いがぐり史料館

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世良修蔵を誅するの議

世良修蔵を誅するの議

 閏四月十四日宮内は白河より白石に来り、総督府付仙台藩参謀大越文五郎に面していわく、会津藩には世良修蔵を誅する意あり、世良を誅するは実に奥羽の平和を計るの策なり、藩命を受けて後行はざるべからずと、文五郎もまたこれを然りとし、共に家老但木土佐に面して受議す、土佐いわく、卿等これを計れと、これにおいて宮内大に決する所あり、翌日土佐を見ていわく、国家の為に奸賊を誅せんとす、事の成否は問はず責予にあり、決して累を藩に及ぼさずと、文五郎と福島に会することを約し馳せて福島に赴く。
 九条総督が会津の歎願を容れるゝ意向あることは、十二日仙米両藩主より歎願書を受理するや、翌十三日急使をもって羽州在営の澤副総督および出張中の醍醐参謀に各々書面を発して協議せるによりて知るべし、両書面略々同一意味にしてその醍醐少将に贈りし書面左のごとし。

態急使を以て申入候薄厚の節に御座候処愈御安全御在陣珍重奉存候扨作十二日申刻当本陣へ仙台中将米沢中将入来面会及候処会津謝罪降伏之儀に付別紙寫三通之通且演舌にて容保儀は恭順謹慎は不及申開城可致心底之処兎角激徒共内乱を生じ官軍へ対し如何成不法仕候も難計右様之事出来候ては愈以容保罪難遁心痛仕候間何卒寛大之御処置を以て城地は勿論暴臣之首級可差出次第にて謝罪被聞食蒙御憐愍候はゞ朝恩感戴候旨被申述候仙米両藩にも容保歎願之趣意共々奉願上候旨に付下官右之三通熟覧勘考候処迚も採用可致様にも不被存段々開城及談判候得共此儀於両藩是迄度々懸合及候も甚六つけ敷趣に付右別紙三通速返却候処再歎願之筋は右御取上不破下愈討会に相成候ては両国之人民及難渋蜂起之徒追々出来之様子も有之鎮静討罰多端に成行各藩及疲幣には社稷難保場合にも至り勤王の赤心も届兼却て恐入候次第に至候間何卒会津歎願に不拘各藩之願を以て奥羽人民安堵為致候思召を以速に御裁許伏而願候右事情を以下官窃致熟考候処当節之形勢各藩向背難計模様被察自然激徒騒乱出来候はゞ鎮撫職掌御互に難相立のみならず諸方之人気にも相拘はり却て奉安宸襟奏功も前途難見定徒に費歳月而已一応御相談の旨を以て昨夜の処四五日延引の段及返答候間前条御深考の上急々御返答承り可然取計心組に候也
 閏四月十三日
二白世良修蔵へも可然御申入希候


 この日参謀世良修蔵は出張先の本営に於いて、九条総督より送付せる会津歎願書、仙台米沢両藩主救解書および奥羽列藩重臣歎願書を見て使者(九条家諸大夫鹽小路刑部少輔)に言っていわく、会荘討伐の延引するは要するに二藩の兵共に勇強にして仙米諸藩の兵共に怯弱なるによる、この際一旦総督府において歎願書を受理したる以上はこれに対し確乎たる指令なかるべからず、すなわち容保は朝敵天地容るべからざる罪人なればその降謝を許さず、各藩速やかに進軍奏功すべしと指令せらるべし、諸藩これを見て必ず不服沸騰すべきも、その時は陽はに甘言をもって、これ単に奥羽鎮撫総督の指令に過ぎず、総督府は不日白河に転陣し、東京大総督の着陣を待って奥羽諸藩の情勢を説き、相協議して静謐を図るべしと慰撫し、以て一時を糊塗し、しかしていよいよ転陣の後は官軍陸続群至すべきをもって、更に軍議を開きて進軍し、賊を皆殺しすべしと、使者帰りて総督に復命して、十七日(令書日付は十五日なりとも云う)総督府は仙台、米沢両藩に左のごとく発令せり(防長回天史引用の鹽小路手記)

