いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

島崎の後役(長岡及び其の付近の戦)

島崎の後役(長岡及び其の付近の戦)

 この日島崎村の方位に当り砲声を聞く、時に大和田村の守兵報じていわく、西兵出雲崎より来ると、暁来鎮将隊、桑名兵は輿板方面に戦いしが、午後使いを佐藤織之進に遣わし、弾薬すでに尽きて戦うこと能はざれば急に兵を出して敵背を衝かんことを請う、これにおいて寄合組隊、水戸兵、荘内兵一小隊、合わせて二小隊を率い馳せて夏戸村(三島郡内にて島崎の東北一里弱の所に在り)より山地に回りしに戦正に酣なり、水戸兵急に島崎村後方の山上に登り臼砲を連弾し、その他の兵は撒兵に展開して烈しく乱射す、西軍兵を分ち夏崎村の林間に潜伏してしきりに防戦す、桑名兵勢に乗じて戦う、会々結義隊々長渡部英次郎来りてこれを援けたれば西兵動揺して走る、東軍これを追撃し、日すでに暮れるゝを以て兵を島崎村に収む、この日多く弾薬を鹵獲したるが、これを桑名兵に贈りたり、この戦に東軍は一兵を損せず〔西記〕。

 六月三日佐川官兵衛は河井継之助と共に三条に至りしが、継之助の先見違はず、見附の西軍は、すでに押切(信越本線の押切駅これなり)方面に退き、東軍一兵を動かさずして見附に據り、これより東西両軍全く攻守勢を異にするに至れり〔河井継之助〕。

 今町大捷の後東軍兵気すこぶる振るう、すなわち本営を見附に置く、しかして西軍は塞を列すること出雲崎より山麓に至り、東軍は志戸橋(三島郡の海岸にて寺泊と出雲崎との間に在り)より橡尾に至り、連亘十数里北越を横断し相持して日夜砲戦を交え勝敗決せざるもの五十余日に及べり〔河井総督碑文、続国史略後篇〕。

 六月四日東軍米澤兵、長岡兵は片桐(信越線見附駅より東北半里許に在り)より傍所(信越線押切駅の東北半里許に在り)に進む、西軍鹿熊(押切の東に在りて近し)を発し刈谷田川を隔てゝ砲撃しその勢猛烈なり、西軍はここに対戦する間に福井、大黒(両所共に古志軍新組村に在りて互いに近し)の方面に堅壘を築かんとす、夜半米澤の二小隊、長岡兵潜に河を渡りて敵営を衝く、また長澤(古志郡長澤村の小字)に屯せる長岡兵二隊、我が兵、米澤兵共に杉澤に進みついに橡尾に入る、これ今町の役後赤坂(長澤の両南一里弱に在り)杉澤の両軍ことごとく退きしに由るなり〔河井継之助〕。

 この日朱雀二番寄合組隊半隊頭坂井源八郎、教導志田貞二郎山を下りる東山寺に至る、西兵すでに走る、これにおいて兵を整い見附に至り弾薬銃刀等を鹵獲し加茂の本営に送致す、この夜兵を漆山村(鹿熊の東南に在りて近し)に出し夜半過る此ひ見附に退く〔西記〕。

六月五日傍所口の戦ますます烈しく長岡の諸隊これを援く〔河井継之助〕。

 六月六日西軍福井、大黒の壘壁成るを以て鹿熊近傍の西軍猿橋川七軒(共に長岡の北に在り)方面に退く、よって米澤の六小隊、村松兵二小隊、長岡の数隊は押切、大曲戸、五百刈、品の木、百束(これらの村落は長岡の正北より東北に連なり二里以内に在り)等の方面に布陣を進む〔河井継之助〕。

朱雀二番寄合組隊は見附を発し夜半過ぐる頃地蔵堂(三条の西二里半に在り)に至る〔西記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2
スポンサーサイト

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/03/04(月) 11:46:51|
  2. 会津戊辰戦争史2
  3. | トラックバック:0

トラックバック

トラックバック URL
http://igagurisiryoukan.blog.fc2.com/tb.php/160-3ab25585
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。