いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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九  浪士の悪戯      『京都守護職始末1』

 尊氏の首事件     右のように、過激浮浪の徒輩は、種々の手段をもって公武の一和を妨害し、将軍家入京のときが近づくに及んで、名分を正しくすべしという議論が朝野のあいだに喧々囂々と起った。
 はたして、二月二十二日の夜、浮浪の徒が等持院にある足利尊氏以下三代【注一】の将軍の木造の首を取って、これを三条大橋の下に梟(さら)し、その下にそれぞれの位牌を掛け、かたわらに左の文を書いた板札を立てた。
                                  
逆賊       
 足利尊氏     
 同 義詮     
 同 義満
名分を正すべき今日に当り、鎌倉以来の逆臣一吟味をとげ誅戮いたすべきところ、この三賊は巨魁たるによって、まずは醜像へ天誅を加うるものなり
 文久三年亥二月二十三日      
  逆賊足利十五代
この者の悪逆は、すでに先哲の弁駁(べんばく)するところ、万民のよく知るところにして、今更申すに及ばずと言えども、この度、この影像共を斬戮せしめしについては、贅言ながらいささかその罪状を示すべし。そもそもこの皇国の大道たるや、忠義の二字をもってその大本とするは、神代以来の御風習なるを、賊魁鎌倉頼朝世に出で、朝廷を悩まし奉り、不臣の手はじめをいたし、ついで北条足利に至りては、その罪悪じつに容るべからず。天地神人ともに誅するとことなり。然りといえども、当時天下錯乱、名分粉擾の世、朝廷御微力にして、その罪を糺し給うことあたわず、遺憾ただ悲しむべきなり。いまこの遺物を見るに至りても、真に憤激に堪えず。我々不敏なりといえども、五百年昔の世に出でたらんには、生首引抜かんものをと、拳を握り、切歯、片時も止むことあたわず、今こそ不臣の奴原の罪科を正すべきの機会なり。故に我々申し合せ、まずその巨賊の大罪を罰し、大義名分を明さんがため、昨夜等持院にあるところの高氏はじめ、その子孫の奴原の影像を取出し首をはね、これを梟首し、いささか旧来の蓄憤を散ずるものなり。
 亥二月二十三日
大将軍織田公により、右の賊統断滅し、いささかは愉快というべし。然るに、それより爾来今世に至り、この奸賊に超過し候ものあり、その党あまたにして、その罪悪足利氏の右に出ず。もしそれらの輩、ただちに旧悪を悔い、忠節をぬきんでて、鎌倉以来の悪弊を掃除し、朝廷を輔佐し奉り、古昔にかえし、積悪を償うところなくんば、満天下の有志追々大挙して、罪科を糺すべきものなり。
 右は三日の間晒(さら)しておくものなり。もし捨て候のものは、きっと罪科に行なうべきものなり。


 これはすなわち、公然と幕府を指称して、尊氏の首級を将軍に擬したものである。

 




 大庭機の密偵     はじめ、わが公が京師に入るや否や、公用局の下司(げし)大庭機に、浮浪の徒と交遊させ、その動勢をさぐらせた。大庭は知遇のかたじけなさに感激し、死をちかってその任務をつとめた。
 時に、浮浪の徒のなかに、江戸の人諸岡節斎、伊予の人三輪田綱一郎、下総の人宮和田勇太郎、信濃の人高松趙乃助、因幡の人仙石佐多男、石川一、陸奥の人長沢真古登、下総の人青柳健之助などが皆、平田篤胤【注二】の門人、もしくは没後の門人と称して、荒唐無稽の陋説を主張し、みずから尊王家を誇っていた。常陸の人建部建一郎、信濃の人角田由三郎、備前の人野呂久佐衛門、岡元太郎、京都の商人長尾郁三郎、小室利喜蔵(後に信夫)、近江の商人西川善六郎、浪人中島永吉など相和して、その論ずるところ、過激、疎暴至らざるなしといった状態であった。
 機はこれらと交遊して、その歓心を得、すこぶる崇信されるようになったので、木造梟首の企てがあったときも、機はためらう様子をみせず、みずから衆に先立ってこの暴挙をなし、ひそかに帰って、くわしくそれをわが公用局に報じた。

