いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

奥羽越公議府の設置

奥羽越公議府の設置

 奥羽列藩同盟成り、太政官建白書は仙台藩坂英力、米沢藩宮島誠一郎等これを携帯して上京することに決したるが、この同盟の結果として奥羽公議所を白石に設くることゝなり、尋いで越後各藩加盟するにおよびこれを奥羽越公議府と称す。
 五月八日仙台藩主は藩内に左の親書を発して公議府設置の意を明かにせり。

会津追討之勅を奉じ候処容保降伏謝罪之廉相立ち諸藩一同歎願に及び候得共御許容無之次に荘内藩無名之追討を加へられ候始末九条殿下之思召には無之候得者叡慮には尚更無之姦徒朝廷を欺罔し政権を盗み詐謀と残忍とを以て私を成し候に無疑候依て列藩と盟約し太義を伸べ禍乱を除き皇国を維持し奉る事予が志に候大小諸臣は申に不及庶民に至る迄志を體し勉励し予を助け怠ること勿れ委曲は奉行共可申也

 五月二十一日西軍須賀川に迫らんとす、仙台衝撃隊長細谷十太夫小田川に進む、西兵すでに七曲の山上に在り、十太夫部下六十七名に命じ盡く刀を抜きいっせいに突進して西兵を衝かしむ、西兵辟易して退く、十太夫追撃せんと欲するもすでに日没に近く、且つ援軍なきをもって兵を収めて太田川(西白河郡川崎村の字なり)に至れば西兵前方の山上に在り銃を発して戦を挑む、会々片倉小十郎の兵一小隊来り援く、すなわち応戦し暫くして止む、これより先十太夫は五月一日の敗報を聞き憤慨に堪えず、信夫、伊達二郡および近傍の壮丁を募り、名づけて衝撃隊と云う、兵皆銃を執らず、一刀を佩び皆黒装なり、十太夫常に部下に言っていわく、敵は銃隊なれば遠きに利あり、我が隊はこれに反して近きに利あり、故に一二人斃るゝ者ありとも顧ることなく進んで敵を衝けと、毎戦このごとくなれば、銃丸多くは空しく頭上を過ぎ命中すること少なく、向うところ前なく、人その勇武を称して烏組と云う。
 この日仙台藩大松澤帰部之輔兵を率いて須賀川に至る

