いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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世良修蔵の殺戮

世良修蔵の殺戮

 この夜福島藩においては、福島町の第一の青樓に盛宴を張り、辞を卑うして修蔵を招きたれば、修蔵大に悦び意気揚々として来り臨む、美酒佳殽を陳ね、美妓席に侍し、欵待至らざる所なし、夜半に至り修蔵押妓と共に樓上の一室に寝に就く、武之進等好時機なるを告ぐ、主膳すなわち福島町の探偵浅野宇一郎を呼び命じていわく、まさに修蔵を捕えんとす、ゆえにこれを助けて遺算なきを期せよと、福島藩遠藤条之助、杉沢覚右衛門、鈴木六太郎、仙台藩姉歯武之進、田辺覧吉、赤坂孝太夫、松川豊之進、末永縫殿之允、岩崎秀三郎、小島勇記、大槻定之進等は浅野宇一郎および彼に属する部下を率いて、子の刻修蔵が宿せる青樓に至りその部署を定め、条之助、孝太夫は修蔵が寝室に侵入す、修蔵大に狼狽し短銃を執って発射せんとしたるも銃丸発せず、衆踊り進みてこれを捕ふ、衆蔵の属吏勝見善太郎は驚起刀を抜いて戦い、ついに覧吉に斬らる、修蔵を主膳が宿せる浅野宇一郎が家に引致し、勇記、武之進は押収せる密書を修蔵に示してこれを詰問す、修蔵辞窮して答ふること能はず自らその罪に服す、翌二十日黎明修蔵が罪状を数へこれを須川の磧に斬る、会津中根、辰野、主膳に言っていわく、奥羽の民久しく害を受くるもの多くは世良一人の為なり、今や幸に貴藩の決断によりてこれを倒すを得たりと、喜び極つて泣きこの首を携えて会津に帰らんと請ひしも主膳聴かず、中根いわく、しからば頭髪を請い得て帰り以て甘心せんと、主膳これを諾せしかば、監物踴踊してその髪を切り、携えて横向に帰り、四郎左衛門に示してその顛末を報ず。
 尋いで主膳は修蔵の首を白石の本営に送致す、たまたま玉蟲左太夫坐に在り叫んでいわく、その首を予に貸せよと、傍人その故を問いたるに左太夫いわく、厠中に携え去つてこれに溺せんと欲す、当時奥羽列藩憤激の一班を察すべし。
 修蔵の死するやその行李を点検して書翰数通を獲たり、左に録するものこれなり。

 大山格之助より世良へ送りし書翰
爾来御壮健被成御出陣引続き御配慮の程奉恐察候陳者総督様にも弥其御地へ御転陣被為在候筈と奉察上候扨は過日仙台米沢両人岩沼へ参陣別紙歎願書持参種々姦計を以て総督府へ奉迫或は宇都宮の賊徒又々守返し相蔓り或は各藩向背抔と申立候段は最速御承知被為在候半と奉存候実に不容易一大事の御場合にて万一一言御採用の御沙汰相発候はゝ二度取返しも難出来殊更手足に汗を握候次第に御座候夫に付澤殿へ別紙の御書面を以て御相談に相成一昨日仙台差遣右仙藩の者甚奸物と被伺桂氏等へも参り(仙台差遣云々より参り迄の文不可解)色々模様等相伺又は澤殿より御返答振の事迄相尋候に付御存慮の事は全く不存旨相答置候過日被仰越候通り弥り両藩此儘に被差置候ては若し策不成時は違勅は勿論会津庄内へ相結ひ反逆たる時は大変の次第に御座候就ては両中将は早々京都大阪の間へ御呼寄被成置両三年の内奥羽鎮撫土台相据候迄は被指留候様に無之候ては実に皇国一変現在相見得候間猶御熟考被下何分にも早々両卿へ御懸合被下候様奉存候尤諸藩重役も今に白石に差留相成候由是非迫り付候十分見留有之哉段々秘策を尽し候筋に御座候(是非迫り付云々より不可解)若京師迄御召の処急速運兼候はゞ指懸り関東迄大総督宮へ御召相成会歎願の儀御糺しと申事にても可然奉存候早く相除き候方専要と奉存候

一、薩藩当方へ差向き候由にて先触相達し大に力を得申候南部の兵は今日明日と待入候へ共今以着の左右無之此兵着次第一時に四方より大挙して討入踏破候賦りに御座候棚倉も先触相見得是は山形へ留置候て同時に六十里越(月山の南麓に在り)へ指向候賦りに御座候

