いがぐり史料館

大きな声にかき消されてしまった本当の歴史、真実への探究にご利用ください。主に幕末史に関する史料を掲載していきたいとおもってます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

十五  石清水行幸     『京都守護職始末1』

 将軍参列できず     四月十一日、車駕は石清水八幡宮【注一】に行幸、親しく攘夷の成功を御祈願あらせられた。わが公は喪中なので、供奉(ぐぶ)には列しなかった。
 もともとこのことは真の叡慮から出たことではなく、過激な堂上がしきりにすすめてのことである。そのため、朝議では可否の説が区々であり、中川宮は徹頭徹尾これを可とせられず、そのため四日と令せられたのが、あらためて十一日となった。
 一方、聖上が将軍家に対して、きわめて優渥なのをみて、これを妬む輩【注二】が、八幡行幸の日を待って、ひそかにこれを謀ろうとするとの説が宮中にひろまり、前日ひそかにこれを幕府に報ずるものがあった。そこで諸有司は皆警戒し、将軍家の供奉をとり止めることにした。
 わが公これをきいて、今この未曽有の盛典に、将軍家が供奉に列しなければ、威名地に落ち、とりかえしがつかない、区々の輩など恐るるに足らないとさっそく徳川慶勝卿に謀った。
 卿はそのとき病褥にあったが、「もちろん、このような盛典に、武門が怖れて避けるようなことはあるべきでない。路次の警戒ならば、予も喪中で(卿もわが公とおなじく実父松平義建朝臣の喪中であった)じぶんはゆけないが、警備のことには助力しよう」と、相たずさえて二条城に登り、このことを争って、ともかくも供奉ということにとり決めた。
 しかし、夜半になって将軍家が急に発熱し、ときどき眩暈(めまい)もする容態となった。(お側衆の糟谷筑後守の言葉では、予は久しくお側に奉仕したが、紀邸から入られて以来、はじめての御苦悶であったとのことである。)将軍家はそれでも奮然として、「予が頭をもちあげられるかぎりは、かならず供奉に列する」と言われるのであったが、侍医たちが、絶対に不可と言う。そのうえ、後見職はまた眼病にかかられていたが、これをきくと、「将軍の身で、危きを冒すべきではない。予が代わって供奉しよう」と言い出した。
 わが公は、この際、将軍が供奉に列することのできないのは千載の遺憾といえども、病苦の体ではいかんともなしがたいとして、にわかにこの由を奏して、供奉を辞退し、典薬頭を賜わって一診せしめられんことを請うた。聖上はこれを聞(きこ)しめされて、お驚きと同時に御疑いもあらせられたが、典薬頭の奏するところをきかれて、叡慮は釈然とした。わが公は、家老の横山常徳に兵を率いて警衛させ、仙台藩の重臣片倉小十郎とともに前後に立て備えた。

 



 紛々たる風説     この日、二条右大臣斉敬公が宮中に留守をつとめていたところ、宮中の手うすに乗じて過激の徒が闖入し、親王殿下【注三】を奪って事をあげようとするとの風説があるのを耳にした。公はすぐさま、臣下の高島右衛門尉をわが公の営につかわし、非常に備えることを求めてきた。わが公は、秋月胤永、広沢安任らに兵をさずけて、宮門の外を警衛せしめ、ついに異事なく還幸あらせられた。当時の事情といえば、かくのごときものであった。
 ところが、このことについて、八幡宮は源氏の氏神である、将軍はその宝前で節刀を賜わり、攘夷の詔(みことのり)が出ることを怖れて、病気と称して、供奉しなかったのだという風説がひろがった。嫉妬の輩が言いふらしたことにちがいないが、その形跡上幾分事実のように見えたのは、是非ない次第であった。
 後見職も将軍家名代として供奉したものの、眼病【注四】がひどいということで、途中から帰館した。将軍家をつけねらうものがあるときいて、奮って代理に立ちながら、前後の容体から察して、この ような国家の大盛典に参列を欠かねばならぬほどの眼病でもないのに、中途から引きかえされたことは遺憾のきわみと言うべきである。この人は、はじめ勇にして、後に怯なる性質で、こういうことは、単にこの時のみにかぎったことではなかった。

 



 三条橋の張り紙     この月(四月)十七日、三条橋畔に張り紙をしたものがあった。
 はじめに将軍家の諱名(いみな)を特書し、上洛以来の事をしるし、さまざまの罵言、雑言をまじえ、慶喜卿のことは、八幡の神前で御用があるのに、出奔したと言い、板倉周防守、岡部駿河守らの奸吏が多く、井伊、安藤の二の舞を演じたなどと、文面はとるにも足らぬ無稽のことがらであったが、何ものの所為なるや八方探索してみたが、ついに証左を得ることができなかった。
 ときもとき、毛利慶親卿が帰国を言い出した。わが公がこれを留めたが、一向きき入れず、ついにその臣佐々木男也をよこして、藩事でやむをえないことがあると告げ、家臣を率いて国に帰った。京中ではもっぱら、あの張り紙は長門藩士の所為であり、痕跡をかくすために立ち去ったのだと評判しあったが、実否のほどはわからなかった。

