いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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輪王寺宮を盟主に推す

輪王寺宮を盟主に推す

 仙台の使節栃木五左衛門、横田官平は六月二十二日米沢に至り、我が藩の安部井政治、小野権之丞、米沢の片山仁一郎、木滑要人と共に輪王寺宮執当覚王院用人鈴木安芸守により懇願する所ありいわく、奥羽越列藩白石に会盟し公議府を置く、願わくば法親王これに臨み、列藩の事を統裁せられんことをと、法親王、覚王院をして答えしめていわく、仙台に赴くことはこれを諾せんも、白石城の会盟に臨みて軍事を議するは桑門の身固より共の職にあらず、しかりといえども諸侯の請いにより便宜その名を仮するも可なり、余の素志は二三陪臣の国命を逆乱するを坐視するに忍びず、ついに今日の潜行におよぶ、故に奸を除き国を糺すの盟主となるは義において必ずしも辞せざるなりと〔覚王院戊辰日記〕、越えて輪王寺法親王は六月二十七日米沢を発し、七月二日仙台に至り、城北仙岳院に入り、伊達慶邦朝臣父子および列藩重臣に謁を賜い、左の令旨を下す。

嗟呼薩賊、久懐兇悪、漸恣残暴以至客冬、斯罔幼主、威脅廷臣、違先帝遺訓、而黜摂関幕府、背列聖垂範、而毀神祠拂閣、陽唱王政復古、陰逞私慾、百万溝架、以負冤故幕府及忠良十余藩、遂至脅挟鸞輿、駐蹕於浪華、矯令諸侯、而輿六師、虐使百姓、而奪恒参、四海鼎沸、五倫将墜、大逆無道、千古莫之此焉、今以匡正之任、囑之其藩、宜明大義、諭諸遠近、克尽熊虎之力、速殄兇逆之魁、以上解幼主憂悩、下済百姓塗炭矣、都勉哉、天下所望、雲霓已久、四民所迎、食漿維新、勝算固不容疑者、輪王寺一品大玉一品大王釣命如件、
 慶応四年戊辰七月
大圓覚院義観 花押(覚王院なり)
清淨林院堯忍 花押(海竜院なり)


 副書
此度奥羽越列藩天下匡奸賊掃攘之義挙有之段、於宮御方厚御依頼之御事に候、就ては諸事列藩会議之上、取計候儀は可有之候得共、自然管轄之任無之候ては、行届兼候儀も可有哉と思召候間、当分之内仙台中将殿米沢中将殿両所にて利鈍斟酌施行被有之可然由御事に候
 辰七月 執事


 これにおいて奥羽越公議府は、宮の令旨に従い相議して左の布告をなす。

薩賊の兇暴古今其此を聞かす恐多くも日光の宮も禍に陥れ奉り徳川慶喜に冤枉の厳遣を負はしめ其不直を雪白するに路なく涙を呑み手を束ねて殆んど屠戮に就んとせり宮は累年の厚誼を思召し深く御憂憫ましまし慶喜の冤枉を明白にせんと二月下旬法輿を馳せて駿府城に至り給ひ大総督宮に御対顔伏見の事の起原より具に仰せられけれは薩賊勅命を矯めて云慶喜恭順の実効相立候へは必す寛典に処せられ家系禄地皆憂ふることなしと宮は其誣罔詭詐を洞察し給ふと雖勅命の称至厳なれは江戸に帰り慶喜に告給ふ已にして慶喜祖宗創業の城を開き水戸に退隠し兵器軍艦等を朝廷に奉り実効残る処なく立てられけれとも朝敵の厳譴終に御赦免なく徒に他郷荒陬に孤囚の身と為し給う宮は益御哀愍ましまし屢御書を大総督宮に遣りて寛典に処せられ候様仰進られけれとも薩賊擁蔽して之を通せす剰へ宮の御英明を忌みて除き奉らんことを謀り屢御上京を促しける江戸の市民之を知て市中及ひ近郷数万の人々各歎訴状を捧ヶ御発輿を留め奉りしかは其至情深く御不憫に思召され御延引遊されけるに薩賊又総督府の命と称し御登城を促し城中に留め奉らんとせしに宮は御所労にて御断り遊はされ其外種々の奸計を運らし除き奉らんと謀れとも皆々相違しけれは終に三条実美と相謀り五月十五日未明東叡山を暴襲し勅額の掛りし中堂諸社宮の御殿に至るまで砲弾を以て焼討し儈徒を殺戮し財物を掠奪し残刻貧婪を極め宮を詮索すること甚厳密なり日光山も已に賊徒の據となり途方を失い給ひしか奥羽列藩大義会盟の由遙に聞召され勿体なくも皇胤の御身を以て下賤の微装を着し給ひ鯨波を凌き険路を攀ぢ遙遠僻隈の奥羽に下らせ兇賊を平定し朝廷を清明にせんことを諸侯に托し給ふ素より宮には先帝の勅命にて出家入道し給ひ確乎たる御道心にて慈悲忍辱仏法の本旨を以て万民の塗炭に苦しむを救わせられんとの思召なり万民塗炭に苦しむは畢竟薩賊を討滅し国家太平万民安楽に帰するは即ち仏法の本旨宮の御深意なり嗚呼誰か皇国の民ならさらん誰か皇胤の尊を知らさらん薩賊の兇暴奸詐既に此の如くなれは仮令天日地に落海水涸るゝことありとも誓て此賊と世を同しくして庶幾は遠近の庶民宮の尊意を感戴し力を尽くして雲霧を開晴し東叡山に帰し奉らんことを天下の士民其事実を審にせす宮の御深意を弁せす南北両朝の故事を付会して誣罔の説をなさらんこと恐るゝ故に其大略を記して遠近に布告する者也
 慶応四年戊辰七月 奥羽越公議府


