いがぐり史料館

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鯨波の戦(長岡及び其の付近の戦)

鯨波の戦(長岡及び其の付近の戦)

 この日海道の西軍、薩、長、大聖寺、高田等の兵米山峠を越えて早朝桑名の兵を鯨波に襲う、桑名の諸将兵を督して応戦す、西軍一は広野峠に上り一は婦人坂に向う、桑名の士相澤安兵衛、富永左兵衛兵を率いて柏崎より来り援く、旧幕遊撃隊(坂本平弥の隊なり)は山を巡りて西兵の側面より兵を潜めて進み急に広野峠の西兵を攻撃す、西兵狼狽して崩る、東兵刀を揮って突撃す、夫人坂の西兵これを見て色動く、立見鑑三郎等叱咤刀を抜き大呼して山を下り西兵を追撃して鯨波に入り、西兵数人を斬り急に兵を山上に収む、西兵反し来り砲戦すること終日〔七年史〕、西兵ついに抗すること能はず火を青海川(新潟県中頸城郡上米山村の大字なり)に放ちて鉢崎に走る、東軍兵寡くして追撃すること能はず、加うるに小田島の敗報を聞き女谷の衝鋒隊は柏崎に退き尋いで妙法寺に、桑名の兵は椎谷に陣す、これにおいて小千谷、柏崎共に西軍の有となり、山海両道これに連絡するに至れり〔河井伝〕。これより先水戸藩(結城党とも諸書組とも云う、反対派は罵って奸党と云う)、市川三左衛門、朝比奈弥太郎、伊藤辰之助等兵数百を率いて亡命し、会津を経て越後に入り、共に長岡、小千谷の地を扼す〔続国史略後編〕、会々出雲崎に在り鯨波の戦を開き伊藤辰之助は一隊を率いて荒浜に陣す〔七年史〕。

 この時桑名の兵更に部署を定め、雷神隊(七十五人)は立見鑑三郎、地神隊(六十五人)は松浦秀八、神風隊(五十七人は町田老之丞、大砲隊(四十七人)は梶原弥左衛門これを督す〔七年史〕。

 この日四番士中隊見附を発し長岡城下に入る、申の刻頃長岡の封地妙見村に至る、酉の下刻頃退却の命あり、夜半長岡に至り宿す〔西記〕。

 砲兵隊は薄暮長岡に至り、直ちに兵を妙見村に進めんと欲し、甲士簗瀬波江、佐々木八次郎を総督一瀬要人の六日市村(長岡を距る三里)の本営に遣わし命を請わしむ、総督令を発して長岡に帰り命を待たしむ、尋いで総督および諸隊もまた長岡に帰る〔西記〕。

 西軍来り小千谷に留まる、河井継之助すなわち封境の守兵を徹す、会桑の将これを疑い兵を率いて城下に迫り同盟を促すこと急なりといえども、継之助は固く前議を執りて拒絶す〔河井伝〕。

 これより先佐川官兵衛長岡に行きて説かんと欲し、沿道において精兵八百、砲兵二隊を率いて過ぐと揚言せるが、この日河井継之助を摂田屋村の本営に訪ふ、折柄継之助諸将と会議の最中なり、継之助、官兵衛に向い足下の虚喝もまた甚し、先に沿道において八百の兵および砲兵二隊を率いて過ぐと言い振らしながら、今率いる所幾何ぞ、我が藩小なりといえども他人をして一歩も踏ましむべからず、速にその軍を回へし我が封内を去れと、官兵衛余に答えていわく、兵に奇正あり請う咎むことなかれ、今足下は他人をして領地を踏ましめずと云うは果たして真なるや、継之助いわく、余は偽りを云はずと、官兵衛いわく、善し、しからば小千谷の敵兵は余これを撃攘すべしと〔西記、結草録、七年史〕。

 閏四月二十八日朱雀四番士中隊、砲兵隊、朱雀二番寄合組隊、その他の諸隊長岡に次す、我が藩長岡藩と軍議す〔西記〕。

 閏四月二十九日辰の刻、鎮将隊、朱雀四番士中隊、砲兵隊、朱雀二番寄合組隊、結義隊、義集隊の分遣兵金田百太郎隊、旧幕遊撃隊、長岡を発し輿板に入らんとす、すなわち朱雀四番士中隊甲士秋月新六郎、松本濤江、三原酉五郎、佐藤義登をして斥候せしむ、輿板城中少数の彦根兵ありといえども恐れて出でず、すでにして諸隊来る、佐川官兵衛輿板城を本営と為さんとしたるに、輿板藩は市民の騒擾せんことを恐れこれを止めんことを請う、すなわち寺院および民家に宿し終宵市中を警戒す、金田隊は脇の町に次す〔西記〕。

 五月朔日朱雀四番士中隊、朱雀二番寄合組隊、結義隊、旧幕遊撃隊輿板を発し脇の町に次す、この日水原府鎮将萱野右兵衛鎮将隊を率いて長岡方面に向かう〔西記〕。

 五月二日朱雀四番士中隊脇の町を発し関原村に至り、幌役木村理左衛門、甲士小川求馬、飯川岩之進、小原勇等をして片貝村に至り斥候せしめ、砲兵隊は深澤に宿し、薄暮甲士渋谷源蔵、矢島又助をして片貝の敵情を偵察せしむ、戍の刻頃帰り復命す、これにおいて進軍の令下る、朱雀四番士中隊、朱雀二番寄合組隊、砲兵隊、結義隊、鎮将隊は直ちに発して片貝村に入り大砲を填装して夜を徹す、金田隊は塚の山に向う〔西記〕。

