いがぐり史料館

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東軍長岡城を復す(長岡及び其の付近の戦)

東軍長岡城を復す(長岡及び其の付近の戦)

 七月二十四日午の刻を過ぐる頃、継之助は軍令方略を諸隊長に伝え部署すでに定む、河井死士六百十二人を率い人毎に一日の糧を用意し、日の暮るゝを待ち、十七小隊伍を整えて本営を発し、市谷(見附の南にて近し)の船橋を渡り熱田新町より四屋、漆山等を経て百束の東端に出で、これより声を呑んで亥の刻頃八町沖に至る、八町沖は浦瀬の北福島の東、福井、百束の東南に在りて長岡を距ること一里余なり(当年一大沼澤なりしが、桑滄の変今や全くとなり、旧態を存するなしと云う)、会々大雨連日の後、潦水溢れ細径缺け壊れ、その艱難予期に倍せりといえども、前哨の兵能く、その地理を諳んずるを以て、全軍迷わずして進み更に潜みて西軍列塞の間を過ぐ、時に大黒、田井(大黒の東一里強)の方面に戦闘起こり、両軍の飛弾流星のごとく、喇叭の声は耳をつんざき敵壘の燎火天を焦がし兵馬疾駆の状あり、河井は後隊の継ぐを待って進軍の令を発す、先鋒大川隊、千本木隊驀進宮下(浦瀬の西藩里許)の胸壁を襲ひ、火を放ち吶喊して進む、東軍初め火を挙げて合図を為すを約す、田井の陣営これを望み見て烽火を挙げ、橡尾の古城址よりもまた狼煙を挙げてこれに応ず、東軍は十二潟、押切、福井、大黒等の諸壘を砲撃し烟稲天に漲り喊声地に震ふ、諸隊行々西軍を破りて進む、沿道の民長岡の兵を見て大に喜び、家毎に燈を点じ簟食壺奨してこれを迎ふ、河井直ちに長岡城に迫り火を放って縦横突撃す、西軍長岡城に在る者進退度を失い、城中に在りし西園寺公望徒跣高遠の兵に擁せられ僅かに関原に遁れ、山縣狂介は戎衣を著くるに暇なく寝衣の儘兵を指揮す、他の諸隊は舟楫乏しくして渡る能はず、加ふるに新町口、宮原喰違もまた已に東軍の扼する所と為り、進退谷まりて草生津に集まり、天明を待ってまさに渡らんとしたるが、先に走りたる者すでに舟楫を争ひて遁れ河岸一隻を留めず、長岡の花輪、奥山の二隊は草生津に迫りて猛撃す、西兵互いに蹂躙して溺れて死する者算なし、長の将三好軍太郎、薩の中井弘三等主力を率い草生津の堤防に據り、衆を励し殊して戦い、花輪、奥山の二隊すこぶる苦戦す、会々渡邊、望月の二隊、内藤隊共に来り援くるも西兵要地を死守し射撃猛烈にして諸隊少しく逡巡す、河井継之助馳せ来り自ら軍旗を揮って挺進す、諸隊勇を鼓して奮進す、隊長渡邊進挺前して重傷を負う、この時河井は諸隊長の請いにより、潜に竹垣権六等二十余人を迂回せしめ、左近村(草生津の南に在りて近し)の堤上より横撃せしめたるに西軍ついに支えず堤に沿うて内川に走り、東軍進んで草生津を奪う、東軍なお追撃せんとす、河井これを止め諸隊をして、この地を守らしむ〔河井継之助〕。





卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2
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  1. 2013/03/10(日) 10:42:14|
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