いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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十二 加茂行幸     『京都守護職始末1』

 わが公感泣す     さきに英国軍艦来航の上奏があったとき、攘夷の叡慮がいよいよ切実であったところへ、将軍家が上洛したので、その決行もま近とおぼしめされ、親しくその成功の御祈願のため、三月十一日、車駕で加茂下上社【注一】に行幸あらせられた。
 関白以下公卿、殿上人、将軍以下後見、総裁両職在京の諸侯ことごとくが供奉した。関白、大臣は輿(こし)、その他の人々は騎馬で、折しもふってきた雨を避けて、おのおの緋傘をもって行列の人を覆い、その壮観は、真に古画を見るようであった。聖上の行幸は、数百年来絶えた旧典によったもので、この日は遠近の老幼、貴賤が路傍にひざまずいてこれを拝し奉り、または、拍手を打って稽首するなど、あたかも神仏を拝するような光景であった。
 すでに社頭に御着輦あらせたまい、神事が終り、神饌を分け賜うときになって、特に将軍家を召され、御手ずから天盃および神饌を賜い、慰撫の恩詔がことのほか優渥であったので、供奉の堂上人もたがいに目をみはるばかりであった。
 それもまた、かつて後見職が鷹司殿下に会って、将軍家参内についてのひそかに顧慮していることを打ちあけて話したとき、殿下はじぶんだけの意見として、聖上はもとより将軍にあつい信頼をよせていられても、いまは周囲をはばかって、深く包ませたまうばかりであるが、他日将軍家上洛の折には、かならず聖慮の優渥なことを知られることであろうと告げられた。はたして、前日の親勅と言い、今またこの恩遇とによって、叡慮のあるところをたしかに拝することができた。
 この日、わが公は喪中をはばかってお供には加わらなかったが、家老田中玄清に兵を率いさせて、行幸の路上を警護させた。還幸の後、聖慮の将軍家に優渥だったことをきいて、わが公は、公武一和の基礎は今日はじめて定まった、不肖容保、いささか先祖に報ずることができたと、感喜のあまり落涙するに至った。

 



 慶勝卿の奉書     さきに攘夷の期限を定めるにあたり【注二】、大樹(将軍)上洛のうえは、滞在十日を限るという勅旨があったとき、わが公の気持としては、将軍家が上洛された以上、しばらくは輦下にとどまり、万機親しく勅旨を仰いで決行することになれば、公武の一和は日々にふかまって、天下の人心をしずめることもできると期していたのに、すぐさま東下されてしまっては、その効がむなしいばかりか、公武のあいだにますます隙が入ることにならないともかぎらないと案じていた。
 そこで、尾張前大納言慶勝卿が、先日、三条実美卿の攘夷期限決定の勅使として来臨あったとき、卿がまだ上京していず、そのことにあずからなかったので、わが公は卿に説いて、この勅旨をひるがえし奉らんことの尽力方を勉めさせた。慶勝卿は、病に臥していたが、これを然りとし、病をおして、さっそく書を伝奏衆にあてて朝廷に奉った。

恭しんで思うに、兵は和をもって要となすと承り候えば、鷹懲(ようちょう)の事も、君臣御一和ならでは行き届きがたく存じ奉り候。君臣御一和に相成り候えば、人は帰嚮(ききょう)を知り申し候。かくの如くなればすなわち、普天率土一和せざるなし。而して後、攘夷の事行なわせられ申すべく存じ奉り候。去るものは日々に疎く、来るものは日々に親しむならい、大樹十日の在京、すぐさま東下と相成り候えば、御実御一和の有余おそらくはこれあるまじく、百余里の御遠別、程なく御間隙の生ずるは必然の道理と存じ奉り候。然るうえは、天下の勢これを救うべからざる場合に及ぶべく候わんか。是れ臣が病中ながら、日夜、寝食も安からざるところに御坐候。仰ぎ願わくば、大樹に命ぜられ、御一和相整え、四海帰一の場に相はこび候までは、 輦下に滞在これあり候よう仕りたく、昧死伏願仕るところに御坐候。かつはまた、攘夷の儀は、兼ねての期限の通り人を遣わして行なわせらるべく候。寿永の乱【注三】、頼朝、鎌倉にありながら、範頼、義経をして平氏を平げしむ、この一節をもっても、将軍自ら赴き候に及ばざること、現然と存じ奉り候。この段言上に奉りたく、おそれながら、かくのごとくに御坐候。誠惶誠恐頓首敬白(三月十日)





