いがぐり史料館

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一ノ木戸の戦(全軍退却)

一ノ木戸の戦(全軍退却)

 八月朔日水原、新潟陥るに及び輿板方面および海岸の全軍に退却の令下る、これにおいて朱雀四番士中隊は、この日巳の刻頃退却して三条に向いたるが、西兵もまた舟数隻に乗り信濃川を下り三条に向い、容易に我を追撃せず、我が軍、器械輜重すこぶる多きも沿道の村民皆遁れ運搬の困難言うべからず、黄昏より雨降り行路甚だ艱む、戍の下刻頃三条に次す、砲兵隊は胸壁を洒掃し酒饌什器を整頓し敵将に一書を遺し巳の刻地蔵堂に至る、庄内兵先鋒と為り朱雀二番寄合組隊後殿と為り三条に至りて宿す〔西記、結草録〕。

 この日天未だ明けざるに町野隊新津に至りしに、米澤藩士馳せ来りいわく、米澤萩島(新津の北一里弱)の胸壁を守りしに昨夜西兵の襲撃する所となり、守兵ほとんど殲く、願わくば速に兵を発して敵を撃てと、我が兵これを諾し、能代川(新津より北流して小阿賀野川へ入る)防堤上下の二道より馳せてこれに赴き萩島村に入りし此、村長の家、急に螺を吹き、鐘を打ち、農兵を集めて我が兵を拒がんとす、すなわち農兵二人槍を提げて出でたれば我が兵、銃を放ちて一人を斃し、一人を遁る、関場辰治、木本幸次郎は兵数人を率い進んで村中二本木の渡口(小阿賀野川の渡口なり)に至り、村民等小舟二三隻に西兵を載せ前岸に航せんとするを見て、我が兵これを射撃して船夫を斃し西兵皆水に没せり、少時にして二本木の胸壁より烈しく銃を発す、我が兵応戦未の刻頃に至る、我が兵遠藤伊三郎弾丸に口を貫かれて死し、農兵皆遁れ去る、すなわち火を村長の家に放つ、時に米澤の陣より告げていわく、見附に在りし新発田の兵西軍に応じ西大崎(三条の東南半里許)に至ると、これにおいて兵を収めて新津に至れば町野および米澤の諸隊すでに村松に退く〔累及日録〕。

 この日朱雀四番士中隊中隊頭佐川官兵衛は軍事奉行頭取を命ぜられ席若年寄格を下賜せらる、但し当分の内、朱雀四番士中隊中隊頭心得の命あり。
 八月二日早朝我が三条の軍兵を部署し青龍三番士中隊、砲兵隊、結義隊および桑名兵は加茂、村松方面に当り、青龍二番足軽隊は森町方面に当る、諸隊続いて三条を発し西兵追撃す、新遊撃隊長佐藤織之進の一ノ木戸を発するや、西兵五十嵐川前岸より砲撃し、新遊撃隊これに応戦す、砲兵隊、水戸市川、筧、朝比奈の諸隊、桑名の砲手等皆馳せてこれを援撃す、また庄内藩中村七郎右衛門三小隊を率い川を渡り奮戦す、砲兵隊組頭中澤志津馬戦死す、砲兵隊士杉浦佐伯は軍事奉行頭取佐川官兵衛のこの地を守るの得失如何を問う、佐川いわく、凹地にして據守するに便ならざれども退くには自ら機会あり、しばらく防戦して令を待つべしと、佐川は先づ一瀬総督に加茂に退くことを勧む、総督いわく、予豈に衆に先だちて退くべけんや諸隊と共にすべしと、佐川いわく、桑名の総督服部半蔵は已に退きたれば願くば止まることなかれと、総督これに従へ青龍三番士中隊、砲兵隊、結義隊これを警衛す、夜に及びて一ノ木戸防備の将庄内藩中村七郎右衛門兵を率いて退く、佐川怒っていわく、卿等令を待たずして退くは何ぞや、中村いわく、全軍退くとも聞きてこれに傚ふ、もし誤ならんには速に兵を返へすべしと、佐川これをして一ノ木戸に向はしめ杉浦佐伯をして斥候せしむ、杉浦馬を馳せて一ノ木戸を過ぎ田島(三条の東に在りて近し)の舟橋より前方村端の堤上に至り我が諸隊すでに退くを見る、西兵銃を発するのみにして未だ河を渡らず、杉浦は帰路庄内の将校に逢い防戦の策を議し、三条に帰り佐川に報ず、時に子の刻、軍事局柴太一郎、柳田新助、杉浦に言う、すでにして退却の機熟せり君の意如何、余等しばしば佐川氏に告ぐるも、あえて聴かず願くば足下これを告げよ、杉浦諾してこれを佐川に告げたるに佐川大に叱していわく、衆しばしば余に退却を勧む、子独り言うはず能く、余が意を解せりと思えるに豈に科らんや、子もまた衆と共にこれを勧めんとは、余独り止まりて戦うべし、衆皆去れと〔結草録西記〕。

