いがぐり史料館

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飯山の戦(長岡及び其の付近の戦)

飯山の戦(長岡及び其の付近の戦)

 越後方面に従軍したる諸隊左のごとし。

越後方面総督 一瀬要人

軍事局 柴太一郎 柳田新助

土工兵隊指図役 安部井壽太郎

水原府鎮将 萱野右兵衛(この隊の編成は旧番頭隊に同じ)

組頭(撒兵) 伴百悦 (後)河瀬重次郎

組頭(砲兵) 中澤志津馬

朱雀四番士中隊 中隊頭 佐川官兵衛 (後)町野源之助

朱雀二番寄合組 中隊頭 土屋総蔵 (後)伴百悦 山田陽二郎 西郷刑部

朱雀四番足軽隊 中隊頭 横山伝蔵

青龍三番士中隊 中隊頭 木本愼吾

青龍二番足軽隊 中隊頭 諏訪武之助

第二砲兵隊高橋権太輔隊の分遺隊 組頭 市岡守衛

一門司令官 原幾馬

一門司令官 黒河内新六

備組後に木村の大砲隊と合併して第二遊撃隊 隊頭 井深宅右衛門

大砲隊後遊撃隊に合併 隊頭 木村忠右衛門

町野隊並び修験隊(のち朱雀四番士中隊の付属となる) 隊頭 町野源之助

新遊撃隊 隊頭 佐藤織之進

結義隊 隊頭 渡辺栄次郎 井上哲作 木澤鐡作

衝鋒隊 隊頭 古屋佐久左衛門

水戸藩亡命の士諸生党 隊頭 市川三左衛門 朝比奈弥太郎 筧助太夫

土著兵(河原田治部旧臣六十里越守備) 隊頭 河原田治部

土著兵(山内大学旧臣八十里越守備) 隊頭 山内遊翁

土著兵(沼沢出雲旧臣) 隊頭 沼沢出雲


 これらの隊後に至り加わりたるものあり。

 二月十日大砲隊々頭木村忠右衛門将校兵士七十一人勘定方吏員医師等七人を率いて津川(越後国蒲原郡)に至り、備組の酒屋(越後国蒲原郡)の官庁を守れるを援く〔累及日録〕。

 同十五日大砲隊一番格(甲士九人寄合組十二人)赤谷に至り国境を守る〔累及日録〕。

 三月六日萱野右兵衛、水原府鎮将と為る〔累及日録〕。

 三月十六日朱雀二番寄合隊中隊頭土屋総蔵は将校兵士百二十五人農兵二十二人を率いて酒屋の警備を援く〔西記〕。

 この夜酒屋を守れる遊撃隊組頭茂原半兵衛酒屋より津川に至る、その言によれば勅使小浜藩等の兵を以て越後高田に入り北越騒然たり、ゆえに兵を米沢嶺に出してこれを抑えせしめんとせしも期すでに後る、よって兵を観音寺村に出し猿ヶ馬場峠を守らんとして大砲隊の進軍を促すために来るなりと、これにおいて大砲隊組頭安部井彦之助は一番格寄合組鈴木四郎を遺して明十七日を以て全隊津川を発することを井深隊に告ぐ〔累及日録〕。

 同七日早天大砲隊まさに発せんとするに際し藩相西郷頼母は書を寄せていわく、溝口老侯まさに国に帰らんとし若松城下に宿するを止む、新発田の藩士等これを迎ふるに托し我が国境に入るやも知るべからず、よろしく関を厳守すべしと、これにおいて俄かに酒屋に発するを止め、二番格寄合組東重次郎、二番格寄合組佐藤勝弥を酒屋に遣わし、赤谷の守兵若松を発しすでに途に在り、この兵来らざれば発すること能はざるを報ず、すでにして有泉壽彦青龍二番士中隊を率いて赤谷に入る〔累及日録〕。

