いがぐり史料館

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赤谷の激戦(赤谷口の攻防)

赤谷の激戦(赤谷口の攻防)

六月十二日新発田藩騒擾の報あり、上田伝次兵を率いて赤谷の関門に守る〔西記〕。

七月二十五日新発田藩西軍を導き直ちに赤谷に迫る〔西記〕。

 同二十八日頃遊撃隊頭三宅小左衛門、組頭樋口仲三郎、組頭兼力士隊赤植平八等兵を率いて赤谷を守るの命あり〔西記〕。

 監察太田彦右衛門、原嘉平治は赤谷を守り、鎮将隊砲兵甲士原栄二郎、鈴木粂三郎、吉田常三郎を指揮官と為し、地方士猟師六十人許を率い境川を夾み昼夜砲撃して防戦す、太田彦右衛門、原嘉平治は百般の事務を擔任して少しも違算なし、人皆これを称す〔望月辰太郎筆記〕。

八月朔日東軍火を新発田の領内中山村に放つ〔望月辰太郎筆記〕。

 八月二日遊撃隊頭三宅小左衛門はその隊を、白虎一番寄合組隊中隊頭原早太は一中隊を率いて赤谷に至る、東西両軍の砲声夜に及びて尚息まず、我が将士皆腕を扼して令の下るを待つ、就中樋口仲三郎は最も進撃を主張し、軍事奉行並一柳幾馬を促したるに幾馬いわく、進撃可なりといえども後継の兵なくして猪進し、もし敗を取らば余等職責を如何せん、余が発するに臨み君前に命を拝す、時に藩相より軽率に戦うことなかれ、一国の兵を以て天下の大兵に当らんとす、事重大なり熟慮して継行せよと懇諭せらる、君ら此の意を体し敵を軽んずるなかれと、条理分明なりといえども皆軍事局を以て因循して軍機を失うものと為し議論大に起こる、幾馬大にこれを憂う〔望月辰太郎筆記〕。

この夜子の刻頃兵を常盤新田(所在不明)に出す〔遊撃隊日記〕。

 この時に当り北越の我が軍皆敗れ、石間口、三月澤口、中ノ澤の間道皆切迫す、これにおいて我が軍思えらく一方の西軍を破らば自ら形勢を緩うせしむるを得んと、すなわち西兵を新発田に退け胸壁を大槻(大月か)辺りに築かんとす〔望月辰太郎筆記〕。

 同四日赤植平八に属する力士五十人をして常盤新田の山上に守せしむ、赤谷は山地多し、よって一番より十二番に至るまで日を隔てゝ赤谷を守る〔望月辰太郎筆記〕。

同五日乙山その他の高嶺に陣営を構えし西軍は赤谷の我が胸壁を砲撃す〔望月辰太郎筆記〕。
 
 同七日各隊の甲士議して山内(上赤谷より約一里、新発田街道に在り)より進撃せんことを請う、陣将上田八郎右衛門援軍至らざるを以てこれを止む〔遊撃隊日記〕。

 八月十三日望月辰太郎は津川軍事局に至り、日向左傳、清水作右衛門を見て具さに赤谷口の危急を報じ援軍を促したるに、清水は危急なるは独り赤谷口のみならず各方面とも兵寡しとの故を以て聴かず、望月はこれを陣将上田学太輔に具陳す、陣将これを容れ朱雀四番足軽隊をして徃きて援けしめ明日進軍の令を下す〔望月辰太郎筆記〕。

