いがぐり史料館

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森立峠の戦(長岡及び其の付近の戦)

森立峠の戦(長岡及び其の付近の戦)

 六月八日暁橡尾に陣せる東軍相謀り、まさに森立峠の西兵を攻撃せんとす、長岡兵四小隊は田の口新道より横撃し、衝鋒隊、村松兵二小隊は一の貝(軽井沢の東半里強に在り)より森立峠の東南に出て軽井沢の西兵を衝き、長岡兵は此禮村(森立峠の東北北半里強の所に在り)山上の西兵を攻撃し、我が第二遊撃隊は山麓の経路より潜行し、右側の山上に撒兵して烈しく銃撃す、西兵山上の砲台より相応じて激戦す、会々軽井沢火光揚る、これにおいて森立峠の西兵を攻撃す、西軍高田、松代の兵、大に驚き砲銃を乱射す、東軍奮戦ほとんど壘を奪わんとす、西軍苦戦砲隊は砲を曳いて山を下る、時に浦瀬(此禮の西北西一里強の所に在り)に在りし、西兵来り奮闘す、東軍弾薬尽き申の下刻頃ついに兵を橡尾に収む、両軍死傷相当ると云う。

{この役遊撃隊士高木千代負傷するや西郷常次郎、有泉勇気これを助け山を下らんとし、途上二人千代に向い村民を呼び来らん、しばらくこれに待てと云いて去り、久しうして帰らず、千代すなわち辛うじて山路を下り浦瀬に至り、西軍の巣窟なるを知り、大に驚き、また山中に入り、夜に乗じ潜に出でゝ民家を訪ひ偽りて長岡藩士と称す、主婦一人在りしかば偽りて農夫の装を為しその家に宿す、しかれども地理を知らざれば身を脱するを得ず、止むことを得ず、翌九日役夫に雑はり終日西軍の運搬を為し、十日天未だ明けざるに浦瀬を遁れたるが、すなわち亀崎村(浦瀬の東北一里強に在り)西軍哨兵の誰何する所と為りて追跡せらる、千代運を天に任せ疾走して椿澤村(亀崎の東北に在りて近し)米澤の哨兵線に至りその顛末を告ぐ、これにおいてその本営に誘われ懇遇を受け即日見附に昇送せられ十二日橡尾に帰るを得たり、千代の浦瀬に在るや、密かに西郷、有泉の消息を探る、村民云う、東軍の兵士二人浦瀬の山中において路を失う、西兵四人赴いてこれを捕えんとし互いに刀を揮って戦い、西兵ついに東兵一人を殺し、一人を捕え、これを浦瀬に斬る、これ会津藩士なりと、けだしこの二人は西郷、有泉なるべし、浦瀬に在りし西軍は薩、長、芸州、尾州、加州、高田、松代等の兵なり、西郷、有泉が千代を助けんとして、ついに敵手に斃れたると、千代が危難の間に在りて二人の厚誼を感じ、その消息を探りしとは人皆これを称揚したりと云う〔西記〕。}

 この日、米澤兵、衝鋒隊、遊撃隊は中之島に守り、長岡兵、朱雀四番士中隊、砲兵隊は午の刻頃中之島を発し申の下刻を過ぐる頃見附(村松の封地)に至る、糧食は村松藩より提供せり〔西記〕。

朱雀二番寄合組隊長は北野村を発し島崎村に至り胸壁を築いて守る〔西記〕






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2
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テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/03/05(火) 17:38:59|
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