いがぐり史料館

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相馬の背反

相馬の背反

 同六日相馬藩同盟に背き西軍に降る、これより先、仙台、米沢の兵および徳川氏の兵相馬藩を援けて西軍を防ぐや、藩主相馬李胤主依頼甚だ篤かりしが、平城陥るの後西軍次第に来り迫る、すでにして仙米兵を班へして国に帰り、各国境を防御せんとす、李胤主切に止りて援けんことを乞うも仙米の兵肯ぜず、これにおいて相馬藩孤立し加ふるに兵寡くして西軍に坑すること能はず、ゆえに降意なしといえども止むを得ず、ついに降を乞うと云う、後徳川氏の臣某相馬に至りて西軍に降るを詰りしに、彼ら陽はに涕泣してその情状を談じ、仙台、米沢の援けざるを怨望せりと云う〔南摩筆記〕。
 相馬の降伏は、攻守同盟の精神に背きて各藩兵を班へし、相馬をして孤立せしめたるに起因す、厳密に武士道の見地より論ずれば赦し難き感あるも、人情より論ずれば深く咎むべからざるに似たり、三春の例を以て論ずべきにあらず。
 輪王寺法親王令旨を仙台、米沢以下列藩に賜う、八月九日小笠原長行朝臣諸人と共に福島に至り、二本松城の西軍を進撃することを議す、我が三瓶梶助、南摩綱紀等飯坂に至り葆真主に謁し、また二本松兵の屯集せる庭坂村(信夫郡に在り)に至り、その藩相丹羽丹波等と議して出師を約し、諸藩の間に周旋して部署ほぼ定まり、十二日二本松城を進撃せんとしたるが故ありてこれを止む、これより日々福島軍議所において軍議をなす〔南摩筆記〕。
 八月十日林昌之助白石城下に至り、輪王寺法親王に謁す、同十二日岩沼に至り伊達慶邦朝臣父子に会す〔林一夢日記〕。
 八月十六日夜半列藩の兵を三分し、仙台は本道八丁目駅よりし、二本松、山県、上ノ山の兵これを援け、米沢および二本松の背後を襲い、福島の兵は逢隈川の南北岸諸々に進むの策を決し、各隊進軍す、会々霖雨泥濘歩行便ならず、仙台兵等八丁目に至れば天すでに明けたり、西軍山上に在りてわずかに発砲す、仙台兵、二本松兵先づ退き、山県、上ノ山の兵したがつて退く、小笠原長行朝臣これを途に要して止むれども及ばず、皆先を争うて福島に遁れる、間道の兵もまた傍観し進まずして帰る、これより後福島の近傍、川俣、保原辺にて仙台兵しばしば西軍と戦い互いに勝敗あり、梶助、綱紀等士しきりに列藩士の間に奔走周旋して先づ二本松城を進撃せんことを議す、一夜若宮駅屯集の仙台兵逃れ来りていわく、西軍の大兵三方より来り襲うと、しかして列藩の兵もまた徃々遁れ来りたれば福島城下騒擾す、石母田但馬、大越文五郎等列藩士会議一致せず、且つ若宮駅中危険の迫るを恐れ、皆諸物を運搬し遁逃して空家となる、仙台兵百五十人許この駅に屯集せしが、この日薄暮山下に銃声を聞き、言へらくこれ西軍の背後に廻れるなりと先を争うて遁れ、駅中また隨って遁る、長行朝臣この状を見て歎じていわく、列藩兵勢の振はざることこのごとし、到底進撃すること能はずと、すなわち仙台に至りてこれを議し、荘内藩隊頭中村七郎右衛門に謀る、これより先七郎右衛門仙台兵を援けんとし、三小隊を率いて駒ヶ嶺に赴きしが、これにおいて急に福島に至らんことを約し、即夜先づ二小隊を発し己もまた翌暁残兵を率いて福島に至り、荘内兵を主とし列藩の兵を合わせて二本松の西軍を攻撃せんことを議せしが、兵寡きを以てついに決せず〔南摩筆記〕。
 八月十九日輪王寺法親王手書を伊達慶邦朝臣に賜う。