 五月二十五日列藩諸将議して白河城の回復を謀り、全軍須賀川を発して矢吹に進み、翌二十六日約により列藩の兵各その壘壁に據りて砲戦す、会津口飯土用(西白河郡信夫村の大字なり)に陣したる我が砲兵二番隊頭高橋権太輔、朱雀四番寄合隊中隊頭木本内蔵之丞、誠志隊頭坂平三郎、義集大隊望月新平、同国府辰次郎等仙台藩の各隊と共に進んで潜かに刎石より経路を過ぎ白河城の近傍金勝寺山(白河城の西北約千メートルの所に在り)に登り城中を砲撃す、西軍大垣兵城に據りて応戦す、薩州の六番隊更に突出して金勝寺山の麓に迫りて接戦せんとす、木本隊の小隊頭吉田誠一郎、同半隊頭諏訪数馬一小隊を率いて紆回して西軍を横撃す、西軍固守して東軍ほとんど敗れんとす、吉田、諏訪等奮激衆を励まして返戦す、この時観音山の方面より木本隊小隊頭一柳盛之允、同半隊頭一柳伊右衛門、兵を率い来りて金勝寺山の我が兵利あらずして退く、柏野村(西白河郡西郷村の字なり)より我が青龍三番足軽隊中隊頭蜷川友次郎、土工兵頭小池帯刀兵を率い、赤植平八は力士隊を率い、雷神山の西兵を攻む、戦酣にして蜷川隊半隊頭小澤八弥戦没す、折口(西白河郡西郷村の字なり)よりは我が朱雀三番士中隊中隊頭上田八郎右衛門、正奇隊頭相馬直登、新練隊頭土屋鐡之助、朱雀三番足軽隊中隊頭原田主馬各兵を率いて進み、忽にして上田、土屋、赤植の兵は原方口の西軍大垣、薩州の兵と戦う、折口の正面には蜷川隊、二本松兵ありて共に戦う、米村口、雷神山、長坂(西白河郡西郷村の字なり)、金勝寺山等の砲戦山上山下いっせいに起りて砲煙山谷を覆う、砲声天地を震撼せり、仙台の将中島兵衛之助の兵を愛宕山方面より山を越えて戦を挑み、二本松の大谷鳴海我が藩辰野源左衛門は根田和田山(あるいは渡る山)より、我が義集隊の諏訪豊四郎、諏訪左内、仙台の細谷十太夫、大立目武蔵は泉田より、各兵を督して砲撃し、小森一貫齋、木村兵庫、棚倉の兵および純義隊宮川六蔵等は棚倉街道より吶喊して進み、山谷森林に據りて砲銃を連射す、西軍忍藩深田甚吾左衛門、長藩楢崎頼三、薩の二番隊および長の二番隊は棚倉口突出して戦う、我が兵廻りて綱基山、大沼(西白河郡大沼村の大字より)に出づ、忍、薩の二藩兵を合わせて進み烈しく横撃す、東軍少しく退く、薩の五番隊、二番隊は根田、和田山に向って砲撃し、勝敗未だ決せざるに、大垣兵一小隊左方の森林を潜行し来りて横撃す、仙台の細谷、大立目および二本松の大谷が半隊、我が辰野、諏訪、望月、黒皮内、国府、小櫃が兵また退く、終に志を得ること能はず両軍交々退く。
 五月二十七日東軍更に勇を鼓し、一挙白河城を援かんとし、会津口大谷地方面より会義隊頭野田進、新撰組頭山口次郎、砲兵二番隊頭高橋権太輔、および遊撃隊頭遠山伊右衛門各兵を率い進んで六反山(金勝寺連山の一なるべし、我が兵は大谷地より里道により飯澤部落を経て金勝寺山なる敵の背後に出でしなるべし、反一に壇に作る)を砲撃す、西軍薩州、大垣、土州、忍の兵沈黙して応ぜず、我が兵ますます進んで砲撃したるに、敵もまた応戦す、しばらくして西兵大谷地の渓谷を経て我が兵の背後を衝く、我が兵腹背敵を受けほとんど死地に陥る、一柳盛之允が隊兵朱雀四番寄合隊二番小隊来り援け背後の西兵を却く、我が諸隊退いて刎石の壘に入る事を得たり、我が部将木本内蔵之丞、坂平三郎、酒井伝治、安藤新蔵等各兵を率いて金勝寺山の西兵を撃たんとし、山嶺を越えて長坂の背山に據り砲撃す、大垣、忍の兵この地を守る、薩兵長坂の背後八幡平より襲撃す、故に背山に止まる能はずして後方の山頂に登る、遠山伊右衛門半小隊を以て脇山より砲撃してこれを援く、西兵は八幡谷より進撃す、内蔵之丞すなわち兵を分ちて、八幡谷北方の山頂より進撃し来る西兵を砲撃す、平三郎、新蔵、伝治等もまた薩州、忍の兵と且つ戦い且つ退く、高橋権太輔、一柳盛之允大谷地より来るに会し、共に刎石の壘に退く、土州、忍の兵追跡し来り火を大谷地の空営に縦つ、棚倉口は仙台の増田歴治、大立目武蔵、二本松の大谷鳴海各中隊を率いて金山(西白河郡金山村の大字なり)の方面より進み、我が辰野源左衛門、諏訪豊四郎、諏訪左内、望月新平、黒河内友次郎、小櫃弥市等各隊兵を率い、山に登り谷に沿うて進み、東軍更に兵を三分し、辰野、諏訪、望月、大谷は天の森、赤羽の方面に向い長州二番隊三番隊と戦い、増田、大立目、諏訪、小櫃等は棚倉街道の右より進み、兵を撤布して西兵を横撃せんとす、土州兵一小隊これに応戦せしが忽ち色動く、木村兵庫、小森一貫齋、宮川六郎等の兵と相馬、棚倉の兵と合わせて二大隊は鹿島(大沼村に在り、白河の正東にてその東口に至って近し)口より進みて砲銃を発射す、忍、長州の兵各二小隊これに応じて戦う、時に棚倉街道の右手より進みたる増田、大立目、諏訪、小櫃等の兵は土州兵の返撃する所となりて退く、ゆえに鹿島口もまた止まること能はずして少しく退く、西軍は火を郷戸村(西白河郡小関村の字)に放ちて去る、諏訪、小櫃の兵仙台、二本松の兵和田山方面より返戦して根田の西軍を撃つ、鹿島口よりは棚倉、相馬の兵返戦して西軍を撃ち、互いに追躡し砲戦すること三たび、日暮に至りて彼らの砲声ようやく止む。

