いがぐり史料館

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白河城の陥落

白河城の陥落

 閏四月二十一日仙台坂英力、但木土佐、米沢藩竹保美作岩沼に至り連署して左の書を九条総督に呈す。

今般白河城へ御転陣被為成旨被仰出候処会荘二藩之儀に付奥羽之間人心恟々既に所々一揆等相起り被為遊御転陣候ては弥衆民不知所向朦昧之余追々如何様暴動相発候哉難計深心痛仕候間早速仙台表へ被為遊御帰陣億兆安堵致奥羽瓦解不致様御鎮撫被成下度一同奉懇願候誠恐謹言

 諸大夫鹽小路刑部少輔これを受け、奥羽列藩の請いにより帰陣の布告をなし、御衛の隊を整えて岩沼の陣営を発す、この時九条総督は病と称して輿を閉ぢたるが、実は空輿にして、総督は二十日すでに輿を発して仙台に至れりと云う。
 先に閏四月十九日仙台、米沢両藩は会津討伐の解兵届を提出したるが、荘内征討並びに征討軍応援の命を受けたる奥羽各藩、すなわち南部美濃守家臣野々村直澄、佐竹右京大夫家臣戸村十太夫、津軽越中守家臣山中兵部、戸澤中務大輔家臣舟生源左衛門、水野真次郎家臣水野三郎右衛門、松平山城守家臣山村主税、六郷兵庫頭家臣六郷大学、岩城左京大夫家臣大平伊織、生駒大内蔵家臣推川嘉籐太等は閏四月二十二日連署して解兵届を総督府に呈せり。

先達而酒井左衛門尉朝敵に付征討並に応援被仰付候より各藩出兵仕候処左衛門尉儀は未た官位御取上之御沙汰も無之而已ならす従太政官上京被相促候儀も有之哉に相聞自然衆心疑惑を生し候上固より僻遠之境に隔り居る人民に御座候得は徳川慶喜東下之後主として恢復を謀候趣被仰出其之罪蹤跡も分明に承知仕兼候に付奥羽諸藩尽衆議申度と打寄候処最初佐竹右京大夫より問罪之上出兵仕度旨相伺候節以御演説其儀は難被及御沙汰旨被仰渡益難冤疑惑候へば猶此上幾度も奉汚尊聴候儀甚以恐縮之至と一同評決仕左衛門尉罪状之儀太政官へ相伺申し候内徒に昿日持久庶民農桑之節を妨ヶ候儀朝政御一新深く御仁恤を被為垂候御趣意にも相悖候儀は一同奉恐縮奥羽各藩衆議之上太政官より御沙汰有之候迄は一先解兵仕候間此段御届申上候以上