 輪王寺法親王は左の令書を賜う。

 一品法親王令書
化を敷きて万国を理むる者は明君の徳なり乱を発して四海を鎮むる者は武臣の節なり是れ昔大塔宮護良親王の令旨なり方今君側の奸臣等廟堂に謀議し朝典を濫造し殺伐を以て海内を擾乱するの所業は朝命に托すと雖も其の実は新天子の至誠に出さるは列聖神霊の鑒るところ天下億兆の見るところ万々疑う可き無し特に偽命に惑はされ脅従威服の諸侯少からず孤は今上の叔父なり孤にあらずして誰か此の奸を明白にすべき故に今万民を冒して之を一言す

一 徳川慶喜政権を天朝に奉復せしは去年十二月十日なり伏見砲撃の一挙は今年正月三日なり錦旗を出す其第三日なり奸臣等此の事変に僥倖は慶喜に言れなく叛逆の罪を負はせ其の恭順謝罪するに及びて俄に死罪一等を減じ剰へ一己の私算を以て七十万石名跡を許す実に濫章濫罰幼帝を蔑如し朝権を独断するの縦跡顕然掩ふ可からず先帝をして在せしめば其れ之を何とかの給はん其の罪一

一 其の諸侯を駆使するや猥りに王命を以て之に迫り已に王朝の臣たり旧主の存亡は越人の肥瘠なりと申し惑わし弟をして兄を伐ち臣をして君を伐たしむ人情固有の論理乱る天地に容る可からざる聖教の罪人なり其の罪二

一 五月十五日賊徒等勅額も之ある寛永寺へ砲発の一条惨毒の至り孤之を言ふに忍びず其の殺戮の甚たしきに至ては暴戻恣睢肝心の肉盗跖にも此し難し実に人皇百二十二代の今天子に当り聖徳を穢し奉るのみならず後世史筆の大書直書恐るゝにも尚余りあり其の無知強暴天威を畏れざるの致し方神人共に怒り言語同断なり其の罪三

其の他の罪悪髪を抜くも数へ難し孤は今上の叔父なり九重の宸憂痛心悲歎一日も忘る可からず此の旨奥羽連藩へ急々布告し東海東山北陸鎮西大小諸侯迄同じく大義を助ヶ征伐の策を運らし掃蕩の功を奉せん事を依頼至望するのみ
 慶応四年七月 仙台仙岳院に於て