{二十七日戦争の記事解すべからず、七年史の記事は大隊本分に同じ仙台戊辰史は大立目、大谷の棚倉街道より進みたる記事あれども増田のこと記載なし、増田等が『棚倉街道の右手より進みたる』とあるも如何ほど右手なりしか分明ならず、増田等始めは金山に至り街道の右手より進み敗軍し後返戦して仙台街道の根田の西軍を撃つとは考えられず、思うに増田、大立目、諏訪(両人あり何れか詳ならず)小櫃等は金山に集合せず仙台街道に在りしにあらざるか。補修者}

 この日若松城においては喜徳公出でゝ三軍の士気を鼓舞せんと欲す、藩相内藤介右衛門および南方より帰休せる一番砲兵隊頭小原右衛門隊兵を率いて従う、午後喜徳公はフランス人エドワルドスネル献ずる所の戎衣を着け馬に騎り、金釆配を執り、鶴城を出て、酉の刻原駅(北会津軍湊村の字なり若松より東南二里半、白河街道に在り)に宿陣、二十八日砲兵隊の撒兵演習を観る、二十九日原駅を発し福原(原の東南二里に在り、白河街道の一駅なり)に次す、六月五日隊士の撒兵演習を観る、七日隊士猪狩恒五郎、渡部直治、小林繁之助を棚倉方面に、中村鎮之助、石山綱衛を大平方面に、奥田鉱太郎、手代木清吾を上小屋方面に派遣して戦況を視察せしむ、十日副良駅を発し三代駅に次し、十二日国境勢至堂峠の胸壁および渓流を湛ふべき堤防等を巡視し三代駅に帰陣す、猪狩恒五郎等前後皆帰り公に謁して戦況を開陳す。