 



 朝令暮改     十八日、伝奏衆から、今後十万石以上の諸侯は、三月交代で京都を守衛するようにとの勅旨が下った。
 それ以前、過激の堂上から、諸大名を京都、江戸と半々に参覲させるようにとの議があった。これは、幕府の権力を殺(そ)ごうとする目的から出たものであったが成功せず、いままた、この命が出たのであった。
かしこくも聖上が親しく将軍家に万事を委任して、よろしく諸侯を統率せよとの恩詔があってから、旬日も出ないのに、幕府に一応の商議もなく、ただちにこのような命が出たのである。その矛盾すること、往々かくのごとくである。
 それで、四月から六月に至るまで、上杉、奥平などの諸侯が参覲し、その後も参覲がつづいて、三条実美卿がその進止をつかさどった。以前に京都の守衛兵の命が出たときも、その統括を卿がつかさどった。
 これより卿の門前には、輿馬が群れをなし、その臣丹羽出雲守がまた過激の論を好むところから諸藩の過激武士や浮浪の徒が、卿の門に頻繁に出入した。なかでも、筑後の真木和泉、土佐の土方楠左衛門、長門の桂小五郎(後木戸準一郎とあらためた。また孝允ともいう)、肥後の佐久々助男也、坂木、後の轟武兵衛、石見津和野の福羽文三郎(今の美静)らがその巨魁で、彼らの名声は京中にとどろいていた。

 



 小笠原長行の東下     さきに、水戸慶篤卿を攘夷の目代として東下させ、英国からの要求の償金の件も、また幕府のはからいに任せるとあったが、ここに至って、過激の堂上らは償金拒絶を主張し、しばしば鷹司殿下に迫った。
 幕府でも、はじめに後見職から、英国の要求はいずれも従いがたしと諸藩に明示したことが、言質となって、いまさら、朝廷からの委任を楯に抗論することもできず、この日(十八日)、老中小笠原図書頭長行朝臣に命じ、東下して、償金拒絶のことに当らせた。長行朝臣は、ことが不可能に近いことを論じて辞退したが、後見職はこれを聴き入れず、再三強いられて、やむなく命を拝し、翌日、京都を発った。すでに意のうちでは何か期するところがあったらしく、はたして後日、一大物議を惹き起すこととなった。

 



 後見職奮起す     慶篤卿は、すでに東下していたが、攘夷の事には手を下さず、一日一日を過ごすのみであった。
 卿は性質が温和で、決断力に乏しく、元来大事にあたれる器ではなかった。そのうえ、藩臣もまた党派があって相和しない。そこで、重臣の武田正生らが後見職に書面を送り、攘夷のことはあまり事が重大すぎて、水戸一藩の力では堪えることができない、公が東下されて協力せられたい、請うてきた。
 後見職は上京以来、幕府のことが常に朝廷から掣肘するところとなり、予期に違うものが多いので、居常怏々(おうおう)としていたところへ武田からの手紙を見たので、大いに心がうごき、すぐにも東下して攘夷のことに当ろうと、その由を上奏した。
 わが公は、それをきいて大いにおどろき、駕をはせて後見職をたずね「将軍家がまだ年若で、ものごとに不慣れでもあり、参内の日、過激の堂上に時事について論じかけられたりしたとき、万一失言でもあれば、他日の証拠ともなり、不測の患いが生ずるようなことともなれば、悔いてもおよばない。ゆえに、後見職は決して、将軍家の左右から離れないように。それに、攘夷のことは慶篤卿がすでに任せられているのであるから、いま公が東下されれば、権が二つに分れて事がかえって渋滞するばかりである」と、再三東下を止めてみたが、後見職は、断じてそれに従おうとしなかった。みずから信じて決すると、さらに他言を容れないのが卿の特性であった。ことによると、卿は、十七日の張り札に刺激されて、みずから攘夷の局に当って、因循でないところをみせようという気負いがあったのかもしれない。

 