一、佐竹は弥奮発既に昨日より討入候儀作朝由来候

一、京都より申来候芸と有馬の応援如何の都合に御座候哉作朝蒸気船二艘酒田沖平島へ着にて則左竹より物見指出候へ共帆印等不相分候由自然右応援の兵共に候へは別而の上都合に御座候へ共賊の応援かも不相測候

一、松山(山形県飽海郡松山は、荘内の支封二万五千石、酒井大学頭所領す)の儀も弥本藩へ付属出兵此節本導寺(本同寺同所か月山の正南麓に在り)辺にて彼藩の者召捕其後再三重役呼出の儀相達候処種々及強訴候所業此上は不得止事討入可申候左様御聞置可被下候

一、前件の次第何卒速に御評決被下関東へ御懸合奉希候也

右急々要事のみ如此御座候尚此便より其御地の御模様為御知可被下候以上

 別紙

仙台米沢等出頭にて会賊謝罪歎願書三通為見被下且演舌の儀共御細書の趣敬承仕候於下官猶篤と熟考仕愚存の程左に奉申上候

一、抑容保儀奉対天朝実に奉恐入候儀に候へ共最初官軍国境へ押付候節開城降伏暴臣の罪に於ては首級指出候はゞ弥恭順の筋も相立可申御聞届可被為有哉に奉存候国境に砲台を築き官軍を引受防戦剰へ越後路辺諸所へ蔓延兵を募り央(この字詳ならず)表面に降伏歎願申立候儀弥以暫時の難を避候為と被察候只今の形勢を以て歎願御採用鎮撫行届候姿にて御伺の儀於大総督府如何被為思召候哉に奉存候事

二、是迄征討の実効無之仙府御着陣即時より数ヶ度急速討入遂成功候様御達も有之候儀何も承知の通に御座候処種々遁辞申立時日押移り終に農耕の時に至り候儀畢竟仙米等の俗論を醸し候罪と存申候前後を不弁今更農事の苦情申立加之奥羽の諸藩重役衆議を企全く大義名分も不弁候重役等の連判を以て申立の廉々如何被思召候哉と奉存候事

三、御沙汰の通万民の苦実に可憐次第は幾重にも汲量仕追々奉申上候通於当方は引続戦争人馬の費日夜苦慮仕事に御座候乍法不得止の時機に至り若今憐情を以て兵事閣時は何れの時歟鎮撫の職掌を尽し平定の功遂可申哉実に乍二全くは参り兼依ては差向奥羽の農民当年半減収納被仰付候様第一急に被仰立度と奉存候事

四、前件容保歎願の儀は国中一統侮悟謹慎恭順を尽し実効相顕候はゝ国境砲台関門相毀ち開城の上総督府御入城武器御取揚迄行届候はゞ其上死一等を被宥寛大の御沙汰御伺御相当と奉存候事但慶喜の御処置に被準可然候

五、仙米等如何程因循姑息の設を申立候共名分条理不相立儀は決て御動き不被為有様に奉願候何分其御方参謀へ御示談被為在御評決被遊度奉存候事

右五ヶ条乍不束愚意の程奉申上候宜敷御推見奉仰希候也
 副総督

 総督府
尚々当方の儀引続き接戦に及別て人少の守衛不一方骨折に御座候乍不及尽力仕候事に御座候御安慮被遊可被下候扨毎度応援出兵の儀以急飛及御懸合候処即時御達の段拝承仕候得共今以一藩も到着無之候に付ては命令不被行姿にも乍恐奉存候少々津軽人数到着而已実に手薄き次第に御座候仙府へ応援の兵到着も候はゞ都て此方へ差向候様世良へ御相談被成下度尤愚考の程も同人へ御見せ奉希候也