 



 公逮捕を決意     公はそれをきき、それまでは浪士に対して包容を主として、きわめて寛優であったのが、それ以来はやりかたをあらためた。
 そもそも、尊氏らについては、世論がさまざまあるが、いやしくも朝廷が官位を賜い、天下の政権をあずかってその功も少なくはない。このような尊貴の者をはずかしめることは、そのまま朝廷を侮辱するとおなじである。ことに、その暴行は、屍に鞭うつにひとしい。すみやかに彼らを逮捕して厳刑に処さなければ、国家の典刑が立ちがたいとして、二十五日の夜、町奉行に命じて、彼らを捕縛せしめようとした。
 すると、部下の与力平塚飄斎が町奉行に、木偶梟首の一党は、現に京師にいる者だけで四、五百人はあると聞き及ぶ。いまこれを捕えようとすれば、かならず余党が一時に蜂起して、守護職の力でも、あるいは制し難かろうと申し出た。
 それをきいて奉行やその部下の衆も躊躇し、しばらく逮捕の断行をのばして様子をみることをわが公に請うた。
 飄斎はまた、そのことを伊勢の人世古格太郎に知らせた。格太郎はまた、それを三条実美卿に告げた。そこで卿は、格太郎をつかわして、わが公に逮捕の中止をもとめた。

 



 飄斎の自殺     しかし公は、浮浪の徒がたとえ幾百人いようとも元来烏合の鼠輩、なにほどのことでもないし、たとえ彼等が強力であっても、国家の典刑は正さねばならないと思った。
 また、わが藩臣のうちでは、機密に参与している者で、飄斎が密事を世古に漏らしたことを怒り、赦すべからざることだとするものがいた。そのことが飄斎にきこえたので、飄斎は自殺をはかった。
 これはもともと永吉らの流言の策で、飄斎をうごかして、これを奉行に通報させて、浪人狩りを止めさせようとしたものであった。それとはさとらず、飄斎は騒擾の患いをまねくのを恐れて進言したのだった。機の言から、暴徒の所在をつきとめ、逮捕を町奉行に命じ、またその部下の与力同心らが浪士を怖れて失敗することを慮って、賊一人に対して上士二人、下士二人、足軽三人の割合でわが藩士を配置せしめて、与力同心の力をかりずとも、わが藩士のみにて十分逮捕の実力があがるように期したのであった。

 



 浪士を逮捕     二十六日の夜半、逮捕の諸隊は黒谷を発し、その一隊は、久佐衛門の住居のある満足稲荷神社前にむかい、他の一隊は、祗園新地の妓楼奈良屋にむかった。
 祗園では、綱一郎、建一郎、勇太郎、真古登を機といっしょに捕えた。満足稲荷神社前に行って久佐衛門、元太郎をたずねたが見あたらず、その隊を移して、二条衣棚(ころもたな)の綱一郎の寓居にいたり、節斎、趙之助、建之助を捕えた。佐多男は自決した。つづいて、郁三郎を捕え、永吉をさがしたが、姿がない。久佐衛門と善六とは、その後に、近江で逮捕された。

 



 伝奏衆に報告     翌二十七日、わが公は、その顛末を伝奏衆に上奏した。
その大意は、本月二十二日夜、言葉を尊王の大義に託し、足利三将軍の木像の首を抜いてこれをさらしたものを、昨夜捕えたが、彼らの所為の残逆なるさまは、墓をあばいて屍に鞭うつに等しい。足利氏については世の議論があるといえども、当時、朝廷が大政を委任し、官位を賜わったもので、これをはずかしめるのは、すなわち朝廷を侮辱するものである。加うるに、彼らは、表面足利氏に口をかりて、幕府を侮辱したのである。もし彼らの行為が尊王の衷情から出たものとするならば、さきに、言路洞開、草莽微賤の者でも進言をゆるしているのに、その令を奉ぜず、このような兇暴をあえてなすはずはない。これはじつに、上は朝憲をあなどり、下は、臣子の本分を忘れたものであって、日ならずこれを厳刑にするということであった。

 



