いがぐり史料館

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三国峠の戦(長岡及び其の付近の戦)

三国峠の戦(長岡及び其の付近の戦)

 閏四月二十四日これより先我が封内の小出島の郡奉行兼幌役町野主水は部兵二十人および郷兵六十人を率い徃いて国境三国峠を守ること二旬余、時に関村の郷農某町野を訪ひ、米二万俵を上州に出し置きたるが今これを三国峠に運搬してその半を兵糧として貴軍に獻ぜんと申出で後これを実行せり〔町野主水談〕、西兵未だ来らずよって郷兵を帰らしめ僅かに部兵を留む〔懐旧録〕、この日西軍兵を三国峠に進め小千谷を衝かんとす、早暁町野主水は部兵を率いて三国峠に至り、胸壁を般若塚に築きてこれを守る、主水の弟久吉十六槍を掲げて敵軍を突かんことを請うて止まず、主水その猪勇を戒めしが聴かずしてついに敵に赴きて死せり〔町野主水談〕、遊撃隊半隊山上より望むに西兵すこぶる多し、東軍防戦し午前より未の下刻頃に及ぶ、遊撃隊頭井深宅右衛門本体を率いて来り援く、西兵山を越え関村に入る、町野いわく、関村の敵を撃派して進むべしと、井深聴かずしていわく、山道より退却するの勝れるにしかずと、議協はず、黄昏に至り西兵は東軍の左右を進撃す、井深退却を開始す、町野もまた退却して小出島に帰る(三国峠を距ること四里)、会々奉行山内大学一小隊を率いて会津より来り援く〔懐徳碑、町野主水談〕。
 
 この夜桑名の将町田老之丞、立見鑑三郎、馬場三九郎等相謀り大河内の城山に登り西軍の陣営を監察せんとし、村民の地理に熟せるものを案内とし大雨を冒して山上に達す、西軍陣営の篝火星のごとく、谷根より青梅川に連る〔七年史〕。

 これより先四月十九日、朱雀四番士中隊中隊頭佐川官兵衛隊兵を率いて若松を発し水原に在りしが、この日小千谷の急を聞き軍を加茂に進む〔西記〕、朱雀二番寄合組隊この日五十公野を発し軍を小千谷に進む〔西記〕。

{越後国魚沼郡は我が藩の管轄に属してより玆にニ百余年、管庁を小出島(今単に小出と云う)に置き郡宰属吏期を定めて交替す、人民堵に安ぜず、これより先町野主水この郡の奉行となりしが、三国峠の戦に我が軍利あらず、西軍長駆して来り、閏四月二十七日これに戦い孤軍終に支えず、庁舎および市街兵燹に罹る、村長村吏僧侶婦女皆死力を尽くしてこれに従う、西軍侵入するや探索すこぶる厳なり、あるいは縛に就きあるいは敺殺せらる、あるいは毅然として屈せざる者あり、あるいは我が軍の不利を聞き食咽に下らざる者あり、皆能く義に向い節を重んじて身命を顧みず、ああ政教のおよぶ所誠に誣ゆべからざるものあり、すなわち左のその概略を録す。
中島村の村長和田太郎兵衛は性僕直方正にして人望あり、近里の人々は太爺と呼べり、戊辰の役七十三なりしが我が公の忠誠達せず汚命を負うを慨歎せり、三国峠の戦に老年にて従軍するを得ず人をして代わって徃かしむ、すでにして西軍来り太郎兵衛を執えてこれを語る、太郎兵衛は唯国主の命を奉ずるのみと云いて屈服する色なかりしが、間もなく解放せられたるも爾来怏々として楽まず、村長を辞せんと申出でたるも村民これを止むるによりて果たさず、後我が二公の幽囚を聞き深くその生前に冤を雪ぐの日に逢い難きを歎息せしと云う。
中島村の農又蔵の母は、我が軍利あらずと聞きて憂色あり、田戸村の農亀蔵の母は、妙見川の砲声日に遠ざかるを聞き、会津の軍利あらざるかと食喉に下らざるもの数日に述べり。
田戸村に三人の村長あり、平右衛門、甚左衛門、利八是なり、皆我が藩の為に力を尽くしたりしかば、村人の藩主を慕うこと他村に優れり、利八の妻は佐梨村作十郎、松川村利兵衛が変心して西軍に通じたるを悪みて、我男子ならば二人の人非人を屠り殺さんと云いしとなり。
釋顯宗は中島村萬行寺の僧にして東本願寺派に属せり、常に人に向って我が宗は特に徳川氏の眷顧を受け宗門繁栄二百余年を経たり、徳川氏と盛衰を共にすべきなりと云へり、これにおいて管庁に出入りし周旋大に力めたり、三国峠の敗軍に町野主水は藩吏の妻子をして国に帰らしむるに際し、顯宗にその護送および貨物運搬の事を托す、小出島の戦に我が軍中島を過ぐるに当り、顯宗は糧食を給し且つ捷径に導けり、すでにして松代藩竹鼻の兵至り顯宗を訊問せるに、顯宗応対弁明して免るゝを得たり、戦後小出島戦没士の生命を録し、枯香念誦怠らざりしと云う。
正円寺の主僧某深沈にして度領り、西軍来りて小出島を攻め銃丸堂宇に及べり、主僧端座して動かず、時に我が軍死する者七人屍骸を収めず、主僧これを見て騒然として埋骨は僧徒の職なればとて西軍の将校に請うてこれを埋め、歳時念誦怠らざりしと云う。
次郎兵衛は中家新田村の民なり、小出島の戦に我が遊撃隊の兵士田崎伝八は負傷して身を次郎兵衛の家に托す、次郎兵衛これを室中に匿す、村長利右衛門かたわら医を業とする者なれば密に治療を施したるに隣里これを知る者なし、西軍の邏兵数々来り探せしも終に得る能はず、九月創癒ゆ、利右衛門、次郎兵衛等は伝八をして農夫の装をなし馬を牽きて会津に帰らしむ。
清右衛門は一日市村の農なり、三国峠の戦に町野隊の兵小桧山鐡蔵、古川深次郎弾丸に中り歩する能はず、畚に乗りて退く、西兵の群至するや二人清右衛門の家に匿れ、後長崎村光明寺に移り、発覚して擒はれ、ついに小千谷に斬らる、清右衛門および医師某皆西軍の罰する所となれりと云う〔累及日録〕。}


 閏四月二十六日朱雀四番士中隊加茂を発し三条を経て大面に至る、たまたま斥候佐藤義登、上島権八郎小千谷の急を報ずるを聞き疾駆して見附に至る、この日大雨泥深く、行歩すこぶる悩み全隊疲労す、よってここに宿す〔西記〕。

砲兵隊は新津を発し加茂に宿す〔西記〕。

朱雀二番寄合組隊は小須戸を発し三条に至り、小千谷の形勢急なるを聞き徹夜軍を進む〔西記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2
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  1. 2013/02/21(木) 16:40:09|
  2. 会津戊辰戦争史2
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