 醍醐少将より世良に送りし書翰
以急使申入候日々御用多察御苦労存候扨去る十二日岩沼本陣へ仙台中将米沢中将等参入総督及御面会候処会津侮悟降伏謝罪の次第歎願に罷出候に付予白石在陣に付総督より御相談に相成候に付其方へも相談可致様御示有之此間無腹蔵至当の儀返答頼入候最総督よりの御示候に付御熟考有之度候小子愚案には会津容保侮悟降伏謝罪の為家来首級可差出の歎願且各藩より共々只管歎願又人民難渋農事共急務の場合に有之趣可憐存候乍去何分於会者実以不可入天下之罪人歎願の家来罷出候趣意にては迚も採用不宜開城引渡し白河表へ歎願の家来罷出候にも不可冤罪人に候得者今般王政御一新日新の御場合に候間採用候ても相済左無くは不済次第かと令愚存候又色々と存候得共急事之故不知右の存心に候其方趣意書付早々返答頼入候総督御見込も御書にて相顕候間両藩へ返答書其方にて認廻し呉候様致度且小子も今日は桑折迄主張実に因循の白石に在陣咄承り候も彼是難渋且荘内賊兵模様により速に出馬の手段も白石にては致兼候桑折ならは順路にも有之速に出馬の手段も出来候且又作十三日午刻過鮫島金兵衛罷来南部兵荘内へ繰替の手段心配致御紋御旗も征討中御貸渡被仰付候に付少しは兵勢盛且此上予より隊長へ沙汰仕候得は一杯励精に相成由鮫島申来頼に付幸いなるや白石出張桑折に在陣且又過日荘内の模様書藤田(藤田町は奥州街道にて桑折町の東北に在り)暁失且両藩家老より届書差向呈候尚南部兵荘内口へ出張に候へは不利は無之と存候間寸刻も総督始白河表へ出張致度存候間偏に手段頼入候何分会降伏次第熟考急速返答待居候也

 後四月十四日未刻
 世良より鹽小路に送る書翰
引続御尽力奉察候然は会津容保降伏謝罪歎願書仙米歎願書諸候太夫連判歎願書醍醐殿より差廻に相成篤と(一書に更にと書す)熟考致見候処一旦御総督御取上ヶ相成候上は何とか御処置不被仰出而は不相済訳に候得共御裁許の事は当地何共御処置不相付事と奉存候間早速歎願書京師へ差登し太政官代に於て御判断を受申之外致方無之に付早々両中将の願書会津よりの願書二通齋藤安右衛門へ以後の御達可被下候奥羽諸侯家来よりの歎願書は別紙付箋して一応御返し早々総督府へ差出候様可相達旨両中将へ被仰付度候扨又明二十日桑折迄も御進軍被為在候儀に候はゞ彼地へ罷出拝謁の上万端申上度候得共未た白石より先に御滞陣被為在候事ならは小子は是より引返し上京万端太政官代へ申上御処置を受け直に罷帰り度候左様御承知被下宜敷御取計頼入候尚巨細は醍醐様より御申越可相成候早々不具


{後四月十九日昼九ッ時
二陳両中将会との二通甚た急き候間宜敷御頼候諸家来よりの願書も早々差出候様御達可被成候何乎別に京師へ御用有之候はゞ被仰越次第相達可申候甚御苦労に存候得共先生御出懸被下候はゞ巨細相分可申と存候僕は福島にて御待申候明暁桑折へ御進ならは夫迄罷出度存候以上}


醍醐少将より総督府に送るの書翰
盆御安泰珍重存候然は過日仙米を以て会歎願の事件不容易に付京師へ伺可致存候間此一紙早々御渡置希入候且各藩共に歎願本紙は此一紙を添御返早々可申出御沙汰希入候何分一同歎願の文も失体の書方に候間各藩主人名を入重役を以て総督府へ歎願可申出様希入候総督公は早々御進軍願入候何れ京師へは世良罷出御処置伺早々可帰候尚世良拝謁の上万々可申上と存候安右衛門を其方為使差向候早々如此候也
 後四月十九日


 右諸書面誤写のためか文意ぜざる所少なからずも訂正の道なければ元の儘になし置けり。
 右世良より鹽小路に送る閏四月十九日付書状によれば、会津の歎願書は自ら携えて上京し、太政官の指揮を乞はんとすと云うに在り、これ十四日彼が本営において鹽小路の来訪を受け、九条総督の諮問に対し、会津の降謝を容るべからずと答えたると相矛盾するものにして、既刊戊辰諸史の評論亦区々なりといえども、冷静に考察すれば、この数日間において彼の本心は依然として変ぜざるも表面手続き上においては初念をひるがえして太政官の指揮を受くるの必要を感じたるがごとし、すなわち彼は十四日鹽小路に対してすでに記のごとき強硬意見を陳べたりといえども、その後醍醐少将の書状に接し、且つ十九日早朝同少将と八丁目に会見の結果、とにかく一応上京して歎願書を太政官に提出し、併せて十分に自己の懐抱を述べんとしたるなるべし、しかれども十四日鹽小路に披瀝せし意見は、すでに総督府の令書となりて現れ、これに加ふるに大山に送る密書を発表せられ、為に一層奥羽列藩の激怒を招きしは自業自得と言うべし。
 修蔵の捕戮せらるゝや、修蔵および大山格之助の爪牙となりて姦悪を助長せし長藩士野村十郎、薩藩士鮫島金兵衛等数人相ついで惨殺せらる。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1
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  1. 2013/01/27(日) 11:30:42|
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