いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

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十三   わが公将軍家の東帰を止める     『京都守護職始末1』

 混乱起る     すなわち夜半になって、後見職から、わが公に急に二条城に登城するよう招き出しがあった。行ってみると、将軍家引留めの勅旨が下りていた。
 その大意は、英夷が渡来して関東の事情が切迫したため、大樹が帰府して防禦しようとするはもとよりよろしいが、京都ならびに近海の警備も大樹みずから指揮すべきである。接戦のときになって、君臣のあいだの情誼が相通じなければ、おのずからそこに隙を生じるに至る、ゆえに、大樹の帰府は、叡慮の安んぜざるところである。英夷のごときは、浪花の港にきたらしめて、もし戦端をひらくならば、大樹みずからこれを指揮すべきである。皇国の元気を挽回するこの機会にあたり、関東のごときは、よろしくその人を選んで任ずべし、ということであった。
 二条城では、そのとき、ひそかに将軍家の京師発足を二十三日と定め、人々はそれぞれ準備をととのえ、榊原政敬朝臣らはすでに先発隊として出発していた。
 勅旨をきいて、一同呆然として、往くものはまた還りなどして、すこぶる紛擾をきわめた。
 わが公は、この勅を拝して大いに喜びはしたものの、そのなかにあった、英艦を浪花港に引きよせ、戦端を開いて、大樹みずからこれを指揮すべしという一語をはなはだ怪しんだ。堂上家の臆病さは、外国船が兵庫港へくると言うのさえ怖れていたのに、と思い、不審でならなかったが、後にはたしてその実をつまびらかにすることができた。そのことは、下条にしるす。

 



 親兵問題     これよりさき、諸藩のなかから親兵を徴するという朝議を、わが公が上奏してとりやめにしたことがあったが、またまた攘夷決定を理由として、この論が囂々(ごうごう)として再燃してきた。
 慶勝卿や豊信朝臣の力でも、この論を阻止しきれなくなったが、ここに及んでわが公が論じて言うには「諸藩から壮丁を献納させて、これに親兵の名を与えようか、左右の諸門の警衛のごときは、勢い親兵の任であるから、守護職の任務は単に洛の内外を守護するに止まることとなる。これでは幕府が守護職を置いた意味がなくなる。容保は、わが藩一藩を親兵に任ずるものである。諸藩より献納の兵は、京師の守衛兵としていただきたい」
そして、この議はいれられて、この日(三月十七日)、伝奏衆がその由を幕府に令した。
 幕府はすぐ、十万石以上の諸藩に令して、一万石あたり壮丁一人を出させることに決めた。長門藩は即日命に応じて、これを出した。そのとき、某侯は禄高一万石であったが、請願して壮丁一人を出した。時の人は「一人の守衛兵」といって、これを譏笑した。
 わが公は特に上奏して、わが全藩をもって守衛兵となし、別に人を出さないようにと請うて、その裁可を得た。そして、三条実美卿、豊岡随資卿、東久世通禧朝臣、正親町公董朝臣を守衛兵の長とした。

 



 真勅にあらず     三月二十二日、将軍はお召しによって参内した。後見、守護両職、老中以下の諸有司がつき従った。聖上は常御殿に出御されて、鷹司殿下一人が玉座に待っていた。
 将軍家を召しての詔に、「万事を委任したうえは、なお滞京して、諸侯を指揮するように。諸藩にも、将軍に委任したから、その指揮を受くべきを命ずべし。公武の一和は、億兆の安堵の基であるから、朕は特に意をこれに注ぐ」とあった。
 将軍家はこの恩詔を拝して、聖恩の優渥に感激し、殿下にむかってこれを拝謝し、東帰の意はない由を奏上した。殿下からはまた、「叡慮がこのとおりで万事を委任あらせられるからには、英国の償金要求のことなども、もとより委任中の事件であるから、関東に申しつかわし、無謀な戦争はしないように計らえ」という言葉があった。
 そこで、将軍から殿下にむかって、「前日賜うた勅旨には、英艦を浪花港にきたらしめて、兵端を開けば、臣みずからが指揮せよとのことであったが、いま親しく拝する恩詔とちがっているのは、前日の勅旨は更正されたのかどうか」とたずねた。殿下がこれに答えようとしたとき、聖上は親しく、
「浪花は帝都の要港である。万一にもかの地で兵端など開くようなことはなからしめよ。前のごとき勅旨を下したのは朕の毫も知らざるところ、いま親しく汝に命ずることだけを、汝すみやかに奉行せよ」
 ということであった。そこで、伝奏衆から伝える勅旨は真勅でないということが、いよいよつまびらかになった。
 はたして、過激な堂上は、この恩詔に不満をもち、後日賜わった勅書【注一】には、「将軍職は旧のごとく委任する。ただし、国事については、ただちに朝廷より御沙汰ある場合もこれあるべし」と書いてあった。当時の勅命の内外に齟齬(そご)していることは、おおむねこの類であった。