 同十四日丑の下刻頃本営に集合し、寅の刻頃遊撃隊を分ちて二と為し、中隊頭三宅小左衛門、組頭赤植平八力士隊これに属し全体二百人本道よりし、組頭樋口仲三郎は別に百五十人を率いて榎平(所在不明)に向う、暗号を定めて「味方か」と問へば「敵」と答えしむ、西兵胸壁に在り火を焚きて暖を取る、小左衛門令して一斉に銃撃せしめたれば西兵大に驚き守を棄てゝ遁る、我が兵銃を棄て刀を抜いて踊り入り多く西兵を斬りたるが両軍入り乱れて彼我を弁ぜず、すなわち「味方か」と問いて「味方」と答える者はことごとく之を斬る、時に三士刀を揮って来り迫るあり、酒井伝次これに向い「味方か」と問えば彼ら「味方」なりと答ふ、何番なるかと問へばその一人は「側戦隊」と答ふ、すなわち一人を斬る、他の一人刀を抜いて戦う、高倉虎之助等傍よりこれを斬る、東軍勇気百倍し斃るゝ者あるも屍を越えて進み、西兵胸壁を棄てゝ走る、東軍火を敵営に放って追撃したる折柄、西兵大挙して来り援け我が隊将に崩れんとす、赤植平八大に呼んで衆を鼓舞したれば力士隊縦横突撃す、西軍もまた、ますます大兵を駆り砲撃猛烈を極めたる為、我が兵多く死傷し兵勢ようやく振るわず、中隊頭小左衛門大声衆を励まし健闘し西兵数人を斃す、西兵畏れて走りしが反戦する者数人あり、小左衛門槍を揮って一人の胸を突く、彼その槍尖を握りて引けども放たず、小左衛門刀を抜いてその肩を斬る、たまたま西兵一人傍より小左衛門の腹を刺してこれを斃す、小左衛門時に年四十六、我が部将小池瀧江は小左衛門の危急を視てこれを助けんとしたるも及ばず、敵数人を斬り、ついに敵丸に当りて死す、平八なお奮闘せしが我が兵あるいは死し、あるいは傷き支ふべからず、すなわち背に白絹の幣帛を纏うて徽章と為し、敵軍に衝き入り自ら名乗りて縦横突進し、ついに乱丸の中に斃る年三十四、平八は朝来衆敵を斬りその刀刃欠けて鋸歯のごとしと云う〔遊撃隊日記、続国史略後篇〕。

 げんに又、樋口仲三郎はこの日寅の刻頃赤谷を発し榎平に向いたるが隊士能見武一郎、北原三郎等路を失うて見えず、榎平は本道を南に距ること半里にして本道の砲声雷のごとく聞えたり、仲三郎は西軍の胸壁を奪わんと欲し撒兵に展開してこれに迫り、処々の樹蔭より射撃し、西兵は胸壁に據りて応戦す、仲三郎大声号令すれば衆皆弾丸雨注の間を進む、西兵潰乱して走り、我が兵胸壁を奪い火を営所に放って追撃し、本道に向いし我が兵と合し榎平の方面に向う、時に敵の大軍追跡し、山上に登りて攻撃し我が兵支えず、兵の死傷過半なり、すなわち傷兵を助けて林間を潜行し、八方山に上りて戦う、西兵すなわち山下に迫る、山上の我が砲手わずかに二十人その守り難きを以てこれを棄て砲を曳いて赤谷に退く、白虎隊は初め胸壁を守りしといえども榎平の敗報を聞き退いて本道に出ずれば、西兵八方山の傍より銃撃す、しばらく止り戦うといえども、ついに支えず赤谷に退く、すでにして我が兵火を赤谷に放ち、綱木(赤谷の南一里、新発田街道に在り)に退き、ついで火を綱木に放ち新谷(綱木の南半里街道に在り)に退き、山上処々に守兵を置き胸壁を築いてこれを守る、時に秋雨粛々として冷気人を襲い、我が兵露営して終夜睫を交へず。
 この日、陣隊将上田学太輔、朱雀四番足軽隊中隊頭横山伝蔵は兵を率いて津川より来り赤谷の兵を援く〔望月辰太郎筆記、遊撃隊日記〕。

{戊辰の乱すでに平らぎ、秋月悌次郎は長州の奥平謙輔を越後の客次に訪ふ、謙輔いわく、赤谷の戦甚だ烈しかりき、初め新発田、芸州二藩を以て先鋒と為し我が藩これに次ぐ、まさに赤谷を襲わんとす、時に貴藩の先鋒すでに至る、二藩の兵あえて進まず、我が兵すなわち超進して貴藩と戦う、槍刀相接し銃臀相打ち殺傷相当るといえども終に利なし、兵を収めて新発田に帰ると、座に高須梅三郎と云う者あり、また長州の人なり、いわく貴藩善く槍隊を用ふ、先に我が藩兵若松城を攻むるや、槍手突出鋒鋭甚だしく我が兵逡巡す、余隊士を励ましていわく、安藤市蔵等の技倆は我能くこれを知れり、何ぞ畏るゝに足らんと、しかれども終にあえて進まざりきと〔韋軒遺稿〕}






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2
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  1. 2013/03/17(日) 09:43:54|
  2. 会津戊辰戦争史2
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