今般会津謝罪降伏書并奥羽各藩歎願書被差出熟覧之処朝敵不可入天地之罪人に付難被及御沙汰早々討入可奏成功者也
 鎮撫総督


{防長回天史著書は、前記のごとく鹽小路手記を引用しながら反つて鹽小路手記の精確を疑い、且つ仙米二藩への令書に疑を挟みて評論を試み、「此起案者を世良とせず、総督の諸大夫鹽小路等が但木等に飜弄せられたる結果にあらずやとの想像は、けだし強からざるを得ず」と付記せり、著者の引用せる鹽小路手記に見るに『世良被申候には中略去る十二日仙二中将参陣会津降伏謝罪歎願書差出し一先御預りに相成候上は何とか返答不致ば不相成右返答も曖昧之事も不被申名義不失様之返答断然御達し被成下度就ては文言被取綴朝敵不可入天地之罪人に付不被為及御沙汰早々討入可奏成功旨之御返答御達しに相成候はゞ定て不服沸騰可致哉も難計其節品能御申述被成前顯御達申候は督府名義のみ之事にて全くは兎角白河口へ転陣致し早速東京大総督参着奥羽両国の国情逐一申陳事精謐之取斗可申旨品能被申聞此場を透し白川へ御転陣被成候はゞ官軍も追々彼地へ繰込にも相成左様候はゞ更に軍談を決し速に打込可奏成功事に候と内外懇々被申含候委細承り午前十時頃同所発し帰陣二本松本営之間にて醍醐家に御出逢申し世良演舌申上直に発し十六日岩沼へ帰陣仕早速道孝へ申入翌十七日夫々去る十二日仙米より歎願書返答但木土佐呼出被達候処云々』とあり、これによれば世良仮令令書に筆を執らずとするも、世良の意見は全て採用せられたるなり、しかるに著者はこれを疑うて止まず、しかしてこれを破るの反証を挙げず、これ俗にいわゆる強いて白色を指して黒色と做すの類にして、到底読者を承服せしむる能はざるなり。
また同著者は極力世良を弁護して『世良は絶対に会津の降謝を許さずと言いしことなし、謝罪降伏には自らその道あり宜しく白河の軍門に於いてすべし、二三藩陰密の交渉を以てすべからずと言うにあるのみ』と云うも、世良が会津の降謝を容るゝの意思なきことは、世良自ら権謀を鹽小路に漏らせし言によって明知すべし、いわんや奥羽鎮撫総督が降謝を拒むの権能あらば、従って降謝を許すの権能を有し、またはこれを取次ぎて白河に送致するの便法を執るべきものなるに於いておや、故にもし世良が降謝は白河に於いてすべしと云へたりとせば、人をして徒らに奔走に疲かれしめ、その間に進軍の準備をなさんとするものにして、以て世良が当時絶対に降謝を容れるゝの意思なかりしことを証すべし。}


 閏四月十七日仙台藩相但木土佐は左の書を総督府に呈す。

中将家来去る十五六日頃より段々脱走仕候者十七八人有之早速尋申付候得共末た行衛相知れ不申候処此節に乗し軽挙暴動仕候哉も難計且名元等の義も相分次第追て取調可申候へ共不取敢御届申上候以上

