖神と考えたことから、武人の神とされた。文永・弘安の役(元寇)には、亀山上皇が参籠して、異敵追討を祈願された故事もあり、ペリー来航以来、朝廷は外敵撃退を祈ることはしばしばであった。

【十六 泉涌寺】 京都市東山区今熊野町にあり、真言宗泉涌寺派の大本山である。四条天皇の遺骸を当山内に葬って以来、歴代の山陵で本寺域に営まれるものが多く、皇室の香華院として崇敬されてきた。

【十七 献芹の微衷】 呂氏春秋に「野人芹を美として至尊に献ぜんと願う」とあり、進物の謙辞。ここでは忠義の謙辞。

【十八 学習院】 天保十三年(一八四二)幕府と交渉の結果、公家子弟の教育機関としての学問設立の議が決し、弘化四年(一八四七)三月開校された。文久三年二月、草莽微賤の者も、学習院にきて時事を建言できるとの朝旨が下り、ついで、志士の領袖は学習院出仕に補せられることとなり、ここは尊攘派公卿と志士の集会場となった。

【十九 往年、内裏炎上の際】 安政元年(一八五四)四月六日の内裏炎上をさす。天皇に供奉したのは、近習当番のほか六、七人にすぎず、下加茂 社に避難し、ついで聖護院に移った。

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