一品法親王
此旨欧文に翻し孤ヵ忠誠明白なることを海外各国公使に告け万国の公論を問んことを欲す


 この日米沢の兵一中隊を須賀川に出し、岩城を援けんとし守山を経て平に進む〔仙台戊辰史〕。

 この日西郷頼母総督を免ぜられ、内藤介右衛門これに代わる、東方面戦闘の成績よろしからざるにより此の命ありきと云う。
 七月三日伊達慶邦朝臣は白河の形勢東軍に不利なるをもって自ら出でゝ諸軍を督せんとす、たまたま病あり、藩相坂英力をしてこれに代わらしめ、親ら賜うに名刀を以てし、且つ命じていわく、苟号令に違う者あらば斬って以て三軍へ従えよと、英力感激し兵を率いて発す〔七年史、仙台戊辰史〕。
 この日平城より兵一中隊を出して、常陸笠間の城主牧野備前守が中壁村(石城郡神谷村大字中神谷)の政庁を襲うて守兵を走らし、進んで薬王寺(平町の東南二里許の所に在り石城郡大野村に属す)の西兵を攻撃す、爾来西軍は平潟、泉、野田、湯長谷、小名浜に屯営してもっぱら休養に勉む、五日黄昏斥候奉じていわく、西兵湯本村(石城郡湯本町の西南一里余)に屯集すと、仙台兵夜襲してこれを破る、七日東軍土工を督し三尾村、七本村の要衝に壘城を築き、戍兵二小隊を置く〔東記、七年史、仙台戊辰史〕。
 既に述ぶるごとく人見勝太郎の長崎丸に投じ小名浜に上陸して湯本に在るや、たまたま西軍平潟湾を襲撃す、勝太郎砲声を聞き馳せ至れば、仙台兵戦わずして遁逃し、咽喉の地早く已ん西軍のよる所となり、東軍利あらず、勝太郎退いて仁井田山、湯長谷、平城等に苦戦するもの数日、頽勢ついに支ふべからず、まさに北陲に走らんとす、時に雲井龍雄もまたこの地に在り、勝太郎一日龍雄等を招きて会飲訣別す、龍雄、勝太郎に言っていわく、勝敗は兵家の常なり、一敗を以て悲しむを休めよ、予これより潜行して両毛の諸藩を説き、義旗を挙げ、西軍の背後を衝かば彼必ず敗走せんと、勝太郎大に悦びていわく、奇策用ふべしと、これにおいて快飲談笑暁に徹せりと云う〔雲井龍雄伝〕。
 この日仙台の将鹽森主税は棚倉城を恢復せんとし、兵を率い郡山を経て三春に進む〔七年史、仙台戊辰史〕。

 これより先会津、荘内解の行はれざるを憤り、奥羽諸藩三十一藩は攻守同盟を結びしといえども、加盟諸藩中には皆必ずしも一定不変の所信に基づきて向背を決せしにあらず、中には自ら四囲の形勢に制せられて事情止むを得ず加盟したるものなきにあらず、故に一朝天下の形勢会荘軍および同盟軍に不利なる兆候を現すに至れば、渝盟の挙に出づるものあるはまた自ら免れざる所なり、果たせるかな七月に至り秋田藩、津軽藩の欵を敵軍に送るあり、昨の同盟軍と鋒を交ふるの止むを得ざるに至れり、津軽の仙台に輿へし断交状は書辞鄭重なりしも、秋田に至りては仙台の使節を斬りて西軍の歓を買い、甚だ武士道に背くの挙を演じたるをもって、同盟軍の憎む所となり連戦皆敗れ、領土はその大半を失い、一時危急に瀕するに至れり、その他渝盟の藩々に就いては各方面の戦記に記述す。
 七月十一日我が藩田中源之進、二本松藩相丹羽丹後、その他列藩の諸将須賀川に会し、一挙して白河城を抜かんことを議し、諸将の向う所を部署す。
 この日伊達慶邦朝臣の世子伊達宗敦は仙台城を発し、即夜岩沼に宿し、十二日白石城に至り、それより国境越河(宮城県刈田郡越河村の大字)経て福島、二本松までも進まんとする予定なりしが、時に平城危急を告げ、もし陥落せば相馬もまた安全を期すべからず、よって急に議を変じ相馬国境駒ヶ峠に進む、この日仙台藩横田官平福島に来り板倉勝静朝臣、小笠原長行朝臣に勧めて共に白石城に至る〔南摩筆記〕。
 平城において七月十日早朝薩州兵小名浜よりの来襲を受け、東軍これに応じて戦う、西軍兵を分ち左側の山道を迂回し、下三尾村の後方より七本松の背後に出でんとするを察し、七本松の守兵を分ち撒兵となして背後に備へしむ、西兵果たして背後より挟撃す、東兵は前方の胸壁により、後方は撒兵して久しく防戦すといえども援なきをもって兵を収めて平城に帰る、西兵その壘壁を踰えて進み来る、平城は険要の地にして守りやすく攻め難し、故に容易に抜くこと能はず、更に薩州、佐土原、柳川、大村の兵を合わせて来り攻む、勢甚だ鋭し、城兵(仙台、米沢、中村、純義、彰義、平)能く防ぐ、この時に当り米沢藩の将江口縫右衛門、三中隊を率いて四ッ倉より来りて城兵を援く、江口が兵に三十目銃隊三十二人あり、各三十目弾の銃を執り、しきりに西兵を猛撃す、西兵辟易して七本松、三尾に退く〔東記、七年史、米沢藩戊辰軍記、戊辰私記〕。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1
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  1. 2013/02/08(金) 09:32:17|
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