 時に仙台藩士坂本大炊、遠藤久三郎等、藩相坂、但木に建言していわく、会津の歎願を納れざるは世良の拒むに由ること列藩皆これを知る、故に我が同志にしてもし暴挙に出る者あらば、更に時局を困難ならしむるの恐れあり、よって世良に説くに国論沸騰の状を以てし、会津の哀訴を納れ、列藩をして暴威を収めて平和に局を結ばしむるを得ば、何の幸かこれに過ぎん、足下等成算あらばこれを計れと、二人直ちに白石を発し、馳せて白河に至り、世良を見て利害を説き、会津の哀訴を納るゝの至当且つ急務なるを論ず、世良冷然としていわく、哀訴も解兵もこれを了承せり、醍醐少将に謀りて令する所あるべしと、胸裏別に画策する所あるものゝごとくなりき。
 閏四月十八日仙台佐藤宮内、大越文五郎相会して世良修蔵斬るの策を議す、文五郎いわく、上紅下白の旗を樹てゝ修蔵の在る所を表示すべし、これを見て突撃すべきを会藩に報ぜよと、時に白河本営の仙将真田喜平太より宮内に報じていわく、今や大炊、久三郎白河に来りて周旋中なれば世良を誅戮することを中止せよと、二人議協はず、宮内は白石に帰る、文五郎は松崎宗七郎、戸田主水(主水、九条家を脱してより、いづこに在りしか詳ならず)をして我が守将に告げしめていわく、坂本、大炊等白河に出でゝ周旋す、請う暴挙をなすなかれと、二人帰りて会兵白河城を襲うの形勢あるを報じたれば、直ちに宗七郎をしてこれを福島に報ぜしむ、この日新井義右衛門、玉蟲左太夫、白石の本営に来り、但木土佐、坂英力と会談す、土佐、英力いわく、今や国論一変すべきの期に至れり、会津の為に哀訴すれども総督府はこれを容れず、また奥羽列藩は会津を討伐するを欲せず、皆西軍参謀等の暴慢侮辱を悪み、その士卒の跋扈を怒り、西軍は名を王師に仮るも実は姦賊なり、速やかに会津征伐の師を旋へし、西軍を撃攘すべしと論じ、その勢制しべからず、且つ世良修蔵等徒に奥羽諸侯を凌辱するのみならず、九条総督をも慢罵す、そのなす所を見るに、会津征伐は決して宸衷より出づるにあらざること明らかなり、これによって策を決し、東方より先づ勤王の旌旗を揚げて西軍を討ち、奥羽列藩より王政復古の業を成し遂げざるべからず、故に京師に建言するの書、および国内士民に布告するの書を起草せよと、新井義右衛門いわく、時勢止むを得ざるに似たりといえども、今日の形勢に際してこのごときの大業は成ること能はざらん、英力いわく、事機神速を尚ぶ、遅疑すべからずと、辞色共に厲し、義右衛門等止むる能はず、その書を草す。
 瀬上主膳は世良が福島に来るべきを知り、この日丑の刻、姉歯武之進、岩崎秀三郎を伴い土湯口、荒井、鳥渡(取渡は土湯口に至る街道にて、信夫郡鳥川村に在り)の陣を出で福島の仙台軍事局に入る。
閏四月十日伊達慶邦朝臣、上杉齊憲朝臣は左の書を九条総督に呈し、時局紛糾の状を告げ、一旦解兵して戍兵を置くに止め、更に衆議を尽くし善処せんことを請う。

今般会津容保降伏謝罪の儀家来共歎願申出候に付国情等の儀委細演説の上寛大の御沙汰被成下候様過日奉懇願候処朝敵不可入天地罪人に難被為及御沙汰早々討入可奏功旨御達之種承知仕候固より降伏謝罪顕然の事にて降者は容れ拒者は討候こそ王者の兵に有之殊に更始御一新之砌被為動干戈候儀は於天朝必不被為好征討総督府より御沙汰相成居候次第も有之此上押て御征討の命被相下候儀乍恐公明正大之御処置如何と奉存候加之当時農桑繁盛の折柄諸藩数万の出兵万民徴発転輸の苦に不堪既に処々一揆等相起候勢実以不忍聞見最早蒼生塗炭に陥候間是迄出兵の分番兵のみ差置解兵仕り猶又衆議相尽奉伺太政官候外他事無御座候間此段御届申上候以上