 閏四月二十三日奥羽列藩の重臣白石に会合し、列藩同盟の事を協議し、福島に軍事局を置き以て西軍を討するの策を定む、仙台藩相但木土佐は仙台の本城に在りて軍資糧食兵器弾薬等の事を掌り、同坂英力は軍事局に在りて専ら攻守の指揮を掌る、会津もまた陰にこれに協力す。閏四月二十四日間諜白河城を守れる我が軍に報じていわく、薩、長、佐土原の兵今朝太田原(栃木県那須郡太田原町)を発し今夜蘆野町(同郡蘆野町なり、太田原蘆野は旧陸羽街道にあり)宿すと、これにおいて青龍一番士中隊中隊長頭鈴木作右衛門、軍事奉行添役木村熊之進、遊撃隊頭遠山伊右衛門、純義隊小池周吾、会津隊頭野田進等相議して戦略を定め、白坂口(旧陸奥街道より白河へ入る本街道口なり)には新選組隊頭山口次郎を先鋒とし、遠山伊右衛門これに次ぎ、棚倉口(棚倉街道より入る白河の東南口なり)には小池周吾、原方街道(現陸羽街道より白河へ出る西口なり、那須または黒川街道口とも云う)には鈴木作右衛門各兵を率いて西軍に備ふ、この頃より我が東部諸口の守備兵を順次徹して白河方面へ向けしがごとし、けだしこれ等諸方面へ守備隊を置く必要なきを認めたるなるべし。
 同二十五日暁天西軍来り白坂の関門を攻む、山口次郎、遠山伊右衛門等隊兵を指揮して戦う、太平口の部将日向茂太郎は進んで米村(西白河郡西郷村大字米)に在りしが、砲声を聞き急に進んで白坂口の側面より、砲兵隊長樋口久吉は白河九番町(白坂へ至る西街道へ出る白河の出口なり)より進んで奮戦す、棚倉口より小池周吾、原方街道より鈴木作右衛門進撃し、義集隊今泉伝之助、井口源吾等歩兵を率いて横撃す、西軍皮籠原(白河に近く南に在り)にて撒兵となりて来り迫る、東軍もまた散布してこれに応ず、西軍の参謀伊地知正治その不利なるを察し急に兵を収む、我が軍勝に乗じて追撃し、境明神(岩代、下野の界線と旧陸羽街道の交差点に在り)に至り後、軍を白河に班へす、彼らの死傷すこぶる多し。
 同二十六日我が軍の総督西郷頼母、副総督横山主税、朱雀一番士中隊中隊頭小森一貫齋ら勢至堂に在り、白河城には義集隊大隊頭辰野源左衛門、新選組頭山口次郎、純義隊頭小池周吾、青龍一番士中隊中隊頭鈴木作右衛門、朱雀一番足軽隊中隊頭日向茂太郎等在り、各々兵を率ゆ、日向茂太郎は城を出でゝ原方街道に進み、長山に壘壁を築き大砲を装填してこれに據る、その他白坂口あるいは棚倉口に戍兵を置く、これにおいて小池周吾、純義隊軍艦宮川六郎、新選組山口次郎ら総督西郷頼母に建議していわく、敵軍蘆野に在り故に境明神に哨兵を設け、白坂に至るまでを偵察して速に兵を進めざるべからずと、幌役津田範三もまた建議していわく、兵を白河城に進めんと欲せば、大将辺城に入るの法則により、若松より連絡を保たんが為、長沼、上小屋(岩瀬郡大屋村字)等に兵を置き、白河城より境明神、白坂等に至るまで哨兵を設けざるべからずと、今これを試さずして軽々に兵を進むるは策の得たるものに非らずと、総督聴かずしていわく、大将辺城に入る時は、先に城に入りし将長各先鋒となり防備を厳にすべし、兵を後方に置き連絡を保つがごときは我が藩寡兵の能くする所にあらず、今仙台、二本松、棚倉等各藩の大兵白河城に在り、何の憂ふることか之あらんと、この日御霊櫃峠よりは青龍一番足軽隊中隊頭杉田兵庫一中隊を率い、中地村よりは遠山伊右衛門遊撃隊を率い、勢至堂よりは西郷総督、横山副総督、小森一貫齋一中隊を率い、鈴木作右衛門半小隊を率い共に白河城に入る、尋いで又翌二十八日仙台参謀坂本大炊、歩兵大隊長佐藤宮内、同瀬上主膳ら兵を率いて来り、横向よりは朱雀一番寄合中隊頭一柳四郎左衛門一小隊を率い、棚倉藩平田弾右衛門一小隊を率いて白河城に会し、兵勢大に振ふ。
 閏四月二十九日西軍襲来の報あり、これにおいて棚倉口櫻町方面には遠山伊右衛門、鈴木作右衛門、小池周吾、小森一貫齋、仙台藩瀬上主膳、棚倉藩平田弾右衛門らこれに当り、天神町白坂口には一柳四郎左衛門、今泉伝之助、井口源吾、杉田兵庫、山口次郎、原方街道には日向茂太郎大砲二門、井深右近ら各兵を率いてこれに備ふ、西軍、薩、長、大垣、忍の兵白坂に在り、兵を按じて未だ進まず。
