いがぐり史料館

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太田原城の陥落及び委棄

太田原城の陥落及び委棄

 三斗小屋に滞陣せる第一大隊、会津砲兵隊の一部および回天隊(この隊の組織詳ならず)は間道を経て白河に入るべきの命あり、これにおいて隊将江上太郎、内田衛守、牧原文吾等は前後若松に至り稟議する所ありしが、軍議一変して更に太田原城に入るべき命あり、すなわち兵を板室に出し、閏四月二十一日西軍と小戦を交え日暮交々退く、明日敵大軍油井村に来襲す、我が兵寡くして支ふる能はず、敵火を板室村家に放ちて掩撃す、我が軍ついに敗れ旧幕軍頭取小笠原新太郎これに死す、敗報若松に達するや原田主馬、朱雀三番足軽隊を率いて来り援く、これにおいて使を白河城の我が軍に遣わし、相応じて一挙太田原城を援かんとす。
 五月二日我が軍原田主馬隊(この隊始め大平口にありしがこの方面へ転ぜるか)、有賀左司馬隊(青龍足軽四番隊)、江上太郎隊(伝習歩兵第一大隊)、野際口より太田原城を進撃してこれを陷る、時に白河城は前日敵の為に奪取せられ、為に援軍太田原に来らず、孤軍籠城の得策ならざるをもって即夜関谷村に退軍し、ついで各隊田島に転陣す、太田原の捷報若松に達するや、我が公使を遣わしてこれを賞す。
 五月八日野州の我が総軍大原、藤原に移転す、その後敵は大桑、小佐越、小百等の諸村落を燒尽くす、けだし我が軍の滞陣を困難ならしめんとするにあり、すでにして総督大鳥圭介軍用の為め会津城下に赴かんと欲し、大川正次郎、沼間慎次郎、天野電四郎等を留守となし、副総督山川大蔵と共に若松に至り、直ちに登城して我が公および喜徳公に謁し献策する所あり、滞留数日、五月二十日藤原の本営に還る、時に西軍土州兵は白河方面に向い、肥前兵約千人これに代わりて今市に在り、けだし土州兵の俄然方向に転じたるは、野州より会津に至るの間道険悪に加ふるに東軍屈強にして、容易に会津城下に侵入するを得ざるを慮りたるに由ると云う、会津藩藤澤茂助五十里駅より藤原に来り胸壁築造に従事す。
 六月、去月初旬以来久しく敵と鋒火を交えず兵士倦怠の色あり、沼間慎次郎は軍議に関して大鳥と意見合はず、この月初め辞して若松に帰る、時に山川大蔵は若松より帰陣して五十里駅に在り、この月二十四日大鳥は五十里に至り山川に会して軍事を議す、翌二十五日午後藤原より急使あり、今暁今市、般生に滞陣せる敵軍大原に来襲し昿野において交戦中なりと報ず、大鳥大に驚き早輿を命じて高原に至り、あたかも敗退し来れる兵士に遇いその戦況を問う、一将校いわく、敵は小佐越の河岸より発砲し我はこれに応戦す、良々久しうして敵兵左側の山上に據り、我が側面背後を要撃したれば我が軍支えず一旦大原に退きたるも、一村敵の為に焼かれたるをもってここに留まること能はず、藤原を経てこの処に来れりと、大鳥これを聞き切歯これを久しうしていわく、留守防戦の事は諸将に注意したるに事を誤るこの如し、然れども今これを言うも詮なし、察するに敵は明日必ず藤原に来襲せん、我これを撃攘して今日の怨を晴らさゞるべからずと、すなわち軍を藤原に分けへし、即夜胸壁を小原村に築く。






卷四 総野の戦  会津戊辰戦史1
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  1. 2013/01/15(火) 16:56:59|
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