いがぐり史料館

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我が藩四境を固む

我が藩四境を固む

 三月二日奥羽鎮撫総督左大臣九条道孝公、副総督三位澤為量卿、参謀少将醍醐忠敬卿、下参謀薩州藩大山格之助、同長州藩世良修蔵以下兵若干を率いて京師を発す、これより先奥羽鎮撫使として三位澤宣嘉卿、少将醍醐忠敬卿命ぜられその参謀には薩州藩黒田了介、長州藩品川弥二郎命を拝したるが、奥羽鎮撫の方針を定むるに当り鎮撫を主とするか、また討伐を主とするかに関して議協はず、鎮撫を主とする黒田、品川は参謀を辞し更に組織を一変し上記のごとく任命せられたり、けだし薩長の巨頭中会津を絶滅せざれば飽き足らざるもの多数を占めたるをもってなり、後日奥羽列藩が連合して会津庄内のために寃を解かんとするも、世良、大山が峻拒してこれを朝廷に執奏せず、ついに東山の山野をして戦闘の巷と化せしめたるは、要するに薩長の会津庄内報復討伐策に起因することを知るべきなり(仙台戊辰史、米沢藩戊辰戦記)、仙台藩大越文五郎は兵をもって九条総督一行を護衛し、大阪より海路仙台に向い、十九日松島に上陸し観瀾亭に宿す、二十三日仙台藩主伊達慶邦朝臣は松島に至り九条総督に謁す、総督は慶邦朝臣に会津征討の命を伝えその先鋒を命ず、これにおいて慶邦朝臣は藩相に命じ出師の令を発せしむ。
 この日総督九条道孝公、副総督澤為量卿以下仙台に入る、会々米澤藩大瀧新蔵、山田八郎仙台に在り、参謀世良修蔵を訪ひ説いていわく、会津松平容保悔悟謹慎して天裁を待てり、干戈を動かさずして降を容れられては如何と、言未だ終わらざるに修蔵大に怒っていわく、米沢藩会津征討に異議あらば会津と同罪なり、総督まさに米沢に移りて軍事を指揮せんとす、宜しく兵仗弾薬を備えて命を待つべしと、新蔵、八郎等修蔵が頑冥暴戻にして共に謀るべからざるを知り、米沢に帰りてその亡状を告ぐ。
 当時奥羽総督府参謀の執りし態度このごとくなれば、我が藩は兵を四境に出しもって敵軍不時の侵入に備ふるの止むを得ざるに至れり、これにおいて部署を定む、大平口(岩瀬郡に在り、若松より白河へ通づる街道の地名なり)には原田対馬を総督とし、軍事奉行櫻井新五左衛門、朱雀三番士中組中隊頭上田八郎右衛門、青龍三番足軽組中隊頭蜷川友次郎、土着士隊すなわち正奇隊頭相馬直登、新練隊頭土屋鉄之助、土工兵頭小池帯刀、朱雀一番足軽隊日向茂太郎、朱雀三番足軽組中隊頭原田主馬、義集隊の一部等これに属す、また山口次郎(始め齋藤一と称し、山口次郎に改め、後に藤田五郎と云う)の率いたる新撰組の一部および旧幕府の歩兵百数十人この方面に在り、東方面勢至堂口(若松より安積郡三代村、岩瀬郡長沼町を経て、白河へ至る街道の大字にて、三代と長沼との間に在り)より以北桧原口に至る諸口の総督家老西郷頼母猪苗代に在り、用局中山甚之助、大堀東八、渡部定之助、使番三宅貢之に属す、また副総督として若年寄横山主税三代駅に在り、軍事奉行添役用局日向造酒、矢島儀右衛門、永田又助、幌役津田範三、青龍一番士中組中隊頭鈴木作右衛門これに属し、勢至堂峠に関門を設け壘壁を築き山谷の細流を堪えて敵軍の来襲に備ふ、この防備はかつて藩士古川幸之進が画策する所なり、中地村口(安積郡中野村にあり、猪苗代湖南岸に近き同郡月形村舟津の南半里に在り)は遊撃隊頭遠山伊右衛門ありて鷄峠(鷄峠は中地の西南二里許に在り、追分峠一に諏訪峠とあり、異名同所ならんか、鷄峠の北に在り甚だ近し、両所より岩瀬郡須賀川、長沼に至る)の二口を守る、三森峠(中地の東二里余に在り)は坂部三十郎地方士七十五人を率いてこれを守る、御霊櫃峠の守備は鈴木一郎右衛門青龍一番足軽隊を率いてこれに当る、壘柵の修築は高津助之進、鹽見仙吾右衛門、香取和平、津田範三これを督す、中山峠、山潟、都澤、壺下(何れも越後街道の地名にてこの街道は郡山または本営に至る)の経路は義集大隊頭辰野源左衛門、朱雀一番士中組中隊頭小森一貫齋、青龍一番寄合組中隊頭木村兵庫、石筵口には猪苗代城代田中源之進、砲兵二番隊頭高橋権太輔半隊を率い、朱雀四番足軽組中隊頭横山伝蔵、力士隊赤植平八を置いてこれを守らしむ、勝軍山(石筵峠、又保成峠、猪苗代よりこの峠を越え、本営または二本松に至るを得可し)は砦を数所に築き田中源之進これを督す、酸川野の狭路には酸川(土湯峠付近より発する高森川と沼尻よりする硫黄川とが、吾妻村大原付近にて合流するを酸川と云う、この川猪苗代付近にて桧原川と合流して長瀬川となり猪苗代湖に注ぐ、酸川の沿岸に酸川野あり古よりここに関門ありき)の水を湛えてこれに備ふ、これは辰野源左衛門が策する所なり、沼尻峠(猪苗代より二本松に至る小路に在りて、会津領と二本松領との境に在り)は絶険にして敵軍容易に越ゆること能はざる地なれども尚猪苗代士坂綱をして農兵数十人を率いてこれを守らしむ、高森、横向は地険なれども福島の通路なれば朱雀一番寄合組中隊頭一柳四郎左衛門これを守り、桧原口大峠、桧原峠(この両峠共に会津領と米沢領との境に在り、大峠は若松の正北にして桧原峠は大峠の東二里許に在り、一説に柳原峠を萱峠とも云う)は青龍二番士中組中隊頭有泉壽彦之を守る、大峠に関門を設け砦壁を築く、関門砦壁の修築は皆津田範三之を督す。
 後に至り隊長の交代、また諸隊の守備場の変更ありしは勿論なり。
 