 六月朔日西軍二百人許泉田に来らんとす、我が兵仙台藩の兵と合し七曲坂に邀撃す、西軍敗れて根田に退き、東軍これに乗じて追撃す、西軍退却に当り火を根田に放たんとす、東軍これを見ていっせい射撃してこれを防ぐ、西軍狼狽し死屍を棄てゝ白河に走る、東軍傷く者わずかに二人のみ。
 同八日仙台細谷十太夫和田山に陣す、西軍砲を富士見山に装置して東軍を撃つ、十太夫これに応戦す、西兵数十人山を下りて根田に進む、東軍七曲坂に在る者細谷隊を援けいっせいに射撃す、西兵支えず東軍兵を収む、九日未の下刻西兵数十人銃を発し富士見山より進撃す、細谷の兵これに応戦す、時に仙台大松澤帰部之助小田川に在り、銃声を聞きて来り援け黄昏互いに兵を収む。
 同十二日東軍大挙して白河城を攻む、棚倉口番澤(西白河郡古関村の大字にて白河街道に在り)より純義隊頭小池周吾、朱雀一番士中隊中隊頭小森一貫齋、青龍一番寄合組中隊頭木村兵庫等先鋒となりて棚倉兵、相馬兵と並び進んでこれを撃つ、西軍忍の兵山谷を跋渉してこれに応ず、すでにして忍の兵敗走す、東軍追撃して白河城下に迫らんとす、薩兵東軍を横撃してこれを援く、棚倉、相馬の兵利あらず、木村、小池の兵もまた止まり戦うこと能はず共に番澤に退く、根田、和田山よりは仙台の武将細谷十太夫、大松澤帰部之助、白河口なる愛宕山に上り、愛宕山方面よりは遊撃隊頭遠山伊右衛門、同小隊頭野村左馬之丞、朱雀一番寄合組隊中隊頭井深守之進(一柳四郎左衛門の後任者)義集大隊八番小隊頭井口源吾、大谷地口刎石よりは仙台の将中島兵衛之助、我が砲兵二番隊頭高橋権太輔、福島の兵等進撃す、大垣、薩、土、忍の兵来り彼ら砲戦中薩、土の兵迂回して大谷地左側の渓谷より突撃したれば我が兵支えずして退却し、返戦せんとせしも根田口の東軍大に敗れ遠山伊右衛門、野村左馬之丞、井口源吾戦死し、隊兵もまた多く死傷しついに果たす能はず、伊右衛門の敵丸に斃るゝや、その子主殿父の屍を負いて退きまた飛丸の為に斃れる、ついで朱雀一番寄合隊半隊頭志賀英馬(宝蔵院流槍術にて海内無双と称せられし志賀小太郎の嫡男なり行年二十三、その弟の勇馬もまた本年正月淀にて戦死す行年二十一)も同所に戦死す、また一方においては米村口長坂より朱雀三番士中隊中隊頭上田八郎右衛門、正奇隊頭相馬直登、新練隊頭土屋鐡之助、砲兵一門司令官中根監物等折口より青龍三番足軽隊中隊頭蜷川友次郎、二本松兵等並進して土州兵と戦う、上田隊二番小隊は長坂山に伏し、土州兵の過るを要撃し勝に乗じて追撃す、敵将に崩れんとす、たまたま薩兵来り援けたるを以て我が兵敵を三面に受くるに至り、急に退きて逢隈川の壘壁に據る、この戦多く西兵を斃すといえども、小松族、鯨岡主水、永井伝吾等戦死し、木村常盤、青木左取、鈴木四郎等重傷を負う、西兵火を長坂村に放ちて退く、刎石より木本内蔵之丞、坂平三郎、一柳盛之允、一柳伊右衛門、神田兵庫および福島の諸隊長、金勝寺山の方面に兵を進めたるも時遅く戦わずして還る。 
 これより先我が大平口の総督原田対馬、力士隊赤植兵八、仙台の将大立目武蔵および飯野藩士三十六人農兵一小隊、横山主税家臣一小隊、横山主税家臣一小隊、合せて一中隊、六月十一日夜半羽太村(西白河郡西郷村大字羽太)を発し白坂に迫る、十二日急に進みて西軍黒羽藩の兵を撃つ、敵退きて壘壁に據るもなお支ふる能はず、会々大垣の兵新たに代わりて攻撃す、我が軍支えず急に兵を収めて関屋村(西郷村大字羽太字関屋)に退く。
 六月十五日泉(石城郡に在り)藩主本多能登守使節半谷仭之丞を矢吹の仙台陣営に遣わし、云はしめていわく、正親町中将まさに奥羽追討として軍艦七隻を率いて東下せんとす、よって幣藩江戸在邸の家臣に教導を命ぜらる、願くば兵を派して幣藩の海岸を防御せんことをと、諸将議して相馬以南の諸藩これが防禦に当るべきことを約す。 六月十七日喜徳公に従ひて三代駅に滞陣したる一番砲兵隊士の京師以来の功労を賞し、抜擢して甲士は十石三人扶持、甲士加(始めは甲士加なし後に出来たるものならん、詳ならず準と云う位の意味か)は七石二人扶持、寄合組は三人扶持を賜はり、衆皆踴踊す、同十八日一番砲兵隊二番格三番格、白河方面に陣したる二番砲兵隊と交替すべきの命あり、喜徳公召し見て酒殽を賜ふ、同十九日一番砲兵二番格(格とは小隊と云うがごとし、小隊頭を指図役とも云う、各中隊に三名ありて各一格率ゆ)三番格、三代駅を発し白河方面滑川に陣し刎石に戍す、二十日公三代駅において一番砲兵隊一番格並銃手を召し見て酒殽を賜い、自ら杯を隊頭小原宇右衛門(日向内記の後任者なり)に賜いていわく、汝ら将士の勇武に依頼すと、将士感泣して戎衣の袖を濕さざるはなし、同二十一日砲兵隊一番格並銃手も三代駅を発して白河方面に進行するに当り、公はその将士を送別す。