 五月朔日寅の上刻西軍兵を分ちて三道より白河を襲ふ、薩州五番隊、長州三番中隊大砲二門、大垣一中隊大砲一門、忍藩一小隊、本道皮籠村より進み来る、薩州二番四番隊大砲一門、白河城東間道よりし、大垣一中隊皮籠村の東山林の間道より等しく兵を進む、蘆野、太田原には忍藩四小隊を止めてこれを守る、卯の上刻西軍棚倉口方面より大砲小銃を発する事すこぶる烈しく、純義隊以下の諸隊ほとんど危うし、すなわち鈴木作右衛門、平田弾右衛門を左右に分ち、西兵を包囲せんとし、兵を指揮して砲戦す、西軍原方口方面よりも急に進撃す、日向茂太郎、井深右近等よく戦い、西軍少しく退く、我が軍ますます進んで来たるを追い、長山の麓に至る、西軍の伏兵左右森林の間より起り、先に敗走したる西兵返戦して三面より猛撃す、仙台の将佐藤宮内、坂本大炊赴き戦う、大炊逢隈川を渡りて西に進む、弾丸その頭を貫きて斃る、仙将瀬上主膳衆を励まして戦う、日向茂太郎これに死す、東軍支ふること能はず、米村の堤防に據って戦いしも、すなわち砲兵十余人皆斃れすこぶる苦戦の状あり、部将鈴木義登は日向茂太郎の遺骸を収めて大平方面に退く、白坂口天神町の方面は西軍皮籠村より徐々に砲戦して進みくる、一柳四郎左衛門、山口次郎、今泉伝之助、井口源吾ら稲荷山(九番町の入口に在る丘上なり)に登りて西軍の来るを待つ、棚倉口原方口の砲戦ますます烈しきに及びて、西兵皮籠村二軒屋辺堤防の樹蔭を潜行し、稲荷山前面に顕れ、大砲小銃を連射して戦いを挑む、四郎左衛門、伝之助、次郎ら兵を督して奮戦す、副総督横山主税自ら釆配を振って衆を励し、稲荷山に登るやすなわち弾丸に当りて斃れる、戦い猛烈にして遺骸を収むるに暇あらず、従者板倉和泉わずかに首を馘して退く、棚倉口櫻方面は遠山伊右衛門、鈴木作右衛門、小森一貫齋、平田弾右衛門ら諸将殊死して戦うといえども遂に利あらず、仙兵は根田(西白河郡小田川村大字蘆野の小字なり)、小田川(西白河郡小田川村の大字なり)の方面に退き、その他は白河の市街に退きしが、混乱状態に陥りし収拾すべからず、西軍天神町口本町に在る我が兵の背後を衝く、原方九軒町の兵もまた防戦すること能はずして米村、大谷地(西白河郡小田川村大字豊地の小字なり)に向って退く、東軍敗績す、寄合組中隊頭一柳四郎左衛門、軍事奉行海老名衛門、軍事方小松十太夫、士中隊半隊頭鈴木覚弥、足軽組小隊頭上田源之丞等の諸将校皆相前後して死し、その他死傷甚だ多し、総督西郷頼母馬を馳せて叱咤衆を激励するも潰乱制すべからず、頼母決し進んで敵軍を衝かんとす、朱雀一番士中隊小隊頭飯沼時衛クツワをとって諌めていわく、総督は今此に死するの時に非ず、よろしく退いて後図を計るべしと、頼母聴かず、時衛すなわち馬首を北にしてこれを鞭つ、馬逸して向寺(阿武隈を隔てゝ白河の北郊外に在り)の方面に奔り、滑川(岩瀬郡大屋村の小字)に至るころ敗兵集まる者わずかに三小隊に過ぎず、ついに勢至堂に退く、この日二本松兵七百人、および我が藩坂十郎は一柳四郎左衛門の隊兵半小隊を率い、須賀川を発し白河に至るの途上、砲声を聞き馳せて開戦せんとせしも及ばず、すなわち中新城(西白河郡信夫村の大字)に退く、敗後仙台、二本松の兵は矢吹、須賀川に陣し、我が兵は長沼、勢至堂、三代に退き、西軍は白河城に入り、遠く仙台口、棚倉口、原方湯本口(我が大平口の兵に備ふ)に兵を配してこれを守れり。






卷五 東方の戦下  会津戊辰戦史1
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  1. 2013/01/30(水) 10:46:35|
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