いがぐり史料館

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灰爪の役(海岸戦争)

灰爪の役(海岸戦争)

 閏四月二十八日、これより先、桑名の兵西軍と鉢崎、鯨波等の海岸に戦うこと数回、兵すこぶる振るう、東軍小千谷の戦に敗れ、柏崎は腹背敵を受けて保つこと能はず、よって宮川に退いて数日防戦したるが、宮川(柏崎の東北北二里余に在り)は地の利を得ざるを以て、この日軍事取締役添役佐藤織之進は桑名兵、衝鋒隊と共に妙法寺(宮川の東南一里強に在り)の要衝に據る〔西記〕。

 旧幕遊撃隊は小千谷の東軍を援けんとして酒屋を発したるが、東軍すでに退くを以て我が藩樋口源介等と共に妙法寺口赤田村(妙法寺の西南半里強)を守る、時に水戸の市川等の兵(全隊六百人)ニ百人佐渡に渡らんとして寺泊に在り、すなわちこの兵と共に石地(出雲崎の西南に在り)に戦うこと数日ついに利あらずして、ことごとく妙法寺口に退く〔西記〕。

五月五日東軍諸隊赤田村を発し、新遊撃隊後殿し三条に至る〔西記〕。

 これより先、五月三日片貝の戦後結偽義隊は脇の町に次し四日兵を長岡に出す、この夜田淵房之進、佐藤力之助、大庭源之助は出雲崎より来り援を長岡の我が本営に請ひたるも兵寡くして如何ともする能はず、これにおいて結義隊々長渡部英次郎、井上哲作を見て海岸方面の急を告げ、且つ水戸の兵のみを以て防戦することの難きを説き援を請うこと切なり、渡部等すなわち議を決し長尾熊太郎をして佐川官兵衛に見え事情を陳べて指揮を請はしめその許諾を得たり〔井上哲作戦争日記〕。

 同六日渡部、井上、まさに兵を出雲崎に出さんとしたるが、時に大雨信濃川暴漲して舟子否みたるも金を輿へ強いて舟を出さしめ、地蔵等を経て寺泊に至る、衝鋒隊の部長今井信郎ここに在り、渡部、井上と会談す、信郎酒饌をもたらし、且つ窄袖襯衣陣笠等を贈る〔井上哲作戦争日記〕。

 同七日渡部、井上は結義隊を率いて出雲崎に至る、我が兵および水戸の兵喜んでこれを迎え、井上等、石地村に至り、この地を守れる水戸の将筧助太夫、朝比奈弥太郎我が藩佐藤織之進、田淵房之進等と会議し後出雲崎に帰る〔井上哲作戦争日記〕。

 同八日結義隊一小隊を石地に出す、石地より水戸の筧隊四百六十人を出し共に灰爪村(石地の東南一里)に至り、水戸の朝比奈隊その他の諸隊は市野坪村(灰爪の西南半里強)に至る〔井上哲作戦争日記〕。

 同九日午の下刻頃結義隊、筧隊は灰爪村に至り直ちに関原方面を偵察す、結義隊二十人、筧隊四十人を合し井上哲作これを指揮し、日暮れ薬師堂峠(灰爪の東南里強)に登り、絶頂に露営したる折柄、大雪にて冷気肌に透り兵もまた大に疲労す、時に西兵来らざるを以て井上は兵をして山下の吉津村(嶺下五町許)に至りて休息せしめ、山上に止まる者九人に過ぎず、天明に至り西兵来り迫りたれば、使を山下に発し急に集合を促したるも直ちに帰らず、西兵は三面より進み、しきりに乱射し我が兵苦戦に陥る、井上刀を抜いていわく、斯くの要衝に據りて防戦すること能はざるは面目なき次第なり、死して君恩に報ゆるは今日に在り諸子奮勤せよと指揮たれば、九人皆死を決して戦いたり、西兵は街道に集まり一隊と為りて進み来り、我が兵銃弾虚発なく西兵数人を倒す、西兵は我が兵の寡きを侮りてますます迫り来りたるが、九人の中に半隊頭宗像虎四郎と云う者あり、井上に向っていわく、隊長の決心はさる事ながら九人にて奮戦するも衆寡敵するの理なし、今この地を退くも誰か卑怯と言うべきや、一先づ脇の山に退き、更に兵を集めて戦うこそよけれ、しかれども隊長ここに戦死せらるゝならば、予は決して人後に落ちざるべしと、虎四郎は僅かに十六の少年にして聞く者を驚かしめたり、たまたま銃丸井上が陣笠を貫き腋下に当る、すでにして短兵急に接したるが折柄渡部英次郎は脇の山山上より西兵を横撃して進むこと能はざらしめ、東兵は間を得て灰爪山に退きたり、すなわち西兵三百人許椎谷の方面より来り我が陣地の山下を過ぎんとしたるを以て、東兵潜伏して待ち居たるに西兵これを覚りたりけん、すなわち兵を椎谷の方面に返せり、これにおいて兵を集めて暫く休ふ、兵大に疲労し意気振るわず、すなわち議して朝比奈と合し関原の西兵を撃たんと欲し、直ちに全隊市野坪村に収む〔井上哲作戦史日記〕。

