いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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守山の降伏

守山の降伏

 七月二十五日蓬田(石川郡蓬田村の大字)の東軍は浜街道の西軍小野新町に向うと聞き、この地を空うしてこれに赴き、且つ三春反盟の色明らかなるを以て、守山藩は孤立の状に陥りついに西軍に降れり〔会津戊辰戦史〕。
 七月二十七日三春藩いよいよ同盟に背きて西軍に降り、薩州、土州、忍、舘林、黒羽、彦根等の兵を導きまさに二本松城を攻めんとす、これにおいて列藩急に兵を発して二本松軍を援く、西軍本宮を攻む、我が兵本宮を守り逢隈川を隔てゝ防戦す、西兵川を渡りて東軍に当り、土州断金隊々長美正貫一郎中流に兵を叱咤して進む、我が兵狙撃してこれを倒す、仙台の将鹽森主税、細谷十太夫、大立目武蔵赴き戦うも支ふる能はず高倉(陸奥街道の一部落にて本宮の南一里弱に在り)に退き、大松澤帰部之輔の兵を合わせて高倉山により銃戦これを久うす、すでにして西軍大挙して来り攻む、仙台兵ついに敗れ西軍本宮による〔仙台戊辰史〕、これにおいて二本松危急に迫る、この夜軍議を城中に開く、あるいは降らんと云い、あるいは戦わんと云い決する所あらず、藩相丹羽一学慨然としていわく、同盟に背き信を失い敵に降りる人これを何とか言わん、むしろ死を致して信を守るにしかずと、議すなわち決す〔二本松藩史〕。
 七月二十九日二本松城東小浜(安達郡小浜町)に屯せる西軍の薩、長、備前、佐土原の兵は拂暁三春藩兵を嚮導として逢隈川の前岸に達し、二本松兵と河を隔て砲戦良々久うしてついに河を渉りて進み、供中口を破りて直進す、会津、仙台の兵来り援けしも衆寡敵せず、敵郭内に乱入す、この時に当り一方本宮を発せる薩、土、大垣、忍、舘林、黒羽の兵はまた三春兵の嚮導により正法寺に向って進み、兵を交え次いで大壇(正法寺、大壇供に陸奥街道に在り)に迫り、激戦互いに勝敗あり〔二本松藩史〕、時に仙台の将氏家兵庫兵を率いて松坂(松坂門は二本松城り南隅の門なり)口に出て戦い、我が井深守之進隊、櫻井弥一右衛門隊は本宮口に在りて奮戦す、使者甚だ多し、櫻井隊(朱雀二番足軽隊なり)のごときは中隊頭弥一右衛門重傷を負い、小隊頭小笠原主膳は戦死し隊員の半数を失う、すでにして敵の一隊は城後を襲い三面合撃す、時に二本松の兵大半出でゝ白河方面に在り、守城の兵甚だ少なく新たに老少を募りてこれに充つ、なお能く殊死防戦すといえども城外の援軍皆敗退して如何ともする能はず、城まさに陥らんとす、重臣等は城主丹羽左京大夫主をして囲を衝いて米沢に、夫人をして会津に遁れしめ、藩相丹羽一学、城代服部久左衛門、同丹羽和左衛門、郡伏見習丹羽新十郎火を牙城に放ち、従容として自刃し、以て国難に殉し、城ついに陥る、その壮烈なる反盟諸藩士を愧死せしむるに足れり。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1





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  1. 2013/02/10(日) 17:14:11|
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