いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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平の戦

平の戦

 この日薩州、大村の兵は泉田を発し野田村に進み、まさに平城に迫らんとす、城中これを見て仙台、米沢、相馬の兵城を出て豊岡川を隔て銃を連ねてその至るを待つ、彰義隊は豊岡山の半腹に潜匿す、大村兵湖畔に来り仙台兵と戦い、薩州兵は海岸を回り川を渡りて米沢兵を横撃す、米沢兵応戦し相馬兵これを援け激戦数刻砲煙天を覆う、東軍少しく退き、西軍これを追撃す、会々豊岡山に潜匿したる彰義隊砲を発して号を為すと共に撒兵いっせいに乱射し、西軍また反戦して山腹の東兵を撃つ、林昌之助藩兵を率いて長崎丸に搭じ小名浜に入り、薩州、大村の隊旗を望みて連なりに砲撃す、しかれども両軍交錯して彼我を弁ずること能はざりしかば、長崎丸は東軍を傷けんことを恐れ砲撃を止む、やがて東軍除々に退くや西兵なお追撃しければ、中の作の東兵銃を発してこれを撃ち、西兵ついに退く、この時湯長谷方面の砲戦すこぶる猛烈を極む〔東記、七年史〕。
 棚倉城すでに陥り西軍ますます加わる、東軍我が総督西郷頼母白河城を抜かんと欲し、六月二十九日列藩諸将を上小屋の本営に会して戦略を議したるも決する所あらず、時に我が藩西郷鐡次郎矢吹の陣所より来り議していわく、仙台、二本松の隊将は三春藩密かに西軍に降れるを聞き、背後を絶たれんことを恐れ須賀川を退却せんことを主張す、しかる形勢なるにもこだわらず進んで白河城を攻撃せんとするは果たして勝算ありやと、我が諸将奮っていわく、仙台、二本松軍の退去は敢えて止むべきにあらず、唯我が兵をもって独力進撃鏖戦せんのみと、果たせるかなこの夜仙台増田歴治の軍は火を矢吹に放ち列藩軍に告げずして蒼皇として須賀川に退去す〔東記、七年史、仙台戊辰史〕。
 この日野村監三郎は大平口に馳せ至り、明日白河城進撃の方略と、根田口の形勢とを総督原田対馬に報じたるにより、対馬は諸将と会して軍議を開く、皆いわく、棚倉城陥り平城もまた危急に迫れり、むしろこの際急に兵を進めて白河城を抜くべしとこれに決す、監三郎は即夜上小屋の本営に帰りてこれを報ず〔東記、七年史〕。
 七月朔日これより先奥羽列藩が、奥羽鎮撫総督府の公認を得て、討会および討荘解兵の後、幾ばくもなく列藩同盟成り、その前後より列藩がすでに西軍と兵鋒を交ふるに至りしより、奥羽鎮撫総督府を依然として仙台に置くは、徒らに東軍の為に利用せられその気勢を添ふるの観なきにあらず、時に荘内追討の援兵参謀の任を受け一隊の兵を率いて仙台に来りし佐賀藩士前山清一郎はこれに見る所あり、総督府を秋田に移さんと欲し、仙台藩を欺き、九条総督は秋田駐在の福澤総督と共に一旦帰京禀命の要ありと託言し、五月十八日清一郎は九条総督、醍醐参謀一行を擁護して仙台を発し、六月三日盛岡に至り、越えてこの日秋田に入りしが、福澤総督および大山格之助は五月以来すでに秋田に在りたり。
 この日昧爽西軍鼓を鳴らして平城に来り迫る、東軍仙台兵田畔溝渠に據り兵を撒布してこれに備ふ、薩州兵五小隊、大村兵五小隊、一は小名浜の本道よりし、大砲数門を列ね、りに爆裂弾を連射す、砲弾水田中に爆裂し泥土飛散して東兵の面に被る、西兵追跡す、城兵(仙台、米沢、平等)樹蔭と市街とに潜匿したる者いっせいに起りてこれを撃つ、城中よりもまた大砲を発射す、大村兵砲煙弾雨の間を驀進して入川の堤防に據る、薩州兵は川を隔てゝ戦う、城兵樹間を進み西軍を横撃す、西軍直ちに兵を回して戦う、西軍の弾薬大雨に逢うて濕潤し、小銃威力減少したれば、大砲を発射すること最も烈しく、城兵防戦大に努む、すでにして大村兵弾薬尽きて退かんとするや城兵これを追撃す、薩州兵殿戦して小名浜に退き、東軍は兵を平城に収む〔東記、七年史〕。
 この日我が兵、仙台、二本松、棚倉の兵は大平口を発し、下羽太より下柏葉野村に至り、左右の壘壁に兵を置き友平新三郎(友平は壬生の人、砲術を江川英龍に学ぶ)東海林貞之進をして金勝寺山上より野戦四斤砲(長四斤砲とも云う)を発射して白河城を攻撃せしむ、砲弾命中し西兵大に散乱す、上田八郎右衛門、蜷川友次郎、赤植平八、仙台の大立目武蔵、細谷十太夫等各々兵を率いて中山および雷神山より進み、急に古天神の西兵を撃つ、西兵敗走して立石山に退く、二本松の兵立石山下に進みてこれを追撃す、原田主馬、土屋鐡之助等連りに進んで激戦すること良々久し、西兵別軍をもって東軍の背後に出で、火を上羽太、下羽太、関屋等の民家に放つ、総督原田対馬は山口次郎の兵および上総飯野藩の兵三十六人の兵を率いて柏葉野逢隈川の壘を発し、雷神山の西兵を撃つ、苦戦利あらず飯野藩の兵もまた奮戦す、その隊長森要蔵生年五十九、身を挺して進み、刀を揮って縦横奮撃、流血淋漓ついに敵兵三人を屠りて戦死す、要蔵の次子虎尾わずかに十六歳、紅顔の美少年なりしが父と共に奮戦して死す、東西両軍これを視る者歎惜せざるはなし、この時二本松の兵は西軍二本松に迫ると聞きて帰藩し、仙台の兵もまた三春、相馬変心の風評を聞きて気勢甚だ振るわず、刎石より進みたる小原宇右衛門、木本内蔵之丞等は大平方面の我が軍すでに敗績したるの後にして援くるに及ばず、山神山にて坂平三郎が兵しばらく砲戦して止む、下新城より進みたる秋月登之助の率いる伝習隊一大隊は後れて機を失し、空しく上小屋に退く、小森一貫齋は中地峠より、鈴木式部および義勇隊と共に鳥の子山(中地峠並びに鳥の子山は何れにあるか詳ならず、小森隊は棚倉口より白河攻撃に敗績し須賀川へ退去せしが中地峠は須賀川より白河へ向う道なるべきにより陸奥街道に在るべし、鳥の子山は小田川村の内なるがごときも確かならず)に在りて共に戦を挑まんとせしも、西軍本沼(西白河郡大沼村大字本沼)よりその背後を衝かんとするを恐れ、義勇隊並びに仙台の兵は泉田の方面に退き、左右の山林に散布して西軍に備へしが、ついに戦はずして小田川に退守す、仙台藩細谷十太夫は増田歴治が前夜告げずして矢吹を焼きて退軍せしを怒りてこれを斬らんとしたるも遂に果たさゞりき〔東記、七年史〕。