 これよりさき西軍の平潟に上陸せんとするの報あるや、東軍仙台兵一千余人、米沢兵三中隊および順義隊、相馬兵、棚倉兵二千余人、泉、湯長谷、平等の兵これを援け兵を海岸に配す、茲にまた徳川氏の遊撃隊長伊庭八郎、人見勝太郎、上総請西藩主林昌之助等、徳川慶喜公の冤枉を慨き、共に東海道を進みて京師に入り、以て哀訴せんことを期し、函根において西軍に遭い戦いて利あらず、ついに榎本武揚に依り、六月朔日全隊百十六人館山港より長崎丸に搭じ、翌日小名浜に上陸するや、仙台藩隊長山本丹後来り迎えて来意を問いたるに一行いわく、海上貴藩の大江艦に邂逅せしとき坂英力氏に面し奥羽同盟の義挙を聞きて来り投ずるなりと、すなわちこれを福島の軍事局に報告し、その兵を合わせて棚倉方面の軍を援けんことを請いたるが、十六日西軍薩州兵十二小隊、佐土原兵一小隊、岡山兵二小隊、柳川兵二小隊、大村兵若干、熊本兵一小隊は汽船三隻に分乗していよいよ平潟に着す、仙台兵、平兵戦わずして走る、遊撃隊、林兵これを聞き、全軍亥の刻仁井田(石城郡錦村に在り、平潟より平に至る国道より半里許西に寄るも古はこの街道が仁井田を過ぎしならんか、仁井田峠は平町を距ること四里余、本街道第一の要衝なり)峠に至り、仙台兵、平兵の退却し来るに逢う、これにおいて全軍を仁井田に集め相議して明朝平潟進撃の策を決し、しばらく兵を休め十七日拂暁に至り仙台兵一小隊、泉兵小隊、遊撃隊人見の兵、林兵等を合し約のごとく関田(勿来の東に在り)に進み、西軍の勿来に在る者を撃つ、仙台兵振るわず、人見勝太郎号令して疾駆して進撃せしむ、また別に遊撃隊の一隊仙台兵を率いて平潟の後山に進む、西軍すでに兵を配置して我を待ち互いに銃戦す、西軍海上の軍艦より発砲して応援し、東軍大に苦しむ、仙台兵先づ敗走し、西軍進んで関田に至る、正午頃我が諸隊崩れんとし西兵追撃す、林兵関田の松原に散布す、仙台兵、平兵等の潰走せんとするや、遊撃隊士これを制止すれども聞かず、人見勝太郎大に憤り林隊に説いていわく、君等かくのごとき怯兵の為に力を尽くすといえども何の益あらん、しかず会津に至り共に力を合わせんにはと、ついに諸軍と共に兵を収む、西兵勝ちに乗じて進み来る、遊撃隊第三隊長和多田貢戦歿す、全軍夜半平城に退く、西軍久留米、松山の兵加わり勢ますます振るう、人見、林は会津に入らんとしたるに、平老侯安藤鶴翁、仙台の重臣古田山三郎しきりにこれを止む。
 この日棚倉藩の急使井口助次郎等矢吹に来り報じていわく、薩、長、大村の軍艦三隻常州平潟に来り、その兵八百余人上陸し、奥州関田に向って進行の報あり、棚倉危うし請う来り援けよと、これにおいて小森一貫齋、木村兵庫、土屋鐡之助、仙台の将佐藤宮内および相馬の兵赴き援け、以て白河口の進撃に備ふ、この時に当り西軍白河城に據り防戦すること十数日、進んで会津に向わんとするも兵寡くして能はず、今や西軍の軍艦平潟に来り兵士を上陸し湯長谷、泉、平を攻略せんとするを聞き、白河城の兵気大に振ひ、先づ興みし易き敵を敗り然る後大敵に当るべしと、すなわち棚倉城進撃の策を決せりと云う。






卷五 東方の戦下  会津戊辰戦史1
スポンサーサイト

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/02/02(土) 09:59:19|
  2. 会津戊辰戦史1
  3. | トラックバック:0

トラックバック

トラックバック URL
http://igagurisiryoukan.blog.fc2.com/tb.php/126-ef5e195e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。