いがぐり史料館

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奥羽列藩の会合

奥羽列藩の会合

 げんに奥羽列藩同盟の起因を討ぬるに、先に朝廷より仙台藩に対してはその藩一手をもって会津を襲撃すべしと命じ、米沢藩に対しては仙台藩を応援して功を奏すべしと命じたり、よって仙台より米沢に使者を発し、討会の事は曲直未だ分明ならざるにより姑くこれを差置き、徳川氏追討の事は朝意甚だ不可なるをもって諌止の建白をなしたる事を告げたるが、これを行違いに米沢より仙台に使者を発し、奥羽連結して東征の不可なることを陳奏すべく、仙台はその盟主となり米沢は列藩に周旋すべしと説きたりといえども、仙台は独力をもってその目的を達せんとし、且つすでに藩士大条孫三郎をして建白書を携え上京せしめたる後なれば、米沢の励告に応ぜず、米沢はこれにおいて他藩と事を共にするの容易ならざるを知り、使者を京師に発し諌書を呈せり、その大要はほのかに聞くに徳川慶喜寛永寺に屛居恭順し、会津容保また国に退き侮悟謹慎せる由なれば、皇威すでに遠近に輝き朝憲凛然として行われたるなり、願わくばこの際山海の度量をもって不殺の聖徳を垂れ、共にこれを寛典に処し、その宗社を存し、速に大旆を返へさんことをと、しかして米沢はこの上書を呈すると共に、その趣意をもって南部、津軽、秋田、山県、上ノ山、二本松、福島、相馬諸藩に使者を遣わし、東征の兵を諌止し、干戈を動かさずして鎮静せんことを協議し、なお越後諸藩にも使者を発して同意を求めたり、その後仙台の建白書は却下せられ、加ふるに奥羽鎮撫参謀世良修蔵、大山格之助等が横暴を極むるに及び、仙台、米沢を始め各藩の同盟を促すに至りしなりる
 仙台、米沢両藩の通牒に接し、その期に臨み各藩重臣の白石に参会せるものは、仙台の但木、坂、横田寛平、玉虫左太夫、米沢の千坂、木滑、竹保、中里丹下、大瀧新蔵、片山仁一郎の外、盛岡藩の野々村真澄、江幡五郎、二本松藩の丹羽一学、丹羽新十郎、守山藩の三浦平八郎、柳沼正介、棚倉藩の平田弾右衛門、梅村角兵衛、中村藩の相馬靱負、佐藤勘兵衛、志賀治右衛門、三春藩の大浦帯刀、小堤広人、福島藩の池田権左衛門、高橋吉三郎、上ノ山藩の渡部五郎左衛門、増田武兵衛、亀田藩の大平伊織、吉田権蔵、一関藩の佐藤長太夫、森文之助、黒羽藩の三田称平(黒羽藩士の列席は疑わし、今仙台戊辰史によりその名を記す)、矢島藩の椎川喜藤太、山県藩の水野三郎右衛門、笹本藤馬等なりき。

 閏四月十日九条総督は伊達慶邦朝臣に左の令を伝ふ。

奥羽賊兵山県へ押寄の報知有之候に付出兵明後十二日迄に繰出早々追討可致候事
 但為応援家老一人可差向候事


 同十一日伊達慶邦朝臣は総督府の亡状を憤り、その臣石田正親をして左の質問を発せしむ。

奥羽賊兵山県へ押寄の報知有之候に付出兵明十二日迄出兵繰出早々追討可致為応援家老一人可差向旨昨日御達の趣承知仕候然るに荘内何等の罪状有之御征伐相成候譯に可有之哉最初御達無之相弁兼尤全体の御趣意不束にては出兵可仕様無之候間委細被仰渡候様仕度候以上
 仙台中将内
  石田正親


 総督府はこれに対して答ふる所を知らざりき。

 この日米沢藩主上杉齊憲朝臣は会津救解の宿志を達せんと欲し、自ら藩兵一千七百余人を率いて白石に至り(この時齋憲朝臣は謙信より伝へたる、紺地に日の丸の旗を立て、陣容実に勇壮なりきと云う)、伊達慶邦朝臣と会見して親しく協議し、後列藩の重臣会す、仙米両藩の藩相坂、千坂等両藩の意を受け陳べていわく、今般会津藩より歎願書を呈せしに就き、その国情を探るに謹慎恭順降伏の情状疑うべからず、よって仙米両藩主は会津救解の書を副へて総督府に呈さんとす、各藩同意ならば歎願書に署名せよと、これにおいて仙米両藩重臣を始め列藩の重臣等皆これを賛成署名せり、両侯のその救解の書は左のごとし。