 同十九日朝、大砲隊津川を発し、舟数隻に分乗し阿賀川の激流を下り酒屋に上がる、井深隊に対し明日共に観音寺村に兵を出すことを約す〔累及日録〕。

 同二十日寅の下刻、井深隊先づ発し大砲隊これに次ぐ、井深隊すでに信濃川大野の渡口を渡り終わらんとし、大砲隊これに次いで渡らんとする時舟覆へり溺るゝ者十余人なりしが皆泳いで岸に達することを得たり、隊長すなわち隊士をして溺者を扶けて酒屋に帰らしむ、新領地の郡奉行名倉新兵衛これを憫み懇切に待遇せり、この夜大砲隊弥彦に宿す〔累及日録〕。

 同二十二日これより先十八日若年寄西郷勇左衛門および朱雀二番寄合組隊は、新発田老侯溝口静山を警衛して若松を発し、この日赤谷村端よりその警衛を止む、老侯は新発田に帰る、同隊五十公野に宿す〔西記〕。

 同二十七日大砲隊は帰りて酒屋を守り、井深隊は小千谷に赴く、これより先暴徒富家を掠奪するを以て加茂在陣の桑名藩より使を我が大砲隊に遣わして鎮撫を乞ふ、よって三番格(甲子十一人、寄合組十二人)加茂に赴く、後一番格これに代わる、初め酒屋付近は人情恟々たりしが我が兵至るに及びて衆心大に安んず、隣境新発田封内の人民もまた堵に安ぜりと云う〔累及日録〕。

 同二十九日これより先旧幕臣衝鋒隊長古屋佐久左衛門はこの月九日上州梁田に敗れたる後若松に入りしが、後その兵五百余人を率いて越後に来り、この日今井信郎、永井蠖伸齋、鈴木蠖之進等新発田に赴き、藩庁に至り徳川氏の冤枉を雪がんことを托し、趣旨を村松、長岡及び村上に通す〔七年史〕。

四月二日朱雀二番寄合組隊営舎を新発田城下〔西記〕。

同三日同隊分隊出て沼垂町に次す〔西記〕。

同十七日今井信郎等高田藩竹田初太郎、川戸藤太郎を柏崎に見てその素志を告ぐ〔七年史〕。

同二十日古屋佐久左衛門信州飯山に至り、飯山藩坂本雄兵衛、黒田直右衛門等に長澤駅に会し素志を告ぐ、飯山城下に次し、飯山藩と共に盟約す〔七年史〕。

同二十四日古屋等中野陣屋に入らんとし、この夜松代、須阪の兵高社山に登りて篝火を七所に焚く〔七年史〕。

 同二十五日古屋等秋山繁松をして書をもたらして高社山に至り来意を告げしめんと欲し、飯山藩士と共に小舟に乗りて千曲川の中流に至る、時に中野に陣せる西軍の尾張、松代の兵相謀りて共に千曲川の東岸安田の渡頭に進む、折柄その小舟を見て堤陰より銃を発し従兵二人を傷けたれば秋山大に驚きて舟を返す、これにおいて東兵川を挟んで戦う、西兵大砲二門を以て応射したるが東兵狙撃して砲手倒し砲を発するを得ざらしむ、すでにして東兵飯山城に至り大砲を借らんとしたるに、城中より散弾を発し東兵斃るゝ者数人、東兵怒って城を攻む、東兵の河辺に在る者背後の砲声を聞き、飯山藩の兵と共に退いて城門に至れば飯山藩の兵皆逃げる、東兵急に城に迫るも抜くことを能はず、西軍尾州、松代、須坂の兵千曲川を渡り東兵の背後を撃ちしかば、東兵火を市街に放って富倉山に退く〔七年史〕。

 四月二十六日東兵の別軍早暁新井を発し途に砲声を聞きて進みしも、中軍後軍路を異にして相見ず、飯山城下に入りて松代の兵と戦ってこれを破る、城兵我を狙撃するを見て始めて飯山藩の反覆を知り、棚門を破り入って戦う、西軍すでに退くを知り市街を出でんとして、また松代の兵と戦い、その将を斃しその馬を奪い敵を城北の山上に走らしむ、古屋令して兵を退かしめ夜襲を議す、時に楠田兼三郎高田より来りていわく、高田藩反覆の状あり、我が軍は川浦を退き守るにしかずと、これにおいて富倉山を発し川浦に退き戦略を議す、たちまちにして西南四五町に砲声を聞く、古屋いわく、地理を知らずして夜襲するは不可なり、避けて塚山の険によるべしと、東北に向って退く、衛兵の駅端に在る者ほとんど死す、今井信郎殿戦し火を川浦駅に縦って退く、時に大雨咫尺を弁ぜず〔七年史〕。