 犯徒を寛典に処す     実美卿一派の堂上の人々はふかくこれを憂い、なんとかして、その罪をゆるめさせようと努力した。総裁、後見職も、大庭機の心事をあわれみ、これを救済しようと、特に町奉行をよんで、天保年間、大塩平八郎の隠謀を密告した某【注三】の例にならい、機をゆるすべきだと論じさせたが、わが公は断乎としてこれに従わない。そこで、衆議で、これら浮浪の徒を諸侯のもとに禁錮することに決した。
 わが公が機の特赦の議に従わないのをみて、両職がことさらに、ことごとくのものを寛典に処するようにはからったとの説もある。すなわち、大庭機と諸岡節斎とを信州上田藩主松平与十郎忠礼の家臣に、青柳健之助、建部建一郎を伊勢久居の藩主藤堂佐渡守高聰の家臣に、長沢真古登を遠江横須賀の藩主西尾鎰之助忠篤の家臣に、野呂久左衛門を越前勝山の藩主小笠原左衛門佐長守の家臣に、三輪田綱一郎を但馬豊岡の藩主京極飛騨守高厚の家臣に、宮和田勇太郎を伊勢薦野(こもの)の藩主土方聟千代雄永の家臣に、いずれもあずけられることになった。

 



 長尾郁三郎     ついで、七月十日、伝奏飛鳥井雅典卿から書をもって左のことを令せられた。

先達て、木首の一件にて召捕られ候浪人、おいおい大名へ、それぞれ預け申しつけられ候由、そのうち郁三郎儀は身柄も相違の由に候えども、やはりほかの浪人同様、大名へ預け申しつけられ候よう、よろしく取りはからわれるべきこと。

 長尾郁三郎は京都の富商で、かつて俳幕の堂上のために、その窮地を救ったことがしばしばあるので、これを禁獄させるのに忍びず、幕府の法令が、士分と町人であつかいのちがうことを知らず、一片の私情からこのような令書をだしたものであって、当時の縉紳家が国家の制典に無知だったことは、およそこの類のことが多いことでわかる。(郁三郎は、その後京都六角の牢に入れられていたが、翌年七月、戦乱の際、丹羽出雲らとともに斬罪になった)。
 この時また、町奉行から、あまねく洛中、洛外に発令があった。
 その大意は、彼の浪士らのごとく、大義名分に名をかりて、私意をはさみ、朝廷を侮辱するものは、いっさいこれをゆるさないが、真に尊王攘夷を志すものは、もとより朝廷、幕府においても嘉尚するところであるから、いよいよその志を励むように。ただし、みだりに過激に走り、騒擾を起すものは決してこれをゆるさないということであった。はじめ京師の人らは、わが公が浪士に対して寛大なのをみて、あるいはこれを疑うものも多かったが、ここに至って、その真意がどこにあるかをさとり、こぞってわれわれに依頼するに至った。

 



 学習院問題     二月二十五日、伝奏衆がわが公に勅旨をつたえて、学習院内があまりに狭隘であるから、わが藩士守衛の建物を新設すべしとのことであった。
 そこで、その計画を立てているところへ、またさらに評定所を設けて、あまねく公卿諸侯を会し、天下の訟獄を決断させるようにする。その建物の造営が間に合わないあいだは、学習院をそこの場所にあてるとの内旨がつたえられた。
 その時、長門藩は君臣ともに、足利三代の木像をはずかしめた浪人たちの罪をゆるすことを主張し、ついに、伝奏衆が、総裁職に書をよせて、前日、守護職の捕えた足利三代の木像をはずかしめた者たちは、その心事を酌量すればじつに正義の士と言うべきで、これを逮捕したことがよいことか、わるいことか、また人心がそれに服するかどうかを問わず、ともかくその刑期をゆるすべしということであった。
 わが藩士は、これをきいて沸然として、朝廷は彼らを正義とし、捕えたわれわれを不正と考えている。いやしくも兇暴を行うものをもって正義とするならば、国家の典刑はどこにあるかと息まき、なかにも、逮捕に直接あたった年壮血気の輩四十余人は、ことごとく正服して伝奏衆野宮定功卿の邸に集った。
 卿が病床にあったので、その臣大下右兵衛尉と会って大いに論ずるところがあったが、わが藩士の言い条がもっともであるということになり、卿の病気がなおり次第参朝して弁明することを約した。
 わが藩士らは、その足で学習院に詣り、三条西李知卿、姉小路公知朝臣、壬生基修朝臣、中山忠光朝臣らに謁し、左の書面を呈し、その所懐を述べた。

