いがぐり史料館

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榎峠方面の戦(長岡及び其の付近の戦)

榎峠方面の戦(長岡及び其の付近の戦)

 五月十日午の刻を過る頃東軍摂田屋村を発し、兵を分ちて二と為し、一は朱雀四番士中隊、長岡の兵四小隊共に本道より進み妙見に向う、已に長岡の兵前岸の西兵と砲戦しきりなり、すなわち馳せて河岸に至り砲撃してこれを援く、西軍もまた応戦し弾丸雨注す、長岡の兵大砲を発して前岸高梨村の西兵を狙撃す、砲弾西兵の頭上に爆裂し死傷すこぶる多し、我が砲兵隊は妙見村と六日市村との間より砲撃す、鎮将隊、衝鋒隊、遊撃隊、桑名の兵(雷神、神風)二隊、長岡の兵四小隊共に村松村より進む、桑名の兵西軍の右翼を撃ち、夜に至り金倉山の壘を奪う、西兵皆遁る、その鎧杖を検して西軍はすなわち長州の騎兵隊なるを知る、すでにして西兵数隊山腹に匿れて林間より東軍を射撃す、長岡の兵これに応じて進撃す、西軍の銃撃ますます猛烈なり、会々本営より令を伝えていわく、孤軍遠く離るゝは戦の利あらずと、すなわち兵を収めて金倉山を下る、会々衝鋒隊中隊頭木村大作は隊将松田昌次郎(二士我が藩士)と兵を率いて来り、木村憤然としていわく、今この地を退き敵兵をして再びここに據らしめば我が軍何の処に維持するを得ん、請う共に進んで撃攘せんと辞気凛然たり、長岡の兵これに激勤せられ共に左右より進撃す、時に薄暮西軍の弾丸雨のごとく砲声山嶽に震う、東軍ますますついに陣地を支持することを得たり、西軍は山腹に據り東軍は山頂に在り、相距ること近く彼我共に悪戦す、亥の刻頃に至り砲声ようやく止む、これにおいて河東西軍の援路絶え西軍孤立し大に窮す、これより防戦十昼夜西軍進むことを得ず〔近世史略、河井継之助伝、西記、続国史略後編〕。

 五月十一日榎峠の東南に朝日山あり最も険要の地たり、この日昧爽萱野右兵衛、桑名藩の山脇十左衛門、立見鑑三郎、長岡藩の安田多膳、田中小文治各兵を率いて攀ぢ上りて胸壁を築き、山上より前岸高梨、三佛生の西軍の壘を砲撃す、しかして西軍ますます河を渡り砲撃してこれを援く、勢甚だ猛烈なり、市岡守衛兵隊を督し、衝鋒隊と共に金倉山より浦柄付近の西軍を砲撃す、佐川官兵衛は朱雀四番士中隊を率いて朝日山の東軍を援けんとし、卯の下刻頃六日市村を発し妙見村に近づくや、西兵砲銃を乱射す、佐川隊は驀進して山頂に登る、時に辰の刻を過ぐ、西兵は浦柄を本営として金倉山を距る二三丁許前方の山上に據る、衝鋒隊は金倉山より砲撃す、朱雀四番士中隊の新鋭は衝鋒、遊撃の二隊と交替して猛射を加ふ、桑名兵、長岡兵は金倉山を距る一丁許の上方に據る、三面合撃し勢甚だ烈し、西兵辟易し黄昏兵を収めんとするの状ありしが夜に至りて彼ら再び砲戦終夜息まず〔西記、河井継之助伝〕。

 五月十二日鎮将隊、朱雀四番士中隊、桑名の雷神、神風の二隊、長岡の兵一小隊、衝鋒隊一隊金倉山に據り朝来る砲戦す、西兵の陣地を距ること最も近し、ゆえに夜間ひそかに胸壁を築きて終宵砲撃す〔西記、戦死者名簿〕。

 時に西軍の参謀山縣狂介は三佛生に在りしが長州の奇兵隊長時山直八と議し、この夜密かに信濃川を渡り備さに地勢を視、明日早天に妙見の壘を砲撃し一挙して朝日山の要衝を奪わんとし、狂介は回りて後軍の挑発に任じ、時山は留まりて横渡に陣す〔河井継之助〕。五月十三日早朝長州の将時山直八兵二百余人を率い、暁霧に乗じ険を冒し潜に朝日山に前進す、我が鎮将隊、前方二三丁許山腹の壘を守る、衆寡敵せず、鎮将隊組頭河瀬重次郎兵を収めて寺澤村に退却し直ちに朝日山の本営に合して戦う、西軍更に東軍を欺かんと欲し、東軍を背にし空銃を自軍に発射して前進す、たまたま濃霧咫尺を弁せず、長岡の隊長安田多膳まさに隊士に令し銃を投じ刀を揮って突撃せしめんとす、桑名藩立見鑑三郎これを止めていわくこの濃霧にては我が兵相撃を成すを免れず、我に一策あり、しばらくこれを待てと、すなわち大呼していわく、敵兵十数人を斃し分捕品莫大なり、我が軍の大捷目前にあり、なお奮闘して敵兵をして一人も生還せしむることなかれと、西軍これを聞きてやや逡巡す、萱野右兵衛、片桐喜八、山田清助、桑名、長岡の諸将その機に乗じ兵を督して縦横突撃す、鎮将隊鈴木勝弥、長州の隊将高橋淳太郎を狙撃しその首級を獲たり、長藩の隊長玉井三平衆に先ち健闘す、鎮将隊柳下武蔵これを斃しまさにその首級を馘せんとす、敵兵たちまち来りて首級および佩刀を収む、我が隊士篠崎力江西兵数人を斬りしも戦急にしてその首級を馘する能はず銃を獲て退く、この日三士の戦功抜群なりき、西兵まさに崩潰せんとするや時山直八自ら隊旗を揮って挺進し大声衆を激す、雷神隊の砲手三木重左衛門一撃時山を斃す、西軍首領を失い意気沮喪しついに大に敗れ、相蹂踐して継崖より墜落し死する者多し、山縣狂介は後軍を率いて進みしもすでに戦機を失い、途上敗兵が時山の首級を携えて退くに逢い、ついに成すべからざるを知り退いて鐡板、白岩の戦線を守る〔河井継之助伝、時山梅南碑文〕。