 同二十七日古屋等兵を検するに三分の一を失い、弾薬軽重空しく如何ともなす能はず、よって小千谷に退き弾薬を水原に求めしむ。
 この時に当り川浦の敗兵来り集まる者多し、すなわち更に大隊を組織して衝鋒隊と云い、その兵器を失う者八十人を一小隊となして浮撃隊と云う、内田庄司これを指揮す〔七年史〕。
 
 この時大砲隊赤谷を守るべきの令あり、隊士関場辰治、中川景次郎、東重次郎等隊長安部井彦之助に説いていわく、酒屋の守備厳なるを要す、ゆえに兵を収むべからずと、安部井懇諭していわく、新発田の向背測るべからざるものあり、且つ国境の守備もまた厳ならざるべからず、これこの令ある所以なりと〔累及日録〕。

閏四月八日大砲隊酒屋を発す〔累及日録〕。

同九日大雨、大砲隊赤谷に入る〔累及日録〕。

同十五日朱雀二番寄合組隊営舎を五十公野に移す〔西記〕。

 この時大砲隊組頭安部井彦之助は、隊士関場辰治に命じ五十公野に至り朱雀二番寄合組隊中隊頭土屋総蔵に就いて新発田の情状を問はしむ、土屋いわく、能く彼が情状を知らざる者は辞を卑うし礼を厚うして我を欺くものとなすも、吾熟々彼の情状を探るに決して我を欺くの策にはあらず、何となれば家老堀平太夫三百人を以て京師に留められその上江戸にも兵を置けり、ゆえに兵を出す能はずといえども金穀は力の及ばん限り用に供すべしと云いてすでに米金若干を我に送れりと、且つ彼は我に向って道路の説を信じて和を破るなかれ、京師および江戸の事情は報道を怠らざるべしと云いて爾後京師江戸の事情を報ぜり、彼なおいわく、我を疑うことあらば城を致すべしと、この日我が水原陣営において近村より草鞋を買い集めたるに彼を襲わんとするなりと速了し闔藩洶々たり、時に一士人あり先んずれば人を制す、速に兵を発して水原を襲わんと云いたるも闔藩応ずる者なくして止みぬ、これらの事実によりて思うに新発田藩の我に背く意なきや明かなりと、関場帰りてこれを安部井組頭に復命す〔累及日録〕。

 閏四月十六日朱雀四番士中隊中隊頭佐川官兵衛を率い我が管轄する所の越後水原に至り不慮に備ふ〔西記〕。

同二十日砲兵二番隊分遣隊小隊頭市岡守衛分隊を率いて越後の我が管轄地を守る〔西記〕。

 松平定敬朝臣は今玆三月家臣百五十人を従え江戸を去りその封疆柏崎に至る〔七年史〕、江戸に在りし桑名の士町田老之丞、杉浦秀八、立見鑑三郎、馬場三九郎等馳せて柏崎に来り主戦論を主張す〔河井継之助伝〕、時に柏崎に在りし同藩老分(他藩にて云う家老なり)吉村権左衛門は恭順論を主張しまさに兵士を率いて桑名に帰らんとす、同藩士山脇隼人(後に正勝又巍と云う十九歳)、高木剛次郎(後に貞作)の二壮士は吉村に向って徳川氏の為に決してこの地を去るべからずと諌めたるも吉村聴かず、二士ついに吉村を殺す、これにおいて開戦論に決し兵士は皆柏崎に止まるを得たり、二壮士の兵を率いて会津に投ぜんと欲し水原に至りて我が軍事局に告ぐ、軍事局は国法を犯したるものとなし会津に入るを許さず〔町野主水談〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2
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  1. 2013/02/20(水) 09:58:47|
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