去月召捕り候浪士の輩は正義のきこえこれあり候ところ、そのままに相成り候ては人心騒擾致し候あいだ、召捕り候者ども早々出牢させ候よう仰せ出されこれありやに候ところ、右の者ども先般肥後守の申し上げ候通り、人臣至極の官位を蔑如致し候段、天朝を憚らず、この道一度相開け候わば、恐れながら、宮堂上の御方に対し奉りいかようの非礼相加え候ように成りゆくも計りがたく、余儀なく召捕り候儀にて、もとより至当の事に候。然るところ、彼らを正義の者と仰せ出され候は、なんたる件をお指しなされ候や、恐れながら、主上には御聖明にあらせられ候えば、断然右様の御沙汰これなき筈と存じ奉り候。
されば、なんたる訳柄(わけがら)にて右様の御沙汰御座候や。その根元承り届け、重大罪科にかかり候所置、公平の次第言上し奉り、至当の御沙汰下されず候では、壮年必死の輩、なにぶんとも居りあい申さず、ついに藩籍を脱し、いかなる恐れ入り候儀を生じ候も計りがたく候間、なにとぞ正、不正の間明白にして、天下後世の疑惑これなきよう御所置下されたく、私どもにおいて嘆願し奉り候。以上。(三月六日)


 諸公卿もその言葉に理があるので、争うこともできず、時にわが公は多事で、連日二条城にあったが、これをきいて大いに驚き、急に外島義直をつかわし、これをおさえさせた。
 義直がきてみると、衆はまさに、坊城俊克卿の邸にいたって弁疎しようとするところであった。義直がわが公の命を伝えたので、やむなく退帰した。義直はそこで、学習院の吏員某に会い、わが公の意から出たことでない由を謝して帰った。総裁職もまた書面を伝奏衆に送って、浪士どもを正義とするゆえんを知らず、いやしくも正義の士が兇暴の処為をするわけはない。これをあえてするは、すなわち不正の徒の証拠である。ゆえに断じてゆるすべからずと、辞気凛然たる申し分であったので、ついに事はそのままになった。
 事のはじまりは、さきに浮浪の徒が王政復古を説き、大内裏を造営し、評定所を設くることを論じ立てたが、そのときは公卿達が耳をかさなかったのに、いま急に学習院に評定所を授ける論が起ったのをしおに、彼の暴徒たちの特赦のことをとりあげようという密計に出たのだという。

 



 英国軍艦来る     そのころ、将軍家の入京がま近というので、翹首(ぎょうしゅ)してこれを待っていたところ、江戸から急報があって、英国軍艦数隻が横浜に来航し、去年武州生麦駅で、島津三郎のために英国人が殺害されたその復仇として、同氏の首級【注四】を渡されたい、もしそれができなければ賠償金をもらおうと言ってきた。
 そのほか、江戸御殿山の館の焼討ち【注五】、または外国人殺傷【注六】のことなど数件を合わせて、その賠償金を幕府に要求してきて、事はなはだ急である。わが応答によっては、ただちに兵端をひらきかねない先方の勢いであるということであった。
 そこで二月の二十八日、後見、総裁の両職およびわが公らは評議し、英国が日限を切って返答を迫ってきているが、将軍家旅行中ということで、うまく条理を立てて応待させるため、まず大目付竹本甲斐守にその旨を授けて、東下せしめた。
 すぐさま総裁職は参内して、英国軍艦来航のこと、竹本甲斐守東下のことを奏上してから、在京の諸藩を二条城にあつめ、この由を告げ、ことによると開戦になるやも計りがたいから、沿海に領邑をもつ職藩はすみやかに兵備を整え、万一に備えるようにと訓令した。沿海の諸藩は大いにおどろき、倉皇として京師を去って帰国するものが多かったので、それでなくても風声鶴唳にもおどろく京師の人心は、いまこの報があって諸藩があわただしく帰国するのを見るにおよび、種子の附会の流言が紛々として起り、甲説乙伝、人心恟々のありさまとなった。