討会先鋒被仰付両国共出兵罷在已に仙台先手勢及接戦候処今般降伏謝罪の義容保家来共申出候に付仙台国境問罪督責為致候処伏見暴動の一挙は畢竟兼て示方不行届より全く卒然に発して奉驚天朝候段至極恐縮の至り容保義は帰邑退隠の上当時於城外恭順謹慎相尽し頗る前非を侮悟罷在寛大之御処置成下候様別紙歎願書通家来共申出候間益天朝之御仁徳奉感戴候様御処置置奉仰望候会津国情等之義は委細演説を以て申上候通に御座候間御汲量寛典之御沙汰被成下候様一同奉懇願候以上
 閏四月十一日


 その奥羽列藩重臣の連書歎願書左のごとし。

此度会津征討被仰付各藩出兵已に仙台先手勢及接戦候処容保家来共降伏謝罪之義申出仙台国境陣門に於て糺明相遂候処伏見暴動の義は全く異心等有之義には無御座候へ共事皆倉卒に発し奉驚天聴候段深く恐入其節の先手隊長は別て謹慎申付置奉待御沙汰如何様共処置仕候由に御座候畢竟容保兼て示方不行届之所致候段至極恐縮仕当時城外に於て恭順謹慎相尽先非侮悟罷在家来共歎願書を以て申出降伏謝罪仕候上は幾重にも寛大之御処置被成下至仁之聖恩奉感戴候様奉仰望候尤当時王政御一新之御場合にも被為在候へは何分不被為動干戈人心の向背をも深く可被為有御汲量御時節と奉存候勿論春夏之間は農時の甚急務とする所に有之自然民命の大に所関係に御座候間是等の義共篤く御諒察被成下今日之事は只に会津孤国のみの御処置と不被為思召寛大之御沙汰被成下候はゝ実以奥羽御鎮撫之道赫然被為立候様偏に存込列藩衆議相尽し奉懇願候尚又連名外の輩は駈付次第可申上候恐惶謹言

 しかして会合の期に遅れて到り署名せし列藩重役左のごとし。

秋田藩の戸村十太郎、新床藩の舟生源右衛門、平藩の三田八郎、本床藩の六郷大学、泉藩の石井武右衛門、湯長谷藩の茂原肇、下手渡藩の屋山内記、上杉駿河守家来江口俊蔵、弘前藩の山中兵部、八戸藩の吉岡左膳、

 閏四月十二日伊達慶邦朝臣、上杉齊憲朝臣は岩沼に至り九条鎮撫総督に謁し、三通の歎願書を上り、親しく実情を開陳す、総督はその願意を至当としてこれを受け、且ついわく、この事は参謀に諮問して決すべければ数日を要すべし、仙台に至りて処置の決定を持てと、この日総督は仙米両藩主と坐を共にし、奥羽列藩の重臣を召していわく、皇国の大勢挽回の大策を立てんことを期すと、慶邦朝臣、齋憲朝臣以下辞して帰る。
 梶原平馬等湯ノ原(白石より米沢並びに上ノ山に至る街道に在り、仙米領の界に近し)に至りてその消息を待ちたりしに、十五日横田官兵来りてその状を告ぐ、会々上杉齊憲朝臣岩沼より帰り千坂太郎左衛門従う、平馬等の在るを聞きて密かに来り告げしめていわく、寡君の白石に至るや直ちに仙台侯をその旅館に訪ひ、両藩の家老を列坐せしめ、大に天下の形勢を痛歎し、共に奸賊を除き皇国の頽勢を挽回せんとして哀訴嘆願すべきを約し、ついで会合の奥羽列藩の重臣を引見して盟約の重ずべきを諭さる、仙米の家老は更に別席を開きて共に向背を議せしに、列藩皆大に世良の暴戻を悪み、あえて異議するものなかりきと云い、了りて太郎左衛門は杯を挙げ奸賊を除かんことを揚言したるに衆皆快哉を呼び奮激言動に現れたり。
 この日仙台藩相坂英力は密かに書を梶原平馬に致し、西軍進んで白川城に入らんとするの警報を告ぐ。

向暑の節に御座候得共弥御清穆の御事と奉駕候然者御依頼の周旋方一旦総督府にて御受取相成居候へも御聞濟の模様は更に見詰相立不申甚困却之至り此上は過日拝話致し置候通の御処置相成候外御座ある間敷何分御尽力可被成候将た江戸より千五百人の兵卒早速罷越候様白川口より世良修蔵差配りを以て早打相起候事に相聞へ申候間可相成は右口より不迫内御拂被成候はゝ可然と存候条尚御勘考夫々御手配の程専要に奉存候総督府御都合振は委細米沢藩より可申達歟に候間草略仕候謹言

