いがぐり史料館

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十  将軍家入京     『京都守護職始末1』

 空前の質素簡略     三月四日、これよりさきに、浮浪の徒らが、過激の堂上と謀り、かねて任命のあった伊勢大廟への勅使発向の期日を、ことさらこの日と定め、途中、勅使の威光をもって、まさに入京しようとする将軍家に侮辱を与えようという、密謀のあることを探知したので、昧爽(ほのぼのあけ)のうちに将軍家は入京した。
 松平隠岐守勝成朝臣(伊予松山城主)を前駆として、一日さきに着京されたのである。殿(しんがり)は榊原式部大輔政敬朝臣(越後高田の城主)、扈従(こじゅう)の老中水野泉守忠精朝臣、板倉周防守勝静朝臣、若年寄田沼玄番頭意尊、稲葉兵部少輔正巳、その他諸有司の随従は、ことごとく旧典に従った。ただ諸大名の扈従については、昔の台徳(徳川秀忠)、大猷(徳川家光)二公の旧典はあるが、いまは諸藩がおおむね疲弊しているうえに、時事が多端なので諸事簡易を主(むね)とし、わずかに親藩二、三を従えるだけに止めた。その路々の宿泊なども、旧典には、その国郡の居城、もしくは陣屋をこれにあてたものであるが、いまは略して、 一般の諸侯と同じく、宿駅の本陣をもってこれにあて、旅装も近臣と同一にして、時にあるいは、徒歩(かちだち)したりして、その質素簡略は、じつに空前のことであった。
 この日、在京の諸侯はことごとくこれを郊迎し、二条城に登城して入京を賀した。わが公も、むろん同様であったが、将軍はわが公を近く召して、ひさびさの在京の労をなぐさめること悃篤(こんとく)をきわめた。

 



 明白なる叡慮     これよりさき、京中に流言があり、将軍家参内の日にまず詔(みことのり)してその職を解き、そのあとで謁を賜うということが言いふらされた。それで後見職が鷹司殿下に、親しく天位に咫尺(しせき)し奉り、叡慮の程をうかがうことを願ったが、国事係の堂上がこれを邪魔して、目的を達しなかった。
老中板倉勝静朝臣がこれをきき、大いに憤慨して、将軍家が叡慮遵奉の至誠をつくして、久しい間の廃典をおこして上洛したのに、その誠意が朝廷に貫徹せず、この説があるはなにゆえか。公はすみやかに力を尽さるべしと、後見職をはげました。わが公もまたおなじことを勧告された。
 そこで後見職は奮然と意を決して参内し、鷹司殿下に会って、将軍家が昨日入京した由を奏間し、かしこくも天位に咫尺(しせき)し奉り、新しく叡慮をうかがいたい旨を請うた。殿下は逡巡していたが、後見職は切に請うて止まなかった。国事係の堂上はこれをきいていたが、なに一つはからおうとはしない。ようやく殿下が上奏したところ、すぐさま勅許があったので、三月五日、後見職が参内して御前に召し出された。
 殿下は、玉座の右傍に侍し、すこしへだてて、伝議の両奏衆、国事係の堂上が列を正して着座せられた。慶喜卿は、玉座からはるか遠くはなれていたので、殿下にむかい、将軍の名代だから今すこし玉座に近づき奉るように請うた。殿下は老年で、耳がすこし遠い。慶喜卿のことばが聞きとれずいると、ことばはやくも天聴に達し、詔があって、近くに召させ給うた。
 慶喜卿は恭粛して坐をすすめ、まず将軍の命を奏し、次に「このごろ風説があって、家茂参内の日にまず将軍の職をやめ、それから謁をたまうなどと巷間に言いふらされているので、家茂はじめ臣らは大いにこれに惑っている次第、よって臣にあらかじめ叡慮のあるところを伺ってこいとのこと」と殿下にむかって言上したのを、聖上ははやくも聞こしめされ、
「いや、将軍職は旧のごとく万事を委任する。汝ら、浮説に惑うなかれ、もっとも、攘夷のことはいっそう励精すべし」
 と玉音琅々(ろうろう)として殿階に徹し、末席にいるものの耳にまで達したので、そのため一座は粛然とした。

 



 公卿の謀破れる     慶喜卿はつつしんで聖恩のかたじけなさを拝し、御前をひきしりぞき、さらに殿下に謁して、親しく拝聴した聖詔を筆し賜わんことを請うた。殿下は承諾して、書きしるし賜うたが、単に、攘夷のことをいっそう励むようにとしか書いてない。後見職がつつしんで、聖詔の前のほうが省略されていることを争った。殿下は耳の遠いせいにして、その疎忽を詫び、入って聖旨をうかがい、ふたたび筆をとって、つぶさに勅諚を書きしるしてわたした。
 後見職はこれを拝受して退出したが、さすがに国事係の数人の堂上がその席にいても、一人もこれに争うもののなかったのは、叡慮があまり明白であって、私にこれをいかんともなしがたかったからである。
 この日、後見職は、国事係の人々を退けて、殿下と二人だけ御前にあがって上奏しようと決意していたものの、殿下の形勢が、それを申請することが不可能な状態だったので、ただそのことだけで退出されたが、二条城に帰って、将軍家に謁し、その顛末を言上したときは、すでに暁天であった。それによっても、時態のただごとでないことを察するに足りる。
 三月七日、将軍家の参内があって、在京の諸侯はことごとく扈従した。わが公は、実父松平義建朝臣の喪中なので、はばかって、同行しなかった。
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/10/30(火) 06:33:22|
  2. 京都守護職始末1
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