 将軍滞京の聖旨     朝廷は、これをゆるしたまい、この月十七日慶喜卿、勝静朝臣が召しにより参内して、殿下は左の聖旨を取りつがれた。

大樹帰府の儀を再応相願われ候えども、帰府あり候ては、いかなる変事出来(しゅったい)候もはかりがたく、さようのことあっては、実以て一大事の儀故、宸襟を悩まされ候間、天下のため、かつは徳川氏のためをもふかく思し召され候儀、今しばらく滞京あって、攘夷の基本相立ち、叡旨御貫徹、人心安堵の場合に至り候まで、宸襟を安んじ奉られ候よう、周旋これあるべく御沙汰候事。

 別紙

英夷の渡来につき、関東の事情切迫について、防禦のため大樹帰府の儀、尤もの訳柄には候えども、京都並びに近海の守備警衛の策略、大樹自ら指揮あるべく候。かつ、攘夷の折から、君臣一和せずば相叶わず候ところ、大樹関東へ帰府して東西に相離れ候ては、君臣の情意相通ぜず、自然間隔の姿に相成り、天下の形勢救うべからざるの場に至るべきについて、当節大樹帰府の儀は、叡慮において安んぜられず候間、滞京これあり、至衛の計略厚く相運ばせられ、宸襟を安んじ奉り候よう思し召し候。英夷応接の儀は浪花港へ相廻し、拒絶談判これあるべく、兵端を開き候節は、大樹自ら出張し、前軍を指揮し候うてこそ皇国の気挽回の機会これあるべく思し召され候間、関東防禦の儀は然るべき人を相選び申し付けらるべく候ようにと御沙汰候事(三月十七日)。

 しかるに、幕府当路の人々は、将軍滞京のことに関して、なお遅疑して決せず、三月十七日、わが公は書を幕府にたてまつった。

この度御上洛あそばされ候段、寛永以後の廃典を起させられ、じつに非常の御盛事、恐悦の御儀と存じ奉り候。しかるに、あまりにも僅かな御逗留を仰せ出され候段、おそれながら御一和の程もおぼつかなしと千万恐懼仕り候ところ、過日、天朝より御一和相整い、人心帰嚮候まで御滞京あそばされ候様仰せを蒙られ、まことに以て恐悦の御儀に候ところ、横浜表事情切迫致し候につき、この節、御帰府あそばされ候様に。さすれば、すでに蒙らせられたる朝命いまだ間もこれなく、御一和相整い、人心帰嚮と申す場合にも相至らず、強いて御東帰あそばされ候わば、叡慮の程も計りがたく、天朝に対されても御不都合の儀あらせらるべしと、ふかく心痛仕る儀に御坐候。よって、長々御滞京、御警衛あそばされ、叡念相達し候うえ、御帰府あそばされたき儀と存じ奉り候。いよいよもって夷情切迫致し候については、御沙汰の通り御後見、総裁職の内にて御下り掃攘の功相立て申すべく候。尤も私、当職仰せ付られ罷り登り候折、来春早々御上洛御警衛あそばさるべく仰せきけられ候間、日夜待ちあげ奉り、当節すでに御上京相成り、英仏国人等摂海へ渡来致すべく申しつかわし候趣にもこれあり、ことには重き朝廷の恩命を蒙らせられ候うえは、長く御滞京あそばれ、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民の帰嚮を致させられ、神州無窮の治安の基本相立ち候ようあそばされず候わでは、必至と相成らざる義と存じ奉り候。以上。
 