 



 幕臣らを説得     この日、慶喜卿、わが公、老中板倉勝静朝臣らには、小御所において殿下から優渥な勅諚をつたえられ、やがて将軍家が退出された。叡慮のかたじけなさに感泣して、将軍家も東へかえる気持ちは消えうせたが、左右の群小が望郷の念を禁じえず、ここに至ってもまだ滞京の勅旨を奉ずべきだと言う者が、はなはだ少なかった。
 そこで、わが公は「将軍家上洛以来、わずかに一度行幸の供奉をしただけで、ほかになにもすることなく、今日また優渥な恩詔をこうむりながら、それに報いもせず東へ帰ったならば、たちまち天怒に触れ、公武のあいだは疎隔してしまうであろう。よろしく滞京して、聖旨に報いねばなるまい」と説いても、公がいる前では、有司どもも唯々として口を閉じているが、公の姿がみえないと、たちまち喋々として東帰の議を立てるありさまで、国家報効が何のことであるかをまったくわきまえない者どもばかりであった。
 老中板倉勝静朝臣は、滞京の議に従ったが、同僚の水野忠静朝臣(この人は俗才、浅智で、事の大体を知らず、かつて中川宮に謁して事を議したとき、唯々として、じぶんの意見がなかったので、後になって、宮はある人に「和泉は真に賢路を塞ぐものだ」と言われたと言う)以下がこれを欲しないので、一人の力では大勢に勝てず、どうなりゆくかと事があやぶまれた。
 たまたま鷹司殿下が徳川慶勝卿を招いて、
「前日、聖上から親しく将軍滞京の詔があったうえは、万一にも東帰したら、不測の患が生じること目にみえている。卿、天下のため、かつは徳川家のためを思わば、よろしく将軍にすすめて、しばらく滞京して、攘夷の基本を立て、叡慮を貫徹し、億兆安堵の成績を挙げさせるがよろしかろう」
 と言われ、卿がそれに感奮して、わが公とともに二条城に登り、切に東下の不可を説いて滞京をすすめたので、諸有司もようやくこれに従った。

 



 将軍滞京と決す     将軍家滞京と決し、さきに松平慶永朝臣がみずから職を解いて国へ帰ってしまったので、朝廷はさらに、水戸中納言慶篤卿に「東下して攘夷のことにあたり、防禦のことは大樹目代の意をもってこれを指揮すべし。かつ、先代の遺志をついで力をつくし、掃攘の成功を奏すべし」という勅を下し、真の御太刀を賜わった。
 わが公は、それについて幕府に建議して、「昔から、人君が将に命じて軍を出す場合は、車の輪を君みずから推して、全権を委せるのがしきたりである。いま英夷に接するについても、遠くから掣肘することをせず、ひとえに慶喜卿に委任して、応待のごときは別に人撰してこれを命じられたがよろしい。むろん、水戸の藩臣もその撰に入れられるべきである。そうでなければ、成功は収め難い。ただし、このことは朝廷の方へも上奏すべきであろう」と言ったので、幕府でもそれを採用し、将軍家は慶篤卿を召して、よろしく勝算を立てて名義を正しくし、無謀の挙はつつしむようにと命じた。
 卿はその命令をうけると、幕府からの賜暇の許しも待たず、急いで東下した。

        



 【注】

【一 後日賜わった勅書】 この勅書は、三月二十二日の将軍参内に関係したものではない。三月七日の参内の際、関白より次のごとく達せられた。「征夷将軍の儀、是迄の通り御委任遊そばされ候上は、弥(いよいよ)以て叡慮遵奉、君臣の名分相正し、闔国一致(こうこくいっち)、攘夷の成功を奏し、人心帰服の所置これあるべく候。国事の儀に付ては、事柄に寄り、直に諸藩へ御沙汰あらせられ候間、兼て御沙汰成し置かれ候事」右の文章中、事柄によっては、直接諸藩へ御沙汰がある伝々は、五日に慶喜が参内した際に下された庶政委任の勅書の趣旨と矛盾するとし、慶喜は重ねてその真意を関白に聞いたが、要領をえなかった。本書は、この時のことを、二十二日より「後日」の勅書と誤記している。

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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/10/30(火) 18:05:26|
  2. 京都守護職始末1
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