{森要蔵は上総飯野藩主保科弾正忠正益主の家臣なり、かつて撃剱を千葉周作に学び、江戸に教授し、門弟一千余人におよぶ、要蔵は厚実温厚の士にして能く人を容る、ゆえに人皆これを敬す、土佐藩士川久保皆南皚かつて江戸に在り、しばしば要蔵の道場に至りて撃剱を試む、戊辰の役起こるや南皚は東山道先鋒土佐藩齋武隊司令官となり、野奥の間に転陣す、七月朔日白河において会津の兵と戦いし際、土州藩八番隊において斬獲せし敵首級三あり、始め接戦の際その言語奥州人にあらずして江戸人のごとくなりしかば、参謀監察等南皚が久しく江戸にありて各藩士と交れるをもって、南皚をしてこれを見せしめたるに、森要蔵、その次子虎尾および門弟花澤金八樓
郎なり、監察当時の戦況を述べていわく、この老人は日の丸の軍扇を開きて兵を指揮し隊兵十余人と共に山間に集合す、我が八番隊これと戦いしに、彼ら衆寡敵せず多く斃る、中に一少年あり、老人に言いていわく、阿爺突撃せんと、小刀を揮って奮闘し、ついに我が八番隊に狙撃せられて地に斃る、老人もまた一壮士と共に勇戦して斃る、余その少年の勇壮を愛惜し、令してこれを助けしめんとしたるも傷重くしてついに死せりと、南皚これを聞きていわく、思うに保科侯と会津侯とは同系の家なるをもって、要蔵はその情誼を思い、同志を率いて亡命し、宗家の危急を援けてこれに至れるならん、武士の殉義誠に哀しむべきなりと、これにおいてその隊中に在りし要蔵の門弟に今日の顛末を告げ、厚く三士の首級を白河寺町の某寺に埋葬せしめたりと云う〔雑誌旧幕府〕。}


{飯野藩士の我が軍に来援したる者は、森要蔵以下二十八人なりしが、戦死および傷病死の為に二十二人を失い、戦後猪苗代に幽囚せられし者左の六人に過ぎざりき〔猪苗代人数取調帳〕。
大山銀之助
西 覚之助
勝保乙吉郎
小野健次郎
小野悦之助
佐々木 昇}


 この日南摩綱紀は板倉勝静朝臣、小笠原長行朝臣に従い白石城に至る、これより先、同盟列藩議決して、仙台の横田官平、米沢の片山仁一郎を会津に遣わし、板倉、小笠原両侯に謁し、白石城に至り列藩の会議を聴き裁断せられんことを請う、両侯容易に諾せず、横田、片山および我が藩の諏訪常吉等反覆懇請するにおよび、両侯ついに諾して白石城に至る、しかれども仙台藩および列藩の士未だ一人も会する者あらず、両侯大に失望す、横田、片山等馳せて仙台に至りこれを議す、両侯福島に至りて阿部葆真主(正耆朝廷退隠後の称)に会す、この時棚倉城陥り主従共に封地飯坂(岩代国信夫郡)に移る、綱紀は勝静朝臣の命により飯坂に至り、葆真侯に謁し福島に会することを謀る、ゆえに来り会す、会々竹中春山および友成郷右衛門(徳川氏の士)もまた来り会し、法親王の親兵を組織するの議あり、わが藩相西郷頼母もまた来り会す、けだし棚倉の兵を先鋒とし棚倉城を回復し白河城の西軍を攻撃せんとするにあり〔南摩綱記筆記〕。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1
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  1. 2013/02/07(木) 14:59:34|
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