この時鎮将隊宮下藤太兵を率い寺澤村に至り浦川街道を防守す〔西記〕。

 五月十四日早朝より砲戦息まず、鎮将隊、長岡兵東風に乗じ密かに浦柄村西軍の本営に放火す、すなわち烟稲揚り西兵驚擾す、朝日山上の東軍喊声を発し辰の下刻頃に至るまで烈しく砲撃す、西兵多く死傷しついに支えず小千谷に敗走す、東軍しきりに山上より狙撃す、東兵信濃川を渡りし者ありしが薩、長決死の兵河畔より反戦し前方の山上に登りて砲撃す、我が砲兵隊金倉山の胸壁より進むこと二丁許にして猛撃したるも西兵応ぜず、夜に入り両岸の砲声しばらく息みしが戍の下刻頃より再び砲戦を開始し終夜息まず〔西記〕。

朱雀二番寄合組隊中隊頭伴百悦これを率い長岡より来り鎮将隊と交替して朝日山を守る〔西記〕。

東軍しばしば捷ちまさに小出島を略し小千谷に據らんとするに当り、会々大雨連日信濃川暴漲して田圃海のごとし、ゆえに両軍互いに胸壁を築き遠く相対峙し昼夜砲戦するのみ〔七年史、河井継之助伝〕。

五月十五日朝日山方面哨兵砲戦あり。

 海道の西軍薩、長、加州、富山、高田等の兵二千余は東軍の桑名、水戸および衝鋒隊等五百の兵に支えられ空しく数日を費やしたりしが、十四日西軍衆をことごとくして宮川に進み、椎谷の東軍と会し激戦多時、東軍ついに敗れて市野坪方面に退く、西軍はこの日を以て出雲崎に達するを得たり〔河井継之助伝〕。

同十六日朝日山方面に哨兵砲戦あり。
同十七日長岡砲兵隊榎峠に進み砲戦す。
この夜我が砲兵隊、長岡砲兵隊と共に潜行して榎峠に至り胸壁を築きてこれを守る〔西記〕。

 この時に当り西軍は小千谷より槇下村に至り、東軍は我が兵、桑名兵、長岡兵連合して妙見以北下条村に至る、およそ四里の間信濃川を隔て対陣し、数日の間砲戦息まずといえども勝敗未だ決せず、西軍は主力を榎峠方面に集注して攻撃す、河井継之助もまた精兵を出して抗戦すといえども密かに期する所あり、ゆえに務めて西軍の精鋭をこの方面に牽制し、更に別軍をして河を渡りて迂回せしめ、一挙に西軍小千谷の本営を陥れんとす、前島村に陣せる長岡の兵一大隊半を河西浦村に赴かしめ、これを分ちて二と為し、一は南方小千谷を衝き一は北方大島村を襲うの策を画し、まさに十九日の夜を以て発せんとす〔河井継之助伝〕。

 西軍は迂回して長岡城を侵入せんとし、薩、長の精鋭をことごとくしてこれを当たらしめ、また出雲崎方面の精兵を招致し、輿板より多くの舟楫を徴発して長岡の対岸大島村および槇下村に進め、故らに草生津、中島、蔵王の陣地を砲撃し、東軍をして応戦に暇なからしめ、その機に乗じ潜に河を渡り長岡城に侵入せんとするの画策なり〔河井継之助伝〕。

五月十八日鎮将隊片桐喜八澤村を守り、相川方面に在る衝鋒隊を援く〔西記〕。

 対岸の西軍草生津村、中島村、蔵王村等の東軍を砲撃すること最も烈し、この方面を守備する長岡兵大隊およそ三百人、これに会津兵、村松兵百人を加ふるも四百人を出でず、この夜砲撃を止め篝火を滅し西軍をして疑懼を懐かしむ、河井継之助親しく諸隊を巡視し、激勤していわく、一日の間防戦せよ必ず敵を破るの策ありと、これ実に継之助の大遺算にして、西軍はこの日の暁天を以て信濃川を渡り長岡城を襲わんとす、会々霖雨の為め河水漲り渡るに便ならず、加ふるに月色冴えて昼のごとく、東軍の覚らんことを恐れて敢えて発せず〔河井継之助伝〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2
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  1. 2013/02/25(月) 13:16:42|
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