いがぐり史料館

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片貝の戦(長岡及び其の付近の戦)

片貝の戦(長岡及び其の付近の戦)

 五月三日辰の刻頃西軍加州、尾州、松代、高田、飯山、薩、長、大垣等の兵来りて我が片貝の軍を襲う、一は山に循い一は野径よりす、我が砲兵隊は距離を測りて砲撃す、西兵これに応じ互いに戦うこと良々久し、朱雀二番寄合隊組、結義隊は撒兵となりて銃撃す、戦酣にして六番の砲車を摧く、すなわち一門を以て戦うこと半時許、ついに皆銃を執って戦う、西兵一小隊許進撃し来る、相距ること二丁許我が兵連弾猛撃す、朱雀二番寄合組隊小隊頭齋藤清左衛門は刀を揮って前進し敵一人を斬り、横山勇、田崎繁三郎もまた首を斬ること各一級、小林操、小泉清一郎は各西兵一人を銃殺し、美藤登は敵の傷兵を斬る、結義隊頭渡部英次郎、井上哲作等刀を揮って突入し尾州兵六人を斬り刀と銃とを獲たり、朱雀四番士中隊朝日村より来り、小隊頭野口九郎大夫、半隊頭桃沢克之丞は一番小隊を率い右側の山上に登り猛進す、佐川官兵衛自ら二番小隊を率い小隊頭多賀谷勝之進、半隊頭能見久衛之に従い坪野平の左側より西兵の背後を衝く、我が兵勢に乗じ吶喊して進撃す、西兵大に敗れて走る、追撃すること十余丁、砲兵隊一門司令官原幾馬、同隊甲士星野恒之進首を斬ること三級、銃および弾薬を捕獲す、西兵火を坪野村に放ちて走る、止まり戦う者三人、一人は五十目銃を執って射撃す、幌役木村理左衛門、朱雀四番士中隊甲士上島権八郎は彼に何番なりやと問えば会津撒兵隊なりと答ふ、また問う、撒兵隊は何隊なりやと、その言未だ終わざるに二番小隊甲士山岸六郎は彼の脇下を撃ちこれを斃す、時に一人の西兵はその側に進み首を馘して退く、その提蘘に書して信州松代之住人前橋民部左衛門忠一と云う、すでにして敵の隻影を見ず、我が軍大に捷ち凱歌を奏して直ちに小千谷を略せんとするの意気あり、午の刻餐を伝え兵を片貝に引き揚げとして人員を点検したるに、たちまち見る一軍片貝右側の山上に在りて八の字の大旗を翻すを、よって尾州兵なるを知る、西兵たちまち赤白の旗幟を振りて相図をなせば、敗兵直ちに反戦し大兵これに加わり撒兵となり吶喊して進み来る、弾丸雨のごとし、朱雀四番士中隊、一番小隊と砲兵隊とは山上の西兵に対し、朱雀二番寄合組隊は右方の路傍に撒兵となり、朱雀四番士中隊二番小隊は左方の路傍に撒兵となり平地の西兵に当る、齋藤清左衛門は率先して衆を激勤す、西兵左側より横撃し山上よりもまた猛撃す、我が軍苦戦清左衛門戦死す、清左衛門は勇武の士なれば全軍痛惜せざるはなし、時に我が兵僅かに三百而して西兵二千余衆寡敵せず〔西記〕、且つ戦い且つ退き全隊を片貝に収む、少時にして朱雀四番士中隊一番隊小隊もまた退却して本営に集合し、砲兵隊もまた片貝に退却す、砲車に属する役夫皆遁れ兵士および兵糧方吏員等止むを得ず器械弾薬を運搬するに至る、鎮将隊はすでに五六丁前方に山上に退却し、朱雀二番寄合組隊は瓦解し、中隊頭土屋総蔵は傷を負い僅に免る、金田百太郎隊もまた塚の山に敗れ関原に退く、我が軍この夜子の刻頃脇の町に次す〔西記〕。

