いがぐり史料館

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輿板方面対陣(長岡及び其の付近の戦)

輿板方面対陣(長岡及び其の付近の戦)

 七月四日朱雀四番士中隊、砲兵隊、青龍三番士中隊、水戸兵は地蔵堂を発し輿板の北方高越村、岩方村、鹽之入村に至り、ようやく山上におよび、輿板城の山脈に連なる大川に胸壁を築き、一の胸壁は我が砲兵隊砲一門(三十人許)、同二、三、四の胸壁は青龍三番士中隊および付属隊砲一門(百六十人許)、同五、同六の胸壁は上の山兵(八十人許)これに據る、上の山の国境切迫し兵を収むるにおよび、朱雀四番士中隊(四十人許)元金田隊の兵これに代わる、信濃川堤三箇の胸壁は水戸の算隊(八十人許)、堤防以西は水戸の市川隊(百二十人許)、陣ヶ嶺(所在不明)前方は桑名の地神隊(六十人許)、陣ヶ嶺以西は水戸の朝比奈隊(百人許)、小島谷村方面日野浦(輿板の西一里許)、近傍は衝鋒隊、遊撃隊、小雲雀村(所在不明)には朱雀二番寄合組隊、寺泊、山田(所在不明)辺りには庄内兵松宮雄次郎の兵、新遊撃隊、結義隊これに據る〔西記〕。
 
 この日河井継之助は前日見附に至り、長岡城回復の策を決せんとし、百束、福井、押切、四屋等の守備を米澤に委ね、長岡の兵をして密かに橡尾に退かしむ、しかして西軍の偵知せんことを恐れ故らに途を漆山街道並び名木野(見附の南半里弱)、太田(名木野の南半里弱)街道に取らしむ、これより本営を橡尾に転ず〔河井継野助〕。

 これより先、新発田藩騒擾す、六月十二日我が藩上田傅治、赤谷警衛の命を受け、屬吏と共に赤谷口に至り、関門を警衛せしが、形勢切迫するにおよび何国の人民なるを問はず赤谷口の往来を禁ぜり、元来諏訪峠以外五村の人民は薪炭を鬻くを生業とし、新発田城下に出して日用の諸品と交換して生計を営み来りしが、往来を禁じてより新発田領内の商人は止むことを得ず、赤谷口の関門外において物品を販売するに至れり、上田傳治思えらく今や新発田同盟に加わり、すでに兵を出したるに、その人民の赤谷口の往来を禁ずるは隣邦和親の実なく、いわんや五村を始めその他の村々に至るまで生業の支障を輿ふること尠からず、故に速に往来の禁を解き有無相通ずるを得せしめざるべからずと、六月二十五日水原府に至り陣将上田学太輔に開陳し、同二十七日水原出陣の下平庸三郎と共に新発田城下に至り、同藩郡奉行三浦四一郎に面して物品交換の障害を除き、人民をして有無相通ずるを得せしむるは勿論なるが、戦争中なれば幣藩においても監督を厳にするの必要あり、ゆえに貴藩の人民にして幣藩の関門を往来する者は印信を携えて赤谷口を入り、津川その他何れの地にも商業を為し得ることゝ為さば如何と説きたるに、三浦は幣藩より請うべきに却って貴諭を辱うしたるを謝し、追って重役と協議返答すべしと云へり、これにおいて上田は赤谷に帰り関門往来の事を見習石井益三郎および関門の戍兵に諭告し、監督の事を代官および有司に協議し、七月上旬若松に帰りてこれを報告す〔西記〕。

 今町の戦後東軍はますます攻勢を取り、長岡城を距る二三里に進み環攻の勢を示すに至れるが、西軍は仁和寺宮純仁親王、総北越征討総督と為り、中納言西園寺公望、左衛門権佐壬生基修之に従い、長州、岩国、筑前、越前、肥前、芸州等の兵を発し、七月七日海陸並びに進みて越後に向う、九日総督宮は直江津に上陸して高田に至り、十五日進んで本営を柏崎に置く、二十一日西軍の軍艦五隻柏崎に入り、長州の山田市之丞、薩州の本多弥右衛門を海軍参謀と為し、海陸相応じ一挙して東軍を撃破せんと欲し、その嚮ふ所を部署す、親兵は出雲崎に至り左翼を援け、小松(一柳、一万石)、小野(一柳、一万石)、足守(木下、二万五千石)、三ヶ月(森、一万五千石)の四藩は関原に至り中央軍と合して東軍の中堅を衝き、薩、長、芸州、高鍋、明石の諸兵は海軍に属し海路より下越に上陸し、東軍背後の連絡を絶たんとす、しかして海軍は二十三日柏崎を発し、二十四日陸軍もまた進発し、明旦を待って戦わんとす、河井継之助は謀してこれを知り、その機先を制して長岡城を回復せんとす、これより先、七月十一日米澤の甘糟備後、齋藤主計は河井継之助、三間市之進、花輪求馬等を橡尾の営に招き進撃の策を図る、時に継之助いわく、尋常に攻撃せば彼もまた能く防ぐを以て勝算なし、あまねく敵営を偵察するに彼ら長岡城を抜いてこれに據り、はなはだ驕りすこぶる警備を怠る、長岡城の東北に大澤あり八町沖と曰ふ、水田萬頃防備厳ならず、余自ら兵を率いて潜に進まん、西軍の戍兵これを覚らば必ず弾丸雨注せん、余先づ斃るれば屍を棄てゝ市之進これに継げ、この間髪を容れず一に死傷を顧みず、速に郭外の川を渉り火を敵営に放つを以て主眼とす、但し我が兵寡く、且つこの挙や死傷また測るべからず、幸に貴藩精鋭を尽くしてこれに継ぐ、我が兵をして敵に委せしむるなかれ、幸に長岡城を恢復するを得ば、いささか昔日の恥辱を雪ぐに足れりと、備後、主計等大にこれを賛成し、備後馳せて見附に帰りこれを総督千阪太郎左衛門に報じ、ついに継之助の画策に従ふことゝなれり、時に七月十五日なり〔河井継之助〕。

 七月十七日夜継之助は我が藩、桑名その他の諸藩将を橡尾の本営に会し、備さにその画策を告げ、二十日の夜を以てまさにこれを継行せんとす〔河井継之助〕。

 七月十九日継之助は橡尾近傍の守備を我が藩、仙台、米澤、村松等の諸藩に譲り、長岡の兵十小隊に令して急に見附に退かしむ、会々風雨連日にわたり、間道の八町沖は、道路ことごとく水に没して、あたかも一大湖のごとく、兵を進むること能はず、ゆえに進撃の期を更めて二十四日の夜となす〔河井継之助伝、続国史略後編〕。

 七月二十三日河井継之助は密かに令を諸隊に伝えていわく、今日は先日の役に異なり、進んで死すべし退いて生くるなかれと地図を按して進路を示し、藩侯より賜う所の酒殽を頒つ、衆始めて河井の意を解し皆勇踊していわく、先日の恥辱を雪ぐはこの一挙にあり、長岡城を復する能はずんば一死あるのみと、歎飲夜を徹す、米澤の士皆来り観て屋外堵のごとし〔河井継之助〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2
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  1. 2013/03/09(土) 18:26:22|
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