いがぐり史料館

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十一  新選組     『京都守護職始末1』

 壬生浪士     十月、幕府老中の人々が、左の内旨をわが公に伝えてきた。

当所に罷りあり候浪士のうち、尽忠報国の志ある輩これある趣に相聞え候。右等の者ども、一方の御固(かため)を仰せ付けらるべく候間、その方一手に引きまとめ、差配致さるべく候事。

 はじめ京師に浮浪の徒が跋扈をきわめたとき、江戸でもおなじ轍を踏むことを慮って、大いに浪士を募り、寄合鵜殿鳩翁、山岡鉄太郎、松岡万らにこれを統轄させた。その衆は二百人余、将軍家上洛の途次、列外の護衛として、中山道を通って京都に入った。これによって、京都の浪士たちを圧迫しようという策であった。
 彼らが京都へ入るなり、議論嗷々(ごうごう)として、挙動もまた粗暴をきわめた。英国人来襲の報をきくと、すぐさま東帰して、攘夷の先駆けをしたいと望むものもあり、止まって将軍家を守衛したいと言うものもあり、鳩翁らがこれを制御しようとしても手に負えない。ついに、東帰せんとするものを鳩翁みずから率いて東下し、止まりたいと欲する者二十余人を、右の内旨によってわが公に付属させることにした。これを新選組という。壬生寺に屯集したので、世間では壬生浪士と称んだ。
 新選組【注一】は規律が厳粛で、志気勇悍、水火といえども辞せず、その後、諸浪士の来付するものもすこぶる多く、守護職のために役に立つことも大きかった。





 【注】

【一 新選組】 文久二年(一八六二)、浪人の横行は、京都だけではなく、江戸でもはなはだしかったので、幕府はその統制策として、十二月、講武所剣術教授方松平忠敏(主税助)、同剣術世話心得山岡鉄太郎(鉄舟)、小普請支配鵜殿長鋭(鳩翁)をして、その任にあたらせ、浪士組を編成した。そして翌三年の将軍上洛に、列外護衛として、京都に行かせ、京都浪士に対抗させた。彼らは葛野郡壬生村地蔵寺に宿所をおいたので、世に壬生浪人といわれる。ところがこの浪士組の首領清川八郎は、尊攘派志士であったので、国事参政、国事寄人ら尊攘派公卿に意を通じて、攘夷実行の行動に出ようとした。幕府は、当初の目的に反することとなったのに驚き、三月、英艦横浜渡来を理由に、清川ら二百人を江戸に帰らせた。しかし近藤勇(昌宜)、芹沢鴨、土方歳三らは、清川と意見がちがっていたので、そのまま滞京し、京都守護職の指揮下に入って、新選組と称することとなった。この後、新選組は多くの浪人を集め、京都尊攘派志士の取締りと襲撃の第一線に立った。

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  1. 2012/10/30(火) 07:19:35|
  2. 京都守護職始末1
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