いがぐり史料館

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新発田同盟に反き西軍に降る(長岡及び其の付近の戦)

新発田同盟に反き西軍に降る(長岡及び其の付近の戦)

 時に新発田同盟に反き、西軍一千余人を松ヶ崎に上陸せしめ、進んで新発田城に入り、中越下越の連絡を断つや、下越の東軍大に驚き相謀りてこれを来撃せんとするも兵寡くして如何ともする能はず、新潟、水原に據ってこれを防ぐ、西兵軍を分ち一は水原および保田(五泉の東北一里半に在り、今安田村の大字なり)方面に、一は新発田より赤谷方面に、一は三日市(加治村の大字新発田の東北一里許)より中条(新発田の東北北二里半許)、黒川(中条の東北半里許)方面に、一は新潟に進む〔河井継之助伝、続国史略後篇〕

 従来新発田は米澤と相善からず、これをもって常に会津に倚頼する所あり、幕府の末年無頼の浪士越後に潜入し、勤王の名を借りて暴発せんとするの風説あるや、新発田藩は大にこれを憂へ、慶応三年の初め密かに使を我が藩に遣わし左の書を贈り予め救援を乞へり。
 
今度罷出候者別儀に無御座御当節世上一般人心不穏何万も如何様之変事可出来も難計時節に而御同様心配之折柄乍取留事越越後筋に而不容猪易風聞有之正義党と唱ひ浪人京都関東越後に多人数潜伏致居候由之処越後地之儀米穀豊鐃之土地に付巣窟を高田村上両所之中に定め江城を火にし会津を攻落し横浜へ打て出て長州よりは京都へ切込可申手配偖右党においては朝廷の手を借り申さずては賊兵に落ち且つ諸人進行も薄く候に付有須川宮様之公達を招請長州を始その第一味之諸侯人数を分け一手は軍艦にて海上乗廻し越後瀬波(村上の西北に在り)へ着岸宮様は様を替へ陸地御下りにて同時に落合村上城を借受け不承知之節は干戈を動かし候手段村上城借用之上は右宮様は引移し夫より米澤へ使者を以て軍勢繰出申遣し越後並所々に潜居候正義党の者一時に起り立ち動揺之図を見て諸侯に正義を解諭候手段軍用金兵糧食等之繰出は京大阪江戸越後筋身元之者を自党に引入聊差支無御座候由正義諸侯御家来之内二百人百人と追々右党へ加り候総裁は有須川宮様御差配に而指揮有之由申提居候由右党之者専御当所をねらひ当三四月頃には必事を発し候企之趣追々相聞え右は不取留風聞には御座候得共不容易儀と申探索致見候得者右党之者諸国へ潜伏致居越後筋には余程入込候儀相違無御座哉に相聞え右風設之趣は御承知有之候哉万々一変事あるに於いては不相済次第不安堵至極御許様之儀は越後地に御新領並御預所も御座候に付御深探索は勿論何等之御手配も可有御座候哉此節御取締向等も御座候はゞ御内々御模様相伺申度右は当方最寄御料領御取扱等も可有之哉之処余之儀し違ひ軽率に御発し難相成儀に有之仮令浮説之事に致候而も小家之儀黙止居候而は不安堵之次第不得已御許様之儀は旧来より御懇示被成下毎度御手厚之御仕向を蒙居候儀に付聞込候趣聊斟酌不致打明御談申上候間何卒無腹蔵御示教被成下度此段幾重にも御縋り御頼み申上候

 我が藩は右の書面に接し、時勢の近状に鑑み等閑に付すべからずと為し、藩士飯田兵左衛門、萱野安之助、土屋鐡之助をして村上、村松、長岡および新発田を歴訪せしめ、また長岡藩をして柏崎、輿板、高田、糸魚川、七日市、三日市諸藩を勧設せしめ、同年九月十五日新潟において輿板を除きたる越後十三藩の使臣会合して左の協約を為せり。

一 銘々領内之儀厳重取締致探索候次第は集会之節打合可申事

一 毎年五月十四日迄参着十五日出会之事

一 事之有無に不拘毎年九月朔日糸魚川村上両藩より廻状差出各藩順に差出可送事

一 変事有之節其次第柄飛脚を以て通達可致事

但不差急儀は不時廻状を以て通達可致仮令風説たりとも品に依り心得の為廻達可致候事

一 他領たりとも何儀によらず浮説等有之事実承置度儀は出会揃之役筋へ承合可申事


 この契約は将来永続せざりしといえども、このごとく十三藩会同して旧交を温め、将来の利害に関し申合を為したるは、要するに新発田が会津に救援を乞いしに端を発したるものにして、彼の藩の各友藩に対する信義は決して尋常路人に対するがごとくなるべからざるなり、その後大政奉還廟堂変革の事あるにおよび、彼の藩は肥後、仙台、米澤等の諸藩と共に重臣連署して書を朝廷に上り、その処置が維新の本旨に反するを論じ、あるいは兵を京師に出して西軍を助け、あるいは奥羽越の同盟に加わる等首鼠両端を抱くに至れり、同盟の列藩これを怒り討って後禍を除かんとするに及びては、百万陳謝兵を発して信を表し以て二心なきを誓い、巧に東両両車の間に立ち、節義を売り利勢を追い、啻に我が藩宿昔の情誼を顧みざるのみならず、また同盟列藩を欺き表浦反覆の醜態を極め、なおかつ靦然として自ら勤王と称するに至っては、その厚顔無耻もまた甚だしと云うべし。

 七月二十六日卯の下刻、長岡の大砲隊長岡城に入り、巳の刻頃佐川官兵衛、米澤の甘糟備後、我が朱雀四番足軽隊中隊頭横山傅蔵等城に入り戦捷を祝す、米澤、仙台、新発田の兵西軍を破り相先後して城に入る〔河井継之助伝〕。

 長岡城恢復の役東軍の鹵獲したる大砲百二十門、弾薬二千五百余凾、小銃器械糧食山のごとし、東軍死傷百余人、西軍はこれに十倍すと云う〔七年史〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2
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  1. 2013/03/11(月) 12:56:42|
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