 この届出に対し総督は即日左の令書を発せり。

会津容保降伏謝罪之儀歎願之種京師へ可申越候間追而何分之沙汰有之迄は其藩諸攻口出張兵番兵差置自国之境内へ可引退候事

但白河口近辺諸口会境外に於て浮浪之者会藩と偽り農家へ押入金銀盗取或は所々屯集御領等へ種々回書抔致候由相聞候間探索之上守衛兵を以て早々帰攘可致候得共尚会藩よりも精々取押候様手堅可相達候事
 辰閏四月


 右令書は過日の朝敵天地に容るべからざる罪人なれば降者を許さずとする令書に対し、また矛盾するものなるが、総督府は先に世良の意見を容れて進討を令したるも、爾来数日間において諸藩の事情により、会津の歎願は一応京師に受申して指揮を仰ぐことに変更したるものゝごとし、なおこの事に関し後に記する所あるべし。
 世良修蔵は十八日白河を発し、十九日早朝八丁目(信夫郡松川町の旧名なり)本陣に在りて醍醐少将と会見して密議し、未の半刻を以て福島に入る、瀬上、姉歯等好機逸すべからずとし、奥羽生民の為にこれを誅すべしとの議を決し、武之進は福島藩に交渉しこれを大越文五郎に告ぐ、文五郎いわく、彼を誅する事はあえて異議なしといえども、彼れ会津の降を容れんとするの意あるがごとし、故に先づ白石の本営に報じ、指揮を待ちてこれを誅するも未だ遅しとなさず、主膳いわく、この議すでに決せり、命を請うを須ひず、文五郎いわく、余が帰らざる間は事を発するなかれと、投機隊長櫻田敬助、文五郎の議を賛し共に白石に赴く、主膳、武之進を招きてこれを告げ文五郎等の帰るを待たしむ、武之進黄昏主膳を訪ひていわく、世良修蔵機密の書翰を秋田における参謀大山格之助等に送らんとして、密かに福島藩鈴木六太郎を招き、人を選びて明日拂暁出発すべきを命じ、且つこれを仙台人に洩らすなかれと云うを聞けり、主膳いわく、仙台人に洩らすなかれの言甚だ疑うべし、偵察を怠るなかれと、福島藩もまたこれを怪しみ、六太郎に命じていわく、世良書翰を交付せばこれを瀬上主膳に送致すべしと、しかして武之進はなお人員の足らざるを恐るゝが故に、主膳は岩崎秀三郎をして更に投機隊士田辺覧吉、赤坂幸太夫を選びて武之進の命を受けしむ、この夜酉の刻を過ぐる頃、我が藩中根監物、辰野勇来り主膳を訪ひ、土湯口の守将一柳四郎左衛門の命を伝えていわく、列藩の兵を解くに至れるは一に貴藩公の力による、これを謝せんが為に貴藩軍事局に出頭せしも泉田氏不在の為め面晤すること能はず、故に諸君に謝すと、戌の刻ころ福島藩より世良より大山に輿ふる密書を送致す、これを披き見るに左のごとし。