この日朝比奈隊、筧隊共に市野坪村に次す〔井上哲作戦争日記〕。

 五月十日西兵は朝比奈隊、筧隊、本営背後の山上より射撃し水戸兵多く死傷す、結義隊これを援く、水戸兵大に奮激し白刃を揮って山上に登らんとして斃るゝ者相次ぐも、なお屈せずして登り西兵を撃退す、間に乗じ結義隊出雲崎に退く、時に出雲の人梅津平次郎来り井上に面会し、互いに恙なきを賀し大に意を強うす、彼の周旋に由り舟に乗り寺泊に退き水戸兵は弥彦に退く〔井上哲作戦争日記〕。

 同十一日井上哲作は寺泊桑名侯の倉庫に糧食の儲ありと聞き、交渉して一千五百余俵を舟載して野積村(弥彦村の西南一里)に廻送し以て海岸守兵の糧食に充つ、時に佐藤織之進は兵を発し寺泊に至り、結義隊は野積村に次し滞陣すること七日に至る〔井上哲作戦争日記〕。

 同十三日海岸の形勢日に迫るを以て、新潟を守りし佐藤織之進は兵二十五人を率いて出雲崎の東軍を援く〔西記〕。

同十四日海岸の東兵石地、椎谷に戦い利あらず、弥彦に退き寺泊の東兵もまた退く〔西記〕。

 同十五日東軍の海岸を守る者なし、佐藤織之進わずかに二十三人を率いて寺泊に據る、水戸の伊藤辰之助兵を集めて新遊撃隊に属し、ついで松宮雄次郎の兵結義隊皆これに属す、時に坂本平弥は死し、その率いし旧幕遊撃隊は佐藤織之進に属したれば爾来折之進はこれを新遊撃隊と称し、その長と為り各地に転戦せり〔西記〕。

 五月十八日井上哲作は長岡の我が本営に至り、一瀬総督に面し詳に戦況を開陳す、総督その戦功を賞し、なお令して海岸防禦の任に当らしめ金二百両を輿ふ、井上帰り兵を寺泊に出し石川平助の家に次す、平助は徳川氏累代の重恩を忘れず大に東軍を優遇せり、寺泊の市民半は心を西軍に属したるに独り平助は志操堅固にして少しも渝らず、後村田山進撃の時結義隊に従軍して負傷せり、結義隊寺泊に留まること三十日、市民皆帰りて業を営むこと平生のごとく民心自ら東軍に帰せり〔西記〕。

 庄内より兵五百人を寺泊に出せしを以て東軍の勇気大に加わり西兵を掃蕩せんことを期す、庄内の陣将は石原多門、隊長は中村七郎右衛門、榊原十兵衛、安藤藤蔵、土屋秀三郎、伴弥太郎等なり。
 寺泊駅第一の資産家を菊屋と云う、彼は今春以来京摂の間に出でゝ西軍の為に周旋すとの噂あり、家族ことごとく去りて門戸を鎖し、その状すこぶる怪むべきを以て、結義隊三人新遊撃隊三人をして探索せしむに潜伏する者三人あり、二人は遁れ一人を捕えて訊問し、菊屋が西軍に通じたるの証を得たれば、駅の公使に命じ菊屋の財産を没収し駅中の人民に分たしむ〔西記〕

 六月三日井上哲作、山田の西兵を撃攘せんとし、兵を率いて島崎より山田に至る、隻兵を見ず空しく帰る〔西記〕

 六月十一日庄内の陣将石原多門等諸将校を佐藤織之進の陣営に会し、久田(石地の東北二里弱)の西兵を撃攘することに決し、島崎在陣の朱雀二番寄合組隊中隊頭山田陽二郎に交渉して部署を定む〔西記、井上哲作戦争日記〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2
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  1. 2013/03/15(金) 11:44:12|
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