 三月二十五日仙台藩は陽はに会津討伐の部署を定め御霊櫃口を伊達筑前の受持とし、土湯口を瀬上主膳の受持とし、中山口を伊達安芸の受持とし、石筳口を大松沢帰部之輔の受持とし、四月十一日慶邦朝臣自ら兵を率いて仙台を発し、十三日白石に至りもって本営となす。
 十二日奥羽鎮撫総督本営を岩沼に移し、副総督澤為量、下参謀大山格之助等薩長の兵を率いて荘内に向う。
 十三日九条総督は伊達慶邦朝臣に令を伝ふ。

 仙台中将
今般会津追討出張之兵為見廻明十四日より参謀一人差廻候間敵の模様に依ては進退駆引可致に付何れも其指図を請候様端々の兵隊に至る迄厳重の沙汰可有之候事
但兵隊一小隊附添候事


 これにおいて慶邦朝臣は十五日岩沼に至り九条総督に謁し即日白石城に帰る、慶邦朝臣は十五日岩沼に至り九条総督に謁し即日白石城に帰る、参謀醍醐忠敬朝臣は岩沼を発し白石に至る、下参謀世良修蔵筑前藩の兵一小隊を率いて白石に至り、更に進みて福島に入る。
 慶邦朝臣白石に入りし以来その軍を監励せしが、奥羽鎮撫総督以下入仙以来下参謀が仙台藩主従に対し往々慢侮凌辱の挙動あり、これに憤激する仙台人士は、罪跡明ならずして逆賊の汚名を蒙り、しかも隣交の藩に頼りて冤を解かんとする会津を討つは武門の忍ぶ能はざる所なりと唱える者あり、また仙台が東国の大藩にてありながら薩長の使嗾する所となりて、上下決死の会津と戦うは無謀も甚だしきものなれば、薩長の為に会津を驅るの犬となるなかれと論ずる者ありとの報に接し、