秋冷之折柄愈御安泰珍重不斜候扨片倉氏事は旧来之名家にて別而当小十郎並家来供迄大奮発之由承候就ては福島辺へ其藩より出張之兵隊は同人へ総括指揮等之儀委任有之候ては如何可有之哉右等彼是心配之余り御相談旁自證院差遺候委曲之儀は自證院より可申述候也不備
 八月十九日
公現
中将殿
猶々時下折角御厭専要に存候在陣中嘸々多事察候何卒早々御成功祈入候也


 越えて十八日慶邦朝臣は左の答書を呈す。

謹而御直翰奉拝見候家来片倉小十郎祖先以来之名家且当小十郎並家来共迄奮勤罷在候次第被為聴召仍而福島表出張兵隊同人へ惣括指揮等之儀委任致候様被為思召以後使僧蒙御懇命於慶邦冥加至極難有仕合謹而奉畏候巨細自證院へ申含候間被為聴召度奉伏願候不顧忌諱御請奉申上候慶邦誠恐誠恐頓首百拝
 八月二十一日 仙台中将


 八月十八日林昌之助仙台を発し、十九日白石城下に至り法親王に謁す、再び若松に赴かんとし、二十三日米沢城下を経て綱木駅に至る、会々米沢藩小森澤琢蔵若松より帰り来るに逢う、琢蔵いわく、西軍若松城下に侵入し、火を諸々に放ち戦い今や酣なり、寡兵を率いておもむくも城中に入ること難し、空しく兵を失わんよりは策を改めて必勝を期しては如何と、説くこと最も懇篤なるに似たり、しかれども昌之助は始め会津と存亡を共にせんことを期したるを以て、今その危急を見て救はざるは本意にあらずとなし、あえて若松城に赴かんとす、琢蔵再三利害を説いて諌止す、昌之助ついにこれを容れて二十四日米沢に至りて商議す、昌之助いわく、今会津の危急を救わずして力を他家に尽くすは我が志にあらず、今より輪王寺法親王を守護し生死ただ法親王の運命に従うべしと、二十五日その臣大野友弥、伊能矢柄を白石に遣わし、二十六日法親王の執当覚王院に面接してその志を述べ、法親王の守護たらんことを請う、覚王院思えらく、これ彼ら戦闘の勇なく名を守護に借りてしばらく安逸を貧らんなと欲するなりと、よって励声大野、伊能等に言っていわく、足下等本国を脱し徳川氏の冤枉をそそがんと欲するは甚だ善し、しかるに今奥羽危急の秋に際し、法親王の守護を求め、空しく時日を経過せんとするは何ぞや、我が釋氏の徒にして戦略を知らずといえども、幕府亡命の臣および奥羽列藩は多くは因循論に心配せらる、特に会津藩のごときは本国の安危に関せず、大挙して白河城に向い、少敗に屈せず直ちに野州に出でなば、西軍支ふるに暇なく、両家の諸侯風を望んでこれに応ぜしならんに、事これに出でず区々として国境を守り、時に時日を費やし、西軍の破る所となりて大事を誤るに至れり、足下等主公を勤めて徳川氏の臣等と相議し、速に兵を福島城に出し、大挙して中街道の西軍を撃攘し、二本松を回復して会津を援くるにしかずと、大野、伊能は覚王院の論ずる所また一理あるに服し、再び寡君に告げて旨を請うべしと云いて辞し去り、たまたま白石に来れる昌之助、覚王院の議論もっとも理ありとし、再び仙台に至り援を遊撃隊に請い、速に福島城におもむき遙かに会津の声援をなすべし、遊撃隊もし従はずんばしばらく彼に合し、仙台藩を助け時機を待つべしと決心し、全軍を白石に留め、家臣四人を率い二十九日仙台におもむく〔林一夢日記〕。
 八月晦南摩綱紀寒風澤に至り、小笠原長行朝臣および我が藩士諏訪伊助、柏崎才一と共に回陽丸に至り、榎本武揚に面していわく、列藩と謀りて二本松城を進撃し若松城を囲める西軍を攻撃せんとするも、寡兵当る能はず、請うこれを援けよと、武揚いわく、余江戸海を発し鹿島洋において大風波に逢い、回陽、回天の二艦破損し、わずかにこれを牽き来る、咸臨および某艦は索綱を絶ちてこれを放ちその存亡を知らず、彼の二艦には陸軍隊および砲銃弾薬諸器械を載せ、この二艦には海兵と器械とを載するに過ぎず、寡少の陸兵ありといえども未熟事を成すに足らずと、綱紀強いてこれを乞う、武揚いわく、五十人を選び、軍艦用ふる所の砲と金とを輿へて援けしむべしと〔南摩筆記〕。
 九月朔日小笠原長行朝臣および仙台藩相松本要人、我が諏訪伊助、柏崎才一、南摩綱紀等仙台の軍議所に至る、榎本武揚はフランスの教師「ブリユーネ」および某を伴いて来り、列藩同盟の士を集めて会議す、この時「ブリユーネ」戦法を説きていわく、土人に多く金を輿へて探索せしめ、各地に在る敵兵の多少、および毎日夜の実状を審知し、また地理を熟知し、我が兵の配置の多少、胸壁の修築、戍兵斥候の用法等を精密にせざるべからずと、自ら図を画きて指示し、且ついわく、奥羽越列藩同盟の兵およそ幾何ぞ、列藩士各その兵数を概算しこれを合すれば概略五万人なりと答う、「ブリユーネ」いわく、その半数を用ふるも可なり、皆能く吾が言を用ひ、海陸並び進まばたちまち西軍を撃攘して江戸を回復し、京師に至るに何の難きことかこれあらん、請う諸君と評議せん、しかして会津を援くるは焦眉の急なり、速に師を出して孤城の囲を解き、大軍を発して大事をなすべしと、武揚等これを賛成す、軍議終りて宴を開く〔南摩筆記、仙台戊辰史〕。
 