 攘夷督促の勅旨     十九日、伝奏衆から書状がきて、攘夷督促の勅旨を伝えられた。
 その大意は「外夷拒絶の期限が、五月十日をもってかならず断行する由、先達て奏聞あったについては、なお列藩にもこの旨を布告し、敵愾心を鼓舞するよう。往年、幕府が諸外国に和親の通商を許可したのは、奏聞を経ざることであったので、大いに天下の人心を沸騰させ、ついに今日のような形勢に至ったわけである。よって、一橋中納言東下のうえは、断然拒絶の実績を奏すべし伝々」とあった。
 後見職はそれに激発されて、四月二十二日、ついに京都を出発した。大目付岡部駿河守がこれにつき従って東下し、暁天に土山駅を出発しようとしたとき、賊数人が襲いかかった。従者がこれを追いはらい、用人某が負傷した。何者のしわざかわからなかったが、おそらく後見職を襲おうとして【注五】、誤って岡部へ斬りつけたものであろうという。

 



 慶勝卿を登用     後見職がすでに東下してしまったので、わが公は幕府に建議して、尾張慶勝卿に止まらせ、将軍家を輔翼せしめようとした。幕府もこの議を採用して、ただちにその趣旨を上奏すると、二十六日允裁があった。しかし、慶勝卿はあえて請けず、わが公が強いて諭して、ようやくこれを請けさせ、慶喜卿に代って、かりに後見職のことを摂することにさせた。
 はじめ、公武一和論の有力者中、慶勝卿は慶喜卿、慶永朝臣と折合(おりあい)がわるく、慶勝卿の名声が堂上間で嘖々たるものがあるにもかかわらず、公武一和の大議の時には、慶勝卿だけがのけものにされていた。卿の心中はおだやかならず、その臣長谷川惣蔵らは切歯して、慶喜卿、慶永朝臣のことを憤っていた。わが公は、慶勝卿の近親(卿はわが公の伯兄である)なので、特に調停の労をとられたことがしばしばであった。公武一和の有力者がことごとく京都を去ったので、公は建議して、慶勝卿を将軍家の補佐とさせたのである。

 



 将軍大阪を視察     そのとき、英仏の軍艦が摂海に来航するとの説が【注六】、京中に紛々としていた。しかるに摂津に警備がないので、将軍家が親しく巡視して、警備の充実をはからねばならないことになり、その事由を上奏して、四月二十一日条城を発した。
 わが藩に属している浪士の新選組二十余人が、将軍の駕に従いたいと申し出た。公はそこで、外島義直、広沢安任にこれを率いて扈従させた。彼らはみな揃いの姿で大刀を佩(お)び、状貌雄偉で、見るものはこれをおそれた。
 この一行は汽船に乗って紀州におもむき、和歌の浦から淡路をすぎ、明石を経て兵庫に至り、ときどきは徒歩立(かちだ)ちになった。いたるところ、人民は歓喜してこれを迎え、父老たちは涙をながし、大阪城代の行装にもおよばないといってなげいた。その労また想うべしである。
 将軍は大阪城にかえりつき、不用の役人を淘汰して、金二万両を賜わり、市民を賑わした。天保山の守衛の因幡藩と、堺の警備をしていた土佐藩が辞職を願い出ていたが、将軍家が二藩の重臣を召し、時勢の急要を説いたので、二藩の重臣も感奮して、その願い出を取り下げた。それから、近畿譜代の諸藩を糾合して、摂津の海の警備にあてるなど、処分がほぼ定まった。
 そのとき、朝廷から、姉小路公知朝臣が、将軍家のあとについて摂津辺の海を巡視する命をうけて到着した。それというのも、将軍家の下坂の後に、脱走した旗下の浅倉幸之助が、堂上家に出入して、関東の秘密をお知らせすると称して、種々の妄説を吐いた。そのうちに、将軍が摂津の海を巡視するのは、その実これに托して東帰するのが目的であると告げたので、公卿たちはこれを信じ、急に公知朝臣をつかわして、抑留しようとしたものである。
 将軍家が巡視を終って大阪城にかえると、公知朝臣もまた大阪にきた。そのとき、公知朝臣は、将軍が予を訪わるべきか、予がまず将軍を訪うべきかと、伴の者にたずねたという。当時の堂上が倨傲で、幕府を軽視していたことは、おおむねこの類のものであった。公知卿が登城して謁見したので、将軍は親しくその労を慰め、なお他に巡視すべき所があるが、同行されるかときかれたが、公知朝臣はこれを辞して帰京した。将軍家が軽装で難険を冒すときいて、同行を欲しなかったのである。その臆病なことも、この類である。

 