 参謀醍醐少将は十日をもって進発し、九条総督は十一日をもって進発し、共に白河城に転陣するを告ぐ、白河城は文政六年以来世々阿部氏の守る所たりしが、正静に至り慶応三年正月棚倉に移るにおよび幕府の直轄となり、二本松丹羽氏の監守となりしなり、たまたま伊達、信夫両郡の人民数百名哀訴する所ありしと称し、まさに福島城に迫らんとす、元来この両郡は養蚕をもって生計となすの地なり、しかるに春来人馬の徴発糧食の輸送頻繁にして農桑に従うこと能はず、ほとんど飢餓に瀕したるによる、すなわち福島の仙台藩軍事局より泉田志摩、真田喜平太、姉歯武之進等出でゝこれを鎮撫して退かしめ、この日総督府に報告す。

当今福島近傍百姓共歎願之筋申立多人数相催蜂起仕候に付先以福島にて取押申諭相鎮置候処既に五百人程人数駈集り尤弥増蜂起難止形勢に相見得申候由同所出兵の軍事方真田喜平太等より只今申越候右一揆蜂起の品柄不相分候間猶糺問仕候上何分取鎮及手段委細の義は追て御届等も可仕候得共一応御届仕置候以上
 閏四月十二日 仙台軍事局


 これにおいて九条総督はその進発を止む。

{一説にいわく、時に我が兵白河城に入るの方略已に成る、しかして総督府これを知らず、仙台の参謀泉田志摩、石母田備後、真田喜平太等福島に在りしが、密かに瀬上主膳、軍監姉歯武之進を招き相議していわく、本月二十日会津の兵白河城に入るの策略あるに、今醍醐少将をして同城に入らしめ、万一衝突するあらば事態更に困難を来さん、しかれども事実を告ぐべからず、むしろ非常の手段をもってこれを止むるにしかず、今や方に農桑の盛時にして、伊達、信夫二郡の人民軍役に苦み、進軍の猶余を哀訴するに至る、この機に乗じ人民を煽動して紛擾せしむるにしかずと、これにおいて主膳は近村の壮士を集合せんがために馳せて岡村(伊達郡東湯野村大字岡を云うならん)に至り、武之進は荒井村(信夫郡荒井村字荒井を云うなるべし)近傍に奔走して五百余人を集め、これを福島須川(福島の西より流れ来り、福島にて阿武隈に合流する小河なり)の河原に留め、武之進は主膳と共に仙台藩軍事局に出で、志摩、喜平太にその状を告げたれば、志摩等出でゝ哀訴の趣旨を聴き、更に武之進をして諭してこれを退かしめ、これを総督府および醍醐少将に報告す、少将は驚愕して果たしてその行を止む、志摩等ひそかにその術策の成れるを喜びしと云う。(七年史、仙台戊辰史)}

 これより先仙台大隊長佐藤宮内白河城に在り、世良修蔵牙城に入り、急に勢至堂口より兵を進めて会津を討伐すべきを命じたるに、また伊達慶邦朝臣は白石城より令を発してその進軍を止めしかば、宮内は急に白石の本営に協議すべき事ありと称し、兵を伊達弾正の参謀高城左衛門に托して白石に帰る、宮内の白河城に在るや、会津国境の地理を検せんとして岡崎兵右衛門、赤井大治を従え勢至堂口長沼に至り、一茶店に憩う、会々士人両三輩の別室に在るを見、主人を呼びてその藩名を問いたるに、水戸藩なりと答ふ、しかれどもその会津人なるを知り隊長に会せんことを求めたれば、隊長木村熊之進来り会す、宮内いわく、朝命により兵端を開かざるを得ざるは実に痛心に堪えず、公等よろしく力を謝罪の事に尽くすべし、熊之進いわく、薩長二藩朝威を挟みて兵を我に加へんとす、しかして貴藩と弊藩と特に宿交あり、貴藩の深慮を希ふと、未だ得る所あらずと辞してまさに去らんとす、熊之進起ちて宮内を止めていわく、停戦の策は世良修蔵を斬るを得ばすなわち可なりと、両人相看て頷き再開を約して別る、後数日宮内、兵右衛門、大治を飯土用に遣わし熊之進に告ぐるに十九日出師を止むる事を以てす、熊之進盃を取り出し兵右衛門に贈りていわく、これをもって足下と会見せるの証左とせよと、兵右衛門等帰りてこれを宮内に報ず。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1



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  1. 2013/01/25(金) 10:22:12|
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