 



 再び物情騒然     これに乗じて、浮浪の徒は、大いに幕府の因循を鳴らし、所々に張札をして、横浜または長崎に行って攘夷のさきがけをするための同志をあつめにかかった。過激の堂上も、これに傾聴して、殿下に迫るなど、すこぶる喧囂(けんごう)をきわめた。
 そこでわが公は、日夜警邏を厳重にして、不慮を戒めた。およそ春以来、わが公の多忙なことは、一つの難題を処理し終ると、すでに数件の難事件が双肩にかかっていて、あるときは禁中および親王公卿のあいだを奔走し、あるときは二条城に徹宵し、もしくは後見、総裁、諸藩の館に駕籠をはせるなど、夜をもって日に継ぎ、ほとんど寧居にいとまなく、その苦心、煩労は筆舌にあらわし得ないほどであった。

 



 【注】
     
【一 足利尊氏以下三代】 室町幕府の第一代将軍尊氏(一三〇五~五八)、第二代義詮(一三三〇~六七)、第三代義満(一三五八~一四〇八)を指す。
足利尊氏ははじめ鎌倉幕府に仕え、後醍醐天皇の反幕計画に参加、建武中興の勲功第一人者とされたが、のち光明天皇(北朝)を擁して後醍醐天皇(南朝)を擁する楠木正成らの軍をほろぼし、一三三八年征夷大将軍に任ぜられた。ために幕末の狂信的な尊王派の間では、尊氏らを逆賊とみなしたものである。

【二 平田篤胤】 一七七六~一八四三。本居宣長の没後の門人で、国学者。国学は、彼の手によって神道的色彩を濃くした。儒教、仏教を外来思想として排撃し、また従来の山王、両部、法華の諸神道をはじめ、渡会神道、垂加神道も、儒、仏の影響をうけたものとして非難し、復古神道を唱えた。その狂熱的神秘的学風は、宣長のあとをうける正統派から嫌われ、和歌、古典の研究を主とする江戸、京都の国学者からも忌まれたが、関東、中部、奥羽地方の神社神官や農村の庄屋層に信奉され、その中から尊王攘夷論を育てるに至った。

【三 大塩平八郎の陰謀を密告した某】 大塩平八郎(中斎)は大阪東町奉行所与力であるが、陽明学者として著名である。彼は、天保八年(一八三七)、米価暴騰して市民が生活に苦しみ、不正をはたらく役人、富商が民衆の窮状をかえりみぬのを憤り、挙兵を計画した。ところが、一味の同心平山助次郎が変心して、これを奉行に内報したので、予定を変じて急に事をおこした。この大塩の乱は一日で鎮定されたが、公然幕府に反抗して兵を挙げた最初の事件として、世人に衝撃をあたえた。乱後、大塩は自殺し、逮捕された関係者は厳罰に処せられたが、訴人平山は罰せられず、御抱席から御普代席へと格式をあげられた。もっとも同時に小普請入、つまり休職を命ぜられたから、賞与とはいえない。

【四 同氏の首級】 生麦事件にたいする英国側の幕府への要求は、謝罪と賠償金支払いとであり、島津久光の首級を得て伝々と求めたという事実はない。

【五 江戸御殿山の館の焼き討ち】 文久二年十二月十二日、高杉晋作、久坂玄瑞、志道聞多(井上馨)、伊藤俊輔(博文)ら、長州藩尊攘派は、竣工まぎわの御殿山英国公使館を焼きうちした。これよりさき、晋作らは横浜居留民を襲撃する計画であったが、実行直前、土州藩前藩主山内豊信、長州藩主毛利定広の慰撫をうけて、企てを中止した。

【六 外国人殺傷】 文久元年の水戸浪士、同二年の松本藩士による両度の東禅寺(英国公使館)襲撃事件で、公使館員・水兵を死傷させた。

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  1. 2012/10/28(日) 11:10:16|
  2. 京都守護職始末1
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