 慶永の辞任、帰国     しかし、後見職、総裁は、ともに、はじめから攘夷の不可能なことを知り、むしろ和親を望んでいるので、これに当るのを欲しない。
 そこで、総裁職は、「攘夷などとは、とうてい不可能なことであり、今日まで唯々として過ぎ来ったのは、機を見てその議をひるがえさせようと期していたからである。今この勅命を賜るに及んではいかんともなしがたい。いやしくも事の不可能を知りながら命を拝すのは、上をあざむくというものである。慶永はむしろ、譴(せめ)をこうむるとも、上をあざむくにはしのびない」と言って、わが公と慶喜卿とでその留任を勧告したけれども、病を称して辞職願の書を呈し、許命の下りるのも待たず、その月(三月)二十四日、卒然として帰国してしまった。幕府はその疎率(そそつ)をとがめ、人が馳せてこれを留めさせたが及ばず、後、命じて国許で謹慎せしめた。

 



 英国償金問題     右の勅旨を奉ずるについても、英国要求の償金を出すか否かの点がまだ決まらないでいたところ、いまやすでに攘夷と決定してしまったので、後見職もこの問題をしりぞけ、一文も与うべからずと主張したが、老中の人々はなおも安心がならず、この月(三月)十六日にこれをわが公に謀った。公は大いにこれを不可とし、そもそも生麦駅のことはわが方に非があるので、彼はこれを責めて償金を求めているので、理にかなったことである。攘夷にしても、名義だけは正しくしておかねばならない。ゆえに、彼の要求をみとめて我方の曲を償い、しかる後、断然攘夷を決行すべしと力説したが、後見職は、朝議いかんを慮り、逡巡して決せず、わが公は、「予はむしろ因循の汚名を着ても、外国に信義を失うには忍びない」と徳川慶勝卿に謀り、その由を朝廷に上奏した。

 



 江戸の不安     このとき、江戸でも攘夷令を発布したので、民間では浮説が紛々として、あるいは品川、高輪など海岸を焼き払うとか、あるいは、大名旗本以下士民の婦女老幼を挙げて、その国元か山間の地に移し、諸藩邸を兵営にするとか、それぞれ臆測を逞しうし、吠虚伝実、人心は恟恟となっていた。
 本城の留守役、尾張大納言茂徳卿をはじめ、諸有司が百万力をつくしてこれを鎮制しようとしても、人心は毫も安定せず、そのことが京都までもきこえてきて、将軍家につき従う人たちもまた、恟々として己のことばかりを慮かり、公武の事情や天下の大勢の何たるかを弁識せず、一人還御を唱えれば、百人たちまちこれに和し、あけくれ還御を促すのほか、ほとんど他事ないありさまで、将軍家もしらずしらず東帰の思いを起し、後見職もまたおなじく、ついにこの月(三月)十七日、みずから鷹司殿下をたずねて将軍の帰国を奏請した。
 わが公はこれをきいて、大いにおどろき、ただちに二条城に登って、後見職、老中の人々に、将軍家が二百年来の廃典を興してはるばる上洛され、いまだ何のなすところなく倉皇として東帰されれば、上は叡慮に背き、下は天下の人心を失い、また救うべからざる事態に至るであろうと、切に東帰を止めたが、皆依々として決まらず、そこで、徳川慶勝卿に謀って、相ともに殿下および伝議両奏のあいだを奔走し、滞京の勅旨を賜わることを請うた。





【注】

【一 加茂下上社】 第八章【注一四】を見よ。

【二 さきに攘夷の期限を定めるにあたり】 本書五七頁に記すように、文久三年二月、朝議は幕府に攘夷の期日を決定せよと督促した。そして勅使三条実美がこれを伝えたが、一橋慶喜と松平慶永は、将軍が上洛を終えて江戸に帰ったうえでなければ決しがたいと答えた。これにたいし三条は、将軍の滞京を十日間と予定し、江戸に帰る日を定めれば、攘夷の日を決定できるはずと主張した。この結果、朝議は将軍の滞在期間を十日間と定めた。そこで慶喜、慶永およびさきの三条との会見に関係した松平容保、山内豊信は二月十四日連帯して、将軍の往復の日数を考え、攘夷の期日を四月中旬とすると答えた。

【三 寿永の乱】 寿永三年(一一八四)源頼朝が範頼、義経に命じて、平氏の軍を瀬戸内海へ追討させた戦乱。いわゆる源平戦争を指す。この翌年、平氏は壇ノ浦でほろびた。

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  1. 2012/10/30(火) 11:30:09|
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