引続御配慮奉察候其御地も追々賊退散に付日々御進軍想像致候扨右賊退去の事に付昨夜仙台坂本大炊と申者態々白川へ申来候には今般会津降伏謝罪に付荘内へも早々兵を引退謹慎可然段内使差立候故引揚候訳にて何れも官軍御勢相増候故逃去候儀には無之彼多勢の賊徒中々急に引取候訳には無之候間此段報知致置候との事に御座候実否は不相分候へ共申上置候就ては十五日御仕出の御書面今暁本営へ到来拝誦大に安心仕候先達以来噂相聞候会賊降伏謝罪歎願書三通過る十二日仙米両中将岩沼へ持参且演舌を以申陳候には容保儀恭順謹慎は勿論開城可致心底之所兎角激徒内乱を生し官軍へ対し如何様の不法仕候も難計左候ては弥容保罪難逃心痛仕候間何卒寛大之御処置を以て減地は勿論暴臣共之首級可差出之次第にて謝罪被聞届朝恩を奉感戴候様致度且両中将も歎願申述候右御取上無之弥討会に相成候ては両国の人民及難渋蜂起の徒追々出来鎮静謝罪多端に成行各藩疲幣終には社稷難保場合にも至り勤王の赤心届兼却て恐入候次第に付何卒会の願に不拘各藩の願を以て奥羽両国の民安堵為致候様思召を以て速に御裁許奉願度段申出一旦総督にも右三書差返し相成候へとも右段之訳を以て総督を要し夕七ッ時より夜九ッ時迄詰居先年慶喜主上を奉要の轍(これ何の事を指すや詳ならず、例の捏造の説なるべし)決而会の指図と相見得可悪之甚しきなり遂に不得止御取上に相成候由にて当十五日白川へ到来有之申候右の訳にて総督府兵力迚は一人も無之押て返せば今日より両藩会に合し候様相成可申少々にても兵隊有之候はゝ押付出来申候へとも迚も六ヶ敷宇津宮兵も追々賊蜂起にて今に不来大に因り申候乍併一日総督取上に相成候を返す訳にも参り不申候間此上一応京師へ相伺奥州之情実篤と申入奥羽皆敵と見て逆撃の大策に致度候に付乍不及小子急に江戸へ罷越大総督府西郷様へも御示談致候上登京仕尚大阪迄も罷越大挙奥羽へ皇威之赫然致候様仕度奉存候此歎願通にて被相冤候時は奥羽は一二年之内には朝廷之有に在らさる様可相成何共仙米賊朝廷を軽するの心底片時も難閣奴に御座候右大挙に相成候時は拂底之軍艦にても酒田沖へ一二艘廻し人数も相増前後挟撃の手段に致候外致方無之候越後口へも近況可申遣尤も庄内へは急に可打入様可被致候此件々篤と御相談之上取計可申訳に候得共一日長引時は一日丈ヶ俗論沸騰し不忍聞候間千万潜越之至に御座候得共書中にて申上置直に出足上方へ出懸申候間副総督様へも宜敷被仰上可被下候別紙歎願書会と仙米中将名前之分は早々札場へ書出し公然と人に見せ当分人気を静め且又桑折其外へ築立候砲台は今日にては却て賊之固と相成り候故人気鎮静之儀に関係と云う訳を以て悉く崩し候様可申付と奉存候仙も内輸に於て公然と歎願不相叶時は叛逆の話も致居候由勿論弱国二藩は不足恐候得共会を合候時は少々多勢にて始末六ヶ敷成丈ヶ二藩は穏便にして可謀尤二藩中にも両三人ッゝの外賊徒魁は無之主人は好人物ならん右御示談旁呈一書候小生出足後は何れも平坂新八郎へ托し少々之事は中村小次郎へ頼置候大体之処は醍醐参謀卿へ申上置申候大抵之事差置候様致度候早々頓首

 後の四月十九日八ッ半時
途中を恐れ福島藩足軽を頼み持参為致申候疎(この字不詳)に候得共御一覧之上御投火可被下候也
大山様 要詞


 一座これを覧て大に怒っていわく、彼れ何者ぞ、苟も鎮撫総督府の参謀ならずや、しかるにそのなす所一も公明正大ならず、欺きて会津の歎願書を納るゝを名とし、各所の胸壁を毀たしめ、殊に奥羽を皆敵と見なし、酒田沖に軍艦を回航し挟撃の策を運らさんとす、これ堂々たる王師のなすべきことにあらず、夫れ降る者は容れ、抗する者は討つは膺懲の本旨にあらずや、先に寒風澤において我が商船を脅して貨物を奪い、賄賂を貧り、酒色にふけりて横暴を極めたるも猶飽き足らず、今またかくの如し、要するにこれ名を王師に借りて暴威を逞うし、以て私怨を晴らさんとする姦賊のみ、彼れ丑の刻に出発して京師に赴かんとして人馬を促せり、奥羽の後患眼前にあり、機失うべからずと、これを福島藩に交渉す。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1
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  1. 2013/01/26(土) 13:22:12|
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