 この頃仙台、白石、福島の間に在りて周旋尽力する者左のごとし、但し白石公議府会議のものも徃来尽力すること少なからず。

仙台
坂 英力
松本要人
石母田但馬
大松澤帰部之助
蘆名靱負
増田歴次
真田喜平太
大越文五郎
玉蟲左太夫

荘内
山岸 市右衛門
白井吉郎
戸田総十郎

会津
神尾鐡之丞
柴 守三
柏崎才一
土屋総太郎
三瓶梶助
坂 綱
永岡敬次郎
安部井政治
結城繁治
雑賀孫六郎
井深恒五郎
松川信平

二本松
植木二郎右衛門
浅見 競

福島
藤川退蔵
小林孫三郎
山岸市之助
窪田市兵衛
富田善平
水野豊八


 時に永岡敬次郎、一日白石城に在り、奥羽越の同盟解体し事の成すべからずを慨し、一詩を賦していわく、

獨木誰支大廈傾 三州兵馬乱縦横
覊臣空灑包肯涙 落日秋風白石城


 九月三日永岡敬次郎、榎本武揚の発したる兵士五十人と共に福島に至れば、米沢兵三百余人来りて列藩士に降伏謝罪を勧説する所あり、翌四日仙台頭大松澤帰部之助以下皆米沢人の説に従って兵士解体す、独り荘内藩中村七郎右衛門憤慨していわく、仮令中途に死するも進撃せんと、南摩綱紀また仙台城下に馳せて兵を増さんことを議す、しかるに仙台城中すでに降伏の議起こり未だ決せず議論沸騰す、すでにして大鳥圭介、古屋佐久左衛門兵を率いて福島に至り、我が大庭恭平、金子忠之進、籾山精助等また従って至る、これより先き圭介は恭平等と小荒井(耶麻郡喜多方町の大字)より磐梯山後を廻り、猪苗代城に至り、若松城外の西軍を進撃して囲を解かんことを申合いて出発せしが、大鳥、古屋等これを履行せず、直ちに土湯を経て福島に至らんとせしを以て、大庭等これを力争すれども聴かずしていわく、糧食弾薬に乏しくして戦うべからず、ゆえに福島に至り小笠原侯、板倉侯および仙台兵と議し、先づ物資を備へて後進撃せんと、大庭等止むを得ず共に福島に至りしに、この地降伏の論盛にして、西軍福島に来るの形勢ありたれば止まることを得ず、諸兵また徃々離散して桑折、白石および仙台城下に至る〔南摩筆記、仙台戊辰史〕。






卷五 東方の戦上  会津戊辰戦史1
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  1. 2013/02/13(水) 12:12:24|
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