 朱雀四番士中隊は内川の岸を守り形勢を視て砲兵隊を援けんとす、朱雀二番寄合組隊は内川を渡る、西兵銃を発して戦を挑み我が兵応戦す、夜に入り間道より兵を進む、朱雀四番士中隊小隊頭木村理左衛門止まりて全軍の退却を待つ、朱雀二番寄合組隊、庄内の中村隊後殿す、諸藩大軍の輜重堆集するも三条の市民皆負擔して遁れ役夫を得る能はず、隊兵辛うじてこれを運搬し寅の上刻頃全軍加茂に至る〔横山留総日記〕。

 町野主水の村松を発せんとするや、隊士関場治、東重次郎、町野に問いていわく、今や村松城中空虚なり、我が隊は米澤、桑名の兵士市中に遺棄する器械糧食を収めてこの城に據り、一瀬総督、佐川隊長等の帰るを待つべし、決して我が諸隊をして敵に委することなかれと、町野は村松の兵一人もあらざるに何ぞ我が寡兵を以て拒守するを得んやと云うて聴かず、時に村松駅亭の近傍に米澤の兵器械を遺棄するもの多し、また沼越の経路より来光寺(不明)に至る途上多く小銃弾薬を遺棄す、我が隊これを運搬し、後数十日間の戦に乏しからざるを得たり、高石を過ぎ沼越峠に至り(この山は会津の封域小川庄の境界なり)山上に土壘を築き玄武隊これを守る、日すでに没し長谷川村(不明)に次す、この村は我が封域小川庄にして若松城下を距ること十八里十八町なり〔累及日録〕。

 八月三日朱雀四番士中隊加茂を守り厳に防備を収む、この地の近傍は新発田の領域に属す、人民騒擾し鐘を打ち鼓を鳴らし竹槍を携えて群集し我が軍の退路を絶たんとす、新発田藩士これを教唆すと云う〔横山留総日記〕。

 我が軍諸藩の遺棄たる弾丸を収拾したるもの一万八千余発なり、桑名の希望により六千発を分配贈し、六千発を軍事局に致し、残余六千余発を朱雀四番士中隊に分つ〔横山留総日記〕。

 加茂の市民負擔して難を避くる者多く大軍駐屯し糧食缺乏す、これにおいて加茂の庄屋市川某に交渉したるに、某は百万力を尽くして斡旋し缺乏を免るゝを得たり〔横山留総日記〕。

 この時に当り、西軍来り迫り諸道皆塞がり大軍を退却せしむること至難なり、加之病者を搬送せんと欲するも役夫を得る能はず、軍事局の苦心慘澹たり〔横山留総日記〕。

 申の刻頃総督一瀬要人は青龍三番士中隊、砲兵隊、結義隊を率いて村松城に赴く、時に桑名の山脇十左衛門が発したる間諜帰り報じていわく、村松城中一兵を見ずと、佐川は杉浦佐伯に命じていわく、疾く徃きて砲兵隊を以て占拠すべし、明日朱雀四番士中隊をして援けしむべし宜しく桑名の岩崎、谷と相謀りて防守の策を講ずべしと、杉浦いわく、砲兵隊精鋭なりといえども二十人に過ぎざれば何ぞ敵の大軍に当るを得んや、しかれども奮闘斃れて止まんと、夜兵を発して黒水駅(不明)に至り桑名の雷神隊および水戸兵に逢う、水戸の萩勇太郎は杉浦に向って桑名は確乎不抜なりといえども、我が兵は瓦解し残兵二十人に過ぎざれば、加茂に徃きて援を請はんと欲す、願くばこれを周旋せよと云えば、杉浦は軍務の止むべからざるを告げて村松城に至る、一瀬総督、砲兵隊、青龍三番士中隊、結義隊、衝鋒隊、水戸兵在り、須□にして岩崎五太夫、谷三十郎来る〔結草録〕。






卷六 越後方面の戦  会津戊辰戦史2
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  1. 2013/03/20(水) 11:34:08|
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