 この日河井継之助は封境の兵を徹し、身に礼服(当時は麻上下なり)を穿ち単騎馳せて小千谷に至り、西軍の監軍岩村精一郎を見て左の歎願書を呈す〔河井伝〕。

乍恐謹て奉歎願候丁卯の十月徳川氏天下の政権を被致奉還候節今日の勢に可至と悲歎の余不顧疎賤不憚忌諱上京獻言仕退きて徳川氏へ忠諌仕度段以書取相伺御聞済の上十二月二十八日京地出立翌二十九日下阪仕候処城内物騒敷早速入城も不相叶当正月朔日昼頃に至り漸く重臣の者入城届仕候処彼是混雑其辺に至り兼二日三日相成候ては既に如何とも不可致模様柄万民の艱苦忽ち可生は眼前相分候得共何と可仕様も無之尤も上京前徳川氏政令の不治と当時の形勢と一二執事の者申出候得共其段も届兼猶又下阪の上篤と諌争仕度奉存候処前件の次第柄只々歎息罷在候仕合帰府以来屢々申立も仕候得共言れさる取始末不忍見聞事而已にて致方も無之此上は封土の人民を撫安仕候より外無之と無據帰邑仕候当春より徳川家御追討の御命令有之候得共臣として君を諌むるは可有之諌争も不仕忘恩義累代の君へ鋒を向け候は大悪無道忍て可為之哉方今諸侯伯之所業弁論を不待日本国の人理棄絶に至り何と可申様無之是等之人々何程御味方仕候共格別御為にも相成間敷歟徳川家は前後条理も不相立終今日に至り候次第日夜苦心罷在候得共諌争之誠意も不貫徹力之不可済処に御座候得は何様憂慮仕候も致方無之微小の弊邑に御座候得共人民十余萬も有之候得者右の者共をして職業を勤し財用を足し四民を安し候を以て天職と心掛居候外他事無之慎て天下の治平を相待乍不及応分の御奉公可仕心底に御座候尤も表に忠義を唱え内実に割據傍観仕候様なる儀は他に有之候も可悪処にて其辺は申譯迄も無之一毫之求なく誰人に有怨にも非す御威力之十一に不当は愚昧の者も相分候儀に御座候得共義理を守り天職を尽し滅亡仕候は天命と明らめ覚悟も可極候得共彼是の強弱を計り二心を懐き不義の名を以て隣国の兵禍を受け領民を苦み滅亡を取り汚名を後世へ残し候ては申訳も無之衷情御洞察被成下候様仕度奉存候方今海外の諸国互に富強を計り嘉永癸丑渡来よりの所義業御承知被為在候通申上る迄も無之歎息罷在候処自国之騒乱不止之勢と相成候ては行末の処深く御案事申上候儀に御座候微小の弊邑にても用を節し儉を勤め両三年中には海軍用意も可仕と一同勉勤仕候処斯る形勢と相成乱を済ふに補なく徒らに領民を苦め農事を妨げ疲労を極め候ては可悲事に御座候萬死を犯し朝廷へ奉献言無其詮徳川氏へ申立候も無其益進退失徒只領民を治むるを以て天職となし暫く清時を待の心事宜敷御憐愍も被成下候はゝ此儘被差置度不然は民心之動揺大害之所生幾重にも御赦免奉願候獨一領一国の為のみにて申上候には無之日本国中協和合力世界へ無耻之強国に被為成候はゝ天下之幸不過之事迫情切愚誠之程御採用にも相成候はゝ難有奉存候恐惶恐懼謹言
 慶応四辰年五月 牧野駿河守
〔河井継之助伝

 且つ精一郎に説いていわく、今日は如何なる時ぞ、外国は四辺を窺い国内は相戦い自ら疲るゝの時にあらず、仮すに時日を以てせば先づ会津、桑名を説き平和に其の局を結ばしめん、今直ちに兵を進むればたちまち大乱を醸し人民塗炭の苦に陥るべし、これ寡君の最も憂慮する所なればこれを総督府に致されよ、精一郎は長岡の奥羽に輿みするを疑うを以て、継之助懇請すること一昼夜に及ぶも終に聴かず、なお尾州、松代、加州等の諸藩士に托して哀願書を達せんとしたるも、皆薩、長を憚りてこれを取り次ぐものなし、翌三日継之助長岡に帰り心に決する所あり、同志を会していわく、吾今自ら刎ねん、これに三万金を付し西軍に献じ以て無二の志を表せば長岡あるいは難を免れんと、衆聴かず、時に西軍すでに長岡の封内を侵略す、継之助これにおいて憤然意を決して王師にあらず禦がざるべからず、瓦全は丈夫の耻づる所公論を百年の後に待って玉砕せんと、藩主牧野忠訓朝臣すなわち継之助を以て総督となす〔河井継之助〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2




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  1. 2013/02/23(土) 17:09:36|
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