{『仙台戊辰史』に上略『これを要するに薩長の眼中また奥羽なし、その試さんとする所をなして、もし反抗の態度に出でんには一併して賊徒の名を付し反逆をもって論ずるにおいて天下何人も異論を唱ふるものなきを知るが故に殆んど傍若無人の挙動をあえてしたりされば縦し彼等に奥羽諸藩を挑発するの密謀なかりしとするも、その挙動は確に他の反抗を招くべきものありき、いわんや薩長兵の入国以来公然として仙台藩士を侮辱する意味の俗歌を歌ひつゝ街巷を横行し酒を被ふりて士人を凌辱し隊を組みて市井に乱暴するも天朝の軍人たりといふの故をもって有司もこれを咎むるを得ず、甚だしきに至りては良家の婦女子を捉えて終身拭ふべからざる辱めを輿へ之を誇りとすることさえありしをや、しかもこれらのこと啻に無頼走徒卒のみならず大山、世良および隊長と称する者またこれをあえてして顧みざるに至りては大藩の威厳を傷つけざらんとする仙台藩少壮の士の忍び得る所にあらず朝命を畏み奉ずるにおいて人後に落ちざらんとする赤誠の士も天朝を代表すと称する総督府参謀輩の兇威に対し武士の面目においてこれに反抗せざるを得ざるに至りしは勢いの已むべからざるに属す、思うに奥羽武士の面目上総督府参謀輩の凌辱に黙従すべからずと唱えしは主として少壮の志士なりしがごとし、玉蟲左太夫若生文十郎のごときはかつて会津に使いせしものなるにより会津国情演達のため養賢堂へ召出されし際両名より会津肥後守の心事およびその国情について委細演述する所ありしが大山、世良の両参謀は交々これに罵詈嘲弄を加えその方共は奥羽の諸藩中にて少しは訳の分かるもの故使者にも使われしならんに扨々見下げ果てたる呆気にこそ左様のもの共の主人も略々知れたるものなり所詮奥羽には目鼻の明たものは見当たらず、など悪口せられしため青年等の激昂甚だしきのみならず薩長兵の巷衢に徘徊して唄うところは悉く仙台藩を誹譏する意味のものゝみなりし為め士民一般の憤激一方ならざりき、その一例を示せば醉ひしれたる薩長兵打つれての唄に

竹に雀を袋に入れて後においらのものとする

斯る多哩もなき俗謡も当時に在りては武門の権威において一笑に付し去らるべきにあらず、故に血気の志士中には養賢堂を襲い薩長の奴輩を皆殺して甘心せんとするものあるに至れり』また同書に『戊辰三月世良修蔵大阪の旅館にあり米沢の使臣来り謁す、修蔵時に芸妓の膝を枕にし寝ながら公用書を足にて使臣に蹴遣りしと云う(使臣非常に憤慨せし由米沢藩人の直話なり)』とあり。}


 事態容易ならずとし、十七日慶邦朝臣自ら軽騎を従い白石を発して桑折に至り、先発軍の部将を桑折に召還引見して説諭し、これを全軍に伝へしめ、即日白石に帰りしに、たまたま京都留守居松島仲太夫急行帰国の途次白石において慶邦朝臣に謁して太政官の命令書を伝ふ。

 伊達陸奥守

其方儀先般被仰付候御沙汰之趣奉畏此節会賊追討剿絶可有之処末た旋報不相奏宸襟不被為安候仰会賊大義を辞せす天恩を奉忘却徳川慶喜叛逆を助け候罪不容天地候処遠邑辺諏之向々京師之情実不通に付賊徒等窃に救応之使節等差向候哉にも相聞不容易儀に候処其藩に於ては奥羽之大鎮殊更先祖正宗朝臣勤王の偉功を以て天下に流芳致候名家に有之候て領国近地右等の賊徒跳梁致し使節等諸所へ差向候様之儀も有之自然治平遅緩に相成候ては実に其藩先祖以還之武名に拘候儀にも当時可申に付其方父子戮力協心且接近の諸藩を鼓舞致し一挙にして会賊殊鍬鋤奏攻可有依て今般嫡子左京太夫帰国御暇被仰付候間只管叡慮を奉戴し不日可奉安宸襟之旨御沙汰候事


 これにおいていよいよ兵を会津国境に進むることゝせり。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1
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  1. 2013/01/18(金) 11:29:51|
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