いがぐり史料館

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新町口の戦(長岡及び其の付近の戦)

新町口の戦(長岡及び其の付近の戦)

 時に下条(長岡の北一里弱)の西兵衆を尽くして新町口(長岡の北口なり)に迫り東軍苦戦す、大隊長三間市之進急を本営に報ず、河井すなわち渡邊隊をして赴き援けしむ、下条方面は西軍主力を集注し、明旦まさに一斉に東軍を進撃せんとしたるに、東軍すでに長岡城に入る、これにおいて直ちに精兵を長岡に集めんとす、時に大黒、福井、十二潟の諸壘もまた東軍の猛撃する所と為りて腹背敵を受く、ゆえに一方の血路を開き天明殊死して城岡の土壘に進撃す、初め河井の長岡城を復せんとするや、福井、大黒方面の西兵必ず衆をことごとくして、この方面を猛撃すべきを慮り、三間市之進をしてこれを守らしむ、これにおいて篠原、稲垣の二隊は三軒茶屋の胸壁に據り、鬼頭、小野田の二隊は喰違に在りてこれを防ぐ、西軍頑として退かず、東軍前夜より奮闘息まず、兵皆疲労して拒く能はず、前隊は喰違に退く、西軍鼓騒して迫る、東軍ついに支えずして新町に退く、時に稲垣、小野田の二隊長等死傷すこぶる多く全軍振るわず、地蔵町を守れる大川隊はこれを見て守備を千本木隊に委し、栖吉江に沿うて来り援け、先づ新保を侵せる西軍を撃攘せんとす、望月、河井の両隊もまた来り援く、諸隊勢に乗じて反戦す、西軍の一隊さらに蔵王を迂回し、先に敗走して路を失い処々に潜匿せる残兵と合し、屋台小屋に突出して横撃す、内藤隊来り援け防戦すこぶる力むといえども、腹背敵を受けついに支ふる能はず長岡城に退く、河井急を聞き馳せてこれを援く、たまたま流弾左脚の膝下に中り重傷を負う、新町口すでに破れ西軍吶喊して長岡城に迫り神田口門を猛撃す、長岡の将士議していわく、弾薬すでに尽き米澤約に背くときは、この城今夕を保たず、諸隊齋しく城を枕にして国家に殉ずべしと、遽に胸壁を築き溝に據って防戦す、夜に入り砲声ようやく稀に夜半に及びて全く息む〔河井継之助伝、七年史〕。

{三軒茶屋、喰違、屋台小屋等の所在不明なれども、要するに今の長岡市内外北の地名なるべきにより、戦争の大体を知り得可し。}

夜五更報ありいわく、本道の東軍筒場口を破ると、衆雀躍勢大に振ふ〔河井継之助〕。

 本道における福井、大口、田井等の東軍米澤兵、我が藩兵は二十五日早朝宮下、富島(長岡の東北半里強に在り)方面の火を起こるを見て、直ちに西軍の壘壁を猛撃す、西軍善く防戦し勝敗決せず午時に至る、殊に福井攻撃を擔当せる米澤兵の攻勢はなはだ振るわず、長岡の大砲隊長村松忠次右衛門しきりに米澤の将に促していわく、福井敗れずんば進撃の我が兵皆敵手に帰せんと、佐川官兵衛もまた来り進撃を促す、米澤三十目和銃隊二小隊を発し共に福島、大黒、大口等の胸壁を砲撃し、大黒の壘に進撃するもの三たびにおよび西軍ついに敗る、直ちに火を放って進み終に福井、大口、猿橋、大黒の壘を敗り火を処々に放つ、西軍黒澤(所在不明)方面に敗走す、本道の東軍ようやく敵壘を破るや、長岡の砲兵隊長由良安兵衛約のごとく狼煙を挙げて進撃軍に報ずといえども、時すでに新町口に敗れ、諸隊兵を城中に収めたるの後にして、ついに来撃の謀は成らざりき〔河井継之助伝、七年史〕。

 この日(二十五日)早朝、我が砲兵隊、青龍三番士中隊、衝鋒隊、水戸の筧隊は大山一の胸壁より元輿板の敵壘に進撃す、西兵善く戦ひ、東軍苦戦且つ走る、砲兵隊軍目杉浦佐伯、同甲士渋谷源蔵、佐々木八次郎、日向栄三郎、神指大三郎は尚止まって追兵を防ぎて奮戦し、巳の下刻を過ぐる頃、兵を一の胸壁に収む〔西記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2
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  1. 2013/03/10(日) 16:35:32|
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