 浅倉幸之助     はじめ将軍家が下坂されてから、殿下や伝奏衆よりわが公に示されるところが、往々猜疑にわたり、意外のことが多いので、ひそかにその所以をさぐってみると、みな朝倉幸之助の欺罔(ぎもう)から出ていることがわかった。
 そのころ、幸之助はまた近衛前殿下に入謁して、将軍家の東帰の由を告げたので、前殿下は書を幸之助に托して下坂させ、将軍家を抑留せしめようとした。慶勝卿は前殿下に謁して、幸之助の素性を明かし、尊貴の近づくべからざる人間であると諫めた。前殿下は大いに驚き、人をはせて、托していた書を収めた。
 わが公は町奉行に命じ、これを捕えさせた。たまたま幸之助は近衛家を訪れる途中で、衣服も贅沢で、従僕の員数なども、僣上をきわめていた。町奉行の同心たちが、これを帰路に要して捕えた。
 国事参政の寄人らの公卿は、これをきいて大いに憤慨し、伝奏衆からわが公と慶勝卿へ書をよせて、朝倉幸之助は、前殿下が親書を托して周旋を命ずるほどの者なのに、ほしいままにこれを捕えるとはなにごとか、となじり、あわせてその釈放を求めてきた。

 




 慶勝卿 公卿を一喝      わが公はまた、書をもって「朝倉幸之助は幕府の脱籍者で、いまや禁を犯して京師に闖入した、その罪が一つ、身上を偽り、高貴の門に出入して、朝威をはばからざること、その罪の二、僣上の服装で儀従を用いること、その罪の三。幕府の罪臣が勝手に輦下を徘徊することは、天朝に対しても恐悚に堪えざるところであり、諸公もまた、彼のような罪臣に旨を授けて、何事かなされようとするのは、失体もはなはだしいと言わねばならない。そこで、これを捕えて典刑を正そうとしたまでである。」と答えた。慶勝卿の答えるところもまた同じであり、
「朝議で将軍の去留について、いやしくも危疑するところあるならば、慶勝、不肖ながら将軍輔翼の職にあり、命をかけてもかならず叡慮を貫徹させるつもりである。しかるに、かえって無頼の徒に依頼されるのは、そもそもいかなるおつもりか。慶勝をして事を托すに足らずと思われるのか」
 と言ったので、さすがに過激の堂上も一言も抗することなく、そのまま引き退った。

        



 【注】

【一 石清水八幡宮】 第八章注一五を見よ。

【二 これを妬む輩が…】 文久三年三月十七日石清水社行幸の議が決定された時、中山忠光が上京し、長州浪人とともに、行幸途中の天皇を奪い、将軍をも殺害する計画があるとか、浪人が公卿衆の中にまぎれこみ、天皇を奪い、勅を請うて将軍を討つであろうとかの流言があった。中山忠光は、もっとも急進的な尊攘派で、三月二十日、病と称して官位を辞し、ひそかに京都を脱出、長州に走っていた。

【三 親王殿下】 祐宮(さちのみや)、すなわち後の明治天皇。

【四 眼病】 一橋慶喜は、将軍の代理として石清水社行幸に供奉したが、天皇は社前で急に慶喜を召し、攘夷の節刀を授けようとした。これは三条実美ら尊攘派の計画であった。ところが慶喜は、腹痛のため、山下の寺院で静養していたので、これは行なわれず、尊攘派のもくろみは失敗した。尊攘派は慶喜が節刀を授けられ、攘夷の実行を誓わせられるのを恐れて、仮病を構えたのだと非難した。慶喜側の記録は、この説を否定し、節刀授与は予知するはずはなく、事実、病気で臥床していたと説明している。それはともかく、本書で「眼病がひどいということで、途中から帰館」とあるのは誤りで、慶喜は還幸の供奉の列に加わっている。それだけに、この「急病」は疑えば疑うことができよう。

【五 後見職を襲おうとして】 『徳川慶喜公伝』によれば、賊は慶喜をねらったのではなく、岡部長常(駿河守)が井伊直弼、安藤信正の意志を継ぐ者と信じ、彼の暗殺を企てたのだと説いている。岡部は大目付就任前、外国奉行の職にあり、勅使三条実美東下の際、攘夷の朝旨に従うのに反対した経歴がある。

【六 英仏の軍艦が摂海に来航するという説】 生麦事件の賠償に関し、英仏は直接将軍と交渉するため、軍艦を摂海に派遣するだろうとの流説があった。しかしこの流説があった四月下旬には、すでに二十一日、江戸の老中は、諸藩にたいし、償金は支払い、その上で改めて横浜港閉鎖の談判を行なうとの方針を通達し、二十八日には、支払を英国側に表明した。

スポンサーサイト

テーマ:歴史関係書籍覚書 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2012/10/31(水) 15:49:25|
  2. 京都守護職始末1
  3. | トラックバック:0

トラックバック

トラックバック URL
http://igagurisiryoukan.blog.fc2.com/tb.php/18-582d19d4
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。