{戊辰の戦終りて後明治二年我が藩士の一半は越後高田藩に幽囚せられ、同藩は高田の各寺院を以て其の幽所に充つ、齋藤清左衛門の弟輿八郎は寺町善導寺に在り、同年五月三日高田藩の一士善導寺に来り、霊前に刀剣と双眼鏡とを供えて供養をなす、輿八郎密かにこれを見ればその二品は兄清左衛門が従軍の時に携えたるものなり、大に怪しみ供養の終わるを待ち士人に就いてこれを質す彼いわく、余は高田藩士津田文蔵の弟某なり、文蔵は一兵卒なりしが客年五月三日片貝の役に会津の隊長と接戦してついにこれを斃し、刀剣と双眼鏡とを捕獲したり、その功により士籍に抜擢せられ後戦没したり、我が家の士籍に陞せられしはこの隊長の戦没に因由せり、ゆえにその忌辰に当り遺物を供して供養を怠らず、いささか冥福を収むるなりと、これにおいて輿八郎は当時の隊長齋藤清左衛門の弟なりと名乗り、互いに奇遇を感じ、某は輿八郎に贈るにその双眼鏡を以てす、人伝えて以て美談となす}〔藤澤正啓談〕

 五月四日巳の下刻頃、朱雀四番士中隊、朱雀二番寄合組隊、砲兵隊、結義隊脇の町を発し申の下刻頃長岡渡町(長岡西口に在り)に至る、この日長岡藩の総督河井継之助は摂田屋村の本営において諸将と会議の際、佐川官兵衛徃きて継之助に面す、継之助いわく、足下小千谷の西軍を撃攘することを約してその言を食む、何の面目ありて我が地に来るやと罵詈至らざるなし、官兵衛大に怒っていわく、予今足下と談ずるを好まず同盟もまた欲せず、ただ今日ここに来りしは敵は已に貴領に迫りたればこれを告げんために外ならず、予すでに決する所あり貴藩兵の進退如何によっては我が兵その後へに発砲し、左右に衝突することあらんも、これを咎むることなかれと、憤然としてまさに起たんとす、諸将これを慰諭し、ついに同盟の役を結ぶに至れり〔結草録、七年史〕。

 五月五日辰の刻朱雀四番士中隊、砲兵隊、長岡を発し巳の刻頃、摂田屋村に至る、長岡藩総督河井継之助、軍事奉行萩原要人その他各隊長兵士を率いてこれを迎ふ、滞陣中(五日より九日に至る)長岡藩主牧野忠訓朝臣我が全隊に酒殽を贈る〔西記〕。

 同六日桑名の兵並び衝鋒隊妙法寺方面を守る、兵寡きを以て鎮将隊物頭片桐喜八隊、同山田清助隊応援として上除村に至る、時に西軍片貝の我が軍を破り勢に乗じて襲撃せんとするの報あり、これにおいて大砲一門を曳き深澤村の渡頭(渋海川の渡頭なり)を守る〔西記〕。

 この日西軍来り水戸藩伊藤辰之助隊の荒浜の陣営を襲う、桑名の兵進んでこれを援く、衝鋒隊、遊撃隊は共に山中を進み西軍の別隊と赤田に会し、血戦数刻終に交々相退く、東軍兵を椎谷に収む〔七年史〕。

同七日桑名兵、衝鋒隊妙法寺より退却す〔西記〕。

同八日鎮将隊、桑名兵、衝鋒隊に殿して大島村に次す〔西記〕。

 同九日鎮将隊、桑名兵、衝鋒隊に殿して退却し長岡に至る〔西記〕、朱雀二番寄合組隊は片貝の役に瓦解せしが、この日長岡に収む〔西記〕。

 我が軍一瀬要人、佐川官兵衛、萱野右兵衛、桑名の将山脇十左衛門、立見鑑三郎、町田老之丞、松浦秀八、衝鋒隊々長古屋佐久左衛門、第二遊撃隊頭井深宅右衛門等長岡に会し、河井継之助と共に義して進撃の部署を定め、長岡兵、朱雀四番士中隊、砲兵隊は本道より妙見村に進み、桑名兵、長岡兵、衝鋒隊、遊撃隊は村松村より進み榎峠方面の敵軍を撃攘せんとす、この時に当り西軍は小千谷に占據し、榎峠の対岸三佛生村に進み信濃川を隔て陣す、別軍尾州、上田の兵はすでに信濃川を渡りて白岩、鐡板、および浦柄、榎峠、妙見街道、金倉山等の要衝を扼す、榎峠は信濃川を左にし金倉山を右にす、長岡より小千谷に通ずる第一の嶮要にして、長岡城を南に距ること三里余なり、会々長雨連日信濃川大に漲り、西軍川を渡りて援くること能はず、東軍これに乗じてことごとく兵力をこの方面に集注して攻勢を取るを得たり〔河井継之助伝、西記、続国史略後編〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2
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  1. 2013/02/24(日) 16:39:31|
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